巻五十九 列伝第二十九 汝南王亮 楚王瑋

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八王伝系図汝南王亮(附:粋・矩・羕・宗・煕・祐)・楚王瑋趙王倫斉王冏(附:鄭方)長沙王乂・成都王穎河間王顒・東海王越

汝南王亮

 汝南の文成王の亮は字を子翼といい、宣帝の第四子である。若くして明敏で、才幹があり、魏に仕えて散騎侍郎、万歳亭侯となり、東中郎将に任じられ、広陽郷侯に進められた。諸葛誕を寿春で討伐したが、勝利を逃したため、免官された。少し経つと、左将軍に任じられ、散騎常侍、仮節を加えられ、〔地方に〕出て監豫州諸軍事となった。五等爵が設立されると、祁陽伯に改封され、鎮西将軍に転じた。武帝が即位すると、扶風郡王に封じられ、食邑は一万戸とされ、〔府に〕騎司馬を置き、参軍と掾属〔の定員〕を増し、持節、都督関中・雍・涼諸軍事となった。ちょうど秦州刺史の胡烈が羌虜(禿髪樹機能)に殺されたので、亮は将軍の劉旂、騎督の敬琰を派遣し、救援に向かわせたが、〔二人は〕進軍しなかった。このことで罪を得て、平西将軍に降格された。劉旂の罪は斬刑に相当したのでの判決が下されると(2022/6/28:修正)、亮は軍司馬の曹冏とともに上言し、指揮の過失は亮に原因があるとし、劉旂の死を免じるよう嘆願した。詔が下った、「高平1武帝紀などによると、胡烈は万斛堆という地で殺されたらしいが、『資治通鑑』胡三省注によると、万斛堆は高平にあったそうである。おそらく胡烈軍は万斛堆にこもっていたのであろう。が緊急事態におちいったとき、城内の軍(亮の軍?)と劉旂の軍は〔高平を〕救出することがおそらく可能であった。たとえすぐに到着することはできなくとも、深く進軍するべきだったはずである。いま、〔胡烈は〕がむしゃらに奮闘して命を捨てたのに、〔劉旂は〕何もせずに敗北を眺めていた。ゆえに劉旂に誅殺を下すのである。いま、もし罪は劉旂にないというのならば、〔ほかに〕罪を負うべき人物がいなければならない」。有司も亮の免官と爵土(爵と封国)の貶削を奏した。詔を下して免官のみとした。しばらくして撫軍将軍に任じられた。この年、呉の将の歩闡が来降したので、亮に節、都督諸軍事を授けて歩闡を受け入れさせた。まもなく、侍中の朝服を加えられた2原文「加侍中之服」。侍中に任命するわけではなく、侍中を加官するわけでもないが、侍中相当の礼遇を恩典として賜与する、という意味か。類例は散見しており、たとえば『宋書』礼志五に「晋武帝泰始三年、詔太宰安平王孚服侍中之服、賜大司馬義陽王望袞冕之服。四年、又詔趙、楽安、燕王服散騎常侍之服。十年、賜彭城王袞冕之服」とある。
 咸寧のはじめ、扶風国の池陽県四一〇〇戸をもって〔扶風王〕太妃の伏氏(亮の母)の湯沐邑とし、家令、家丞、僕を置き、のちに南郡の枝江に湯沐邑を変更された。あるとき、太妃は軽い病を患っていたので、洛水でみそぎをして身を清めた。亮ら兄弟三人が侍従し、みな節を持ち、楽器を演奏していたところ、洛水の岸辺を揺り動かし、光り輝かせた。武帝は陵雲台に登って〔その様子を〕遠くから眺めていたが、「伏妃は富貴と言うべきだな」と言った。その年、衛将軍に進められ、侍中を加えられた。このころ、宗室は数が多くおり、統制がなかった。そこで亮を宗師とし、本官はもとのとおりとし、〔亮に宗室の〕教育や監督をさせ、礼法を遵守しない者がいれば、〔その過失が〕小さい場合は義方3事を行うのに守るべき規範や道理。(『漢辞海』)をもって正し、大きい場合は問題に応じて奏聞した。
 咸寧三年、封国を汝南に移され、出て鎮南大将軍、都督豫州諸軍事、開府、仮節となり、就国し(封国におもむき)、追鋒車、皁輪犢車、銭五十万を給付された。まもなく、亮を中央に召して侍中、撫軍大将軍とし、後軍将軍を領させ、冠軍将軍、歩兵校尉、射声校尉、長水校尉などの営を統率させ、兵五百人と騎馬百匹を給付した。太尉、録尚書事、領太子太傅に移り、侍中はもとのとおりとされた。
 武帝が病で寝込むと、〔亮は〕楊駿に排斥された。〔楊駿は〕亮を侍中、大司馬、仮黄鉞、大都督督豫州諸軍事とし、許昌へ出鎮させ、軒懸の楽器4鐘を吊るした打楽器。三面に吊るした形状のものを「軒懸」(軒県)といい、諸侯に許された仕様である。『周礼』春官、小胥に「正楽県之位。王宮県、諸侯軒県」とあり、鄭玄注に「楽県、謂鍾磬之属、県於筍簴者。鄭司農云、宮県四面県。軒県去其一面。……玄謂、軒県去南面、辟王也」とある。と六佾の舞5「佾」は舞の列のこと。天子は八佾(八人八列)、諸侯は六佾(六人六列)であった。なお軒懸と六佾は魏の武帝や晋の文帝が賜与された九錫のひとつである。なので、この礼遇はおそらく殊礼とみなせるであろう。を加えた。子の羕を西陽公に封じた。〔亮が許昌へ〕出発する前に、武帝は重篤になり、詔を下して亮を〔京師に〕留め、後事を託そうとした。楊駿はこのことを知ると、〔詔が公布される前に〕中書監の華廙を通じてその詔を要求し、閲覧すると、そのまま〔詔を〕返還しなかった。武帝が崩ずると、亮は楊駿が自分を疑っていることを心配したため、病と称して〔宮中に〕入らず、大司馬門6おそらく宮城南面の門のこと。『資治通鑑』胡三省注は大司馬府の門と解しているが、そういう狭い意味ではないと思う。『資治通鑑』胡三省注が正しく、大司馬府の門と考えたほうがよい。(2021/3/31:注訂正)の外で哀悼を述べるにとどめ、上表して埋葬に立ち寄ることを求めた。楊駿は亮を討伐しようとしたが、亮はそのことを知り、計略を廷尉の何勖にたずねた。何勖は言った、「いま、朝廷はみな公に帰心していますのに、どうして公は人を討とうとせず、かえって人に討たれることを恐れているのですか」。ある人が亮に説いて言うに、指揮下の軍を率いて〔宮中に〕入り、楊駿を廃するように勧めたが、亮は採用できず、夜に馬で許昌へ逃げたので、無事を得た。楊駿が誅殺されると、詔が下った、「大司馬の汝南王亮は道を体得し、純朴で、政治の道理に通じ、輔翼に尽力した功績は本朝に明らかで、『二南』が詠うごとき風流7「二南」は『毛詩』の周南と召南のこと。『毛詩』周南、関雎の詩序に「然則関雎麟趾之化、王者之風、故繋之周公。南、言化自北而南也。鵲巢騶虞之徳、諸侯之風也、先王之所以教、故繋之召公。周南召南、正始之道、王化之基」とあり、「王者之風」と「諸公之風」を詠った「王化之基」であるという。は方夏(中華)に広まっている。〔王の〕遠大な計画を頼りとして、王化を安寧にしたいと考える。そこで、亮を太宰、録尚書事とし、入朝しても小走りは必要なく、剣を佩き、靴をはいたまま上殿してよいものとし、掾属〔の定員〕を十人増し、千兵百騎(兵千人と騎馬百匹)を給付する。太保の衛瓘とともに朝政をつかさどるように」。亮は楊駿誅殺の功績を評定したものの、〔実態とは〕大きく乖離していた。そうして人々の歓心を一時的に得るつもりであったが、このことによって名望を失った。
 楚王瑋は〔楊駿誅殺に〕功績があったが、威権(人を恐れさせて屈服させる力)を示すのを喜ぶ気質であったため8原文「好立威」。楚王瑋伝は「多立威刑」。「立威」の用例を見ると、おもに刑罰を用いて「立威」するケースが多い。刑罰や暴力などを通して人を恐れさせて屈服し、そうしたみずからのさまを誇示するのを好んだということであろう。『資治通鑑』は「好殺」と記すが、やや読み過ぎの感も否めない。、亮は楚王を憚り、その兵権を剥奪しようとした9暴力的な振る舞いが目立つので武力を奪おうとしたということであろう。。楚王はおおいに不満に思い、そこで賈后の意向を受け、亮と衛瓘が廃立の謀議を企図していると誣告し、矯詔を下し、楚王の長史である公孫宏と積弩将軍の李肇を派遣し、夜に亮〔の府〕を兵で包囲した。〔亮の〕帳下督の李龍は外で異変が起こっていると報告し、防戦を要請したが、亮は聴き入れなかった。にわかに楚王の兵が垣を登って大声で呼び叫んだので、亮は驚いて、「私に二心はないのに、どうしてここに来たのか。もし詔書があるのなら、示すことはできるかね」と言った。公孫宏らは承諾せず、兵を急き立てて亮を攻めさせた。〔亮の〕長史の劉準は亮に言った、「こたびの事変を観察しますに、まちがいなく奸計です。〔わが〕府には俊才が林のように集まっていますから、力を尽くして戦うべきです」。これも聴き入れず、とうとう〔亮は〕李肇に捕らえられ、嘆息して言った、「私の忠心は天下にはっきり示されているのに、無道にも無実の人間を殺すようなことがあってよいものか」。このとき、猛暑であったが、〔楚王の〕兵士は亮を車の下に座らせていた。世の人々は亮を憐れみ、亮のために扇をあおいだ。日中になろうとしても、〔亮を〕殺そうとする者はいなかった。楚王は令を下して言った、「亮を斬った者には布千匹を与える」。とうとう乱兵によって殺され、〔遺体は〕北門の壁に投棄され、頭髪、耳、鼻はすべて損壊した。楚王が誅殺されると、亮の爵と官位を回復し、東園温明秘器10詳しい意味はきちんと把握できていないが、簡潔に言うと特別な葬具のこと。『後漢書』の李賢注などを参照するかぎり、「東園」は漢代に少府に属していた官署の名称で、棺の作成を主管していた。したがって、「東園秘器」は棺を指すものと思われる(葬儀に使う道具のことをはばかって「秘器」と呼ぶのだという)。「温明」も漢代の東園が作成していた葬具であるという。『漢書』霍光伝に「光薨、……賜……東園温明」とあり、顔師古注に「服虔曰、『東園処此器、形如方漆桶、開一面、漆画之、以鏡置其中、以懸屍上、大斂并蓋之』。師古曰、『東園、署名也、属少府。其署主作此器也』」とある。、朝服一襲、銭三百万、布絹三百匹を給付し、喪葬の礼は安平献王孚の故事に倣わせ、廟に軒懸の楽器を設けさせた。粋、矩、羕、宗、煕の五人の子がいた。

〔粋、汝南王矩、汝南王祐〕

 粋は字を茂弘という。若くして卒した。

 矩は字を延明という。〔汝南国の〕世子に任じられ、屯騎校尉となったが、父の亮といっしょに殺された。典軍将軍を追贈され、懐王の諡号をおくられた。子の祐が〔汝南王の後継に〕立った。これが威王である。
 祐は字を永猷という。永安年間、恵帝の北征(成都王穎を鄴で討とうとした戦争)に随行した。恵帝が長安に移ると、祐は国(汝南国)に戻った。恵帝が洛陽へ帰還すると、征南将軍(許昌に出鎮していた范陽王虓?)の兵八百人を祐に支給し、〔その軍には〕特別に四部の牙門を置いた。永興のはじめ、軍を率いて東海王越に依拠し、劉喬討伐に功績をたて、揚武将軍に任じられ、江夏の雲杜県を封国に加増し、以前の封国と合わせて二万五千戸とした。東海王が汲桑を討とうとしたとき、上表し、祐に兵三千を統率させて許昌に留めて守らせるよう要望し、鼓吹と麾旗を加えられた。東海王が〔洛陽から許昌に〕帰還すると、国へ戻った。永嘉の末年、賊が群がり出てきたので、とうとう南へ行って長江を渡った。元帝は軍諮祭酒に任命した。建武のはじめ、鎮軍将軍となった。太興の末年、領左軍将軍となった。太寧年間、衞将軍に昇進し、散騎常侍を加えられた。咸和元年、薨じた。侍中、特進を追贈された。
 子の恭王の統が立ったが、南頓王宗の謀反を理由に〔汝南国を〕廃された。その後、成帝は亮の一族が絶えてしまうことを哀れみ、統に詔を下して封国を回復した。〔統は〕昇進を重ねて秘書監、侍中に移った。薨じると、光禄勲を追贈された。子の義が立ち、散騎常侍にまで昇った。薨じると、子の遵之が立った。義煕のはじめ、梁州刺史の劉稚が謀反し、遵之を主君に推戴しようとしたが、事が漏洩し、誅殺された。弟の楷之の子の蓮扶が立った。宋が受禅すると、国は廃された。

〔西陽王羕〕

 羕は字を延年という。太康の末年、西陽県公に封ぜられ、散騎常侍に任じられた。亮が殺されたとき、羕は八歳であった。鎮南将軍の裴楷は羕と姻族関係であったが、羕をひそかに連れて逃げ、一夜に八度移動したので、逃れることができた。楚王が誅殺されると、爵を王に進められ、歩兵校尉、左軍将軍、驍騎将軍を歴任した。元康のはじめ、郡王に進められた。永興のはじめ、侍中に任じられた。長沙王乂の徒党であったのを理由に、廃されて庶人となった。恵帝が洛陽へ帰還すると、羕の封国を回復し、撫軍将軍とし、また汝南の期思県と西陵県を封国に加増した。永嘉のはじめ、鎮軍将軍に任じられ、散騎常侍を加えられ、領後軍将軍となり、さらに邾県と蘄春県を封国に加増し、以前の封国と合わせて三万五千戸とした。東海王越に従って東に進んで鄄城へ向かい、最終的には南へ行って長江を渡った。
 元帝が承制すると、さらに撫軍大将軍、開府に任じられ、千兵百騎を給付された。詔が下り、南頓王宗とともに〔北方からの〕流人を統べて中州(長江中流域)を満たすように命じられたが、江西は荒廃して道がふさがっていたため、帰還した。元帝が即位すると、侍中、太保に進められた。羕は皇族の年長者であったため、元会のときは特別に羕のために牀(腰掛け)を設けた。太興のはじめ、録尚書事となり、ほどなく領大宗師となり、羽葆、斧鉞、班剣六十人を加えられ、太宰に進められた。王敦が平定されると、領太尉となった。明帝が即位すると、羕は宗室の元老であったため、特別に羕に拝礼した。羕は兵士をほうって好き放題に掠奪させていたため、有司は羕の官を免ずるように奏したが、詔が下って不問とされた。明帝が病で寝込むと、羕と王導はともに顧命を授かり、成帝を助けるよう命じられた。このとき、成帝は幼年であったが、羕に詔を下し、安平献王孚の故事に倣い、寝台と帳を殿上に設け、成帝はみずから出迎えて拝礼した。咸和のはじめ、弟の南頓王宗に連坐して免官され、弋陽県王に降格された。蘇峻が反乱を起こすと、羕は蘇峻のもとへ行き、彼の功績を称えたので、蘇峻はおおいに喜び、矯詔を下して羕の爵と官位を回復した。蘇峻が平定されると、〔羕は〕死を賜わった。世子の播、播の弟の充、充の息子の崧はみな誅殺され、国(西陽国)は廃された。咸康のはじめ、羕の一門の属籍(宗室の籍)を回復し、羕の孫の珉を奉車都尉、奉朝請とした。

〔南頓王宗〕

 宗は字を延祚という。元康年間、南頓県侯に封じられ、ほどなく公に昇格した。劉喬討伐に功績をたて、王に昇格し、食邑五千戸を加増され、以前と合わせて一万戸とされ、征虜将軍となった。兄の羕といっしょに長江を渡った。元帝が承制すると、散騎常侍に任じられた。愍帝が西都(長安)にいたとき、宗を平東将軍とした。元帝が即位すると、撫軍将軍に任じられ、領左将軍となった。明帝が即位すると、長水校尉を加えられ、左衛将軍に転じた。〔宗は〕虞胤とともに明帝から親しまれ、禁軍を委託された。
 宗は王導や庾亮とは志向が異なり、遊侠と交際して腹心としていたので、王導と庾亮はそのことを〔明帝に〕話した。明帝は宗が宗室であることから、いつもこれを許容していた。明帝の病気が重くなると、宗と虞胤はひそかに反乱を謀った。庾亮は闥門(宮殿の門)をおし開いて〔宮殿に〕入り、明帝の寝台に上がり、涙を流してこのことを告げると、明帝はようやく気づいた。〔宗は〕驃騎将軍に転じ、虞胤は大宗正となった。とうとう、宗は不満を顔色や言葉に表すようになった。咸和のはじめ、御史中丞の鍾雅が宗の謀反を弾劾し、庾亮は右衛将軍の趙胤に宗を逮捕させようとした。宗は兵で抵抗し、趙胤に殺された。宗の一門をおとしめて馬氏とし、妻子を晋安に流したが、まもなくこれを赦免した。綽、超、演の三人の子は廃されて庶人となった。咸康年間、宗の一門の属籍(宗室の籍)を回復した。綽は奉車都尉、奉朝請となった。

〔汝陽王煕〕

 煕は最初、汝陽公に封じられた。劉喬討伐に功績をたて、王に昇格した。永嘉の末年、石勒に没した。

楚王瑋

 楚の隠王の瑋は字を彦度といい、武帝の第五子である。最初は始平王に封ぜられ、屯騎校尉を歴任した。太康の末年、封国を楚に移され、〔京師から〕出て就国し、都督荊州諸軍事、平南将軍となり、〔ついで〕鎮南将軍に転じた。武帝が崩じると、〔中央に〕入って衛将軍、領北軍中候となり、侍中を加えられ、行太子少傅となった。
 楊駿が誅殺されたとき、瑋は司馬門(宮城の南門)に駐屯していた。瑋は年少ながら果断で気鋭があり、威刑(人を恐れさせる厳しい刑罰)を示すことが多かったため、朝廷は瑋を憚っていた。汝南王亮と太保の衛瓘は、瑋は凶暴な性格だから大任を負わせるべきではないと思い、建議して諸王といっしょに就国させようとしたため、瑋はこのことにはなはだ憤怒した。長史の公孫宏、舎人の岐盛はともに品行が軽薄であったが、瑋に親任されていた。衛瓘らは二人の人となりを嫌い、禍乱を招くことを憂慮したため、岐盛を捕えようとした。岐盛はこのことを知ると、とうとう公孫宏と謀略を立て、積弩将軍の李肇を通じて瑋の命令だと詐称し11原文「因積弩将軍李肇矯称瑋命」。「楚王の命令だと偽り、李肇に賈后への取次を頼んだ」ということであろう。なお李肇は賈后が楊駿廃位を画策したときの主要な共謀者である(楊駿伝)。、賈后に向かって汝南王と衛瓘のことをそしった。賈后はこの詐計に気づかず、恵帝に詔を作成させた、「太宰(汝南王)と太保(衛瓘)は伊尹や霍光の故事(廃立)を実行するつもりである。王(瑋)はこの詔を宣布し、淮南王(允)、長沙王(乂)、成都王(穎)を宮城の諸門に駐屯させ、二公(汝南王と衛瓘)を廃せ」。夜、黄門に〔その詔を〕持たせて瑋に授けた。瑋は覆奏(返答の奏)しようと思ったが、黄門は、「事が漏洩してしまうかもしれません。〔覆奏は〕密詔の本意ではございません」と言った。そこでようやく瑋は止めた。〔瑋は〕とうとう本軍(瑋がもともと統べている兵)を整え、さらに矯詔を下して三十六軍を召集すると、手令を下して諸軍に告げた、「天は晋室に禍を下し、混乱があいついでいる。近ごろは楊駿の変難があったが、まことに諸君のおかげで禍乱を鎮圧することができた。だが、二公(汝南王と衛瓘)はひそかに不軌をたくらみ、陛下を廃して武帝の祭祀を絶やそうとしている。いま、すみやかに詔(先ほどの密詔のこと)を奉じて、二公の官を免ずる。私はいま、詔を授かって中外の諸軍12領軍将軍(この当時は北軍中候)が管轄する内軍と護軍将軍が管轄する外軍をおそらく指している。なお前文にあるように、瑋は北軍中候を領していた。を都督することになった。およそ、直衛の者13原文「在直衛」。用例を見るかぎり、「宮城や殿中を宿直して警衛する将兵」の意。おそらく内軍を指すと思われるが、明らかではない。はみな厳重に警備をくわえ、外営の者14原文「在外営」。楊駿伝にも「外営」の似たような用例がある。上の「直衛」の解釈が妥当であるならば、「外」というのは宮城外の意味で、外軍を指すか。とすれば、ここで楚王は中央の兵(内軍と外軍)をすべて招集したうえで、宿直当番の兵士はそのまま通常勤務に従事させ、それ以外の兵士は汝南王と衛瓘への攻撃に動員させた、ということになると思われる。はすみやかに〔部下を〕統率し、まっすぐ〔汝南王らの〕府へ向かえ。忠順を助け、反逆を討つのは、天が幸いをもたらすおこないである。褒賞を設定し、封国を創建して、そうして〔諸君が〕忠誠を尽くしてくれるのを期待する。皇天后土、まことにこの言を聞けり15原文「皇天后土、実聞此言」。「この約束を破れば天地が私に罰を下すであろう」「天地に誓ってこの言葉に嘘はない」というニュアンスの決まり文句(だと思われる)。」。また矯詔を下し、汝南王と衛瓘に太宰と太保の印綬、侍中の貂蝉(冠)を返上させ、就国させ、官属はすべて罷免して追放した。さらに矯詔を下し16以下に引かれている詔文の内容からすると、汝南王と衛瓘を府で包囲しているときに宣布したものであろう。、汝南王と衛瓘の官属を赦免して言った、「二公はひそかに〔不軌を〕謀り、社稷を危険に陥れようとしたため、いま、免官して私宅へ帰らせることとする。官属以下はいっさいを不問とする。もしこの詔を遵奉しなければ、すみやかに軍法にもとづいて処分する。部下を連れ、先んじて出て降った者は、侯に封じて褒賞を与える。朕は言ったことを反故にはしない」。とうとう汝南王と衛瓘を捕え、殺した。
 岐盛は瑋に説いて、兵の勢いに乗じて賈模と郭彰を誅殺し、王室を正し、そうして天下を安寧にするべきだと述べた。瑋はためらって決断できなかった。ちょうど夜が明けると、恵帝は張華の計略を採用し、殿中将軍の王宮をつかわし、騶虞幡17信幡、すなわち使者の身分を証明する旗。晋代では天子の使者であることを証明する用途で用いられた。王隠『晋書』の佚文は「白虎幡」に作っており、また崔豹『古今注』には晋代の信幡として白虎幡のみが挙げられているから、本来の名称は「白虎幡」であった可能性が高い。唐修『晋書』は唐の李虎の諱を避けて「騶虞幡」あるいは「白獣幡」と表記したものと考えられる。詳しい考察は訳者のブログ記事「【考察】晋朝の騶虞幡、白虎幡」を参照。を持たせ、兵に向かって〔騶虞幡を〕振りまわさせ、「楚王は詔を詐称している」と言わせた。兵はみな武器を捨てて逃げた。瑋の左右には誰もおらず、〔瑋は〕窮地に陥ってどうしてよいかわからなかったが、十四歳の奴が一人だけ残っており、〔瑋は奴に〕牛車を御させ、秦王柬(楚王の異母兄弟)のもとへ行こうとした。恵帝は謁者をつかわして、瑋に詔を下して〔瑋の〕営へ帰らせると、〔ついで〕瑋を武賁署(虎賁署)で捕え、そのまま廷尉に下した。詔を下し、瑋は制(詔)を詐称して二公父子を殺し、また朝臣を誅殺して、不軌を謀ろうとしたことを理由に、とうとう瑋を斬った。享年二十一。その日(瑋を斬る日)は大風で、雷雨が轟いていた。詔を下した、「周公が二叔(管叔と蔡叔)を誅殺する判決を下し、漢の武帝が昭平君の罪を論決したのは、やむをえない処置であった。廷尉の奏によれば、瑋はすでに法に服した(斬られた)という。このために心は悲痛に沈んでいる。挙哀(哀悼儀礼の実行)することにしたい」。瑋は死に臨んで、ふところから青紙の詔(黄門が持ってきたあの密詔を指す)を取り出し、涙を流して監刑尚書の劉頌に見せ、言った、「詔を授かって行動したのだ。社稷のためだと思ってやったのに、いまは改まって罪になってしまった。〔しかし、死んで地下の〕先帝(武帝)のもとへ身を寄せれば、このような濡れ衣を着せられましたと、幸いにも無実を訴える機会を与えてくださるだろう」。劉頌もすすり泣き、仰ぎ見ることができなかった。公孫宏と岐盛はどちらも夷三族とされた。
 瑋は心が明るく、他人への施しを好み、人心を得ていたため、このとき(死んだとき)になって涙を流さない者はおらず、百姓は瑋のために祠を立てた。賈后は、当初は衛瓘と汝南王を嫌っていたが、さらに瑋も忌むようになったので、計略を駆使してあいついで瑋らを誅殺したのである。永寧元年、〔瑋に〕驃騎将軍を追贈し、子の範を襄陽王に封じ、散騎常侍に任じた。のちに石勒に殺された。

八王伝系図汝南王亮(附:粋・矩・羕・宗・煕・祐)・楚王瑋趙王倫斉王冏(附:鄭方)長沙王乂・成都王穎河間王顒・東海王越

(2021/1/1:公開)

  • 1
    武帝紀などによると、胡烈は万斛堆という地で殺されたらしいが、『資治通鑑』胡三省注によると、万斛堆は高平にあったそうである。おそらく胡烈軍は万斛堆にこもっていたのであろう。
  • 2
    原文「加侍中之服」。侍中に任命するわけではなく、侍中を加官するわけでもないが、侍中相当の礼遇を恩典として賜与する、という意味か。類例は散見しており、たとえば『宋書』礼志五に「晋武帝泰始三年、詔太宰安平王孚服侍中之服、賜大司馬義陽王望袞冕之服。四年、又詔趙、楽安、燕王服散騎常侍之服。十年、賜彭城王袞冕之服」とある。
  • 3
    事を行うのに守るべき規範や道理。(『漢辞海』)
  • 4
    鐘を吊るした打楽器。三面に吊るした形状のものを「軒懸」(軒県)といい、諸侯に許された仕様である。『周礼』春官、小胥に「正楽県之位。王宮県、諸侯軒県」とあり、鄭玄注に「楽県、謂鍾磬之属、県於筍簴者。鄭司農云、宮県四面県。軒県去其一面。……玄謂、軒県去南面、辟王也」とある。
  • 5
    「佾」は舞の列のこと。天子は八佾(八人八列)、諸侯は六佾(六人六列)であった。なお軒懸と六佾は魏の武帝や晋の文帝が賜与された九錫のひとつである。なので、この礼遇はおそらく殊礼とみなせるであろう。
  • 6
    おそらく宮城南面の門のこと。『資治通鑑』胡三省注は大司馬府の門と解しているが、そういう狭い意味ではないと思う。『資治通鑑』胡三省注が正しく、大司馬府の門と考えたほうがよい。(2021/3/31:注訂正)
  • 7
    「二南」は『毛詩』の周南と召南のこと。『毛詩』周南、関雎の詩序に「然則関雎麟趾之化、王者之風、故繋之周公。南、言化自北而南也。鵲巢騶虞之徳、諸侯之風也、先王之所以教、故繋之召公。周南召南、正始之道、王化之基」とあり、「王者之風」と「諸公之風」を詠った「王化之基」であるという。
  • 8
    原文「好立威」。楚王瑋伝は「多立威刑」。「立威」の用例を見ると、おもに刑罰を用いて「立威」するケースが多い。刑罰や暴力などを通して人を恐れさせて屈服し、そうしたみずからのさまを誇示するのを好んだということであろう。『資治通鑑』は「好殺」と記すが、やや読み過ぎの感も否めない。
  • 9
    暴力的な振る舞いが目立つので武力を奪おうとしたということであろう。
  • 10
    詳しい意味はきちんと把握できていないが、簡潔に言うと特別な葬具のこと。『後漢書』の李賢注などを参照するかぎり、「東園」は漢代に少府に属していた官署の名称で、棺の作成を主管していた。したがって、「東園秘器」は棺を指すものと思われる(葬儀に使う道具のことをはばかって「秘器」と呼ぶのだという)。「温明」も漢代の東園が作成していた葬具であるという。『漢書』霍光伝に「光薨、……賜……東園温明」とあり、顔師古注に「服虔曰、『東園処此器、形如方漆桶、開一面、漆画之、以鏡置其中、以懸屍上、大斂并蓋之』。師古曰、『東園、署名也、属少府。其署主作此器也』」とある。
  • 11
    原文「因積弩将軍李肇矯称瑋命」。「楚王の命令だと偽り、李肇に賈后への取次を頼んだ」ということであろう。なお李肇は賈后が楊駿廃位を画策したときの主要な共謀者である(楊駿伝)。
  • 12
    領軍将軍(この当時は北軍中候)が管轄する内軍と護軍将軍が管轄する外軍をおそらく指している。なお前文にあるように、瑋は北軍中候を領していた。
  • 13
    原文「在直衛」。用例を見るかぎり、「宮城や殿中を宿直して警衛する将兵」の意。おそらく内軍を指すと思われるが、明らかではない。
  • 14
    原文「在外営」。楊駿伝にも「外営」の似たような用例がある。上の「直衛」の解釈が妥当であるならば、「外」というのは宮城外の意味で、外軍を指すか。とすれば、ここで楚王は中央の兵(内軍と外軍)をすべて招集したうえで、宿直当番の兵士はそのまま通常勤務に従事させ、それ以外の兵士は汝南王と衛瓘への攻撃に動員させた、ということになると思われる。
  • 15
    原文「皇天后土、実聞此言」。「この約束を破れば天地が私に罰を下すであろう」「天地に誓ってこの言葉に嘘はない」というニュアンスの決まり文句(だと思われる)。
  • 16
    以下に引かれている詔文の内容からすると、汝南王と衛瓘を府で包囲しているときに宣布したものであろう。
  • 17
    信幡、すなわち使者の身分を証明する旗。晋代では天子の使者であることを証明する用途で用いられた。王隠『晋書』の佚文は「白虎幡」に作っており、また崔豹『古今注』には晋代の信幡として白虎幡のみが挙げられているから、本来の名称は「白虎幡」であった可能性が高い。唐修『晋書』は唐の李虎の諱を避けて「騶虞幡」あるいは「白獣幡」と表記したものと考えられる。詳しい考察は訳者のブログ記事「【考察】晋朝の騶虞幡、白虎幡」を参照。
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