巻三十七 列伝第七 宗室(2)安平献王孚(II)

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宗室伝系図安平王孚附:安平世子邕・義陽王望・太原王輔・翼・下邳王晃・太原王瓌・高陽王珪・常山王衡・沛王景彭城王権・高密王泰(附:高密王略・新蔡王騰・南陽王模)范陽王綏(附:虓)/済南王恵/譙王遜/高陽王睦・任城王陵

〔安平世子邕〕

 邕は字を子魁という。最初は孚の世子となり、歩兵校尉、侍中に任じられた。孚より先に卒し、輔国将軍を追贈され、貞の諡号をおくられた。邕の子の崇が孚の世孫となったが、崇も夭折してしまった。泰始九年、崇の弟の平陽亭侯隆を安平王に立てた(2022/3/14:修正)。〔隆が〕王に立って四年、咸寧二年に薨じ、穆の諡号をおくられた。〔隆に〕子はおらず、安平国は断絶した1こう書いてあるが、武帝紀によると咸寧三年正月に隆の弟の敦が安平王に立てられている。敦は太康二年三月に薨じたが、のち太康五年に南宮王承の子の祐(武帝紀は「玷」)を後継ぎに立て、長楽王に改封したという。『太平寰宇記』巻六三、冀州に「至晋泰始元年、封皇叔祖父孚為安平王、太康五年又改為長楽国、立孚曾孫祐為王」とある。
 長楽は『晋書』巻一四、地理志上では司州魏郡の属県として記されているが、『晋書』巻八一、蔡豹伝には長楽太守が見えており、また石勒支配下の時期のことではあるが、石虎らが石勒に勧進した上疏で、趙国を構成する郡のひとつに長楽が含まれている(巻一〇四、石勒載記上)。『宋書』巻三六、州郡志二、冀州、広川に「〔漢〕安帝延光中、改曰安平、晋武帝太康五年、又改為長楽」とあり、『魏書』巻一〇六上、地形志二上、冀州、長楽郡の自注に「〔漢〕安帝改曰安平、晋改」とあり、長楽は安平の改称であったらしく、また北魏長楽郡の属県は西晋安平国南部の属県とおおむね重なっている。おそらく祐を封じたところの長楽と魏郡の属県の長楽とは別で、祐の封国の長楽は安平を改名したものなのであろう。さきの『太平寰宇記』の引用文は祐を封じたことにつづけて「十年割武遂・武邑・観津三県為武邑国、以封南宮王承為武邑王」と記している。武邑王に封じられた承は祐の父である。このときに長楽から割かれた三県はいずれも旧安平の北部に位置する県で(ちなみに承の旧封の南宮も旧安平の属県)、『魏書』地形志二上、冀州、武邑郡の自注に「晋武帝置」とある。長楽(旧安平)北部を分割して武邑国を独立させたということであろう。以上の経過をまとめると、安平国は祐を後継者に立てたさいに長楽国に改名され、その後、さらに北部三県が割かれて武邑国が立てられた、ということになる。
 東晋の記録にも安平王がしばしば見えている。『通典』巻五二、旁親喪不廃祭議に穆帝期に薨去した安平王(名前は不詳)の記事があり、孝武帝紀(太元十一年)と安帝紀(義煕九年)にも安平王薨去の記事がある(中華書局は安帝紀の「安平王」を「武陵王」の誤りだとしてはいるが)。すべて詳しい素性は不明だが、いずれも孚の後継者として立てられた王である可能性は高い。

〔義陽王望〕

 義陽の成王の望は字を子初という。〔孚の家から〕出て、伯父の朗を継いだ。寛大で、父(孚)の風格があった。郡に仕えて上計吏となり、孝廉に挙げられ、司徒掾に辟召され、平陽太守、洛陽典農中郎将を歴任した。宣帝の王淩討伐に従軍し、功績によって永安亭侯に封じられた。護軍将軍に移り、安楽郷侯に改封され、散騎常侍を加えられた。当時、魏の高貴郷公は才能ある士人を重んじていたが、望は裴秀、王沈、鍾会とともに親近を受け、しばしば宴席に侍った。高貴郷公は性急な気質であった。裴秀らは内職(殿中の官)に就いていたので、急ぎの呼び出しがあればすぐに到着可能であったが、望は外官(外朝の官)だったため、〔なるべくはやめに到着できるように、高貴郷公は〕特別に追鋒車一乗、武賁五人を支給した2『三国志』魏書四、高貴郷公紀、甘露元年四月の裴松之注に引く「傅暢晋諸公賛」に「帝常与中護軍司馬望、侍中王沈、散騎常侍裴秀、黄門侍郎鍾会等講宴於東堂、并属文論。名秀為儒林丈人、沈為文籍先生、望・会亦各有名号。帝性急、請召欲速。秀等在内職、到得及時、以望在外、特給追鋒車、虎賁卒五人、毎有集会、望輒奔馳而至」とある。。このころ、景帝と文帝があいついで輔政していたが、〔魏帝への?〕朝見が一度もなく、権勢は晋室に帰していた。望は〔高貴郷公に〕寵愛されていたとはいえ、つねに不安を覚えていたので、地方に出ることを要望し、〔それが聴き入れられて〕征西将軍、持節、都督雍涼二州諸軍事となった。八年在任し、威厳と教化がおごそかに示された。これより以前、蜀の将の姜維がしばしば関中に侵略していたが、望が〔関中に〕赴任すると、〔望は〕計略を幅広く用意したため、姜維は侵略ができなくなり、関中の人々は望を頼りにするようになった。順陽侯に昇格した。中央に召されて衛将軍に任じられ、領中領軍となり、禁軍を管轄した。まもなく驃騎将軍、開府を加えられた。しばらくすると、何曾に代わって司徒になった。
 武帝が受禅すると、義陽王に封じられ、食邑は一万戸とされ、兵二千人を支給された。泰始三年、詔が下った、「そもそも、賢者を尊び、勲功に報い、優秀な親族を敬重するのは、国家を治め、教化を整え、法を諸侯に施行する3原文「式是百辟」。出典は『毛詩』大雅、烝民で、鄭箋に「施行法度於是百君」とある。手段である。いっぽう、台司4三公を指す言葉。『後漢書』列伝一、劉玄伝の李賢注に引く「春秋漢含孳」に「三公在天為三台、九卿為北斗」とあり、三公は「三台」という星座に対応するものとされている。おそらくこれにもとづいて、「台司」という呼び方が生まれたのであろう。という重職は天官である〔から、私心によらずに公平に任命しなければならない〕5原文「台司之重、存乎天官」。自信はないが、「天官」は「天工」のことで、『尚書』皐陶謨篇の「無曠庶官、天工人其代之」をふまえたものと解釈した。天子の官とは「天の官」なのであって、人が天に代わって官に就いて世を治めているのである、ゆえに非才の人間を「天の官」に登用してはならない、という文。孔安国伝に「曠、空也。位非其人為空官。言人代天理官、不可以天官私非其才」とあり、疏に「万幾事多、不可独治。当立官以佐己、無得空廃衆官、使才非其任、此官乃是天官、人其代天治之、不可以天之官而用非其人」とある。前文では宗室の尊重を説いているが、ここでは宗室であるという理由だけで高位に登用していいわけではないと述べているものと思われる。。そのゆえに、周は六官を立てると6原文「周建六職」。厳密には周の六官は卿で、公とは区別される。たとえば『漢書』巻一九上、百官公卿表上に「周官則備矣。天官冢宰、地官司徒、春官宗伯、夏官司馬、秋官司寇、冬官司空、是為六卿……。太師、太傅、太保、是為三公」とある。ただし、六卿のうちには司徒や司空など後世の三公に相当する官が連なっているので、本文は「台司」のつもりで「六職」と言っているのかもしれない。、政典(周の六典)を第一のこととしたのである7原文「政典為首」。前文が訳者の解釈したとおりだとすれば、「政典」は政治制度的なもの(公平な人選を定めるもの)を指していると想像できる。
 『宋書』巻八五、謝荘伝に「八柄馭下、以爵為先、九徳咸事、政典居首」と、似たような用例がみえている。しかし、これは「以八柄詔王馭群臣。一曰爵、以馭其貴、二曰禄、……」(『周礼』天官、大宰)と「日宣三徳、夙夜浚明有家。日厳祗敬六徳、亮采有邦。翕受敷施、九徳咸事、俊乂在官……。天敘有典、勅我五典五惇哉。天秩有礼、……」(『尚書』皐陶謨篇)にもとづいた表現で、「政典」は皐陶謨篇で最初に挙げられている天の叙典を指している。したがって、本文の「政典」とは別の意味だと思われる。とはいえ、謝荘伝の用例からは、何かを並列的に挙示する古典籍の記述で、最初に挙げられているものを「居首」と表現することがわかる。本文も同様の構造をもつ古典の記述に典拠をもつ可能性が高い。
 そこで注目されるのは『周礼』天官、大宰の「掌建邦之六典、以佐王治邦国。一曰治典……、二曰教典……、三曰礼典……、四曰政典……、五曰刑典……、六曰事典……」という記述である。四つめに「政典」があるが、これは夏官司馬に対応する「典」であり、かつ六典の最初に挙げられているわけではない。検索したかぎり、この政典を六典の筆頭とする記述もみつからないし、夏官が六官のうちでもっとも重要とする記述も見当たらない。このため、本文のいう「政典」は夏官の政典であるとは考えにくい。
 ただし、天官大宰は『周礼』で最初に記述されている官職であり、なおかつ前引の記述はその大宰の冒頭のものでもある。「邦の六典を建つ(建邦之六典)」という書き方からは、「最初に六典を定める」という意味を読み取れなくもない。こういうわけで、違和感がまったくないわけではないものの、本文の「政典」は六典を指していると解釈することにした。
。司徒、中領軍〔の望〕はうるわしい徳をそなえた近親で、父子代々にわたって美名をあげ、亡き祖父(宣帝司馬懿)が創業されたさいは、大命を輔翼し、外に出ては地方官をつとめ、中に入っては朝政を助け、文徳は明示され、武功も広く知られている。朕が即位すると、補佐〔の勲功〕が顕著である8原文「弼道惟明」。和刻本は「道ヲ弼(たすけ)テ」と訓じているが、訳者は「弼道」で読み、「道」は「導」の意で取った。『漢書』には「輔道」という語が散見し、顔師古注に「道読曰導」とある。。上司9(三公としての)司馬、または太尉を指すらしい。現にこの詔で望は太尉に任命されている。『後漢書』列伝二〇下、郎顗伝の李賢注に「上司謂司馬也、建武二十七年改為太尉」とある。『後漢書』『三国志』での用例をみると、たんに三公の意で使用されているとみられる箇所もあるが、たしかに多くの場合で太尉を指している。に進め、兼ねて軍隊を統率させ、内は帝室を助けさせ、外は威厳を高めさせるのがよかろう。そこで、位を太尉に進め、中領軍はもとのとおりとする。〔太尉府には〕太尉軍司を一人、参軍事を六人、騎司馬を五人置く。また官騎を十人増員し、旧来の人員と合計して三十人とする。羽葆鼓吹を授ける」。
 呉の将の施績が江夏を侵略したので、〔晋の〕辺境が騒然とした。望に中軍10おそらく領軍将軍(中領軍)が率いるところの内軍のこと。の歩騎二万を統率させ、出撃させて龍陂(襄城郡郟県付近)に駐屯させ、二方面(荊州と揚州)の重鎮とさせ、仮節とし、大都督諸軍事を加えた。ちょうど荊州刺史の胡烈が施績を防ぎ、これを破ったので、望は帰還した。にわかに呉の将の丁奉が芍陂に侵略したので、望はふたたび諸軍を率いて戦場に向かったが、到着する前に丁奉は退却した。大司馬に任じられた11これによって父子で上公の官に就くという異例の事態になった。『三国志』魏書一五、司馬朗伝の裴松之注に引く「晋諸公賛」(『太平御覧』巻二〇九、大司馬、略同)に「〔望遷〕大司馬。時孚為太宰、父子居上公位、自中代以来、未之有也」とある。。孫晧が軍を率いて寿春に進んできたので、望に詔を下し、中軍二万、騎兵三千を統率させ、淮水の北に駐屯させた。孫晧が退却すると、軍事行動は終了した。泰始七年に薨じた。享年六十七。賻贈(葬儀時の金品贈与)は〔通常の規定より〕加算された。望はケチな性格で、財産を増やすことを好んでいたため、死去後、金帛があふれており、このために批判を受けた。弈、洪、整、楙の四人の子がいた。

〔弈(義陽王家)〕

 弈は黄門郎まで昇進したが、望よりも先に卒した。〔弈の弟の〕整も〔弈に代わって望の世子となったが、〕若死にした。弈の子の奇に〔義陽王の〕爵を継がせた。奇も財産を増やすことが好きで、限度を知らなかった。三団の使者を派遣し、交州や広州の商人のもとへ行かせたが、有司に〔そのことを〕奏上されてしまい、太康九年、詔が下って〔奇を〕貶降して三縦亭侯とした。変更して〔奇のいとこの〕章武王威を望の後継ぎとした。のち、威が誅殺されると、ふたたび奇を棘陽王に立てて望のあとを継がせた12『晋書』巻一五、地理志下によれば棘陽は義陽の属県。『宋書』巻三七、州郡志三、雍州、河南に「棘陽令、漢県、故属南陽、晋太康地志属義陽、後属新野」とある。史書に棘陽太守の例も見えないことから、棘陽が義陽から独立した可能性は低い。つまりこの改封は、封国の領域が義陽郡全体から棘陽県ひとつに縮小されたということを意味し、実質的には降封処分である。前王の威、そして奇自身も問題行動を起こしていることからこのような措置を取られたのであろう。
 なお、のちに棘陽が所属することになった新野郡は『宋書』州郡志三、雍州、新野に「漢県、故属南陽。何志晋恵帝分南陽立」とあり、恵帝期に南陽から独立した郡とされる。しかし『晋書』地理志下では義陽の属県に新野が記されている。じつは、そもそも義陽自体、設立の経緯が明らかではない。『晋書』地理志下、荊州、義陽郡の自注には「太康中置」とあり、同、地理志下、荊州には「及武帝平呉、……分南陽立義陽郡」とあり、地理志序文もやはり太康元年設置とする。つまり『晋書』地理志は太康元年設置と記している。『太平寰宇記』巻一四二、鄧州、南陽県、廃新野故城にも「本漢旧県。後漢為棘陽県、尋廃、後為新野。晋太康元年置義陽郡、居新野県」と、やはり太康元年設置とし、治所は新野県に置かれたという。ところが、そもそも望は泰始元年に義陽に封じられているし、『水経注』巻三〇、淮水注に「闞駰〔『十三州志』〕言、『晋太始中、割南陽東鄙之安昌・平林・平氏・義陽四県、置義陽郡于安昌城』」とあり、『宋書』巻三六、州郡志二、司州、義陽には「魏文帝立、後省、晋武帝又立」とある。これらをふまえると、義陽は曹魏文帝の時期に設置されたが、その後は廃され、晋武帝即位時に南陽郡東方の属県を割いて復置されて望が封じられ、安昌県に治所が置かれた、ということになる。しかしそうだとすると、『晋書』地理志に記される義陽の属県をどう解釈すればよいだろうか。銭大昕は『十三州志』の記述に疑義を呈しているが(『廿二史考異』巻一九、晋書二、地理志下)、それよりも整合的な説を提出しているのが汪兆鏞で、太康元年に新野などの県が義陽に加増されたのではないか、と推測している(『稿本晋会要』巻四七、輿地三、義陽郡)。これがもっとも整合的な解釈であろう。治所(新野か安昌か)の問題は、汪氏は判断を保留しているが、この説に従うならば新野編入後に治所が移されたということになろう。ただ、『水経注』淮水に「淮水又径義陽県故城南、義陽郡治也」という別の情報もあり、収拾がつかない。
 ついで太康十年、扶風王駿の子の歆が新野県公に封じられている(武帝紀、巻三八、宣五王・扶風王駿伝附新野荘王歆伝)。このときに新野がどのような編成を受けたのかはわからない。歆はその後、斉王冏の義挙に協力し、功績によって新野郡王に封じられている(宣五王・扶風王駿伝附新野荘王歆伝)。さきの『宋書』州郡志三、新野に、「新野郡は恵帝期に南陽から独立した(と何承天『宋書』州郡志が記している)」と言われていたのは、歆の封国に県が加増され、新野が郡として独立したという編成を指しているものと思われる。このときに加増された県にかんして、『水経注』巻三一、淯水注に「晋咸寧二年、封大司馬扶風武王少子歆為新野郡公、割南陽五属棘陽・蔡陽・穰・鄧・山都封焉」とあり、咸寧二年の新野郡「公」封建という記載は『晋書斠注』や銭大昕(『廿二史考異』地理志下)が言うように誤りであろう。また言及されている五つの県はすべて南陽郡所属ではなく、山都が襄陽、残りの四県は義陽の所属である。このような疑問点が目につくとはいえ、加増されている五つの県は新野郡を構成する県であった可能性が高い。『宋書』州郡志三、新野に「永初郡国、何志有棘陽・蔡陽・鄧県」とあり、同、山都に「晋太康地志属襄陽、永初郡国及何徐属新野」とあるように、『永初郡国志』と何承天『宋書』州郡志の記録では新野の属県は棘陽、蔡陽、鄧、山都であったといい、『水経注』が挙げている県とおおむね重なっている。ゆえに新野に加増された県については『水経注』の記載を信頼してよさそうだが、そうなると新たな問題が生ずる。歆が新野王に封じられたのは斉王冏の成功後、すなわち趙王倫の敗亡後のことであるが、おそらくほぼ同じ時期に義陽王威も誅殺され、奇が棘陽王に封じられているのである。歆に新たに加増することになった棘陽県にわざわざ奇を封じるのは考えがたい措置である。棘陽が新野郡に編入されたことは、この注の冒頭に引いた『宋書』州郡志の記載から考えても、確実性が高いと思われる。となれば、じつは棘陽王が誤りで、義陽県王が正しいのではないだろうか。前引の『水経注』淮水に「淮水又径義陽県故城南、義陽郡治也」とあるのは、新野郡成立後、義陽の治県が義陽県に移されたことを言っているのかもしれない。この問題にかんしては歴代の注釈家も言及しておらず、これ以上考えようがないため、とりあえずはこのまま保留しておく。

〔河間王洪(章武王家)〕

 河間の平王の洪は字を孔業という。〔望の家から〕出て叔父の昌武亭侯の遺13『三国志』魏書一五、司馬朗伝によれば、司馬朗の子。望と同輩の関係になる。を継いだ。魏に仕え、典農中郎将、原武太守を歴任し、襄賁男に封じられた。武帝が受禅すると、河間王に封じられた。立つこと十二年、咸寧二年に薨じた。威、混の二人の子がいた。威があとを継ぎ、封国を章武に移された。その後、威が義陽王望を継ぐと、変更して混を洪の後継ぎに立てた。混は散騎常侍を歴任し、薨じた。
 洛陽が陥落すると、混の諸子はみな胡に没した。〔混の〕末子の滔は新蔡王確のあとを継いだばかりだったが、兄といっしょに没した。のちに南へ帰還できたが、新蔡太妃(新蔡王確の妃)と不和であった。太興二年、上疏し、兄弟はひとしく没して遼東(段氏)におり、章武の国が断絶しているため、生まれた家に戻るのが妥当だと具申した。太妃がこれに異議を申し立てたので、事案は太常に下った。太常の賀循の議、「章武国と新蔡国はどちらも一国不絶の家系14原文「一国不絶之統」。文の構成は、「一国の統(一国をなす家系)」+「不絶の統(代々継承されて絶えない家系)」であろうと思われる。を継いでおり、〔また〕義としては、本宗(本家)を絶やし、優先して傍親(傍系の親族)のあとを継がせることはできない15滔の場合、生家である章武が本宗に相当すると思われる。本宗たる章武が永絶してまで傍親たる新蔡を継がせる必要はない、という理屈がこの義から導き出されるはずであろう。。案ずるに、滔はすでに命を受けて人の後継ぎになったのだから、兄弟がいなくなり、本国が永絶してからでなければ、生まれた家に戻ることはできない。いま、兄弟は遠方に健在で、いないと言うことはできない。道路は険しいとはいえ、絶域というわけでもない。かつ、鮮卑(段氏)は帰順しており、連絡の使者が絶えず来ている。それを利用して、詔を遼東(段氏)に下し、劉群や盧諶らの例に従って、使者を送って〔滔の兄弟を〕帰還させ、本国(章武国)を継承させるのがよいであろう。思うに、滔はいまのところ、継いだ家をすぐに放棄することはできない」。元帝の詔、「滔は〔生家から〕出て養子になったとはいえ、当然ながら生母がいるわけである。新蔡太妃は〔滔に〕冷たく接しており、滔はこのたびのような意向を抱いている。もし〔滔の希望を〕聴き入れなければ、とうとう紛糾するはずであり、いっそう容認できないことである。いま、滔の意向を聴き入れ、章武国に戻して継がせることとする」16新蔡王の伝によると、この結果、新蔡王は汝南王祐の子の弼が継ぐことになったが、本伝によれば滔がこの希望を出したのは太興二年なので、弼の襲爵は太興二年ころということになる。しかし銭大昕が『廿二史考異』で指摘しているように、元帝紀によれば弼が新蔡王に立てられたのは建武元年十一月で、太興元年十一月には薨去しており、本伝の時系列と矛盾している。銭氏は本伝を誤りとみなしているが、実際はよくわからない。
 滔は散騎常侍を歴任した。薨じ、子の休があとを継いだ。〔蘇峻が反乱を起こすと、〕休は彭城王雄といっしょに蘇峻のもとへ奔った。蘇峻が平定されたとき、休はすでに戦死していた。〔休の〕弟の珍は八歳で、幼少を理由に連坐しなかった。咸和六年、〔珍が章武王の〕爵を継ぎ、大宗正にまで昇進した。薨じ、後継ぎがいなかった。河間王欽17彭城王釈の子。前文にみえる彭城王雄の兄弟にあたる。が子の範之にあとを継がせ、〔範之は〕游撃将軍にまで昇進した。薨じ、子の秀があとを継いだ。義煕元年、桂陽太守になった。秀は桓振の妹を娶っていたので、桓振が反乱を起こすと、秀は不安を抱いて謀反した。誅殺され、国は廃された。

〔義陽王威(河間王洪の子)〕

 威は字を景曜という。最初は〔父である河間王の〕洪のあとを継いだ。咸寧三年、章武に改封された。太康九年、〔章武を出て〕義陽王望を継いだ。威は凶暴で、節操がなく、趙王倫にへつらった。元康の末年、散騎常侍になった。趙王が帝位を簒奪しようとしたとき、威と黄門郎の駱休に恵帝を脅迫させて璽綬を奪わせた。趙王は威を中書令とした。趙王が敗亡し、恵帝が位に戻ると、「阿皮はわが指をねじってわが璽綬を奪った。誅殺しないわけにはいかない」。阿皮は威の小字である。こうして威を誅殺した。

〔随王整〕

 随の穆王の整は、兄の弈が先に卒したため、整を〔望の〕世子とした。南中郎将を歴任し、清泉侯に封じられたが18時系列が記述の順番のとおりであるならば、義陽王世子であると同時に侯の爵位を有していることになる。あるいは、この記述のとおりの時系列ではなく、侯に封じられたのちに兄が没し、世子になったのかもしれない。、父の望よりも先に薨じ、冠軍将軍を追贈された。武帝は義陽国の一県(随県のこと)をもって追封し、随県王とした19整にかんしては、当時、彼の徳を称えた碑文が南郷に立てられたようで、趙明誠『金石録』巻二〇、晋南郷太守司馬整頌に断片的に引用されている。引用文のひとつに「謁者就郡、拝君世子。執節四譲、推与兄嗣、固辞懇誠。泰伯三美、君又加焉」とある。趙明誠は碑文の「推与兄嗣(兄を世子に推薦した)」という記述を挙げ、本伝の「兄の弈が先に卒したため、整を世子とした」と齟齬していると指摘し、碑文の記述が正しいとしている。しかし碑文の「兄」は必ずしも奕を指すとは限らない。他家を継いでいた洪を指していたとも考えられ、趙明誠の判断が妥当とは言えない。。子の邁があとを継いだ。太康九年、義陽の平林県を邁に加増し、随郡王とした20随県のみで構成されていた随国に新たに属県(平林県)が割かれ、随が郡に立てられたということ。『宋書』巻三六、州郡志二、司州、随陽に「晋武帝分南陽義陽立義陽国、太康年、又分義陽為随国、属荊州」とある。

〔竟陵王楙〕

 竟陵王の楙は字を孔偉という。最初は楽陵亭侯に封じられ、起家して参相国軍事(相国府の参軍事)となった。武帝が受禅すると、東平王に封じられ、食邑は三〇九七戸とされた。中央に入って散騎常侍21このときのことかはわからないが、『北堂書鈔』巻五八、通直散騎常侍「東平王懋為通直之始」に引く「晋起居注」に「太始十年、詔東平王懋為員外常侍、通直殿中、兼散騎常侍。通直之号、蓋自此始也」とある。、列曹尚書となった。
 楙はへつらいが得意で、うわべをつくろって楊駿に仕えた。楊駿が誅殺されると、法にもとづいて死罪と判決されたが、東安公繇は楙と仲が良かったため、罪を免れることができた22東安公繇は楊駿を誅殺した側に与する。楊駿誅殺後、権勢を得て、賞罰を振るったという。権力を得た彼の意向によって罪を逃れたということであろう。巻三八、宣五王・琅邪王伷伝附繇伝を参照。。まもなく大鴻臚に移り、侍中を加えられた。東安公は朝政の専断を欲していたので、汝南王亮と不仲であった。汝南王は、東安公が楊駿討伐時に様子見していたことにかこつけて、東安公と楙らの官を免じ、楙を就国させた。楙はとうとう蓄財にいそしみ、奢侈は度を過ぎるようになった。趙王倫が帝位を奪うと、中央に召し返した。〔斉王冏の〕義軍が起こると、趙王は楙を衛将軍、都督諸軍事とした。趙王が敗亡すると、楙は免官された。斉王冏が輔政すると、東安公はふたたび尚書僕射となり、楙を平東将軍、都督徐州諸軍事とし、下邳に出鎮させるよう推挙した。成都王穎が輔政すると、楙を衛将軍に進めた。
 ちょうど恵帝が〔鄴の成都王への〕北征を起こすと、すぐに楙を車騎将軍とし、都督〔徐州諸軍事〕はもとのとおりとし、軍を統率させて鄴へ向かわせた。蕩陰の戦役にて〔恵帝軍が敗北すると〕、東海王越が下邳へ逃げてきたが、楙は受け入れなかったので、東海王は封国に帰還した。恵帝が西方(長安)へ行幸すると、東海王は兵を集めて天子の奉迎を計画したので、楙はおおいに不安になった23以前、東海王を冷淡にあしらってしまったので、東海王の矛先が自分にも向けられはしないかと心配になったのであろう。。長史の王修が説いて言った、「東海王は宗室の重鎮で、これから義挙を起こそうとされています。公は徐州をまるごと東海王にお授けなさるのがよろしいでしょう。これぞ『克譲(能く譲る)』(『尚書』舜典篇)の美業です」。楙はこれを聴き入れ、そこでみずから承制して都督兗州刺史24原文まま。巻五九、東海王越伝、『資治通鑑』巻八六、永興二年は「兗州刺史」とする。、車騎将軍となり、恵帝に上表した25「承制」は「皇帝の意向を受けて臨時に政務を代行することを言う(謂秉承皇帝旨意而便宜行事)」(『漢語大詞典』)。みずから「承制」を称し、自分の官職を徐州都督から兗州に変更し、そのことを恵帝に事後報告したということだろう。東海王越伝だと東海王が楙を兗州刺史にした(「越……以楙領兗州刺史」)とするが、『資治通鑑』は楙みずからが兗州刺史になった(「楙自為兗州刺史」)とする。『資治通鑑』は本伝の記述に合わせてこのように書いているのだろう。。当時、恵帝は長安にいたが、使者の劉虔をつかわし、すぐに〔兗州の官職を〕授けた。
 楙は兗州刺史の苟晞が自分(楙のこと)に譲らないのを心配し、そこで劉虔に兵を支給し、詔と称させて苟晞を誅殺させようとした26前の注で記したように、当時の楙は「都督兗州刺史」を称したが、これは兗州刺史であった可能性が高い。すると、楙と苟晞との二人の兗州刺史が存在したことになってしまう。この件に関連して胡三省は、「楙が兗州刺史になった前年、范陽王虓が苟晞を行兗州刺史としていたが、苟晞は許昌に留まったまま兗州に駐在していなかったため、楙はみずから兗州刺史を領したのである(去年、范陽王虓以苟晞行兗州、晞留許昌、未及至州、而楙自領之)」と解釈している。胡三省が指摘するように、苟晞は范陽王の承制によって兗州刺史に命じられたが、兗州にはいなかったらしい。また、このあとでは楙と苟晞の人事について諍いも起こっている。おそらく本伝がここで記しているのは、范陽王が承制して兗州刺史に命じた苟晞と、東海王の黙認のもと、みずから兗州刺史を称し、天子の事後承認も得た楙とのあいだの、兗州刺史の位をめぐる不和と考えられる。「楙は兗州刺史の苟晞が自分に譲らないのを心配した(楙慮兗州刺史苟晞不遜己)」というのは、「苟晞が兗州刺史の位を自分に譲ろうとしないのを心配した」ということであろう。。ときに、苟晞はほどなく位を譲った〔ので、その件は沙汰止みになった〕。楙は兗州で徴発して止むことがなく、郡県はその命令に応じきれなかった。范陽王虓は苟晞を派遣して兗州に返らせ、楙を都督青州諸軍事に移した。楙は命令を受けず、山東の諸侯(東海王、范陽王らの起義軍)にそむき、豫州刺史の劉喬と結託した27劉喬は東海王・范陽王らと対立していた。。范陽王が将の田徽を派遣して楙を攻めさせると、〔田徽は〕これを破ったので、楙は敗走して封国(東平国)に帰還した。恵帝が洛陽に帰還すると、楙は宮殿に参内した。
 懐帝が即位すると、竟陵王に改封され、光禄大夫に任じられた。東海王が地方に出て豫州牧となると、世子の毗と東海王の徒党である何倫を〔洛陽に〕留め、宮省(殿中)を監視させた。楙が懐帝に東海王討伐を進言すると、〔懐帝は〕兵を集めて何倫を襲撃させたが、勝利できなかった。懐帝は罪を楙になすりつけたので、楙は逃げ隠れて難を免れた。東海王が薨じてから、潜伏先から出てきた。洛陽が転覆したとき、反乱兵に殺された。

〔太原王輔〕

 太原の成王の輔は、魏末に野王太守となった。武帝が受禅すると、渤海王に封じられ、食邑は五三七九戸とされた。泰始二年、就国した。のちに〔中央に召されて〕衛尉となり、出て東中郎将となり、南中郎将に転じた。咸寧三年、太原王に移り、監并州諸軍事となった。太康四年、入朝し、同五年、薨じた。鎮北将軍を追贈された。永平元年、さらに衛将軍、開府儀同三司を追贈された。子の弘が〔後継ぎに〕立ち、元康年間に散騎常侍となり、のちに封爵を中丘王に移された28恵帝紀、元康三年十月の条に薨去の記事が載っているが、爵位は太原王となっている。詳細は不詳。。元康三年に薨じ、子の鑠が〔後継ぎに〕立った。

〔翼(武邑王家)〕

 翼は字を子世という。若くして要職を歴任し、武賁中郎将に昇進した。武帝の受禅前に卒したため、兄の邕の支子(嫡子ではない子)である承を後継ぎとし、南宮県王に封じた29武帝紀、泰始六年五月によると、南宮県王以前の承の爵は寿安亭侯である。南宮県は安平の属県であったので、あえて祖父・孚の安平国から県を割いて封じたのであろう。また、同、太康十年十月には武邑王に改封されている。『太平御覧』巻一九九、同姓封に引く「又曰」(晋起居注)に「武帝詔安平献王孫承、昔以父(邕のこと――引用者注)早亡、不建大祚、以県封之。今以三県封為武邑王」とあり、『太平寰宇記』巻六三、冀州に「〔太康〕十年割武遂・武邑・観津三県(いずれも安平の北部の属県――引用者注)為武邑国、以封南宮王承為武邑王」とある。。薨じたが、子の祐が〔安平王の〕後継ぎに立っていたため、承は最終的に後継者がいなくなってしまった30原文「子祐嗣立、承遂無後」。やや不自然な文。『太平寰宇記』などの記述を総合すると、承は恵帝年間に薨じたが、これ以前の武帝・太康五年に子の祐が家を出て安平王の系統を継ぎ、長楽王になっていた(邕の条の訳注を参照)。恵帝の治世中に承は薨去したが、後継者が不在だったため、武邑国は廃止されてしまい、長楽国に併合されたという。長楽は安平を改称した封国で、武邑は安平北部を割いて立てられた県であるから、ようするに長楽+武邑は旧安平の領域に戻ったということである。『太平寰宇記』巻六三、冀州に「至晋泰始元年、封皇叔祖父孚為安平王、太康五年又改為長楽国、立孚曾孫祐為王、十年割武遂・武邑・観津三県為武邑国、以封南宮王承為武邑王、恵帝時承薨、無後、省還長楽」とある。中華書局の校勘記も参照。読みにくい文ではあるが、以上の経緯をふまえ、訳語を補って訳出した。

〔下邳王晃〕

 下邳の献王の晃は字を子明という。魏は武始亭侯に封じ、黄門侍郎に任じた。西安男に改封され、出て東莞太守となった。武帝が受禅すると、下邳王に封じられ、食邑は五一七六戸とされた。泰始二年、就国した。
 晃は孝友に厚く、清廉で、謙虚になって士人にへりくだり、おおいに宗室の評判を得た。のちに長水校尉、南中郎将となった。泰始九年、詔が下った、「南中郎将の下邳王晃は清明中正であり、身は清潔の行動をなし、才は政治の道理をそなえ、文武にわたって知略を有している。そこで、晃を使持節、都督寧益二州諸軍事、安西将軍、領益州刺史とする31『北堂書鈔』巻七二、刺史「益州険遠以親鎮之」に引く「晋起居注」に「太始元年、詔曰、『益州険遠、王教未洽、宜以重将親臣、以鎮撫之。南中郎将下邳王晃為之』」とある。『晋書斠注』は「晋起居注」佚文の「元年」は「九年」の誤りであろうと推測している。」。晃は病気を理由に赴任しなかったので、あらためて列曹尚書に任じ、尚書右僕射に移った。しばらくして、出て鎮東将軍、都督青徐二州諸軍事となった。恵帝が即位すると、入って車騎将軍となり、散騎常侍を加えられた。楊駿誅殺のさい、〔賈后らは〕晃を領護軍将軍とし、東掖門に駐屯させた。ほどなく守尚書令となった。司空に移り、侍中を加えられ、尚書令はもとのとおりとされた。元康六年に薨じ32原文では「咸寧六年」の薨と記されているが、恵帝紀は元康六年正月に薨去を記している。中華書局の校勘に従い、「元康」に改めて訳出する。、太傅を追贈された。
 裒、綽の二人の子がいた。裒は若くして卒した。綽は重い病気をかかえていたので、〔下邳王を継がせずに〕別に良城県王に封じ、太原王輔の第三子である韡を〔晃の〕後継ぎとした。侍中、列曹尚書にまで昇進したが、若くして薨じ、子の韶が〔後継ぎに〕立った。

〔太原王瓌(河間王家)〕

 太原の烈王の瓌は字を子泉という。魏は長楽亭侯とし、貴寿郷侯に改封した。振威将軍、秘書監を歴任し、固始子に封じられた。武帝が受禅すると、太原王に封じられ、食邑は五四九六戸とされた。泰始二年、就国した。同四年、入朝し、袞冕の服を賜わり、東中郎将に移った。同十年、薨じた。詔が下った、「瓌は心を王室に尽くして忠誠に厚く、才知をそなえ、公正誠実であった。文武の官を歴任し、優秀な成績を残した。外に出て封国(太原国)に君臨すれば、夷人も夏人も慕い、〔東中郎将になって〕許都に鎮守すれば、その知略〔の挙げた功績〕は記録にあたいするものであった。不幸にも若くして薨じ、朕ははなはだこれを悼む。いま、埋葬が間近(まぢか)に迫っている。前将軍を追贈する」。子の顒が〔後継ぎに〕立ち、河間王に改封された。〔顒は〕別に列伝がある。

〔高陽王珪〕

 高陽の元王の珪は字を子璋という。若くして才能と名望があり、魏の高陽郷侯であった。河南令を歴任し、湞陽子に昇格し、給事黄門侍郎に任じられた。武帝が受禅すると、高陽王に封じられ、食邑は五五七〇戸とされた。北中郎将、督鄴城守諸軍事を歴任した33任命の詔が残っている。『太平御覧』巻二四一、北中郎将に引く「晋起居注」に「武帝太始二年、詔、『鄴城守事、宜速有人、又当得親親有文武器任者。高陽王珪、今来之国、雖当出為蕃輔、以才幹事、亦古之制也。其以珪為督鄴城守事、北中郎将』」とある。。泰始六年、入朝すると、父の孚が高齢であるのを理由に、〔洛陽に〕留まって孝養を尽くしたいと願い出た。〔希望が聴き入れられ、中央の官職である〕列曹尚書に任じられ、尚書右僕射に移った34佚書には左僕射とするものと右僕射とするものがある。『太平御覧』巻二一一、左右僕射に引く「又曰」(晋起居注)に「尚書、高陽王珪、忠允善政、思量弘済、莅官尽心、所居著称。其以珪為右僕射」とあり、同所引「晋諸公賛」に「司馬珪、少時有令望、早歴顕職。晋受禅、為尚書左僕射、時年三十七、衆論以為美」とある(『北堂書鈔』巻五九、尚書僕射「少時有令望衆論為美」に引く「晋諸公賛」だと「年四十七」に作る)。。同十年、薨じた。詔が下り、兼大鴻臚をつかわし、節を持たせて葬儀を監督させた。車騎将軍、儀同三司を追贈した。
 珪は世に名声を博していたので、武帝ははなはだ悲しみ、惜しんだ。子がいなかったので、詔が下り、太原王輔35輔は咸寧三年に渤海王から太原王に移っているので、正確に言えばこのときは渤海王である。の子の緝に爵(高陽王)を継がせた。緝が立って五年、咸寧四年に薨じ、哀の諡号をおくられた。子がいなかったので、太康二年に詔が下り、太原王瓌の世子である顒の子の訟を緝の後継ぎとし、真定県侯に封じた。

〔常山王衡〕

 常山の孝王の衡は字を子平という。魏は徳陽郷侯に封じた。汝陽子に昇格し、駙馬都尉となった。武帝が受禅すると、常山王に封じられ、食邑は三七九〇戸とされた。泰始二年に薨じた。子がいなかったので、安平世子の邕の第四子である殷36原文は「敦」だが、周家禄『晋書校勘記』の説に従い、「殷」に改める。武帝紀、咸寧元年十月に「常山王殷」の薨が記されている。敦は邕の子として実在する人物だが、彼は安平国を継いだ。邕の条の訳注を参照。を後継ぎとした。

〔沛王景〕

 沛の順王の景は字を子文という。魏は楽安亭侯とした。諫議大夫を歴任した。武帝が受禅すると、沛王に封じられ、食邑は三四〇〇戸とされた。立つこと十一年、咸寧元年に薨じ、子の韜が〔後継ぎに〕立った37懐帝紀、永嘉五年七月の条に「沛王滋」がみえ、『晋書校文』は韜の後継者だと推測している。

宗室伝系図安平王孚附:安平世子邕・義陽王望・太原王輔・翼・下邳王晃・太原王瓌・高陽王珪・常山王衡・沛王景彭城王権・高密王泰(附:高密王略・新蔡王騰・南陽王模)范陽王綏(附:虓)/済南王恵/譙王遜/高陽王睦・任城王陵

(2021/11/22:公開)

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    こう書いてあるが、武帝紀によると咸寧三年正月に隆の弟の敦が安平王に立てられている。敦は太康二年三月に薨じたが、のち太康五年に南宮王承の子の祐(武帝紀は「玷」)を後継ぎに立て、長楽王に改封したという。『太平寰宇記』巻六三、冀州に「至晋泰始元年、封皇叔祖父孚為安平王、太康五年又改為長楽国、立孚曾孫祐為王」とある。
     長楽は『晋書』巻一四、地理志上では司州魏郡の属県として記されているが、『晋書』巻八一、蔡豹伝には長楽太守が見えており、また石勒支配下の時期のことではあるが、石虎らが石勒に勧進した上疏で、趙国を構成する郡のひとつに長楽が含まれている(巻一〇四、石勒載記上)。『宋書』巻三六、州郡志二、冀州、広川に「〔漢〕安帝延光中、改曰安平、晋武帝太康五年、又改為長楽」とあり、『魏書』巻一〇六上、地形志二上、冀州、長楽郡の自注に「〔漢〕安帝改曰安平、晋改」とあり、長楽は安平の改称であったらしく、また北魏長楽郡の属県は西晋安平国南部の属県とおおむね重なっている。おそらく祐を封じたところの長楽と魏郡の属県の長楽とは別で、祐の封国の長楽は安平を改名したものなのであろう。さきの『太平寰宇記』の引用文は祐を封じたことにつづけて「十年割武遂・武邑・観津三県為武邑国、以封南宮王承為武邑王」と記している。武邑王に封じられた承は祐の父である。このときに長楽から割かれた三県はいずれも旧安平の北部に位置する県で(ちなみに承の旧封の南宮も旧安平の属県)、『魏書』地形志二上、冀州、武邑郡の自注に「晋武帝置」とある。長楽(旧安平)北部を分割して武邑国を独立させたということであろう。以上の経過をまとめると、安平国は祐を後継者に立てたさいに長楽国に改名され、その後、さらに北部三県が割かれて武邑国が立てられた、ということになる。
     東晋の記録にも安平王がしばしば見えている。『通典』巻五二、旁親喪不廃祭議に穆帝期に薨去した安平王(名前は不詳)の記事があり、孝武帝紀(太元十一年)と安帝紀(義煕九年)にも安平王薨去の記事がある(中華書局は安帝紀の「安平王」を「武陵王」の誤りだとしてはいるが)。すべて詳しい素性は不明だが、いずれも孚の後継者として立てられた王である可能性は高い。
  • 2
    『三国志』魏書四、高貴郷公紀、甘露元年四月の裴松之注に引く「傅暢晋諸公賛」に「帝常与中護軍司馬望、侍中王沈、散騎常侍裴秀、黄門侍郎鍾会等講宴於東堂、并属文論。名秀為儒林丈人、沈為文籍先生、望・会亦各有名号。帝性急、請召欲速。秀等在内職、到得及時、以望在外、特給追鋒車、虎賁卒五人、毎有集会、望輒奔馳而至」とある。
  • 3
    原文「式是百辟」。出典は『毛詩』大雅、烝民で、鄭箋に「施行法度於是百君」とある。
  • 4
    三公を指す言葉。『後漢書』列伝一、劉玄伝の李賢注に引く「春秋漢含孳」に「三公在天為三台、九卿為北斗」とあり、三公は「三台」という星座に対応するものとされている。おそらくこれにもとづいて、「台司」という呼び方が生まれたのであろう。
  • 5
    原文「台司之重、存乎天官」。自信はないが、「天官」は「天工」のことで、『尚書』皐陶謨篇の「無曠庶官、天工人其代之」をふまえたものと解釈した。天子の官とは「天の官」なのであって、人が天に代わって官に就いて世を治めているのである、ゆえに非才の人間を「天の官」に登用してはならない、という文。孔安国伝に「曠、空也。位非其人為空官。言人代天理官、不可以天官私非其才」とあり、疏に「万幾事多、不可独治。当立官以佐己、無得空廃衆官、使才非其任、此官乃是天官、人其代天治之、不可以天之官而用非其人」とある。前文では宗室の尊重を説いているが、ここでは宗室であるという理由だけで高位に登用していいわけではないと述べているものと思われる。
  • 6
    原文「周建六職」。厳密には周の六官は卿で、公とは区別される。たとえば『漢書』巻一九上、百官公卿表上に「周官則備矣。天官冢宰、地官司徒、春官宗伯、夏官司馬、秋官司寇、冬官司空、是為六卿……。太師、太傅、太保、是為三公」とある。ただし、六卿のうちには司徒や司空など後世の三公に相当する官が連なっているので、本文は「台司」のつもりで「六職」と言っているのかもしれない。
  • 7
    原文「政典為首」。前文が訳者の解釈したとおりだとすれば、「政典」は政治制度的なもの(公平な人選を定めるもの)を指していると想像できる。
     『宋書』巻八五、謝荘伝に「八柄馭下、以爵為先、九徳咸事、政典居首」と、似たような用例がみえている。しかし、これは「以八柄詔王馭群臣。一曰爵、以馭其貴、二曰禄、……」(『周礼』天官、大宰)と「日宣三徳、夙夜浚明有家。日厳祗敬六徳、亮采有邦。翕受敷施、九徳咸事、俊乂在官……。天敘有典、勅我五典五惇哉。天秩有礼、……」(『尚書』皐陶謨篇)にもとづいた表現で、「政典」は皐陶謨篇で最初に挙げられている天の叙典を指している。したがって、本文の「政典」とは別の意味だと思われる。とはいえ、謝荘伝の用例からは、何かを並列的に挙示する古典籍の記述で、最初に挙げられているものを「居首」と表現することがわかる。本文も同様の構造をもつ古典の記述に典拠をもつ可能性が高い。
     そこで注目されるのは『周礼』天官、大宰の「掌建邦之六典、以佐王治邦国。一曰治典……、二曰教典……、三曰礼典……、四曰政典……、五曰刑典……、六曰事典……」という記述である。四つめに「政典」があるが、これは夏官司馬に対応する「典」であり、かつ六典の最初に挙げられているわけではない。検索したかぎり、この政典を六典の筆頭とする記述もみつからないし、夏官が六官のうちでもっとも重要とする記述も見当たらない。このため、本文のいう「政典」は夏官の政典であるとは考えにくい。
     ただし、天官大宰は『周礼』で最初に記述されている官職であり、なおかつ前引の記述はその大宰の冒頭のものでもある。「邦の六典を建つ(建邦之六典)」という書き方からは、「最初に六典を定める」という意味を読み取れなくもない。こういうわけで、違和感がまったくないわけではないものの、本文の「政典」は六典を指していると解釈することにした。
  • 8
    原文「弼道惟明」。和刻本は「道ヲ弼(たすけ)テ」と訓じているが、訳者は「弼道」で読み、「道」は「導」の意で取った。『漢書』には「輔道」という語が散見し、顔師古注に「道読曰導」とある。
  • 9
    (三公としての)司馬、または太尉を指すらしい。現にこの詔で望は太尉に任命されている。『後漢書』列伝二〇下、郎顗伝の李賢注に「上司謂司馬也、建武二十七年改為太尉」とある。『後漢書』『三国志』での用例をみると、たんに三公の意で使用されているとみられる箇所もあるが、たしかに多くの場合で太尉を指している。
  • 10
    おそらく領軍将軍(中領軍)が率いるところの内軍のこと。
  • 11
    これによって父子で上公の官に就くという異例の事態になった。『三国志』魏書一五、司馬朗伝の裴松之注に引く「晋諸公賛」(『太平御覧』巻二〇九、大司馬、略同)に「〔望遷〕大司馬。時孚為太宰、父子居上公位、自中代以来、未之有也」とある。
  • 12
    『晋書』巻一五、地理志下によれば棘陽は義陽の属県。『宋書』巻三七、州郡志三、雍州、河南に「棘陽令、漢県、故属南陽、晋太康地志属義陽、後属新野」とある。史書に棘陽太守の例も見えないことから、棘陽が義陽から独立した可能性は低い。つまりこの改封は、封国の領域が義陽郡全体から棘陽県ひとつに縮小されたということを意味し、実質的には降封処分である。前王の威、そして奇自身も問題行動を起こしていることからこのような措置を取られたのであろう。
     なお、のちに棘陽が所属することになった新野郡は『宋書』州郡志三、雍州、新野に「漢県、故属南陽。何志晋恵帝分南陽立」とあり、恵帝期に南陽から独立した郡とされる。しかし『晋書』地理志下では義陽の属県に新野が記されている。じつは、そもそも義陽自体、設立の経緯が明らかではない。『晋書』地理志下、荊州、義陽郡の自注には「太康中置」とあり、同、地理志下、荊州には「及武帝平呉、……分南陽立義陽郡」とあり、地理志序文もやはり太康元年設置とする。つまり『晋書』地理志は太康元年設置と記している。『太平寰宇記』巻一四二、鄧州、南陽県、廃新野故城にも「本漢旧県。後漢為棘陽県、尋廃、後為新野。晋太康元年置義陽郡、居新野県」と、やはり太康元年設置とし、治所は新野県に置かれたという。ところが、そもそも望は泰始元年に義陽に封じられているし、『水経注』巻三〇、淮水注に「闞駰〔『十三州志』〕言、『晋太始中、割南陽東鄙之安昌・平林・平氏・義陽四県、置義陽郡于安昌城』」とあり、『宋書』巻三六、州郡志二、司州、義陽には「魏文帝立、後省、晋武帝又立」とある。これらをふまえると、義陽は曹魏文帝の時期に設置されたが、その後は廃され、晋武帝即位時に南陽郡東方の属県を割いて復置されて望が封じられ、安昌県に治所が置かれた、ということになる。しかしそうだとすると、『晋書』地理志に記される義陽の属県をどう解釈すればよいだろうか。銭大昕は『十三州志』の記述に疑義を呈しているが(『廿二史考異』巻一九、晋書二、地理志下)、それよりも整合的な説を提出しているのが汪兆鏞で、太康元年に新野などの県が義陽に加増されたのではないか、と推測している(『稿本晋会要』巻四七、輿地三、義陽郡)。これがもっとも整合的な解釈であろう。治所(新野か安昌か)の問題は、汪氏は判断を保留しているが、この説に従うならば新野編入後に治所が移されたということになろう。ただ、『水経注』淮水に「淮水又径義陽県故城南、義陽郡治也」という別の情報もあり、収拾がつかない。
     ついで太康十年、扶風王駿の子の歆が新野県公に封じられている(武帝紀、巻三八、宣五王・扶風王駿伝附新野荘王歆伝)。このときに新野がどのような編成を受けたのかはわからない。歆はその後、斉王冏の義挙に協力し、功績によって新野郡王に封じられている(宣五王・扶風王駿伝附新野荘王歆伝)。さきの『宋書』州郡志三、新野に、「新野郡は恵帝期に南陽から独立した(と何承天『宋書』州郡志が記している)」と言われていたのは、歆の封国に県が加増され、新野が郡として独立したという編成を指しているものと思われる。このときに加増された県にかんして、『水経注』巻三一、淯水注に「晋咸寧二年、封大司馬扶風武王少子歆為新野郡公、割南陽五属棘陽・蔡陽・穰・鄧・山都封焉」とあり、咸寧二年の新野郡「公」封建という記載は『晋書斠注』や銭大昕(『廿二史考異』地理志下)が言うように誤りであろう。また言及されている五つの県はすべて南陽郡所属ではなく、山都が襄陽、残りの四県は義陽の所属である。このような疑問点が目につくとはいえ、加増されている五つの県は新野郡を構成する県であった可能性が高い。『宋書』州郡志三、新野に「永初郡国、何志有棘陽・蔡陽・鄧県」とあり、同、山都に「晋太康地志属襄陽、永初郡国及何徐属新野」とあるように、『永初郡国志』と何承天『宋書』州郡志の記録では新野の属県は棘陽、蔡陽、鄧、山都であったといい、『水経注』が挙げている県とおおむね重なっている。ゆえに新野に加増された県については『水経注』の記載を信頼してよさそうだが、そうなると新たな問題が生ずる。歆が新野王に封じられたのは斉王冏の成功後、すなわち趙王倫の敗亡後のことであるが、おそらくほぼ同じ時期に義陽王威も誅殺され、奇が棘陽王に封じられているのである。歆に新たに加増することになった棘陽県にわざわざ奇を封じるのは考えがたい措置である。棘陽が新野郡に編入されたことは、この注の冒頭に引いた『宋書』州郡志の記載から考えても、確実性が高いと思われる。となれば、じつは棘陽王が誤りで、義陽県王が正しいのではないだろうか。前引の『水経注』淮水に「淮水又径義陽県故城南、義陽郡治也」とあるのは、新野郡成立後、義陽の治県が義陽県に移されたことを言っているのかもしれない。この問題にかんしては歴代の注釈家も言及しておらず、これ以上考えようがないため、とりあえずはこのまま保留しておく。
  • 13
    『三国志』魏書一五、司馬朗伝によれば、司馬朗の子。望と同輩の関係になる。
  • 14
    原文「一国不絶之統」。文の構成は、「一国の統(一国をなす家系)」+「不絶の統(代々継承されて絶えない家系)」であろうと思われる。
  • 15
    滔の場合、生家である章武が本宗に相当すると思われる。本宗たる章武が永絶してまで傍親たる新蔡を継がせる必要はない、という理屈がこの義から導き出されるはずであろう。
  • 16
    新蔡王の伝によると、この結果、新蔡王は汝南王祐の子の弼が継ぐことになったが、本伝によれば滔がこの希望を出したのは太興二年なので、弼の襲爵は太興二年ころということになる。しかし銭大昕が『廿二史考異』で指摘しているように、元帝紀によれば弼が新蔡王に立てられたのは建武元年十一月で、太興元年十一月には薨去しており、本伝の時系列と矛盾している。銭氏は本伝を誤りとみなしているが、実際はよくわからない。
  • 17
    彭城王釈の子。前文にみえる彭城王雄の兄弟にあたる。
  • 18
    時系列が記述の順番のとおりであるならば、義陽王世子であると同時に侯の爵位を有していることになる。あるいは、この記述のとおりの時系列ではなく、侯に封じられたのちに兄が没し、世子になったのかもしれない。
  • 19
    整にかんしては、当時、彼の徳を称えた碑文が南郷に立てられたようで、趙明誠『金石録』巻二〇、晋南郷太守司馬整頌に断片的に引用されている。引用文のひとつに「謁者就郡、拝君世子。執節四譲、推与兄嗣、固辞懇誠。泰伯三美、君又加焉」とある。趙明誠は碑文の「推与兄嗣(兄を世子に推薦した)」という記述を挙げ、本伝の「兄の弈が先に卒したため、整を世子とした」と齟齬していると指摘し、碑文の記述が正しいとしている。しかし碑文の「兄」は必ずしも奕を指すとは限らない。他家を継いでいた洪を指していたとも考えられ、趙明誠の判断が妥当とは言えない。
  • 20
    随県のみで構成されていた随国に新たに属県(平林県)が割かれ、随が郡に立てられたということ。『宋書』巻三六、州郡志二、司州、随陽に「晋武帝分南陽義陽立義陽国、太康年、又分義陽為随国、属荊州」とある。
  • 21
    このときのことかはわからないが、『北堂書鈔』巻五八、通直散騎常侍「東平王懋為通直之始」に引く「晋起居注」に「太始十年、詔東平王懋為員外常侍、通直殿中、兼散騎常侍。通直之号、蓋自此始也」とある。
  • 22
    東安公繇は楊駿を誅殺した側に与する。楊駿誅殺後、権勢を得て、賞罰を振るったという。権力を得た彼の意向によって罪を逃れたということであろう。巻三八、宣五王・琅邪王伷伝附繇伝を参照。
  • 23
    以前、東海王を冷淡にあしらってしまったので、東海王の矛先が自分にも向けられはしないかと心配になったのであろう。
  • 24
    原文まま。巻五九、東海王越伝、『資治通鑑』巻八六、永興二年は「兗州刺史」とする。
  • 25
    「承制」は「皇帝の意向を受けて臨時に政務を代行することを言う(謂秉承皇帝旨意而便宜行事)」(『漢語大詞典』)。みずから「承制」を称し、自分の官職を徐州都督から兗州に変更し、そのことを恵帝に事後報告したということだろう。東海王越伝だと東海王が楙を兗州刺史にした(「越……以楙領兗州刺史」)とするが、『資治通鑑』は楙みずからが兗州刺史になった(「楙自為兗州刺史」)とする。『資治通鑑』は本伝の記述に合わせてこのように書いているのだろう。
  • 26
    前の注で記したように、当時の楙は「都督兗州刺史」を称したが、これは兗州刺史であった可能性が高い。すると、楙と苟晞との二人の兗州刺史が存在したことになってしまう。この件に関連して胡三省は、「楙が兗州刺史になった前年、范陽王虓が苟晞を行兗州刺史としていたが、苟晞は許昌に留まったまま兗州に駐在していなかったため、楙はみずから兗州刺史を領したのである(去年、范陽王虓以苟晞行兗州、晞留許昌、未及至州、而楙自領之)」と解釈している。胡三省が指摘するように、苟晞は范陽王の承制によって兗州刺史に命じられたが、兗州にはいなかったらしい。また、このあとでは楙と苟晞の人事について諍いも起こっている。おそらく本伝がここで記しているのは、范陽王が承制して兗州刺史に命じた苟晞と、東海王の黙認のもと、みずから兗州刺史を称し、天子の事後承認も得た楙とのあいだの、兗州刺史の位をめぐる不和と考えられる。「楙は兗州刺史の苟晞が自分に譲らないのを心配した(楙慮兗州刺史苟晞不遜己)」というのは、「苟晞が兗州刺史の位を自分に譲ろうとしないのを心配した」ということであろう。
  • 27
    劉喬は東海王・范陽王らと対立していた。
  • 28
    恵帝紀、元康三年十月の条に薨去の記事が載っているが、爵位は太原王となっている。詳細は不詳。
  • 29
    武帝紀、泰始六年五月によると、南宮県王以前の承の爵は寿安亭侯である。南宮県は安平の属県であったので、あえて祖父・孚の安平国から県を割いて封じたのであろう。また、同、太康十年十月には武邑王に改封されている。『太平御覧』巻一九九、同姓封に引く「又曰」(晋起居注)に「武帝詔安平献王孫承、昔以父(邕のこと――引用者注)早亡、不建大祚、以県封之。今以三県封為武邑王」とあり、『太平寰宇記』巻六三、冀州に「〔太康〕十年割武遂・武邑・観津三県(いずれも安平の北部の属県――引用者注)為武邑国、以封南宮王承為武邑王」とある。
  • 30
    原文「子祐嗣立、承遂無後」。やや不自然な文。『太平寰宇記』などの記述を総合すると、承は恵帝年間に薨じたが、これ以前の武帝・太康五年に子の祐が家を出て安平王の系統を継ぎ、長楽王になっていた(邕の条の訳注を参照)。恵帝の治世中に承は薨去したが、後継者が不在だったため、武邑国は廃止されてしまい、長楽国に併合されたという。長楽は安平を改称した封国で、武邑は安平北部を割いて立てられた県であるから、ようするに長楽+武邑は旧安平の領域に戻ったということである。『太平寰宇記』巻六三、冀州に「至晋泰始元年、封皇叔祖父孚為安平王、太康五年又改為長楽国、立孚曾孫祐為王、十年割武遂・武邑・観津三県為武邑国、以封南宮王承為武邑王、恵帝時承薨、無後、省還長楽」とある。中華書局の校勘記も参照。読みにくい文ではあるが、以上の経緯をふまえ、訳語を補って訳出した。
  • 31
    『北堂書鈔』巻七二、刺史「益州険遠以親鎮之」に引く「晋起居注」に「太始元年、詔曰、『益州険遠、王教未洽、宜以重将親臣、以鎮撫之。南中郎将下邳王晃為之』」とある。『晋書斠注』は「晋起居注」佚文の「元年」は「九年」の誤りであろうと推測している。
  • 32
    原文では「咸寧六年」の薨と記されているが、恵帝紀は元康六年正月に薨去を記している。中華書局の校勘に従い、「元康」に改めて訳出する。
  • 33
    任命の詔が残っている。『太平御覧』巻二四一、北中郎将に引く「晋起居注」に「武帝太始二年、詔、『鄴城守事、宜速有人、又当得親親有文武器任者。高陽王珪、今来之国、雖当出為蕃輔、以才幹事、亦古之制也。其以珪為督鄴城守事、北中郎将』」とある。
  • 34
    佚書には左僕射とするものと右僕射とするものがある。『太平御覧』巻二一一、左右僕射に引く「又曰」(晋起居注)に「尚書、高陽王珪、忠允善政、思量弘済、莅官尽心、所居著称。其以珪為右僕射」とあり、同所引「晋諸公賛」に「司馬珪、少時有令望、早歴顕職。晋受禅、為尚書左僕射、時年三十七、衆論以為美」とある(『北堂書鈔』巻五九、尚書僕射「少時有令望衆論為美」に引く「晋諸公賛」だと「年四十七」に作る)。
  • 35
    輔は咸寧三年に渤海王から太原王に移っているので、正確に言えばこのときは渤海王である。
  • 36
    原文は「敦」だが、周家禄『晋書校勘記』の説に従い、「殷」に改める。武帝紀、咸寧元年十月に「常山王殷」の薨が記されている。敦は邕の子として実在する人物だが、彼は安平国を継いだ。邕の条の訳注を参照。
  • 37
    懐帝紀、永嘉五年七月の条に「沛王滋」がみえ、『晋書校文』は韜の後継者だと推測している。
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