凡例
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宗室伝系図/安平王孚/附:安平世子邕・義陽王望・太原王輔・翼・下邳王晃・太原王瓌・高陽王珪・常山王衡・沛王景/彭城王権・高密王泰(附:高密王略・新蔡王騰・南陽王模)/范陽王綏(附:虓)/済南王恵/譙王遜/高陽王睦・任城王陵
安平の献王の孚は字を叔達といい、宣帝の次弟である。はじめ、孚の長兄の朗は字を伯達といい、宣帝は字を仲達といい、孚の弟の馗は字を季達といい、恂は字を顕達といい、進は字を恵達といい、通は字を雅達といい、敏は字を幼達といい、みな名声をあげたので、世の人々は「八達」と呼んだ。孚は温厚かつ謙虚な人柄で、経書と史書に博通していた。後漢末の戦乱時、兄弟とともに危険の最中に身を置いていたが、質素な生活に安住し、倦まずに読書をつづけた。〔孚は〕寛大な性格で、純正清廉をもって自立し、他人を憎んだことがなかった。陳留の殷武は天下に名声を博していたが、あるとき、罪を犯してしまった。孚は彼のもとに行って面会すると、そのまま同居し、食事を分かち合った。論者はこれを称賛した。
魏の陳思王植は秀才をそなえ、属僚を選抜していたが、〔陳王は〕孚を王文学掾とした。陳王は才を恃んで他人を侮っていたので、孚はいつも厳しく諫めていた。〔陳王は〕最初は気にくわなかったが、のちには過ちを認めて詫びるようになった。太子中庶子に移った。魏の武帝が崩じると、太子は号哭したが、度が過ぎていたため、孚は諫めた、「大行王1「大行」は諡号が定まるまでの呼称。がお隠れになったたため、天下の人々は殿下を頼みに命をつなごうとしています。上は宗廟のため、下は万国のために行動するべきなのに、匹夫の孝行を模倣している場合でしょうか」。太子はしばらくしてから号泣をやめ、「卿の言うことが正しい」と言った。当時、群臣は武帝の崩御を知ると、集まって号泣したが、整列していなかった。孚は朝廷で声を張り上げ、「いま、大行王がお隠れになり、天下が動揺しているのだから、早急に後継ぎの君に敬服して、天下を静めなければならない。それだというのに、号泣しているだけか」と言った。孚は尚書の和洽と協力して、群臣を帰らせ、禁軍を整え、葬儀を準備し、太子を奉じて即位させた。これが〔魏の〕文帝である。
このとき、ちょうど侍中や散騎常侍などの侍官の選挙がおこなわれていたが、太子に以前から侍っていた左右の者たちが、選挙の担当官をしきりにさとし、登用するにしても、ほかの人間を選ばないように要求した。孚は「堯や舜のような名君であっても、必ず稷や契のような名臣を必要とする。いま、後継ぎの君が新たに立ち、天下の秀才や賢者を抜擢しようとしておられるが、それでもなお〔人材を〕得られないのではないかと心配されている。この機会を利用して自薦することをどうして望んでおられるだろうか2文帝は人材不足を懸念しているというのに、埋没している人材を推薦するようなことをせず、自分を売り込むことに必死だとは何事か、ということであろう。。〔このようでは〕官職は適任者を得られないし、〔官職を〕得た者も高貴になりえないというのに」と言った。とうとう別人を登用することに変更された。孚を中書郎、給事常侍に移し、省内(殿中)に宿直させ、〔ついで〕黄門侍郎に任じられ、騎都尉を加えられた。
このころ、孫権は〔魏に〕称藩し、任子を送ることを願い出て、〔また〕まえの将軍の于禁を帰還させると言っていたが、しばらく経っても到着しなかった。文帝はそこで孚に諮問したが、孚はこう答えた、「先王が九服の制を創設したのは、まことに要服や荒服のような辺境の土地は徳によって服従させがたいからであり、〔なので〕諸夏の礼儀にもとづいて責めなかったのです。陛下が帝業をお継ぎになると、遠方の人々は服従し、朝献に参っています。孫権はまだ任子を送っておらず、于禁も到着していませんが、このまま寛大な御心でお待ちになるべきかと存じます。兵士や軍馬を養いつつ、変化を観察なさるのがよいでしょう。嫌疑を理由に譴責なさってはなりません。〔そのようになさいますと〕おそらく、遠方を服従させる義を損なってしまうでしょう。孫策から孫権にいたるまで、代々に〔勢力が〕継承されていますが、于禁は〔孫氏にとって〕強みでも弱みでもありません。于禁がまだ到着しないのは、きっと別の理由があるのでしょう」。のち、于禁は到着したが、はたして〔于禁の〕病気のために遅れたのであった。しかし任子はけっきょく来なかった。〔文帝は〕大軍で長江に臨み、約束にそむいていることを責めたが、呉はとうとう関係を絶ち、朝献しなかった。〔孚は〕のちに地方に出て河内郡の典農となり、関内侯の爵を賜わり、清河太守に転じた。
これ以前、魏の文帝は度支尚書を置き、軍事と国政の会計を独占的に担当させたが、朝議では、戦争がやまないことを理由につねに節約を求めていた。明帝が位を継ぐと、孚を〔度支尚書に〕登用しようと思い、左右の者にたずねた、「〔孚には〕兄の風格があるだろうか」。返答、「兄に似ております」。明帝、「二人の司馬懿を得るのだ。これなら悩むこともなくなろう」。〔そうして〕度支尚書に転じた。孚は、敵軍を破って勝利を収める秘訣は事前の準備にかかっていると考えた。諸葛亮が関中に侵入するたびに、〔魏の〕辺境軍では敵軍(蜀軍)を制圧できないため、中央軍が駆けつけていたが、毎回機会を逸していた。〔孚はそこで〕あらかじめ歩騎二万を選抜して、二部に構成し、討伐の用意をしておくべきだと勧めた。また、関中は連年、賊の侵略をこうむっていて、穀帛(財政)が不足していたことから、冀州の農丁五千人を派遣して上邽に駐屯させ、秋冬は軍事訓練に従事させ、春夏は農業をおこなわせた。こうして関中の軍事と政治には余力が生まれ、賊の対応にも備えがあるようになった。のちに尚書右僕射に任じられ、昌平亭侯に昇格し、〔ついで〕尚書令に移った。大将軍の曹爽が専権し、李勝、何晏、鄧颺らが政治を乱すようになると、孚は政務を執らなくなり、身を正して禍を遠ざけることだけにつとめた。宣帝が曹爽を誅殺したとき、孚は景帝とともに司馬門に駐屯した。功績によって長社県侯に昇格し、侍中を加えられた。
このころ、呉の将の諸葛恪が合肥新城を包囲したので、〔魏は〕孚に諸軍二十万を指揮させて進ませ、これを防がせた。孚は寿春に駐留すると、毌丘倹、文欽らを派遣し、進軍させて討伐させた。諸将はすみやかに攻撃をかけることを望んだが、孚は「そもそも攻撃をかける側は、他人の力を利用して功績を立てるものである3原文「夫攻者、借人之力以為功」。よくわからない。ここの文脈に即して言えば、自軍だけで功績を立てるのではなく、敵軍の力も利用する、ということか。(2022/6/17:訳注追加)。それに、いまは〔智略をはたらかせて敵軍を〕欺くべきだ。武力で争うべきではない」と言った(2022/6/17:訳文修正)。そこでひと月あまり滞留してから進軍したところ、呉軍は動きを知るや退却した。
魏の明悼皇后が崩じたとき、銘文を旗に記す4原文「書銘旗」。ここは「銘ヲ旗ニ書ス」と読み下した。ひつぎの前にのぼり旗を立てるが、その旗に故人の姓名などの銘文を記すこと。このような旗を「銘旗」と呼ぶ。『礼記』士喪礼篇によると、銘旗に「某氏某之柩」と銘文を記すとあり、「正義」には「凡書銘之法、案喪服小記云、『復与書銘、自天子達於士、其辞一也。男子称名、婦人書姓与伯仲』」とある。件について議論がおこなわれたが、ある者は姓〔の毛氏〕を省略して魏を記すことを求め、ある者はどちらも記すことを主張した5前者が「魏明悼皇后之柩」、後者が「魏明悼毛皇后之柩」という感じであろうか。。孚の意見、「経書の正義(正しい解釈)によれば、どちらも書くべきではない。およそ、帝王はすべて、もともと治めていた国の名称を引き継いで天下の号とし、そうすることで以前の王朝と区別したにすぎず、美名を選んでみずから輝こうとしたわけではない。天は皇天と称されるので、帝は皇帝と称される。地は后土と称されるので、后は皇后と称される。これは、〔皇帝と皇后が〕天地に等しい称号で、唯一無二を示す尊号であるゆえんであり、国号を称するまでもなくおのずと表示され、氏族を称するまでもなくおのずと明白なのである。このため、『春秋』の隠公三年の経文に『三月庚戌、天王崩ず』とあり、尊んで天〔王〕と呼び、周王とは言わないのは、列国の諸侯から区別するためである。〔同じく隠公三年の経文に〕『八月庚辰、宋公の和、卒す』とあり、国名を記し、〔国君の〕名を呼ぶのは、天王と区別するためである。襄公十五年の経文に『劉夏、王后を斉に逆(むか)う』とあり、『周王后の姜氏を逆う』と〔国名と姓を〕言わないのは、列国の夫人と区別するためである。列国にかんしては、『夫人の姜氏、斉より至る』(桓公三年)とか、『紀の伯姫、卒す』(荘公四年)とあり、国名を記し、姓を呼んでいるが、これは天王后と区別するためである。これらにもとづいて考えるに、尊んで皇帝と称し、明白に唯一無二であるのに、どうして魏〔の皇帝〕と言う必要があろうか。尊んで皇后と称し、諡号によって〔誰であるかを〕明示しているのに、どうして姓を言う必要があろうか。議者で魏と記すことを求めている者は、天皇の尊貴さはいにしえの列国の君主と同等だと考えていることになる。また姓を記すことを主張している者は、天皇の后はいにしえの〔列国の〕夫人と同様だと考えていることになる。〔このように、皇后の呼称に国名や姓を付加することは〕経典の大義にそむき、聖人の明瞭な制度とも異なるのである。規範を将来に伝え、万世不変の模範とするやり方ではない」。最終的に孚の議が採用された。
司空に移った。王淩に代わって太尉となった。蜀の将の姜維が隴西を侵略すると、雍州刺史の王経が敗北したので、〔朝廷は〕孚を派遣し、関中に出鎮させ、諸軍事を監督させた。征西将軍の陳泰と安西将軍の鄧艾が進軍して姜維を攻めると、姜維は撤退した。孚は京師に帰還し、太傅に転じた。
高貴郷公が殺されると、百官はあえて〔その遺体に〕駆けつけようとしなかったが、孚は遺体の頭をももに乗せ、慟哭して言った、「陛下を殺した罪は臣(わたし)にあります6直訳しようとすると「陛下を殺したこと(殺陛下者)」は「臣の罪」という具合になると思われるが、ぎこちないので意訳した。」。〔孚は〕上奏し、過失を負うべき責任者をつきとめたいと述べた7原文「奏推主者」。よくわからない。『梁書』巻一九、樂藹伝にも用例があり、それをふまえて推測すると、「主者」は「責任を負うべき者」つまり犯人のことを言い、それを「推理する」ということだと思われる。。このとき、太后が令を下し、〔高貴郷公を〕庶人の礼で埋葬するよう命じたが、孚と群公は上表し、王の礼で埋葬するよう求めたところ、〔太后は〕これを聴き入れた。
孚はひじょうに慎み深い性格であった。宣帝が政権をにぎると、つねにみずから謙遜していた。のちに廃立(斉王と高貴郷公?)の機会に遭遇したときも、まったく謀略に関与しなかった。景帝と文帝は、孚が親族の重鎮であることから、あえて強制しようとしなかった。のちに長楽公に昇格した。
武帝が受禅すると、〔魏の〕陳留王は金墉城に赴くことになった。孚は拝礼して別れを告げ、陳留王の手を取り、涙を流してすすり泣き、こらえきれなかった。「臣は死ぬその日まで、もとより大魏の純臣でございます」と言った。詔が下った、「太傅は勲功が高く、徳に厚い。朕が仰ぎ慕う御方であり、そうすることによっておおいなる訓戒を〔世に〕あまねく教示し、天下を安静にさせられるのである。願わくは、〔太傅を〕不臣の礼をもって奉じたい。そこで安平王に封じ、食邑は四万戸とする。太宰、持節、都督中外諸軍事に進める」。有司が奏し、まだ就国していない諸王については、設置するべき官属を〔就国するまで〕しばらく置かないように求めた。武帝は、孚は厚い徳を備えた親族の重鎮であり、〔世に〕教化を確立して広めねばならず、諸侯のために模範を示さねばならないとの理由から、とうとう官属を置かせた。また、孚は内には親族があり、外には交友がおり、恩施の出費がかかるにもかかわらず、財産に恵まれていたわけではなかったため、〔武帝は孚に〕絹二千匹を奉じた。元会のとき、詔を下し、孚が車に乗ったまま上殿することを許し、武帝は阼階8南向きの堂に庭から上る東側の階段。主人の上る階段。(『漢辞海』)で迎え、拝礼した。座席につくと、武帝はみずから杯を奉じ、祝いの言葉を述べて酒をつぎ、〔君臣ではなく〕家人の礼に従った9原文「家人礼」。後輩世代の礼ということであろう。『芸文類聚』巻四五、諸王に引く「又」(王隠『晋書』)には「子孫之礼」とある。。武帝が拝礼するたびに、孚はひざまずいてそれをやめさせた10『太平御覧』巻二九、元日に引く「又曰」(晋起居注)には「太始四年正月、上臨軒、朝群臣於太極殿前。詔安平王載輿車昇殿、上迎拝於阼階。王坐、上親奉觴上寿、皆如家人之礼。王拝、上皆跪而止之」と、孚が拝礼したら武帝はひざまずいてそれをやめさせたとあり、本伝とは逆である。。また、雲母輦、青蓋車を支給した。
孚は尊重されていたが、それを光栄と思わず、いつも不安そうな表情をしていた。臨終のさい、遺令にいう、「有魏の貞士、河内温県の司馬孚、字は叔達、伊尹や周公のようにはせず11原文「不伊不周」。『漢書』巻一〇〇下、叙伝下に「孝平不造、新都作宰、不周不伊、喪我四海。述平紀第十二」とあり、顔師古注に「……。言其自号宰衡、而無周公・伊尹之忠也」とあり、宰相としての忠誠を尽くさなかったことを言うらしい。あるいは王朝交代にさいして新王朝の君主を補佐しなかった、という含意もあるのかもしれない。、伯夷や柳下恵のようにもせず12原文「不夷不恵」。『後漢書』列伝五一、黄瓊伝に「蓋君子謂伯夷隘、柳下恵不恭、故伝曰、不夷不恵、可否之間」とあり、李賢注に「論語孔子曰、伯夷・叔斉不降其志、不辱其身。謂柳下恵、少連降志辱身。我則異於是、無可無不可。鄭玄注云、不為夷斉之清、不為恵連之屈、故曰異於是也」とある。屈しなかった伯夷と屈した柳下恵と、彼らを可もなく不可もなくといい、どちらも採らずに異なる立場を取った孔子という、『論語』微子篇にある話にもとづいた表現。、身を立てて道をおこない、終始一貫した。質素な棺と一重の外梈を用い、時服で埋葬せよ」。泰始八年に薨じた。享年九十三。武帝は太極殿東堂で三日間挙哀した。詔を下した、「王の勲功と徳は不世出であり、尊貴は匹敵する者がいない。百歳まで官位におり、朕のよりどころであった。長寿を願い、指導を仰いでいたのだが、にわかにお隠れになってしまわれ、ひどく悲しみを覚える。そこで、東園温明秘器13特別な葬具のこと。汝南王亮伝の訳注を参照のこと。、朝服一具、衣一襲、緋練百匹、絹と布をそれぞれ五百匹、銭百万、穀物千斛を葬儀に供出する。あらゆる施行はすべて漢の東平献王蒼の故事に従え」。孚の家は孚の遺言を尊重したので、支給された器物はすべて使用しなかった。武帝はふたたび葬儀に臨席し、みずから拝礼して哀悼を尽くした。埋葬時には、さらに都亭に行幸し、棺を眺望して拝礼し、その悲哀ぶりは左右の者たちの心をうった。鑾輅軽車、介士武賁百人、吉凶導従二千余人、前後の鼓吹14以上の支給内容は詳細不明。を支給し、太廟に配して祀った。邕、望、輔、翼、晃、瓌、珪、衡、景の九人の子がいた15孚の一族は繁栄を極めたと形容されることがある。『芸文類聚』巻四五、諸王に引く「又」(王隠『晋書』)に「献王一門三世、同時十人封王、二人世子。父位極人臣、子孫咸居大官、出則旌旗節鉞、入則貂蝉袞冕。自公族之寵、未始有也」とある。。
宗室伝系図/安平王孚/附:安平世子邕・義陽王望・太原王輔・翼・下邳王晃・太原王瓌・高陽王珪・常山王衡・沛王景/彭城王権・高密王泰(附:高密王略・新蔡王騰・南陽王模)/范陽王綏(附:虓)/済南王恵/譙王遜/高陽王睦・任城王陵
(2021/11/22:公開)