巻五 帝紀第五 孝懐帝

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懐帝愍帝

 孝懐皇帝は諱を熾、字を豊度といい、武帝の第二十五子である。太熙元年、豫章郡王に封じられた。恵帝の治世中、宗室は戦乱を引き起こしていたが、懐帝は純朴かつ淡白で、節操を堅持し、賓客や遊士の訪問を断り、世間とは交わらず、もっぱら史書にふけったので、世の評判を得た。最初は散騎常侍に任じられたが、趙王倫が帝位を奪うと、捕えられた。趙王が敗れると、射声校尉となった。昇進をかさねて車騎大将軍、都督青州諸軍事に移ったが、鎮にはまだ出発せずにいた。
 永興元年、改めて鎮北大将軍、都督鄴城守諸軍事に任じられた。十二月丁亥、皇太弟に立てられた。懐帝は、清河王覃がもともと皇太子であったのを理由に、慎重になり、あえてつこうとしなかった。典書令(王国の官)の廬陵の脩粛が言った、「二人の宰相(河間王と東海王)が王室を治め、社稷の安定を志向しています。後継者は重大事ですから、世論に従わねばなりませんし、宗室で賢良な御方を挙げるとすれば、大王のほかに誰がおられましょうか。清河王は幼弱で、まだ人心にかなっていません。そのため、すでに東宮に登っていましたが、ふたたび藩屏の席次に案内されたのです1原文「復賛藩国」。「賛」がよくわからない。とりあえず「賛拝」「賛謁」のようなニュアンスで取った。一度は皇太子になったのに廃されて清河王に戻されたことを言っているのだと思う。。現在、天子(恵帝)は放浪され、二宮(皇后と東宮)は久しく不在ですから、〔臣が〕つねに心配しておりますのは、氐や羌が涇川で馬に水を飲ませ、蟻集した者どもが覇水で弓を引くことです。吉日となりましたら、時宜に応じて後継ぎの位にお登りになり、上は天子を助け、早急に東京(洛陽)を安定させ、下は民衆のかねてからの期待にかなうようになさるべきです」。懐帝は、「卿はわが宋昌2漢の文帝に即位の説得をした人物。だな」と言った。こうしてこの進言に従った。
 光熙元年十一月庚午、恵帝が崩じた。羊皇后は、〔自身が〕懐帝の嫂(あによめ)にあたり、太后になれないことから、清河王覃に〔宮中に〕入るよう催促し〔、清河王を帝位につけようとし〕た。〔清河王が〕すでに尚書省の門に着いたところで、侍中の華混らは急いで懐帝を呼んだ。癸酉、皇帝の位につき、大赦し、皇后の羊氏を恵皇后と尊び、弘訓宮に住まわせ、生母である太妃の王氏を皇太后と追尊し、妃の梁氏を皇后に立てた3懐帝の母である王皇太后は『晋書』に立伝されているが、梁皇后は列伝がない。ただし『太平御覧』巻一三八、梁皇后に引く「臧氏晋書」に簡単なプロフィールが伝えられている。「梁皇后、諱蘭壁、安定人也。祖鴻季、儀同三司、父芬、司徒。后初為豫章王妃、懐帝即位、為皇后。永嘉中、没胡賊」とある。父の梁芬はのちに閻鼎らとともに愍帝を太子に推戴した人物と同一であろうか。(2021/11/10:注追加)
 十二月壬午朔、日蝕があった。己亥、彭城王植の子の融を楽城県王に封じた。南陽王模が河間王顒を雍谷で殺した。辛丑、中書監の温羨を司徒とし、尚書左僕射の王衍を司空とした。己酉、恵帝を太陽陵に埋葬した。李雄の別帥の李離が梁州を侵略した。

 永嘉元年春正月癸丑朔、大赦し、改元し、三族刑を廃止した。太傅の東海王越を輔政とした。〔東海王が〕御史中丞の諸葛玫を殺した。
 二月辛未、東莱の王弥が挙兵してそむき、青州と徐州を侵略し、長広太守の宋羆と東牟太守の龐伉が殺された。
 三月己未朔、平東将軍の周馥が陳敏の首を斬って送ってきた。丁卯、武悼楊皇后を改葬した4武帝の皇后。賈后によって庶人に廃され、殺された。恵帝紀によると、元康元年三月に廃され、同二年二月に殺された。后妃伝上・武悼楊皇后伝は、東晋の咸康七年に武悼皇后の祭祀上の待遇をめぐって詳議が開かれたことを伝えているが、そこに引かれている虞潭の議に懐帝の改葬について触れられている。あまり厳密に読めてはいないが、それによると、武悼皇后は懐帝にとって生母ではないが、帝統を継いだ以上は継母に当たる人物でもあり、母子の道をまっとうするために、位を回復し、諡号をおくり、武帝陵に改葬したとのことである。。庚午、豫章王詮を皇太子に立てた5武十三王伝・清河康王遐伝附銓伝は名を「銓」とし、永嘉二年に皇太子に立てられたと記している。同伝附覃伝には、「永嘉初、前北軍中候任城呂雍、度支校尉陳顔等謀立覃為太子、事覚、幽於金墉城。未幾、被害、時年十四、葬以庶人礼」とあり、懐帝紀では永嘉元年十二月に幽閉が、同二年二月に殺害が記録されている。『晋書斠注』が引く『読史挙正』は、詮の立太子のあとに覃擁立の謀略が立てられるのは考えにくく、この謀略が鎮圧されたあとで詮は太子に定まったのだろうと推測している。すなわち、謀略発覚→覃が幽閉&覃が殺害→詮が皇太子に立つ、という時系列であろう、と。。辛未、大赦した。庚辰、東海王越が許昌に出鎮した。征東将軍の高密王簡を征南大将軍、都督荊州諸軍事とし、襄陽に出鎮させた。安北将軍の東燕王騰を新蔡王に改め、都督司・冀二州諸軍事とし、鄴に出鎮させた。征南将軍の南陽王模を征西大将軍、都督秦・雍・梁・益四州諸軍事とし、長安に出鎮させた。并州の諸郡が劉元海に落とされ、并州刺史の劉琨は晋陽を保つのみであった。
 夏五月、馬牧の帥の汲桑が群衆を集めてそむき、魏郡太守の馮嵩を破ると、とうとう鄴城を落とし、新蔡王騰を殺した。〔汲桑は〕鄴の宮殿を焼き、その火は旬日(十日)経っても消えなかった。また、まえの幽州刺史の石尟を楽陵で殺し6この人物は墓誌が残っており、趙超『漢魏南北朝墓誌彙編』(天津古籍出版社、二〇〇八年)に収録されている(一五―一六頁)。誌文によると、石鑑の第二子であるが、石鑑伝には記録がない。また誌文には永嘉元年九月に戦死したと記されており、帝紀と月が異なっている。、平原に侵入して掠奪し、山陽公の劉秋が殺された。洛陽の歩広里で地面が陥没し、二匹のガチョウが出てきた。色が蒼いほうは空に飛んでいったが、白いほうは飛べなかった7この二匹が何を象徴するかについて、隠逸伝・董養伝に「養聞嘆曰、『昔周時所盟会狄泉、即此地也。今有二鵞、蒼者胡象、白者国家之象、其可尽言乎』」とある。白が「国家之象」というのは、晋が金徳にあたることを言うのであろうか。なお、この董養の言葉については王隠『晋書』の佚文にも見えている(『世説新語』賞誉篇の劉孝標注引、『北堂書鈔』巻七九、孝廉「董養嘆鵞」引)。。建寧郡の夷が寧州を攻め落とし、三千余人の死者を出した。
 秋七月己酉朔、東海王越が進んで官渡に駐屯し、そうして汲桑を討伐しようとした。己未、平東将軍の琅邪王睿を安東将軍、都督揚州・江南諸軍事、仮節とし、建鄴に出鎮させた。
 八月己卯朔、撫軍将軍の苟晞が汲桑を鄴で破った。甲辰、幽州、并州、司州、冀州、兗州、豫州を曲赦した。荊州と江州の八郡を分割して湘州を置いた。
 九月戊申、苟晞がふたたび汲桑を破り、九つの軍塁を落とした。辛亥、太陽のように大きい星が現れ、〔その周囲に現れた?〕小さい星はマスのように小さく8原文「小者如斗」。あまりピンとこないのだが、「ひじょうに小さいこと」を表現するときにこういう比喩を使用するようである。隕石とその細かい火球のようなものではないかと想像しているが、どうであろうか。、西方から東北へ流れ、天が真っ赤になり、突然、雷のような音が鳴った。許昌で千金堨の修築を開始し、〔許昌に〕漕運を通じさせた9原文「始修千金堨於許昌以通運」。原文に従って訳出したが、「於許昌」はよくわからない。千金堨といえば、一般的には洛陽城より西に位置するそれを指すのであり、許昌とは離れているからである。したがって、「於許昌」は衍字のように一見思われる。実際、李矩伝に「永嘉のはじめ、李矩と汝南太守の袁孚に人々を率いさせ、洛陽の千金堨を修復させ、そうして漕運を便利にさせた(永嘉初、使矩与汝南太守袁孚率衆洛陽千金堨、以利運漕)」とあり、こちらでは「洛陽」と明言されている。しかし、李矩はこの当時、滎陽郡の新鄭県にいたと思われ、東海王から汝陰太守に任じられていた。つまりこの補修事業に動員されたのは汝陰と汝南の太守であることになる。両郡の所在からいえば洛陽での事業とは考えにくく、かえって許昌でのそれであることに違和感はない。この件にかんしては『十七史商榷』、『廿二史考異』、周家禄『晋書校勘記』でもとくに言われていない。ひとまず原文のとおりに訳出することにした。
 冬十一月戊申朔、日蝕があった。甲寅、尚書右僕射の和郁を征北将軍とし、鄴に出鎮させた。
 十二月戊寅、并州の田蘭、薄盛らが楽陵で汲桑を斬った。甲午、まえの太傅の劉寔を太尉とした。庚子、光禄大夫、延陵公の高光を尚書令とした。東海王越が矯詔を下し、清河王覃を金墉城に幽閉した。癸卯、東海王越はみずから丞相となった。撫軍将軍の苟晞を征東大将軍とした。

 永嘉二年春正月丙午朔、日蝕があった。丁未、大赦した。
 二月辛卯、清河王覃が東海王越に殺された。庚子、石勒が常山を侵略したが、安北将軍の王浚がこれを討伐し、破った。
 三月、東海王越が鄄城に出鎮した。劉元海が汲郡に侵攻し、頓丘、河内の地を奪い取った。王弥が青州、徐州、兗州、豫州を侵略した。
 夏四月丁亥、〔王弥が〕許昌に入ると、諸郡の守将はみな逃亡した。
 五月甲子、王弥がとうとう洛陽を侵略した。司徒の王衍が軍を率いて防ぐと、王弥は敗走した。
 秋七月甲辰、劉元海が平陽を侵略した。平陽太守の宋抽は京師へ敗走し、河東太守の路述は力戦したが、戦死した。
 八月丁亥、東海王越が鄄城から移動し、濮陽に駐屯した。
 九月、石勒が趙郡を侵略すると、征北将軍の和郁は鄴から衛国へ逃げた。
 冬十月甲戌、劉元海が平陽で帝号を僭称し、漢を称した。
 十一月乙巳、尚書令の高光が卒した。丁卯、太子少傅の荀藩を尚書令とした。己酉、石勒が鄴を侵略すると、魏郡太守の王粋は敗北し、戦死した。
 十二月辛未朔、大赦した。長沙王乂の子の碩を長沙王に立て、尟を臨淮王に立てた。

 永嘉三年春正月甲午、彭城王釈が薨じた。
 三月戊申、征南大将軍の高密王簡が薨じた。尚書左僕射の山簡を征南将軍、都督荊・湘・交・広等四州諸軍事とし、司隷校尉の劉暾を尚書左僕射とした。丁巳、東海王越が京師に帰還した。乙丑、〔東海王は〕兵を率いて宮中に入り、近臣の中書令の繆播、懐帝の舅の王延ら十余人を懐帝のすぐそばで捕え、すべて殺した。丙寅、河南郡を曲赦した。丁卯、太尉の劉寔が隠退を申し出たので、司徒の王衍を太尉とした。東海王越を領司徒とした。劉元海が黎陽を侵略したので、車騎将軍の王堪を派遣して討伐させたが、王師は延津で敗北し、三万余人の死者を出した。甚大な旱魃があり、長江、漢水、黄河、洛水はすべて水が枯れ、歩いて渡ることができた。
 夏四月、左積弩将軍の朱誕がそむき、劉元海のもとへ逃げた。石勒が冀州の郡県の百余の塢壁を攻め落とした。
 秋七月戊辰、当陽で三か所に地割れがあり、それぞれ幅は三丈、長さは三百余歩であった。辛未、平陽の劉芒蕩が漢の後裔を自称し、羌戎をたぶらかし、馬蘭山で帝号を僭称した。支胡の五斗叟、郝索が群衆数千を集めて反乱を起こし、新豊に留まり、劉芒蕩と勢力を合わせた。劉元海が子の劉聡と王弥を派遣して上党を侵略させ、壺関を包囲させた。并州刺史の劉琨は軍に救援させたが、劉聡に敗れた。淮南内史の王曠、将軍の施融、曹超と劉聡が戦ったが、ふたたび敗北し、曹超と施融は戦死した。上党太守の龐淳は郡をもって賊に降った。
 九月丙寅、劉聡が浚儀を包囲したので、平北将軍の曹武を派遣して討伐させたが、丁丑、王師は敗北した。東海王越は京城に入り、城を守った。劉聡が西明門に到達すると、東海王はこれを防ぎ、宣陽門の外で戦い、劉聡をおおいに破った。石勒が常山を侵略したので、安北将軍の王浚は鮮卑騎に救援させ、飛龍山で石勒をおおいに破った。征西大将軍の南陽王模が将の淳于定に劉芒蕩と五斗叟を撃破させ、ともに斬らせた。〔朝廷は〕車騎将軍の王堪、平北将軍の曹武に劉聡を討伐させたが、王師は敗北し、王堪は敗走して京師に帰還した。李雄の別帥の羅羨が梓潼をもって〔晋に〕帰順した。劉聡が洛陽の西明門を攻めたが、落とせなかった。宜都の夷道で山が崩落した。荊州と湘州で地震があった。
 冬十一月、石勒が長楽を落とし、安北将軍の王斌が殺された。〔石勒は〕勢いに乗じて黎陽を破壊し、殺戮した。乞活の帥の李惲、薄盛らが仲間を率いて京師を救援したので、劉聡は敗走した。李惲らはさらに、王弥を新汲で破った。
 十二月乙亥、夜に帯のような白い気が現れ、地面から天にのぼり、南北それぞれ二丈であった。

 永嘉四年春正月乙丑朔、大赦した。
 二月、石勒が鄄城を襲撃し、兗州刺史の袁孚が戦ったが敗れ、部下に殺された。石勒はさらに白馬を襲撃し、車騎将軍の王堪が戦死した10『北堂書鈔』巻六四、車騎将軍「王堪不能禦難」引「晋諸公賛」に「王堪、字世冑。行車騎將軍、征討諸軍事。為石勒所襲、左右将勧堪上馬、歎曰、『我国家大将、不能禦難、何面目復還朝廷』。終不動、遂至被害。官僚百人、守屍不去、皆死。孝懐悼之」とある。。李雄の将の文碩が李雄の大将軍の李国を殺し、巴西をもって〔晋に〕帰順した。戊午、呉興の銭璯がそむき、平西将軍を自称した。
 三月、丞相倉曹属の周玘が郷人を率いて銭璯を討伐し、これを斬った。
 夏四月、〔江東で〕洪水があった。将軍の祁弘が劉元海の将の劉霊曜を広宗で破った。李雄が梓潼を落とした。兗州で地震があった。
 五月、石勒が汲郡を侵略し、汲郡太守の胡寵を捕えた。そのまま南進して黄河を渡ると、榮陽太守の裴純は建鄴へ逃げた。強風があり、木を折った。地震があった。幽州、并州、司州、冀州、秦州、雍州で蝗が大発生し、草木や牛馬の毛がすべてなくなった。
 六月、劉元海が死に、子の劉和が偽位を継いだが、劉和の弟の劉聡が劉和を弑してみずからが〔位に〕立った。
 秋七月、劉聡の従弟の劉曜と、劉聡の将の石勒が懐を包囲した。詔を下し、征虜将軍の宋抽に救援させたが、劉曜に敗れ、宋抽は戦死した。
 九月、河内の楽仰が河内太守の裴整を捕えてそむき、石勒に降った。徐州監軍の王隆が下邳から軍を棄てて周馥(寿春)のもとへ逃げた。雍州の王如が挙兵して宛でそむき、県の令長を殺し、大将軍、司・雍二州牧を自称し、沔漢の地(荊州北部)をおおいに掠奪した。新平の龐寔、馮翊の厳嶷、京兆の侯脱らがそれぞれ挙兵して王如に呼応した。征南将軍の山簡、荊州刺史の王澄、南中郎将の杜蕤らはそろって軍を派遣して京師を救援しようとして、王如と宛で戦ったが、諸軍はみな大敗した。ただ王澄だけが軍を沶口にまで進めたが、〔襄陽陥落の偽報によって〕軍が潰走したので帰還した。
 冬十月辛卯、昼間でも暗い日が庚子までつづいた。大きな星が西南に落ち、音がした。壬寅、石勒が倉垣を包囲したが、陳留内史の王讃がこれを破ると、石勒は河北に敗走した。壬子、驃騎将軍の王浚を司空とし、平北将軍の劉琨を平北大将軍とした。京師で飢饉があった。東海王越が羽檄11非常時・緊急時に兵を集めるための触れ文。木の札に書き、これに鳥の羽をつけて緊急の意を示した。(『漢辞海』)を飛ばして天下の兵を徴発した。懐帝はその使者に言った、「私のために征鎮ら12原文「征鎮」。字面上は四征四鎮将軍を指すが、『晋書』では地方の軍鎮を指す場合が多い。に告げてくれ。『今日のような事態は、まだ救済に間に合うが、遅れてしまえば取り返しはつかないのだ』と」。このとき、集まった者はいなかった。石勒が襄城を落とし、襄城太守の崔曠が殺された。〔石勒は〕そのまま〔進んで〕宛に至った。王浚が鮮卑の文鴦に騎兵を統率させて救援させたので、石勒は撤退した。さらに王浚は、別将の王申始を派遣し、石勒を汶石津で討伐させ、これをおおいに破った。
 十一月甲戌、東海王越が軍を率いて許昌に向かい、行台13留台とは違い、都の外に便宜的に設けられた尚書台のこと。を立てて自身に随行させた。〔これによって〕宮殿や官府(2021/10/17:修正)からはまたも守衛の兵がいなくなり、飢饉が日に日にひどくなり、殿中でも死体が乱雑に重なりあい、中央官府の庁舎はすべて塹壕を掘って自衛し、盗賊が公然とはびこり、枹鼓14ばちと太鼓。戦闘や盗賊逮捕に打ち鳴らした。(『漢辞海』)の音が絶えなかった。東海王越の軍が項に駐屯し、みずから領豫州牧となり、太尉の王衍を軍司とした。丁丑、流氐の隗伯らが宜都を襲撃すると、宜都太守の嵆晞は建鄴へ逃げた。王申始が劉曜と王弥を瓶塁で攻め、これらを破った。鎮東将軍の周馥が上表し、懐帝を迎えて寿陽に遷都しようと提案したので、東海王越は裴碩に周馥を討伐させたが、周馥に敗れ、敗走して東城にこもり、琅邪王睿に救援を求めた。襄陽で疫病が大流行し、三千余人の死者を出した。涼州刺史の張軌に安西将軍を加えた。
 十二月、征東大将軍の苟晞が王弥の別帥の曹嶷を攻め、これを破った。乙酉、平陽の李洪が流人を率いて定陵に侵入し、乱を起こした。

 永嘉五年春正月、懐帝は苟晞に密詔を下し、東海王越を討伐させた。壬申、苟晞が曹嶷に敗れた。乙未、東海王越が従事中郎将の楊瑁、徐州刺史の裴盾を派遣し、共同で苟晞を攻めさせた。癸酉、石勒が江夏に侵入すると、江夏太守の楊珉は武昌へ逃げた。乙亥、李雄が涪城を攻め落とし、梓潼太守の譙登が殺された。湘州の流人の杜弢が長沙を占拠してそむいた。戊寅、安東将軍の琅邪王睿が将軍の甘卓に鎮東将軍の周馥を寿春で攻めさせ、周馥の軍は潰走した。庚辰、太保の平原王幹が薨じた。
 二月、石勒が汝南を侵略すると、汝南王祐は建鄴へ逃げた。
 三月戊午、詔を下し、東海王越の罪状を宣布し、地方の軍鎮に東海王を討つように命じた。征東大将軍の苟晞を大将軍とした。丙子、東海王越が薨じた。
 四月戊子、石勒が東海王越の遺体を追いかけ、東郡で追いついた。将軍の銭端が戦死し、軍は潰走し、太尉の王衍、吏部尚書の劉望、廷尉の諸葛銓、尚書の鄭豫、武陵王澹らがみな殺され、王公以下、十余万人の死者を出した。東海国世子の毗と宗室の四十八王もまもなく石勒に没した15原文「没于石勒」。「没于」は定型表現で、しいて訳せば「〔五胡〕に落ちた」といったところだが、こなれた感じがしないのでそのまま「没した」と訳出することにする。死没の意味ではなく、五胡のうちで生き延びた者にも「没于」は用いられる。五胡の手中に陥ったことは確実だが、その後の状況や生死すらも不明な場合によく使用される。石勒載記上によれば東海世子毗は死没しているが、江南には確実な情報が伝わっていなかったフシがある。というのも、元四王伝・東海哀王沖伝によれば、元帝はのちに自分の子を毗の後継者に立てて東海世子につかせ、さらにその後、元帝のもとへ逃れて生き延びていた越の妃の裴氏が亡くなると、元帝は「因発毗喪」という。生死不明の毗をめぐって、元帝らはとうにその生還を絶望視していたが、王妃だけは最期まで生還を信じていたのであろう。元帝が王妃の死後に毗の死亡を発表したのは、王妃の心情に配慮したためだと思われる。。賊の王桑と冷道が徐州を落とし、徐州刺史の裴盾が殺された。王桑はそのまま淮水を渡り、歴陽に至った。
 五月、益州の流人の汝班、梁州の流人の蹇撫が湘州で乱を起こし、湘州刺史の苟眺を捕え、南は零陵、桂陽の諸郡を落とし、東は武昌で掠奪をはたらき、安城太守の郭察、邵陵太守の鄭融、衡陽内史の滕育がみな殺された。司空の王浚を大司馬に進め、征西大将軍の南陽王模を太尉に進め、太子太傅の傅祗を司徒に進め、尚書令の荀藩を司空に進め、安東将軍の琅邪王睿を鎮東大将軍に進めた。
 東海王越が出撃したとき、河南尹の潘滔に〔京師の〕留守をさせた。大将軍の苟晞は倉垣への遷都を上表し、懐帝はこれを聴き入れたが、大臣らは潘滔を恐れたので、詔を奉じて従おうとせず、また宮中や黄門の者たちは財産に未練があったので、洛陽から出たがらなかった。このときになって、飢饉はひどく、人が食いあい、百官で逃亡する者は十人のうち八、九人にのぼった。懐帝は群臣を召集して会議を開いたが、〔会議の場に〕行こうとしたところ、その警護が十分にそろわなかった。懐帝は手をさすりながら嘆息した、「どうしたらよいものか。かねてから車がないというのに」。そこで司徒の傅祗を河陰に向かわせ、船を修繕させ、水上移動の準備をさせた。朝士数十人が〔懐帝に〕随行した。懐帝は徒歩で西掖門に向かい、銅馳街に着いたが、盗賊の略奪に遭い、進むことができなかったので戻った。
 六月癸未、劉曜、王弥、石勒が一斉に洛川を侵略した。王師はしきりに賊に敗れ、大量の死者を出した。庚寅、司空の荀藩、光禄大夫の荀組が轘轅へ逃げ、太子左率(左衛率?)の温畿が夜中に広莫門を開いて小平津へ逃げた。丁酉、劉曜と王弥が京師に侵入した。懐帝は華林園の門を開き、河陰の藕池へ向かい、〔そこから〕長安へ行幸しようとしたが、劉曜らに追いつかれ〔、捕えられ〕た。劉曜らはとうとう、宮殿や宗廟を焼き、皇后を凌辱し、呉王晏、竟陵王楙、尚書左僕射の和郁、尚書右僕射の曹馥、尚書の閭丘沖、袁粲、王緄、河南尹の劉黙らはみな殺され、百官や士庶の死者は三万余人にのぼった。懐帝は〔連行されて〕平陽でほこりをかぶり、劉聡は懐帝を会稽公とした。荀藩は州や軍鎮に檄文を飛ばし、琅邪王睿を盟主とした。豫章王端は東に向かい、苟晞のもとへ逃げた。苟晞は〔豫章王を〕皇太子に立て、みずから領尚書令となり16苟晞伝には「置行台」とある。行台を立て、みずからがそのトップ(尚書令)についたのだろう。、官属をととのえ、梁国の蒙県を保有した。百姓は飢えて貧窮し、米は一斛で一万余の値がついた。
 秋七月、大司馬の王浚が承制し、皇太子を一時的に立て、百官を置き、征鎮を任命した。石勒が穀陽を侵略し、沛王滋が戦ったが、敗れて殺された。
 八月、劉聡は子の劉粲に長安を攻め落とさせ、太尉、征西将軍の南陽王模は殺され、長安に残っていた四千余の家は漢中へ逃げた。
 九月癸亥、石勒が陽夏を襲撃し、〔さらに〕蒙県にまで至り、大将軍の苟晞と豫章王端がともに賊に没した。
 冬十月、石勒は豫州の諸郡を侵略し、長江に到達すると戻った。
 十一月、猗盧が太原を侵略した。平北将軍の劉琨は猗盧を抑えて従わせることができず、〔太原の〕五県の百姓を新興郡に移し、その地に住まわせた。

 永嘉六年春正月、懐帝は平陽にいた。劉聡が太原を侵略した。もとの鎮南将軍(新野王?)府の牙門将の胡亢が群衆を集めて荊州を侵略し、楚公を自称した。
 二月壬子、日蝕があった。癸丑、鎮東大将軍の琅邪王睿が尚書(荀藩の尚書台)に文書を上呈し17原文「上尚書」。「尚書」は尚書台のことであろう。具体的には荀藩の行台のことと考えられる。荀勖伝附藩伝に「永嘉の末年、司空に移ったが、拝命する前に洛陽が陥落したため、荀藩は密へ出奔した。王浚が承制すると、荀藩を留台の太尉に奉じた(永嘉末、転司空、未拝而洛陽陥没、藩出奔密。王浚承制、奉藩為留台太尉)」とあり、「留台」とあるものの、洛陽の外にあるのだから本来は行台であろう。王浚の承制と太尉任命は、懐帝紀においては琅邪王の「上尚書」の直後に、つまりこれにつづいてかけられており、「上尚書」のあとにようやく荀藩が行台を立てたかのごとくである。ただし、荀藩は以前にも洛陽留台をつとめたことがあったし、この前年にも檄文を飛ばして琅邪王を盟主にかついでいるのだから、王浚の任命以前にすでに行台を称していたのではないだろうか。『魏書』巻九六、僭晋司馬叡伝には「晋司空荀蕃・司隷校尉荀組推叡為盟主。於是輒改易郡県、仮置名号」ともある。くわえて、自身を盟主にかついだ荀藩以外に琅邪王が文書を奉じる先が考えられるだろうか。そこで、さしあたり本訳では「荀藩の尚書台」を指すと解釈する。、四方に檄文を飛ばして石勒を討伐すると述べた。大司馬の王浚が檄文を天下に飛ばし、〔自分は〕中詔を受けて承制したと称し、荀藩を太尉とした。汝陽王熙が石勒に殺された。
 夏四月丙寅、征南将軍の山簡が卒した。
 秋七月、歳星、熒惑、太白が牛斗に集まった。石勒が冀州を侵略した。劉粲が晋陽を侵略すると、平北将軍の劉琨は部将の郝詵を派遣し、軍を統率させて劉粲を防がせたが、郝詵は敗北し、戦死した。太原太守の高喬は晋陽をもって劉粲に降った。
 八月庚戌、劉琨が常山へ逃げた。己亥、陰平都尉の董沖が太守の王鑑を追い出し、郡をもってそむき、李雄に降った。辛亥、劉琨は援軍を猗盧に要請し、猗盧を代公とするように上表した。
 九月己卯、猗盧が子の利孫を劉琨のもとに行かせたが、進むことができなかった。辛巳、まえの雍州刺史の賈疋が劉粲を三輔で討伐し、これを敗走させ、関中がわずかに定まった。そこで〔賈疋は〕衛将軍の梁芬、京兆太守の梁綜とともに、長安で秦王鄴を奉じ、皇太子とした。
 冬十月、猗盧がみずから六万騎を率いて盂城に駐屯した。
 十一月甲午、劉粲が遁走し、劉琨は残党を集め、陽曲を保持した。
 この年、疫病が大流行した。

 永嘉七年春正月、劉聡は大会を開き、懐帝に青衣18青・黒の着物。漢代以降は身分の低い者が着た。(『漢辞海』)そういう辞書どおりの意味で着させたのかはわからないが。を着させ、酒をつがせて回らせた。侍中の庾珉が声をあげて泣き、劉聡はそれを不快に思った。
 丁未、懐帝は弑され、平陽で崩じた。享年三十。
 懐帝が生まれたとき、嘉禾が豫章の南昌で生えたことがあった。これより以前、気を観測する者が「豫章には天子の気がある」と話していた。その後、ついに豫章王を皇太弟としたのであった。〔懐帝は〕東宮にいたとき、慎み深く控えめで、朝士を招いては、書物のことで議論した。即位すると、最初に旧制を遵守することに着手し、太極殿に臨んで尚書郎に時令を読ませ19時令は立春・立夏・大暑・立秋・立冬の日におこなわれる儀礼。『宋書』巻一五、礼志二に「太史毎歳上其年暦。先立春立夏大暑立秋立冬、常読五時令。皇帝所服、各随五時之色。帝升御坐、尚書令以下就席位、尚書三公郎以令著録案上、奉以入、就席伏読、訖、賜酒一巵」とある。また同志には、東晋の咸和五年、尚書による読秋令の奏に対し、門下の官が駁議したことを記しているが、その駁議のなかに「武皇帝以秋夏盛暑、常闕不読令、在春冬不廃也」とある。つまり、武帝は立夏・大暑・立秋の時令を廃止したようである。以上をふまえると、ここで懐帝が「旧制」に「遵」じて時令を読ませたと言っているのは、二つのケースが考えられる。ひとつは恵帝時代の混乱で中断していた時令を武帝時代の儀注で再開したこと。もうひとつは武帝以前の慣例に従って、すべての時令を読ませたこと。ここでは前者の意で取るのが適当かもしれない。、また太極殿の東堂で政務をとった政事の意見を聴いて審理した20原文「於東堂聴政」。「聴政」は辞書的には「朝廷で政務を処理すること。政務執行(坐朝処理政務、執政)」(『漢語大詞典』)の意だが、ここでは文字どおりの意味、すなわち「聴」を「意見を聴いて審理する」で取った。ようするに、ここの「聴政」は「会議を開いた」という意味だと考えられ、以下で説明するように小朝会の開催を指していると考えられる。(2022/5/26:この条追加)
 太極殿の東堂については、『宋書』巻三二、五行志三に「按太極、東堂、皆朝享聴政之所」とあり、『芸文類聚』巻三九、朝会に引く「摯虞決疑要注」に「晋制、大会於太極殿、小会於東堂」とあり、皇帝が政務を執る空間で、小朝会が開かれる場であった。[渡辺一九九六]六四―七一頁を参照。
 また山濤伝附簡伝に、山簡が懐帝に選挙を重んじるよう求めた上疏が掲載されているが、そのなかに「世祖武皇帝応天順人、受禅于魏、泰始之初、躬親万機、佐命之臣、咸皆率職。時黄門侍郎王恂、庾純始於太極東堂聴政、評尚書奏事、多論刑獄、不論選挙。……陛下初臨万国、人思尽誠、毎於聴政之日、命公卿大臣先議選挙、各言所見……、皆以名奏」とみえる。ここから、ややうがった読みになりそうだが、二つの点が確認できる。(1)東堂での聴政は皇帝の業務であったのに、武帝時代のどこかの段階で門下が代行するようになったこと。(2)東堂での聴政は特定の日におこなわれていた可能性があること(「毎於聴政之日」)。
 (2)に関連して、渡辺氏[一九九六]は、成帝紀、咸康六年七月の条の「初依中興故事、朔望聴政于東堂」の「中興」を「中朝」の誤りと論じている(七四頁)。かりにこの見解が妥当であれば、朔日(一日)と望日(一五日)に東堂で聴政するのが西晋の慣例であったということになろう(訳者としては、「中興」で「元帝時代」に読めなくもないように思うので、字を改めてしまってよいのかためらいも覚える)。
 以上をふまえ、推測を重ねるかたちになるが、ここで懐帝の東堂での聴政が「旧制」に「遵」じたとされているのは、(おそらく恵帝時代に中断した)朔日と望日の東堂聴政を復活し、かつ東堂朝政に皇帝みずから臨んだこと、これらを指して言っているのではないだろうか。
。宴会のときは、いつも群官ともろもろの政務について議論し、古籍について検討しあった。黄門侍郎の傅宣は嘆息して、「こんにち、ふたたび武帝の御世を見ることになろうとは」と言った。秘書監の荀崧も、〔当時を回顧すると〕つねづね、このように話していた、「懐帝のお姿はさわやかでうるわしく、若くしてすぐれたご計画を発揮されていました。もし太平の世でしたら、守文21『漢書』巻九七上、外戚伝上の顔師古注「守文、言遵成法、不用武功也」。の名君になられていたでしょう。しかしながら〔現実は〕、恵帝の混乱した御世のあとをお継ぎになり、東海王が専政されていました。周の幽王や厲王のような欠点はありませんでしたが、〔それらの王と同じような〕流浪の憂き目に遭われてしまわれたのです」。

懐帝愍帝

(2020/2/22:公開)
(2021/9/18:改訂)

  • 1
    原文「復賛藩国」。「賛」がよくわからない。とりあえず「賛拝」「賛謁」のようなニュアンスで取った。一度は皇太子になったのに廃されて清河王に戻されたことを言っているのだと思う。
  • 2
    漢の文帝に即位の説得をした人物。
  • 3
    懐帝の母である王皇太后は『晋書』に立伝されているが、梁皇后は列伝がない。ただし『太平御覧』巻一三八、梁皇后に引く「臧氏晋書」に簡単なプロフィールが伝えられている。「梁皇后、諱蘭壁、安定人也。祖鴻季、儀同三司、父芬、司徒。后初為豫章王妃、懐帝即位、為皇后。永嘉中、没胡賊」とある。父の梁芬はのちに閻鼎らとともに愍帝を太子に推戴した人物と同一であろうか。(2021/11/10:注追加)
  • 4
    武帝の皇后。賈后によって庶人に廃され、殺された。恵帝紀によると、元康元年三月に廃され、同二年二月に殺された。后妃伝上・武悼楊皇后伝は、東晋の咸康七年に武悼皇后の祭祀上の待遇をめぐって詳議が開かれたことを伝えているが、そこに引かれている虞潭の議に懐帝の改葬について触れられている。あまり厳密に読めてはいないが、それによると、武悼皇后は懐帝にとって生母ではないが、帝統を継いだ以上は継母に当たる人物でもあり、母子の道をまっとうするために、位を回復し、諡号をおくり、武帝陵に改葬したとのことである。
  • 5
    武十三王伝・清河康王遐伝附銓伝は名を「銓」とし、永嘉二年に皇太子に立てられたと記している。同伝附覃伝には、「永嘉初、前北軍中候任城呂雍、度支校尉陳顔等謀立覃為太子、事覚、幽於金墉城。未幾、被害、時年十四、葬以庶人礼」とあり、懐帝紀では永嘉元年十二月に幽閉が、同二年二月に殺害が記録されている。『晋書斠注』が引く『読史挙正』は、詮の立太子のあとに覃擁立の謀略が立てられるのは考えにくく、この謀略が鎮圧されたあとで詮は太子に定まったのだろうと推測している。すなわち、謀略発覚→覃が幽閉&覃が殺害→詮が皇太子に立つ、という時系列であろう、と。
  • 6
    この人物は墓誌が残っており、趙超『漢魏南北朝墓誌彙編』(天津古籍出版社、二〇〇八年)に収録されている(一五―一六頁)。誌文によると、石鑑の第二子であるが、石鑑伝には記録がない。また誌文には永嘉元年九月に戦死したと記されており、帝紀と月が異なっている。
  • 7
    この二匹が何を象徴するかについて、隠逸伝・董養伝に「養聞嘆曰、『昔周時所盟会狄泉、即此地也。今有二鵞、蒼者胡象、白者国家之象、其可尽言乎』」とある。白が「国家之象」というのは、晋が金徳にあたることを言うのであろうか。なお、この董養の言葉については王隠『晋書』の佚文にも見えている(『世説新語』賞誉篇の劉孝標注引、『北堂書鈔』巻七九、孝廉「董養嘆鵞」引)。
  • 8
    原文「小者如斗」。あまりピンとこないのだが、「ひじょうに小さいこと」を表現するときにこういう比喩を使用するようである。隕石とその細かい火球のようなものではないかと想像しているが、どうであろうか。
  • 9
    原文「始修千金堨於許昌以通運」。原文に従って訳出したが、「於許昌」はよくわからない。千金堨といえば、一般的には洛陽城より西に位置するそれを指すのであり、許昌とは離れているからである。したがって、「於許昌」は衍字のように一見思われる。実際、李矩伝に「永嘉のはじめ、李矩と汝南太守の袁孚に人々を率いさせ、洛陽の千金堨を修復させ、そうして漕運を便利にさせた(永嘉初、使矩与汝南太守袁孚率衆洛陽千金堨、以利運漕)」とあり、こちらでは「洛陽」と明言されている。しかし、李矩はこの当時、滎陽郡の新鄭県にいたと思われ、東海王から汝陰太守に任じられていた。つまりこの補修事業に動員されたのは汝陰と汝南の太守であることになる。両郡の所在からいえば洛陽での事業とは考えにくく、かえって許昌でのそれであることに違和感はない。この件にかんしては『十七史商榷』、『廿二史考異』、周家禄『晋書校勘記』でもとくに言われていない。ひとまず原文のとおりに訳出することにした。
  • 10
    『北堂書鈔』巻六四、車騎将軍「王堪不能禦難」引「晋諸公賛」に「王堪、字世冑。行車騎將軍、征討諸軍事。為石勒所襲、左右将勧堪上馬、歎曰、『我国家大将、不能禦難、何面目復還朝廷』。終不動、遂至被害。官僚百人、守屍不去、皆死。孝懐悼之」とある。
  • 11
    非常時・緊急時に兵を集めるための触れ文。木の札に書き、これに鳥の羽をつけて緊急の意を示した。(『漢辞海』)
  • 12
    原文「征鎮」。字面上は四征四鎮将軍を指すが、『晋書』では地方の軍鎮を指す場合が多い。
  • 13
    留台とは違い、都の外に便宜的に設けられた尚書台のこと。
  • 14
    ばちと太鼓。戦闘や盗賊逮捕に打ち鳴らした。(『漢辞海』)
  • 15
    原文「没于石勒」。「没于」は定型表現で、しいて訳せば「〔五胡〕に落ちた」といったところだが、こなれた感じがしないのでそのまま「没した」と訳出することにする。死没の意味ではなく、五胡のうちで生き延びた者にも「没于」は用いられる。五胡の手中に陥ったことは確実だが、その後の状況や生死すらも不明な場合によく使用される。石勒載記上によれば東海世子毗は死没しているが、江南には確実な情報が伝わっていなかったフシがある。というのも、元四王伝・東海哀王沖伝によれば、元帝はのちに自分の子を毗の後継者に立てて東海世子につかせ、さらにその後、元帝のもとへ逃れて生き延びていた越の妃の裴氏が亡くなると、元帝は「因発毗喪」という。生死不明の毗をめぐって、元帝らはとうにその生還を絶望視していたが、王妃だけは最期まで生還を信じていたのであろう。元帝が王妃の死後に毗の死亡を発表したのは、王妃の心情に配慮したためだと思われる。
  • 16
    苟晞伝には「置行台」とある。行台を立て、みずからがそのトップ(尚書令)についたのだろう。
  • 17
    原文「上尚書」。「尚書」は尚書台のことであろう。具体的には荀藩の行台のことと考えられる。荀勖伝附藩伝に「永嘉の末年、司空に移ったが、拝命する前に洛陽が陥落したため、荀藩は密へ出奔した。王浚が承制すると、荀藩を留台の太尉に奉じた(永嘉末、転司空、未拝而洛陽陥没、藩出奔密。王浚承制、奉藩為留台太尉)」とあり、「留台」とあるものの、洛陽の外にあるのだから本来は行台であろう。王浚の承制と太尉任命は、懐帝紀においては琅邪王の「上尚書」の直後に、つまりこれにつづいてかけられており、「上尚書」のあとにようやく荀藩が行台を立てたかのごとくである。ただし、荀藩は以前にも洛陽留台をつとめたことがあったし、この前年にも檄文を飛ばして琅邪王を盟主にかついでいるのだから、王浚の任命以前にすでに行台を称していたのではないだろうか。『魏書』巻九六、僭晋司馬叡伝には「晋司空荀蕃・司隷校尉荀組推叡為盟主。於是輒改易郡県、仮置名号」ともある。くわえて、自身を盟主にかついだ荀藩以外に琅邪王が文書を奉じる先が考えられるだろうか。そこで、さしあたり本訳では「荀藩の尚書台」を指すと解釈する。
  • 18
    青・黒の着物。漢代以降は身分の低い者が着た。(『漢辞海』)そういう辞書どおりの意味で着させたのかはわからないが。
  • 19
    時令は立春・立夏・大暑・立秋・立冬の日におこなわれる儀礼。『宋書』巻一五、礼志二に「太史毎歳上其年暦。先立春立夏大暑立秋立冬、常読五時令。皇帝所服、各随五時之色。帝升御坐、尚書令以下就席位、尚書三公郎以令著録案上、奉以入、就席伏読、訖、賜酒一巵」とある。また同志には、東晋の咸和五年、尚書による読秋令の奏に対し、門下の官が駁議したことを記しているが、その駁議のなかに「武皇帝以秋夏盛暑、常闕不読令、在春冬不廃也」とある。つまり、武帝は立夏・大暑・立秋の時令を廃止したようである。以上をふまえると、ここで懐帝が「旧制」に「遵」じて時令を読ませたと言っているのは、二つのケースが考えられる。ひとつは恵帝時代の混乱で中断していた時令を武帝時代の儀注で再開したこと。もうひとつは武帝以前の慣例に従って、すべての時令を読ませたこと。ここでは前者の意で取るのが適当かもしれない。
  • 20
    原文「於東堂聴政」。「聴政」は辞書的には「朝廷で政務を処理すること。政務執行(坐朝処理政務、執政)」(『漢語大詞典』)の意だが、ここでは文字どおりの意味、すなわち「聴」を「意見を聴いて審理する」で取った。ようするに、ここの「聴政」は「会議を開いた」という意味だと考えられ、以下で説明するように小朝会の開催を指していると考えられる。(2022/5/26:この条追加)
     太極殿の東堂については、『宋書』巻三二、五行志三に「按太極、東堂、皆朝享聴政之所」とあり、『芸文類聚』巻三九、朝会に引く「摯虞決疑要注」に「晋制、大会於太極殿、小会於東堂」とあり、皇帝が政務を執る空間で、小朝会が開かれる場であった。[渡辺一九九六]六四―七一頁を参照。
     また山濤伝附簡伝に、山簡が懐帝に選挙を重んじるよう求めた上疏が掲載されているが、そのなかに「世祖武皇帝応天順人、受禅于魏、泰始之初、躬親万機、佐命之臣、咸皆率職。時黄門侍郎王恂、庾純始於太極東堂聴政、評尚書奏事、多論刑獄、不論選挙。……陛下初臨万国、人思尽誠、毎於聴政之日、命公卿大臣先議選挙、各言所見……、皆以名奏」とみえる。ここから、ややうがった読みになりそうだが、二つの点が確認できる。(1)東堂での聴政は皇帝の業務であったのに、武帝時代のどこかの段階で門下が代行するようになったこと。(2)東堂での聴政は特定の日におこなわれていた可能性があること(「毎於聴政之日」)。
     (2)に関連して、渡辺氏[一九九六]は、成帝紀、咸康六年七月の条の「初依中興故事、朔望聴政于東堂」の「中興」を「中朝」の誤りと論じている(七四頁)。かりにこの見解が妥当であれば、朔日(一日)と望日(一五日)に東堂で聴政するのが西晋の慣例であったということになろう(訳者としては、「中興」で「元帝時代」に読めなくもないように思うので、字を改めてしまってよいのかためらいも覚える)。
     以上をふまえ、推測を重ねるかたちになるが、ここで懐帝の東堂での聴政が「旧制」に「遵」じたとされているのは、(おそらく恵帝時代に中断した)朔日と望日の東堂聴政を復活し、かつ東堂朝政に皇帝みずから臨んだこと、これらを指して言っているのではないだろうか。
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    『漢書』巻九七上、外戚伝上の顔師古注「守文、言遵成法、不用武功也」。
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