巻五十六 列伝第二十六 江統(3)

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江統(1)江統(2)附:江虨・江惇/孫楚/附:孫統・孫楚

〔江虨〕

 江虨は字を思玄という1囲碁の名手であったという。『世説新語』方正篇、四二章を参照。。本州(兗州)が辟召して秀才に挙げた。平南将軍の温嶠が参軍とした。ふたたび州の別駕従事となり2原文「復為州別駕」。この書き方からすると、最初に州に勤務していた時期、別駕に就いたことがあったのだろう。、〔ついで〕司空の郗鑑の掾に辟召され、〔ついで〕永山令に任じられた。郗鑑がふたたび請うて〔太尉府の?〕司馬とし、〔ついで〕黄門郎に転じた。車騎将軍の庾氷が江州(武昌)に出鎮すると、請うて〔車騎将軍府の〕長史とした。庾氷が薨じると、庾翼が〔征西将軍府の?〕諮議参軍とし、にわかにふたたび長史に任じられた。庾翼が薨じると、大将の干瓚3巻八、穆帝紀、永和元年七月、巻七三、庾亮伝附翼伝は「部将」に作る。が反乱を起こしたので、江虨はこれを討伐して平定した。尚書吏部郎に任じられ、御史中丞、侍中、吏部尚書と昇進を重ねていった4吏部には三度勤務したらしい。『北堂書鈔』巻六〇、諸曹尚書「三為選官」に引く「裴松之晋紀」に「三為選官、少有私薦素称之也」とある。。永和年間、桓景に代わって護軍将軍となった。地方に出て会稽内史に任じられ、右軍将軍を加えられた。王彪之に代わって尚書僕射となった。哀帝が即位すると、〔哀帝は〕周貴人の称号は何が適切であるか判断に悩んだ〔ので、有司に議論を命じた〕5周貴人は成帝の側室で、哀帝の生母。哀帝の即位時にどういう称号で呼ぶべきか議論が開かれた。周氏は哀帝の興寧元年に薨じた。巻三二、后妃伝下、成恭杜皇后伝附周太妃伝を参照。。〔そのときの〕江虨の議は礼志を参照のこと6巻二一、礼志下に記載されている。。哀帝は太極殿の前庭で鴻祀を実施しようとし7鴻祀は六経には記されておらず、『尚書大伝』にだけみえる祭祀で、儀注は伝わっていないという。『通典』巻五五、諸雑祠に「東晋哀帝欲於殿前鴻祀、侍中劉遵等啓称、『此唯出『大伝』、不在六籍、劉向・鄭玄雖為其訓、自後不同。前代以来、並無其式」とあり、自注に「以鴻雁来為候、因而祭之、謂之鴻祀。或曰、『鴻、大也。鴻雁初来、必将大祀』」とある。また巻七八、孔愉伝附厳伝に「隆和元年、詔曰、『天文失度、太史雖有禳祈之事、猶釁眚屡彰。今欲依鴻祀之制、於太極殿前庭親執虔粛』」とある。、またみずから藉田を実施しようとしたが8よくわからないが、元帝のとき、藉田儀礼を実施しようとしたが、祭儀の一環である先農の祀りを天子みずからが執行するべきか否かで議論があったという。そのさい、賀循が儀注をまとめたものの、不十分な点があったらしく、けっきょく元帝時代に儀礼は実施されなかったとされる(なお、このときに賀循がまとめたとみられる儀注は『続漢書』志四、礼儀志上の劉昭注に引かれている)。巻一九、礼志上に「江左元帝将修耕藉、尚書符問、『藉田至尊応躬祠先農不』。賀循答、『漢儀無正有至尊応躬祭之文、然則周礼王者祭四望則毳冕、祭社稷五祀則絺冕、以此不為無親祭之義也。宜立両儀注』。賀循等所上儀注又未詳允、事竟不行。後哀帝復欲行其典、亦不能遂」とある。この礼志によれば、哀帝はけっきょく藉田儀礼を実施できなかったとされているが、巻八、哀帝紀、興寧二年二月に「帝親耕藉田(哀帝はみずから藉田を耕した)」とある。、江虨は、どちらの儀礼も廃れて久しく、儀注が残っておらず、中興(東晋元帝)以来実施されていないため、中止するのがよいと上申した。長年尚書僕射を務め、簡文帝が宰相になると、つねづね〔江虨に〕政事を相談したが、江虨がもたらした裨益は多かった。護軍将軍に転じ、領国子博士となり、在官中に卒した9江虨は諸葛恢の娘を娶ったが、そのときにまつわる与太話が『世説新語』仮譎篇、第一〇章に伝えられている。
 子の江敳は琅邪内史、驃騎将軍府の諮議参軍を歴任した10『世説新語』方正篇、六三章の劉孝標注によれば、小字を盧奴といい、また同注に引く「晋安帝紀」に「敳字仲凱、済陽人。……歴位内外、簡称。歴黄門侍郎、驃騎咨議」とある。。江敳の子の江恒は元煕年間に西中郎将府の長史となった。江恒の弟の江夷は列曹尚書になった11江夷は『宋書』巻五三に立伝されている。

〔江惇〕

 江惇は字を思悛という。孝友に厚く、純朴で、高潔な節操をもち、世俗を超越していた。学問を好む性格で、儒学と玄学のどちらも精通していた。つねづね次のように考えていた。君子が行動するにあたっては、礼に依拠してなすべきであり、隠顕(隠者と出仕者)で生き方は異なるとはいえ、礼教にもとづかなかった者はこれまで存在しない。かりに放達で礼にとらわれず、すきかってにふるまうことを貴重とみなしてしまえば、そのようなことはつねに礼法にそむいているというだけではなく、道が廃棄していることでもある、と。そこで『通道崇倹論』を著述し、世の人々はみなこれを称賛した。蘇峻が乱を起こし、東陽山に避難すると、太尉の郗鑑が檄文を発して〔江惇を〕兗州治中とし12蘇峻の乱は成帝・咸和二年のこと。巻六七、郗鑑伝によるかぎり、このときの郗鑑は車騎大将軍、兗州刺史、領徐州刺史などで、まだ太尉には就いていない。巻七、成帝紀によると、郗鑑が太尉に就いたのは咸康四年五月である。おそらく極官の肩書として太尉と呼称しているのだろう。江惇を兗州治中に招いているのは、当時の郗鑑が兗州刺史だったからである。、〔その後、〕さらに太尉府の掾に辟召した。〔咸康五年、〕康帝(琅邪王岳)が司徒になると、またも辟召された。征西将軍の庾亮が請うて儒林参軍とした。中央に召され、博士、著作郎に任じられたが、どちらも就任しなかった。郷里の人々は江惇の道に帰服しており、事案があったら必ず〔江惇に〕相談し、それから実行した。東陽太守の阮裕、長山令の王濛はどちらも一世の名士であったが、そろって江惇と交遊し、深く尊敬しあっていた。〔隠退して〕精気を養うこと二十余年、永和九年に卒した。享年四十九。友人らが共同で石碑を建てて頌辞を刻み、そうして〔江惇の〕徳の美麗さを賛美したという。

江統(1)江統(2)附:江虨・江惇/孫楚/附:孫統・孫楚

(2021/10/10:公開)

  • 1
    囲碁の名手であったという。『世説新語』方正篇、四二章を参照。
  • 2
    原文「復為州別駕」。この書き方からすると、最初に州に勤務していた時期、別駕に就いたことがあったのだろう。
  • 3
    巻八、穆帝紀、永和元年七月、巻七三、庾亮伝附翼伝は「部将」に作る。
  • 4
    吏部には三度勤務したらしい。『北堂書鈔』巻六〇、諸曹尚書「三為選官」に引く「裴松之晋紀」に「三為選官、少有私薦素称之也」とある。
  • 5
    周貴人は成帝の側室で、哀帝の生母。哀帝の即位時にどういう称号で呼ぶべきか議論が開かれた。周氏は哀帝の興寧元年に薨じた。巻三二、后妃伝下、成恭杜皇后伝附周太妃伝を参照。
  • 6
    巻二一、礼志下に記載されている。
  • 7
    鴻祀は六経には記されておらず、『尚書大伝』にだけみえる祭祀で、儀注は伝わっていないという。『通典』巻五五、諸雑祠に「東晋哀帝欲於殿前鴻祀、侍中劉遵等啓称、『此唯出『大伝』、不在六籍、劉向・鄭玄雖為其訓、自後不同。前代以来、並無其式」とあり、自注に「以鴻雁来為候、因而祭之、謂之鴻祀。或曰、『鴻、大也。鴻雁初来、必将大祀』」とある。また巻七八、孔愉伝附厳伝に「隆和元年、詔曰、『天文失度、太史雖有禳祈之事、猶釁眚屡彰。今欲依鴻祀之制、於太極殿前庭親執虔粛』」とある。
  • 8
    よくわからないが、元帝のとき、藉田儀礼を実施しようとしたが、祭儀の一環である先農の祀りを天子みずからが執行するべきか否かで議論があったという。そのさい、賀循が儀注をまとめたものの、不十分な点があったらしく、けっきょく元帝時代に儀礼は実施されなかったとされる(なお、このときに賀循がまとめたとみられる儀注は『続漢書』志四、礼儀志上の劉昭注に引かれている)。巻一九、礼志上に「江左元帝将修耕藉、尚書符問、『藉田至尊応躬祠先農不』。賀循答、『漢儀無正有至尊応躬祭之文、然則周礼王者祭四望則毳冕、祭社稷五祀則絺冕、以此不為無親祭之義也。宜立両儀注』。賀循等所上儀注又未詳允、事竟不行。後哀帝復欲行其典、亦不能遂」とある。この礼志によれば、哀帝はけっきょく藉田儀礼を実施できなかったとされているが、巻八、哀帝紀、興寧二年二月に「帝親耕藉田(哀帝はみずから藉田を耕した)」とある。
  • 9
    江虨は諸葛恢の娘を娶ったが、そのときにまつわる与太話が『世説新語』仮譎篇、第一〇章に伝えられている。
  • 10
    『世説新語』方正篇、六三章の劉孝標注によれば、小字を盧奴といい、また同注に引く「晋安帝紀」に「敳字仲凱、済陽人。……歴位内外、簡称。歴黄門侍郎、驃騎咨議」とある。
  • 11
    江夷は『宋書』巻五三に立伝されている。
  • 12
    蘇峻の乱は成帝・咸和二年のこと。巻六七、郗鑑伝によるかぎり、このときの郗鑑は車騎大将軍、兗州刺史、領徐州刺史などで、まだ太尉には就いていない。巻七、成帝紀によると、郗鑑が太尉に就いたのは咸康四年五月である。おそらく極官の肩書として太尉と呼称しているのだろう。江惇を兗州治中に招いているのは、当時の郗鑑が兗州刺史だったからである。
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