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王沈/附:王浚/荀顗・荀勖/附:荀藩・荀邃・荀闓・荀組・荀奕/馮紞
〔荀藩:荀勖の子〕
荀藩は字を大堅という。元康年間、黄門侍郎となると、詔を授かり、父(荀勖)が修理していた鍾馨(楽器)を完成させた。天子に従って斉王冏を討伐した勲功によって、西華県公に封じられた。昇進をかさねて尚書令に移った。永嘉の末年、司空に移ったが、拝命する前に洛陽が陥落したため、荀藩は密へ出奔した1細かいが、正確には洛陽陥落直前に洛陽を脱出したようである。後掲の荀組伝、および懐帝紀、永嘉五年六月の条を参照。。王浚が承制すると、荀藩を留台の太尉に奉じた。愍帝が〔長安で閻鼎らに推戴されて〕皇太子となると、荀藩に委任して遠近の政務を執らせたを監督させた(2021/2/11:修正)2これは劉琨が皇太子(愍帝)に要請して実現した処置であったらしい。『太平御覧』巻二〇八、司空に引く「又曰」(荀氏家伝)に「蕃、字大堅、為司空。劉琨表於太子曰、『司空荀蕃、朝廷之旧臣、弈世忠勤、乃心皇家、具瞻之望、唯蕃而已。宜増位号、授分陝之重、永令臣等有所憑准』」とある。。建興元年、開封で薨じた。享年六十九。亡くなった地に埋葬した。諡号は成といい、太保を追贈した。荀邃と荀闓の二人の息子がいた。
〔荀邃、荀闓:荀藩の子〕
荀邃は字を道玄という。音楽に精通し、談論を得意とした。弱冠で趙王倫の相国掾に召され、〔ついで〕太子洗馬に移った。〔その後、〕長沙王乂が参軍とした。長沙王が敗亡し、成都王穎が皇太弟となると、〔成都王は〕属僚を精選し、荀邃を太弟中舎人とした。鄴城が陥落すると、荀藩に付き従って密に滞在した3鄴の陥落がいつのことを指すのかわからないが、成都王が王浚に敗れて洛陽へ逃れる→荀邃も洛陽へ逃げる→そのまま荀藩とともに洛陽に滞在→洛陽の陥落(永嘉の乱)前後、荀藩といっしょに密へ逃げる、ということだろうか。。元帝が丞相府の従事中郎に召したが、道中が険しかったので赴任しなかった。愍帝が左将軍、陳留相を加えた。父が亡くなったので職を去り、服喪が開けると封国(西華公)を継いだ。愍帝は荀邃の娘を娶ろうと思い、先に荀邃を召して散騎常侍にしようとした。荀邃は長安に危険が迫っているのを心配したので、命令に応じず、かえって東に進んで長江を渡り、元帝は軍諮祭酒とした。太興のはじめ、侍中に任じられた。荀邃は刁協と姻族関係にあったが、この当時は刁協が権勢を握っており、荀邃を吏部尚書にしようとしていた。荀邃はその意向を深く拒んだ。ほどなく、王敦が刁協を討伐すると、刁協の徒党はみな災難をこうむったが、荀邃だけは刁協を遠ざけていたので助かった。王敦は上表して〔荀邃を〕廷尉とするよう求めたが、〔荀邃は〕病気を理由に受けなかった。太常に移り、尚書に転じた。蘇峻が反乱を起こすと、荀邃は王導や荀崧といっしょに石頭で成帝に侍った。蘇峻が平定されたあと、卒した。金紫光禄大夫を追贈され、靖の諡号をおくられた。息子の荀汪があとを継いだ。
荀闓は字を道明という。荀邃と同様、荀闓も名声があり、京師〔の人々〕は彼を「洛中の英英たり、荀道明」と評した。大司馬の斉王冏が掾に召した。斉王が敗亡し、遺骸がさらされて三日経ったものの、遺体を回収して埋葬しようとする者はいなかった。荀闓は斉王の故吏の李述、嵆含らとともに露板を奉じて埋葬を求めると、朝議はこれを許可した。論者はこれを称賛した。太傅(東海王)主簿、中書郎となった。荀邃といっしょに長江を渡ると、丞相府の軍諮祭酒に任じられた。中興(元帝即位のこと)が建立すると、右軍将軍に移り、少府に転じた。あるとき、明帝はくつろぎながら王廙に質問した、「荀の二兄弟はどちらが賢いのかな」。王廙は、荀闓の才知は荀邃をしのいでいますと答えた。明帝はそのことを庾亮に話すと、庾亮は「荀邃の純朴の境地は、荀闓の及ぶところではございませんよ」と言った。こうして、議者は兄弟の優劣を確定することができなかった。御史中丞、侍中、列曹尚書を歴任し、射陽公に封じられた。太寧二年に卒した。衛尉を追贈され、定の諡号をおくられた。子の荀達があとを継いだ。
〔荀組:荀藩の弟〕
荀組は字を大章という。弱冠のとき、太尉の王衍は彼に会うと称賛して言った、「夷雅(平安かつ雅正)で才知と見識がある」。最初は司徒の左西属となり、太子舎人に任じられた。司徒の王渾が従事中郎にしたいと求め〔て聴き入れられ〕、〔司徒府の〕左長史に転じ、太子中庶子、滎陽太守を歴任した。
趙王倫が相国となると、高名の人々を集めようと思い、海内の徳望の士人を選抜し、江夏の李重と荀組を左右の長史とし、東平の王堪と沛国の劉謨を左右の司馬とした。趙王が帝位を奪うと、荀組を侍中とした。長沙王乂が敗亡すると、恵帝は荀組と散騎常侍の閭丘沖を派遣し、成都王穎のもとへ行かせ、成都王軍を慰労させた。恵帝が西の長安へ行幸すると、荀組を河南尹とした。列曹尚書に移り、衛尉に転じ、成陽県男の爵を下賜された。散騎常侍を加えられ、中書監となった。司隷校尉に転じ、特進、光禄大夫に加えられたが、散騎常侍はもとのとおりとされた。当時、天下はすでに混乱しており、荀組兄弟は高位に就いて権勢を得ていたが、世に容認されないことを憂慮し4原文「懼不容於世」。おそらく、西晋恵帝期以来、朝政のトップに臨んだ者たちがあいついで世の批判を受けたこと(そしてその結果として誅戮をこうむったこと)を指しているのであろう。、高官に就いているにもかかわらず、二人とも諷議するだけであった5「諷議」は遠回しな物言いの意見、あるいは諫言や進言などの言葉。言葉によって君主を輔佐するというこの職責は侍中や散騎常侍などの顧問官にあてがわれたものであって、ようは実質的な職務があるわけではない。朝臣の筆頭に近い立場にあったにもかかわらず、天下から「宰相にふさわしくない」という批判を受けるのを恐れたため、朝政をリードしようとせずに受け身になっていたことを「諷議するのみであった(何もしなかった)」と表現しているのではないだろうか。。
永嘉の末年、ふたたび荀組を侍中とし、領太子太保とした。拝命する前に、ちょうど劉曜と王弥が洛陽に迫ってきたので、荀組は荀藩といっしょに〔密へ〕出奔した。懐帝が蒙塵すると(平陽へ拉致されると)、司空の王浚は荀組を司隷校尉とした。荀組は荀藩とともに檄書を天下に発し、琅邪王(のちの元帝)を盟主とした。
愍帝が皇太子を称すると、荀組は太子の舅(母親の兄弟)であったので、またも領司隷校尉となり、豫州刺史の政務を代行し、荀藩とともに滎陽の開封を守った。建興のはじめ、荀藩に詔が下り、留台の政務を執らせた。それからまもなく荀藩が薨じたため、愍帝はさらに荀組を司空とし、領尚書左僕射とし、さらに司隷校尉を兼任させ、そのうえ留台の政務を執らせた。州征(州の征鎮?)や郡守は、すべて〔荀組が〕承制にもとづいて任命した6原文「州征郡守皆承制行焉」。よく読めない。文脈から意を推測した。。臨潁県公に進められ、太夫人と世子の印綬7『宋書』巻一八、礼志五によればどちらも銀印青綬。を加えられた。翌年、位を太尉に進められ、領豫州牧、仮節となった。
元帝が承制すると、荀組を督司州諸軍とし、散騎常侍を加え、ほかはもとのとおりとした。しばらくすると、さらに尚書令に任じられたが、上表して辞退し、受けなかった。長安が陥落すると、荀組は使者をつかわして天下に檄書を発し、共同で〔元帝へ〕勧進した。元帝は荀組を司徒にしようと思い、太常の賀循に諮問したところ、賀循は「荀組は旧来からの名族で、清廉かつ重厚であり、忠勤は顕著に示されています。五品を教導する官(司徒のこと)五品(五つの徳目)を教え広める官8原文「訓五品」。司徒のこと。『史記』五帝本紀に「舜曰、『契、百姓不親、五品不馴、汝為司徒、而敬敷五教、在寬』」とあるのにおそらくもとづく表現で(現行『尚書』舜典篇は「馴」を「遜」に作る)、司徒(の職掌)を指すために用いられる言い方だと思われる。たとえば『周礼』地官司徒の序官に「乃立地官司徒、使帥其属而掌邦教、以佐王安擾邦国」とあり、鄭玄注に「教、所以親百姓、訓五品」とある。いっぽう、『後漢書』劉般伝に「臣聞三公……協和陰陽、調訓五品」とあるように、広く三公(の職掌)を指す表現としても用いられはするが、本伝は司徒を指すために採られた表現とみてよいであろう。「五品」は諸家でやや見解に相違があるようだが、五つの徳目を指すと考えてよいと思われる。『史記集解』五帝本紀の注に「鄭玄曰、『五品、父母兄弟子也』。王粛曰、『五品、五常也』」とあり(どちらも元は『尚書』注であろう)、『後漢書』鄧禹伝「百姓不親、五品不訓、汝作司徒、敬敷五教、五教在寛」の李賢注に「五品、五常也。父義、母慈、兄友、弟恭、子孝。言五常之教務在寛也」とある。(2021/3/20:注追加&訳文修正)に移るのは、まことに多くの人々の希望にかなっています」と言った。こうして、荀組を司徒に任じた。
荀組は石勒に圧迫され、自立できなくなった。太興のはじめ、許昌から属僚数百人を率いて長江を渡ると、〔元帝は〕千兵百騎(千人の歩兵と百匹の騎馬)千の歩兵と百の騎馬を支給した(2022/10/23:修正)。荀組はこれ以前に率いていた軍もそのまますべて統率した。しばらくして、荀組に詔が下り、太保の西陽王羕とともに録尚書事とされ、各自に班剣六十人が加えられた9『北堂書鈔』巻五九、録尚書「宜讃朝政」に引く「晋起居注」によれば太興二年八月のこと。。永昌のはじめ、太尉に移り、領太子太保となった。拝命する前に薨じた。享年六十五。元の諡号をおくられた。子の荀奕があとを継いだ。
〔荀奕:荀組の子〕
荀奕は字を玄欣という。若くして太子舎人、駙馬都尉に任じられ、東宮に侍って講義した。地方に出て鎮東府の参軍、行揚武将軍、新汲令となった。愍帝が皇太子となると、中舎人に召し、ほどなく散騎侍郎に任じられたが、どちらにも赴任しなかった。父(荀組)に随行して長江を渡った。元帝が即位すると、太子中庶子に任じられ、〔ついで〕給事黄門郎に移った。父が亡くなったので職を去り、服喪が開けると、散騎常侍、侍中に任じられた。
当時、宮城を修繕しようとしており10台城のことであろう。成帝紀、咸和五年九月の条の訳注を参照。、尚書台は符を陳留王(曹魏の後裔)に下し、〔封国から〕城夫(城の造営に従事する功夫)を供出させようとした。荀奕は反駁した、「舜は堯の子を賓客として位におらせましたが、『尚書』はその美事を称えています。『詩』は『有客』の詩をうたって前代を存続させるという美徳を褒めていますが、その歌詞は雅頌(周頌)に掲載されています11有客は『毛詩』周頌に載る篇名。詩序に「微子来見祖廟也」とあり、「正義」に「有客詩者、微子来見於祖廟之楽歌也。謂、周公摂政二年、殺武庚、命微子代為殷後、乃来朝而見於周之祖廟。詩人因其来見、述其美徳而為此歌焉」とある。亡国である殷を継がせた周の徳をことほぐ詩歌、ということであろうか。。いま、陳留王の朝位は三公の上にあり、座席は太子の右にあります。したがって、〔陳留王の〕表に回答するときは〔『制詔』と言わずに〕『書』と言い、物品を賜与するときは〔『賜う』と言わずに〕『与える』と言っているのです。前代の後継ぎを優遇することは、古今にわたって重視されていることであり、国家を治めるための高大な義なのです。夫役を免除するのが適当だと考えます」。このとき、尚書の張闓、尚書僕射の孔愉は荀奕を批判した、「むかし、宋は周の築城に従事しようとしませんでしたが12『左伝』定公元年に見える話。ここで宋の故事を出したのは理由があり、「宋、先代之後也、於周為客」(『左伝』僖公二十四年)とあるように、周にとって先代王朝(殷)の後裔国で、晋にとっての陳留国と重なるからである。、『春秋』はそのことをそしっています。特別な免除は国家の根幹ではありません。夫役を減免するべきではないと考えます」。荀奕はかさねて反駁した、「〔引用された宋の故事があった〕『春秋』の末年は文王と武王の道が墜落しつつあり、新たに子朝の反乱が起こったばかりで、当時、諸侯は〔税役を〕滞納し、職分に従おうとしませんでした。〔また現今の陳留王とちがって、〕宋は周の世において、実際に列国としての権力を有していました13客の立場にあるからといって税役を免除されていたわけではなく、ほかの諸侯国と同様に貢納していた、ということを言いたくてこう言っているのだろうか。。かつ、諸侯といっしょにすでに周王への勤労に参加しており、この築城を監督していたのは晋でしたのに14『左伝』昭公三十二年、秋八月、冬十一月にこのことが見える。、客として夫役を断ろうとしたのですから、宋を批判するのはしかるべきことなのです15原文「且同已勤王而主之者晋、客而辞役、責之可也」。よく読めない。。現在の陳留国は列国としての権勢がなく、こたびの造営に動員するかしないかは、築城が完成するかしないかに影響するところがあるのでしょうか。免除するのが適当だと臣は考えます。〔そうすれば〕国の職分において完全となるでしょう」。詔が下り、荀奕の意見を採用した。
また、元会儀礼の日に皇帝(成帝)は司徒の王導を敬するべきか否かについて、通議(博議?)が開かれた。博士の郭煕と杜援の主張は、礼典に臣を拝礼する記述はないので、敬をやめるべきだというものであった。侍中の馮懐の議、「天子による礼の整備は、辟雍より盛大なものはありません。かの日ですら三老を拝礼していますから、まして先帝の師傅であらばなおさらではないでしょうか。敬を尽くすのが妥当だと考えます」。議案は門下に下った。荀奕の議、「〔司徒の王公は〕三朝(元帝、明帝、成帝の三世)にわたって筆頭ですが、〔元会の日は〕君臣の体裁を明白にするべきですから、敬すべきではありません。他日の小朝会であれば、すすんで礼を尽くすべきでしょう。また、至尊(皇帝)が公(朝位が公以上の官人)に文書を送るさい、〔その冒頭の書き出しは場合によって違っており、〕手詔(皇帝親筆の詔)であれば『頓首言』と言い、中書省の起草であれば『敬問』と言い、散騎省起草の優冊であれば『制命』と言っています。いま、詔の文句ですら書き分けているのですから、まして元会と小朝会とが同様であってよい道理はございません」。詔が下り、荀奕の意見を採用した。
咸和七年に卒した。太僕を追贈され、定の諡号をおくられた。
王沈/附:王浚/荀顗・荀勖/附:荀藩・荀邃・荀闓・荀組・荀奕/馮紞
(2021/2/11:公開)