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王渾(附:王済)/王濬・唐彬
王渾
王渾は字を玄沖といい、太原の晋陽の人である。父の王昶は魏の司空であった。王渾は思慮深く、典雅であり、度量があった。父の爵である京陵侯を継ぎ、大将軍の曹爽の掾に辟召された。曹爽が誅殺されると、赦免の例に従って赦された。起家して懐令となり、文帝の参安東軍事(安東将軍府の参軍事)へ移り、散騎侍郎、黄門侍郎、散騎常侍と昇進を重ねた。咸煕年間、越騎校尉となった。
武帝が受禅すると、揚烈将軍を加えられ、徐州刺史に移された。そのころ、〔徐州は〕毎歳凶作で飢饉がつづいていたが、王渾は食糧倉庫を開いて〔人民を〕救済したので、百姓は王渾を信頼するようになった。泰始のはじめ、食邑を一八〇〇戸加増された。しばらくすると、東中郎将、監淮北諸軍事に移り、許昌に出鎮した。しばしば〔政治の〕利害について具申し、意見の多くが採用された。
征虜将軍、監豫州諸軍事、仮節、領豫州刺史に転じた。王渾〔の管轄領域〕は呉と境界を接しており、〔呉の人民に向けて〕武威と信義を宣伝したところ、あいついで降る者がひじょうに多数であった。呉の将の薛瑩と魯淑は、軍勢十万を号して、魯淑は弋陽へ、薛瑩は新息へ進んだ。そのとき、豫州の州兵はみな〔軍務から〕解放されて休暇を取っており1原文「並放休息」。自信はないが、「放」は解放される、自由になるの意味で取った。、〔急遽集めることができた?〕兵はわずかに一旅2「旅」は軍の編成単位。五百人とされる。だけであったが、淮水を隠密に渡り、呉軍の不意を突いた。薛瑩らは晋軍の襲来を予期しておらず、王渾はこれを攻め破った。〔朝廷は〕功績によって次子の王尚を関内侯に封じた。
安東将軍、都督揚州諸軍事に移り、寿春に出鎮した。呉人は皖城で屯田を大規模に展開し、辺害(晋の領域に攻め込むこと)を画策していた。王渾は揚州刺史の応綽を派遣し、淮南の諸軍を統率させてこれを攻め破らせ、あわせてもろもろの支部駐屯地3原文「諸別屯」。「屯」は屯田地を言うのかもしれないが、ここではそこまで特定せずに訳出した。も破壊させ、貯蔵穀物一八〇余万斛、稲の苗四〇〇〇余頃4「頃」は土地の広さの単位。収穫前の稲が植えられていた田を焼いたということであろう。、船六〇〇余艘を焼かせた。王渾はついに兵を東の境界に並べ、地形の険易(険阻と平坦)を確認し、敵軍の城を順繰りに観察し、攻略の情勢を見て取った。
〔武帝が〕伐呉を挙行すると、王渾は軍を率いて横江へ向かい、参軍の陳慎、都尉の張喬を派遣して尋陽の瀬郷を攻めさせ、また呉の牙門将の孔忠も攻めさせた。〔陳慎らは〕どちらも撃破し、呉の将の周興ら五人を捕獲した。〔王渾は〕さらに殄呉護軍の李純を派遣して高望城を占拠させ、〔李純は〕呉将の兪恭を討って破り、斬首や捕虜が多数であった。呉の厲武将軍の陳代と平慮将軍の朱明は恐懼して来降した。呉の丞相の張悌や大将軍の孫震らが軍数万を率いて城陽へ向かうと、王渾は司馬の孫疇と揚州刺史の周浚を派遣した。〔孫疇らは〕これを攻め破り、陣中で二将(張悌と孫震)を斬り、斬首と捕虜は七八〇〇にのぼったので、呉人はおおいに震撼した。
孫晧の司徒の何植と建威将軍の孫晏は官印と節を〔王渾へ〕送り、王渾のもとに参って降った。まもなく王濬が石頭を落とし、孫晧を降伏させると、王濬の威光と名声がいよいよ振るうようになった。翌日、王渾はようやく長江を渡り、建鄴宮に登り、酒をついで大宴会を開いた5原文は「釃酒高会」。「釃酒」には「清酒」と「酒をつぐ」の意味があるが、ここは後者。巻五八、周処伝に「王渾登建鄴宮釃酒」とある。。王渾自身は「〔自分が〕先に長江の沿岸を占拠し、孫晧の中軍を撃破したが、武装を解いて進まないでいるあいだに王濬に遅れを取ってしまったのだ」と考えていた。〔それゆえ〕恥辱と後悔の気持ちが強く、不満な面持ちをあらわし、しきりに王濬の罪状を奏上したので、世の人々は王渾をそしった。武帝は詔を下して言った、「使持節、都督揚州諸軍事、安東将軍、京陵侯の王渾は管轄下の軍団を統率して、ついには秣陵に迫り、賊の孫晧をして自衛を固めて命を守らしめ、兵を分けて上流へ派遣できないようにさせた。そうして西軍の功績を成就させたのである。また、大軍を破り、張悌を捕え6本伝前文では「斬」ったと記されている。『三国志』呉書三、孫晧伝、天紀四年も王渾は張悌を「斬」ったと記述しているが、同条の裴松之注に引く「干宝晋紀」は「獲」えたとしている。捕えたあとで斬ったということなのだろう。、孫晧をして万策尽き、勢力果て、面縛して降伏を求めるにいたらしめた。とうとう秣陵を平定し、功績は顕著である。そこで、食邑を八〇〇〇戸加増し、爵を公に昇格し、子の王澄を亭侯、弟の王湛を関内侯に封じ、絹八〇〇〇匹を下賜する」。
征東大将軍に転じ、ふたたび寿春に出鎮した。王渾は刑名(法家思想)を重視せず、裁判の判決7原文は「処断」。『漢辞海』『漢語大詞典』は本伝を用例に挙げたうえで「処理して決断すること」といい、とくに裁判に限定していないが、文脈を考慮して「裁判の判決」の意味で訳出した。なお『北堂書鈔』巻七二、刺史「撫循羈旅」に引く「王晋書」は「情断」に作る。は平明かつ公平であった。そのころ、呉人は従属したばかりで、すこぶる恐怖を抱いていた。王渾は〔呉に〕客寓していた人々8原文は「羇旅」。呉に流亡していた人々を指すのであろうか。を慰撫し、謙虚な心でいたわりながら接遇し、〔賓客がたえず訪れるので〕座席が空席になることはなく、門に賓客を放置しなかった。こうして、江東の人士は誰もが喜んで服従したのであった。
中央に召されて尚書左僕射に任じられ、散騎常侍を加えられた。そのころ、朝臣が建議し、斉王攸は就国するべきだと論じたので、王渾は上書して諫めた、「つつしんで聖詔をうけたまわりましたが、古典に範をお取りになって、斉王の攸を上公に進め、その礼遇を加崇し、就国させるとの由。むかし、周氏が建国すると、姫姓の者たちをおおいに封建して帝室の藩屏とし、永代にわたる規範を創出しました。〔ただし〕周公旦にかんしては、武王の弟であり、王の政務を補佐し、大業の成就を助けていたので、藩国へ帰らせませんでした。至親を重んじる義を明白にし、朝廷から遠ざけるべきではないことを明示するためでした。このゆえに、周公旦は聖徳によって幼主(成王)をはなはだ輔弼し、忠誠は金縢に封入された文書に記され9「金縢」は金属製のひもで封印された箱。武王が病気に倒れたとき、周公旦は自分が身代わりになって死ぬことを祈願した文書をしたため、金縢に封印した。その後の成王の時代、周公の忠誠に疑念が向けられたさいにこの箱が見つかり、中の文書を読んだ成王は周公の忠義をあらためて確信した、という説話。『史記』巻三三、魯世家などに見える。、文王と武王の仁聖の徳をおおいに著述すること10原文「光述文武仁聖之徳」。『尚書』諸篇のことを指すのだろか(『尚書』は読んだことがないので該当するかわからないが)。ができたのでした。攸は大晋において、姫旦(周公旦)のような親族です。皇朝を輔翼させ、政務に与らせるべきなのであって、まことに陛下の腹心にして決して裏切らぬ臣なのであります。さらに、攸の為人(ひととなり)は清廉潔白で信義がそなわっており、それにくわえて懿親11関係の最も近い親族。(『漢辞海』)で、志は忠誠貞節に向けられています。いま、陛下は攸を朝廷から出して就国させようとしておられますが、都督という虚号(名ばかりの称号)を授けて、軍隊を管轄して地方を治める実権を授けず、天朝から引き離し、王政に関与させまいとしておられます。同母弟にして至親であるという血縁関係を傷つけ、兄弟と仲睦まじくして誠実に付き合うという義12原文「友于款篤之義」。「友于」は兄弟、または兄弟と睦まじくするの意。『論語』為政篇「或謂孔子曰、『子奚不為政』。子曰、『書云、孝乎惟孝、友于兄弟、施於有政、是亦為政。奚其為為政」とある。を損なってしまうのは、先帝(文帝・司馬昭)や文明太后(武帝の生母・王太后)の念願に沿って陛下が攸を待遇しているとおそらく言えないでしょう13原文「懼非陛下追述先帝文帝太后待攸之宿意也」。原文の語順を極力損ねない程度に意訳した。。もし攸の名望が高い〔ため後日の禍根になりうる〕のを理由に、政事から締め出すべきだというのでしたら、いま汝南王の亮を攸の代わりに〔就国させ、攸は中央に留めるように〕なさってください。亮は宣皇帝の子で、かつ文皇帝の弟であり、〔兄弟の〕伷と駿はおのおの地方の職任に就いており14伷と駿は宣帝の子で亮の兄弟。ともに巻三八、宣五王伝に立伝。このころ、伷は琅邪王で下邳に出鎮、駿は扶風王で関中に出鎮していたと思われる。、〔このように亮には〕内外に資がありますから15原文「有内外之資」。よくわからない。「内外」は中央と地方のことで、「資」は有利な材料のことか。亮が宗室の重鎮であること、兄弟が地方の要職にあることをふまえ、「内外」どちらの「資」も亮にはある、という意味であろうか。、後日の禍というのを考慮しましたとき、〔攸と〕同様に〔亮も〕軽視できない人物です。攸がいまにも就国してしまうのは、まさに反対意見を増長させ、仁愛の美徳を傷つけてしまうのに十分でしょう。しかも、陛下は親親16原文まま。「親族を親しむ」と「親族」の二つの意味があるが、ここでは後者か。を大切にしないお心をおもちなのだと、天下じゅうの人々に察知させてしまうでしょう。臣は陛下のために賛同いたしかねます。もし皇后一族の外戚であるのを理由に朝政を委任すれば、王氏が漢室を傾けるほどの権勢をもったり、呂産が朝政を専断するという災禍が起きたりした前例があります。もし同姓の至親であるのを理由に〔待遇を過度に手厚く〕17『資治通鑑』に「寵之太厚」とあるのに拠って補った(巻八一、太康三年)。すれば、呉楚七国の乱という災厄の前例があります。古今を順々に観察していきますと、物事の軽重のありかをおざなりにしてしまって、害にならなかったためしはありません18原文「苟事軽重所在、無不為害也」。よく読めない。「重い物事や軽い物事の置き所をいいかげんにしてしまうと……」という意味であろうか。。事ごとにいちいち疑いを向けて予防を設け、将来の禍に備えておくのは不可能です。〔将来の禍を防ぐには、〕まさに正道〔を具えた人物?〕に委ねて、忠良の人材を求める以外にございません。もし計(はかりごと)に長けていることを理由にひとを疑ってかかり、親族といえども疑われるのであれば、疎遠な人間についても、どうしてみずからの身を守ることができるでしょうか。ひとが危惧を抱いてしまうようにするのは、平安を実現する道理ではありません。これは国家を治める者にとって、もっとも忌むべきことなのです。愚考しますに、太子太保が欠員ですから、攸を〔中央に〕留めてこの官に就かせ、太尉の汝南王亮や衛将軍の楊珧とともに太子の保傅(もり役)となし、〔三人共同で〕朝政を治めさせるのが適当でしょう。三人が位を等しくすれば、たがいに公正を保持することが可能となり、進んでは過失を正し、意見を進め19原文は「輔納」。「補納」とおそらく同義。『漢語大詞典』によれば「補納」は「過失を補って意見を進言する(補闕献納)」の意味。、義を広めるという利益をもたらし、退いては権勢が〔誰かに〕集中してしまうこともありませんし、陛下をして親親の恩愛を手厚く施させしめ、攸をして仁覆20原文まま。「仁覆天下」(『孟子』離婁章句上)が出典か。の恩恵をこうむらしめることでしょう。臣は国家と悲喜をともにし、義は言葉を尽くすことにございますから、心中に思うところを黙り通していることはできません。ひそかに魯の女の国を存続させようとする志21原文「魯女存国之志」。出典不明。に倣い、あえて愚見を述べ、天威に触れました。陛下がどんな物事にも最善を尽くすことを希求し、〔臣の意見が〕万分の一でもお助けになれればとこい願う次第です。臣が申し上げなければ、他に誰か申すべき者がいるでしょうか22原文「臣而不言、誰当言者」。「臣而不言」は「臣として仕えておきながら申し上げないのは……」と一般論的な前置きと読むこともできるかもしれないが、後文の「誰当言者」を考慮すると、この「臣」は王渾自身を指していると考えたほうがよいように思う。巻一〇五、石勒載記下附石弘載記にも「臣(徐光のこと――引用者注)因縁多幸、託瓜葛於東宮、臣而不竭言於陛下、而誰言之」と似た表現がみえるが、ここの「臣而……」の臣もやはり徐光自身を指していると考えられる。」。武帝は聴き入れなかった。
太煕のはじめ、司徒に移った。恵帝が即位すると、〔王渾に〕侍中を加え、また京陵国(王渾の封国)に士官23原文まま。詳細不明。を置き、睢陵国の例のとおりとした。楊駿が誅殺されると、〔朝廷は〕旧臣の礼遇を重くし、そこで王渾に兵を加えた。王渾が考えるには、「司徒は文官だが、〔文官は〕吏をつかさどって24原文は「主史」。『通典』巻二〇、総叙三師三公以下官属は「主吏」に作る。「主吏」のほうが通るように思われるため、『通典』に従った。兵をもたず〔、そのゆえに吏属は皁服で〕、兵をもつ場合だと吏属は絳服である25巻二四、職官志に「諸公及開府位従公者、品秩第一。……自祭酒已下、令史已上、皆皁零辟朝服。太尉雖不加兵者、吏属皆絳服」とあり、また「諸公及開府位従公加兵者、……主簿已下、令史已上、皆絳服」とある。つまり諸公および位従公で加兵されていない場合は皁零辟朝服、加兵されている場合は絳服、太尉は加兵されていなくても絳服、という。王渾伝のここの記述は職官志のこの記述と対応しているのだろう。。みずから思うに、〔この加兵の待遇は〕ときの恩寵にたまたまあずかり、暫定的に兵の所持を許されたのであって、旧典〔に規定する公府加兵〕というわけではない」。吏属全員に皁服を着用させた。論者は、王渾が謙虚で本質を判別できていることを称えた。
楚王瑋が汝南王亮らの殺害をたくらむと、〔楚王の側近である〕公孫宏が楚王に説いて言った、「むかし、宣帝が曹爽を廃したときは、太尉の蒋済を召して参乗26「同乗、または同乗するひとのこと。古代では車に乗るさい、貴人が左、御者がまんなか、もう一人は右に同乗するが、〔この右の同乗または同乗者を〕『参乗』や『車右』と呼んだ(陪乗或陪乗的人。古代乗車、尊者在左、御者在中、一人在右陪坐、称“参乗”或“車右”)」(『漢語大詞典』)。宣帝と蒋済とでは宣帝のほうが尊貴であったはずだから、蒋済を車に同乗させる行為は「参乗」という言い方になるのであろう。させ、威容を増したのでした。大王はいま、非常の事を実行に移そうとしておられますので、重鎮を味方につけ、人心を鎮めるべきです。司徒の王渾は長年威厳と名声を保ち、三軍から信服されていますから、同乗を要請し、人心に拠りどころをもたせるのがよいでしょう」。楚王はこの意見を聴き入れた。〔ところが〕王渾は病気を理由に固辞し、私宅に帰ると、家兵千余人をもって門を閉鎖し、楚王を拒絶した。楚王は無理強いしようとしなかった。まもなく楚王が詔を詐称したかどで誅殺されると、王渾は兵を率いて官府に赴いた。或るとき、恵帝は王渾に訊ねて、元会儀のさいに郡国の上計吏へ地方習俗の質問をするのは適切なことであるのか27原文「元会問郡国計吏方俗之宜」。ようするに「質問して何の意味があるのか」と言いたいのだと思われる。、と問うた。王渾は上奏して言った28以下の王渾の上奏文は[渡辺一九九六]一四六頁を参照して訳出した。『芸文類聚』巻四、元正に引く「王渾集」にも本伝と同趣旨の上奏文が断片的に引用されているが、文字の異同が多い。、「陛下は敬粛明哲で、遠近を輝かせ、明詔は純真で雑念がなく、草刈りや木こりのような卑賤の者にまで質問しておられます。これは周の文王が人材を求めて諮問したり、仲尼が下問するのを恥じなかったりするようなものでございましょう。旧来、三朝(元日)の元会儀では、計吏を召し寄せて軒下に参らせ、侍中が詔を宣読し、計吏はそれを跪いて受け取っています。臣が思うに、詔の文章は代々因習されてすでに久しく、目新しい内容がありませんから、地方にご留意なさろうとする陛下の御心にかなっていません。中書にご意向を宣読させることとし29原文「令中書指宣(、明詔問……)」。よく読めない。とくに「指」がわからないが、ここは「旨」と同義と考え、「宣旨(旨ヲ宣ブ)」と同じ意味に解釈した。なお『芸文類聚』巻四、元正に引く「王渾集」は「中書令宣詔」に作っており、意味がわかりやすい文章になっている。、〔中書に読ませる〕明詔で地方風土の特色、優秀な人材、風俗や流行、農耕や養蚕〔の具合〕、裁判の冤罪や刑罰の濫用をなくせているか、郡県の長官が下々を虐待するのを撲滅できているか、〔以上の事項を計吏に〕お訊ねなさるのがよいでしょう。〔その返答を聴いて、〕心を政治と教化に注ぎ、利益を振興して損害を除外しようとしている者には、紙と筆を授け、思うところを存分に奏聞させますよう。そのようにすることで、御心を四方にお注ぎしようとする陛下のご意向が明らかになり、恒例の言葉〔を交わすだけの慣例〕を二度と踏襲しないことでしょう30原文「以明聖指垂心四遠、不復因循常辞」。「明」がどこまで係るのかわからない。和刻本は「四遠」までとし、[渡辺一九九六]は「常辞」までとしている。和刻本のほうが自然なように思われたので、和刻本に倣った。。かつ、計吏の返答の文章をチェックすることで、計吏の才能の実態を確かめられます。また先帝の御代だと、正会後に太極殿の東堂で征鎮の長史と司馬、諸王国の卿、諸州の別駕従事に謁見していました。いま、もし計吏とは別に〔それらの官に〕謁見するのが不可能なのでしたら、〔計吏といっしょに〕軒下に参らせ、侍中に陛下のご質問を宣読させてを介して質問し(2023/11/18:修正)、地方の様子を確認しておくのが、この事(征鎮長史らとの謁見)においては簡便かと存じます」。恵帝はこの意見に賛同した。また、詔を下し、王渾を録尚書事とした。
王渾は歴任したどの官職でもあいついで評判をあげたが、台輔(三公)に就くと、名声は日に日に減退した。元康七年に薨じた。享年七十五。元の諡号をおくられた。長子の王尚31前文(王渾が呉の薛瑩らを破ったくだり)では「次子」と記されている。は早世していたので、次子の王済があとを継いだ32王済も王渾より先に没しているのでこの記述はおかしい。このあとの王済伝だと、王済の子である王卓が王渾の爵位を継いでいる。「長子の王済は早世してしまったので、次子の王尚があとを継ぎ、王尚が没したあとは王卓が継いだ」というのが正しいか。。
〔王済:王渾の子〕
王済は字を武子という。若くして異才があり、風貌は秀でて爽やかで、気概は一世一代を覆うほど壮大であった。弓馬を好み、勇気と腕力は常人をしのぎ、『易』と老荘を得意分野とし、文章が巧く、技芸は人並み以上の腕前であった。当世に名を博し、姉の夫である和嶠や裴楷と名声を等しくした。常山公主33武帝の姉に当たるという。『文選』巻五八、王仲宝「褚淵碑文」の李善注に引く「王隠晋書」参照。を降嫁された。二十歳のとき、起家して中書郎に任じられたが、母の逝去を理由に官を辞した。起家して驍騎将軍となり、昇進を重ねて侍中に移ると、侍中の孔恂、王恂、楊済と同格に連なり、一代の精鋭(エリート)となった。或るとき、武帝は公卿や藩牧(地方の長のこと)を式乾殿に集めて宴会を開いたが、王済と楊済、そして孔恂と王恂のほうを向きながら諸公らに言った、「朕の左右は『恂恂済済』と言うべきだな」。〔武帝に〕接見するたびに、いつも必ず人物や万機の得失について諮問された。王済は清言に長けており、応対の言葉を飾り立て、諷諫によって輔佐した。王済にまさる朝臣は誰もおらず、武帝はますます王済を親任した。出世スピードが速かったとはいえ、論者たちは〔王済が〕公主の婿だからだとはみなさず、口をそろえて才能の致すところだと評した。しかし、〔王済は〕外面は寛弘典雅であったものの、内面は冷酷で嫉妬深く、言葉で他人を中傷しがちであったので、同輩の人々はこれを理由に王済を軽んじた。父の一件でいつも王濬を排斥していたため、世論はこれを批判した。
斉王攸がいまにも就国しそうになると、王済は陳情して〔中央に留めるよう〕要請したうえで、何度も〔妻の〕公主を甄徳の妻である長広公主34『三国志』魏書五、后妃伝、文昭甄皇后伝の裴松之注に引く「晋諸公賛」に「〔甄〕悳、字彦孫。司馬景王輔政、以女妻悳。妻早亡、文王復以女継室、即京兆長公主」とある。徐震堮氏はこの記述を根拠に、長広公主の「広」は衍字だとしている(『世説新語』方正篇、第一一章の注)。といっしょに入朝させ、武帝に額づいて斉王を留めるよう泣いて要請させた。武帝は怒って、侍中の王戎に言った、「兄弟は至親の仲。いま斉王を出すのも、朕の家の問題だ。それなのに、甄徳や王済はしきりに婦(おんな)をよこして生来からの哭人にしやがって35原文「来生哭人」。『世説新語』方正篇、第一一章の劉孝標注に引く「晋諸公賛」も同じ。巻一〇二、劉聡載記には「生来哭人」という類例がある。『漢語大詞典』は「生哭人」の項目で「罵倒の言葉。生きている人に対して喪の哭泣をすること。しつこい、めんどうくさい、という意味(詈詞。対活着的人哭喪。意謂糾纏、找麻煩)」と解説し、用例に本伝と劉聡載記を挙げている。しかし劉聡載記は厳密には「生来哭人」である。「来生」と「生来」は語順こそ逆転しているものの、意味はおそらく同じではないだろうか。つまり「生哭人」という区切り方は適切ではないように思われるのである。思うに、「生来」はすなおに「生まれて以来」という意味で読み、直訳すれば「生まれてからずっと泣いている人」、言い換えると「いまだに赤ん坊かよ」というニュアンスになるのではないだろうか。そして比喩的には『漢語大詞典』が言うとおり、これは罵倒表現であり、「しつこい」「うるさい」とかいう意味になるのであろう。本訳はこの解釈で取った。」。武帝の意向にもとったかどで国子祭酒に左遷され、散騎常侍はもとのとおりとされた。
数年後、中央に入って侍中となった。その当時、王渾は尚書僕射であったが、主者(尚書台の官吏)の政務処理に不適当なものがあると、王済は手厳しい性格だったので〔父に遠慮することなく〕、法を明らかにしてそれを糾した。平素から従兄の王佑とは不仲で、王佑の徒党が「王済は自分の父を配慮できない」とすこぶる吹聴したところ、これが原因で〔王済に対する〕異論が増長した。地方に出て河南尹となったが、拝受する前に、王官吏を鞭打ったかどで罪に問われて免官され、いっぽうで王佑ははじめて委任を受けるようになった。王済はとうとう排斥され、かくして邸宅を北芒山のふもとに移した。
奢侈な気質で、衣服や食事は豪華絢爛であった。当時、洛陽は地価がひじょうに高騰していたが、王済は土地を購入し、〔そこに〕馬場の柵を立て、ひもでつないだ銭を柵に敷き詰めたので36原文「編銭満之」。『世説新語』汰侈篇、第九章は「編銭匝地竟埒」に作る。本伝の「満」と『世説新語』の「竟」は同じ意味と考えられるので、本伝の「之」は「埒」(馬場を囲う柵)を指すのであろう。しかし〈埒を満たす〉とはどういう状況なのかいまいち想像つきかねる。『世説新語』の邦訳や『世説新語詞典』もいささか要領を得ない。柵の隙間を銭で満たしたということなのだろうか。とりあえずこれを念頭に訳出した。、世の人々はこれを「金溝」37原文まま。『世説新語』汰侈篇、第九章も同じだが、劉孝標注に「溝、一作埒」とある。本伝の中華書局校勘記は「埒」のほうが良いとしている。と呼んだ。王愷は武帝の舅(母親の兄弟)であるのをもって奢侈の限りを尽くしていた。〔王愷は〕「八百里駁」という名の牛を所有しており、つねにその蹄や角を磨いていた38原文「常瑩其蹄角」。『世説新語』汰侈篇、第六章も同じ。類似した表現は巻三三、何曾伝にも見える。磨いてピカピカにしておくこと、と解釈しておく。。王済は、銭千万と牛を賭けて射撃で勝負しないかともちかけた。王愷も自分の能力に自信があったので、王済に先に射らせた。〔すると王済は〕一発で的を射止めた。そして胡牀に腰を下ろし、例の牛の心臓をすぐに持って来いと左右の者どもに大声で言いつけ、まもなくして到着すると、一切れ食っただけでさっさと立ち去ってしまった39原文「一割便去」。『世説新語』汰侈篇、第六章だと、〈炙った心臓を一切れだけ食って去った〉とあるので、これをふまえて訳出した。。和嶠はひどくケチな性格で、家に美味のスモモの樹があったが、武帝がそれをねだっても、〔渡したのは〕数十をすぎなかった40『世説新語』倹嗇篇、第一章だとスモモをねだったのは王済になっている。。王済は和嶠の宿直当番を見計らって、少年たちを引き連れて果樹園に行き、いっしょに食い、食べ終えると樹を切り倒してから帰った41『世説新語』倹嗇篇、第一章だと、〈王済はその枝を積み込んだ車を和嶠のもとへ送り、「君のスモモと比べてみてどうだい?」(君のスモモにそっくりじゃない?)と伝えると、和嶠はすぐに言わんとするところを理解し、笑うだけであった「君のスモモはどんなご様子かな?」と伝えると、和嶠は言わんとするところを理解し、笑うだけであった〉という後日談で締められている。なお本伝前文に記されているが、和嶠は王済の姉の夫、すなわち王済の義理の兄に当たる。(2023/11/17:修正)。或るとき、武帝が王済の私宅に行幸したが、料理はひじょうに豪勢で、すべて瑠璃の食器に盛られていた。蒸し豚がとても美味だったので、武帝がその理由を訊ねると、「人乳で蒸しましたから42原文「以人乳蒸之」。『世説新語』汰侈篇、第三章は「以人乳飲豚」(人乳を豚に飲ませていますから)に作る。」との答え。武帝はたいへん機嫌を損ね、完食せずに帰った。
王済は馬の気性を見抜くのが得意だった。或る馬に乗っていたさい、〔その馬は〕連乾の障泥43障泥は「馬具の一つ。足をかける鐙と、馬のわき腹との間に垂らす革製の泥よけ。あおり。蔽泥」(『漢辞海』)。連乾は『世説新語』術解篇、第四章は「連銭」に作る。徐震堮氏の注によると、連銭はもともと「馬の毛並みが銭のようなまだら模様であること」を意味し、ここでは転じて障泥にまだら模様が施されていることを言うとする。そして連銭と連乾は同義だと言う。氏の解釈に従う。を着けていた。前方に川があったが、〔その馬は〕終始渡ろうとしなかった。王済は「この馬はきっと障泥がもったいないと思っているのだろう」と言い、人に言ってはずさせると、すぐさま渡った。そのゆえ、杜預は「王済には馬癖がある」と評した。
或るとき、武帝は和嶠に言った、「王済を罵って責めたあとで、やつに官爵を授けてみるというのはどうであろうか44劉孝標によれば、このエピソードは斉王攸就国騒動のときのものである(『世説新語』方正篇、第一一章の注)。王済が妻も巻き込んでしきりに諫めてくるのに武帝が立腹し、やり返そうとしたということだろうか。」。和嶠、「王済は頭の切れる人間ですから、おそらく屈伏させられないでしょう」。武帝は王済を召し寄せ、厳しくなじり、「恥を知ったかね恥を知らぬかね(2023/11/17:修正)」と言うと、王済は答えて言った、「尺布斗粟の歌謡45「尺布斗粟」は原文まま。「兄弟の仲が悪いこと。漢の文帝の弟の淮南厲王劉長が謀反に失敗して蜀に流され死んだ。このことを、民衆は、わずかな布や粟さえも分け合うべきはずの兄弟が、許し合うことができなかった、とそしった故事から」(『漢辞海』)。というのがございますが、いつも陛下のためにこの故事に恥ずかしさを覚えます。他の人間たちは親族を疎遠にさせることに成功したのに、臣は親族を親密にさせることができませんでした。このゆえに陛下に恥ずかしく思っております」。武帝は黙り込んでしまった。
或るとき、武帝が王済と囲碁を打ち、孫晧がその傍らで観戦していた。〔王済は〕孫晧に言った46原文「帝嘗与済弈棊、而孫晧在側、謂晧曰」。文の構造からすれば、主語(孫晧への質問者)は武帝である。しかし『語林』(『太平御覧』巻三六五、面、引ほか)や『三十国春秋』(『太平御覧』巻三七二、足、引)の佚文は王済を主語としている。ここでは佚書の記述にもとづいて補うこととした。、「どうして人の顔の皮をよく剥いでいたのですか」。孫晧、「主君に無礼な者を見たら剥いでいたのです」。王済はこのとき、碁盤の下で足を伸ばしていたので、孫晧はこれをそしったのである。
ほどなく、〔朝廷は王済を〕白衣(無位)のまま領太僕とした。四十六歳のとき、王渾よりも先に卒した。驃騎将軍を追贈された。埋葬のさい、当時の賢才たちがことごとくやって来た。孫楚はふだんから王済を敬っていたが、遅れて到着すると、哭泣してはなはだしく悲しみ、賓客はみな涙を流した。哭礼が終わると、霊牀に向かって言った、「卿は私のロバの鳴きまねをいつも喜んでいましたよね。卿のためにやらせてください」。身体の格好はロバそっくりで、鳴き声も本物のようだったので、賓客はみな笑った。孫楚は賓客のほうを向いて言った、「諸君みたいなのはくたばらねえのに、王済は命を奪われるとはなあ」47原文「楚顧曰、『諸君不死、而令王済死乎』」。『隋書』巻七七、隠逸伝、李士謙伝に「開皇八年、終於家、時年六十六。趙郡士女聞之、莫不流涕曰、『我曹不死、而令李参軍死乎』」とほぼ同じ例がある。『語林』(『太平御覧』巻五五六、葬送四、引)によれば、孫楚の言葉を聞いた賓客はみな怒りだしたというから、孫楚の発言は失礼なものだったのであろう。実際、孫楚は傲慢で、他人に敬服することはほとんどなかったが、王済だけは敬ったという(巻五六、孫楚伝)。以上をふまえると、本文のおおよそのニュアンスは〈つまらない人間が生きながらえる一方で、こんなに立派な人が死んでしまうなんて〉という天への嘆きであると思われる。『世説新語』傷逝篇、第三章は「孫挙頭曰、『使君輩存、令此人死』」とあって、字の異同が大きいが、趣旨は同じであろう。。
これ以前、王済は公主を降嫁されたが、公主は両目が見えず、そのうえひどく嫉妬深かったので、けっきょく息子をもうけることはなく、〔他の女性とのあいだに〕二人の庶子がいた。王卓は字を文宣といい、王渾の爵を継ぎ、給事中に任じられた。次子は王聿、字を茂宣といい、公主を継いで敏陽侯に封じられた。王済には王澄、字は道深、王汶、字は茂深という二人の弟がおり、どちらも聡明で文才があり、二人ともエリートコースを歩んだ。
王渾(附:王済)/王濬・唐彬
(2023/11/16:公開)