巻八 帝紀第八 哀帝

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穆帝哀帝海西公

 哀皇帝は諱を丕、字を千齢といい、成帝の長子である。咸康八年、琅邪王に封じられた。永和元年、散騎常侍に任じられ、十二年に中軍将軍を加えられ、升平三年に驃騎将軍に任じられた。
 五年五月丁巳、穆帝が崩じた。皇太后(康帝皇后の褚氏)が令を下した、「帝はにわかに病から回復されなかったため、後継者はまだ立てられていない。琅邪王の丕は中興の正統(元帝の嫡子の家系)にあたり、うるわしい徳をそなえた優れた宗室である。むかし、咸康の時世においては、〔成帝との〕親族関係は後継ぎの立場に相当していたが、〔その当時は〕年齢が幼く、国家の艱難にはまだ堪えられないとの理由から、顕宗(成帝)は〔御弟の康帝に位を〕お譲りになられたのであった。いま、道理、名望、人心、〔親族上の〕地位1原文「義望情地」。「義望」と「情地」に分解できると思うが、どちらも用例がほとんどなく、よくわからない。「情地」については、『漢語大詞典』に「親族地位」とあるものの、納得がいかない。試みに四字バラバラで分解してみた。の点で、琅邪王に比肩する者はいない。そこで、王を大統(帝位の家系)に奉じるように」。こうして、百官は法駕を整え、琅邪王の邸宅へ迎えに行った。庚申、皇帝の位についた。大赦した。壬戌、詔を下した、「朕は明らかなる命を受け継ぎ、大統に参入して引き継ぐこととなった。振り返って思うに、〔朕が帝位を継いだことによって、琅邪国の〕先王の宗廟は嘗烝の祭祀を主宰する主人をなくし、〔また〕王太妃(生母の周氏)は王宮を失い、さびれてしまって頼る人もいなくなってしまった。〔そのため〕悲しみに打ちひしがれ、五臓が張り割けんばかりである。宗国(同姓諸侯国)の重要性は、情と礼のどちらからも高く、後継ぎの重大性は、義において匹敵するものはない。東海王の奕は、〔朕との〕親族関係は近親にあたり、〔琅邪国の〕本統を奉じるにふさわしい。そこで、奕を琅邪王とする」。
 秋七月戊午、穆帝を永平陵に埋葬した。慕容恪が野王を攻め落としたので、守将の呂護は退却し、滎陽を守った。
 八月己卯夜、空が裂け、その広さは数丈におよび、雷のような音が鳴った。
 九月戊申、皇后に王氏を立てた。穆帝の皇后の何氏が永安宮と称した。呂護がそむいて慕容暐のもとへ逃げた。
 冬十月、安北将軍の范汪が罪を犯したので、廃して庶人とした。
 十一月丙辰、詔を下した、「顕宗成皇帝は顧命のさい、世事が多難であることから、高世2『漢語大詞典』によれば、(1)世を超絶している(メチャクチャすごい)、(2)世を超越している(隠逸志向)の二つの意味がある。本文のように「高世之風」とある場合は後者の意で取るのが適当のように思えるが、文脈的に後者で取るのは不自然でもある。よくわからない。ここではとりあえず、成帝の治世=教化のことを尊んで「高世」と表現しているものと解した。の教化を広めようとし、徳政を打ち立てて重厚さを普及させることによって、社稷を栄えさせようとしたのである。しかし、国家の災難はやまず、康穆両帝は早世してしまい、後継ぎは長く続かずにいる。朕は徳が薄い身をもって、ふたたび(?)先帝の事業を継ぐこととなったが、心はいつまでも〔父の成帝を〕忍び、悲しみと痛ましさが一挙につのる3原文「感惟永慕、悲痛兼摧」。わからない。「永募」の用例をみると、故人への思いがやまない意で使用されているようだし、文脈的にも成帝を思い出して悲しいということだろう。。いったい、昭穆の義というのは、本来は天属(自然の血縁関係)にもとづくべきである。〔それが〕位を継ぎ、事業を受け継ぐときにおける、古今の常道なのである。〔そこで、従兄弟の穆帝を継ぐのではなく〕さかのぼって顕宗を継ぎ、そうして本統を整えるのが適当であろう」。
 十二月、涼州刺史の張玄靚に大都督隴右諸軍事、護羌校尉、西平公を加えた。

 隆和元年春正月壬子、大赦し、改元した。甲寅、田地への課税を減らし、一畝につき二升を徴税した。この月、慕容暐の将の呂護と傅末波が小規模な営塁を攻め落とし、洛陽に迫った。
 二月辛未、輔国将軍、呉国内史の庾希を北中郎将、徐・兗二州刺史とし、下邳に出鎮させ、前鋒監軍、龍驤将軍の袁真を西中郎将、監護豫・司・并・冀四州諸軍事、豫州刺史とし、汝南に出鎮させ、どちらも仮節とした。丙子、哀帝の生母の周氏を尊んで皇太妃とした。
 三月甲寅朔、日蝕があった。
 夏四月、旱魃があった。詔を下し、軽微な罪の囚人を釈放し、困窮している者を援助した。丁丑、梁州4涼州の誤り。中華書局の校勘記を参照。で地震があり、浩亹で山が崩落した。呂護がふたたび洛陽を侵略した。乙酉、輔国将軍、河南太守の戴施が宛へ敗走した。
 五月丁巳、北中郎将の庾希、竟陵太守の鄧遐を派遣し、水軍を率いさせて洛陽を救援させた。
 秋七月、呂護らが退却し、小平津を守った。琅邪王奕を侍中、驃騎大将軍、開府に進めた。鄧遐が進軍して新城に駐屯した。庾希の部将の何謙と慕容暐の将の劉則が檀丘で戦い、〔何謙が〕これを破った。
 八月、西中郎将の袁真が進軍して汝南に駐屯し、米五万斛を運搬して洛陽へ送った。
 冬十月、貧窮している者に米を賜い、一人につき五斛を下賜した。章武王珍が薨じた。
 十二月戊午朔、日蝕があった。詔を下した、「軍隊が出動中であるため、賦役を軽減することはまだできない。天体の現象が法則から外れ、ひどい旱魃が災害をなした。どうして、政事がいまだにゆきわたらないのだろうか。あるいは板築(英布)や渭浜(太公望)のような人士がいるのだろうか。そこで、隠遁している賢才を見つけ出し、くすぶっている優秀な者を抜擢し、細かく厳しい取り締まりを減免する。法令を詳議し、すべて〔議題は〕減らす事柄と必要な事柄を旨とせよ5原文「咸従損要」。わからない。」。庾希が下邳から退却して山陽に出鎮し、袁真が汝南から退却して寿陽に出鎮した。

 興寧元年春二月己亥、大赦し、改元した。
 三年壬寅、皇太妃(周氏)が琅邪国の邸宅で薨じた。癸卯、哀帝はその葬儀に参じようとし、詔を下して司徒の会稽王昱に内外の政務を統べさせた。
 夏四月、慕容暐が滎陽を侵略し、滎陽太守の劉遠は魯陽へ敗走した。甲戌、揚州で地震があり、湖や瀆(水運路)から水があふれた。
 五月、征西大将軍の桓温に侍中、大司馬、都督中外諸軍事を加え、録尚書事とし、仮黄鉞とした。さらに西中郎将の袁真を都督司・冀・并三州諸軍事とし、北中郎将の庾希を都督青州諸軍事とした。癸卯、慕容暐が密城を落とし、滎陽太守の劉遠は江陵へ敗走した。
 秋七月、張天錫が涼州刺史、西平公の張玄靚を弑し、大将軍、護羌校尉、涼州牧、西平公を自称した。丁酉、章皇太妃を埋葬した。
 八月、彗星が角亢で光り、天市へ入った。
 九月壬戌、大司馬の桓温が軍を率いて北伐した。癸亥、皇子が生まれたため、大赦した。
 冬十月甲申、陳留王世子の恢を陳留王に立てた。
 十一月、姚襄の故将の張駿が江州督護の趙毗を殺し、武昌に火を放ち、官府の所蔵物を略奪してそむいた。江州刺史の桓沖が討伐してこれを斬った。
 この年、慕容暐の将の慕容塵が陳留太守の袁披を長平で攻めた。汝南太守の朱斌はその虚を突いて許昌を襲撃し、これを落とした。

 二年春二月庚寅、江陵で地震があった。慕容暐の将の慕容評が許昌を襲撃し、潁川太守の李福が戦死した。慕容評はそのまま汝南に侵攻し、汝南太守の朱斌は寿陽へ敗走した。さらに進んで陳郡を攻囲したが、陳郡太守の朱輔は籠城して固く守った。桓温は江夏相の劉岵を派遣して慕容評を撃退させた。左軍将軍を遊撃将軍に改称し、右軍将軍、前軍将軍、後軍将軍、五校尉、三将(虎賁中郎将、宂従僕射、羽林中郎将)を廃した。癸卯、哀帝はみずから藉田を耕した。
 二月庚戌朔、戸人(戸籍に登録された民)をおおいに検閲し、法の規制を厳格にした。これを庚戌制と呼んだ(庚戌土断とも呼ばれる)。辛未、哀帝が健康を害した。哀帝は平素から黄老を好んでおり、穀物を絶ち、長生薬を口にしていたが、過分に摂りすぎたため、とうとう中毒におちいり、万機を判別できなくなったのである。崇徳太后(康帝皇后の褚氏)がふたたび臨朝して政務を代行した。
 夏四月甲申、慕容暐が将の李洪を派遣して許昌に侵攻させた。王師は懸瓠で敗北し、朱斌は淮南へ敗走し、朱輔は退却して彭城を守った。桓温は西中郎将の袁真、江夏相の劉岵らを派遣し、楊儀道を掘削させて漕運を通じさせた。桓温は水軍を率いて合肥に駐屯した。慕容塵がふたたび許昌に駐屯した。
 五月、陳の民を安陸6原文は「于陸」だが、中華書局の校勘記の説に従い、「于安陸」として読むことにする。に移して避難させた。戊辰、揚州刺史の王述を尚書令、衛将軍とし、桓温を揚州牧、録尚書事とした。壬申、使者を派遣し、桓温に京師に入って補佐をするように説いたが、桓温は従わなかった。
 秋七月丁卯、ふたたび桓温を〔中央に〕召し、入朝させようとした。
 八月、桓温は赭圻に着くと、そのままその地に築城して留まった。苻堅の別軍が河南に侵攻した。慕容暐が洛陽を侵略した。
 九月、冠軍将軍の陳祐は長史の沈勁を留めて洛陽を守らせ、〔みずからは〕軍を率いて新城へ逃げた。

 三年春正月庚申、皇后の王氏が崩じた。
 二月乙未、右将軍の桓豁を監荊州・揚州之義城・雍州之京兆諸軍事、領南蛮校尉、荊州刺史とし、桓沖を監江州・荊州之江夏随郡・豫州之汝南西陽新蔡潁川六郡諸軍事、南中郎将、江州刺史、領南蛮校尉とし、どちらも仮節とした。
 丙申、哀帝が〔太極殿の〕西堂で崩じた。享年二十五。安平陵に埋葬した。

穆帝哀帝海西公

(2020/2/27:公開)

  • 1
    原文「義望情地」。「義望」と「情地」に分解できると思うが、どちらも用例がほとんどなく、よくわからない。「情地」については、『漢語大詞典』に「親族地位」とあるものの、納得がいかない。試みに四字バラバラで分解してみた。
  • 2
    『漢語大詞典』によれば、(1)世を超絶している(メチャクチャすごい)、(2)世を超越している(隠逸志向)の二つの意味がある。本文のように「高世之風」とある場合は後者の意で取るのが適当のように思えるが、文脈的に後者で取るのは不自然でもある。よくわからない。ここではとりあえず、成帝の治世=教化のことを尊んで「高世」と表現しているものと解した。
  • 3
    原文「感惟永慕、悲痛兼摧」。わからない。「永募」の用例をみると、故人への思いがやまない意で使用されているようだし、文脈的にも成帝を思い出して悲しいということだろう。
  • 4
    涼州の誤り。中華書局の校勘記を参照。
  • 5
    原文「咸従損要」。わからない。
  • 6
    原文は「于陸」だが、中華書局の校勘記の説に従い、「于安陸」として読むことにする。
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