巻五十九 列伝第二十九 河間王顒 東海王越

凡例
  • 文中の〔 〕は訳者による補語、( )は訳者の注釈、12……は注を示す。番号をクリック(タップ)すれば注が開く。開いている状態で適当な箇所(番号でなくともよい)をクリック(タップ)すれば閉じる。
  • 注で唐修『晋書』を引用するときは『晋書』を省いた。

八王伝系図汝南王亮(附:粋・矩・羕・宗・煕・祐)・楚王瑋趙王倫斉王冏(附:鄭方)長沙王乂・成都王穎河間王顒・東海王越

河間王顒

 河間王の顒は字を文載といい、安平献王孚の孫で、太原烈王瓌の子である。最初は父の爵(太原王)を継承し、咸寧二年に就国した。同三年、河間に改封された。若くして清廉の名声を博し、財産を軽んじて士人に恵んでいた。諸王とともに来朝したさい、武帝は顒が諸国の模範にあたいするのを感嘆した。元康のはじめ、北中郎将となり、鄴城を監督した。九年、梁王肜に代わって平西将軍となり、関中に出鎮した。石函の規則では1武帝が定めた諸侯王に関する誓約の意味か。、親親(天子ととりわけ関係が近い宗室)でなければ関中を都督することはできなかったが、顒は諸王のなかでは疎遠なほうであったものの、特別に賢才であることをもって推挙されたのである。
 趙王倫が帝位を奪うと、斉王冏が趙王の討伐を謀った。まえの安西将軍参軍である夏侯奭は侍御史を自称し、始平で群衆を集めて数千人を得ると、斉王に呼応し、書簡を送って顒を招いた。顒は主簿の房陽、河間国の張方を派遣して夏侯奭を討伐させ、夏侯奭とその徒党十数人を捕え、長安の市で腰斬に処した。斉王の檄書が届くと、顒は斉王の使者を拘束し、趙王へ送った。趙王は顒から兵を徴集したため、顒は張方を派遣し、関西の勇猛な将を統率させ、趙王のもとへ行かせた。張方が華陰に着いたとき、顒は二王(斉王と成都王穎)の軍の勢いが盛んだと聞き、そこで長史の李含に龍驤将軍を加え、督護の席薳らを統率させると、張方の軍を追わせて向きを返させ、二王に呼応させた。義軍(張方ら)が潼関に着いたときには、趙王と孫秀はすでに誅殺され、天子は復位していたため、李含と張方はおのおの軍を率いて帰還した。斉王が論功したさい、顒が最初は同調していなかったことに腹を立てていたが、最終的には義を実行したので、位を侍中、太尉に進め、三賜の礼2たぶん「三錫」と同義で、九錫の三分の一の礼物という意味か。を加えた。
 のちに李含が翊軍校尉となると、斉王の参軍の皇甫商や司馬の趙驤らと不和が生じたので、とうとう顒のもとへ奔り、斉王討伐の密詔を授かったと詐称し、そうして〔顒に斉王を討つことの〕利害を説い〔て斉王の討伐を勧め〕た。顒はこれを採用し、すぐに兵を出動させ、使者をつかわして成都王穎を仲間に誘った。李含を都督とし、諸軍を統率させて陰盤に駐屯させ、前鋒は洛陽から百二十里の新安に駐屯させた。長沙王乂に檄書を発し、斉王を討たせた。斉王が敗亡すると、顒は李含を河南尹とし、馮蓀、卞粋らと力を合わさせ、ひそかに長沙王を殺させようとした。皇甫商は、李含が以前に〔詔を〕詐称したこと、および〔今度は〕顒と〔長沙王殺害の〕陰謀をたくらんでいることを把握したので、つぶさに長沙王に報告した。そこで長沙王は李含らを誅殺した。顒は李含が死んだことを知ると、ただちに挙兵して皇甫商の討伐を名分に掲げ、張方を都督とし、精鋭七万を統率させて洛陽へ向かわせた。張方が皇甫商を攻めると、皇甫商は防戦したものの潰走し、張方はそのまま進んで西明門を攻めた。長沙王が中軍(内軍)の左右衛を率いて張方を迎撃すると、張方軍は大敗して、死者は五千余人であった。当初、張方は駃水橋の西に軍営を設けていたが、このときになって軍塁を何重にも築き、外から〔官の〕倉庫に備蓄されている食糧を持ち込み、軍需物資を満たした。長沙王はふたたび天子に従って出撃し、張方を攻めたが、何度戦っても勝利を得られなかった。長沙王が死ぬと、張方は長安へ帰還した。詔が下り、顒を太宰、大都督、雍州牧とした。顒は〔上表して〕皇太子の覃を廃し、成都王を皇太弟に立て、改元し、大赦した。
 左衛将軍の陳眕が天子(恵帝)を奉じて成都王を征伐すると、顒も張方を派遣し、兵二万を統率させて鄴を救援させた。天子は〔敗戦し、〕ほどなく鄴に行幸した。張方は兵を洛陽に留めた。王浚らが成都王を攻めると、成都王は天子を連れて洛陽へ帰った。張方は兵を率いて殿中に入り、恵帝を脅して自分の軍塁へ行幸させ、府庫(官府の倉庫)を掠奪した。〔さらに〕宮廟を焼いて人心を絶とうとしたところ、盧志が諫めたので中止した。張方はさらに天子を脅して長安へ行幸させた。そこで顒は百官を選抜して配置し、秦州を定州に改めた。東海王越が徐州で挙兵し、西に進んで天子を迎えようとすると、関中の人々はおおいに恐懼した。張方は顒に言った、「方(わたし)が統べている軍はなお十余万ございます。〔そこで次のようにご提案いたします。〕天子を奉じて洛陽宮へお送りし、成都王を鄴へご帰還させ、公ご自身は関中に留まって鎮しますように。方(わたし)は北に進んで博陵公(王浚)を討ちます。このようになされば、天下は小康し、手を挙げる(事を起こす)者は二度と出てこなくなるでしょう」。顒はその計画が大規模で成功しがたいことを心配し、承認しなかった。そこで〔豫州刺史として許昌に拠っている〕劉喬に節を授け、位を鎮東大将軍に進め、〔また〕成都王を派遣し、楼褒や王闡らの諸軍を統率させ、河橋に拠らせて東海王を防がせた。王浚は督護の劉根を派遣し、三百騎を率いさせ、〔劉根は〕黄河のほとりに到達した。王闡が出撃したが、劉根に殺され、成都王は〔河橋から退いて〕張方の故塁に軍を駐屯させた。范陽王虓は鮮卑の騎兵を派遣し、平昌公模の軍や博陵公(王浚)の軍と共同させて河橋を襲撃させると、楼褒は西方へ逃げた。追撃の騎兵は新安にまで至り、道路に横たわる死者は数えきれないほどであった。
 これ以前、東海王は張方が天子をむりやり連行し、天下の人々が憤っていることをもって、義を唱え、山東の諸侯とともに期日を定めて〔天子を〕奉迎しようとしたのであるが、まず顒に使者をつかわし、恵帝を洛陽へ送り帰させ、〔東海王と〕顒とで分陝3世を共同統治することの比喩表現。詳しくは長沙王乂伝の訳注を参照のこと。しようと説得したのであった。顒はこれに従おうとしたが、張方は賛同しなかった〔ため、戦うことになったのである〕。東軍(東海王らの軍)が大勝し、成都王らが敗北するにいたって、顒はようやく張方の親信(信頼している側近)である将の郅輔に命じ、夜中に張方を斬らせ、首を送って東軍に見せた。〔しかし〕すぐに計画を変更し、さらに刁黙を派遣して潼関を守らせると、郅輔が張方を殺したことを咎め、郅輔も斬った。顒はこれより以前に将の呂朗らを派遣して滎陽に拠らせていたが、〔このときになって〕范陽王の司馬の劉琨が張方の首を呂朗に示すと、呂朗は降った。このころ、東軍はおおいに盛大で、刁黙を破って入関してきたので、顒は恐れ、さらに馬瞻と郭偉を派遣し、覇水で東軍を防がせたが、馬瞻らは敗戦し、逃げ散った。顒は単騎で太白山へ逃げた。東軍が長安に入ると、天子は〔洛陽へ〕帰還し、太弟太保の梁柳を鎮西将軍とし、関中を守らせた。馬瞻らは出向いて梁柳のもとへ行くと、協力して城内で梁柳を殺した。馬瞻らは始平太守の梁邁と連合し、顒を南山に迎えようとした。顒は当初、府(長安)に入ろうとしなかったが、長安令の蘇衆と記室督の朱永が顒に上表するように勧め、〔その上表で〕梁柳が病死したと称し、承認を得ずに独断で地方の政務を取り仕切るよう提案した4原文「輒知方事」。中華書局は「方」を固有名詞、すなわち張方と読むように指示しているが、それだと文意は通じない。「方事」を「地方の政務」と解して訳出した。。弘農太守の裴廙、秦国内史の賈龕、安定太守の賈疋らは義軍を起こして〔長安に居座る〕顒を討とうとし、馬瞻や梁邁らを斬った。東海王は督護の麋晃を派遣し、東海国の兵を統率させて顒を討たせた。〔麋晃が〕鄭に着くと、顒の将の牽秀が麋晃を防ごうとしたが、麋晃は牽秀とその二人の子を斬った。〔裴廙らの〕義軍が関中を占有すると、顒は長安城を保持するのみとなった。
 永嘉のはじめ、詔が下って顒を司徒とすると、即座に中央へ召した。南陽王模は将の梁臣を派遣し、〔洛陽へ向かっている顒を追わせ、〕新安県の雍谷にて、顒とその三人の子を車上で絞殺させた。詔が下り、彭城元王植の子の融を顒の後継ぎとし、楽成県王に改封した。薨じたが、子はいなかった。建興年間、元帝はまた彭城康王釈の子の欽を融の後継ぎとした。

東海王越

 東海の孝献王の越は字を元超といい、高密王泰の次子である5長子の誤りである可能性が高いようである。中華書局の校勘記を参照。。若くして名声をあげ、謙虚であり、布衣(庶民)のような品行を堅持したので6高貴な身分だからといって尊大にはならなかった、ということであろう。、中外(官と民?)から模範に仰がれた。最初は〔高密国の〕世子をもって騎都尉とされ、駙馬都尉の楊邈、琅邪王伷の子の繇とともに東宮に侍講7侍って学問を教えること。した。散騎侍郎に任じられ、左衛将軍を歴任し、侍中を加えられた。楊駿討伐に功績があったので、五千戸の侯に封じられた8このとき、越はまだ高密国の世子であったと考えられるから、別に封国を授けられたというわけではないはずである(国に封じられたら高密国の世系から出なければならない)。となると、ここの「五千戸侯」は列侯や関内侯のような侯を指しているのかもしれない。。散騎常侍、輔国将軍、尚書右僕射に移り、領游撃将軍となった。さらに侍中となり、奉車都尉を加えられ、温信9不詳。「恩信」の誤りとの指摘もあるが(中華書局の校勘記を参照)、いずれにせよわからない。五十人を支給され、〔高密国から〕分岐させられて東海王に封じられ、六県を食んだ。永康のはじめ、中書令となり、侍中に転じ、司空に移り、領中書監となった。
 成都王穎が長沙王乂を攻めると、長沙王は洛陽に籠城した。殿中の諸将や三部司馬は防衛に疲弊し、ひそかに左衛将軍の朱黙と夜に別省で長沙王を捕え、越に迫って主人に推戴し、〔越は〕恵帝に長沙王の免官を啓した。事件が収まると、越は病気と称して位を辞した。恵帝は承認せず、守尚書令を加えた。太安10「永安」(=永興元年)の誤りという説がある。中華書局の校勘記を参照。のはじめ、恵帝が北に進んで鄴を征伐するさい、越を大都督とした。六軍が敗れると、越は下邳へ逃げたものの、徐州都督の東平王楙は〔越を〕受け入れなかったので、越はまっすぐ東海へ帰った11「径」(まっすぐ)というのは、別の庇護者を探すことはせず、このまま東海へ戻ることに決めたという意味。。成都王は、越兄弟は宗室の秀才であるのを理由に、寛令(寛容な令)を下して越を召したが、越は命に応じなかった。恵帝が西方(長安)へ行幸すると、越を太傅とし、太宰の河間王顒と共同で朝政を輔佐させようとしたが、辞退して受けなかった。東海国の中尉である劉洽は、兵を徴発して成都王に備えるよう越に勧めたので、越は劉洽を左司馬とし、尚書の曹馥を軍司とした。ほどなくして挙兵すると、東平王は恐れたため、徐州を越に与えた。越は司空をもって徐州都督を領し、東平王を領兗州刺史とした。越の三人の弟はひとしく方任(地方官)をよりどころにして討伐戦争を起こし12三人の弟は高密王略、東嬴公騰、平昌公模を指す。高密王が安北将軍、都督青州、青州刺史、東嬴公が寧北将軍、都督并州、并州刺史、平昌公が北中郎将(鎮鄴)であった。、専断で刺史や守相を任命していたが、朝士の多くは越のもとに赴いた。しかし、河間王は天子を脅して詔を発布させ、越らを罷免し、全員に就国を命じた。越は義を唱え、天子を奉迎し、旧都(洛陽)へ帰還させるのだと称し、兵士三万を率いて西に進み、蕭県に駐屯した。豫州刺史の劉喬は越の命令を受けず、子の劉祐13中華書局はここの「子祐」について、越に祐という子がいたとは記録にないし、たぶん汝南王の子の祐のことで、「子」は衍字であろうと注しているが、文脈から考えて劉喬の子と読んだほうがいいはずである。とはいえ、劉喬伝に祐という子がいたことは記されていないが。を派遣して越を防がせると、越軍は敗れた。范陽王虓は督護の田徽を派遣し、突騎八百をもって越を迎えさせようとしていたが、〔田徽は〕劉祐に譙で遭遇し、劉祐の軍は潰走したので、越は進軍して陽武に駐屯した。山東軍(越らの軍)は勢いが盛んであったので、関中の人々はおおいに恐懼し、河間王は張方の首を斬って送り、和睦を求めたが、すぐに計略を変更して越を拒んだ。越は諸侯、および鮮卑の許扶歴や駒次宿帰らからなる歩騎を統率し、〔長安に入って〕恵帝を迎え、洛陽へ帰還した。越に詔が下り、太傅をもって録尚書とされ、下邳と済陽の二郡を封国に加増された。
 懐帝が即位すると、〔懐帝は〕政務を越に委任した。尚書吏部郎の周穆は清河王覃の舅(母の兄弟)で、かつ越の姑(父の姉妹)の子であった。周穆の妹の夫である諸葛玖といっしょに越に説いて言った、「主上(懐帝)が太弟におなりになられたのは、張方の考えでした。清河王がもともとの太子でしたのに、悪人たちに廃されてしまわれたのです。先帝がにわかに崩じられ、多くの者が東宮に迷いを感じています14原文「多疑東宮」。「恵帝が死んだのは東宮(懐帝)のしわざじゃないか」という意味の「疑」ではなく、「東宮(後継者)は本当に懐帝でよいのだろうか、清河王が本来は太子なのだから清河王にするべきではないだろうか」というぐあいの疑義のことを「疑」と言っているのだと考えられる。。どうして公は伊尹や霍光の行動(廃位と擁立)をお考えになり、社稷を安寧にしようとされないのでしょうか」。言葉がまだ終わらないうちに越は言った、「そんなことを口にするとは何事か」。そのまま左右の者に怒鳴って周穆らを斬らせた。諸葛玖と周穆は世家(名家)であるのを理由に、罪は本人のみにとどめ、またこれを機会に三族の法を廃するよう上表した。懐帝が万機をみずから執るようになると、庶事に関心を注いだが15「庶事」は、字義どおりには「多くの事柄」だが、「細かい事柄」というニュアンスも含まれている。皇帝が処理しなくてもよいような多くの些細な書類まで関心をもっていたということ。、越はそれがおもしろくなく、封国へ出ることを求めた。懐帝は承認しなかった。しかしけっきょく越は許昌に出鎮した。
 永嘉のはじめ、許昌から〔出撃し、〕苟晞と冀州刺史の丁劭を率いて汲桑を討伐し、これを破った。越が許昌に帰還すると、長史の潘滔が説いて言った、「兗州は天下の枢要の地です。公みずから牧す(治める)のがよいと考えます」。そこで苟晞を〔兗州刺史から〕青州刺史に移したが、これが理由で苟晞とのあいだに不和が生じた。
 ほどなくして越に詔を下し、丞相、領兗州牧、督兗・豫・司・冀・幽・并六州とした。越は丞相を辞退して受けず、許昌から鄄城へ移った。越は清河王覃がはてに後継ぎになることを恐れたので、詔を詐称して金墉城に幽閉させ、すぐにこれを殺した。
 王弥が許昌に入ると、越は左司馬の王斌を派遣し、兵士五千人を統率させて京師に入らせ、警衛させた。鄄城の城壁がひとりでに崩れたので、越はこれを気味悪く思い、駐屯地を濮陽に移し、ついで滎陽に移った。田甄ら六率(六人の軍団指導者)を召したが、田甄は命令を受けなかったので、越は監軍の劉望を派遣して田甄を討伐させた。これ以前、東嬴公騰が鄴に出鎮するさい、并州の将である田甄、甄の弟の田蘭、任祉、祁済、李惲、薄盛らや部衆一万余人を引き連れて行った。鄴に到着すると、〔引き連れてきた人々を〕冀州で穀物にありつかせて生計を立てさせたので、〔その集団を〕乞活(命乞い)と号していた。東嬴公が〔汲桑らに〕敗れると、田甄らは汲桑を赤橋で迎撃して破ったので、越は田甄を汲郡太守とし、田蘭を鉅鹿太守とした。田甄は魏郡太守を求めたのだが、越は承認しなかったので、田甄は腹を立てていた。そのゆえに〔越が〕招聘しても来なかったのである。劉望が黄河を渡ると、田甄は退却した。李惲と薄盛は田蘭を斬り、みずからの部衆を率いて降り、田甄、任祉、祁済は軍を棄てて上党へ逃げた。
 越は滎陽から洛陽へ戻ると、太学を府とした。朝臣が自分を裏切るのではないかと疑い、そこで懐帝の舅である王延らが乱を謀っていると誣告し、王景をつかわし、兵士三千人を統率させて宮中に入らせ、王延らを捕え、廷尉に送ってこれを殺させた16繆播伝附胤伝に「懐帝即位、拝胤左衛将軍、転散騎常侍、太僕卿。既而与〔繆〕播及帝舅王延、尚書何綏、太史令高堂沖並参機密、為東海王越所害」とあり、このとき越が殺した王延ら一党は、懐帝に信任されて「機密」に与っていた者たちであった。。越は兗州牧を辞し、司徒を領した。越は苟晞と不仲であったうえ、さらに〔他の人々とも諍いを起こし、〕ちかごろの事件の多くが殿省(殿中省殿中)から起こっていることを理由に、奏して宿衛の者で侯の爵を保持する者はすべて罷免するよう求めた17「頃興事多由殿省(最近起こる事件は多くが殿省の発端である)」というのは、楚王のクーデター、趙王のクーデター、趙王の廃位、長沙王の敗亡、いずれの政変も殿中(宿衛)の諸将が首謀ないし手引き役であったことを指すのであろう。「宿衛有侯爵者」はかかる政変に与って功績をあげ、ついに侯に封じられた者たちを言っているのだと考えられる。そのような者たちであれば、またいつ政変を起こして越を廃してもおかしくないと越が警戒し、ゆえに「宿衛有侯爵者」を殿中から排除するよう働きかけたのであろう。。当時、殿中の武官はひとしく侯に封じられていたので、これによってほぼ全員が出ることになり、みな涙を流して去った。そして東海国の上軍将軍である何倫を右衛将軍とし、王景を左衛将軍とし、東海国の兵数百人を統領させ、宿衛させた。
 越が王延らを誅殺して以降、おおいに人心を失い、かえって多くの人々からねたまれたり憎まれたりするようになった。散騎侍郎の高韜が国家を憂慮する発言をすると、越は時政を誹謗していると誣告してこれを殺したが、それで心が落ち着くことはなかった。そこで戎服(軍服)で入朝して〔懐帝に〕謁見し、石勒の討伐を要望し、かつ兗州と豫州の人心を静めて京師を援護したいと求めた。懐帝は言った、「いま、逆虜は郊畿(京師の近郊)を侵略して圧迫しているが、王室は騒然とし、〔朝臣には抵抗しようという〕固い意志があるわけではない18原文「莫有固心」。忠誠心がないとかいう意味ではなく、気概がないとか意気がすっかり消沈して盛り上がらないとか、そういうニュアンスだと思われる。。朝廷と社稷は公を頼みにしているというのに、遠くのほうに出向き、根本のほうを孤立させてしまってよいのだろうか」。答えて言った、「臣がいま、軍を率いて賊を迎え撃てば、勢いからして必ず賊を滅ぼせましょう。賊が滅びれば不逞のやからも消え失せ、関東諸州の職貢(中央への貢献物)も通じるようになるでしょう。これ(越が出陣すること)は国威を宣揚する手段であり、藩屏が果たしてしかるべき役割なのです。もし、都で手をこまねいているうちに機会を逃してしまえば、禍乱や疲弊は日に日に度を増してゆき、頭を悩ます事柄はいよいよ重くなっていくことでしょう」。とうとう出て行った。妃の裴氏、東海国世子である鎮軍将軍の毗、龍驤将軍の李惲および何倫らを留めて京師を警衛させた。上表し、行台を軍に随行させることを要望した。兵士四万を統率して東に進み、項に駐屯した。王公卿士で随行する者はひじょうに多かった。詔が下り、〔越に〕九錫を加えた。越はそこで羽檄を四方に飛ばして言った、「朝廷の綱紀が統制を失い、社稷は多難である。孤(わたし)は乏しい才能をもって、大任に当たることとなった。このごろ、胡賊が中央に迫り、偏裨(将軍?)は勝利を逃して敗北し、帝郷(たぶん河内を指す)はたちまち戎狄の州になり、冠帯の地域はにわかに異俗の地域になってしまったが、朝廷の人々は上下ともみな、これらを憂慮すべき事態だと認識している。すべては諸侯(宗室藩屏?)の失敗が原因であり、はてにこの災難に及んでしまったのである。袂を振り払って決起したところで、事態が小さなうちに対処するという教訓をないがしろにしてしまったし19原文「忘履」。後ろの句の「已晩」に対応しているものと考えれば、おそらく『易』の「履霜堅氷至」という戒めをかえりみなかったことを「忘履」と言っているのであろう。、胡賊の討伐を起こしたところで、もはや遅いかもしれない。しかし、人情は根本(国家?)を奉じるものであるから、忠義をもって奮発しない者はいないはずであろう。兵士が集合するのを待ちうけ、そうして戦争の準備が整うのを待とうと思う。宗廟や主上は諸君らに救済を期待しているのだ。この檄書が届いたら、すぐさま動静を察知して奮起せよ。忠臣、そして戦士たちよ、誠を尽くす時であるぞ」。呼びかけた所の人々はみな行かなかった。しかも、苟晞も上表して越を討とうとした。その言葉は苟晞伝にある。越は豫州刺史の馮嵩を左司馬とし、みずから豫州牧を領した。
 越は威権20刑罰や暴力など、人を恐怖によって屈服させる力。をほしいままに振るい、覇業を樹立しようと謀り、朝廷の賢人や在野の名士を佐吏に登用し、名将や精鋭兵を自分の府に充てていた。越の不臣の足跡は、四海の知るところであった。しかし公私とも困窮し、あちこちで反乱が起き、州郡はそむき、〔朝廷の〕上下は分離し、災禍は重くなっていった。そのため、とうとう〔越は〕憂慮のあまり病気になってしまった。永嘉五年、項で薨じた。秘匿して訃報を公表しなかった。〔越の軍は〕襄陽王範を大将軍とし、軍を統率させた。〔襄陽王らは〕東海へ帰って埋葬しようとしたところ、石勒が苦県の甯平城で追いついた。将軍の銭端が兵を出動させて石勒を防いだが、戦死してしまったため、軍は潰走した。石勒は越の棺を燃やすように命じて言った、「こいつが天下を乱したのだ。私は天下のために復讐した。だから、越の骨を焼いて天地に報告するのである」。こうして〔越の軍の〕数十万の兵士に対し、石勒は騎兵で包囲してこれを射たので、山のように死体が重なった。王公や士庶で死んだ者は十余万であった。王弥の弟の王璋はその生き残りの兵士に火を放ち、また焼いた死体を食ってしまった。天下の人々は罪を越に帰した(なすりつけた)。懐帝は詔を発布し、越を県王に降格させた。
 何倫と李惲は越が死んだことを知ると、隠して訃報を公表せず、妃の裴氏と毗を奉じて京師から出た。従う者は城を傾けるほど多勢で、通過した場所で掠奪をおこなった。洧倉に着くと、またも石勒に敗れ、毗と宗室の三十六人の王はみな賊に没した。李惲は妻子を殺して広宗へ逃げ、何倫は下邳へ逃げた。裴妃は人に拉致され、呉氏に売られたが、太興年間に長江を渡ることができ、招魂して越を埋葬することを求めた。元帝は詔を下し、有司に詳議を命じた。博士の傅純の議はこうであった21以下の議に述べられている礼の話はかなり知識が足りないまま訳したので不正確な箇所が多いと思う。ご了承ください。、「聖人が礼を定めたさい、事(状況)に即し、情(心)に従って定めたのでした22原文「聖人制礼、以事縁情」。わからない。「縁情制礼」という文はまま見かけ、「即事縁情」という文もわずかに見えるが、いずれもどういうことを言っているのかわからない。。墓と棺を設置して形(身体)を収蔵し、これに奉仕するときは凶礼をもってあたります。廟を立てて神(霊魂)を安んじ、これに奉仕するときは吉礼をもってあたります。〔こうして〕形(身体)を送り出してあの世へ行かせ、精(霊魂)を迎えてこの世へ帰らせるのです。このことは、墓と廟とではおおいに区別があり、形(身体)と神(霊魂)とでは礼制が異なるということなのです。室廟と寝廟で執り行なわれる祊祭(宗廟で祖先を祀る祭礼)が一か所で執行されないことについて言えば、これは神(霊魂)を広く捜し求めるためです23『礼記』礼器篇の鄭玄注に「祊祭、明日之繹祭也。謂之祊者、於廟門之旁、因名焉。其祭之礼、既設祭於室而事尸於堂、孝子求神、非一処也」とある。。にもかかわらず、墓で祀ることだけはしません。〔墓は〕神(霊魂)がいる場所でないのは明らかです。いま、形(身体)と神(霊魂)の区別を乱し、廟と墓のしかるべき役割を混同させようとしていますが、礼制の義にそむくこと、これより甚大な案件はございません」。こうして詔を下し、許可しなかった。裴妃は詔を奉じず、とうとう越を広陵に埋葬した。太興の末年、墓を壊し、丹徒に改葬した。
 これ以前、元帝が建鄴に出鎮したのは、裴妃の考えであったので、元帝は裴妃に恩を深く感じ、しばしばその邸宅に行幸し、〔みずからの〕第三子の沖に越の後継ぎを奉じさせた。〔沖は〕薨じたが、息子がいなかったため、成帝は少子の奕に沖の後を継がせた。哀帝は奕を琅邪王に移したが、東海国には後継ぎがいなかった。隆安のはじめ、安帝はあらためて会稽忠王(元顕)の次子である彦璋を東海王とし、沖の後を継がせて〔沖の〕曾孫とさせた。桓玄に殺され、国は廃された。

 史臣曰く、(以下略)

八王伝系図汝南王亮(附:粋・矩・羕・宗・煕・祐)・楚王瑋趙王倫斉王冏(附:鄭方)長沙王乂・成都王穎河間王顒・東海王越

(2021/1/1:公開)

  • 1
    武帝が定めた諸侯王に関する誓約の意味か。
  • 2
    たぶん「三錫」と同義で、九錫の三分の一の礼物という意味か。
  • 3
    世を共同統治することの比喩表現。詳しくは長沙王乂伝の訳注を参照のこと。
  • 4
    原文「輒知方事」。中華書局は「方」を固有名詞、すなわち張方と読むように指示しているが、それだと文意は通じない。「方事」を「地方の政務」と解して訳出した。
  • 5
    長子の誤りである可能性が高いようである。中華書局の校勘記を参照。
  • 6
    高貴な身分だからといって尊大にはならなかった、ということであろう。
  • 7
    侍って学問を教えること。
  • 8
    このとき、越はまだ高密国の世子であったと考えられるから、別に封国を授けられたというわけではないはずである(国に封じられたら高密国の世系から出なければならない)。となると、ここの「五千戸侯」は列侯や関内侯のような侯を指しているのかもしれない。
  • 9
    不詳。「恩信」の誤りとの指摘もあるが(中華書局の校勘記を参照)、いずれにせよわからない。
  • 10
    「永安」(=永興元年)の誤りという説がある。中華書局の校勘記を参照。
  • 11
    「径」(まっすぐ)というのは、別の庇護者を探すことはせず、このまま東海へ戻ることに決めたという意味。
  • 12
    三人の弟は高密王略、東嬴公騰、平昌公模を指す。高密王が安北将軍、都督青州、青州刺史、東嬴公が寧北将軍、都督并州、并州刺史、平昌公が北中郎将(鎮鄴)であった。
  • 13
    中華書局はここの「子祐」について、越に祐という子がいたとは記録にないし、たぶん汝南王の子の祐のことで、「子」は衍字であろうと注しているが、文脈から考えて劉喬の子と読んだほうがいいはずである。とはいえ、劉喬伝に祐という子がいたことは記されていないが。
  • 14
    原文「多疑東宮」。「恵帝が死んだのは東宮(懐帝)のしわざじゃないか」という意味の「疑」ではなく、「東宮(後継者)は本当に懐帝でよいのだろうか、清河王が本来は太子なのだから清河王にするべきではないだろうか」というぐあいの疑義のことを「疑」と言っているのだと考えられる。
  • 15
    「庶事」は、字義どおりには「多くの事柄」だが、「細かい事柄」というニュアンスも含まれている。皇帝が処理しなくてもよいような多くの些細な書類まで関心をもっていたということ。
  • 16
    繆播伝附胤伝に「懐帝即位、拝胤左衛将軍、転散騎常侍、太僕卿。既而与〔繆〕播及帝舅王延、尚書何綏、太史令高堂沖並参機密、為東海王越所害」とあり、このとき越が殺した王延ら一党は、懐帝に信任されて「機密」に与っていた者たちであった。
  • 17
    「頃興事多由殿省(最近起こる事件は多くが殿省の発端である)」というのは、楚王のクーデター、趙王のクーデター、趙王の廃位、長沙王の敗亡、いずれの政変も殿中(宿衛)の諸将が首謀ないし手引き役であったことを指すのであろう。「宿衛有侯爵者」はかかる政変に与って功績をあげ、ついに侯に封じられた者たちを言っているのだと考えられる。そのような者たちであれば、またいつ政変を起こして越を廃してもおかしくないと越が警戒し、ゆえに「宿衛有侯爵者」を殿中から排除するよう働きかけたのであろう。
  • 18
    原文「莫有固心」。忠誠心がないとかいう意味ではなく、気概がないとか意気がすっかり消沈して盛り上がらないとか、そういうニュアンスだと思われる。
  • 19
    原文「忘履」。後ろの句の「已晩」に対応しているものと考えれば、おそらく『易』の「履霜堅氷至」という戒めをかえりみなかったことを「忘履」と言っているのであろう。
  • 20
    刑罰や暴力など、人を恐怖によって屈服させる力。
  • 21
    以下の議に述べられている礼の話はかなり知識が足りないまま訳したので不正確な箇所が多いと思う。ご了承ください。
  • 22
    原文「聖人制礼、以事縁情」。わからない。「縁情制礼」という文はまま見かけ、「即事縁情」という文もわずかに見えるが、いずれもどういうことを言っているのかわからない。
  • 23
    『礼記』礼器篇の鄭玄注に「祊祭、明日之繹祭也。謂之祊者、於廟門之旁、因名焉。其祭之礼、既設祭於室而事尸於堂、孝子求神、非一処也」とある。
タイトルとURLをコピーしました