巻五十九 列伝第二十九 斉王冏

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八王伝系図汝南王亮(附:粋・矩・羕・宗・煕・祐)・楚王瑋趙王倫斉王冏(附:鄭方)長沙王乂・成都王穎河間王顒・東海王越

斉王冏

 斉の武閔王の冏は字を景治といい、〔斉の〕献王攸の子である。若くして仁愛を称えられ、他人への施しを好み、父の風格をそなえていた。むかし、攸は病気になったが、武帝は信用せず、太医をつかわして診察させると、〔太医は〕みな病気ではないと報告した。攸が薨じると、武帝が弔問して喪礼に臨むと、冏は号泣して地たんだを踏み、父の病気は太医に偽って報告されていると訴えたので、〔武帝は〕詔を下して太医をすぐに誅殺した。〔冏は〕これによって称賛され、とうとう〔斉国の〕後継ぎになれたのであった。
 元康年間、散騎常侍に任じられ、領左軍将軍、翊軍校尉となった。趙王倫がひそかに冏と手を結び、賈后を廃すと、功績をもって游撃将軍に転じた。冏はその官位に満足できず、不満げな気色であった。孫秀はひそかにこれを察知し、かつ冏が内1宮中のこと。游撃将軍は宿衛軍を率いる将軍号。にいることを恐れたので、〔外に〕出して平東将軍、仮節とし、許昌に出鎮させた。趙王が〔帝位を〕簒奪すると、鎮東大将軍、開府儀同三司に移し、恩寵を授けて冏を手なずけようとした。
 冏は、人々が〔趙王に〕不満を抱いていることから、ひそかに離狐の王盛、潁川の王処穆と共謀し、挙兵して趙王を誅殺しようとはかった。趙王は腹心の張烏をつかわし、冏の様子をうかがわせたが、張烏は戻って来ると、「斉王に異心はありません」と報告した。冏はすでに謀略を練り上げたものの、まだ実行していないところであり、事が漏洩するのを恐れたため、〔斉王府の?〕軍司の管襲とともに王処穆を殺し、首を趙王へ送り、そうして趙王を安心させた。謀略が仕上がると、管襲を捕えて殺した。ついに豫州刺史の何勖2『三国志』管寧伝の裴松之注に引く「文士伝」に廬江出身の何楨なる人物が紹介されているが、彼の子のなかに何勖が見えており、おそらく同一人物。廬江何氏はのちに何充を輩出することになる一族である。(2021/3/21:注追加)、龍驤将軍の董艾3『世説新語』方正篇、第一七章の劉孝標注に引く「八王故事」に「〔董〕艾字叔智、弘農人。祖遇、魏侍中。父綏、秘書監。艾少好功名、不脩士検。斉王起義、艾為新汲令、赴軍、用艾領右将軍。王敗見誅」とある。祖逖伝附祖納伝には兄の董祚が見えている。祖父や父の官歴からすると、そこそこ高い家柄の者だったようである。(2021/3/20:注追加)らと挙兵し、使者をつかわして成都王穎、河間王顒、常山王乂、新野公歆の四人に〔挙兵を〕報告させ、檄を天下の征鎮や州、郡、県、国に発し、あらゆる人々に知らしめた。揚州刺史の郗隆は檄を受け取ったが、ためらって決断できずにいると、刺史府の参軍の王邃が郗隆を斬り、首を冏へ送った。冏が軍を陽翟に駐屯させると、趙王は将の閭和、張泓、孫輔を派遣し、堮坂関へ向かわせ、冏と交戦させた。冏の軍は勝利できなかったので、塁壁を固めてこもった。ちょうど成都王の軍が趙王の軍を黄橋で破ったので、冏は軍を出動して閭和らを攻め、これをおおいに破った。王輿が趙王を〔帝位から〕廃し、恵帝が帝位に戻ったとき、冏は賊の徒党を誅殺し終えており、軍を率いて洛陽に入り、軍を通章署に駐屯させた。兵士は数十万あり、旗や兵器の盛大ぶりは、京師を震動させるほどであった。天子はすぐさま〔冏を〕大司馬に任じ、九錫の命を加え、〔九錫の〕礼物の定めは4原文「備物典策」。おそらく『左伝』定公四年が出典。読み方がいろいろあるみたいなのだが、ここではなるべく杜預の読み方に近づけ、「礼物の典制を記した策書」と読むことにした。、宣帝、景帝、文帝、武帝が魏を輔佐した故事に倣った。
 冏はこうして輔政することとなり、攸の故宮に住まい、掾属を四十人置いた。邸宅5原文は「第館」だが、『資治通鑑』ば「府第」に作る。私邸かつ大司馬府であったのだろう。をおおいに建築し、北は五穀市(五穀の市場?)を接収し、南は複数の官署を〔壊して〕切りひらき、百の建物を破壊し、将作大匠に建てさせ、規模は西宮6趙王倫伝では「禁中」を意味していた(訳注を参照)。ここもその意で取ってよさそうである。すなわち、天子の宮殿を模倣したということ。と同等にさせた。千秋門の垣に穴を開けて西閣と通じさせ、後房(後方の私室・寝室)には鍾懸(鐘を吊るした楽器)が施され、前庭では八佾が舞われ、酒と女色に溺れ、宮中に入って朝見しなかった。〔邸宅に〕おりながら百官の拝礼を受け7原文「坐拝百官」。『資治通鑑』胡三省注に「坐受百官之拝也。一説天子用三公、九卿、諸将軍、猶引而拝之。今冏安坐府第、拝授百官」とある。ここでは前者の注解に従った。、三台8尚書台などの台省を指す場合、三公を指す場合、中央の官署を指す場合と、いくつかの用例がある語。詳しくは訳者のブログ記事「唐修『晋書』に見える「臺」について」を参照。『資治通鑑』胡三省注はこの箇所の解釈を明示していない。また『宋書』巻三〇、五行志一は「三台」を「台府」に作っており、この語だと「中央の各官署」(もろもろの台や府)を指していることが多い。どう解釈したらよいのか決め手もないので、とりあえず「台府」とも意味が通じる「中央の官署」くらいの意味で読んでおく。に符勅で命令を出し9原文は「符勅」。よくわからないが、符と勅は文書の様式として理解することにした。が、冏がそれらの文書を発することができたのか、いまいち理解に自信がない。冏の発する文書で中央の官署に命令を出し、意のままに朝政を運用させた、ということか。『資治通鑑』胡三省注はそういう理解のようである。、選挙は不公平で、ただ親しい者だけを寵愛した。車騎将軍の何勖を領中領軍とした。葛旟を牟平公に封じ、路秀を小黄公に封じ、衛毅を陰平公に封じ、劉真を安郷公に封じ、韓泰を封丘公に封じ、〔彼らを〕号して「五公」と呼び、要職を委ねた。殿中御史の桓豹が事案を奏したさい、まず冏の府を経由しなかったゆえに、ただちに罪状を取り調べた10『資治通鑑』胡三省注に「史言冏但欲専権、考竟殿中御史、不知無君之迹愈著」という。。こうして、朝廷は〔冏らを恐れて〕横目で見るようになり、海内は失望した。南陽の処士の鄭方は露板で厳しく諫め、主簿の王豹はしばしば諫言したが、冏はどちらも聴き入れず、とうとう王豹を〔罪があると称して〕奏し、これを殺した。白髪の老人が大司馬府に入り、「甲子旬の間11甲子旬は甲子から癸酉までの干支のこと。『宋書』巻三四、五行志五に「永寧元年十二月甲子、有白頭公入斉王冏大司馬府、大呼有大兵起、不出甲子旬。冏殺之。明年十二月戊辰、冏敗、即甲子旬也」とあり、「冏敗」の日である戊辰が甲子旬に相当する。に兵が起こるぞ」と大声で言った。即座に捕えてこれを殺した。
 冏の驕慢は日に日にひどくなり、とうとう改心することはなかった。まえの賊曹属の孫恵はふたたび上書して諫言した。

 恵(わたし)が聞くところでは、天下には五つの難と四つの不可があります。しかるに、明公はそのすべてに身を置いています。宗廟の祭主という立場を放り棄て、千乗(大国)の要人という立場をないがしろにし、みずからの身を甲冑につつみ、兵刃をものともせずに突き進むこと、これが一難です。三百の兵卒を奮い立たせ、完勝の策略を決行し、四方の人々を集め、英雄豪傑を呼び寄せること、これが二難です。大きな屋敷という立派な場所を捨て、一枚の帷幕という狭隘な場所で過ごし、俗世の悲痛をいたわり、将士の労苦を共有すること、これが三難です。烏合の衆を駆り立てて、凶悪で強大な敵に当たり、神武の武略を信じて委ね、疑いが芽生えて心がばらばらになる恐れを抱かないこと、これが四難です。天下に檄を発し、盟誓を明示し、奥深くの宮殿に閉じ込められた皇帝を引き上げ、皇運の事業を回復すること、これが五難です。〔そして四つの不可(「べきでない」)とは次のとおりです。〕大きな名声は久しく負うべきでなく、大きな功績は久しくかつぐべきでなく、大きな権勢は久しく手にするべきでなく、大きな威権は久しく身を置くべきではありません。五つの難を実行しておきながらそれを難事と思わず12胡三省は穎水での趙王軍との戦闘を指すとする。、四つの不可を忘れて可とみなす〔明公のような〕お方は、いまだかつていませんでした。恵(わたし)がひそかに不安に感じていることでございます。
 永熙以来、十一年13中華書局校勘記は十三年が正しいと指摘している。になりますが、民は徳政を目にすることがなく、耳にするのは殺戮だけです。公族が簒奪の禍を起こし、肉親がさらし首の刑に遭い、多くの王が収監の苦痛をこうむり、妃主は離別の悲しみを受けました。前代の事跡を見てみますと、国家の禍や至親の乱で、こんにちのようにひどいものはいまだかつてありません。良史があやまったことを記すのならば、帝統のお世継ぎのご参考にはならないでしょう14原文「良史書過、後嗣何観」。『左伝』荘公二三年「君挙必書、書而不法、後嗣何観」がたぶん出典だが、こういう読み方で適当なのか自信がもてない。。天下が晋から去らず、命運が世に長く保たれるゆえんは、人君に残虐な暴政がなく、朝廷に苛烈な政治がなく、武帝がお残しになられた恩沢や、献王(攸)がお残しになられた恩愛、そして〔今上帝の〕聖なる慈愛と恩恵が、なお人心を治めているからです。四海が〔晋に〕繋ぎとまっているのは、じつにこれが理由なのです。
 いま、明公は不世出の義を打ち立てながら、いまだ不世出の謙遜をなさっていません。天下の人々はこのことに困惑し、〔明公が〕お察しになられることを望んでいます。長沙王と成都王は、〔周王にとっての〕魯公や衛公のような〔今上帝の〕近親者で、国家の宗室であり、明公とともに功績を査定され、褒賞を授かりましたが、それでもなお〔謙遜して〕自分が一番だと言い張りませんでした。いま、公が実行されるとよろしいことというのは、斉の桓公や晋の文公のごとき勲功を放り棄て、曹の子臧や季札のごとき〔謙遜の〕風格につとめ15原文「邁臧札之風」。『文選』巻一〇、潘安仁「西征賦」に「臧札飄其高厲、委曹呉而成節」とあり、李善注に「左氏伝曰、『呉子諸樊将立季札、季札辞曰、「曹宣公之卒也、諸侯与曹人不義曹君、将立子臧、子臧去之、遂不為也、以成曹君。君子曰、能守節矣。君、義嗣也、誰敢奸君。有国非吾節也。札雖不才、願附於子臧、以無失節」。』」とある。、〔天地に倣って〕万物を芻狗とみなし、ご自身による風教を不仁なものとし16原文「芻狗万物、不仁其化」。『老子』第五章「天地不仁、以万物為芻狗。聖人不仁、以百姓為芻狗」がおそらく出典。「芻狗」については、蜂屋邦夫氏の訳注(岩波書店、二〇〇八年)に「祭り用の、草で編んだ犬。祭りがすめば淡々と棄てられ、愛惜の気持ちはない」(三二頁)とある。どういう意図での引用であるのか、いまいちつかみきれない。徳政、というより政治を放棄することを勧めたものか。、近親者を尊んで推挙し、功を成したら身を退き〔禍を避けるという道を実行し〕17原文「功遂身退」。『老子』第九章に「功遂身退、天之道」とある。、万機を二王(長沙王と成都王)に委ね、方岳(地方官)を諸侯に任せ、義譲の旗を輝かせ、帰郷のために車の鈴を鳴らし、斉の地に住まい、〔斉に特有の〕盛大な歌謡を振興し18原文「振泱泱之風」。『史記』呉太伯世家に「呉使季札聘於魯、請観周楽。為……歌斉。曰、『美哉、泱泱乎大風也哉。表東海者、其太公乎。国未可量也』」とあり、『史記集解』に引く服虔注に「泱泱、舒緩深遠、有大和之意。其詩風刺、辞約而義微、体疏而不切、故曰大風」とある。、青徐の地で無為に過ごし、営丘の封国で枕を高くして安眠されることです。〔このようになされば、〕金石では〔公の〕偉大さを記録するに不十分で、八音(楽器の総称)では〔公の〕美徳を称賛するに不十分であり、周の文王だけが前方の聖人ではなくなり、太伯だけが後方の賢人ではなくなります19冏の名声が文王や太伯に並ぶようになりますよという意。。いま、明公は高位に昇られたことへの後悔をお忘れになり20原文「忘亢極之悔」。『易』乾、上九の爻辞に「亢龍有悔」とあり、文言伝に「亢龍有悔、何謂也。子曰、貴而无位、高而无民、賢人在下位而无輔、是以動而有悔也」とある。、高位を極めたという不吉を軽視し、五岳のごとき安泰を棄て、累卵のごとき危険に身を置き、外は権勢をもって疑いをかけられ、内は百揆〔を統べること〕をもって精神をすりへらしています。〔公は〕高台の上でお過ごしになり、高い垣根〔の屋敷〕で気ままに生活されておられるとはいえ、滅亡という憂事に近づいており、〔その危険性は〕潁水と陽翟での戦闘時における憂慮をしのぐのです。下々の官吏は戦々兢々としていますが、このことを言おうとする者はいません。
 恵(わたし)は亡国(孫呉)の生き残りという立場をもって21原文「以衰亡之余」。孫恵伝によれば、孫恵は孫呉の孫賁の曾孫である。、陽九の厄運に遭うと、矢石(戦争)の禍を進んで受け入れ、大王の義挙に参じ、褐衣を脱いで(起家して)兜をかぶり22孫恵は冏の挙兵に馳せ参ずるまでのあいだ、仕官せずに過ごしていたらしい。孫恵伝に「州辟不就、寓居蕭沛之間。永寧初、赴斉王冏義、討趙王倫、以功封晋興県侯、辟大司馬戸曹掾、転東曹属」とある。、許で従軍しました。戦陣で辛苦を嘗めたものの、特筆すべき功績はなく、戦争に随行したあとは、家に戻って処罰が下るのを待つつもりでした23原文「当随風塵、待罪初服」。「当」は副詞(「まさニ……セントス」)で読んだ。「待罪」は謙遜した言い方で、「何の働きもしなかった(前文でいう「功績がなかった」)と咎められるのを座して待つ」というニュアンス。「初服」は「仕官していないときの服」の意味で、「反初服」(初服に戻る=官を退く)などのような形でよく用いられる。ここでも「(解褐して起家したけど)家に戻る」ということであろう。ようは、当初は義挙が終わったら帰郷し、そのまま冏に仕えて官になるつもりはなかったと言いたいのであろう。。屈原は排斥されましたが、心は南郢(楚)を思い、楽毅は趙に行きましたが、心は北燕を慕いつづけました。まして、恵(わたし)は〔公から〕恩を受け、格別に識遇を賜わり24冏に辟召されたことを指す。、しばしお心に逆らうこともございますが、〔公を慕う〕お気持ちは二人の臣(屈原と楽毅)よりも高くございます。そのため、まごころをお見せし、あえて道理をわきまえずに逆らうしだいです。言葉が納められ、この身は殺戮をこうむろうとも、〔公の〕義譲の功業が成るのであれば、退いて鈇鑕(腰斬に用いる斧と台)に赴きます。このようになるのならば、恵(わたし)にとり死は生にまさるものとなりましょう。

冏は聴き入れなかったが、罰することもしなかった。
 翊軍校尉の李含が長安へ出奔すると、密詔を授かったと詐称し、〔捏造した詔で〕河間王顒に冏の誅殺を命じ、そして利益を得られる策略をもって誘導した。河間王はこれを聴き入れ、上表して言った。

 王室は事件が多発し、禍難が止みません。大司馬の冏は義を唱えて皇位を復活させた功績があるとはいえ、京師を静め、社稷を安寧にしたのは、実際は成都王の勲功です。だというのに、冏は臣としての節義を堅持できず、じつに〔人々の〕異望25異なる希望・期待。趙王が期待を裏切ったため、彼とは別に救ってくれる人物の出現を希望していたということだと思われる。にふさわしいふるまいができていません。〔冏が〕許昌にいたとき、営には東西に掖門があり、府官に治書侍御史を置き、長史と司馬は左右に直立し、侍臣の礼儀のようにさせていました。京師はおおいに平定され、簒奪した反逆者は誅殺されましたが、〔今度は冏の〕百万の兵士が洛陽城を囲んでいます。武力を恃みに一年のさばり、一度として朝見せず、百官は〔冏に〕拝伏し、〔冏は〕安楽に南面しているかのごとくです。楽官〔の官府〕や市署(市場)を壊し、そうして自分の府を拡張しました。武庫に所蔵されている朝廷の武器を勝手に持ち出し、厳重な隊列を解きません。故東莱王の蕤26斉王攸の子、すなわち冏と兄弟である。は冏の逆節に気づき、上表して事情を述べたところ、誣告をこうむり、罪を加えられ、〔上庸へ〕移されました27文六王伝・斉王攸伝附蕤伝に「及冏輔政、詔以蕤為散騎常侍、加大将軍、領後軍、侍中、特進、増邑満二万戸。又従冏求開府、冏曰、『武帝子呉、豫章尚未開府、宜且須後』。蕤以是益怨、密表冏専権、与左衛将軍王輿謀共廃冏。事覚、免為庶人。尋詔曰、『……春秋之典、大義滅親、其徙蕤上庸』。後封微陽侯。永寧初、上庸内史陳鍾承冏旨害蕤」とあり、河間王のこの表が奉じられたときにはすでに故人であった。。私党を結び、越権して官属を置き、寵愛している妻妾の称号を中宮(皇后?)になぞらえています。酒色に溺れ、民衆をいたわっていません。董艾はほしいままにふるまい、恐れるものはなく、御史中丞が弾劾の奏上をすると、かえって〔御史中丞当人が〕罷免を得ます。張偉は無知でありながら虚勢を張って人を威圧する性(たち)で、詔可28上がってきた尚書奏事に対する皇帝の裁可のこと。をふさぎとめています。葛旟は小人でありながら、国家を支えています。王朝の爵を勝手にもてあそび29原文「操弄王爵」。「王爵」は位としての王ではなく、訳文のように「王朝の爵」と読んだ。勝手に爵の与奪をおこなっている=爵の与奪権を掌握している、ということか。、賄賂は公然と横行し、悪人どもは群れをなし、生殺の事柄を独断で決定しています。ひそかに腹心を官に就けると、じつに金もうけのための悪だくみをおこなっています。忠良の士に罪を加えて排斥し、神器(帝位)をねらっています。
 臣は重職を授かり、藩塀にして方岳ですから、冏の所行を見ると、まことに憤怒を覚えます。先日、翊軍校尉の李含が駅馬に乗ってひそかに到着し、詔のご命令を伝えて来ました。臣が伏して読みましたところ、切実に心を動かされ、五情(感情)は焼かれるようでありました。『春秋』の義によれば、君と親に逆らおうとしてはなりません30原文「君親無将」。『公羊伝』荘公三二年の条に「君親無将、将而誅焉」とあり、何休の注に「親謂父母」とあり、『漢書』董賢伝「蓋『君親無将、将而誅之』」の顔師古注に「将謂将為逆乱也」とある。。冏は強力な軍を擁し、私党を樹立し、権力をもつ重要な官職はすべて腹心が占めています。また重罰で譴責したとしても、おそらく不合理とみなして承服しないでしょう。いま、〔臣は〕すみやかに兵を整え、精鋭十万の兵を率い、州征31州刺史や征鎮を指すと考えられる。とともに忠義に心を合わせ、洛陽に集まるつもりでいます。驃騎将軍である長沙王の乂もともに忠誠を奮い立たせており、冏を廃して邸宅に帰す手はずであり、〔もし長沙王の〕命令に従わない者がいれば、軍法にもとづいて処置を執行することでしょう。成都王の穎はうるわしい徳をそなえた優れた宗室であり、勲功は高く、先年における所作はまことに人々の期待に適っていますから、〔成都王を〕宰相とし、冏が就いている阿衡の任に交代させるのがよろしいと存じます。

 河間王の表が〔朝廷に〕届くと、冏はおおいに恐懼し、百官を集めて言った、「むかし、孫秀が反逆をなし、帝王の位を強奪し、社稷が傾いたさい、災難を防ぎ止めることができた者はいなかった。孤(わたし)は義兵を糾合し、悪人の首領を平定し、臣子としての節義はまことに天地に明らかである。こんにち、二王(長沙王と成都王)は〔河間王の〕讒言を信頼し、大難を起こそうとしている。〔孤は〕忠誠な謀略を頼りにして不和をやわらげるつもりである」。司徒の王戎と司空の東海王越は冏を説き、権力を委譲し、謙譲を尊ぶように勧めた。冏の従事中郎の葛旟は怒って言った、「趙庶人(趙王倫)が孫秀を信任し、天を動かして太陽を移したところ32原文「移天易日」。『漢語大詞典』によると、政権を盗み取ることの比喩。、その当時におしゃべりだった連中で33原文「当時喋喋」。表現のとおりに読めば清談を好む人々のことを指すが、ようは当時の高官たちくらいの意味であろう。、率先して〔義を〕唱えようとする者はいなかった。公は矢石に物怖じせず、身を甲冑に包み、包囲を攻め、敵陣を落とし、こんにちの状況を成し遂げることができたのである。功績を査定し、封建を授けることについては、処理が膨大であるため、いまだ十分にいきわたっていないのだ。〔だがそれは〕三台(三公)や納言(尚書)が王朝の政事に心して取り組まずにおり、褒賞が遅滞しているからであって、責任は公の府にあるのではない。讒言をなし、僭越にも逆乱を起こす連中は、共同で討伐するべきである。むやみにでたらめの書(河間王の檄書?)に応じ、公を邸宅に帰らせるつもりか。漢魏以来、王侯で邸宅に帰り、妻子をまっとうさせられた者はいただろうか。〔これ以上〕意見する者は斬るべし」。こうして百官は恐れおののき、みな顔色を失った。
 長沙王乂はただちに宮中に入り、兵を出動して冏の府を攻めた。冏は董艾を派遣し、兵を宮城の西に布陣させた。長沙王はさらに宋洪らを派遣し、火を放たせて台観、台閣、千秋門、神武門34どちらも宮城の西門で、神武門は神虎門が本来の名称であった可能性が高い(唐の高祖の避諱)。『資治通鑑』胡三省注を参照。を焼かせた。冏は黄門令の王湖に騶虞幡をすべて盗ませ、〔騶虞幡を振らせて〕大声で叫ばせた、「長沙王は詔を騙っている」。長沙王も言った、「大司馬が謀反した。協力者は五族を誅殺する」。この日の暮れ、城内でおおいに戦い、飛んでくる矢は雨が降るようで、火(かがり火?)の輝きは天に届くほどであった。恵帝は上東門に行幸したが、矢が御前にまで降ってきた。群臣が火を消したものの、死体は重なりあうほどであった。翌日、冏は敗北し、長沙王が冏を捕えて太極殿の前庭に至ると、恵帝は心を痛め、冏を生かそうとした。長沙王は左右の者たちに怒鳴り、〔冏を〕引きずり出すよう催促すると、冏はなおも二度、振り返って〔恵帝を〕見たが、そのまま閶閭門の外で斬られ、首を六軍にさらされた。徒党はみな夷三族に処された。子の淮陵王超、楽安王氷、済陽王英を金墉城に幽閉した。冏の遺体を西明亭でさらし、三日経っても引き取ろうとする者はいなかった。冏のもとの掾属であった荀闓らが上表し、かりもがりと埋葬を求めたので、これを許可した。
 これ以前、冏が隆盛を極めていたころ、ある婦人が大司馬府を訪れ、出産のために場所を借りたいと言った。吏が婦人を問いただすと、婦人は「斉(臍)の緒を切ったらすぐに帰りますから」と言った。識者はこれ聞いて気味悪がった。また、このころの謡言に、「頭巾を腹に巻いて、斉(臍)のために喪に服そう」というのがあった。まもなく、冏は誅殺された。
 永興のはじめ、詔を下し、「冏は〔長沙王によって〕軽率にも重罰に陥れられたが、さきの勲功は埋没させるべきではないため、子の超、氷、英を赦免して邸宅に帰させ、超を県王に封じ35恵帝紀によれば楽平県王。、冏の祭祀を継がせる」とした36この詔は恵帝紀、永興元年十二月の条に引用されているものと同一だと思われる。。〔超は〕員外散騎常侍を歴任した。光熙のはじめ、さかのぼって冏に哀策を授けた、「ああ、故大司馬、斉王の冏よ。かつて、王は宗藩(同姓の諸侯国)における麗しい嫡子であるのをもって、東方の国(斉国)で世系を継承し、許京(許昌)にて国家に欠かせぬ存在となり、まことにわが王室を静めたのであった。ここに義軍を率い、ともに触の沢で誓約を立て37原文「同盟触沢」。わからない。前後の文の構造から、「同ニ触沢ニ(?)盟(ちか)フ」と読むほかないが、「触沢」の意味がわからない。後文の「大済潁東」に対応しているのならば、「触」は固有名詞か。いま、さしあたりそのように読む。、よく元勲を成し、おおいに潁水の東で勝った。このゆえに朕は偉大な功績を嘉しようと思い、かの労苦に手厚く報いようと考え、過去の典例に従うことで、〔顕彰が〕この輝かしい懿徳につりあうようにしたのであり、封土を制限以上に拡張し、呉楚の諸王らをしのぎ38原文「跨兼呉楚」。こういうニュアンスでよいのか自信はない。「呉楚」はおそらく前漢前期の呉楚七国のこと。その当時の呉王ら以上の封域を得たということだろうか。、礼遇を上げて礼物を整え、栄誉は蕭何や霍光に等しくしたのだ。〔このようにして、王による〕翼戴(助けて推戴する)の重任に頼ろうとこい願い、国家の名声を永久に高めようとしたのである。しかし、恭謙の徳が確立せず、侮蔑を二方面(二王)より得て、有司は過失を挙げ、王を殺戮にいたらしめてしまった。古人の言葉に、『その法を用いるときでさえ、それを定めた人のことを思い出すものだ』とあるが39似たような文言ならば、『左伝』定公九年に「思其人、猶愛其樹、況用其道、而不恤其人乎」というのがある。、まして王は、朕の身を救済する功績を立て、社稷を存続させる勲功を挙げたのだから、在りし日を追想すると、なおさらこの心を痛めるものである。いま、王のもともとの封国を回復し、後継の子に命じ、〔斉国へ〕帰らせ、その世系を継がせることとする。〔斉国の〕礼秩や典制はすべて旧制のとおりとする。使持節の大鴻臚を使わして〔王の〕墓に参らせ、この策書を賜わせ、太牢をもって祀らせる。霊魂があるのならば、つつしんで朕の命に服せ。そしてなんじの心を安らかにし、この栄誉を喜びたまえ」。子の超が〔斉王の〕爵を継いだ。
 永嘉年間、懐帝は詔を下し、冏が義の発起人で、元勲を立てたことを重ねて述べ、さらに大司馬を追贈し、侍中、仮節を加え、さかのぼって諡号(武閔王)をおくった。洛陽が転覆すると、超兄弟はみな劉聡に没し、冏はとうとう後継ぎが絶えた。
 太元年間、詔が下り、故南頓王宗の子である柔之に斉王を継がせ、攸と冏の祭祀を継がせた。〔柔之は〕散騎常侍を歴任した。元興のはじめ、会稽王道子が桓玄を討伐しようとすると、詔が下り、柔之を兼侍中とし、騶虞幡を持たせて江州と荊州に〔桓玄討伐の詔命を〕宣告させたが、姑孰に着くと、桓玄の前鋒に殺された。光禄勲を追贈された。子の建之が〔後継ぎに〕立った。宋が受禅すると、国は廃された。

〔鄭方〕

 鄭方は字を子回という。意気が盛んで、大志と節操があり、史書を広く読み、傑出して優れていて尋常ではなく、郷里の有識者は彼の奇才ぶりに感嘆していたが、まだ登用の推薦だけは得られなかった。
 冏が輔政して放逸するようになると、鄭方は憤慨し、徒歩で洛陽へ行き、荊楚の逸民と自称して書を冏に献上した、「方(わたし)はこう聞いています。聖人が世を助けるときというのは、昼夜にわたって恐れつつしみ、堂々としているけれども驕らないのであって40原文「泰而不驕」。『論語』子路篇、同堯曰篇に見える語で、『論語集解』子路篇の注に「君子自縦泰似驕而不驕」とある。、これが尊貴を長く保持するゆえんである、と。いま、大王は安心していて危難を考慮せず、酒色に耽り、酒宴は度が過ぎています。これが過失の一です。大王は檄を発して命令を布告し、さわやかな風のように天下の人々を調和させ41原文「当使天下穆如清風」。『毛詩』大雅、烝民に「吉甫作誦、穆如清風」とあり、毛伝に「清微之風、化養万物者也」とあり、鄭箋に「穆、和也。吉甫作此工歌之誦、其調和人之性、如清風之養万物」とある。、宗室や骨肉からわずかな間隙をも永久に解消させるべきですのに、現在そのようになさっていません。これが過失の二です。四夷がそろって侵略し、辺境は騒がしくなっていますが、大王は勲功が盛大であるのを自負して、心配事とみなしていません。これが過失の三です。大王が義を挙げると、庶人たちが競って駆けつけましたが、天下は安寧を得たとはいえ、人々は疲弊して苦しんでいます。しかし大王が〔人々を〕援助する政令を発したとは耳にしていません。これが過失の四です。また、〔大王は〕義兵と血をすすって盟約を誓い、仕事がひと段落したのち、褒賞はすぐにおこなうと約束しましたが、〔倫を討って〕太平になって以来、論功行賞はいまだ分配されていません。これは約束を反故にしているということです。これが過失の五です。大王は非常の功績を立て、宰相の任に就いていますが、非難の声は道路に溢れ、民は怨嗟を抱いています。方(わたし)は愚昧でございますが、死を冒して誠心を述べましたしだいです」。冏は〔怒りを〕こらえて返答した、「孤は五つの欠点に思いをいたらすことができなかった。もし君がいなければ、この過失を聞けなかっただろう」。まもなく〔冏は〕敗亡した。

八王伝系図汝南王亮(附:粋・矩・羕・宗・煕・祐)・楚王瑋趙王倫斉王冏(附:鄭方)長沙王乂・成都王穎河間王顒・東海王越

(2021/1/1:公開)

  • 1
    宮中のこと。游撃将軍は宿衛軍を率いる将軍号。
  • 2
    『三国志』管寧伝の裴松之注に引く「文士伝」に廬江出身の何楨なる人物が紹介されているが、彼の子のなかに何勖が見えており、おそらく同一人物。廬江何氏はのちに何充を輩出することになる一族である。(2021/3/21:注追加)
  • 3
    『世説新語』方正篇、第一七章の劉孝標注に引く「八王故事」に「〔董〕艾字叔智、弘農人。祖遇、魏侍中。父綏、秘書監。艾少好功名、不脩士検。斉王起義、艾為新汲令、赴軍、用艾領右将軍。王敗見誅」とある。祖逖伝附祖納伝には兄の董祚が見えている。祖父や父の官歴からすると、そこそこ高い家柄の者だったようである。(2021/3/20:注追加)
  • 4
    原文「備物典策」。おそらく『左伝』定公四年が出典。読み方がいろいろあるみたいなのだが、ここではなるべく杜預の読み方に近づけ、「礼物の典制を記した策書」と読むことにした。
  • 5
    原文は「第館」だが、『資治通鑑』ば「府第」に作る。私邸かつ大司馬府であったのだろう。
  • 6
    趙王倫伝では「禁中」を意味していた(訳注を参照)。ここもその意で取ってよさそうである。すなわち、天子の宮殿を模倣したということ。
  • 7
    原文「坐拝百官」。『資治通鑑』胡三省注に「坐受百官之拝也。一説天子用三公、九卿、諸将軍、猶引而拝之。今冏安坐府第、拝授百官」とある。ここでは前者の注解に従った。
  • 8
    尚書台などの台省を指す場合、三公を指す場合、中央の官署を指す場合と、いくつかの用例がある語。詳しくは訳者のブログ記事「唐修『晋書』に見える「臺」について」を参照。『資治通鑑』胡三省注はこの箇所の解釈を明示していない。また『宋書』巻三〇、五行志一は「三台」を「台府」に作っており、この語だと「中央の各官署」(もろもろの台や府)を指していることが多い。どう解釈したらよいのか決め手もないので、とりあえず「台府」とも意味が通じる「中央の官署」くらいの意味で読んでおく。
  • 9
    原文は「符勅」。よくわからないが、符と勅は文書の様式として理解することにした。が、冏がそれらの文書を発することができたのか、いまいち理解に自信がない。冏の発する文書で中央の官署に命令を出し、意のままに朝政を運用させた、ということか。『資治通鑑』胡三省注はそういう理解のようである。
  • 10
    『資治通鑑』胡三省注に「史言冏但欲専権、考竟殿中御史、不知無君之迹愈著」という。
  • 11
    甲子旬は甲子から癸酉までの干支のこと。『宋書』巻三四、五行志五に「永寧元年十二月甲子、有白頭公入斉王冏大司馬府、大呼有大兵起、不出甲子旬。冏殺之。明年十二月戊辰、冏敗、即甲子旬也」とあり、「冏敗」の日である戊辰が甲子旬に相当する。
  • 12
    胡三省は穎水での趙王軍との戦闘を指すとする。
  • 13
    中華書局校勘記は十三年が正しいと指摘している。
  • 14
    原文「良史書過、後嗣何観」。『左伝』荘公二三年「君挙必書、書而不法、後嗣何観」がたぶん出典だが、こういう読み方で適当なのか自信がもてない。
  • 15
    原文「邁臧札之風」。『文選』巻一〇、潘安仁「西征賦」に「臧札飄其高厲、委曹呉而成節」とあり、李善注に「左氏伝曰、『呉子諸樊将立季札、季札辞曰、「曹宣公之卒也、諸侯与曹人不義曹君、将立子臧、子臧去之、遂不為也、以成曹君。君子曰、能守節矣。君、義嗣也、誰敢奸君。有国非吾節也。札雖不才、願附於子臧、以無失節」。』」とある。
  • 16
    原文「芻狗万物、不仁其化」。『老子』第五章「天地不仁、以万物為芻狗。聖人不仁、以百姓為芻狗」がおそらく出典。「芻狗」については、蜂屋邦夫氏の訳注(岩波書店、二〇〇八年)に「祭り用の、草で編んだ犬。祭りがすめば淡々と棄てられ、愛惜の気持ちはない」(三二頁)とある。どういう意図での引用であるのか、いまいちつかみきれない。徳政、というより政治を放棄することを勧めたものか。
  • 17
    原文「功遂身退」。『老子』第九章に「功遂身退、天之道」とある。
  • 18
    原文「振泱泱之風」。『史記』呉太伯世家に「呉使季札聘於魯、請観周楽。為……歌斉。曰、『美哉、泱泱乎大風也哉。表東海者、其太公乎。国未可量也』」とあり、『史記集解』に引く服虔注に「泱泱、舒緩深遠、有大和之意。其詩風刺、辞約而義微、体疏而不切、故曰大風」とある。
  • 19
    冏の名声が文王や太伯に並ぶようになりますよという意。
  • 20
    原文「忘亢極之悔」。『易』乾、上九の爻辞に「亢龍有悔」とあり、文言伝に「亢龍有悔、何謂也。子曰、貴而无位、高而无民、賢人在下位而无輔、是以動而有悔也」とある。
  • 21
    原文「以衰亡之余」。孫恵伝によれば、孫恵は孫呉の孫賁の曾孫である。
  • 22
    孫恵は冏の挙兵に馳せ参ずるまでのあいだ、仕官せずに過ごしていたらしい。孫恵伝に「州辟不就、寓居蕭沛之間。永寧初、赴斉王冏義、討趙王倫、以功封晋興県侯、辟大司馬戸曹掾、転東曹属」とある。
  • 23
    原文「当随風塵、待罪初服」。「当」は副詞(「まさニ……セントス」)で読んだ。「待罪」は謙遜した言い方で、「何の働きもしなかった(前文でいう「功績がなかった」)と咎められるのを座して待つ」というニュアンス。「初服」は「仕官していないときの服」の意味で、「反初服」(初服に戻る=官を退く)などのような形でよく用いられる。ここでも「(解褐して起家したけど)家に戻る」ということであろう。ようは、当初は義挙が終わったら帰郷し、そのまま冏に仕えて官になるつもりはなかったと言いたいのであろう。
  • 24
    冏に辟召されたことを指す。
  • 25
    異なる希望・期待。趙王が期待を裏切ったため、彼とは別に救ってくれる人物の出現を希望していたということだと思われる。
  • 26
    斉王攸の子、すなわち冏と兄弟である。
  • 27
    文六王伝・斉王攸伝附蕤伝に「及冏輔政、詔以蕤為散騎常侍、加大将軍、領後軍、侍中、特進、増邑満二万戸。又従冏求開府、冏曰、『武帝子呉、豫章尚未開府、宜且須後』。蕤以是益怨、密表冏専権、与左衛将軍王輿謀共廃冏。事覚、免為庶人。尋詔曰、『……春秋之典、大義滅親、其徙蕤上庸』。後封微陽侯。永寧初、上庸内史陳鍾承冏旨害蕤」とあり、河間王のこの表が奉じられたときにはすでに故人であった。
  • 28
    上がってきた尚書奏事に対する皇帝の裁可のこと。
  • 29
    原文「操弄王爵」。「王爵」は位としての王ではなく、訳文のように「王朝の爵」と読んだ。勝手に爵の与奪をおこなっている=爵の与奪権を掌握している、ということか。
  • 30
    原文「君親無将」。『公羊伝』荘公三二年の条に「君親無将、将而誅焉」とあり、何休の注に「親謂父母」とあり、『漢書』董賢伝「蓋『君親無将、将而誅之』」の顔師古注に「将謂将為逆乱也」とある。
  • 31
    州刺史や征鎮を指すと考えられる。
  • 32
    原文「移天易日」。『漢語大詞典』によると、政権を盗み取ることの比喩。
  • 33
    原文「当時喋喋」。表現のとおりに読めば清談を好む人々のことを指すが、ようは当時の高官たちくらいの意味であろう。
  • 34
    どちらも宮城の西門で、神武門は神虎門が本来の名称であった可能性が高い(唐の高祖の避諱)。『資治通鑑』胡三省注を参照。
  • 35
    恵帝紀によれば楽平県王。
  • 36
    この詔は恵帝紀、永興元年十二月の条に引用されているものと同一だと思われる。
  • 37
    原文「同盟触沢」。わからない。前後の文の構造から、「同ニ触沢ニ(?)盟(ちか)フ」と読むほかないが、「触沢」の意味がわからない。後文の「大済潁東」に対応しているのならば、「触」は固有名詞か。いま、さしあたりそのように読む。
  • 38
    原文「跨兼呉楚」。こういうニュアンスでよいのか自信はない。「呉楚」はおそらく前漢前期の呉楚七国のこと。その当時の呉王ら以上の封域を得たということだろうか。
  • 39
    似たような文言ならば、『左伝』定公九年に「思其人、猶愛其樹、況用其道、而不恤其人乎」というのがある。
  • 40
    原文「泰而不驕」。『論語』子路篇、同堯曰篇に見える語で、『論語集解』子路篇の注に「君子自縦泰似驕而不驕」とある。
  • 41
    原文「当使天下穆如清風」。『毛詩』大雅、烝民に「吉甫作誦、穆如清風」とあり、毛伝に「清微之風、化養万物者也」とあり、鄭箋に「穆、和也。吉甫作此工歌之誦、其調和人之性、如清風之養万物」とある。
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