巻五十九 列伝第二十九 趙王倫

凡例
  • 文中の〔 〕は訳者による補語、( )は訳者の注釈、12……は注を示す。番号をクリック(タップ)すれば注が開く。開いている状態で適当な箇所(番号でなくともよい)をクリック(タップ)すれば閉じる。
  • 注で唐修『晋書』を引用するときは『晋書』を省いた。

八王伝系図汝南王亮(附:粋・矩・羕・宗・煕・祐)・楚王瑋趙王倫斉王冏(附:鄭方)長沙王乂・成都王穎河間王顒・東海王越

 趙王の倫は字を子彝といい、宣帝の第九子であり、母は柏夫人という。魏の嘉平のはじめ、安楽亭侯に封じられた。五等爵が設立されると、東安子に改封され、諫議大夫に任じられた。
 武帝が受禅すると、琅邪郡王に封じられた。工匠の部下が盗み出した天子の裘(皮ごろも)を散騎将の劉緝に買わせたことで罪に問われ、廷尉の杜友は劉緝を棄市に処し、倫は劉緝と同罪だと判決した。有司が奏し、倫は爵が高く、関係が親しいから罪に問うべきではないと述べた。諫議大夫の劉毅は〔有司の奏に〕駁議した、「王法の賞罰は貴賎におもねってはなりません。そうしてようやく、礼制を整え、典刑を明らかにできるのです。倫は裘が非常の品物であることを知っておきながら、隠蔽して吏に話しませんでしたから、劉緝と同罪です。親族かつ高貴であるのをもって減刑を議論するべきであって、罪に問わずに罰しないというのはあってはなりません。当世の法においては、杜友の判決に従うのが妥当だと考えます」。武帝は劉毅の駁議を正しいと判断したが、倫は親族であることを理由に、詔を下して倫を赦免した。就国することになると、行東中郎将、宣威将軍となった。咸寧年間、趙に改封され、平北将軍、督鄴城守事に移り、〔ついで〕安北将軍に進められた。元康のはじめ、征西将軍、開府儀同三司に移り、関中に出鎮した。倫の賞罰は不公平であり、氐や羌が反逆したため、召して京師へ戻した。ほどなく車騎将軍、太子太傅に任じられた。賈氏や郭氏と深い交際を結び、中宮(皇后)にへつらい、賈后からおおいに親任された。録尚書を求めたが、張華と裴頠は強く反対して譲らなかった。さらに尚書令を求めたが、張華と裴頠はこれも承認しなかった。
 愍懐太子が〔皇太子から〕廃位されると、倫を領右軍将軍とした。当時、左衛府の司馬督であった司馬雅と常従督であった許超は、ともに東宮に給事していたことがあったので、二人は太子の無罪を悲しみ、殿中中郎の士猗らとともに賈后の廃位、および愍懐太子の復位を画策した。張華と裴頠は動かすことができず、いっしょに策謀を謀りがたいが、倫は兵の枢要を握り、貪欲で腹黒い性格であるから、利用して計画を成功に導くことができると〔彼らは〕考え、そこで倫の嬖人(寵愛されている者)であった孫秀を説得して言った、「中宮は凶悪無道で嫉妬深く、賈謐らとともに太子を廃しました。いま、国家に嫡子はおらず、社稷は危険になりつつありますから、大臣は大事を挙行しようとしています。しかし、公(倫)は中宮に奉仕して名を上げ、賈氏や郭氏と親しく、太子の廃位につきましても、〔公は〕あらかじめ知っていたのだろうと〔大臣が〕みな言っています。にわかに大事が起これば、禍は必ず公にまで及ぶでしょう。なぜ、あらかじめこのことについて考えておかないのでしょうか」。孫秀は聴き入れて、倫に話すと、倫はこれを採用した。こうしてとうとう、通事令史の張林、省事の張衡、殿中御史の殷渾、右衛府の司馬督の路始に告げ、〔司馬雅らに〕内応させた。大事が実行される直前になり、孫秀は、愍懐太子は聡明であるから、もし東宮に戻れば、〔太子は〕賢人と国政を運営するだろうと察知し、〔そうなると〕自分〔のような身分の卑しい人間〕は必ず志を得られないだろうと考えたので、倫に説いて言った、「太子は屈強な意志をもつ人となりで、私請(コネ)は通じません。明公はふだんから賈后に仕えており、世論はことごとく公を賈氏の党派だとみなしています。いま、太子に対して大功を立てるおつもりでおられますが、太子は旧来からの不満を抱いていますから、必ず明公に褒賞を授けないでしょう。〔こうであっては、〕百姓の期待に屈し、身をひるがえして罪を免れたにすぎないと言うべきでしょう。これは禍を速めるゆえんであります。いま、しばらくのあいだ計画を遅らせれば、〔じきに〕賈后は必ず太子を殺します。そのあとで賈后を廃し、太子のために仇に報いれば、功績を立てたとするのにも十分でしょう。〔このようにすれば〕たんに禍から免れるだけとはなりません」。倫はこれを聴き入れた。そこで孫秀はわずかに謀略を漏らし、賈謐の徒党の耳に少しだけ入るようにした。そして倫と孫秀は、早く太子を殺して人々の期待を絶つよう賈謐らに勧めた。
 愍懐太子が殺されると、倫と孫秀の謀略はますます度を越えていったが、許超と司馬雅は後日の災難を憂い、廃位の謀略を立てたことを悔い改めようと思ったので、病気を理由に〔計画から?〕辞退した。孫秀は右衛府の佽飛督の閭和にも〔計画を〕話すと、閭和はこれを了承した。四月三日の丙夜(三更)の一籌1「一籌」は辞書的には初更を指すとされ、本伝もその意での用例として挙げられているが、それでこの箇所の文意が通じるのかやや疑問に感じる。他の史書での「得毎更一籌之数」という用例を鑑みれば、「一籌」は初更という特定の時間帯を指しているのではなく、「ひとつの更(時間帯)」を意味しているものとして読んだほうがよいと思う。つまりここは「三更の時間」程度の意味ではないかと考える。に期日に定め、〔三更を知らせる〕太鼓の音を合図とした。決行日になり、〔倫は〕矯詔を下して三部司馬に命じた、「中宮(賈后)と賈謐らはわが太子を殺した。いま、車騎将軍(倫)を〔宮中に〕入れさせ、中宮を廃位させることとする。なんじら(三部司馬の兵)はみな〔車騎将軍の〕命令に従え。〔そうすれば〕関中侯の爵を下賜する。従わなければ三族を誅殺する」。こうして兵士はみな倫に服従した2個人的な関心からの注釈にすぎないが、車騎将軍の位であってもこのような矯詔がなければ三部司馬を動かせなかったということを示している。。倫はまた矯詔を下して〔宮城の〕門を開け、夜に〔宮城内に〕入ると、兵を道の南に並べ、翊軍校尉の斉王冏に三部司馬百人を統率させてつかわし、閤門(宮殿の門)をおし開かせて〔宮殿に〕入らせた。華林令の駱休が内応し、恵帝を迎えて〔避難のために〕太極殿の東堂へ行幸した。とうとう賈后を廃して庶人とし、建始殿に幽閉した。呉太妃、趙粲、韓寿の妻の賈午らを捕え、暴室3顔師古によれば、漢代、宮中で織物や染物をつかさどった官署のことで、罪を得た宮人の獄でもあったという。『漢書』宣帝紀の顔師古注に「暴室者、掖庭主織作染練之署、故謂之暴室、取暴曬為名耳。……蓋暴室職務既多、因為置獄主治其罪人、故往往云暴室獄耳」とある。に収容して罪状を取り調べた。尚書に詔を下し、〔以下の手続きを進めるように命じた。つまり、〕皇后廃位の件を理由に、ついで賈謐らを捕えさせ、〔また〕中書監、侍中、黄門侍郎、尚書八坐を召集させ、みな夜に殿(太極殿?)に入らせ、〔また〕張華、裴頠、解結、杜斌らを殿前(太極前殿?)で捕えさせ、彼らを殺すように命じた。尚書は最初、この詔には虚偽があるのではないかと疑ったため、尚書郎の師景が露版で奏して手詔を要望した4詔の偽造を疑ったので、恵帝の親筆を要求したということ。本当に恵帝がこんな命令を命じていることが確認できれば、必要な事務手続きを進めます、と。。倫らは〔師景の要望は〕人々の意気をくじくものだとみなし、師景を斬って見せしめにした。翌日、倫は端門(太極殿の南門)に留まり、屯兵(宿衛兵)を北へ向かわせ、尚書の和郁をつかわし、節を持たせて賈庶人を金墉城へ護送させた。趙粲の叔父である中護軍の趙浚、散騎侍郎の韓豫らを誅殺し、内外の群官で罷免された者は多かった。倫はほどなく矯詔を下し、みずから使持節、大都督督中外諸軍事、相国となり、侍中、趙王はもとのとおりとし、すべて宣帝や文帝が魏を補佐した故事に倣わせ、〔相国府に〕左右長史〔各一人〕、司馬〔一人〕、従事中郎四人、参軍十人、掾属二十人、兵一万人を置いた。趙王の世子である散騎常侍の荂を領冗従僕射とし、子の馥を前将軍とし、済陽王に封じ、虔を黄門郎とし、汝陰王に封じ、詡を散騎侍郎とし、覇城侯に封じた。孫秀らの封国はすべて大郡で、みな兵権を握り、文武の官で侯に封じられた者は数千人であり、百官は自分の職務をたばねまとめて倫(相国)に従った5原文「百官総己聴於倫」。『論語』憲問篇「子張曰、『書云、高宗諒陰三年不言。何謂也』。子曰、『何必高宗。古之人皆然。君薨、百官総己以聴於冢宰三年』」とあり、『論語集解』に「孔曰、冢宰、天官卿、佐王治者。三年喪畢、然後王自聴政」とある。
 倫はもともと凡庸で、知略がなく、また孫秀から掣肘を受けており、孫秀の威権が朝廷を揺り動かしたため、天下の人々はみな孫秀に仕え、倫を求めることはなかった。孫秀は琅邪の小史(小吏?)から身を起こし、趙国で官を歴任し、阿諛迎合によって昇進を遂げたのであった。〔孫秀が〕権力の枢要を握るようになってからは、とうとうその邪悪なたくらみを好き勝手に発揮し、忠良の人々を多く殺害し、そうして私欲をほしいままにした。司隷校尉の従事史の游顥と殷渾とは不仲で、殷渾は游顥の奴の晋興を誘惑し、游顥には異心があると偽って告発させた。孫秀は詳しく調べず、すぐに游顥と襄陽中正の李邁を捕え、これを殺し、晋興を厚く待遇し、自分の部曲督とした。まえの衛尉の石崇、黄門郎の潘岳はともに孫秀と嫌隙があったため、二人とも誅殺された。こうして、京師の君子は生きた心地がしなかったのであった。
 淮南王允と斉王冏は、倫と孫秀が驕慢で分際をわきまえていないことに、内心で不満を抱いていた。孫秀らも淮南王らを深く憚っていたので、斉王を許に出鎮させ、淮南王の護軍将軍の号を剥奪した。淮南王は憤怒し、挙兵して倫を討った〔が、戦死した〕。淮南王が敗死すると、倫は九錫を加えられ、封国に五万戸を加増された。倫は偽って取り繕った謙遜を示したが、〔恵帝は〕詔を下し、百官を〔倫の〕府に行かせてねんごろに勧めさせ、侍中に〔九錫授与の〕詔を宣読させたところ、〔倫は〕ようやくこれを受けた。荂に撫軍将軍、領軍将軍を加え、馥に鎮軍将軍、領護軍将軍を加え、虔に中軍将軍、領右衛将軍を加え、詡を侍中とした。また、孫秀を侍中、輔国将軍、相国府司馬とし、太子右率はもとのとおりとした。張林らはみな顕職に就いた。相国府の兵を二万人に増やし、宿衛兵と同じくしたが(同数としたが?)、そのうえ兵士を隠していたので、〔実際は〕兵士は三万を超えていた。東宮6胡三省によると、倫は東宮に相国府を置いていたのだという。『資治通鑑』胡三省注に「時倫以東宮為相国府、謂禁中為西宮」とある。の三つの門の四隅に華美な櫓を建て、東宮の東西に面している道を処断して外周の巡回道路とした7原文「断宮東西道為外徼」。自信はないが、東宮の東面と西面の道の通交を遮断して人の往来を禁じ、巡回警備の者しか入れないようにした、という意味で取ってみた。。ある人が孫秀に言った、「散騎常侍の楊準と黄門侍郎の劉逵が梁王肜を奉じて倫を誅殺しようとしています」。ちょうど天文に異変があったので、〔司徒を丞相に改めたうえで、〕梁王を〔太宰から〕丞相に移し、司徒府におらせ、楊準と劉逵を外官(外朝の官)に移した。
 倫は学識がなく、文字を知らなかった。孫秀は狡猾でつまらない才覚があり、女色をむさぼり、財利に貪欲であった。共同で仕事を起こす者はみな凶悪な連中で、栄誉と利益を争うのみであり、深謀遠慮はなかった。荂は浅薄かつ野卑、馥と虔は暗愚かつ凶暴、詡は愚昧かつ軽薄で、しかもおのおの不仲であり、たがいに嫌いあい、悪口を言いあっていた。孫秀の子の孫会は、二十歳で射声校尉となり、恵帝の娘の河東公主を娶ることになった。公主の母の喪が一年経つまえであったのに、さっさと聘礼(婚姻の礼物)を納めてしまった。孫会の容姿は醜く、奴僕の手下のような身なりで、当初は金持ちの家の子供と城の西で馬を売っていた。百姓は彼が公主を娶ったことをいきなり耳にしたので、驚かない者はいなかった。
 倫と孫秀は二人とも巫鬼の術に傾倒し、妖邪の言説に従っていた。孫秀は牙門の趙奉に宣帝の神託を捏造させ、〔その神託で〕倫に西宮8胡三省によると禁中のこと。『資治通鑑』胡三省注に「時倫以東宮為相国府、謂禁中為西宮」とある。へ早急に入るよう命じた。また〔趙奉は?〕宣帝が北芒にて趙王のために援助をなすと言ったので、宣帝廟を芒山に〔太廟とは〕別に建てた。〔倫らは〕反逆の謀略は成功するはずだと考えた。〔倫は〕太子詹事の裴劭や左軍将軍の卞粹ら二十人を〔相国府の〕従事中郎とし9従事中郎としては多すぎると思うが、ほかに読みようもないのでこのまま訳出しておく。、掾属も二十人とした。孫秀らは諸軍を分割して〔各所に〕置き、腹心を散らして〔各所に〕配し、散騎常侍の義陽王威を兼侍中とさせて、王言の出入をつかさどらせ、禅譲の詔を偽造させた。〔その偽造させた詔により、〕使持節、尚書令の満奮を使者とし、尚書僕射の崔随を副使とし、皇帝の璽綬を奉じて倫に帝位を禅譲した。倫は偽って辞退し、受けなかった。ここにおいて、宗室の諸王や群公卿士はみな符瑞や天文〔が出現していること〕を詐称し、即位を勧めると、倫はようやく承認した。〔禅譲の手続きを進めるため、〕左衛将軍の王輿と前軍将軍の司馬雅らは兵士を率いて殿(太極殿)に入り、三部司馬を説得し、賞罰を示し〔て服従を説い〕たところ、みな逆らおうとしなかった。〔そうして宿衛兵を掌握すると、〕その夜、張林らを〔宮城の〕諸門に駐屯させ、守備させた。〔こうして宮城の警備を厳重にしてから、〕義陽王や駱休らは天子の璽綬を強奪した。夜が明ける前に、内外の百官は天子の車をもって倫を迎えた。恵帝は雲母車に乗り、鹵簿(行列)は数百人で、華林園の西門から出て金墉城に滞在した。〔その道中、〕尚書の和郁、兼侍中、散騎常侍の琅邪王睿、中書侍郎の陸機が〔恵帝に〕侍従し、金墉城のふもとに到着してから帰った。〔倫は〕張衡に恵帝を護衛させたが、実態は恵帝を幽閉した。
 倫は兵五千人を従え、端門から入って太極殿に登り、満奮、崔随、楽広が璽綬を倫に進め、こうして〔倫は〕僭越して帝位につき、大赦し、建始に改元した。この年、賢良、方正、直言、秀才、孝廉、良将〔の選挙科目〕はすべて対策試験をしなかった。計吏や地方からの使者で京師に在留していた者、太学生で十六歳以上または在学二十年の者は、みな吏に任命された。郡県の二千石や令長で大赦の日に在職していた者は、みな侯に封じられた。郡の綱紀(要職)はみな孝廉に挙げられ、県の綱紀は廉吏に挙げられた。世子の荂を皇太子とし、馥を侍中、大司農、領護軍将軍、京兆王とし、虔を侍中、大将軍、領軍将軍、広平王とし、詡を侍中、撫軍将軍、覇城王とし、孫秀を侍中、中書監、驃騎将軍、儀同三司とし、張林ら党派はみな卿や将に昇進し、大国に封じられた。そのほか、計画の協力者はみな階次を飛び越えて昇進し、その人数は数え切れず、奴卒や廝役(どちらも賤民)にいたるまで爵や官を加えられた。朝会のたびに、貂蝉(侍官の冠)は朝堂を埋め尽くしたので、世の人々はこれのために俚諺をつくって言った、「貂が不足しているから、狗の尾が後ろに続いている10侍官が多すぎるということと、侍官に不適な人間が多数混じっている、のダブルミーニングだと思われる。」。また、かりそめの恩恵で人心を喜ばせようとしたため、府庫の蓄えでも賜物〔の供給〕に不足し、金銀を鋳ても〔新たに封建した侯に授与する〕印章に足りず、そのために白版の侯が生じ11白版(白板)は、越智重明氏によると人事の辞令を記した白紙が貼りつけられた板を指す。白版による任命のさいは、印綬を授与されないという。したがって本文では、実際に白版を用いて任命したのかどうかは問題ではなく、たんに印が授けられなかったことを「白版」と表現しているのだと思われる。越智「魏晋南朝の板授について」(『東洋学報』四九―四、一九六七年)を参照。、〔印が授与されたとしても〕君子はその印章を佩くのを恥じ、百姓も倫が終わりをまっとうしないであろうことを悟ったのだった。
 倫はみずから太廟を祀り、その帰路、大風に遭い、旗と車の蓋が折れた。孫秀は非常の事業を樹立したので、倫は孫秀を尊重していた。孫秀は、文帝が相国であったときに使用していた内府に滞在し、〔倫は〕事案の大小に関わりなく、必ず〔孫秀に〕諮問してから実行した。倫の王言は、孫秀がその都度に改変して添削を加え、みずから青紙に書いて詔を作成し、朝に公布して暮れに改められることが四度あり、百官の異動は水が流れるように流動的であった。このころ、雉が殿中に入り、太極殿東の階段から殿に登ったので、これを追い出すと、さらに西の鐘のもとへ飛んで行き、しばらくしてから飛び去った。また、倫は殿上で珍しい鳥を獲たが、尋ねても誰もその名を知らず、数日後の暮れごろ、宮殿の西に白い服を着た小児がおり、この鳥は服劉鳥だと言った。倫は小児と鳥を捕えて牢に幽閉し、翌朝に〔牢を〕開けて見てみると、扉は何の変化もないのに、小児も鳥も行方がわからなくなった。〔また〕倫の目の上には瘤があったが、世の人々は異様なものとみなした。
 当時、斉王冏、河間王顒、成都王穎はみな強力な兵を擁しており、おのおの一地方に拠っていた。孫秀は斉王らが必ず逆らうつもりであるとわかっていたので、信頼している徒党や倫の故吏を選抜し、三王の参佐や郡守12三王が出鎮している地付近の郡守であろう。とした。
 孫秀はもともと張林とは不仲で、外面ではたがいに尊重していたが、内心では嫌いあっていた。張林は衛将軍になると、開府(開府儀同三司?)を得られなかったことを深くうらみ、ひそかに荂に書簡を送り、孫秀は専権し、いつも多数の人々の考えにそむき、しかも功臣はみな小人で、朝廷を混乱させているから、すぐに誅殺するべきだとつぶさに説いた。荂はこの書簡を倫に報告すると、倫はこれを孫秀に見せた。孫秀は倫に張林の誅殺を勧めたので、倫はこれを聴き入れた。こうして、倫は宗室に華林園へ集合するよう要請し、〔あわせて〕張林、孫秀、王輿を召して入らせ、その機会に張林を捕え、これを殺し、三族を誅殺した。
 三王が挙兵し、倫討伐の檄が〔京師にも〕届くと、倫と孫秀はようやくおおいに恐れるようになり、中堅将軍の孫輔を派遣して上軍将軍とし、積弩将軍の李厳を折衝将軍とし、〔二人に〕兵七千を統率させて延寿関から出撃させ、征虜将軍の張泓、左軍将軍の蔡璜、前軍将軍の閭和らに九千人を統率させて堮坂関から出撃させ、鎮軍将軍の司馬雅、揚威将軍の莫原らに八千人を統率させて成皐関から出撃させた13『資治通鑑』によると、以上の三方向の出兵によって斉王を防ごうとしたのだという。また一方、「遣孫秀子会督将軍士猗、許超帥宿衛兵三万以拒穎」とあり、孫会や許超らに宿衛兵を率いさせ、河北の成都王に当たらせたのだという。。東平王楙を〔東平国から中央に〕召して使持節、衛将軍とし、諸軍を都督させて義軍を防がせた。楊珍を昼と夜に宣帝別廟へ参らせて祈願させたが、〔楊珍は〕そのつど、「宣帝は陛下(倫)に謝っています。某日に賊を滅ぼすことでしょう」と言っていた。道士の胡沃を太平将軍に任じ、そうして吉を呼び込もうとした。孫秀の家は毎日淫祀(異端の祀り)を実施し、呪い勝つための呪文を作成し、巫祝(まじない師)に決戦の日を選ばせた。また〔孫秀は〕近親の者に命じて嵩山で羽衣を着させ、仙人の王喬だと詐称させ、神仙の書をつくらせ、倫の暦運はとこしえだと述べさせて人々を惑わせた。孫秀は馥と虔を派遣し、軍を統率させて諸軍の戦闘を応援させようとしたが、馥と虔は肯んじなかった。虔は日ごろから劉輿を気に入っていたので、孫秀は劉輿に虔を説得させると、虔はようやく兵八千を率いて三軍の後詰となった14『資治通鑑』胡三省注によると、この「三軍」は対成都王に派遣した許超らの軍を指す。。しかし、張泓や司馬雅らは連戦連勝であったが、義軍は散り散りになってもそのたびに集合するので、司馬雅らは進むことができなかった。許超らは成都王穎の軍と黄橋で戦い、一万余人を殺傷した。張泓がまっすぐ陽翟に至ると、また城の南で斉王冏の輜重隊を破り、数千人を殺し、とうとう城を占有して邸閣(官の食糧庫)を保持した。ところで、斉王の軍はすでに潁陰におり、陽翟を去ること四十里であった。斉王は軍を分けて潁水を渡らせ、張泓らを攻めたが、勝利できなかった。張泓は勝利に乗じて潁水のほとりにまで至り、夜に潁水に面して布陣した。斉王は軽装兵を繰り出してこれを攻めたが、張泓の諸軍は動揺しなかった。しかし、孫輔と徐建の軍が夜に乱れ、〔二人は〕まっすぐ洛陽へ帰り、自首して罪(混乱して敗走したこと)をみずから申告した。孫輔と徐建が敗走したとき、〔二人は〕諸軍の督将がまだ生存していることを知らなかったため、「斉王の兵は旺盛で、当たるべきではありません。張泓らはすでに戦死しました」と言った。倫はおおいに震撼し、このことを秘密にしたまま、虔と許超を呼び戻した15『資治通鑑』胡三省注に「欲召河北之軍還以自衛」とある。。そのときちょうど、張泓が斉王を破ったという露布(文書のこと)が届いたので、倫はおおいに喜び、そこでふたたび許超を派遣したが、虔は帰還途中ですでに庾倉に到着していた。許超はふたたび黄河を渡ったが、将士は疑念を抱いて心が離れており、鋭気が消沈していた。張泓らは諸軍を総動員して潁水を渡り、進軍して斉王の軍営を攻めた。斉王は兵を繰り出して張泓の別働隊の孫髦、司馬譚、孫輔を攻めさせると、すべてこれを破り、兵士は散り散りになって洛陽へ帰ってしまい、張泓らは〔残った〕兵を集めて〔もとの〕軍営に帰還した。孫秀らは、三方面が日に日に危急になっていくのを把握すると、「斉王軍を破り、斉王を捕えた」という虚報を流し、そうして倫の兵士を惑わせ、百官には全員で祝賀を奉じさせた。しかし、士猗、伏胤、孫会はみな持節であったので、たがいの言うことに従わなかった16原文「而士猗、伏胤、孫会皆杖節各不相従」。『資治通鑑』に「倫賞黄橋之功、士猗、許超与孫会皆持節。由是各不相従、軍政不一」とあるのを参考に訳出した。。倫はさらに太子詹事の劉琨に節を授け、河北の将軍を監督させ、歩騎千人を統率させ、諸軍に戦闘を催促させた。孫会らは義軍と激水で戦ったが、大敗し、退却して黄河のほとりを守り、劉琨は河橋を焼いて道を断った。
 義軍が起こって以来、百官や将士はみな、倫と孫秀を誅殺して天下に謝罪したいと考えていた。孫秀は、多くの人々の怒りには逆らいがたいことに気づき、中書省に出勤しようとしなかった。河北の軍が全軍敗北したことを知ると、憂慮してどうしてよいかわからなかった。義陽王威は孫秀に勧めて、尚書省に行き、尚書八坐とともに外征の準備について議論するのがよいと言うと、孫秀はこれを聴き入れた。京師にいる〔官品〕四品以下の子弟で十五歳以上の者は、みな司隷校尉のもとへ行かせ、倫に従わせて出撃させた。内外(天下?)の諸軍はみな孫秀を拉致して殺そうとしていたので、義陽王は恐れ、崇礼闥(宮殿の門の名称)から舎(吏舎?)へ走って帰った。許超、士猗、孫会らの軍はすでにすべて帰還していたので、孫秀と謀議し、ある者は残っている兵を集めて出撃しようと言い、ある者は宮殿を焼き、自分たちに従わない者を誅殺し、倫を連れて南の孫旂(荊州)や孟観(宛)らのもとへ行こうと言い、ある者は船に乗って東へ逃げ、海に出ようと言ったが、計略はいまだ決まらなかった。王輿が倫らにそむき、営兵(左衛府の兵?)七百余人を率いて南掖門から〔宮中に〕入り、宮中の兵に命じておのおのに諸門を警備させた。三部司馬は王輿のために宮中で呼応した。王輿はみずから出向いて孫秀を攻めると、孫秀は中書省の南門を閉じた。王輿は兵を放ち、〔中書省の〕垣を登らせ、建物に火をつけさせたところ、孫秀、許超、士猗は慌てて走り出てきた。左衛将軍の趙泉17この当時の左衛将軍は王輿であった可能性が高そうなので、この箇所は「右衛将軍」の誤りかもしれない。(2021/1/11:注追加)は孫秀らを斬って見せしめにさらした。孫奇18孫会の誤りだとの指摘がある(中華書局の校勘記を参照)。『資治通鑑』は本伝と同じく「孫奇」。を右衛の営で捕え、廷尉に送り、これを誅殺した。前将軍の謝惔、黄門令の駱休、〔相国府の?〕司馬督の王潜を捕え、みな殿中で斬った。三部司馬は宣化闥の中で孫弼を斬り、見せしめにさらした。このとき、司馬馥19おそらく倫の子の馥。この箇所だけなぜか姓の司馬氏が付されている。いちおうそのまま訳出しておいた。は孫秀と同じ場所にいたが、王輿は将士に命じて馥を散騎省に拘禁させ、大戟をもって散騎省の門を守らせた。八坐全員が太極殿に入ると、〔太極殿の〕東の階段にある樹のふもとに座った。王輿は雲龍門に駐屯し、倫に詔を作成させた、「私は孫秀らに惑わされ、三王を怒らせてしまった。いま、すでに孫秀を誅殺した。そこで、太上(恵帝)を迎えて位にお戻しせよ。私は身を退いて田畑で余生を過ごすことにする」。伝詔20『資治通鑑』胡三省注に「伝詔者、使之宣伝詔命、因以為官名」とあり、使者として王言を布告する官の名称という。『晋書』や『宋書』で用例を確認すると、たしかに役職の名称として捉えたほうがよさそうなので、胡三省に従って訳出する。は騶虞幡を使用し、将士に武装を解くよう命じた。文武の官はみな逃げ出し、〔殿中に〕留まろうとする者はいなかった。黄門は倫を率いて華林園の東門から〔宮中を〕出て、荂とともに汶陽里の邸宅へ帰った。こうして、兵士数千をもって金墉城の天子(恵帝)を迎え、百姓はみな万歳を称した。恵帝は端門から〔太極殿に〕入り、太極殿に登り、〔太極殿の〕広室におわし、倫と荂らを金墉城に送った。
 当初、孫秀は西方の軍(河間王顒の軍)が来ることを心配していたので、ふたたび虔を召して帰還させた。この日(倫が廃位された日)、〔虔は〕九曲に宿泊していたが、〔恵帝は〕詔を下して使者をつかわし、虔の官を免じた。虔は恐れ、軍を棄て、数十人を引き連れて汶陽里へ帰った。
 梁王肜は上表し、倫父子は凶悪で、誅に伏すのが適当だと述べた。百官は朝堂で集まって議し、みな梁王の表に賛成した。尚書の袁敞に節を持たせてつかわし、倫に死を賜い、金屑の入った毒酒を飲ませた。倫は恥じて、布で顔を覆い、「孫秀が私を誤らせた。孫秀が私を誤らせた」と言った。こうして、荂、馥、虔、詡を捕えて廷尉の獄に送り、罪状を取り調べた。馥は死に臨んで虔に言った、「おまえのせいで家を滅ぼすことになったんだ」。百官で倫が登用した者は、みなこれを排斥し、台、省、府、衛にわずかに残る程度であった。〔三王が〕挙兵してから六十余日、戦死者はほぼ十万人であった。
 およそ、倫と反逆を起こし、大事に関与して謀議した者〔の顚末は以下のとおり〕。張林は孫秀に殺された。許超、士猗、孫弼、謝惔、殷渾は孫秀とともに王輿に誅殺された。張衡、閭和、孫髦、高越は陽翟から〔洛陽へ〕帰還し、伏胤は敗戦して洛陽へ帰還したが、みな東市で斬られた。蔡璜は陽翟から斉王冏に降ったが、洛陽へ帰還すると自殺した。王輿は功績をもって誅殺を免除されたが、のちに東莱王蕤と斉王を殺す謀略を立てたので、法に伏した(誅殺された)。

八王伝系図汝南王亮(附:粋・矩・羕・宗・煕・祐)・楚王瑋趙王倫斉王冏(附:鄭方)長沙王乂・成都王穎河間王顒・東海王越

(2021/1/1:公開)

  • 1
    「一籌」は辞書的には初更を指すとされ、本伝もその意での用例として挙げられているが、それでこの箇所の文意が通じるのかやや疑問に感じる。他の史書での「得毎更一籌之数」という用例を鑑みれば、「一籌」は初更という特定の時間帯を指しているのではなく、「ひとつの更(時間帯)」を意味しているものとして読んだほうがよいと思う。つまりここは「三更の時間」程度の意味ではないかと考える。
  • 2
    個人的な関心からの注釈にすぎないが、車騎将軍の位であってもこのような矯詔がなければ三部司馬を動かせなかったということを示している。
  • 3
    顔師古によれば、漢代、宮中で織物や染物をつかさどった官署のことで、罪を得た宮人の獄でもあったという。『漢書』宣帝紀の顔師古注に「暴室者、掖庭主織作染練之署、故謂之暴室、取暴曬為名耳。……蓋暴室職務既多、因為置獄主治其罪人、故往往云暴室獄耳」とある。
  • 4
    詔の偽造を疑ったので、恵帝の親筆を要求したということ。本当に恵帝がこんな命令を命じていることが確認できれば、必要な事務手続きを進めます、と。
  • 5
    原文「百官総己聴於倫」。『論語』憲問篇「子張曰、『書云、高宗諒陰三年不言。何謂也』。子曰、『何必高宗。古之人皆然。君薨、百官総己以聴於冢宰三年』」とあり、『論語集解』に「孔曰、冢宰、天官卿、佐王治者。三年喪畢、然後王自聴政」とある。
  • 6
    胡三省によると、倫は東宮に相国府を置いていたのだという。『資治通鑑』胡三省注に「時倫以東宮為相国府、謂禁中為西宮」とある。
  • 7
    原文「断宮東西道為外徼」。自信はないが、東宮の東面と西面の道の通交を遮断して人の往来を禁じ、巡回警備の者しか入れないようにした、という意味で取ってみた。
  • 8
    胡三省によると禁中のこと。『資治通鑑』胡三省注に「時倫以東宮為相国府、謂禁中為西宮」とある。
  • 9
    従事中郎としては多すぎると思うが、ほかに読みようもないのでこのまま訳出しておく。
  • 10
    侍官が多すぎるということと、侍官に不適な人間が多数混じっている、のダブルミーニングだと思われる。
  • 11
    白版(白板)は、越智重明氏によると人事の辞令を記した白紙が貼りつけられた板を指す。白版による任命のさいは、印綬を授与されないという。したがって本文では、実際に白版を用いて任命したのかどうかは問題ではなく、たんに印が授けられなかったことを「白版」と表現しているのだと思われる。越智「魏晋南朝の板授について」(『東洋学報』四九―四、一九六七年)を参照。
  • 12
    三王が出鎮している地付近の郡守であろう。
  • 13
    『資治通鑑』によると、以上の三方向の出兵によって斉王を防ごうとしたのだという。また一方、「遣孫秀子会督将軍士猗、許超帥宿衛兵三万以拒穎」とあり、孫会や許超らに宿衛兵を率いさせ、河北の成都王に当たらせたのだという。
  • 14
    『資治通鑑』胡三省注によると、この「三軍」は対成都王に派遣した許超らの軍を指す。
  • 15
    『資治通鑑』胡三省注に「欲召河北之軍還以自衛」とある。
  • 16
    原文「而士猗、伏胤、孫会皆杖節各不相従」。『資治通鑑』に「倫賞黄橋之功、士猗、許超与孫会皆持節。由是各不相従、軍政不一」とあるのを参考に訳出した。
  • 17
    この当時の左衛将軍は王輿であった可能性が高そうなので、この箇所は「右衛将軍」の誤りかもしれない。(2021/1/11:注追加)
  • 18
    孫会の誤りだとの指摘がある(中華書局の校勘記を参照)。『資治通鑑』は本伝と同じく「孫奇」。
  • 19
    おそらく倫の子の馥。この箇所だけなぜか姓の司馬氏が付されている。いちおうそのまま訳出しておいた。
  • 20
    『資治通鑑』胡三省注に「伝詔者、使之宣伝詔命、因以為官名」とあり、使者として王言を布告する官の名称という。『晋書』や『宋書』で用例を確認すると、たしかに役職の名称として捉えたほうがよさそうなので、胡三省に従って訳出する。
タイトルとURLをコピーしました