巻五十九 列伝第二十九 長沙王乂 成都王穎

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八王伝系図汝南王亮(附:粋・矩・羕・宗・煕・祐)・楚王瑋趙王倫斉王冏(附:鄭方)長沙王乂・成都王穎河間王顒・東海王越

長沙王乂

 長沙の厲王の乂は字を士度といい、武帝の第六子である。太康十年、〔長沙に〕封建を授かり、員外散騎常侍に任じられた。武帝が崩じたとき、乂は十五歳であったが、父に捧げるべき哀悼は礼を過ぎていた。ちょうど楚王瑋が葬儀のために〔封国から〕戻って来たため、諸王はみな〔洛陽の?〕近くの道路で出迎えたが、乂だけは陵墓に行き、慟哭して楚王を待っていた。歩兵校尉に任じられた。楚王が二公(汝南王亮と衛瓘)を誅殺したとき、乂は東掖門を守備していた。ちょうど騶虞幡が出てきたので、乂は弓を投げ捨て、涙を流して言った、「楚王は詔を授かったというから彼に従ったのだ。間違っていたなんて、どうしてわかるものか」。楚王が誅殺されると、乂は同母兄弟であるのを理由に、常山王に降格され、就国した。
 乂は身長七尺五寸、快活で決断力があり、才知と力量は常人をしのぎ、心を虚しくして士人にへりくだり、おおいに名声を博した。三王(斉王冏、成都王穎、河間王顒)が義を起こすと、乂は常山国の軍を率いてこれに呼応した。趙国を通過するとき、房子県の令が立ちふさがったので、乂はこれを殺し、進軍して成都王穎の後続軍になった。常山内史の程恢が乂にそむこうとしていたので、乂は鄴に到着すると、程恢とその五人の息子を斬った。洛陽に着くと、撫軍大将軍、領左軍将軍に任じられた。しばらくして驃騎将軍、開府(開府儀同三司?)に移り、もともとの封国(長沙国)に回復した。
 乂は、斉王冏がしだいに自分勝手に権力を振るうようになっていくのを目にしていた。あるとき、成都王といっしょに〔武帝の〕陵を参拝したが、そこで成都王にこう言った、「天下は先帝(武帝)の事業だ。王(きみ)はこれを支え守らなければならない」。ときに、この言葉を聞いた者は、みなこの言葉に恐れを抱いた。河間王顒が斉王を誅殺しようとしたとき、檄を発して乂を内主(洛陽城内の主人?)とした。斉王は将の董艾を派遣して乂を襲撃させると、乂は左右の百余人を率い、みずから車の帷幕を斬り、覆いのない車で走って宮殿に向かい、〔宮城の〕諸門を閉じて、天子を奉じた。斉王と攻めあい、火を放って斉王の府を焼いた。三日のあいだ連戦したすえ、斉王は敗れ、〔乂は〕これを斬り、あわせて徒党二千余人を誅殺した。
 河間王はもともと、乂は弱小で斉王は強大であったことから、乂が斉王に捕えられ、そのあとで乂を大義名分に掲げ、四方に宣告し、共同で斉王を討伐し、そして〔斉王を討つと〕恵帝を廃して成都王を〔帝位に〕立て、自分は宰相となり、天下を専制支配する、という展開を望んでいた。ほどなく乂が斉王を殺してしまったので、その策略は実(み)を結ばなかったのであった。そこで、ひそかに侍中の馮蓀、河南尹の李含、中書令の卞粹らに乂を襲わせたが、乂はみな誅殺した。河間王はとうとう、成都王とともに京師(乂)を征伐した。成都王は刺客をつかわして乂を殺そうとしたが、当時は長沙国左常侍の王矩が〔乂に〕侍従しており、刺客の顔色が変わったのを見ると、そのまま刺客を殺してしまった。詔が下り、乂を大都督とし、河間王を防がせた。八月から十月まで連戦していると、乂と成都王は兄弟だから、言葉で和解できるはずだと朝議で話がまとまり、そこで中書令の王衍を行太尉とし、光禄勲の石陋を行司徒としてつかわし、成都王を説得させ、乂と分陝1周公旦と召公奭が陝を境界にして世を治めた故事のこと。『資治通鑑』胡三省注が言うように、乂と成都王を陝におらせるわけではなく、周公と召公のように天下を共同統治させる、という意味。させようとしたが、成都王は聴き入れなかった。そこで乂は書簡を成都王に送った、「先帝は天に応じて運行に従い、四海を統治し、仕事に励み、帝業を成し遂げると、六合は太平になり、幸福は子孫へ伝わった。孫秀は反逆を起こし、天の法則を転覆させたが、卿は義軍を起こし、帝位を回復させた。斉王は功績を恃みに、ほしいままに非法な行いをなし、上は宰相にふさわしい心がなく、下は忠臣にふさわしい行動がなく、徒党の讒言が希望することをかなえてやり、骨肉を遠ざけ、主上は深く悲しまれたため、まもなく平定されたのである。私と卿とは、仲睦まじい兄弟が十人おり2原文「友于十人」。これでよいのか自信がない。、ともに皇室の生まれで、地方の都市に封国を授かっているが、おのおの王朝の教化を広げることができておらず、世を治めて民を救い、深謀遠慮をなすこともできていない。いま、卿はふたたび太尉(河間王)とともに大軍を起こし、百万の兵をたのみとして、宮城(洛陽)を幾重にも包囲している。群臣はみないきどおり、さしあたり即座に〔私を〕将に命じ、国家の威厳を宣示したが、撃滅する意向をもっているわけではないのである。〔卿らの兵士が〕みずから谷川に身を投じ、〔その自殺者で〕渓谷を埋めて平らにしてしまい、死者は日々一万を数え、〔死んだ兵士たちは〕無罪を訴えているであろう3原文「酷痛無罪」。「酷痛」の用例を見ると、冤罪を着せられたことへの悲しみや苦痛を言っている場合が多く、本文もその意で取ったほうがよさそうなので意訳した。自分たちが死ぬいわれはないのに、ということであろう。。国家の恩愛は無慈悲なのだろうか。まさかそんなわけはなく、刑罰の執行には不変の決まりがあるからなのだ4成都王らに動員されて死んでいく兵士らがいくらかわいそうでも、反逆に加わっている以上、殺すのは仕方がない、ということを言っているのだと思う。。卿が派遣した陸機は、卿から節鉞5節鉞は軍の出動権限を証明する割符と、軍法違反者を独断処分する許可を象徴するおののこと。軍隊の指揮監督権くらいの意味で捉えてよいはず。を授かったのを喜んでおらず、統率下を率いてひそかに国家(恵帝と乂の側)と連絡をとっている。思うに、反逆者は一尺前進しようとしても、かえって一丈後退してしまうものだ。卿にとって適切な行動とは、鎮所(鄴)へ帰り、そうして四海を安んじ、宗族から恥をなくすことだ。〔それが〕子孫にとっての幸福なのである。もしそうしなければ、骨肉が分裂する悲しみに悩むことになるだろう。ゆえに、ふたたび書簡を送らせてもらった」。
 成都王も書簡を送った、「文帝と景帝は天命を授かり、武帝は時運に乗じ、ほとんど堯と舜のようでありました6堯や舜のような人君だ、という意味あいもあるが、堯から舜へと政権が移譲したこともニュアンスにもたせて、景帝・文帝と武帝を堯舜になぞらえているものと思われる。。どちらも政道を安らかにし、恩愛は帝業を栄えさせましたので、一族は百代にわたる繁栄を享受しています。まさか、骨肉が禍難に関与し、后族(外戚)が権力を専横するようなこと、すなわち楊氏や賈氏が害毒をほしいままにまき散らし、斉王や趙王が内部から権勢を奪うようなことを、どうして予期したでしょうか。幸いにも〔これらの者たちは〕誅殺されましたが、まだ完全に静まってはいません。〔ですから、〕いつも王室のことを心配し、心はわななき、焼き焦がれるような苦しみを感じています。羊玄之や皇甫商らは寵愛を恃んで禍を起こしていますから、発奮せずにいられるものでしょうか。このため、征西大将軍(河間王)が羽檄を発すると、四海の多くの人々が応じたのです。仁兄も〔われわれと〕お考えは同じで、すぐに内部にて皇甫商らを捕え、首級を収めて遠く送ってきてくださるだろう、と〔私は〕もともと思っていましたが、どうしてお迷いになり、みずから軍の総大将におなりになられたのでしょうか。上は君主の詔と称して命令を発し、下は愛弟を遠ざけ、天子を移動させ、むやみに軍隊を出動させ、さらに豺狼のようなやからを親任し、信頼できる善人を見限って殺しています。悪事をおこないながら幸福を求めることに、どうして励んでいらっしゃるのですか。過日、陸機を派遣し、節鉞を授けて軍を監督させました。〔陸機軍は〕黄橋で敗退したとはいえ、温県の南で勝利を収めましたから、〔勝利の数は〕ひとつはそちら、ひとつはこちらということで、〔仁兄が〕祝杯を挙げるにはまだ早いでしょう。いま、兵士は百万おり、有能な将は意気高く勇猛で、これから仁兄とともに海内を整えるつもりでいます7乂への敵対心はなく、むしろ協力する心を抱いているのですよ、ということであろう。。もし太尉(河間王)の命に従い、皇甫商らの首を斬り、武器を棄てて身を退き、みずから多福をお求めになられれば、穎もおのずと鄴へ帰り、仁兄と同じようにいたします(身を退く?)。書簡を拝見しましたとき、考えこんでしまい、嘆息を漏らしてしまいました。大兄よ、どうかお慎みになり、深く進退をお考えになられますよう」。
 乂は幾度も成都王の軍を破り、斬ったり捕虜にしたりした者は六、七万人であった。戦争が長引き、食糧が不足してしまい、城中はおおいに飢えた。疲弊を口にしつつも、将士は心をひとつにし、みな死を賭して尽力するつもりであった。しかも、乂には主上を奉じる礼に過失がなかったため、張方(河間王が派遣していた将)はまだ勝てないと判断し、長安(河間王の鎮所)へ帰還しようとした。しかし、東海王越は〔乂の〕任務が成功しないことを憂慮し、ひそかに殿中の将と結託し、乂を捕えて金墉城へ送った。乂は〔金墉城から〕上表した、「陛下は情愛が深くあられ、臣に朝政を委ねました。臣が心を慎み、忠孝を尽くしましたことは、天地の神がご覧になられています。諸王が虚偽をうのみにし、軍を率いて〔臣を〕なじりましたが、朝臣には正義の者がおらず、おのおのが私的な悩みを心配したため、臣を別省で捕え8不詳。「別省」で捕われたことは東海王越伝にも見えており、「成都王穎攻長沙王乂、乂固守洛陽、殿中諸将及三部司馬疲於戦守、密与左衛将軍朱黙夜収乂別省」とある。、幽宮(金墉城)へ送りました。臣は身命を惜しんでいませんが、ただ大晋が衰退しており、子孫が滅びつつあり、陛下が孤立して危険な状態におちいっていることだけが気がかりです。臣が死んで国(公)が安寧を得るのならば、それは同時に家(私)の利益でもあります。しかし〔臣の死は〕おそらく悪人の野心を満足させるだけで、陛下には無益でしょう」。
 殿中の左右の者は、乂の功業がもう少しで成し遂げられたところで失敗したのを悔しがったので、乂を力づくで〔金墉城から〕出し、ふたたび成都王を拒む計画を立てた。東海王は変難が起こることを恐れ、そのまま乂を誅殺することを望んだ。黄門郎の潘滔は東海王に、ひそかに張方へ〔乂を殺害したい件について〕話をするように勧めた9前文に見えているように、張方は長安への帰還を検討しはじめた(「欲還長安」)ところであって、まだ洛陽付近から撤退していなかった。。〔東海王がそれに従って張方に連絡を取ると、〕張方は部将の郅輔を派遣し、兵三千を統率させ、金墉城へ行かせて乂を捕えさせた。〔乂らが張方の〕軍営に着くと、〔張方は〕乂を焼き殺した。乂が無罪を訴える声は〔恵帝の?〕左右にまで届き、三軍(殿中軍?三部司馬?)の兵士は誰もが彼のために涙を流した。享年二十八。
 乂が洛陽城の東で仮埋葬されるさい、官属は赴こうとしなかったが、もとの掾であった劉佑だけが乂を見送り、歩いて喪車(霊柩車)を引き、泣き声は悲痛きわまるもので、道ゆく人々を悲しませた。張方は劉佑が義士であるのをもって、劉佑を不問とした。これ以前、乂が権勢を握った当初、洛陽の城下では、「草木が発芽する時季になったら、長沙を殺してしまおう(長紗を短くしてしまおう)」10原文「草木萌芽殺長沙」。自信はないが、「草木萌芽」は「草木が生えはじめる時期」のことで、春のはじめ(正月)を指しているのではないかと考えている。「殺長沙」については、自信はないがたぶん「長沙」は長沙王を直接意味しているのではなく、別のものを言っているのではないかと思う。「沙」は「紗」(うすぎぬ)に通じるらしいので、「殺」を「減らす」の意で取れば、「長い紗(うすぎぬ)を切って短くする」というぐあいに読めなくもない。かりにその意味を注で補って挿入しておいた。という謡言が流行した。乂は正月の二十五日に位を廃され、二十七日に死んだので、謡言のとおりであった。永嘉年間、懐帝は乂の子の碩に後を継がせ、散騎常侍に任じた。のち、劉聡に没した。

成都王穎

 成都王の穎は字を章度といい、武帝の第十六子である。太康の末年、封国を授かり、食邑は十万戸であった。のちに越騎校尉に任じられ、散騎常侍を加えられ、〔ついで〕車騎将軍11何かの間違いではないかと思うのだが、よくわからない。下文の「賈謐」のほうにくっついて「車騎将軍の賈謐」という読み方が適切なのかもしれないが、管見のかぎり賈謐は車騎将軍に就いていない(賈充は車騎将軍になっているが)。さしあたり中華書局の句読に従う。となった。
 賈謐が皇太子(愍懐太子)と博奕をしていたとき、やり方をめぐって言い争いになったことがあった12原文「争道」。推測だが、現代の囲碁でも終局後に観戦者らを交えて検討を開き、勝者でも敗者でもおもに悪かった打ち方をめぐって意見を交わす慣例がある。たぶんここでも、博奕対戦後の反省会で最善の一手をめぐって意見が分かれ、エスカレートしていったという具合ではないだろうか。。穎はその座にいたが、声を荒げて賈謐を叱り飛ばし、「皇太子は国家の後継ぎであるぞ。賈謐ごときが無礼をなすとは何事か」と言った。賈謐はおののき、これを理由に穎を〔地方に〕出し、平北将軍とし、鄴に出鎮させた。鎮北大将軍に転じた。
 趙王倫が帝位を奪うと、征北大将軍に進められ、開府儀同三司を加えられた。斉王冏が義を起こすと、穎は兵を発して斉王に応じ、鄴令の盧志を〔鎮北府の〕左長史とし、頓丘太守の鄭琰を右長史とし、黄門郎の程牧を左司馬とし、陽平太守の和演を右司馬とした。兗州刺史の王彦、冀州刺史の李毅、督護の趙驤、石超らを前鋒とした。羽檄が届いた所で〔穎に〕呼応しない者はいなかった。朝歌に着いたとき、軍は二十余万になっていた。趙驤は黄橋に到着したが、趙王の将の士猗と許超に敗れ、死者は八千余人にのぼり、兵士は震撼した。穎は退いて朝歌に拠ろうと考えたが、盧志と王彦の策略を採用し、ふたたび趙驤に軍八万を統率させ、王彦といっしょに進ませた。趙王もさらに孫会、劉琨らを派遣し、三万人を統率させ、士猗、許超と兵を合流させて趙驤らを防がせた。〔趙王軍の〕精兵のよろいは日光で輝いてまぶしく、鉄騎兵が前駆となった。士猗はすでに勝利を収めていたため、趙驤を軽視していた。温県の十余里手前でふたたび会戦したが、士猗らは潰走した。穎はそのまま黄河を渡り、勝利に乗じて長駆した。〔すると〕左将軍の王輿が孫秀を殺し、趙王を幽閉し、天子(恵帝)を迎えて帝位に戻した。穎は京師に入ると、趙王を誅殺した。趙驤、石超らに命じ、斉王が張泓を陽翟で攻めるのを助けさせると、張泓らはとうとう降った。斉王はこうしてようやく軍を率いて洛陽に入ったが、このたびの大略の首謀者であると自負し、とうとう威権をほしいままに振るうようになった。穎は太学に軍営を設けていたが、入朝すると、天子みずからがねぎらった。穎は拝礼して感謝を述べた、「この義挙は大司馬である臣の冏の勲功でございます。臣は何もしていません」。謁見が終わると、すぐに退出し、営には戻らず、即座に太廟を参拝すると、東陽城門から〔洛陽を〕出て、そのまま鄴へ帰った。書簡を斉王に送って別れを告げると、斉王はおおいに驚き、馬を走らせて洛陽を出て、穎を見送ろうとし、七里澗で穎に追いついた。穎は車を留めて〔斉王に〕別れを言い、涙を流した。話題に時事はのぼらず、ただ太妃(穎の母)の病気のことで表情をゆがめていただけであったので、その様子を見た百姓はみな心服したのであった。
 鄴に着くと、詔が下り、兼太尉の王粋をつかわし、〔穎に〕九錫と殊礼を加え、位を大将軍、都督中外諸軍事、仮節、加黄鉞、録尚書事に進め、入朝して小走りしなくてもよく、剣を佩き、靴を履いたまま上殿することを許した。穎は徽号(官位?)を拝受したが、殊礼と九錫は辞退した。上表し、義挙を興した功臣である盧志、和演、董洪、王彦、趙驤ら五人のはたらきを論評すると、みな開国の公や侯に封じられた。さらに上表して言った、「大司馬(斉王)がさきに陽翟におりましたとき、強大な賊と対峙すること、はなはだ久しかったものですから、百姓は満身創痍で、飢えと凍えで苦しんでいます。早急に救済するのがよろしいかと存じます。〔河北の〕郡県の車を徴発し、即座に河北の邸閣(食糧の備蓄倉庫)に蓄えてある米十五万斛を運送して、陽翟の飢えた民に支給なさいますよう、お願い申し上げます」。盧志は穎に言った、「黄橋で戦死した者は八千余人おりますが、すでに夏の暑い時季を過ぎたというのに、遺骸を原野にさらしたままです。彼らを憐憫するべきでしょう。むかし、周王は〔野外に放置されている〕白骨を葬ったために、『詩』に『道ばたに死者がいても、これを埋めてやる』(小雅、小弁)と言われているのです。まして、彼らは王室のために死んだのですから、なおさら埋葬するべきではないでしょうか」。そこで、穎は棺を八千ほど製造し、成都国の官吏として秩で(2021/1/31:修正)衣服を制作し13原文「以成都国秩為衣服」。成都国に位(「秩」)を有する者に相当する礼服を制作し、それを死者全員に贈った、ということか。「国秩」というのは、封国の編戸から収取した絹のうち、諸侯に分配される分のことを指すらしい。穎に秩として支給された絹によって衣服を制作した、つまり自腹を切った、ということだろうか。『初学記』巻二七、絹、叙事に引く「晋故事」に「凡民丁課田夫五十畝、収租四斛、絹三疋、綿三斤。凡属諸侯、皆減租穀畝一斗、計所減以増諸侯。絹戸一疋、以其絹為諸侯秩。……」とある。「晋故事」佚文の解釈は渡辺信一郎『中国古代の財政と国家』(汲古書院、二〇一〇年)第六章に従った。(2021/1/31:修正)、遺体にその服を着せ、棺に入れて祀り、黄橋の北に埋葬し、枳(カラタチ)を植えて生け垣をつくり、戦死者の墓地を設けた。また、洛陽に祭堂を築き、石碑を立て、彼らが義挙に参じた功績を紀銘し、遺族の家に四時の祭祀を執行する場所を提供した。ついで戦死者の家を表彰し、永久の戦亡二等を加えた14原文「加常戦亡二等」。よくわからないが、戦没者を追って顕彰して位(官?)を二等昇級させ、その二等昇格の待遇を子孫代々に継がせるという恩典のことか。『北史』巻七三、達奚長儒伝に「其戦亡将士、皆贈官三転、子孫襲之」とあるのは類例か。。また、河内の温県に命じ、趙王軍の戦死した兵卒一万四千余人を埋葬させた。穎は容姿が端麗であったが、精神は愚昧で、文字を知らなかった。しかし、性格は温厚で、度量は広く、仕事を盧志に任せていたため、名声をあげることができたのである。
 斉王が驕慢になり、無礼になってゆくと、人々の期待は穎に集まった。詔が下り、侍中の馮蓀、中書令の卞粋をつかわし、穎に入朝して輔政するよう説諭させ、同時に九錫を受けさせようとした。穎はなおも謙遜して受けなかった。ほどなく、太子太保を加えられた。穎の嬖人(お気に入りの者)である孟玖は洛陽に戻りたがらず、そのうえ〔母の〕程太妃も鄴から離れたがらなかったので、議論しても久しいあいだ結論が出なかった。〔このころ、〕義をもって募集した将士(斉王の義挙のこと?)を留めおいてすでに久しく、みな長く家を空けていることに不満を抱き、帰郷を願うようになり、かってに帰る者も出てきた。〔その者たちは〕鄴の城門にこう書きつけた、「大事が解除され、養蚕の仕事が慌ただしくなるころです。しばらく家に帰り、時節の仕事(養蚕)に取りかかることをお願するしだいです。往時は義をもって参上いたしましたが、このたびは義をもって去らせていただきます。もしふたたび急事がありましたら、そのときまたお知らせください」。穎は留めおけないのを悟ると、彼らを家に帰してやり、こうして百姓はようやく安堵した。斉王が敗亡すると、穎は遠方(鄴)から朝政を執り、事案は大小に関係なく、すべて〔有司は〕鄴を訪れ、穎に諮問した。のち、張昌が荊州で騒乱を起こすと、穎は表文を奉じて南方の征伐を求め、するとあちこちが呼応し、集まってきた。ほどなくすると、〔穎は〕功績を恃んで驕慢になり、多くの規則が弛緩しはじめ、斉王の時代よりもひどくなった。
 穎は私欲をほしいままに満たそうとしたが、長沙王乂が中央にいるのを忌み憚っていた。そこでとうとう、河間王顒とともに上表し、皇后の父の羊玄之、左将軍の皇甫商らの誅殺を要請し、〔また〕長沙王に檄書を発して私宅に帰るように命じた。そして河間王の将の張方とともに京師を攻め、平原内史の陸機を前鋒都督、前将軍、仮節とした。穎は朝歌に駐屯していたが、毎晩、矛戟(ほこ)に火のような光がともっており、軍塁のすべての井戸の中から龍の現象があった。進軍して黄河の南に駐屯し、清水15文脈的に洛陽と黄河の間にある河川なのだろうが、詳細は不明。を隔てて軍塁を築き、浮橋を〔黄河に〕架けて黄河の北と通じるようにし、大きな木の箱に石を詰め込み、これを黄河に沈めて浮橋につなぎ〔浮橋を固定させたが〕、〔この箱のことを〕石鼈(石のスッポン)と名づけた。陸機は敗戦してしまい、戦死者はひじょうに多く、そのうえ陸機は孟玖の讒言をこうむったので、穎は陸機を捕えてこれを斬り、夷三族とした。その話は陸機伝に記してある。こうして、〔穎は〕進んで京城(洛陽城)を攻めた。このとき、常山の王輿は兵一万余を集めており、穎を襲撃しようとしていた。ちょうど長沙王が捕えられたので、王輿の徒党が王輿を斬って降った。穎は京師に入ると、またも帰って鄴に鎮した。封国に二十郡を加増され、丞相に任じられた。河間王が上表し、穎を後継ぎにするのが良いと勧めたため、〔恵帝は〕とうとう太子の覃を廃し、穎を皇太弟に立て、丞相はもとのとおりとし、規則はすべて魏の武帝の故事のとおりとし、〔皇太弟の礼物である〕乗輿(車のこと)や服御(日用品?)はすべて鄴へ移送した。〔穎は〕上表し、〔現在の〕宿衛兵を廃し、〔その兵士らを〕丞相府の所属とさせ、代わりに王官に〔殿中を〕宿衛させるよう要望した16原文「更以王官宿衛」。のちに東海王が旧来の殿中諸将を警戒して排斥したときには、代わりに東海国の将兵に宿衛させている。ここで成都王がやっていることも同様の意図があるのだとすれば、「王官」とは成都王国の将兵を指すとみなせる。いっぽう、恵帝紀によるとこのとき、代わりに「三部兵」(おそらく三部司馬)に宿衛をさせている。すると、「王官」は三部司馬を指し、成都王国とは関係がなくなる。じつのところ、「王官」には不明な点があり、地方から推挙された人材に授けられる官僚予備軍的地位(郎官のようなもの)でもあったらしい(このような意味での「王官」についてはいずれ考えをまとめるつもりであるものの、現段階ではまだまとまっていないので多くは語らないでおく)。さしあたりいまの段階では、恵帝紀に「三部兵」と言い換えられているのを尊重し、ここの「王官」は三部司馬を指すとみなすのが穏当かもしれない。なお和刻本は「宿衛」の下に「穎」字が遺漏していると注しているが、いささか見当違いの注釈で、文を誤読しているのであろう。。驕慢は日に日にひどくなり、主君をないがしろにする心を抱き、孟玖らに〔政務を〕委任したので、人々の支持をおおいに失った。
 永興のはじめ、左衛将軍の陳眕、殿中中郎の逯苞と成輔、長沙国の故将の上官巳らは、天子を奉じて穎を征伐しようとし、檄書を四方に飛ばしたところ、参ずる者は雲のように多く集まった。〔天子の〕軍が安陽に駐屯したとき、兵は十余万にのぼり、鄴中の人々は恐れおののいた。穎は逃げようとしたが、道術を修めていた丞相府の掾の歩熊が言った、「動いてはなりません。南軍は必ず敗北します」。穎は仲間を集めて計略を訊ねると、東安王繇は「天子が親征されているのですから、武装を解いて、縞素(喪服)を着て、城を出て迎え、罰を請うのがよろしいでしょう」と言った。司馬の王混、参軍の崔曠は穎に防戦を勧めた。穎はこの意見を聴き入れたので、奮武将軍の石超を派遣し、軍五万を統率させ、蕩陰に駐屯させた。陳眕の弟である陳匡と陳規は鄴から王師(恵帝軍)へ行き、「鄴中の人々はみなすでに離散しています」と言った。このため、〔王師は〕防備を設けなかった。石超軍が不意に到来したので、王師は敗北し、矢は天子の車にまで届き、侍中の嵆紹が恵帝のそばで死に、〔恵帝の〕左右はみな逃げ散り、天子を藁の中に置き去りにした。石超はとうとう恵帝を奉じて鄴へ行幸した。穎は建武と改元し、東安王を殺し、百官を任命し、殺生の権限を掌握し、郊を鄴の南に築いた。
 安北将軍の王浚、寧北将軍の東嬴公騰は穎が幽州刺史に任命した和演を殺したので、穎は王浚を召したが、王浚は冀州(信都)に留まって進まず、東嬴公および烏丸の羯朱とともに穎を襲撃した。〔王浚軍の〕斥候の騎兵が鄴にまで来ると、穎は幽州刺史の王斌、石超、李毅らを派遣して王浚を防がせたが、羯朱に敗れた。鄴中はおおいに震撼し、百官は逃げ、兵士は離散した。穎は恐れ、帳下の数十騎を率い、天子を擁し、中書監の盧志と車ひとつで逃げ、五日で洛陽に着いた。羯朱は追って朝歌まで来たものの、追いつかないので帰還した。河間王は張方を派遣し、兵士二万を統率させて穎を救援させた。〔穎が〕洛陽に到着すると、張方は恵帝を脅して引き連れてゆき、〔あわせて〕穎、豫章王熾(のちの懐帝)、高光、盧志らを連れて長安へ帰った。河間王は穎を〔皇太弟から〕廃して封国(成都国)へ帰し、豫章王を皇太弟とした。
 穎が廃されると、河北の人々は穎に同情したので、鄴の故将の公師藩、汲桑らが挙兵して穎を迎えようとすると、人々の心はひとつになった。河間王はふたたび穎を鎮軍大将軍、都督河北諸軍事に任じ、兵千人を支給し、鄴に出鎮させた。穎は洛陽に着いたが、たほうで東海王越が軍を率いて天子を迎えようとしており、あちこちが〔東海王に呼応して〕次々に決起していた。穎は北方(王浚らの軍)が盛強であることから17「北方」は原文のまま。河間王顒伝によれば、王浚や范陽王虓の軍をいう。、恐れて進むことができず、洛陽から関中へ逃げようとした。ちょうど天子が洛陽へ帰還してきたため、穎は華陰から武関へ向かい、新野へ進んだ。恵帝は詔を下し、鎮南将軍の劉弘、南中郎将の劉陶に命じて穎を捕えさせようとしたので、〔穎は〕母や妻を棄て、車ひとつで子の廬江王普、中都王廓とともに黄河を渡り、朝歌へ行き、故将士を数百人集め、公師藩のもとへ行こうとした。〔しかし道中で〕頓丘太守の馮嵩が穎、廬江王、中都王を捕えて鄴に送り、〔鄴に出鎮していた〕范陽王虓は彼らを幽閉したが、別の考え(殺害する意向)があるわけではなかった。ちょうど范陽王が急死してしまうと、范陽王の長史である劉輿は、穎が鄴の人々から慕われているのを知っており、後日の災いとなることを憂慮したため、〔范陽王の死を〕秘匿して訃報を公表せず、ある人に台使(中央からつかわされた使者)を偽らせ、詔を詐称して夜に穎へ死を賜わった。穎は守者(看守?)の田徽に言った、「范陽王は死んだのですか」。田徽、「知りません」。穎、「卿はいくつですか」。田徽、「五十です」。穎、「天命を知りましたか」。田徽、「知りません18原文は「不知」で、「いいえ(天命を悟っていません)」の意味なのか、「よくわかりません」の意味なのか、いまいちつかめない。」。穎、「私が死んだあと、天下は平和になるのでしょうか。それとも、そうならないのでしょうか。私が〔王浚に敗れて鄴を〕放逐されてから今年で三年になりますが、身体を沐浴できませんでした。数斗の湯を持ってきてくれませんか」。二人の子(廬江王と中都王)は号泣したので、穎は人に命じて連れ去らせた。そして髪をばらして頭を東に向けて寝かせ、田徽に命じて首を絞めさせた。享年二十八。二人の子も死んだ。鄴中の人々が穎の死を悲しんだ。
 穎が〔王浚に〕敗れたとき、官属はみな逃げ散ったが、盧志だけは随従し、いい加減に仕えることがなかったので、論者は盧志を称賛した。その後、汲桑が東嬴公騰を殺すと、穎の仇を討ったと称し、とうとう穎の棺を掘り起こし、軍中で車に載せて運び、ことあるごとに〔穎の〕霊に報告し、そうしてから軍令を実行した。汲桑が敗亡すると、〔汲桑軍を破った乞活は〕棺を古井戸の中に棄てた19『資治通鑑』永嘉元年十二月の条に拠って補った。。穎の故臣がこれを回収し、洛陽に改葬し、〔そのさいに〕懐帝は県王の礼を加え〔て葬礼を執りおこなっ〕た。
 穎が死んでから数年後、開封に穎の子と言われる子供がいた。年齢は十余歳で、百姓の家に流れ落ちたのだという。東海王は人をつかわしてこれを殺させた。永嘉年間、東莱王蕤の子の遵を穎の後継ぎに立て、華容県王に封じた。のちに賊に没し、国は廃された。

八王伝系図汝南王亮(附:粋・矩・羕・宗・煕・祐)・楚王瑋趙王倫斉王冏(附:鄭方)長沙王乂・成都王穎河間王顒・東海王越

(2021/1/1:公開)

  • 1
    周公旦と召公奭が陝を境界にして世を治めた故事のこと。『資治通鑑』胡三省注が言うように、乂と成都王を陝におらせるわけではなく、周公と召公のように天下を共同統治させる、という意味。
  • 2
    原文「友于十人」。これでよいのか自信がない。
  • 3
    原文「酷痛無罪」。「酷痛」の用例を見ると、冤罪を着せられたことへの悲しみや苦痛を言っている場合が多く、本文もその意で取ったほうがよさそうなので意訳した。自分たちが死ぬいわれはないのに、ということであろう。
  • 4
    成都王らに動員されて死んでいく兵士らがいくらかわいそうでも、反逆に加わっている以上、殺すのは仕方がない、ということを言っているのだと思う。
  • 5
    節鉞は軍の出動権限を証明する割符と、軍法違反者を独断処分する許可を象徴するおののこと。軍隊の指揮監督権くらいの意味で捉えてよいはず。
  • 6
    堯や舜のような人君だ、という意味あいもあるが、堯から舜へと政権が移譲したこともニュアンスにもたせて、景帝・文帝と武帝を堯舜になぞらえているものと思われる。
  • 7
    乂への敵対心はなく、むしろ協力する心を抱いているのですよ、ということであろう。
  • 8
    不詳。「別省」で捕われたことは東海王越伝にも見えており、「成都王穎攻長沙王乂、乂固守洛陽、殿中諸将及三部司馬疲於戦守、密与左衛将軍朱黙夜収乂別省」とある。
  • 9
    前文に見えているように、張方は長安への帰還を検討しはじめた(「欲還長安」)ところであって、まだ洛陽付近から撤退していなかった。
  • 10
    原文「草木萌芽殺長沙」。自信はないが、「草木萌芽」は「草木が生えはじめる時期」のことで、春のはじめ(正月)を指しているのではないかと考えている。「殺長沙」については、自信はないがたぶん「長沙」は長沙王を直接意味しているのではなく、別のものを言っているのではないかと思う。「沙」は「紗」(うすぎぬ)に通じるらしいので、「殺」を「減らす」の意で取れば、「長い紗(うすぎぬ)を切って短くする」というぐあいに読めなくもない。かりにその意味を注で補って挿入しておいた。
  • 11
    何かの間違いではないかと思うのだが、よくわからない。下文の「賈謐」のほうにくっついて「車騎将軍の賈謐」という読み方が適切なのかもしれないが、管見のかぎり賈謐は車騎将軍に就いていない(賈充は車騎将軍になっているが)。さしあたり中華書局の句読に従う。
  • 12
    原文「争道」。推測だが、現代の囲碁でも終局後に観戦者らを交えて検討を開き、勝者でも敗者でもおもに悪かった打ち方をめぐって意見を交わす慣例がある。たぶんここでも、博奕対戦後の反省会で最善の一手をめぐって意見が分かれ、エスカレートしていったという具合ではないだろうか。
  • 13
    原文「以成都国秩為衣服」。成都国に位(「秩」)を有する者に相当する礼服を制作し、それを死者全員に贈った、ということか。「国秩」というのは、封国の編戸から収取した絹のうち、諸侯に分配される分のことを指すらしい。穎に秩として支給された絹によって衣服を制作した、つまり自腹を切った、ということだろうか。『初学記』巻二七、絹、叙事に引く「晋故事」に「凡民丁課田夫五十畝、収租四斛、絹三疋、綿三斤。凡属諸侯、皆減租穀畝一斗、計所減以増諸侯。絹戸一疋、以其絹為諸侯秩。……」とある。「晋故事」佚文の解釈は渡辺信一郎『中国古代の財政と国家』(汲古書院、二〇一〇年)第六章に従った。(2021/1/31:修正)
  • 14
    原文「加常戦亡二等」。よくわからないが、戦没者を追って顕彰して位(官?)を二等昇級させ、その二等昇格の待遇を子孫代々に継がせるという恩典のことか。『北史』巻七三、達奚長儒伝に「其戦亡将士、皆贈官三転、子孫襲之」とあるのは類例か。
  • 15
    文脈的に洛陽と黄河の間にある河川なのだろうが、詳細は不明。
  • 16
    原文「更以王官宿衛」。のちに東海王が旧来の殿中諸将を警戒して排斥したときには、代わりに東海国の将兵に宿衛させている。ここで成都王がやっていることも同様の意図があるのだとすれば、「王官」とは成都王国の将兵を指すとみなせる。いっぽう、恵帝紀によるとこのとき、代わりに「三部兵」(おそらく三部司馬)に宿衛をさせている。すると、「王官」は三部司馬を指し、成都王国とは関係がなくなる。じつのところ、「王官」には不明な点があり、地方から推挙された人材に授けられる官僚予備軍的地位(郎官のようなもの)でもあったらしい(このような意味での「王官」についてはいずれ考えをまとめるつもりであるものの、現段階ではまだまとまっていないので多くは語らないでおく)。さしあたりいまの段階では、恵帝紀に「三部兵」と言い換えられているのを尊重し、ここの「王官」は三部司馬を指すとみなすのが穏当かもしれない。なお和刻本は「宿衛」の下に「穎」字が遺漏していると注しているが、いささか見当違いの注釈で、文を誤読しているのであろう。
  • 17
    「北方」は原文のまま。河間王顒伝によれば、王浚や范陽王虓の軍をいう。
  • 18
    原文は「不知」で、「いいえ(天命を悟っていません)」の意味なのか、「よくわかりません」の意味なのか、いまいちつかめない。
  • 19
    『資治通鑑』永嘉元年十二月の条に拠って補った。
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