巻五十六 列伝第二十六 江統(2)

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江統(1)江統(2)附:江虨・江惇/孫楚/附:孫統・孫楚

 中郎に移った。選司1選挙を主管する官、すなわち尚書吏部曹。が江統の叔父の江春を宜春令とすると、江統は上疏して言った2以下の上疏は『通典』巻一〇四、授官与本名同宜改及官位犯祖諱議にも掲載されている。、「故事では、父祖の名と官職の名が同じである場合は、すべて改選が許されます3この件についてはブログ記事にまとめた。「『任命された官職に父祖および本人の名が含まれていた場合は改選希望を申請できる』という晋代の慣例について」を参照。。しかし、本人の名と官職の名が同じである場合〔に改選を許可したこと〕はこれまでなかったため、改選の事例に含まれていません4原文「未有身与官職同名、不在改選之例」。難解。和刻本は「未有」を両句にかけているが、それだと意味が通じなくなる。前例にない(「不在」)ことがこれまで存在しなかった(「未有」)とはどういうことだろうか。「前例はある」ということにならないだろうか。そこで「未有」がかかるのを「官職同名」までとして読んでみると、「これまで本人と官職が同名であったためしはなかったので、改選の事例に含まれていません」となり、文意は通じる。しかし後文に「身名所加、亦施於臣子(本人の名が含まれている官職も授けられている)」とあり、この文と矛盾した意味になってしまうので、この解釈も難しい。そこで強引な解釈になるが、本文には脱文があると想定し、〔 〕のように語句を補って文意を通じさせてみた。。臣が考えますに、父祖と同名であるから改選するのは、臣子5臣下の意。主君を父に見立てて仕えるという含意がある。として土地を開拓する6原文「開地」。文脈からすれば「地方官になる」という意味だと思われるが、史書の用例ではたんに「土地を広げる」以上の意味はなく、よくわからない。ためであって、父祖のためではないと思われます7原文「臣以為父祖改選者、蓋為臣子開地、不為父祖之身也」。読みにくい。おそらく言いたいことは、父祖の名を理由に主君の命令を変更するというのは、一見すれば主君の命令よりも私的な事情を優先しているようにみえるが、実際は臣下としての立場を考慮したものであって、私的な事情を優先しているわけではない、ということかと思われる。後文で述べられている論拠を参照すると、任命された官職に父祖の名が含まれていたら、任命を受けた当人はもちろん、その属下の官吏もうっかり官名を口にできなくなって職務に支障をきたすから、円滑な運営のためにも改選する、ということかもしれない。。ところが、〔父祖の名を避けた官職を授けるさいに、〕自分の名が加わっている官職も臣子に授けています8原文「而身名所加、亦施於臣子」。よく読めない。とくに「亦」がわからない。〔 〕で補ってみたように、「父祖の名を避けた官を授けるにさいし、本人の名が含まれている官職でもおかまいなしに授けた」という意味で解釈してみた。。佐吏や部下が終日のあいだ勤務するとき、〔府君の〕官職名は口に出してしまう言葉です。もし実際の官職名のとおりに言えば、尊貴をはばかるという礼典の義にもとってしまうことになりますし、言葉を変えて〔府君の名を〕避ければ、官を廃してほしいままに法制を犯してしまうことになります9原文「為廃官擅犯憲制」。直訳気味に訳出したが、官の正式な名称を言い換えてしまうことは、「官名をかってに変更した=官をかってに廃した」ということであり、ゆえに「国家の法制をかってな理由でないがしろにした」ということなのだと思う。
 ちなみにここで言われていることに関連して、属官は上官の赴任時に父祖の私諱をうかがって教えてもらうという慣例もあったらしい。『世説新語』賞誉篇、第七四章に次のような話が伝えられている。「王述が揚州刺史に任じられると、主簿が諱を教えていただきたいと請うた。王述は教えて言った、『亡き祖父と父君の名は海内に知れ渡っており、遠近だれもが知るところだ。妻の諱は門外には出さないとされる。〔祖父と父君以外に〕ほかにはばかる諱はない』(王藍田拝揚州、主簿請諱、教云、『亡祖・先君、名播海内、遠近所知、内諱不出於外。余無所諱』)」。『世説新語校箋』の著者・徐震堮氏の注に「上官の就任時、属僚は必ず先に諱を教えてもらい、別の機会に無意識に諱を犯してしまうのを予防しておくのである(上官就任、僚属必先請諱、以防他時無意之中触犯之)」とある。
。いま、思いますに、四海は広大で、官職は数多く、名称10原文は「名号」。おそらく地名と官職名の両方を指す。は膨大におよび、士人11原文のまま。官人のことを指しているのだろう。は多数おります。〔士人のなかで〕恩恵を皇朝より授かり、宰牧(地方官の意)になった者がいたら、佐吏にその官名を呼ばせず、子孫にその官号を言わせないことになってしまいます。〔このように、本人と同名の官職を授けるというのは、〕上は君父を尊び、下は臣子であるという体例を通じなくさせているゆえんです12原文「所以上尊君父、下為臣子、体例不通」。「体例」とは「父君を尊び、かつ臣という立場も維持する」ということだろう。官職名に本人の名が含まれてしまっている場合、官職名そのままで呼ぶ=父君を尊んでいない、になり、官職名を避けて呼ぶ=臣子として扱っていない、ということになってしまう。「体例」を問題なく成立させるためには、官職名と本人の名が重なったら改選すればよい、という論理になっていると思われる。。もし、私名を変えて官職名〔と同じになるの〕を避ければ、『人の親の名づけを奪わない』という『春秋』の義(『穀梁伝』昭公七年)にそむいてしまいます。臣が考えますに、本人の名と官職の名が同じである場合は、〔官職名が〕父祖の名に抵触してしまっている場合と同例とするのがよいと存じます。そうすれば、体例が完全になり、義において広大となることでしょう」。朝廷はこれを聴き入れた13『通典』巻一〇四、授官与本名同宜改及官位犯祖諱議に「元康七年、尚書勅、『自今以後、諸身名与官職同者、与触父祖諱同例』」とあるので、この上疏は元康七年ころのものなのだろう。いっぽう、本伝によれば、『徙戎論』は斉万年が捕えられた元康九年以後の執筆である。とすれば、この上疏は『徙戎論』より前に置くべきであろう。
 太子洗馬に移った。東宮に数年間在籍し、おおいに信頼され、また礼遇された。愍懐太子は朝見を頻繁にキャンセルし、また奢侈の度も過ぎていて、禁忌に触れることが多かった。江統は上書して諫めた。

 臣が聞くところでは、いにしえの臣たるもの、進んでは忠誠を尽くすことを思い、退いては過失を補うことを考え、善を進言して悪を諫言し、過ちを正すのだとか。このために、人主は誤った行動をなくし、間違った言葉をなくし、徳の評判が響きわたり、名声を後世に伝えることができる、と。臣らは不才で、過ちを正しているとは申せませんが、愚誠を尽くそうと思いまして、そこで謹んで左の五つの事柄を申しあげます。いささかでもご覧になられ、わずかでもお役に立てましたら幸いにございます。
 その一。六行の義においては、孝をもって筆頭としています。虞舜の徳も、孝によって評判となりました。ゆえに、太子は朝夕に人君の食事を拝見することを職務とし14原文「以朝夕視君膳為職」。『左伝』閔公二年にこれにかんする記述が見える。太子の「視膳」については巻一〇六、石季龍載記上にもみえる。「視膳」の訳注を参照。、〔父母を〕支え助けて孝養を尽くし、何でもする(『礼記』檀弓上篇)と言われるのです。文王が世子であったとき、親への奉仕は篤実と評せるものでした。したがって、三代の美名を独占し、百王の第一人者になりえたのです。ちかごろ、ご聖体(愍懐太子のこと)にしばしばご病気がおありのようで、何度も朝見を欠席されていますが、遠近で見聞する者たちはそうした理由を深く知ることができませんから、疑惑を招いてしまっています。伏して殿下に願いますに、いささかご体調がすぐれなくとも、ご孝養が可能なのでしたら、みずからお努めなさるのがよいと思います。『易』に「君子は終日、乾乾15自分で努力して怠らないさま。(『漢辞海』)たり」(乾の九三の爻辞)とあります。みずから努めて怠らないという意味でしょう。
 その二。いにしえの人君は、聡明な天性や英哲の資質をそなえていたとしても、輔弼の助力や教導の仕事を必要としました。ゆえに、虞舜は五臣16『論語』泰伯篇に「舜有臣五人而天下治」とあり、『論語集解』に「孔曰、禹、稷、契、皐陶、伯益」とある。をもって繁栄し、周の文王は四友17『漢書』巻二〇、古今人表の顔師古注によれば、大顚、閎夭、南宮括、散宜生の四人を指す。をもって興隆したのです。成王が太子になると、周公と召公が保傅(指導役)になり、史佚が文章を明らかにしました18原文「史佚昭文章」。史佚は太史(史官)であったという。「昭文章」はよくわからない。。ゆえに、〔成王は〕道を知って若くして体現し、大業を隆盛させ、刑罰は適用されず19原文「刑措不用」。犯罪が起こらないので刑罰を適用する機会がないという含意。、名声がみちあふれたのです。伏して思いますに、殿下は天賦の逸才をおもちで、とりわけ秀でた英知を備えておられます。やはり、時機を得たらご聖令をお発しになり、徳の響きをゆきわたらせ、保傅に諮問し、侍臣に下問し、賓客に接見なさり、〔これらの人々を〕近づけさせ、心を尽くさせる20原文「覲見賓客、得令接尽」。よく読めない。『太平御覧』巻四五三、諫諍三に引く「王隠晋書」には「愍懐太子頗好遊宴、洗馬江統等諫曰、『宜諮詢保傅、引見賓客、悉得自尽、有増博見、益多聞』」とある。のがよいと臣は考えます。閉塞した感情は滞りなく通じるようになり、殿下の名声は燦然と輝くようになるでしょう。このようになされば、高名な風格は前人をしのぎ、広大ですぐれた模範は永遠に後世の手本となるでしょう。
 その三。いにしえの聖王で、倹約を徳としなかった者はいません。ゆえに、堯と舜はチガヤとイバラでふいた屋根を切りそろえず、また丸太を削らずに使ったことを称賛され、禹は衣服を簡素にして宮室を質素にしたことを賛美され、漢の文帝は質素な黒色のつむぎを着用し、なめしていない皮でできた靴をはきました。〔これらの人君は〕みずから率先し〔て倹約を実践し〕、政治は太平をもたらし、存命中は明王となり、物故後は子孫から祀られました。諸侯で倹約を修得した者といえば、魯の僖公は身なりをつつましくし、出費を節約したため、その評判は雅頌に並べられ21『毛詩』で魯の僖公を詠ったものとされているものには、周頌、駉などがあるが、雅には見つからない。、また蚡冒(楚の武王の兄)は粗末な車とぼろの衣服で〔耐え忍んで〕、楚を栄えさせました(『左伝』宣公十二年)。大夫で修得した者といえば、季文子は魯の宰相でしたが、その妾は絹の服を着ていませんでした(『左伝』襄公五年)。晏嬰は斉の宰相でしたが、ボロボロになった鹿の毛皮の服を着ていました(『晏子春秋』外篇上)。二人とも君主を正し、世俗を救い、国を繁栄させ、家を隆盛させることができました。庶人でこれを修得した者といえば、顔回は竹の器一食分の食べ物とひさご一杯分の飲み物によって、仁の名声を揚げました(『論語』雍也篇)。原憲はムカシヨモギを編んで門戸をつくり、縄をその軸受けとしたことで、その清廉な徳を確立しました(『荘子』雑篇、譲王)。これらすべて、聖主、明君、賢臣、智士が実践したことです。したがって、名声を日月につるし22原文「県名日月」。よくわからない。『後漢書』帝紀一〇上、和熹鄧皇后紀に「宜令史官著長楽宮注・聖徳頌、以敷宣景燿、勒勲金石、県之日月、攄之罔極、以崇陛下烝烝之孝」と、類似した表現がみえる。ほか、『後漢書』列伝三四、胡広伝「竊惟王命之重、載在篇典、当令県於日月、固於金石、遺則百王、施之万世」、『宋書』巻一八、礼志五「伏尋皇宋受終、每因晋旧制、律令條章、同規在昔。若事有宜、必合懲改、則当上関詔書、下由朝議、県諸日月、垂則後昆」が挙げられる。
 さて、和熹鄧皇后紀の注で李賢は、『易』繋辞上伝の「県象著明、莫大乎日月(太陽と月は天下をくまなく照らし、これらよりも明るい天の現象はない)」を出典に挙げている。繋辞上伝の「県象」は「天に懸かっている現象」という意味らしい。たしかに文字は似ているが、意味上のつながりはあるのだろうか。繋辞上伝の意味をふまえても本文の「県名日月」は読めないように思われる。
 繋辞上伝の「日月」は「すごく明るいもの」という意味である。この意味での「日月」と名声・勲功が関係した表現に、『三国志』魏書一五、司馬朗伝の「栄名並於日月」や、同、魏書一九、陳思王植伝の裴松之注に引く「魏略」の「臣聞古者聖君、与日月斉其明」がある。「名声が日月に等しい輝きをもつ」ということであるが、本文の「県名日月(名を日月に県(か)く)」がこれに類した意味をもっているとは考えにくい。
 そこで先に用例で挙げた文をいまいちど確認してみると、「勒勲金石、県之日月、攄之罔極」(和熹鄧皇后紀)、「県於日月、固於金石、遺則百王、施之万世」(胡広伝)、「県諸日月、垂則後昆」(礼志五)と、いずれも「永久に後世に伝える」という意味で使われている可能性が高いと思われる。本文も「県名日月、永世不朽」とあり、やはり同様である。つまり、「県○日月」における「日月」は「永遠のもの」という意味で使われているのではないかと思われる。
 さしあたり訳出は文字どおりに試みて「名声を日月につるした」と取った。「名声を永久に後世に伝える」という比喩だと考えられる。
、永遠に不朽のものとできるのは、おそらく倹約のもたらす幸福なのです。末世になると、奢侈によって倹約の徳にそむいた者は、帝王であれば玉で飾った台観や宮室、玉製の杯に象牙の箸、食事の珍味に熊の掌と豹の胎児、酒の池と肉の林というありさまでした。諸侯で奢侈だった者は、赤塗りの柱に彫刻をほどこしたたるきを備え、餼(料理用の犠牲動物)に百牢23「牢」は犠牲の動物のセットのことで、牛・羊・豚の三種各一頭で一牢。百牢はこれが百セットということ。『周礼』秋官大行人では、爵位に応じて牢の上限が定められており、上公は九牢、侯伯は七牢、子男は五牢となっている。を要求するほどでした。大夫であれば、玉製のかんむりとひもを着け、庶人であれば、鐘を打って音楽を演奏し、鼎で食事をとりました。これらの者たちはことごとく、国を滅ぼし、一族を絶やし、家を潰し、身を破滅させたのであり、悪名は明白で、やはり後世の教訓となりました。ひそかに耳にしたところでは、〔殿下の〕後園は加工された金銀を飾り、研磨された犀角や象牙を施し、部屋の装飾画はできばえをチェックされ、日々精妙になっているとか24原文「画室之巧、課試日精」。あまり自信はない。。臣らが考えますに、現代は四海が広大で、万物が豊富ですが、現代を古代と比べてみますと、〔現代は〕奢侈というほどではありません。しかし、上位者が嗜好するものがあれば。下々は必ずそれに追従します。このゆえ、上位におる者は必ず嗜好を慎むのです。むかし、漢の光武帝のとき、千里の馬と宝剣を献上する者がいましたが、〔光武帝は〕その馬に鼓車を引かせ、剣を騎士に下賜しました(『後漢書』循吏伝、序)。世祖武皇帝(司馬炎)のときには、雉頭裘(雉の頭の毛皮でつくった衣服)を献上した者がいましたが、すぐに有司に詔を下し、これを大通りで焼かせました(武帝紀、咸寧四年十一月)。高名な人主は珍品を尊重しなかったため、天下の風俗を正し、四方の風流を整えることができたのです。臣らが考えますに、部屋の装飾画の作業はしばらく減免するべきです。後園での作業はすべて中止し、〔職人を〕帰らせましょう。落ち着いて静粛になり、ゆったりとした道徳を得れば、日新(日々改新する)の美声が四海に輝くことでしょう。
 その四。天下をもって一人に供出し、百里をもって諸侯に供出するゆえに、王侯は税で食物と衣服を得て、公卿大夫は爵を授かって俸禄を糧とし、こうして誰もが充足します。このため、士農工商の四つの生業は交雑しないのです。〔市場で〕交易して帰り、あるものとないものを交換することは、庶民のなりわいです。『周礼』には三つの市があります。旦市は百族(万民のこと)、昼市は商売者、夕市は販夫と販婦(販売人の男女)が主要でした25『周礼』地官司市に「大市、日而市、百族為主。朝市、朝時而市、商賈為主。夕市、夕時而市、販夫販婦為主」とある。夕市の「販夫販婦」は鄭玄注に「朝資夕売(朝に物資を入手して夕に売る)」とある。。安い物を買って高い物を売り、野菜や果物を販売し、わずかな利益を入手し、それによって露の命を食いつなぐわけです。ゆえに、〔商売は〕貧賤な庶民がやることなのです。樊遅は匹夫(一般庶民)で、田畑のつくり方を学びたいと〔孔子に〕願いましたが、孔子は回答しませんでした(『論語』子路篇)。魯の大夫の臧文仲は家人にむしろを織らせたため、不仁であると批判されました26原文「魯大夫臧文仲使妾織蒲、又譏其不仁」。『左伝』文公二年に「仲尼曰、臧文仲、其不仁者三、不知者三。下展禽、廃六関、妾織蒲、三不仁也」とあり、杜預の注に「家人販席、言其与民争利」とある。。公儀子は魯国の相になると、家の菜園で栽培していたフユアオイを抜いて棄てました(『史記』循吏列伝)。俸禄を食んでいる者は、貧賤な民と利益を争ってはならないということです。秦漢以来、風俗はますます軽薄になり、尊貴な地位にある公侯は、誰もが田畑を経営し、市井の利益を稼いでいます。しだいにすきかってするようになっても、それを恥とも思わず、古道にのっとることを、まことに恥ずべきことだとしています27原文「乗以古道、誠可愧也」。こういう読み方でよいのか自信はもてない。。いま、〔殿下の〕西園でアオイの野菜、藍子(不詳。野菜か)、鶏、麦粉製品の類いを売っていますが、国の根本を傷つけ、名声を損なってしまっています。
 その五。ひそかに〔殿下がお下しになった〕禁土の令を拝見しますに、障壁を修繕し、屋根の瓦を整理することをお許しになっていません。臣が考えますに、この令は法典の旧義にもとっています。かつ、ささいな気に入らないことに固執して、大道を広げることを放棄していますから、〔この令を〕撤回なさるのがよいと思います。それがこの状況において適切な処置です28『太平御覧』巻七三五、巫下に引く「江氏家伝」には本文で省略された箇所が引用されている。「江統為太子洗馬、諫愍懐太子曰、『臣聞土者民之主用、播殖・筑室・営都・建邑、皆有明制、著在典、而無禁忌犯害之文。唯末俗小巫乃有此言、巫書乃禁入地三尺、有四時方面不皆禁也。竊見禁土令、不得繕治壇垣、動移屋瓦。臣等以為此違典義、不可為永制』」とある。

朝廷はこの諫言を評価した。
 愍懐太子が廃され、許昌に移されることになると、賈后は有司に暗に命令し、東宮の臣が〔許昌に向かう太子を〕追送29旅立つ人に途中まで同行し、見送る。(『漢辞海』)するのを許可させなかった。江統は〔ほかの〕東宮の臣とともに禁止を犯し、伊水に到着すると、道の左で拝礼して別れを告げ、悲しんで泣き、涙を流した。都官従事は江統らを全員逮捕し、河南郡と洛陽県の獄に送った。河南郡に送られた者は、河南尹の楽広が全員釈放したが、洛陽に収監された者はそのまま釈放されなかった。都官従事の孫琰は賈謐を説得して言った、「太子が廃されて移されたのは、悪事をなしたからです。〔それなのに?〕東宮の故臣は罪を犯してまで拝礼して別れを告げ、道端で涙を流し、重罪を顧みず、さらに太子の徳を顕彰しました。彼らを釈放するほかありません」。賈謐は洛陽令の曹攄に話したので、みな釈放された。愍懐太子が薨じ、〔のちに〕改葬されると、江統は誄文を作成し、悲哀を述べたところ、世の人々から尊敬を受けた。
 のちに博士、尚書郎となり、大司馬の斉王冏の軍事に参与した30原文「参大司馬斉王冏軍事」。大司馬府の参軍事になったということ。。斉王は驕慢かつ退廃気味で、敗亡が迫っていたため、江統は厳しく諫めた。文字が多いので掲載はしない。廷尉正に移ると、州郡から疑獄31判決に迷う裁判案件のこと。このような案件があった場合、その判決を上級に仰ぐことができた(たとえば県から郡へ)。地方の裁判機関では判決が下せない場合、中央の廷尉に仰いでいた。が上申されてくるたびに、なるべく軽い判決を下した32就任中、『正刑論』という著作を書いたという。『北堂書鈔』巻五五、廷尉平「江統作正刑論」に引く「王隠晋書」に「為廷尉正、作正刑論」とある。。成都王穎が請うて記室とすると、戒める言葉が多かった。陸雲兄弟の無罪を弁護したときは、その言葉はひじょうに切実で、道理が尽くされていた。母の死去を理由に辞職した。服喪があけると、司徒(おそらく東海王越)の左長史になった。東海王越が兗州牧になると、江統を別駕従事とし、州の政務を委任し、江統に書簡を送った、「むかし、王子師(王允)が豫州刺史になると、〔任地に向かう〕車を下りる前に荀慈明(荀爽)を辟召し、車を下りると孔文挙(孔融)を辟召したとか。貴州(貴殿の州。兗州のこと)の人士でこの故事に相当するような方はおられるだろうか」。江統は高平の郗鑑を賢良に挙げ、陳留の阮脩を直言に挙げ、済北の程収を方正に挙げた。世の人々は〔江統を〕知人(人材を見抜いている)と評した33『太平御覧』巻二六三、別駕に引く「江氏家伝」には「東海王領州牧、請君為別駕。与君書曰、『昔子師作豫州、末下車、辟荀慈明、下車、辟孔文挙。貴州人士有堪此求者不知』。君挙高平郗道微為賢良、陳留阮宣子為直言、済北程弘叔為方正。皆於時選為允」とあり、文言にやや相違がみられる。。ほどなく黄門侍郎34就任中、『朝会儀』というものを編纂したらしい。『北堂書鈔』巻五八、給事黄門侍郎「江統作儀」に引く「王晋書」に「為黄門郎、作朝会儀」とある。、散騎常侍に移り、領国子博士となった35江統は学識のある人物として有名だったという。『北堂書鈔』巻六七、博士「元世学義著名」に引く「王隠晋書」に「以学義著名、為国子博士」とある。。永嘉四年、戦難を避けて成皐へ逃げ、〔その地で〕病死した。著述した賦、頌、表、奏はすべて後世に伝えられた。江虨と江惇の二人の息子がいた。

江統(1)江統(2)附:江虨・江惇/孫楚/附:孫統・孫楚

(2021/10/10:公開)

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    選挙を主管する官、すなわち尚書吏部曹。
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    以下の上疏は『通典』巻一〇四、授官与本名同宜改及官位犯祖諱議にも掲載されている。
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    原文「未有身与官職同名、不在改選之例」。難解。和刻本は「未有」を両句にかけているが、それだと意味が通じなくなる。前例にない(「不在」)ことがこれまで存在しなかった(「未有」)とはどういうことだろうか。「前例はある」ということにならないだろうか。そこで「未有」がかかるのを「官職同名」までとして読んでみると、「これまで本人と官職が同名であったためしはなかったので、改選の事例に含まれていません」となり、文意は通じる。しかし後文に「身名所加、亦施於臣子(本人の名が含まれている官職も授けられている)」とあり、この文と矛盾した意味になってしまうので、この解釈も難しい。そこで強引な解釈になるが、本文には脱文があると想定し、〔 〕のように語句を補って文意を通じさせてみた。
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    臣下の意。主君を父に見立てて仕えるという含意がある。
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    原文「開地」。文脈からすれば「地方官になる」という意味だと思われるが、史書の用例ではたんに「土地を広げる」以上の意味はなく、よくわからない。
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    原文「臣以為父祖改選者、蓋為臣子開地、不為父祖之身也」。読みにくい。おそらく言いたいことは、父祖の名を理由に主君の命令を変更するというのは、一見すれば主君の命令よりも私的な事情を優先しているようにみえるが、実際は臣下としての立場を考慮したものであって、私的な事情を優先しているわけではない、ということかと思われる。後文で述べられている論拠を参照すると、任命された官職に父祖の名が含まれていたら、任命を受けた当人はもちろん、その属下の官吏もうっかり官名を口にできなくなって職務に支障をきたすから、円滑な運営のためにも改選する、ということかもしれない。
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    原文「而身名所加、亦施於臣子」。よく読めない。とくに「亦」がわからない。〔 〕で補ってみたように、「父祖の名を避けた官を授けるにさいし、本人の名が含まれている官職でもおかまいなしに授けた」という意味で解釈してみた。
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    原文「為廃官擅犯憲制」。直訳気味に訳出したが、官の正式な名称を言い換えてしまうことは、「官名をかってに変更した=官をかってに廃した」ということであり、ゆえに「国家の法制をかってな理由でないがしろにした」ということなのだと思う。
     ちなみにここで言われていることに関連して、属官は上官の赴任時に父祖の私諱をうかがって教えてもらうという慣例もあったらしい。『世説新語』賞誉篇、第七四章に次のような話が伝えられている。「王述が揚州刺史に任じられると、主簿が諱を教えていただきたいと請うた。王述は教えて言った、『亡き祖父と父君の名は海内に知れ渡っており、遠近だれもが知るところだ。妻の諱は門外には出さないとされる。〔祖父と父君以外に〕ほかにはばかる諱はない』(王藍田拝揚州、主簿請諱、教云、『亡祖・先君、名播海内、遠近所知、内諱不出於外。余無所諱』)」。『世説新語校箋』の著者・徐震堮氏の注に「上官の就任時、属僚は必ず先に諱を教えてもらい、別の機会に無意識に諱を犯してしまうのを予防しておくのである(上官就任、僚属必先請諱、以防他時無意之中触犯之)」とある。
  • 10
    原文は「名号」。おそらく地名と官職名の両方を指す。
  • 11
    原文のまま。官人のことを指しているのだろう。
  • 12
    原文「所以上尊君父、下為臣子、体例不通」。「体例」とは「父君を尊び、かつ臣という立場も維持する」ということだろう。官職名に本人の名が含まれてしまっている場合、官職名そのままで呼ぶ=父君を尊んでいない、になり、官職名を避けて呼ぶ=臣子として扱っていない、ということになってしまう。「体例」を問題なく成立させるためには、官職名と本人の名が重なったら改選すればよい、という論理になっていると思われる。
  • 13
    『通典』巻一〇四、授官与本名同宜改及官位犯祖諱議に「元康七年、尚書勅、『自今以後、諸身名与官職同者、与触父祖諱同例』」とあるので、この上疏は元康七年ころのものなのだろう。いっぽう、本伝によれば、『徙戎論』は斉万年が捕えられた元康九年以後の執筆である。とすれば、この上疏は『徙戎論』より前に置くべきであろう。
  • 14
    原文「以朝夕視君膳為職」。『左伝』閔公二年にこれにかんする記述が見える。太子の「視膳」については巻一〇六、石季龍載記上にもみえる。「視膳」の訳注を参照。
  • 15
    自分で努力して怠らないさま。(『漢辞海』)
  • 16
    『論語』泰伯篇に「舜有臣五人而天下治」とあり、『論語集解』に「孔曰、禹、稷、契、皐陶、伯益」とある。
  • 17
    『漢書』巻二〇、古今人表の顔師古注によれば、大顚、閎夭、南宮括、散宜生の四人を指す。
  • 18
    原文「史佚昭文章」。史佚は太史(史官)であったという。「昭文章」はよくわからない。
  • 19
    原文「刑措不用」。犯罪が起こらないので刑罰を適用する機会がないという含意。
  • 20
    原文「覲見賓客、得令接尽」。よく読めない。『太平御覧』巻四五三、諫諍三に引く「王隠晋書」には「愍懐太子頗好遊宴、洗馬江統等諫曰、『宜諮詢保傅、引見賓客、悉得自尽、有増博見、益多聞』」とある。
  • 21
    『毛詩』で魯の僖公を詠ったものとされているものには、周頌、駉などがあるが、雅には見つからない。
  • 22
    原文「県名日月」。よくわからない。『後漢書』帝紀一〇上、和熹鄧皇后紀に「宜令史官著長楽宮注・聖徳頌、以敷宣景燿、勒勲金石、県之日月、攄之罔極、以崇陛下烝烝之孝」と、類似した表現がみえる。ほか、『後漢書』列伝三四、胡広伝「竊惟王命之重、載在篇典、当令県於日月、固於金石、遺則百王、施之万世」、『宋書』巻一八、礼志五「伏尋皇宋受終、每因晋旧制、律令條章、同規在昔。若事有宜、必合懲改、則当上関詔書、下由朝議、県諸日月、垂則後昆」が挙げられる。
     さて、和熹鄧皇后紀の注で李賢は、『易』繋辞上伝の「県象著明、莫大乎日月(太陽と月は天下をくまなく照らし、これらよりも明るい天の現象はない)」を出典に挙げている。繋辞上伝の「県象」は「天に懸かっている現象」という意味らしい。たしかに文字は似ているが、意味上のつながりはあるのだろうか。繋辞上伝の意味をふまえても本文の「県名日月」は読めないように思われる。
     繋辞上伝の「日月」は「すごく明るいもの」という意味である。この意味での「日月」と名声・勲功が関係した表現に、『三国志』魏書一五、司馬朗伝の「栄名並於日月」や、同、魏書一九、陳思王植伝の裴松之注に引く「魏略」の「臣聞古者聖君、与日月斉其明」がある。「名声が日月に等しい輝きをもつ」ということであるが、本文の「県名日月(名を日月に県(か)く)」がこれに類した意味をもっているとは考えにくい。
     そこで先に用例で挙げた文をいまいちど確認してみると、「勒勲金石、県之日月、攄之罔極」(和熹鄧皇后紀)、「県於日月、固於金石、遺則百王、施之万世」(胡広伝)、「県諸日月、垂則後昆」(礼志五)と、いずれも「永久に後世に伝える」という意味で使われている可能性が高いと思われる。本文も「県名日月、永世不朽」とあり、やはり同様である。つまり、「県○日月」における「日月」は「永遠のもの」という意味で使われているのではないかと思われる。
     さしあたり訳出は文字どおりに試みて「名声を日月につるした」と取った。「名声を永久に後世に伝える」という比喩だと考えられる。
  • 23
    「牢」は犠牲の動物のセットのことで、牛・羊・豚の三種各一頭で一牢。百牢はこれが百セットということ。『周礼』秋官大行人では、爵位に応じて牢の上限が定められており、上公は九牢、侯伯は七牢、子男は五牢となっている。
  • 24
    原文「画室之巧、課試日精」。あまり自信はない。
  • 25
    『周礼』地官司市に「大市、日而市、百族為主。朝市、朝時而市、商賈為主。夕市、夕時而市、販夫販婦為主」とある。夕市の「販夫販婦」は鄭玄注に「朝資夕売(朝に物資を入手して夕に売る)」とある。
  • 26
    原文「魯大夫臧文仲使妾織蒲、又譏其不仁」。『左伝』文公二年に「仲尼曰、臧文仲、其不仁者三、不知者三。下展禽、廃六関、妾織蒲、三不仁也」とあり、杜預の注に「家人販席、言其与民争利」とある。
  • 27
    原文「乗以古道、誠可愧也」。こういう読み方でよいのか自信はもてない。
  • 28
    『太平御覧』巻七三五、巫下に引く「江氏家伝」には本文で省略された箇所が引用されている。「江統為太子洗馬、諫愍懐太子曰、『臣聞土者民之主用、播殖・筑室・営都・建邑、皆有明制、著在典、而無禁忌犯害之文。唯末俗小巫乃有此言、巫書乃禁入地三尺、有四時方面不皆禁也。竊見禁土令、不得繕治壇垣、動移屋瓦。臣等以為此違典義、不可為永制』」とある。
  • 29
    旅立つ人に途中まで同行し、見送る。(『漢辞海』)
  • 30
    原文「参大司馬斉王冏軍事」。大司馬府の参軍事になったということ。
  • 31
    判決に迷う裁判案件のこと。このような案件があった場合、その判決を上級に仰ぐことができた(たとえば県から郡へ)。地方の裁判機関では判決が下せない場合、中央の廷尉に仰いでいた。
  • 32
    就任中、『正刑論』という著作を書いたという。『北堂書鈔』巻五五、廷尉平「江統作正刑論」に引く「王隠晋書」に「為廷尉正、作正刑論」とある。
  • 33
    『太平御覧』巻二六三、別駕に引く「江氏家伝」には「東海王領州牧、請君為別駕。与君書曰、『昔子師作豫州、末下車、辟荀慈明、下車、辟孔文挙。貴州人士有堪此求者不知』。君挙高平郗道微為賢良、陳留阮宣子為直言、済北程弘叔為方正。皆於時選為允」とあり、文言にやや相違がみられる。
  • 34
    就任中、『朝会儀』というものを編纂したらしい。『北堂書鈔』巻五八、給事黄門侍郎「江統作儀」に引く「王晋書」に「為黄門郎、作朝会儀」とある。
  • 35
    江統は学識のある人物として有名だったという。『北堂書鈔』巻六七、博士「元世学義著名」に引く「王隠晋書」に「以学義著名、為国子博士」とある。
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