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江統(1)/江統(2)/附:江虨・江惇/孫楚/附:孫統・孫楚
江統は字を応元といい1『北堂書鈔』巻六七、博士「元世学義著名」に引く「王隠晋書」に「江統、字元世、以学義著名、為国子博士」とある。『晋書斠注』は、唐の史官が「世」字を避けたために本伝の字に改められたのではないかと述べている。しかし『北堂書鈔』のほかの箇所で引用されている王隠『晋書』は「応元」に作ってある(巻五五、廷尉平「江統作正刑論」に引く「王隠晋書」、巻五八、給事黄門侍郎「江統作儀」に引く「王晋書」)。『太平御覧』巻二六三、別駕に引く「江氏家伝」も「応元」である。『晋書斠注』の説は成り立ちがたいのではないだろうか。、陳留の圉の人である。祖父の江蕤は義の行動をもって称賛され、譙郡太守となり、亢父男に封じられた。父の江祚は南安太守であった。江統は寡黙で、大志を抱き、世の人々は江統のことを評して言った、「嶷然稀言2ひときわ優れていて、かつ口数が少ない、という意味。たり、江応元」。同郷の蔡克とともに名が知られるようになった。父の爵位を継ぎ、山陰令に任じられた。
このころ、関隴地方はしばしば氐や羌に乱されていたので、孟観が西討し、氐の帥の斉万年をみずから捕えた3恵帝紀によれば、元康九年正月のこと。。江統は四夷が中華を乱すことを深く思慮し、萌芽のうちにつんでおくのが良いと考え、『徙戎論』を著した。その辞に言う4「徙戎論」についてはTS氏のブログ「てぃーえすのメモ帳」に投稿されている一連の翻訳記事(「その1」から全9回)を参考にした。。
そもそも夷、蛮、戎、狄とは、これを四夷と言い、九服の制度においては、〔四夷の〕土地は要服と荒服にあたる。『春秋』の義によれば、諸夏(中国)を内とし、夷狄を外とする。言語は通じず、礼物は食い違い5原文「贄幣不同」。『左伝』襄公十四年に「我諸戎飲食衣服、不与華同、贄幣不通、言語不達、何悪之能為」とあり、小倉氏は「礼物の往来はなく」と訳している。、法や習俗は奇怪で、種類は異なるからである。絶域6極度に遠い地域の意。の外や山河の先7原文「山河之表」。自信はもてないが、「表」を「外」の意で解した。で生活するものもおれば、峻厳な河川と山谷がある地域や険阻な土地に居住しているものもおり、中国とは地は遠く隔たり、たがいに干渉せず、〔中国の〕賦役(課税のこと)は及ばず、〔中国の〕正朔は加えられない8『漢書』巻九四下、匈奴伝下、賛曰に「政教不及其人、正朔不加其国」とある。。故にこう言うのである、「天子が道を得れば、〔中国の外辺の〕防衛は四夷があたる」9原文「天子有道、守在四夷」。『左伝』昭公二十三年に「古者天子守在四夷。天子卑、守在諸侯」とあるのが出典とされる。ただし『左伝』には「有道」の字句がみられない。いっぽう、『淮南子』泰族訓には「天子得道、守在四夷。天子失道、守在諸侯」とあり、『漢書』と『後漢書』にも「〔天下〕有道、守在四夷」という文句がみられる。本当に『左伝』が出典なのか疑いをもってしまうが、「古者天子守在四夷」の杜預注には「徳及遠」とあり、天子が有徳であれば四方の夷狄は服従し、天子のために辺境防衛にあたるという意味あいであるらしく、実質的な意味としては「有道」の字句がある場合と変わらないらしい。ともかくも、「天子有道、守在四夷」というのは漢代より使用されていた慣用句であったと思われる。『左伝』も『淮南子』も「天子が道を失えば、防衛役は諸侯があたる」と続いていることからみて、中国が有徳で強勢ならば夷狄は服従するが、中国が徳を失い、弱勢になれば夷狄は服従しないので諸侯が辺境防衛にあたる、ということであろうか。渡邉義浩氏[二〇一〇]は、『左伝』がここで本来述べている教義は中華と夷狄の共存であるのに、江統はその本来の伝義に従わず、「夷狄が天子の支配の外にあるべきことを示すため」に引用していると考察している(三三五―三三六頁)。と。そこで、禹が九州を平定してから、西戎は帰順したのである10原文「西戎即叙」。『尚書』禹貢篇が出典で、禹の徳が西戎にまで及んだという意味で引かれる語句。「即叙」は「即序」とも記す。孔安国伝に「皆就次敘、美禹之功及戎狄也」とあり、「即叙」は「秩序におもむく」の意味。。四夷は貪欲な気質で、乱暴であり、仁愛の心がなく、四夷のなかでも戎と狄はとくにひどい。弱勢のときは〔中国を〕畏怖して服従し、強勢のときは〔中国に〕そむいて侵入する。賢聖の治める世であるとしても、また大徳の君が立っているとしても、普遍の教化で善導することや、恩徳で懐柔することは、これまで誰もできなかったのである。四夷が強勢のときに直面したら、殷の高宗を鬼方のことで疲弊させ、周の文王を昆夷や獫狁のことで憂慮させ、漢の高祖は白登で〔匈奴に包囲されて〕窮地に陥り、漢の文帝は覇上に軍を配置し〔て匈奴に備え〕た。弱勢のときに及んだら、周公は九訳の貢献を招き寄せ、漢の中宗(宣帝)は単于(呼韓邪単于)の来朝を受け入れ、漢の元帝や成帝の衰退期においてさえ、四夷は服従していた。これらの出来事は、過去における証拠である。ゆえに、匈奴(呼韓邪単于)が辺境の塞の守備を願い出たとき、侯応はいけないと反対し、単于(呼韓邪単于)が未央宮で膝を屈しても、蕭望之は〔単于を〕臣としないことを発議したのである。このゆえに、有道の君主が夷狄を治めるときというのは、これに対応するにも備えを設け、これを防御するにも一定の規則に準じるのであり、〔夷狄が〕稽首して礼物を献上したとしても、辺境の長城の防備をゆるめず、憂患を起こして強暴であったとしても11原文「為寇賊強暴」。中華書局校勘記の説に従い、「為」を「雖」に改めて読んだ。、兵士に遠征を命じないのである。境内に安泰を将来させ、辺境から侵攻をなくさせるのを希望するだけだからである。
周室が統制を失うと、諸侯は独断で戦争を起こし、大国は小国を兼併し、ますますたがいに滅ぼしあうようになり、境界は一定せず、しかも利害が一致しなかった。戎狄はこの隙に乗じて中国に侵入できたのである。ある国は〔そうした戎狄を〕誘致して懐柔し、みずからの手先とした。ゆえに、申侯と繒国が〔西夷や犬戎と結託して〕起こした災禍は、宗周を転覆させ12西周を滅ぼした事件のこと。『史記』巻四、周本紀に「幽王以虢石父為卿、用事、国人皆怨。石父為人佞巧善諛好利、王用之。又廃申后、去太子也。申侯怒、与繒・西夷犬戎攻幽王」とある。、晋の襄公は秦を迎え撃つため13原文は「襄公要秦」。『左伝』僖公三十三年をみると、晋が秦へ攻め入ったらしいので、このように読んでよいのか自信はない。、にわかに姜戎を動員したのである(『左伝』僖公三十三年)。春秋時代では、義渠や大荔は秦・晋の領域に居住し、陸渾や陰戎は伊水と洛水の間におり、鄋瞞の種属(狄)による害は済水の東にまで及び、斉や宋に侵入し(『左伝』文公十一年)、邢と衛をはずかしめた14邢と衛が狄に攻められて国を移されたことをいう。『左伝』閔公元年、同二年を参照。『漢書』巻二七下之下、五行志の顔師古注に「春秋閔元年狄伐邢、二年狄滅衛、其後並為斉所立、而邢遷于夷儀、衛遷于楚丘」とある。。南夷と北狄はいっせいに侵入し、中国は滅亡こそしなかったが、糸すじのように細かった15原文「中国不絶若線」。衰微してか細くなりながらも長らえたということ。『公羊伝』僖公四年が出典。。斉の桓公は夷狄を追い払い、〔狄によって〕滅亡した国(邢と衛)を存続させ、北に軍を進ませて山戎を討伐し、燕への道路を開拓した。ゆえに、仲尼は管仲の力を称賛し、左衽を防いだ功績を褒めたたえたのである(『論語』憲問篇)。春秋の末世に及び、戦国の世を迎えつつあるころにいたると、楚は蛮氏を併呑し、晋は陸渾を滅ぼし、趙の武霊王は胡服を採用して楡中の地まできりひらき、秦は咸陽で雄をとなえて義渠のともがらを滅ぼした。始皇帝が天下を統一するや、南は百越を併合し、北は匈奴を敗走させ、五嶺山脈の長城の兵士は一億を数えた。軍役が頻繁で、賊が〔並び立って〕横暴したとはいえ、しかしながらこの一世一代の功績により、戎虜は逃げてゆき、当時の中国には四夷〔による災害?〕がなかったのである。
漢が起こり、長安に都を置くと、関中の郡を三輔と号したが、この地は『禹貢』のいう雍州にあたり、かつて宗周の豊京と鎬京があった地域である。王莽が敗亡すると、赤眉がこれに乗じて起こり、長安は荒廃して損壊し、百姓は流亡した。後漢の建武年間、馬援を領隴西太守とし、そむいた羌を討伐させ、羌のそのほかの種を関中に移し、馮翊や河東の空地に住まわせ、華人と雑居させた。数年後、〔移住させた〕族類は人口を増やし、みずからの肥大ぶりと強力ぶりを恃みとしていただけではなく、漢人を苦しめて侵害してもいた。永初のはじめ、騎都尉の王弘が西域へつかわされたとき、氐や羌から人員を徴発し、護衛にしようとした。ここにおいて、多くの羌は驚いて逃走し、たがいに煽動し、二州16ひとつは涼州だと思うが、もうひとつはわからない。後漢の当時は雍州がなく、隴西は涼州に、関中は司隷校尉部に属していた。あくまで当時の区分にもとづいて表現しているのならば「涼州と司隷」だと思われるが、江統の時代の区分にもとづいて「涼州と雍州」と表現している可能性もある。ともかくも、関隴方面である。の西戎はわずかな間(かん)に一挙に立ち上がり、将守(郡太守)を顚覆させ、城邑(都市と郷邑)を破壊した。鄧隲が〔これらの羌を〕征伐するも、よろいと武器を棄てて敗走し、敗れて車で死体を運び、兵士を失うこと、前後であいつぎ、西戎らはとうとう勢いが盛んになってゆき、南は蜀漢(蜀と漢中)に入り、東は趙魏を掠奪し、軹関につきあたり、侵攻は河内にまで及んだのであった。北軍中候の朱寵を派遣し、五営の兵士を統率させ、孟津で羌を防がせると、十年のあいだ、夷人も夏人もともに疲弊したすえ、任尚と馬賢がかろうじて羌に勝利したのである。このように、災禍が深刻な事態になり、何年も平定されなかった原因は、防衛にあたった者が無策で、将が適任者でなかったことにもあるが、寇賊が心腹で決起し、災禍が肘腋で発生したため、病気が重篤で治療しがたく、傷口が大きくて完治に時間がかかったことにも求められないだろうか。これ以後、残り火がくすぶりつづけ、わずかでも機会があれば、そのたびにまたも反乱したのである。馬賢は慢心して敗死に終わり、段熲は臨車と衝車17どちらも戦車のたぐい。を発進して西から東へ向かった。雍州の西戎は、つねに国家の災いとなり、中世(後漢?)の寇賊は、この西戎がとりわけ厄介であった。後漢末の混乱のさい、関中は荒廃した。魏が起こった当初は、〔関隴は〕蜀と分離し、境界の西戎は、片方はあちら(蜀)、片方はこちら(魏)に分かれた。魏の武帝は将軍の夏侯妙才18夏侯淵。唐の高祖(李淵)の諱を避けるために字で表記されている。に命じ、そむいた氐の阿貴や千万らを討伐させていたが、のちに漢中を落として〔ついで〕放棄した機会を利用して、とうとう武都の種族を秦川に移し、そうして寇賊を弱体化させ、国家を強大にし、蜀虜を防ごうとしたのである19十六国のひとつ成漢を建国した李氏は、このときに関中へ移住させられたという。李特載記に「魏武帝克漢中、〔李〕特祖将五百余家帰之、魏武帝拝為将軍、遷於略陽」とある。。これは臨時の政策で、一時的な情勢判断なのであって、万世に利益をもたらす手段ではない。いまはこれに直面し、すでにこの弊害をこうむったところである。
そもそも関中は、土地は肥沃にして物資は豊富であり、その田地は上の上と言われ20原文「厥田上上」。『尚書』禹貢篇「厥田惟上上」にもとづく。、くわえて涇水や渭水がアルカリ性の土壌21原文は「舃鹵」。原宗子氏[二〇〇九]によれば、「鹵」は「地面から塩が吹き出て地表に点々と固まっている状態」(七七頁)を表現する文字。乾燥した土地では地中の地下水が蒸発しやすいが、地下水の成分(つまり塩類)は蒸発せずに地表に残ってしまうという。「舃鹵」とは塩が吹き出た土地のことであり、「何らかの原因で乾燥したとき出来る土の状態」(一一八頁)を指す。関中は塩類が集積しやすい土地としてよく知られていたらしく、その対策として渠を建設し、地表の塩を灌漑する方策がよく取られていたとされる。詳しくは原氏前掲著書の第七話を参照。を洗い流し、鄭国渠と白渠が水をそそいで河川をつなぐと、穀物の収穫は豊かになり、〔収穫は〕一畝ごとに一鍾(六斛四斗)を号した22『史記』巻二九、河渠書に「〔鄭国〕渠就、用注塡閼之水、漑沢鹵之地四万余頃、収皆畝一鐘」とある。。百姓はその充実ぶりを謳い、帝王の都はつねに〔この地に〕置かれたわけだが、戎狄がこの地に住むのが適当であるなどとは聞いたことがない。「わが族にあらざれば、その心は必ず異なる」(『左伝』成公四年)。戎狄の心のありよう志態(志向と挙動)(2024/9/7:修正)は中華と同じではない。それなのに、〔中国は〕戎狄の衰退に乗じて、畿服(近畿)に移してしまい、士庶は〔それら戎狄を〕あざけり、その軽弱を侮ったため、戎狄に怨恨の気持ちを骨髄にまで染みこませてしまったのである。〔戎狄が〕数を増やすに及ぶと、しだいにその怨恨の心を抱くようになったのであった23こうした認識は『後漢書』列伝七七、西羌伝に掲載されている建武九年の班彪の上言にも「今涼州部皆有降羌、羌胡被髪左袵、而与漢人雑処、習俗既異、言語不通、数為小吏黠人所見侵奪、窮恚無聊、故致反叛」とみえる。また前漢の侯応も「近西羌保塞、与漢人交通、吏民貪利、侵盗其畜産妻子、以此怨恨、起而背畔、世世不絶」と述べている(『漢書』巻九四下、匈奴伝下)。。貪欲凶暴な気質をもって、憤怒の情を抱き、隙をうかがって機会に乗じ、たちまちに反乱を起こした。しかも、〔戎狄は〕中国の域内におり、辺境の防御施設による障害がなく、防御の備えがない人々を襲い、原野に蓄えられていた物資を奪った。したがって、災禍はいよいよひどくなり、暴乱は不測の規模に広がったのである。これは必然の勢いであり、すでに証明されている事柄である。現今の適切な処置とは、武威がちょうど高まり、軍務がまだ完了していない機会を利用して24斉万年討伐直後で武威が高らかに示されているところで、かつ戦後処理がまだ終わらず征伐軍が解散していない状態を言っているのだと思う。、馮翊、北地、新平、安定の域内の羌を移し、先零、罕幵、析支の地に定着させ、扶風、始平、京兆の氐を移し、隴右へ帰らせ、陰平、武都の域内に定着させるのがよい。道中の〔倉庫に蓄えてある〕食糧を支給し、自力で到着できるようにさせ、おのおの本来の種族に合流させ、その旧土に帰らせ、属国都尉(?)や撫夷護軍25原文「属国撫夷」。属国はこの当時、すでに存在しないはず。よくわからない。にこれらを安んじさせるのがよい。戎人と晋人が交わらず、双方とも居るべき場所を得れば、上は往古の「西戎、叙に即く(徳が及んで西戎が帰順した)」(『尚書』禹貢篇)の義に合い、下は盛世における永久の規範となるだろう。かりに〔戎狄が〕中華を乱そうとする心を抱き、戦乱の警報があがったとしても、中原から遠く離れていて、山河にさえぎられていれば、暴乱を起こしたところで、被害は広がらないはずである。かくゆえに、趙充国や馮奉世は数万の軍隊で多くの羌の命を服従させ、「征伐はあっても戦闘はない」とか、「敵軍を無傷で降すことのみが勝利である」26原文「全軍独克」。『孫子』謀攻篇に「凡用兵之法、全国為上、破国次之。全軍為上、破軍次之。全旅為上、破旅次之。全卒為上、破卒次之。全伍為上、破伍次之。是故百戦百勝、非善之善者也。不戦而屈人之兵、善之善者也」とあるのが出典か。というのを実践できたのである。〔この二人は〕策略がよく練られていて、作戦がよく考えられていたものだったとはいえ、華人と夷人が住む場所を別にし、戎人と夏人が区別されていて、辺境の要塞は守備しやすかったがために、そうした功績を打ち立てることができたのではなかろうか。
批判者曰く27仮想の批判者。本論は仮想問答の形式をとっている。。このたびの関中の災禍(斉万年の乱)では、二年のあいだ兵士を〔戦場に〕さらし、外征の仕事によって、十万の兵士を疲労させ、洪水や旱魃の被害のために、しきりに飢饉が起こり、連年の凶作となり、伝染病の流行は、子供の命をも奪っていった。凶悪な賊はすでに誅殺され、〔反乱した戎狄は〕悪事を悔い改めてようやく服従したばかりだが、喜んで服従している者もおれば、恐怖から従っている者もいる。〔それゆえ、関中の人々は〕みな不安を感じ、百姓は憂慮し、別々の人が同じ心配事をしていて28原文「異人同慮」。自信はないが、『後漢書』列伝二〇下、郎顗伝に「天下興議、異人同咨」とあるのを踏まえ、「異人」=「別々の個々人」が「同慮」=「同じ心配をしている」と解釈した。ようするに、みんな同じ心配をしているということ。、安息の時間がもたらされるのを希望すること、干からびているときに雨の恵みを願うようなものであるから、まことに安逸をもってこれらの人々を落ち着かせるのが適切である。それなのに、子(きみ)は労役を起こし、事業を始め、疲弊している民衆を働かせて自疑(みずから疑心暗鬼に陥っているさま)の戎狄を移動させ、食糧がない人民を用いて食べ物に乏しい戎虜を動かそうとしている。だがおそらく、ことの勢いは失われ、気力はなくなり、開始した事業は完了を迎えず、羌戎は離散し、心をひとつにすることができず29原文「心不可一」。夷狄も晋人も、あらゆる人々のまとまりがつかなくなってしまう、ということだろうか。、過日の災禍がいまだに鎮火していないのに、後日の変難がふたたび暴発してしまうだろう。
答えて曰く。羌戎は狡猾で、好き勝手に称号や官号を授け、攻城や野戦を起こして、牧守(地方官)を殺傷し、兵士を結集し、〔その騒動は〕寒暑(冬と夏)をもう一度過ごすほど長期にわたる30原文「載離寒暑」。もう一度冬や夏を過ごすこと、すなわち一年以上にわたるということ。。しかし現在では、異類(戎狄の意)は瓦解し、同種(戎狄の意)は土朋し、老幼ともに捕らえられ、丁壮(青壮年)は降伏したり逃亡したりし、鳥獣が逃げ散るように四散し、ひとつにまとまれずにいる。子(きみ)はこれらの状況をみて、〔戎狄は〕依然として余力を有しているが、悪を悔い改めて善に立ち返り、わが徳の恩恵を慕って従順になったのだと思っているのかね。それとも、勢いが窮まり、方策がなくなり、智力ともども尽き果て、わが兵の誅戮を恐れてこのような服従にいたったのだろうか。当然ながら、余力が残っておらず、勢いが窮まり、方策がなくなったからである。そうであるからには、われわれはこれらの者どもの命の長短を自在に制御しうるし、これらの者どもの進退を自由に命令できる31原文「然則我能制其短長之命、而令其進退由己矣」。自信はもてない。。そもそも、生業に喜びを感じている者は仕事を変えないし、住処に安堵を覚えている者は引っ越す気持ちをもたない。西戎がみずから混乱に陥って不安をかかえ、恐怖して心に余裕がないときであれば、武力によって制御し、西戎を服従させて逆らわせないようにすることができる。西戎が死んだり逃げ散ったりし、離散していてまだ集合しておらず、関中の人民との関係は、すべての戸が仇敵という状態にいたっているときであれば、遠方の地に移動させ、〔中国の〕土地への未練を絶たせることができる。いったい、聖賢の計画というのは、事変がまだ起こっていないうちに行動をはじめ、まだ乱れていないうちに静めるものであって、道が示されずして定まり、徳が明らかにならずして成功するものである。それに次ぐものとなると、禍を転じて福となし、失敗を利用して成功に変え、困に直面しても必ずくぐりぬけ、否に遭遇してもうまく切り抜ける、というのをなしうることである。いま、子(きみ)は骨を折らせる仕事の終幕にでくわしながら制度改正に着手することを考えず、制度の改変に勤しむことを躊躇して失敗した軌跡に倣おうとしているが、それはどうしてであろうか。それに、関中の人口は百余万にもなるが、おおむねの内訳は戎狄が半ばを占めている。これらの戎狄を〔このまま関中に〕住まわせるにしても〔遠方に〕移住させるにしても、〔どちらにしても〕食糧は必要である。もし、窮乏して穀物に事欠きがちな者がいるのであれば、もとより関中の穀物を投入することで、生を維持する方策を保全するべきであり、それによって必ずや、〔死んで〕道端の溝に棄てられることがなくなり、侵略の害を起こさなくなるだろう。いま、私が戎狄を移動させようとするのにあたり、食糧を支給して目的地に到着させ、〔本来の〕種族に合流させ、自分たちで助け合うようにさせる一方で、秦地(関中)の人民はもう半分の食物を手に入れることになる。ようするに、出て行く者には食糧を携帯させて救済し、居残る者には備蓄した食糧を取り置いておくというものであり32原文「此為済行者以廩糧、遺居者以積倉」。『孟子』梁恵王章句下の「故居者有積倉、行者有裹囊也」にもとづいた表現だと思われる。、これによって関中の逼迫をゆるめ、盗賊に変じる原因を取り払い、旦夕(短期間)の損失を除去し、終年(長期間)の利益を樹立できよう。かりにも、短期間のささいな労働をはばかって、永遠の安逸をもたらす大きな策略をかえりみなかったり、日月(短期間)の面倒を避けて、累世(長期間)の寇敵をそのまま放置しておいたりするというのならば、いわゆる「万物の道理に通じて天下の仕事を成し遂げる」(『易』繋辞上伝)「事業を創始して後世に伝える」(『孟子』梁恵王章句下)「基礎を高めて事業を拡大する」(出典不明)「子孫のことまで考えをめぐらす」(『左伝』僖公三十三年)ということからはずれてしまうであろう。
并州の胡人は、もともとは匈奴であり、凶悪な寇賊である。漢の宣帝の時代、〔匈奴は〕飢え凍えて困窮し、壊滅に陥り、国内は五つに分裂し、その後、二つにまとまったが33匈奴のいわゆる東西分裂をいう。、呼韓邪〔の集団〕はついには衰弱して孤立し、自立できなくなったため、〔漢の〕辺塞のふもとに依拠し、臣従の意志を示して服従したのである。建武年間、南単于も来降して帰順したので、〔漢朝は〕そのまま入塞させ、漠南におらせたが、数世を経ると、またもつねづね反乱を起こすようになったので、何煕や梁慬は戦車を発してしばしば征伐したのである。中平年間、黄巾賊が蜂起したので、〔漢朝は〕匈奴の兵を徴発したが、部衆は従わず、かえって〔南単于の〕羌渠を殺してしまった。このため、〔羌渠の子である〕於弥扶羅は漢に助けを求め、単于を殺した賊を討とうとした〔が、漢朝の援助を得られなかった〕。ついで、ちょうど世の戦乱に直面したので、とうとう隙に乗じて〔暴動を〕起こし、趙魏の地で掠奪をはたらき、侵略していって河南にまでいたった。建安年間、また右賢王の去卑に〔南単于の〕呼厨泉を勧誘させて〔入朝させ〕、〔単于を〕質任として差し出させると、〔曹操は〕匈奴の部落が六郡に散居することを許可した。〔魏の〕咸煕年間、一部がひじょうに強勢となったので、三部に分割した。泰始のはじめ、さらに加えて四部とした34以上の後漢末以来の匈奴の顚末や「六郡」「一部」などの解釈については訳者の三国志学会レジュメ「匈奴劉氏の歴史認識」(レジュメPDFはこちら)の注18、21を参照。。ここにおいて、劉猛は塞内で反乱を起こし、外虜と連結したのである35武帝の泰始七年のこと。武帝紀、四夷伝・北狄匈奴の条、劉元海載記に記載がある。。最近だと郝散の変難があり、穀遠(上党の県名)で発生した36恵帝の元康四年のこと。恵帝紀、四夷伝・北狄匈奴の条に記載がある。郝散は同年中に降ったが、晋の官に殺されてしまった。二年後の元康六年、今度は郝散の弟の度元が反乱を起こしたが、これが口火となって斉万年の乱へと発展した。。いま、五部の衆は、戸数は数万にいたり、人口の多さは西戎をしのいでいる。けれども、その天性は勇猛で、弓馬に長けていること、氐や羌の倍である。もし不測の戦乱という頭を抱える事態が勃発したら、并州の領域はこれのために〔埋没してしまい、〕心を寒くする事態に陥ってしまうであろう。滎陽の句驪はもともと遼東の塞外に居住していたが、正始年間に幽州刺史の毌丘倹がその反乱者を討伐し、その余種(生き残りの種?)を〔滎陽に〕移住させた。移住当初、戸落は百数ばかりであったが、子孫は増えてゆき、いまや千を数えるにいたっているのだから、数世代後にはきっと繁栄を迎えているであろう。現在、百姓が失業した場合ですら、亡命や反乱をおこなう者が出ている。きちんと食事を与えられている犬や馬でさえ、かみつく場合があるのだから、まして夷狄が変難を起こさないものだろうか。たんにみずからが微弱であるのを気にかけて、勢力を伸長させていないだけなのだ37原文「但顧其微弱、勢力不陳耳」。自信はない。。
そもそも、国家を治める者というのは、悩みは貧しいことに対してではなく、均等ではないことに向けられ、憂いは弱小であることに対してではなく、安定しないことに向けられるものである38原文「夫為邦者、患不在貧而在不均、憂不在寡而在不安」。『論語』季氏篇「丘也聞有国有家者、不患寡而患不均、不患貧而患不安」が出典。『論語集解』に「孔曰、憂不能安民耳。民安則国富」とある。。四海の広さと士庶の富を利用すれば、夷虜を中国の内地におらせ、そうしてようやく充足を得られるのだということが、どうしてありえようか。これらの者どもすべて、言い聞かせて出てゆかせ、その本来の領域に帰らせれば、彼ら羈旅(異境に仮住まいする)は郷愁の悲しみをやわらげることができ、われら中華はささいな憂いを取り除くことができよう。この中国に恩恵をもたらし、四方(辺境?)を安堵させ、徳が永世にわたって施されるのだから、長大な計画なのである。
恵帝は採用しなかった。十年たたずに夷狄が中華を乱したため39永嘉の乱をいう。、世の人々は江統の深い見識に感服した。
江統(1)/江統(2)/附:江虨・江惇/孫楚/附:孫統・孫楚
(2021/10/10:公開)