巻三十七 列伝第七 宗室(3)彭城穆王権 高密文献王泰

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宗室伝系図安平王孚附:安平世子邕・義陽王望・太原王輔・翼・下邳王晃・太原王瓌・高陽王珪・常山王衡・沛王景彭城王権・高密王泰(附:高密王略・新蔡王騰・南陽王模)范陽王綏(附:虓)/済南王恵/譙王遜/高陽王睦・任城王陵

彭城穆王権(附:彭城王紘・高密王俊)

 彭城の穆王の権は字を子輿といい、宣帝の弟である魏の魯相の東武城侯馗の子である。最初は封爵(東武城侯)を継ぎ、冗従僕射に任じられた。武帝が受禅すると、彭城王に封じられ、食邑は二九〇〇戸とされた。出て北中郎将、都督鄴城守諸軍事となった。泰始年間に入朝し、袞冕の服を賜わった。咸寧元年に薨じ、子の元王の植が〔後継ぎに〕立った。後将軍を経て、国子祭酒、太僕卿、侍中、列曹尚書と昇進を重ねていった。出て安東将軍、都督揚州諸軍事となり、〔入朝した〕淮南王允に代わって寿春に出鎮することになったが、出発せずにいた。或るひとが、植は淮南王〔の趙王へのクーデター〕を援助して趙王倫を攻撃したと言ったので、とうとう憂慮のあまりに薨じた。車騎将軍を追贈され、食邑を一万五〇〇〇戸に加増された。子の康王の釈が〔後継ぎに〕立ち、南中郎将、持節、平南将軍にまで昇進し、魯国の蕃県と薛県を割いて彭城国に加増され、食邑は合計で二万三〇〇〇戸とされた。薨じ、子の雄が〔後継ぎに〕立った。〔雄は〕蘇峻〔が反乱したとき、蘇峻〕のもとへ奔ったことで罪に問われ、誅殺された。あらためて釈の子の紘に〔釈の〕あとを継がせた。

〔彭城王紘〕

 紘は字を偉徳という。最初は堂邑県公に封じられた。建興の末年、元帝が承制すると、紘に高密王拠を継がせた。元帝が即位すると、散騎侍郎に任じられ、翊軍校尉、前将軍に移った。雄が誅殺されると、紘が本宗(彭城国)に入ってあとを継いだ。国子祭酒に任じられ、散騎常侍を加えられ、大宗正、秘書監と昇進を重ねた。風疾(精神が錯乱する疾患)もちで、精神が安定していなかった。あるときは、〔政治に意欲を出して〕上疏して意見を述べようと思い、〔その文を?〕公卿に次々と見せていた1原文「或上疏陳事、歴示公卿」。自信はもてない。。またあるときは、門を閉ざして印章と貂蝉(侍官の冠のこと)を返還し、『杜門賦』を書いて隠棲の志を示した。こうして、あらためて光禄大夫に任じられ、領大宗師とされ、散騎常侍はもとのとおりとされた。のちに病気がひどくなると、際限なく〔車で?〕走り回るようになり、あるときは軍寺(軍府?)に押し入って強奪し、あるときは属官に暴力を振るい、ひどい言葉を吐いて上下の人々を誹謗した。また、車に乗って端門(南面の宮門)に突入し、太極殿の前にまで突っ込んできた。こうして、御史中丞の車灌が弾劾し、紘の官を免じ、封国に帰らせて厳重に拘禁を加えるよう要請した。成帝は詔を下した、「王はうるわしい徳をそなえたすぐれた宗室であることから、宗師の重任に就いたのである。道を行き渡らせ、徳を涵養し、節操を『静一』(冷静で不動)にするべきであった。しかし、ちかごろは外出が頻繁にあり、危険な場所でも平気で突き進んでいる。属官以下に命じ、おのおの職位にもとづいて〔王を〕奉じて護衛させ、王にこのたびのような足労をふたたび起こさせないようにするのがよかろう。内外の官職は各自の部局に慎むように2原文「内外職司、各慎其局」。「自分の部局のことだけに集中せよ」という意味か。。王については、散騎常侍、光禄大夫、大宗師を解任するのが妥当である。以前に支給した車や牛は没収するべきであろう。〔代わりに?〕米、布、寝台、帳を下賜するので、それによって病気を療養するように」。咸康八年に薨じ、散騎常侍、金紫光禄大夫を追贈された。玄、俊の二人の子がいた。
 玄があとを継いで立った。そのころ、〔朝廷は〕庚戌制を施行し、戸の隠匿を禁じた。玄は五戸を隠匿していたので、桓温は玄が禁令を犯していると上表し、〔玄は〕廷尉に送られたが、まもなく赦免された。中書侍郎にまで昇進した。薨じ、子の弘之が〔後継ぎに〕立ち、散騎常侍まで昇進した。薨じ、子の邵之が〔後継ぎに〕立った。薨じ、子の崇之が〔後継ぎに〕立った。薨じ、子の緝之が〔後継ぎに〕立った。宋が受禅すると、国は廃された。

〔高密王俊〕

 〔高密の〕恭王の俊は字を道度という。〔彭城王家から〕出て高密王略のあとを継ぎ、散騎常侍まで昇進した。薨じ、敬王の純之が〔後継ぎに〕立ち、臨川内史、司農少府卿、太宰右長史を歴任した。薨じ、子の恢之が〔後継ぎに〕立った。義煕の末年、給事中をもって兼太尉となり、洛陽の陵墓(西晋皇帝の陵墓)を修復し、参拝した。宋が受禅すると、国は廃された。

高密文献王泰(附:高密王略)

 高密の文献王の泰は字を子舒といい、彭城穆王権の弟である。魏は陽亭侯とし、陽翟令に任じ、扶風太守に移した。武帝が受禅すると、隴西王に封じられ、食邑は三二〇〇戸とされ、游撃将軍に任じられた。地方に出て兗州刺史となり、鷹揚将軍を加えられた。使持節、都督寧益二州諸軍事、安西将軍に移り、領益州刺史とされたが、病気と称して赴任しなかった。安北将軍に転じ、兄の彭城王権に代わって督鄴城守事となった。安西将軍、都督関中事に移った3『北堂書鈔』巻六四、四鎮将軍「隴西王秉心誠亮」に引く「晋起居注」に「武帝詔曰、『関中内屏、京畿外蕃。河右、北捍戎禦狄、南鎮巴漢、宜任懿親以静西土。隴西王素(泰の誤りであろう)、秉心誠亮、思度弘亹』」とあり、『晋書斠注』は泰を都督関中に任命する詔であろうと推測している。。太康年間のはじめ、中央に入って散騎常侍、前将軍、領鄴城門校尉となったが、病気を理由に辞職した。のち、下邳王晃に代わって尚書左僕射となった。地方に出て鎮西将軍、領護西戎校尉、仮節となり、扶風王駿に代わって都督関中軍事となったが、病気のため、京師へ帰還した。永煕年間のはじめ、石鑑に代わって司空となり、ほどなく領太子太保となった。楊駿が誅殺されると、泰は楊駿の〔太傅府?の〕軍営を統領し、侍中を加えられ、歩兵二千五百人、騎馬五百匹を支給された。泰は固辞したので、〔朝廷は〕歩兵千人、騎馬五百匹を支給した。
 楚王瑋が逮捕されると、泰は兵を整えて瑋を救出しようとしたが、祭酒の丁綏は諫めて言った、「公は宰相(司空のこと)なのですから、軽率に動いてはなりません。それに、夜中の急な事件でしたから4楚王が汝南王亮らを殺し、また楚王自身が捕らえられたのは夜中のことであった。汝南王亮伝、楚王瑋伝を参照。、人をつかわして確実な情報を調べさせたほうがよいでしょう5夜中のことで情報がよくわからないから、動く前に情報収集したほうがよいという助言。」。泰はこれを聴き入れた。楚王が誅殺されると、泰を録尚書事とした。〔ついで〕太尉に移り6太尉を授ける策文が残っている。『太平御覧』巻二〇七、太尉に引く「摯虞冊隴王太尉文」に「朕惟君行為時表、親則宗臣、論道経邦、保乂皇家、是用進登上台」とあり、『北堂書鈔』巻五一、太尉「上清三元下寧九域」に引く「摯虞隴西王為太尉策」に「惟君為世家、親則宗臣。君其上清三元、下寧九域、永欽洪範、以康済宇宙、敬哉」とある。、〔さらにその後、〕守尚書令となった。高密王に改封され、食邑は一万戸とされた7恵帝紀、元康九年六月の条に薨去の記事がみえるが、爵位は隴西王となっている。。元康九年に薨じ、太傅を追贈された。
 泰は謙虚で落ち着いた人柄であり、声色8音楽と女性のこと。欲望を誘惑するものの代表。を近づけなかった。宰相になり、大国の租税を食んでいたにもかかわらず、服装や料理は質素な寒士のようであった。飾り立てることをせず、ありのままであったため、面識がない者は泰が王公であることに気づかなかった。親に仕えて敬虔で、喪に服しているときは悲しみにふけり、謙遜して人にへりくだり、宗室の模範であった。当時の諸王のうち、泰と下邳王晃だけが節制をもって称賛された。二人とも〔政治で〕才能を振るうことはできなかったが、ほかの諸王は比肩しえなかったのである。泰には、越、騰、略、模の四人の子がいた。越は別に列伝がある。騰は〔泰の家を〕出て叔父を継いだので、弟の略が〔泰の後継ぎに〕立った。

〔高密王略〕

 孝王の略は字を元簡という。孝に厚く、〔父母を?〕敬愛し、従順であった。細心で慎み深く、士人にへりくだり、若くして父の風格をそなえていた。元康年間のはじめ、愍懐太子が東宮に健在であったとき、大臣の子弟で名声のある者を選抜して〔太子の〕賓友としたが、〔こうして賓友に選ばれた〕略と華恒らはそろって左右に侍った。散騎黄門侍郎、散騎常侍、秘書監を歴任し、地方に出て安南将軍、持節、都督沔南諸軍事となり、〔ついで〕安北将軍、都督青州諸軍事に移った。略は青州刺史の程牧に圧力をかけたので、程牧は略に〔位を〕譲り、略みずから州刺史を領した。永興年間のはじめ、㡉令の劉根が東莱で挙兵し、百姓をたぶらかして誘惑すると、群衆は数万にものぼり、略を臨淄で攻めた。略は防ぎきれず、敗走して聊城にこもった。懐帝が即位すると、使持節、都督荊州諸軍事、征南大将軍、開府儀同三司9後文にも開府に進められたとの記述があり、中華書局校勘記はここの開府儀同三司は衍文としている。に移った。京兆の流人である王逌が叟(非漢族の一種の呼称)の郝洛と群衆数千を集め、冠軍にたむろしていた。略は参軍の崔曠を派遣し、将軍の皮初、張洛らを統率させて王逌を討伐させたが、王逌の詐欺にかかり、敗戦した。略はさらに左司馬の曹攄を派遣し、崔曠らを統率させ、王逌のもとへ進ませた。会戦がはじまる直前、崔曠は後方からこっそりと撤退し、曹攄軍には後続がいなくなったため、敗戦し、曹攄は戦死した。略は崔曠の罪を赦免し、ふたたび部将の韓松を派遣し、やはり崔曠を監督させ、王逌を攻撃させたところ、王逌は降った。ほどなく、開府に進められ、散騎常侍を加えられた。永嘉三年に薨じ、侍中、太尉を追贈された。子の拠が〔後継ぎに〕立った。薨じ、子がいなかったため、彭城康王釈の子の紘を後継ぎとした。その後、紘は本宗(彭城王家)に戻ったため、紘の子の俊を〔後継ぎに〕立て、高密国の祭祀を奉じさせた。

〔新蔡王騰〕

 新蔡の武哀王の騰は字を元邁という。若くして冗従僕射に任じられ、東嬴公に封じられた。南陽太守、魏郡太守を歴任し、どの任地においても適任であると評された10みずから郡守の官職を求め、そこで成績を残して名を揚げるつもりであったらしい。『太平御覧』巻二四二、冗従僕射に引く「傅暢晋諸公讃」に「司馬滕、字元邁、文献王泰之第三子也。性沈壮、起家為冗従僕射。滕意欲業官以自顕、出為郡守」とある。。中央に召されて宗正となり、太常に移り、持節、寧北将軍、都督并州諸軍事、并州刺史に転じた。恵帝が成都王穎を征討したが、六軍(恵帝軍)は敗北した。騰は安北将軍の王浚と協力し、成都王が任命した幽州刺史の和演を殺し、軍を率いて成都王を討伐した。成都王は北中郎将の王斌を派遣して防戦させた。王浚は鮮卑の騎兵を統率して王斌を攻め、騰は後詰となり、おおいに王斌を破った。成都王は恐懼し、恵帝を連れて洛陽へ戻った。騰を安北将軍に進めた。永嘉年間のはじめ、車騎将軍、都督鄴城守諸軍事に移り、鄴に出鎮した。さらに〔長安から〕天子を奉迎した勲功により、新蔡王に改封された11懐帝紀によると新蔡王改封は永嘉元年三月だが、その前年の恵帝・光煕九月に東燕王に封じられている。本伝では東燕改封を落としてしまっているが、東嬴公→東燕王→新蔡王の順に爵位が進んだと考えられる。
 はじめ、騰は〔鄴出鎮のために〕并州を進発し、真定に駐屯した。ちょうど大雪が降り、平地で数尺積もったが、軍営の門の前方は数丈の雪が解け、積もらなかった。騰は不思議に思い、そこを掘ってみたところ、玉製の馬が出てきた。一尺ばかりの高さで、上表して献上した12このエピソードは『宋書』巻三一、五行志二、白眚白祥にも収録されているが、じつはこの玉馬には歯がなかったらしい。馬は皇室の姓だから瑞祥だと騰は考え、献上したというが、識者たちは、歯がないのは食うことができないという意味だと解釈し、衰亡の予兆とみなしたという。この後、騰はもちろん、晋室すらも転覆したとオチがつけられている。「晋車騎大将軍東嬴王騰自并州遷鎮鄴、行次真定。時久積雪、而当門前方数尺独消釈、騰怪而掘之、得玉馬高尺許、口歯缺。騰以馬者国姓、上送之以為瑞。然論者皆云馬而無歯、則不得食、妖祥之兆、衰亡之徵。案占、此白祥也。是後騰為汲桑所殺、而晋室遂亡」とある。。その後、公師藩が平陽の汲桑らと群盗をなし、清河の鄃県で活動をはじめ、衆は千余人ほどで、頓丘を掠奪した。〔その後、汲桑は〕成都王の埋葬を名分に掲げ、成都王の神主(位牌のこと)を車に載せて行軍し13このあたりの記述は巻五九、成都王穎伝の記述と微妙に齟齬している。、張泓14趙王倫の徒党として同名の人物が散見するが、同一人物であるか不明。の故将の李豊らと共同で鄴を攻めようとした。騰は言った、「孤(わたし)は并州に七年在任したが、胡でさえも城を包囲して落とすことができなかったのだ。汲桑のごとき小賊は心配するに及ばない」。李豊らが到着すると、騰は守りきれず、軽騎兵を率いて敗走したが、李豊に殺された。虞、矯、紹、確の四人の子がいた。虞は武勇があり、騰が殺されると、虞は李豊を追いかけた。李豊は川に身を投じて死んだ。この日、虞、矯、紹、および鉅鹿太守の崔曼、車騎将軍長史の羊恒、従事中郎の蔡克らも李豊の残党に殺され、また鄴に避難していた名家の者たちも死に尽くした。これ以前、鄴内の倉庫は空っぽだったのに、騰の資産はおおいに豊かであった。吝嗇な性格で、他人に恵みを施すことはなく、緊急事態になってから、将士に米数升ほど、帛は一人につき丈尺15原文まま。意味不詳。わずかな量の比喩か。を下賜したが、このために人々は使いものにならず、とうとう禍を招いたのである。苟晞が鄴を救援すると、汲桑は平陽へ戻った。当時は盛夏の季節で、死体は腐敗して見分けがつかなかったため、騰と三人の子の遺体は得られなかった。庶子の確が〔後継ぎに〕立った。

〔新蔡王確〕

 荘王の確は字を嗣安という。東中郎将、都督豫州諸軍事、許昌出鎮を歴任した。永嘉の末年、石勒に殺された。子はいなかったため、当初は章武王混の子の滔に新蔡国の祭祀を奉じさせたが、その後、〔滔が本宗の章武国を継ぐと、〕さらに汝南威王祐の子の弼を確の後継者とした。太興元年に薨じた16『通典』巻八二、為諸王殤服議に「晋新蔡王年四歳而亡、東海王移訪太常。博士張亮議曰、『……。東海与新蔡、別国旁親、尊卑敵均、宜則同殤制而無服也』」とあり、『晋書斠注』はここの新蔡王を弼と推定している。だとすれば、ここで言及されている東海王は沖のことであろうか。。子がいなかったため、さらに弼の弟の邈に確のあとを継がせた17邈が継いだのは成帝の咸和八年(西暦三三三年)四月のこととされる(成帝紀)。本伝と元帝紀によれば弼の薨去は太興元年(西暦三一八年)十一月である。東海王も長い空位期間があるため、このような例自体は珍しくはないが、何が理由で突如復興することになったのだろうか。。〔邈は〕侍中にまで昇進した。薨じ、子の晃が〔後継ぎに〕立ち、散騎侍郎に任じられた。桓温が武陵王晞を廃すると、晃を庶人に免じ、衡陽に流した18よくわからないところもあるが、簡文帝紀、咸安元年十一月の条と巻六四、元四王・武陵王晞伝によると、桓温は武陵王の罷免を奏上したのち、新蔡王晃に自白を強要し、武陵王らと謀反を計画していたと供述させた。これを受け、武陵王や新蔡王らは辺境に流されたという。。孝武帝は晃の弟の崇を立てて邈のあとを継がせたが19孝武帝の太元九年(西暦三八四年)十月に立てられている(孝武帝紀)。晃が廃されたのは咸安元年(西暦三七一年)。ちなみに武陵王晞は列伝によれば太元六年に卒去し、その後、孝武帝紀によると太元九年正月に子の遵が後継者に立てられている。つまり崇が襲爵したのと同年のことであり、ほぼ同時期に両家が復興したことになる(もっとも、武陵王家の遵の場合は、新寧郡王に改められており、武陵王の爵位を回復されたわけではなかった。爵位が回復するのは太元十二年のことである)。、奴に殺され、子の恵が〔後継ぎに〕立った。宋が受禅すると、国は廃された。

〔南陽王模〕

 南陽王の模は字を元表という。若くして学問を好み、元帝や范陽王虓と並んで宗室内で評判を得た。最初は平昌公に封じられた。恵帝の末年、冗従僕射に任じられ、昇進を重ねて太子庶子、員外散騎侍郎に移った。成都王穎が長安へ逃げると、東海王越は模を北中郎将とし、鄴に出鎮させた。永興のはじめ、成都王のもとの帳下督である公師藩、楼権、郝昌らが鄴を攻めたが、模の左右の者たちが作戦を立ててこれに応戦した。広平太守の丁邵が軍を率いて模を救援し、范陽王も兗州刺史の苟晞を派遣して模を援護させたところ、公師藩らは逃げ散った。鎮東大将軍に移り、許昌に出鎮した。南陽王に昇格した。永嘉のはじめ、征西大将軍、開府、都督秦雍梁益諸軍事に転じ、河間王顒に代わって関中に出鎮した。模は〔自分のことを救援してくれた〕丁邵の徳に感動し、〔南陽国の〕国人に勅を下し、丁邵のために生前に石碑を建立した。
 当時、関中は飢饉で、百姓は食いあっており、くわえて流行病が蔓延し、盗賊が公然と横行していた。模は武力で〔人々を〕服従させることができなかったので、銅人、鐘、鼎を溶かして釜を製造し、それを穀物と交換したが、議者はこれを批判した。東海王が上表し、模を中央に召して司空とし、中書監の傅祗を派遣して模に交代させるよう、要請した。模の謀臣の淳于定は模に説いて言った、「関中は天府の国であり、覇王の地です。いま、人心を安んじることができなかったという理由で戻ってしまえば、名声にも損失が生じるでしょう。また、公のご兄弟(東海王ら)は首唱して大事を起こし、そのうえそろって朝廷に身を置いています20恵帝紀によると、模が関中に出鎮したとき、兄弟の新蔡王騰が都督鄴城、高密王略が都督青州となり、みなで要職に就いている状態であった。このことを指すのであろうか。。〔中央に赴任することで、公の権勢が現在よりも〕強勢になれば専権の罪を着せられ、弱勢になれば他人に制せられるでしょう。公にとって利益ではありません」。模はこの進言を聴き入れ、徴召に応じなかった。上表し、世子の保を西中郎将、東羌校尉として派遣し、上邽に出鎮させたが、秦州刺史の裴苞は保を拒んだ。模は帳下都尉の陳安に軍を統率させて裴苞を攻めさせると、裴苞は安定へ敗走した。安定太守の賈疋は郡をもって裴苞を迎えたので、模は軍司の謝班を派遣して賈疋を討たせると、賈疋は退いて盧水へ敗走した。その年、太尉、大都督に進められた。
 洛陽が転覆すると、模は牙門の趙染を蒲坂に駐屯させた。趙染は馮翊太守の位を〔模に〕求めたが、聴き入れられず、怒って軍を率いて劉聡に降った。劉聡は子の劉粲と趙染に長安を攻めさせた。模は淳于定に防がせたが、趙染に敗北した。兵士は離反し、倉庫は払底し、軍祭酒の韋輔は「非常事態です。すぐに降れば命は助かりましょう」と言った。模はこれを聴き入れ、とうとう趙染に降った。趙染は両足を前に伸ばして無作法に座り、腕まくりをして模の罪を数えあげてなじり、劉粲のもとへ送った。劉粲は模を殺し、模の妃の劉氏を胡人の張本に賜い、妻とさせた。子の保が〔後継ぎに〕立った。

〔南陽王保〕

 保は字を景度という。若くして文章が得意で、著述を好んだ。最初は南陽国世子に任じられた。模が殺されたとき、保は上邽に滞在していた。その後、賈疋が死に、裴苞も張軌に殺されたので、保は秦州の全域を保有することになり、大司馬を自称し、承制して百官を置いた。隴西の氐や羌はみな保に服従し、涼州刺史の張寔は使者をつかわして貢献した。愍帝が即位すると、保を右丞相とし、侍中、都督陝西諸軍事を加えた。まもなく相国に進められた。
 模が敗亡すると、都尉の陳安は保に帰順し、保は精鋭千余人を率いて羌を討伐するよう〔陳安に〕命じた。〔保は陳安を〕気に入り、はなはだ厚遇した。保の将の張春らはこれに嫉妬し、陳安は異心を抱いているとそしり、排除するよう要請したが、保は却下した。張春らは独断で刺客を潜伏させて陳安を襲わせたので、陳安は負傷し、馬を走らせて隴城へ戻った。〔陳安はその後も〕使者を保のもとへつかわし、貢献は絶やさなかった。
 愍帝が蒙塵すると(平陽に拉致されると)、保は晋王を自称した。当時、上邽は大飢饉で、兵士は困窮していたので、張春は保を奉じて南安へ向かった。陳安は秦州刺史を自称し、劉曜に称藩した。張春はさらに保を奉じて桑城へ奔り、張寔に投じようとした。張寔は兵をやって保を迎えさせたが、実際は保が来るのを防がせたのであった。この年、保は薨じた。享年二十七。保は生まれつき体格が大きく、体重八百斤(約一七六キログラム)を自称していたときもあった。寝るのを好んでいた。勃起不全で、婦人と交わることができなかった。子がいなかったため、張春は宗室の司馬瞻を立てて保の後継を奉じさせた。陳安が挙兵して張春を攻めると、張春は敗走し、司馬瞻は陳安に降った。陳安は〔司馬瞻を〕劉曜のもとへ送ると、劉曜は司馬瞻を殺してしまった。陳安は保の遺体を迎え入れ、天子の礼をもって上邽に埋葬し、元の諡号をおくった。

宗室伝系図安平王孚附:安平世子邕・義陽王望・太原王輔・翼・下邳王晃・太原王瓌・高陽王珪・常山王衡・沛王景彭城王権・高密王泰(附:高密王略・新蔡王騰・南陽王模)范陽王綏(附:虓)/済南王恵/譙王遜/高陽王睦・任城王陵

(2021/11/22:公開)

  • 1
    原文「或上疏陳事、歴示公卿」。自信はもてない。
  • 2
    原文「内外職司、各慎其局」。「自分の部局のことだけに集中せよ」という意味か。
  • 3
    『北堂書鈔』巻六四、四鎮将軍「隴西王秉心誠亮」に引く「晋起居注」に「武帝詔曰、『関中内屏、京畿外蕃。河右、北捍戎禦狄、南鎮巴漢、宜任懿親以静西土。隴西王素(泰の誤りであろう)、秉心誠亮、思度弘亹』」とあり、『晋書斠注』は泰を都督関中に任命する詔であろうと推測している。
  • 4
    楚王が汝南王亮らを殺し、また楚王自身が捕らえられたのは夜中のことであった。汝南王亮伝、楚王瑋伝を参照。
  • 5
    夜中のことで情報がよくわからないから、動く前に情報収集したほうがよいという助言。
  • 6
    太尉を授ける策文が残っている。『太平御覧』巻二〇七、太尉に引く「摯虞冊隴王太尉文」に「朕惟君行為時表、親則宗臣、論道経邦、保乂皇家、是用進登上台」とあり、『北堂書鈔』巻五一、太尉「上清三元下寧九域」に引く「摯虞隴西王為太尉策」に「惟君為世家、親則宗臣。君其上清三元、下寧九域、永欽洪範、以康済宇宙、敬哉」とある。
  • 7
    恵帝紀、元康九年六月の条に薨去の記事がみえるが、爵位は隴西王となっている。
  • 8
    音楽と女性のこと。欲望を誘惑するものの代表。
  • 9
    後文にも開府に進められたとの記述があり、中華書局校勘記はここの開府儀同三司は衍文としている。
  • 10
    みずから郡守の官職を求め、そこで成績を残して名を揚げるつもりであったらしい。『太平御覧』巻二四二、冗従僕射に引く「傅暢晋諸公讃」に「司馬滕、字元邁、文献王泰之第三子也。性沈壮、起家為冗従僕射。滕意欲業官以自顕、出為郡守」とある。
  • 11
    懐帝紀によると新蔡王改封は永嘉元年三月だが、その前年の恵帝・光煕九月に東燕王に封じられている。本伝では東燕改封を落としてしまっているが、東嬴公→東燕王→新蔡王の順に爵位が進んだと考えられる。
  • 12
    このエピソードは『宋書』巻三一、五行志二、白眚白祥にも収録されているが、じつはこの玉馬には歯がなかったらしい。馬は皇室の姓だから瑞祥だと騰は考え、献上したというが、識者たちは、歯がないのは食うことができないという意味だと解釈し、衰亡の予兆とみなしたという。この後、騰はもちろん、晋室すらも転覆したとオチがつけられている。「晋車騎大将軍東嬴王騰自并州遷鎮鄴、行次真定。時久積雪、而当門前方数尺独消釈、騰怪而掘之、得玉馬高尺許、口歯缺。騰以馬者国姓、上送之以為瑞。然論者皆云馬而無歯、則不得食、妖祥之兆、衰亡之徵。案占、此白祥也。是後騰為汲桑所殺、而晋室遂亡」とある。
  • 13
    このあたりの記述は巻五九、成都王穎伝の記述と微妙に齟齬している。
  • 14
    趙王倫の徒党として同名の人物が散見するが、同一人物であるか不明。
  • 15
    原文まま。意味不詳。わずかな量の比喩か。
  • 16
    『通典』巻八二、為諸王殤服議に「晋新蔡王年四歳而亡、東海王移訪太常。博士張亮議曰、『……。東海与新蔡、別国旁親、尊卑敵均、宜則同殤制而無服也』」とあり、『晋書斠注』はここの新蔡王を弼と推定している。だとすれば、ここで言及されている東海王は沖のことであろうか。
  • 17
    邈が継いだのは成帝の咸和八年(西暦三三三年)四月のこととされる(成帝紀)。本伝と元帝紀によれば弼の薨去は太興元年(西暦三一八年)十一月である。東海王も長い空位期間があるため、このような例自体は珍しくはないが、何が理由で突如復興することになったのだろうか。
  • 18
    よくわからないところもあるが、簡文帝紀、咸安元年十一月の条と巻六四、元四王・武陵王晞伝によると、桓温は武陵王の罷免を奏上したのち、新蔡王晃に自白を強要し、武陵王らと謀反を計画していたと供述させた。これを受け、武陵王や新蔡王らは辺境に流されたという。
  • 19
    孝武帝の太元九年(西暦三八四年)十月に立てられている(孝武帝紀)。晃が廃されたのは咸安元年(西暦三七一年)。ちなみに武陵王晞は列伝によれば太元六年に卒去し、その後、孝武帝紀によると太元九年正月に子の遵が後継者に立てられている。つまり崇が襲爵したのと同年のことであり、ほぼ同時期に両家が復興したことになる(もっとも、武陵王家の遵の場合は、新寧郡王に改められており、武陵王の爵位を回復されたわけではなかった。爵位が回復するのは太元十二年のことである)。
  • 20
    恵帝紀によると、模が関中に出鎮したとき、兄弟の新蔡王騰が都督鄴城、高密王略が都督青州となり、みなで要職に就いている状態であった。このことを指すのであろうか。
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