凡例
- 文中の〔 〕は訳者による補語、( )は訳者の注釈、1、2……は注を示す。番号を選択すれば注が開く。
- 文中の[ ]は文献の引用を示す。書誌情報は引用文献一覧のページを参照のこと。
- 注で唐修『晋書』を引用するときは『晋書』を省いた。
劉頌
劉頌は字を子雅といい、広陵の人で、漢の広陵厲王・劉胥の後裔である。代々の名族で、同郡には雷氏、蒋氏、穀氏、魯氏の四姓がいたが、すべて劉氏から派生したものであったため、世の人々はこれを「雷、蒋、穀、魯がいるけれども、劉がいちばん古い祖源だ」と言っていた。父の劉観は平陽太守であった。劉頌は若くして物事の道理を見分けることができたので、世の人々から称賛された。孝廉に察挙され、秀才に挙げられたが、どちらにも応じなかった。文帝が相国府の掾に辟召した。蜀への使者を拝命したが、そのころ、蜀は平定されたばかりで、人民は飢え、土地は荒廃していたので、劉頌は上表して〔人民への経済的な〕援助を求めたが、返答を待たずに実行してしまい、このために除名されてしまった。
武帝が即位すると、尚書三公郎に任じられ、法律業務を担当し、冤罪の訴えを審理した。昇進を重ねて中書侍郎に移った。咸寧年間、劉頌と散騎郎の白褒に詔を下し、荊州と揚州を巡回して慰安するように命じた。使者の命を奉じて天子の意向に適ったことをもって、黄門郎に転じた。議郎に移り、守廷尉となった。その当時、尚書令史の扈寅が罪を犯していないのに獄に下されていた。詔を下し、〔扈寅の容疑を〕徹底的に調べるよう命じたところ、劉頌は無罪を合理的に主張し、扈寅はとうとう釈放を得た。世の人々は劉頌を張釈之になぞらえたのであった。〔守廷尉に〕六年在職し、詳平(裁判が公平)と号された。そのころ、〔晋が〕呉を滅ぼすと、諸将は功績を言い争ったので、〔朝廷は〕劉頌を派遣し、諸将の業績を比較して調べさせると、〔劉頌は〕王渾を上功とし、王濬を中功とした。武帝は劉頌が法に固執して道理を見失っていることを理由として、〔劉頌を〕京兆太守に左遷したが、〔劉頌は〕赴任せず、〔ついで〕河内太守に転じた。赴任にさいし、国家に有益で、時勢に適う意見を上言し、採用されたものが多かった。河内郡の領域には公主1『晋書斠注』によると、「公王」に作る本もあるという。が所有する水碓(みずうす)が多くあったが、河川の流れをせき止め、かえって水害を起こしていたので、劉頌は上表してこれを撤去するよう求め〔て聴き入れられ〕、百姓は便益を得たのであった。まもなく、母の死去を理由に辞職した。服喪が満了すると、淮南相に任じられた。厳格に職務に臨み、おおいに政治の成績をあげた。旧来、芍陂を修繕するのに年間で数万人を動員していたが、豪強の家は〔耕作者が不在となった土地を?〕併呑し、孤独で貧乏な家は生業を失ってしまっていた。劉頌は大小分け隔てなく動員して労力を合わさせ、成績を測って分け前を授けた2原文は「受分」。土地を授けたという意味なのかもしれない。ので、百姓はその公平恵愛ぶりを歌って誉めそやした3ここのくだりはいまいち意味をつかみかねるが、豪族もはばかることなく徴発し、かつ失業者には公共事業としての意味あいをもって働いてもらい、両者ともどもきちんと仕事をすれば公平に評価して褒賞を与えた、ということではないかと推測している。。
劉頌は淮南郡に在職中、上疏して次のように論じた。
(長すぎるので省略します。)
また肉刑についても論じたが、〔その議論は〕刑法志を参照せよ。詔を下して返答した。「上表文を拝読したが、封建の制度は古典に倣うべきこと、刑法を用いて4原文は「任刑」。うまい言い回しが思いつかないのだが、法家的なやり方を指す。法を均整にするには肉刑を復活させるべきであること、〔江南に出動している〕六州の将士の労役は〔軽減させるべきだけれども退役はさせず、〕職務に留めておくのが適切であること5先の上疏の一節に「至于平呉之日、天下懐静、而東南二方、六州郡兵、将士武吏、戍守江表、或給京城運漕、父南子北、室家分離、咸更不寧。又不習水土、運役勤瘁、並有死亡之患、勢不可久。此宜大見処分、以副人望。魏氏錯役、亦応改旧。此二者各尽其理、然黔首感恩懐徳、謳吟楽生必十倍於今也。……然古今異宜、所遇不同、誠亦未可以希遵在昔、放息馬牛、然使受百役者不出其国、兵備待事其郷、実在可為。縦復不得悉然為之、苟尽其理、可静三分之二、吏役可不出千里之内」とあるのを言う。との由。およそ奏聞している事柄からは、国家に忠誠を尽くそうとする卿の心をつぶさに知ることができる。〔今後も〕たびたび動静を報告するように」。
元康のはじめ、淮南王允に随従して入朝した。ちょうど楊駿誅殺事変が起こり、劉頌は殿中に駐屯して警衛した。その日の夜、詔が下り、劉頌を三公尚書(三公曹の列曹尚書)とした。〔劉頌は〕ふたたび上疏して律令の事柄について意見を述べ、世論から称賛を受けた。しばらく経ち、吏部尚書に転じた。九班の制6のちの李重伝に見える「選例九等」とおおむね同じ制度だと思われる。[中村圭爾二〇一五]第四章は、「九班」は「九階」「九等の官位序列」(ともに一三三頁)を指すとする。階は品とは別の人事進退基準で、一定の経路のキャリアによって昇進する基準だという(階を進めるにはたんに品を進めればよいのではなく、特定のキャリアを経験しなければならないということ)。そして劉頌の九班制は「歴任官位を九等に限定しようとしたものではなかったか」(一三〇頁)と推測している。九班制は巻一〇六、石季龍載記上にも言及がある。を創設し、百官を官職に留まらせてあまり異動させないことによって、〔官人の〕能否を考課し、〔官人の能否への〕賞罰を明確化しようとした。〔しかし当時の政・官界は、外戚の〕賈郭7原文まま。広く言えば賈氏と郭氏のことだが、とくに賈謐と郭彰を指すとする記述もある(巻四〇、賈充伝附郭彰伝)。が朝政を専横しており、出仕している者は速く昇進することを望んでいたので、結局施行されなかった8干宝『晋紀』総論(『文選』巻四九)に「子雅制九班而不得用」とあり、李善注に引く「王隠晋書」に「転吏部郎、為九班之制、裴頠有所駁」とある。。
趙王倫が張華を殺すと、劉頌はひどく慟哭した。張華の子が逃げおおせたと聞くと、喜んで「茂先よ、卿にはまだ子孫が残っているぞ(茂先は張華の字)」と言った。趙王の徒党である張林がこれを耳にすると、おおいに怒ったが、劉頌の揺るがぬ正直ぶりを恐れ憚り、殺すことはできなかった。孫秀らは趙王の功績を持ち上げ、九錫を加えるべきだと提議したが、百官で異論を唱えようとする者は誰もいなかった。〔しかし〕劉頌だけはこう言った。「むかし、漢が魏に、魏が晋に九錫を加えたのは、どちらも暫定的に必要なことだったのですから、普遍的に実行するべきことではありません。いま、宗廟は平安を得ましたが、寵幸を受けて〔政治に悪影響を及ぼして〕いた皇后が退けられ9原文は「嬖后被退」。賈后のことを言っているのだろう。趙王即位前夜における西晋政界での公式な(というか趙王側の)認識を表わしたものと考えられる。、権臣が誅殺されたとはいえ、周勃が呂氏を誅殺して孝文帝を尊崇したり、霍光が昌邑王を廃して孝宣帝を奉じたりしても、すべて九錫の下命はありませんでした。旧典にそむいて臨機応変の措置を習わしとしてしまうのは、先王の制ではございません。九錫の議は施行することのないよう、お願いいたします」。張林は積年の不満を抑えられず、劉頌を張華の徒党と見なして殺そうとした。孫秀は「張と裴(張華と裴頠)を誅殺したことで、もう世の声望を損なっている。さらに劉頌を誅殺するわけにはいかない」と言った。張林はそこで思いとどまった。こうして劉頌を光禄大夫とし、〔私宅の〕門に行馬(馬止めの柵)を設けさせた。まもなく病卒した10『資治通鑑考異』に引く「三十国春秋」には「倫党大怒、謀害頌、頌懼、自殺」とある。司馬光は本伝のほうを採用しているが、『晋書斠注』は『三十国春秋』を是としている。。使者をつかわして弔祭(哀悼して祀る)させ、銭二十万、朝服一具を賜与し、貞の諡号をおくった。中書侍郎の劉沈が議を発し、劉頌は現代において輩(名声や徳行が同等の人物)が稀少であるから、開府を追贈するのがふさわしいと求めた。孫秀は平素から劉頌を恨んでいたので、聴き入れなかった。劉頌は息子がおらず、弟の劉和の子・劉雍を養子としていたが、〔劉雍は〕若くして卒してしまった。あらためて劉雍の弟・劉詡の子である劉を嫡孫とし、封爵を継がせた。永康元年、詔が下り、劉頌は賈謐の誅殺時に多くの事柄を監督して功績をあげたことを理由に、梁鄒県侯に追封し、食邑は一五〇〇戸とした。
劉頌の弟の劉彪は字を仲雍という。参安東軍事(安東将軍府の参軍事)となり、伐呉のさいには張悌を捕え、昇進を重ねて積弩将軍11『宋書』巻四〇、百官志下に「魏世至晋江左、左右積弩為台職、領営兵」とあり、「台職」すなわち近衛の将軍職であった。に移った。〔積弩将軍在任中のあるとき、〕武庫に火災が起こると、劉彪は算段を講じて建物を切断し、もろもろの宝物を取り出すことができた。荊州刺史を歴任した。次弟の劉仲は字を世混といい、黄門郎を経て滎陽太守に移ったが、赴任する前に卒した。
そのむかし、劉頌は娘を臨淮の陳矯へ嫁がせたが、陳矯はもともと劉氏の子で、劉頌とは近親関係にあり、〔劉氏の家を〕出て姑(父親の姉妹)の養子となって陳氏に改姓していたのであった。中正の劉友がこの婚姻を批判すると、劉頌はこう言った、「舜の後裔である姚氏、虞氏、陳氏、田氏は本来、祖先を同じくしているが、代々みな婚姻を結んでおり、礼律(礼の規則)は禁止していない。いま、これと同義なのだから、婚姻しても問題ない」。劉友は〔告発のためにこの件を〕奏上しようとしたが、陳騫に制止されたので、〔劉頌は〕弾劾されずに済んだ。〔その後、〕劉頌は〔廷尉府の〕明法掾である陳黙と蔡畿に「郷里では誰がもっとも屈12原文まま。この時代の史料によく使われる言葉で「節義を曲げる」といった意味。例えば起家して官吏に就くときのことを「屈」と表現したりする。であろうか」と質問すると、二人はそろって「劉友が屈ですね」と言った。劉頌が色をなして叱り飛ばすと、蔡畿は言った、「劉友は、私議(私的な意見)が明府(劉頌のこと)の機嫌を損ねることを過ちと判断したわけですが、〔このような劉友のありさまを〕郷里の公論は屈と評しています」。劉友は公府の掾に辟召され、尚書郎、黄沙御史となった。
李重
李重は字を茂曾といい、江夏の鍾武の人である。父の李景13『三国志』魏書一八、李通伝の裴松之注に引く「王隠晋書」では、李重の父は李秉と記されている。中華書局校勘記は唐の避諱(昞)により改められたのであろうと指摘している。は秦州刺史、都亭定侯であった14李重が晩年に平陽太守になったときのこととして、『太平御覧』巻二五九、太守に引く「潘尼贈二李郎詩序」に「元康六年、尚書吏部郎、汝南李光彦、遷汲郡太守。都亭侯、江夏李茂曾、遷平陽太守」とあり、『晋書斠注』はここに見える「都亭侯」は父から継いだ爵であろうと推測している。。李重は若くして学問を好み、文才があった。〔父を亡くして〕若くして孤児となったが、弟たち15『三国志』李通伝の裴松之注に引く「晋諸公賛」に「重二弟、尚字茂仲、矩字茂約、永嘉中並典郡、矩至江州刺史」とある。と共同生活を送り、友愛をもって名声をあげた。弱冠の年齢で本国の中正とされたものの、謙遜して辞退し、赴任しなかった。のちに始平王文学となった16この始平王はのちに楚王に改封された瑋か。。上疏して九品制17以下で批判されている九品制度は、中正が人物の才能を判定して九つのランクに分ける制度を指す。について意見を述べた。「先王が制度を議論するときは、時世に応じて因循したり改革したりしました。因循するか改革するかの理(ことわり)は、『時世のおもむくままに移り変わるのみ』だからです18原文「唯変所適」。『易』繋辞下伝が出典。韓康伯注に「変動貴於適時、趣舍存乎会也」とあり、「正義」に「言剛柔相易之時、既无定準、唯随応変之時所之適也」とある。ふつうは「唯ダ変ノ適(ゆ)ク所ノママ」と読むようだが、韓康伯の読み方だと「唯ダ変ハ適ク所ノママ」とか「唯ダ適ク所ニ変ズルノミ」といったところになると思われる(孔穎達の文はよく読めない)。ここでは韓康伯ふうの読み方が文意に適っているので、その読み方で訳出した。。九品制は戦乱の時世に創始され、軍中の政治制度でありましたから、まことに国家経営の不変的な法制ではありません。そのうえ、九品制における過失チェックや禁止ルールはますます細々(こまごま)とし19原文「其検防転砕」。公平性を保つためか悪用を防ぐためか、ともかく何らかの目的で九品制の選挙下ではチェック(検)や禁則事項(防)が設けられているのだけど、時代を経るにつれてそれらがどんどん煩雑になっている、ということであろう。、形式を要求して実質を失ったものになっています。そのゆえに朝野の言論では『〔九品制は〕風俗をせかしく駆り立てており、はなはだな弊害となっている』と誰もが言っているのです。しかし〔九品制の〕改正を議論するに至ると、かえって〔改正を〕疑問とするわけです。臣が思いますに、法を改革し、制度を創始するに際しては、まず利益を開通して損害を閉塞するための道理をきわめ尽くしてから、理を尽くしたその法制を持ち上げて〔天下の〕上に置き20原文「挙而錯之」。『易』繋辞上伝「挙而錯之天下之民、謂之事業」、『礼記』楽記篇「故曰、致礼楽之道、挙而錯之天下無難矣」といったあたりの文句を意識した表現だと思われる。、体例21制度の綱領と細則(綱領制度和内容細則)。(『漢語大詞典』)用例に本伝が挙げられている。本当にその意味で取ってよいのかわからないが、訳者も見当がつかないので、『漢語大詞典』に従った。をおおいに通行させて滞ることのないようにしなければなりませんが、これが〔旧制を〕改めない理由でもあります。いにしえは諸侯が〔世を〕統治していた時代で、封土ごとに定制があり、国ごとに定主があり22原文「分土有常、国有定主」。よく理解できないが、封国ごとに法制や支配者が存在している、という意味だろうか。これが後文とどう関わってくるのかわからない。、民には異心なく、卿大夫は子孫代々俸禄を食み、出仕しても本分を越えようとする考えをもたず、臣従しても越境の交際関係をもたず、上下が団結し、民は主君の徳に感化されて篤厚に帰していました23原文「民徳帰厚」。『論語』学而篇に「曾子曰、慎終追遠、民徳帰厚矣」とある。『論語集解』に「孔曰、慎終者、喪尽其哀。追遠者、祭尽其敬。君能行此二者、民化其徳、皆帰於厚也」とあり、この読み方に従って訳出した。。秦はこの道にそむき、諸侯を廃止して守を設置しましたが、風俗が浅薄になったのは、ここからはじまったのです。漢はその弊害を改め、周制と秦制を斟酌し、諸侯と守を並置すると、封土ごとに定制を布かせつつ24原文「使分土有定」。前文の「分土有常」と同義。諸侯国の自治的なありかたを復活させた、ということであろう。、しかも牧司(地方長官)には必ず各自に賢才を推挙させ、推薦する人材の選出を郷論に委ねさせました。この故事は聖典に合致しており、三代にも比肩します。現今、聖徳が興隆し、四表(四方の果て)までおおいに満ちわたり、民衆は仰ぎ慕い、喜んで太平を眺めております。しかし、魏氏時代の疲弊の爪痕を引き継いでいるため、人々は流浪してしまっており、出仕しても定まった王朝がありませんし、定まった居所もなく、郎官25原文は「郎吏」。ここでは「官僚を志すエリート子弟たち」を指しているか。は軍府に集結し、豪族は都会に凝集しています。〔このように〕事態は複雑に入り交じっていて、いにしえとは異なっています。思うに、九品制を廃止したら、まず〔人々の〕移動を開始し、〔集団で〕連れ立って〔本籍地へ?〕赴くことをご許可なさるべきです。かつ、推挙の法26原文「貢挙之法」。[福原二〇〇二]は「郷挙里選」を指すとする。を明確にし、〔推挙者たる地方長官の〕管轄境域外に〔人選の権限を〕濫用させなければ、冠帯の倫輩は〔九品に〕区分しなくてもおのずと公平に整い27原文「冠帯之倫将不分而自均」。「分」は中正が九品にランク付けすることを指すと思われるが、「均」はどういうことなのかよくわからない。社会的に自然とランク付けされる、という意味か。、土断の成果がゆきわたることでしょう28原文「土断之実行矣」。読み方にあまり自信はない。。また官職を設置するときは、〔そのシステムの〕機能は簡約であることと在任期間を長くとることにかかっています。階級〔の昇進?〕29原文まま。[中村圭爾二〇一五]第四章によれば、品とは別の人事進退基準を指す。劉頌伝の「九班の制」の訳注を参照。が少なければ、〔競争心が起こらず〕人心が落ち着きます。職務を長く勤続させれば、政治教化が完成して能否がはっきりします。これが『三代がまっすぐな道に従って行動したゆえん』です(『論語』衛霊公篇)。愚考いたしますに、銓衡制度の九等制は30原文は「選例九等」。前文の「簡久」を旨とする人事運用に関わる選挙制を指すと考えられ、劉頌が提唱した「九班之制」(劉頌伝)と同趣旨の制度、すなわち官人の異動を少なくして長く官職におらせる設計の制度だと思われる。よって、これまで批判されてきた九品制(原文は「九品」)――中正が人材を九つにランク付けする制度――とは別の選挙制度のことである。[中村圭爾二〇一五]第四章も参照。、当今の要(かなめ)であり、施行するべき制度であります。聖王は、天下は恒常不変に留まりがたいことを理解し、政事を天下の移り変わるほうへ従わせ、それゆえに人材の捜索を村落に託したので、〔村落の〕家々はすべて有司だったわけです。〔また、〕かりに官職が才能にもとづいた人材ではなく、職務が能否を考査した人材ではなければ、たとえ〔聖王が〕聖智を出し尽くしたとしても、政事を満足に切り盛りするには不十分でしょう31原文「若任非所由、事非所覈、則雖竭聖智、猶不足以贍其事」。わからない。「則」以下の後半は「たとえ聖人であったとしても、独りで政治を切り盛りすることはできない」という意味だと思うが、前半がよく読めない。そもそもこれ以前の文章とのつながりもよくわからない。前文が土断の正当性を述べていると思われるので、ここの文は九等制の妥当性を論じているのだろうとは思うが。全体的にやっつけ気味に読んだ。。以上より見れば、もし二者(土断と九等選例)が実行されれば、人々は根本に回帰しようと考え、そのために郷里で修身し、華競(浮華と競争の風潮)はおのずと止み、礼譲が日に日に盛んとなることでしょう」。
太子舎人に移り、尚書郎に転じた。そのころ、太中大夫の恬和が上表し、〔政治に〕便益があり、時宜に適っている事項について意見を述べ、漢の孔光や魏の徐幹らの議論32孔光は『漢書』巻二四上、食貨志上、徐幹は『中論』(『群書治要』巻四六、引。兪紹初『建安七子集』(中華書局、二〇〇五年)収録の『中論』逸文に相当)の議論がそれぞれ該当する議論だと思われる。を称揚して、王公以下の奴婢の数を制限し、百姓が田宅を売るのを禁止するよう主張した。中書が〔武帝に〕啓し、主者に委任して法制を策定させるべし、と言った。李重は上奏して言った。「先王の制では、士農工商で身分があり、四民それぞれの生業を移らせませんでした。物を利用して民を養い33原文は「利用厚生」。『尚書』大禹謨篇や『左伝』文公七年に見える言葉。『尚書』の孔伝には「正徳以率下、利用以阜財、厚生以養民。三者和、所謂善政」とあり、『漢語大詞典』に「のち、これにちなんで物を用いることと民を養うことを『利用厚生』と言うようになった(後因称物有所用・民有所養為『利用厚生』)」とある。、四民おのおのにその力を出し尽くさせるためです。『周官』は土均の法を用いて、土地を計測して井田に区画し、五種類の土地に特有の動植物を九等に弁別して貢賦を序列づけ、それから〔土地や物の〕公私が区分され、率土が平等に整いました34原文「周官以土均之法、経其土地、井田之制、而辨五物九等、貢賦之序、然後公私制定、率土均斉」。よく読めない。『周礼』地官、大司徒に「以土均之灋、辨五物九等、制天下之地征、以作民職、以令地貢、以斂財賦、以均斉天下之政」とあるのが拠るところであろう。鄭玄注に「均、平也。五物、五地之物也。九等、騂剛赤緹之属。征、税也。民職、民九職也。地貢、貢地所生、謂九穀。財、謂泉穀、賦、謂九賦及軍賦」とある。。秦が阡陌を設け、郡県を建てて以来、この制度はすでに滅びています。漢魏の時代に下っても、旧来の軌跡を踏襲しており、王法が厳しく取り締まっていたのは、わずかに衣服、物品、車、器物に貴賤の差を設け、分際を越えた真似をして尊卑を乱さないようにさせていただけでした。奴婢や私的財産については、実際のところ、これまで誰も狙い打ちしてこれらに制限をかけたことはありません。〔泰始?〕八年の己巳詔書は、律令について明快に説明しておりますが、〔それによれば〕およそ士卒や百工以上であれば、衣服や乗り物はすべて制限を越えてはならず、もしひとつの県で一年以内に違反者が三家以上、洛陽県であれば十家以上あったら、官長(県の令長)は免官とする、との由。詔書の主旨の通りにすれば、法制はすでに厳格です。いま、恬和が意見を述べて孔光や徐幹の議論を称揚しているとおり35原文「今如和所陳而称光・幹之議」。読みにくくて意味がよくわからない。だいたいのニュアンスを推測して訳してみた。、これら(奴隷や田宅の過剰所有)はすべて衰世における分不相応の奢侈にして、現代における心配事です。しかしながら、盛漢の初期にはそのような制限を議論せず、〔その後の時代に〕孔光らが発議をしましたが、実行されませんでした。〔法案に〕遺漏があって実行に及ばなかったのではなく、実行可能だったけれども採用しなかったのです。思うに、諸侯の制度はもう滅び、井田の制も復活せずにいるのですから、王者の法が人の私的財産を制限することはできないと思われます。人の田宅に制限がないのですから、奴婢の数にひとえに制限を設けるべきではありません。おそらく思うに、いたずらにこれらの法を定めたとしても、実際は煩雑で、取り締まりは難しいことでしょう。現今、聡明なる主上が制限をお示しになられており、〔また〕つねに簡素を尊ばれ、〔しかも〕法禁はすでに具備されているのですから、恬和の上表は施行する必要がありません」36以上の議の論理的な組み立ては、訳者にもまったくわからない。わからないまま表面的に日本語に置き換えた。。
また司隷校尉の石鑑が上奏し、鬱林太守の介登が部下を使役したと告発して、〔中央に〕召還するよう要請した。列曹尚書の荀愷は、遠郡は人が喜んで赴任する場所ではないと思い、介登を減俸のうえ官に留めさせるよう上奏した。李重は反駁して言った。「臣が聞くところでは、法を立てるにあたって制約(法が適用されない特殊ケース)を設けないのは、衆人を平等に扱い、悪を取り締まるためであって、つぶさに事情を調べ、合理性に疎漏がないようにするためとは必ずしも限りません。それゆえ、〔法が〕取りこぼしてしまう者は少ない一方で、救済する者は多いのです。いま、介登の郡の同類のような郡は多くありますが、もし『減俸のうえ官に留めさせる』ことを認可してしまえば、ややもするとそれが標準となってしまい、おそらくは、凡才が遠方を恃みに必ずや収賄の罪を犯すことでしょう。〔減俸留任の処分は、〕王化を清らかに整え、殊域を平和にする方法ではありません。臣が愚考するに、石鑑の上奏を聴き入れ、まず介登を召還するとともに、体例に普遍性をそなえさせ、遠近で法制を異にすることのないようになさるべきかと存じます」。詔が下り、これを聴き入れた。
太煕のはじめ、廷尉平に移った。廷尉が邯鄲酔らを奏上告発したのに反駁したが37原文「駁廷尉奏邯鄲酔等」。廷尉府内部での言い争いをしたということか? よくわからない。、分量が多いので掲載しない。ふたたび中書郎に移った。重要案件や判断に迷う案件があるたびに、協議に加わって経典を根拠に決定を下し、多くが施行された。尚書吏部郎に移り、華競(浮華と競争の風潮)を抑制することに努め、私的な面会(請託を指す)を通さず、隠逸の士に格別に留意したので、群才がことごとく推挙され、北海の西郭湯、琅邪の劉珩、燕国の霍原、馮翊の吉謀らを抜擢して秘書郎や諸王文学とした。それゆえ、海内の人々は誰もが〔李重に〕帰心したのであった。そのころ、燕国の中正であった劉沈が霍原を寒素(選挙科目のこと)に推挙したが38霍原の本貫は燕国。巻九四、隠逸伝に列伝があり、そちらのほうでは劉沈は霍原を「二品」に推挙したと記されている。よって、寒素科は郷品二品に当たるのであろう。この点は後文からも確認できる。、司徒府は聴き入れなかった。そこで劉沈は抗議のために中書省を訪れ、霍原を奏上し〔てあらためて推薦し〕たところ、中書省は司徒府にも指令を下し、議論に加わるよう命じた39原文「中書復下司徒参論」。司徒府と中書省の関係は正確に理解できていないが、原文には「下」とあるのでこのように訳した。ここまでのプロセスで李重が所属している尚書吏部はいっさい関与していないかのようだが、中正―司徒は品の選定、吏部は官職の選定で職務を分担しているので、品の決定は吏部の管轄外だったのだと思われる。[宮崎一九九七]一三七頁を参照。なお本伝について、宮崎氏は次のように解説している。「中正が郷品を決定して、司徒府にその承認を求めるが、時には司徒府が拒否権を行使する。霍原の場合には、司徒府から、抑も霍原を寒素に挙げたのが間違いであったと横槍が出た。これで見ても判るとおり、司徒府と尚書とは系統を別にして、いよいよ郷品が定まる時までは司徒府は全然関係していなかったのである。さて霍原が司徒府から拒否されると、中正劉沈は自己に落ち度がなかったことを天子に上奏し、天子は中書をして司徒と折衝させ、……」(一五七頁)。。司徒左長司の荀組の意見。「寒素とは、家格が『寒』(低い)、身分が『素』(無位無官で貧素)で、世資40原文まま。父祖代々にわたって蓄積した「資」を指すと考えられる。がないことを言います。霍原は列侯で、金章紫綬を佩いており、以前は世間で流行っていることをやり41原文「先為人間流通之事」。具体的には浮競を指すか。、年齢を重ねてから学問に励みました。若年のときと高齢のときとでなりわいを異にしており、三十歳を過ぎてからはじめて立ち42原文「年踰始立」。「三十而立」(『論語』為政篇)をふまえた表現であろう。『論語集解』には「有所成也」とある。、草野での名声はまだ広まっておらず、徳と礼の評判はありませんから、寒素の科目にはふさわしくありません」。李重は上奏して言った。「案ずるに、癸酉詔書はこうおっしゃっています。『清廉と謙譲は尊ぶべきで、浮華と競争は退けるべきである。そこで、履謙(謙譲を実践している)、寒素、靖恭(つつしみ深い)、求己(反省の心がある)の徳目をそなえている者は優先的に挙げよ』と。詔書のご意向に従えば、二品を資に関連づけてしまうと43原文「以二品繋資」。基本的に郷品二品は資が必要であった、ということであろう。、清廉謙譲の士を失ってしまうかもしれないので、寒素の科目を設け、徳を尊ぶ推挙を明示しようとしたわけです。司徒は人材選考を総括し、まことに『邦教をつかさどる』のですから44原文「実掌邦教」。『周礼』地官司徒に「乃立地官司徒、使帥其属而掌邦教、以佐王安擾邦国」とあるのが典故。、人材評価を厳格におこない、そうして習俗を斉一に整えることに努めなければなりません。しかし、いにしえの厲行高尚45原文まま。「厲行」は品行に励むこと、「高尚」は高潔な節操。の士は、或る者は岩穴に宿り、或る者は田園に隠れ、或る者は己れを引き締めて礼に立ち返り46原文は「克己復礼」。『論語集解』が「馬曰、『克己、約身』。孔曰、『復、反也。身能反礼、則為仁矣』」と注解しているのに従って訳出した。、或る者は年老いてから名声をあげました。出仕するか隠棲するか、言論を発するか否かは、わずかに義の所在しだいでした。若年のときと高齢のときとでなりわいを異にしているからといって、保持している美徳に疑いを向け、終始を一貫させる責任からかけ離れているとみなすべきではありません。〔そのような判定のやり方は、〕いわゆる『人材を比較するときは必ず倫輩と比較する』(『礼記』曲礼篇下)という義に反しています。まことに当人を郷党の倫輩と比べ、推薦保証人で審査するべきなのです。劉沈は中正となり、みずから選考を執り行なっていますが、〔彼は〕このように言っています47以下から「如沈所列」までの文章は、劉沈の奏上からの引用とみなして訳出した。。『霍原は隠棲して自己の志の実現を求め48原文「隠居求志」。『論語』季氏篇「隠居以求其志」が出典。、いにしえを好んで学問に励み、学問は利益のためにせず、実践行動は名声を求めず、奥深い山で世俗との関わりを絶ち、道芸49原文まま。辞書的には「学問と技芸」または「道術(不老長生の術)」のことだが、ここではたんに学問を指すか。への思いを秘蔵し、外面では世俗的な名誉を希求する立ち居振る舞いをせず、内面では隠逸への節操をまっとうし、徳行を修得して名声を立て、搢紳は彼を慕い、贈り物を献じて学業を受けようとする者は千里を隔てて呼応しており、孫孟50不詳。「孫」は逸士の孫登(巻九四、隠逸伝に立伝)を指すか。のような風格や厳鄭51漢代の逸士である鄭子真と厳君平のこと。『漢書』巻七二の序に事跡が記述されている。のような節操をそなえています。最初に霍原を推挙したときは、事前に侍中、領中書監の華、まえの州大中正、後将軍の嬰、河南尹の軼に諮問しました52後文では、ここで挙がっている人物は「州党」の人士と言われている。霍原の本貫であり、劉沈が中正として臨んでいる燕国は幽州所属なので、おそらく三人みな幽州出身の人士であると思われる。そうだとすれば、「華」は范陽出身の張華である可能性が高い。。三年前には、諸州〔の刺史〕が帰朝したさいに、幽州刺史の許猛がとくに霍原の名を奏聞し、彼を西河〔の長官〕に擬官し53原文「擬之西河」。ここの「擬」は「任官にふさわしい候補の官職を挙げる」という意味で解釈し、よって「西河」は長官と解したが、いきなり郡国の守相に任用されるというのも奇妙な感じがあり、また直後の文には「求加徴聘」とあって中央政府に招聘することが要請されているので、誤った読解かもしれない。、中央に招聘するよう求めています』。〔以上の〕劉沈の奏上によれば、州党の議が〔霍原を〕推薦しているうえ、刺史も〔癸酉?〕詔書を〔郡県に?〕頒布して〔霍原を〕上表して推薦しています54原文「刺史又班詔表薦」。「班詔」はよくわからない。幽州刺史は先に李重が言及していた癸酉詔書を郡県に下達し、そうして名が挙がった霍原を推薦した、という意味か。。このようであるのになお『草野での名声はまだ広まっておらず、徳と礼の評判はありません』と申すのは、調べて確認した事実を放り捨て、しかも〔司徒府の主張には〕明白な道理や公正な言葉があるわけでもなく、そうして劉沈の意見を取り消そうとしています。くわえて、二品は完璧を求めるものではないはずです。霍原は奥深い山〔での隠棲〕に志を定め、儒学を修めて祖述しているのみですが、義として嘉するに値します。もし、最終的に〔推薦意見を〕抑えつけて退ければ、幽州の輿論にそむき、徳を涵養する教化をそこなってしまうでしょう。詔書が求めているご意向に従い、二品とするべきです」。詔が下り、これを聴き入れた。
李重と李毅はともに吏部郎であった。その当時、王充が吏部尚書で、李重は清廉高尚をもって名声をあげ、李毅は学識博通であった。二人の節操は異なっていたとはいえ、ともに要職に就き、王戎が〔持ち前の〕観察眼55原文は「識会」。「人柄や才能、事の是非を正しく見分ける能力」(『漢辞海』)。でもって両者を遇したので、おのおの適所を得たのであった。李毅は字を茂彦というが、旧史にはその行跡が記されていない。そのころ、内官(中央官)が重要な職、外官(地方官)が軽微な職となっており、かつ階級〔の昇進?〕が細々(こまごま)としていて多かったので56原文「内官重、外官軽、兼階級繁多」。中央官(李重が具体例で挙げているのは尚書省の官)の地位や権力がだんだん重くなっていくにつれ、それまで統治の枢要を担っていた地方官の地位や権力が低下したことを言っているようである。「階級」は前の訳注を参照のこと。、李重はこれらについて議論したが、〔その議論については〕百官志を参照せよ57唐修『晋書』に立てられているのは職官志であって百官志ではなく、しかも職官志に李重の議は載っていない。従来、この百官志は臧栄緒『晋書』または王隠『晋書』の百官志を指すと指摘されている。またここで言われている李重の議に相当すると考えられるものは、『群書治要』巻二九、晋書上、百官志、『通典』巻一六、雑議論上、『太平御覧』巻二〇三、総叙官に引く「李重集雑奏議」などに見える。[中村圭爾二〇一五]一二八頁を参照。また中村氏によれば、李重は先の「選例九等」の発議ののち、ここで言及されている議を提出し、これが採用された結果、甲午制(巻四三、王戎伝)が創立され、そしてさらにこののちに劉頌の九班制が提議された、と考察している。同前一二八―一三〇頁を参照。。また上疏して言った。「およそ、山林で仕官を避けようとする人士は、時世にそむき、出仕と隠棲で軌道を異にしているとはいえ、先王がこれを容認していたのは、高尚な節義を守っているのを嘉していたからです。むかし、先帝は風流の弊害に頭を悩ませ、純朴への回帰を願い、そこで朝廷の衆人に諮問し、隠逸の人材を探し求めたのでした。咸寧二年、最初は安定の皇甫謐を太子中庶子に召し、同四年に南安の朱沖を博士に召し、太康元年にふたたび朱沖を太子庶子に召しました。すべて病気を理由にやって来ませんでしたが、朝野ともども心から喜びました。陛下は、先帝が賢人を礼遇しようとしたお心に思い馳せて、励みとしています。臣が朱沖の州の出身者に質問したところ58原文「臣訪沖州邑」。朱沖の本貫である南安郡は秦州の所属。、次のように言っていました。『朱沖は老齢に近づいているとはいえ、意気は強壮で、深い山沢で道に没頭し、老いてますます若々しく、貞節は高尚純粋で、彼がいる場所には教化が実現し、まことに山に隠棲する年配の有徳者であって、世に表彰され、風俗を篤実にするのに値する者です』と。臣が思いますに、生命を保っているうちに聖恩をお恵みになり、優命をお加えになるべきかと存じます」。当時、朝廷は政治が混乱していたので、結局〔李重のこの意見を〕聴き入れることはできなかった。地方に出て行討虜護軍、平陽太守となった。徳化を尊び、学校を修復し、篤行のひとを表彰し、賢能を抜擢し、清廉簡素にして無欲であり、身を正しくして下々を率い、在職三年にして四県の令長を弾劾した。弟の李嶷が亡くなったため、上表して官を辞した。
永康のはじめ、趙王倫が相国府の左司馬に登用したが、憂鬱が差し迫るあまりに病気を発し、卒した59甥の李充(巻九二、文苑伝に立伝。李重の弟・李矩の子)は自殺したと言っている。『世説新語』品藻篇、第四六章を参照。『世説新語』賢媛篇、第一七章も、孫秀が李重に自裁を迫ったため、李重は自殺したという(劉孝標は同章のエピソードに疑念を呈している)。また『晋諸公賛』(同章の劉孝標注引および『三国志』李通伝の裴松之注引)によれば、容態が重くなって人に助けられながら拝受し、それから数日で卒したという。。享年四十八。家は貧乏で、家屋は狭く、殯斂60かりもがり。遺体を納棺して安置すること。のスペースもなかったので、詔を下し、典客署で葬儀を営ませた。散騎常侍を追贈し、成の諡号をおくった。子の李式は名声があり、侍中まで昇進し、咸和のはじめに卒した61ほかに第五子として李廞も知られている。『世説新語』棲逸篇、第四章を参照。。
(2025/3/30:公開)