巻三 帝紀第三 武帝(3)

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系図武帝(1)武帝(2)武帝(3)恵帝(1)恵帝(2)懐帝愍帝東晋

 太康元年春正月己丑朔、五色の気が太陽を覆った。癸丑、王渾が呉の尋陽の頼郷にある複数の城を落とし、呉の武威将軍の周興を捕えた。
 二月戊午、王濬、唐彬らが丹陽城を落とした。庚申、西陵も落とし、西陵都督、鎮軍将軍の留憲、征南将軍の成璩、西陵監の鄭広を殺した。壬戌、王濬が夷道の楽郷城も落とし、夷道監の陸晏、水軍都督の陸景を殺した。甲戌、杜預が江陵を落とし、呉の江陵督の伍延を斬った。平南将軍の胡奮が江安を落とした。かくして諸軍が一斉に進むと、楽郷と荊門にある諸拠点があいついで降った。乙亥、王濬を都督益・梁二州諸軍事とし、さらに詔を下した、「王濬と唐彬は東に長江を下り、巴丘を掃討せよ。〔ついで〕胡奮、王戎と共同して夏口、武昌を平定し、〔さらに〕長江を下って遠くまで進み、まっすぐ秣陵へ向かえ。〔到着したら〕胡奮、王戎と適切な作戦をたてるように。杜預は零陵、桂陽を鎮圧し、衡陽を恭順させよ。大軍が長江を通過したあとならば、荊州の南の地域は檄文を回せば平定できようから、杜預は兵一万を王濬に、七千を唐彬に与えよ。夏口が平定されたら、胡奮は七千を王濬に与えよ。武昌が平定されたら、王戎は六千を唐彬に加えよ。太尉の賈充は駐屯地を項に移し、各方面の軍を統括せよ」。王濬は進んで夏口、武昌を落とし、そのまま船で東に下っていった。〔王濬が〕通り過ぎた場所はすべて平定された。王渾、周浚が呉の丞相の張悌と版橋で戦い、おおいに破り、張悌、その将の孫震、沈瑩を斬り、首を洛陽に送った。孫晧は万事に窮し、降服を願い出て、璽綬を琅邪王伷に送った。
 三月壬寅、王濬が水軍を連れて建業の石頭城に到来したので、孫晧はおおいに恐れ、〔みずから〕後ろ手に縛って棺を携え、軍門に降った。王濬は節を手にしながら、束縛を解いて棺を焼き、〔孫晧を〕京師に送った。〔王濬は〕地図と戸籍を没収した。平定したのは1原文「克州四……」。「平定して治下に収めたのは……」のニュアンスかと推測しているが、自信はない。『三国志』巻四八、孫晧伝、裴松之注に引く「晋陽秋」は「領州四……」とする。、州は4、郡は43、県は313、戸は523,000、吏は32,000、兵は230,000、男女の口数は2,300,000であった。州牧、郡守以下、〔地方の行政官は〕すべて呉の置いたままとし、法に厳しい政治を取り除き、寛大な処置を示したので、呉の民はおおいに喜んだ。乙酉、大赦し、改元し、五日間の酒盛りを賜い、親がいない幼子、子がいない老人、生活に困窮している者を援助した。
 夏四月、河東、高平でひょうが降り、秋の収穫物に損害を与えた。兼侍中の張側、黄門侍郎の朱震を派遣し、揚越の地(江南)に分けて使者として行かせ、服従したばかりの人々を慰撫させた。白麟が頓丘に現れた。三河、魏郡、弘農でひょうが降り、宿麦2『後漢書』帝紀五、安帝紀、延平元年十月の条の李賢注「宿、旧也。麦必経年而熟、故称宿」。に損害を与えた。
 五月辛亥、孫晧を帰命侯に封じ、その太子を中郎に任じ、そのほかの子らを郎中に任じた。呉の旧来からの名家は才能に応じて登用した。孫氏の大将で戦死した者の家は寿陽に移住させた。将や吏で長江を渡っ〔て北に移住し〕た場合は税を十年間免除し、百姓と百工の場合は二十年間免除した。
 丙寅、武帝は臨軒して集会を開き、孫晧を引率して殿を登ると、群臣みなが万歳をとなえた。丁卯、酃淥酒を太廟に捧げた。六つの郡国でひょうが降り、秋の収穫物に損害を与えた。庚午、詔を下し、六十歳以上の兵士は〔兵役を〕やめさせ、家に帰らせた。庚辰、王濬を輔国大将軍、襄陽侯とし、杜預を当陽侯とし、王戎を安豊侯とし、唐彬を上庸侯とした。賈充、琅邪王伷以下〔、ほかの者〕は増封した。かくして論功行賞がなされ、公卿以下には帛を賜い、おのおの格差があった。
 六月丁丑、はじめて翊軍校尉を置いた。丹水侯睦を高陽王に封じた。甲申、東夷の十の国が帰順した。
 秋七月、虜の軻成泥が西平、浩亹を侵略し、督将以下の三百余人を殺した。東夷の二十の国が朝献した。庚寅、尚書の魏舒を尚書右僕射とした。
 八月、車師の前部が子を派遣して朝廷に入侍させた。己未、皇弟の延祚を楽平王に封じた。三匹の白龍が永昌に現れた。
 九月、群臣らが、天下統一を機に、封禅の実施をしばしば要請したが、武帝は謙遜して聴き入れなかった。
 冬十月丁巳、〔咸寧元年に定めた〕五人の娘がいる家の免税措置を廃した。
 十二月戊辰、広漢王賛が薨じた。

 太康二年春二月、淮南、丹楊で地震があった。
 三月丙申、安平王敦が薨じた。王公以下に呉の生口を賜い、おのおの格差があった。詔を下し、孫晧の妓妾から五千人を選んで後宮に入れた。東夷の五つの国が朝献した。
 夏六月、東夷の五つの国が帰順した。十六の郡国でひょうが降り、強風があり、木を抜き、百姓の家屋を壊した。江夏、泰山で水害があり、三百余家の住人を流した。
 秋七月、上党でも突風とひょうがあり、秋の収穫物に損害を与えた。
 八月、彗星が張で光った。
 冬十月、鮮卑の慕容瘣が昌黎を侵略した。
 十一月壬寅、大司馬の陳騫が薨じた。彗星が軒轅で光った。鮮卑が遼西を侵略したので、平州刺史の鮮于嬰が討伐して破った。

 太康三年春正月丁丑、秦州を廃し、雍州に統合した。甲午、尚書の張華を都督幽州諸軍事とした。
 三月、安北将軍の厳詢が鮮卑の慕容瘣を昌黎で破り、数万人を殺傷した。
 夏四月庚午、太尉、魯公の賈充が薨じた。
 閏月丙子、司徒、広陸侯の李胤が薨じた。癸丑、二匹の白龍が済南に現れた。
 秋七月、平州刺史と寧州刺史については、三年に一度入朝して上奏するのをやめさせた。
 九月、東夷の二十九の国が帰順し、産物を献上した。呉の故将の莞恭と帛奉が挙兵してそむき、建業令を攻め殺し、そのまま揚州〔刺史〕を包囲したが、徐州刺史の嵆喜がこれを討伐し、平定した。
 冬十二月甲申、司空の斉王攸を大司馬、督青州諸軍事とし、鎮東大将軍の琅邪王伷を撫軍大将軍とし、汝南王亮を太尉とし、光禄大夫の山濤を司徒とし、尚書令の衛瓘を司空とした。丙申、詔を下して、天下のうちで水害と旱魃の被害が甚大なところは、田租を免じた。

 太康四年春正月甲申、尚書右僕射の魏舒を尚書左僕射とし、下邳王晃を尚書右僕射とした。戊午、司徒の山濤が薨じた。
 二月己丑、長楽亭侯寔を北海王に立てた。
 三月辛丑朔、日蝕があった。癸丑、大司馬の斉王攸が薨じた。
 夏四月、任城王陵が薨じた。
 五月己亥、大将軍の琅邪王伷が薨じた。遼東王蕤を東莱王に移した。
 六月、九卿の礼秩(不詳)を加増した。牂柯獠の二千余落が帰順した。
 秋七月壬子、尚書右僕射の下邳王晃を都督青州諸軍事とした。丙寅、兗州で洪水があったので、被災地域の田租を免除した。
 八月、鄯善国が子を派遣して朝廷に入侍させたので、帰義侯を授けた。隴西王泰を尚書右僕射とした。
 冬十一月戊午、新都王該が薨じた。尚書左僕射の魏舒を司徒とした。
 十二月庚午、宣武観で閲兵した。
 この年、河内、荊州、揚州で洪水があった。

 太康五年春正月己亥、二匹の青龍が武庫の井戸の中から現れた。
 二月丙寅、南宮王の子の玷を長楽王に立てた。壬辰、地震があった。
 夏四月、任城と魯国で池の水が血のように赤く染まった。
 五月丙午、宣帝廟の梁が折れた。
 六月、はじめて黄沙獄を置いた。
 秋七月戊申、皇子の恢が薨じた。任城、梁国、中山でひょうが降り、秋の収穫物に損害を与えた。天下の戸課3原文「戸課」。戸ごとの課税、すなわちいわゆる「戸調」を指すと思われる。[渡辺二〇一〇]第六章によれば、西晋期は戸調として、戸主が丁男の場合は租四斛、絹三疋、綿三斤を課していた(二一八―二二一頁)。西晋帝紀の他の用例からみると、戸調はおおむね絹と綿を指しており、氏が言うところの課田に課される租(戸ごとに定額貢納する租)への言及を欠いているようには思われるが、さしあたり氏の解釈に従う。本文はこれらの貢納量を減免することを言っているのであろう。翌年の太康六年八月には絹と綿の納税を減免しているが、これもやはり戸調の減免を指すと考えられる。を三分の一減らした。
 九月、南安で強風があり、木を折った。五つの郡国で洪水があり、〔また〕霜が下り、秋の収穫物に損害を与えた。
 冬十一月甲辰、太原王輔が薨じた。
 十二月庚午、大赦した。林邑、大秦国がそれぞれ使者を派遣し、朝献した。
 閏月、鎮南大将軍、当陽侯の杜預が卒した。

 太康六年春正月甲申朔、ここ数年、不作がつづいているため、滞納している租と借金を免除した。戊辰、征南大将軍の王渾を尚書左僕射とし、尚書の褚䂮を都督揚州諸軍事とし、楊済を都督荊州諸軍事とした。
 三月、六つの郡国で霜が下り、桑と麦に損害を与えた。
 夏四月、扶南など十の国が朝献した。参離の四千余落が帰順した。四つの郡国で旱魃があった。〔また〕十の郡国で洪水があり、百姓の家屋を壊した。
 秋七月、巴西で地震があった。
 八月丙戌朔、日蝕があった。百姓の綿と絹の納税を三分の一減らした。白龍が京兆に現れた。鎮軍大将軍の王濬を撫軍大将軍とした。
 九月丙子、山陽公の劉康が薨じた。
 冬十月、南安で山が崩落し、水が湧き出た。南陽で二足の動物を捕獲した。亀茲、焉耆国が子を派遣して朝廷に入侍させた。
 十二月甲申、宣武観で閲兵し、旬日(約十日)つづけてから終えた。庚子、撫軍大将軍、襄陽侯の王濬が卒した。

 太康七年春正月甲寅朔、日蝕があった。乙卯、詔を下した、「このごろ、災異がしばしば発生しており、三朝4歳首=歳の朝、正月=月の朝、朔日=日の朝、のこと。賈充伝で咸寧三年正月の日蝕を三朝と言っており、ようするに正月朔日のことを指しているようだ。に日蝕があり、地震や山の崩落が起こっている。国家のよくない出来事は、まことに朕に責任がある。公卿、大臣はそれぞれ密封して上奏し、〔災異の〕原因〔である朕の不徳〕を述べ尽くせ。憚ってあえて触れない事柄があってはならない」。
 夏五月、十三の郡国で旱魃があった。鮮卑の慕容瘣が遼東を侵略した。
 秋七月、朱提で山の崩落があり、犍為で地震があった。
 八月、東夷の十一の国が帰順した。京兆で地震があった。
 九月戊寅、驃騎将軍の扶風王駿が薨じた。八つの郡国で洪水があった。
 冬十一月壬子、隴西王泰を都督関中諸軍事とした。
 十二月、侍御史を派遣し、洪水の被害に遭った諸郡を巡視させた。後宮の才人、妓女以下、二七〇人を出し、家に帰らせた。大臣が三年喪に服する許可をはじめて定めた。己亥、河陰で赤い雪が二頃降った。
 この年、扶南など二十一の国、馬韓など十一の国が使者を派遣し、朝献した。

 太康八年春正月戊申朔、日蝕があった。太廟の殿が陥没した。
 三月乙丑、臨商観に落雷があった。
 夏四月、斉国と天水で霜が下り、麦に損害を与えた。
 六月、魯国で強風があり、木を抜き、百姓の家屋を壊した。八つの郡国で洪水があった。
 秋七月、〔太極殿〕前殿の地盤が陥没した。その深さは数丈におよび、穴の中には壊れた船があった。
 八月、東夷の二つの国が帰順した。
 九月、太廟を再建した。
 冬十月、南康の平固県の吏の李豊がそむき、群衆を集めて郡県を攻め、将軍を自称した。
 十一月、海安令の蕭輔が群衆を集めてそむいた。
 十二月、呉興の蒋迪が徒党を集めてそむき、陽羨県を包囲したが、州郡が討伐して捕え、全員が誅殺された。南夷の扶南、西域の康居国がそれぞれ使者を派遣し、朝献した。
 この年、五つの郡国で地震があった。

 太康九年春正月壬申朔、日蝕があった。詔を下した、「教化を広める根本は、政治と裁判が公平であることにかかっている。〔ところが、〕郡の二千石や県の長吏は民の苦痛をいたわるのに努めることができず、かえって軽々しく私的な旧友を援助し、裁判を増加させ、また多くが汚職をむさぼっていて、百姓を妨害している。そこで刺史と二千石に勅を下す。〔それぞれの属下の二千石と長吏の〕汚職を糾弾し、公正で清廉な者を推挙せよ。有司はそれら〔報告のあった二千石と長吏〕の昇進と罷免を議論せよ。内外の群官には、清能の者、寒素の者を推挙するよう命じる」。江東の四つの郡で地震があった。
 二月、尚書右僕射、陽夏侯の胡奮が卒した。尚書の朱整を尚書右僕射とした。
 三月丁丑、皇后みずからが西郊に桑を植え、帛を賜い、おのおの格差があった。壬辰、はじめて二つの社を統合して一つにした。
 夏四月、江南の八つの郡国で地震があった。隴西で霜が下り、宿麦に損害を与えた。
 五月、義陽王奇が罪を犯したので、三縦亭侯に降格した。内外の群官に詔を下し、郡県の長官に適任である人材を推挙させた。
 六月庚子朔、日蝕があった。章武王威を義陽王に移した。三十二の郡国で甚大な旱魃があり、麦に損害を与えた。
 秋八月壬子、星が雨のように降った。詔を下し、郡国の五歳刑以下は〔すぐに〕裁判の判決を下させ、裁判を滞らせないようにさせた。
 九月、東夷の七つの国が〔東夷〕校尉のもとに参り、帰順した。二十四の郡国でズイムシが発生した。
 冬十二月癸卯、河間王洪の子の英を章武王に立てた。戊申、青龍と黄龍がそれぞれ一匹、魯国に現れた。

 太康十年夏四月、京兆太守の劉霄、陽平太守の梁柳が治績をあげたので、それぞれに穀物千斛を下賜した。八つの郡国で霜が下りた。太廟が完成した。乙巳、神主を新しくできた太廟に移した。武帝は道の左でそれを迎え、そのまま祫祭を執り行った。大赦し、文武の官は位を一等加増され、廟を建造した者は〔位を〕二等加増された。丁未、尚書右僕射、広興侯の朱整が卒した。癸丑、崇賢殿で火災があった。
 五月、鮮卑の慕容瘣が来降した。東夷の十一の国が帰順した。
 六月庚子、山陽公の劉瑾が薨じた。ふたたび社を二つ置いた。
 冬十月壬子、南宮王承を武邑王に移した。
 十一月丙辰、守尚書令、左光録大夫の荀勖が卒した。帝の病気が癒えたので、王公以下に帛を賜い、格差があった。含章殿の鞠室5『漢語大詞典』は蹴鞠をする場所とする。で火災があった。
 甲申、汝南王亮を大司馬、大都督、仮黄鉞とした。南陽王柬を秦王に改め、始平王瑋を楚王に改め、濮陽王允を淮南王に改め、みな仮節の国とし、各自に〔封国方面の〕地方の諸軍事を統率させた。皇子の乂を長沙王に立て、穎を成都王に立て、晏を呉王に立て、熾を豫章王に立て、演を代王に立て、皇孫の遹を広陵王に立てた。濮陽王の子の迪を漢王に立て、始平王の子の儀を毗陵王に立て、汝南王の次子の羕を西陽公に立てた。扶風王暢を順陽王に移し、暢の弟の歆を新野公とし、琅邪王覲の弟の澹を東武公とし、繇を東安公とし、漼を広陵公とし、巻を東莞公とした。王国の相を内史に改称した。
 十二月庚寅、太廟の梁が折れた。
 この年、東夷の極遠の三十余の国、西南夷の二十余の国が朝献した。虜の奚軻の男女十万口が来降した。

 太煕元年春正月辛酉朔、改元した。己巳、尚書左僕射の王渾を司徒とし、司空の衛瓘を太保とした。
 二月辛丑、東夷の七つの国が朝献した。琅邪王覲が薨じた。
 三月甲子、右光録大夫の石鑑を司空とした。
 夏四月辛丑、侍中、車騎将軍の楊駿を太尉、都督中外諸軍事、録尚書事とした。己酉、武帝が含章殿で崩じた。享年五十五。峻陽陵に埋葬した。廟号は世祖とされた。
 武帝は度量が広く、緊急事態でも仁にそむかなかった6原文「造次必於仁恕」。『論語』里仁篇に「君子無終食之間違仁、造次必於是、顛沛必於是」とあり、『論語集解』に「馬曰、造次、急遽。顛沛、偃仆。雖急遽偃仆、不違仁」とある。。直言を聴き入れ、一度も顔色を変えたことはなかった。思慮に明るく、決断力があった。だからこそ、万国を安んじ、四方を治めることができたのである。魏氏の奢侈で苛酷な法治のあとを受け継ぎ、百姓はいにしえの〔質実な〕遺風をなつかしんでいるところであったので、敬恭を奨励し、寡欲を推奨した。あるとき、天子の車の牛が絹製の青い牽糸をかみちぎった〔ので代わりを用意してほしい〕と有司が奏すると、青い麻で代用するようにと詔を下した。政務の処置は寛大でゆるやかであったが、法制には一貫性があった。高陽の許允は文帝に殺されたが、允の子の許奇は太常丞であった。武帝が太廟を建造しようとしたさい、朝議は、許奇が司馬氏に誅戮を被った一族であることを理由に、武帝の左右に近づけることに難色を示し、出して長史とするよう武帝に要望した7原文「出為長史」。「出為……」は人事の定型表現。「……」にはおおむね、地方行政官や州都督が入る。しいて訳せば「中央から地方に出て……となる」だが、煩瑣なので「出て……となる」と訳出する。こうした人事運用自体は左遷というわけではなく、この人事運用が左遷に利用された、という感じ。。すると武帝は、許允の名望を振り返って述べ、許奇の才能を評価し、〔尚書の〕祠部郎に抜擢した。世論は武帝の寛大さを称賛した。呉を平定したのち、天下が太平となると、ようやく政治にゆるみが生まれ、遊宴におぼれるようになった。皇后の一族を寵愛したので、外戚が権力を握るようになり、旧臣は信任を得られなくなった。道理や法制は退廃し、請謁(コネ)が横行するようになった。治世の晩年になって、恵帝が帝位に足る器ではないことに気づいたが、しかし皇孫(愍懐太子)の聡明さに期待していたため、廃立するつもりはなかった。また、皇孫は賈后が生んだ子でないので、最終的には危険な目に遭うかもしれないと心配し、とうとう腹心とともに後事を練ったのである。〔ところが、〕議論は紛糾し、しばらく時間をかけても決まらなかった。最終的には王佑の計画を採用し、太子の同母弟である秦王柬を派遣して関中を都督させ、〔異母弟の〕楚王瑋と淮南王允を要所に出鎮させ、そうして帝室を強化した。また、外戚の楊氏が強大になるのを不安に思ったので、さらに王佑を北軍中候とし、禁軍を統率させた。〔武帝は〕まもなく病気に臥し、長く寝込んでしまうようになった。重篤になったとき、佐命元勲の臣はみなすでに没してしまっており、群臣は狼狽し、どうしてよいかわからなかった。ちょうど武帝が少し回復したので、詔を下して汝南王亮を輔政とし、また朝士で名声のある若手数人に汝南王を補佐させようとしたが、楊駿は〔詔を〕秘密にして公表しなかった。しばらくして、武帝はまたも意識が混濁してしまった。楊后はかってに詔を下し、楊駿を輔政とし、汝南王には〔都督を授け、出鎮地(許昌)への〕出発を促した。ややあって武帝が小康になると、汝南王はまだ来ていないのかと尋ね、面会して伝えたいことがあると話した。左右の者は「まだ来ていません」と答えた。武帝はそのまま危篤となった。中朝(西晋)の混乱は、じつにここからはじまったのである。

 制して曰く、(以下略)

系図武帝(1)武帝(2)武帝(3)恵帝(1)恵帝(2)懐帝愍帝東晋

(2020/2/22:公開)
(2021/9/10:改訂)

  • 1
    原文「克州四……」。「平定して治下に収めたのは……」のニュアンスかと推測しているが、自信はない。『三国志』巻四八、孫晧伝、裴松之注に引く「晋陽秋」は「領州四……」とする。
  • 2
    『後漢書』帝紀五、安帝紀、延平元年十月の条の李賢注「宿、旧也。麦必経年而熟、故称宿」。
  • 3
    原文「戸課」。戸ごとの課税、すなわちいわゆる「戸調」を指すと思われる。[渡辺二〇一〇]第六章によれば、西晋期は戸調として、戸主が丁男の場合は租四斛、絹三疋、綿三斤を課していた(二一八―二二一頁)。西晋帝紀の他の用例からみると、戸調はおおむね絹と綿を指しており、氏が言うところの課田に課される租(戸ごとに定額貢納する租)への言及を欠いているようには思われるが、さしあたり氏の解釈に従う。本文はこれらの貢納量を減免することを言っているのであろう。翌年の太康六年八月には絹と綿の納税を減免しているが、これもやはり戸調の減免を指すと考えられる。
  • 4
    歳首=歳の朝、正月=月の朝、朔日=日の朝、のこと。賈充伝で咸寧三年正月の日蝕を三朝と言っており、ようするに正月朔日のことを指しているようだ。
  • 5
    『漢語大詞典』は蹴鞠をする場所とする。
  • 6
    原文「造次必於仁恕」。『論語』里仁篇に「君子無終食之間違仁、造次必於是、顛沛必於是」とあり、『論語集解』に「馬曰、造次、急遽。顛沛、偃仆。雖急遽偃仆、不違仁」とある。
  • 7
    原文「出為長史」。「出為……」は人事の定型表現。「……」にはおおむね、地方行政官や州都督が入る。しいて訳せば「中央から地方に出て……となる」だが、煩瑣なので「出て……となる」と訳出する。こうした人事運用自体は左遷というわけではなく、この人事運用が左遷に利用された、という感じ。
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