巻四 帝紀第四 恵帝(2)

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系図武帝(1)武帝(2)武帝(3)恵帝(1)恵帝(2)懐帝愍帝東晋

 永興元年春正月丙午、尚書令の楽広が卒した。成都王穎が鄴から恵帝に遠回しに言って求めたので、大赦し、永安に改元した。恵帝は河間王顒から圧迫を受けていたので、〔それを打破しようと〕密詔を下し、雍州刺史の劉沈、秦州刺史の皇甫重に河間王を討伐させた。劉沈は挙兵して長安を攻めたが、河間王に敗れた。張方は洛陽城中でおおいに掠奪し、長安に戻った。こうして〔洛陽の〕軍はおおいに飢え、人同士が食いあった1原文「人相食」。「人」は「民」と同義。「相食」は文字どおりに取れば「共食い」のことだが、実際にそうしていたというより、食べ物がなくておおいに飢えている状態の比喩として一般的に用いられる表現である。『漢書』(ちくま文庫)『三国志』(ちくま文庫)『隋書』(勉誠出版)などでも「食いあう」「互いに喰らいあう」などと訳出されているのをふまえ、訳文のようにした。(2022/2/10:注追加)。成都王を丞相とした。成都王は従事中郎の成夔らを派遣し、五万の軍を洛陽城の十二の門に駐屯させた。殿中の諸将で〔成都王が〕以前から嫌っていた者はすべて殺し、三部司馬の兵に〔殿中の〕宿衛の仕事を代行させた2原文「以三部兵代宿衛」。「三部兵」は三部司馬で解した。これまた推測だが、三部司馬は天子の警衛(ボディーガード)が主で、殿中の警護は業務外だったのかもしれない。なお、成都王穎伝には「表罷宿衛兵属相府、更以王官宿衛(〔成都王は〕上表し、〔現在の〕宿衛兵を廃し、〔その兵士らを〕丞相府の所属とさせ、代わりに王官に〔殿中を〕宿衛させた)」とある。
 二月乙酉、皇后の羊氏を廃し、金墉城に幽閉した。皇太子の覃を廃し、清河王に戻した。
 三月、陳敏が石氷を攻め、これを斬ったので、揚州と徐州は平定された。
 河間王顒は上表し、成都王穎を皇太弟に立てるよう求めた。戊申、詔を下した、「朕は不徳の身をもって、帝業を受け継ぎ、今年で十五年になる。禍が天下にあふれ、悪人があいついで現れ、ついには〔位を〕廃されて奥の宮殿(金墉城)に幽閉され、宗廟が途絶える事態(愍懐太子の死?)にまでいたった。成都王穎は温和で仁愛をそなえ、混乱を鎮圧した。そこで、穎を皇太弟、都督中外諸軍事とし、丞相はもとのとおりとする」。大赦し、配偶者がいない高齢の男女と老人に帛を三匹賜い、五日間の酒盛りを下賜した。丙辰、盗賊が太廟の衣服や器物を盗んだ。太尉の河間王顒を太宰とし、太傅の劉寔を太尉とした。
 六月、新しく三つの城門を建てた。
 秋七月丙申朔、右衛将軍の陳眕が、詔にもとづいて百官を召集して殿中に入り、そうして軍を統率して成都王穎を討伐した。戊戌、大赦し、皇后の羊氏と皇太子の覃を回復した。己亥、司徒の王戎、東海王越、高密王簡、平昌公模、呉王晏、豫章王熾、襄陽王範、尚書右僕射の荀藩らが恵帝を奉じて北征した。安陽に到着したとき、軍は十余万にのぼった。成都王は将の石超を派遣して防戦させた。己未、王師は蕩陰で敗北し、矢は恵帝の車にまで届き、百官は逃げて散り散りになり、侍中の嵆紹が戦死した。恵帝は頰に負傷し、三本の矢が当たり3恵帝自身が矢で負傷したということらしい。『水経注』巻九、蕩水注に引く「盧綝四王起事」に「恵帝征成都王穎、戦敗時、挙輦司馬八人、輦猶在肩上、軍人競就殺挙輦者、乗輿頓地、帝傷三矢、百僚奔散、唯侍中嵆紹扶帝。士将兵之、帝曰、『吾吏也、勿害之』。衆曰、『受太弟命、惟不犯陛下一人耳』。遂斬之、血汚帝袂。将洗之、帝曰、『嵆侍中血、勿洗也』」とある。ついでにこの記述にもとづけば、恵帝がこのときに乗っていた車は人が肩にかつぐタイプのものであったようである。、六璽を紛失した。恵帝はとうとう石超の軍に行幸した。〔恵帝は〕飢えがひどかったので、石超は水を献じ、左右の者は秋桃を奉じた。石超は弟の石熙を派遣し、恵帝を奉じさせて鄴へ行かせ、〔その道中で〕成都王は群官を従えて道の左で出迎え、謁見した。恵帝は車を降りて涙を流した。その日の夕方、成都王の軍へ行幸した。成都王の府には九錫の礼物がそなわっていた4成都王穎伝によれば、成都王はこれ以前に二度、九錫を賜わっているものの、二度とも辞退しており、以降、九錫授与の文言は見えない。成都王が皇太弟に立てられたとき、同時に「制度一依魏武故事」とされているが、あるいはこれが九錫のことを指しているのかもしれない。。〔一方で日用品に事欠く恵帝には〕陳留王(曹魏の元帝)が貂蝉の冠(侍臣がかぶる冠)、錦の文衣(宿衛兵の衣服)、鶡(ヤマドリ)の尾の冠(宿衛兵がかぶる冠)を送った5原文「穎府有九錫之儀、陳留王送貂蝉文衣鶡尾」。よくわからない。とりあえず訳文のように「まるで恵帝が成都王の侍臣であるかのようであった」という意味に解しておく。。翌日になって、〔恵帝は〕車を整備して鄴へ行幸し、豫章王熾、司徒の王戎、尚書僕射の荀藩だけが付き従った。庚申、大赦し、建武に改元した。
 八月戊辰、成都王穎は東安王繇を殺した。張方がふたたび洛陽に入り、皇后の羊氏と皇太子の覃を廃した。匈奴の左賢王の劉元海が離石でそむき、大単于を自称した。安北将軍の王浚が烏丸騎を派遣し、成都王穎を鄴で攻めさせると、成都王をおおいに破った。成都王は恵帝とともに、車一台で洛陽に敗走した。恵帝の衣服は散乱してしまい、慌ただしかったため貴賤ともども何も携帯していなかった。侍中や黄門が衣類用の袋に私錢三千を入れていたので、詔を下し、〔それを〕借りて使用した。恵帝が滞在する場所では、〔現地で〕食事を購入して〔恵帝に〕献じ、宮人は道中の宿泊所に泊まって食事をとった。ある宮人は、一升余の不良米の飯、乾燥させた大蒜(にんにく)、鹽豉(豆を発酵させたもの)を持参し、恵帝に献じたが、恵帝はそれを食べた。〔また夜は〕中黄門の粗末な体かけをかぶった6原文「御中黄門布被」。よく読めない。。獲嘉に到着すると、精白していない米の飯を購入し、素焼きのはちに盛りつけられたが、恵帝は二杯食べた。ある老父が蒸し鷄を献じてきたので、恵帝はそれを受け取った。温に到着すると、先帝の陵を参拝しようとしたが、恵帝は靴を失くしていたため、従者の靴をはいて、車を降りて参拝し、涙を落とした。左右の者もみなすすり泣いた。黄河を渡ると、張方が騎兵三千を率いてきて、陽燧青蓋車(不詳)で恵帝を奉じ、迎えた。張方は〔恵帝に〕拝謁したが、恵帝はみずからこれをやめさせた。辛巳、大赦し、従者に褒賞を賜与し、おのおの格差があった。
 冬十一月乙未、張方は太廟に参拝して報告するよう恵帝に求め、その機会を利用して恵帝を拉致し、長安に行幸させようとした。〔恵帝が張方の要請を聴き入れなかったので、〕張方は乗っている車で殿中に入った。恵帝は馬ですばやく逃げ、〔殿の〕後方にある禁苑の竹林に避難したが、張方は恵帝を〔見つけると〕車に無理やり乗せた。左右には中黄門や鼓吹など十二人が徒歩で従い、中書監の盧志だけが〔恵帝の〕隣りに侍った。張方が恵帝を自分の軍塁に行幸させようとしたので、恵帝は張方に対し、車を準備して〔それに〕宮人や宝物を載せるよう命じたが、〔その命を受けた〕軍人は便乗して後宮の人々を拉致して妻にしてしまい、官府の所蔵物を争って分配した。魏晋以来の蓄積は、すっかりなくなってしまったのである。〔恵帝は〕新安に向かい、駐留した。寒さがひどく、恵帝は落馬して足を負傷した。尚書の高光が面衣(顔をおおう薄絹)を献じると、恵帝はこれを嘉した。河間王顒は官属と歩騎三万を率い、覇上で〔恵帝を〕迎えた。河間王は面前で拝謁したが、恵帝は車を下りてやめさせた。征西将軍府を宮殿とした。尚書僕射の荀藩、司隷校尉の劉暾、太常の鄭球、河南尹の周馥と、それらの官府で残っている人員7原文「其遺官」。よくわからない。だけが洛陽におり、〔それらの官を〕留台8皇帝が都から離れているあいだ、都に留まってもろもろ処理する尚書台。という意味であるらしい。知識が不足しているため、この場合は誰が最高決定者なのかがわからないが、可能性が高そうなのは尚書僕射の荀藩であろうか。とし、承制9皇帝の意向を受けて臨時に政務を代行することを言う。(謂秉承皇帝旨意而便宜行事。)(『漢語大詞典』)させて政治を運用させ、東西台と号した10胡三省によれば「洛陽為東台、長安為西台」という(『資治通鑑』巻八五、永興元年十一月の条の注)。。丙午、留台が大赦を下し、ふたたび永安に改元した。辛丑、皇后に羊氏を回復した。李雄が成都王を僭称し、劉元海が漢王を僭称した。
 十二月丁亥、詔を下した、「天は晋邦に禍を下し、後継者になれる冢嗣11正妻の長男で跡継ぎの者。(『漢辞海』)がいない。成都王穎はみずから後継ぎの地位に就いたが、政治の成績は不十分で、天下は失望しており、重責を荷うことはできないだろう。そこで、王を私宅に帰すこととする12この詔書は「成都王穎」「以王還第」と、穎を成都王と呼称しており、帝紀も同様に皇太弟に立って以降も「成都王」と記している。詳しくはわからないが、「皇太弟になる」ということは「成都王家を出る」という意味のはずであって、本来は「成都王」と呼ぶのは不適切な気もするが、どうなのであろうか。「以王還第」というのは、あるいは「成都王に戻して私宅に帰す」という意味なのかもしれない。。豫章王熾は先帝が寵愛していた子で、名声は日々高まり、天下が注目している者である。そこでいま、〔豫章王を〕皇太弟とし、そうしてわが晋邦を盛り立てたい。司空の越(東海王)を太傅とするので、太宰の顒(河間王)とともに朕の身を輔弼せよ。司徒の王戎は朝政を参録せよ13原文「参録朝政」。朝政を統括するということであろうか。。光禄大夫の王衍を尚書左僕射とする。安南将軍の虓(范陽王)、安北将軍の王浚、平北将軍の騰(東嬴公)は、おのおの本鎮を守備せよ14范陽王は都督豫州諸軍事(許昌)、王浚は都督幽州諸軍事、東嬴公は都督并州諸軍事。。高密王簡を鎮南将軍、領司隷校尉とし、一時的に洛陽に出鎮させる。東中郎将の模(平昌公)を寧北将軍、都督冀州諸軍事とし、鄴に出鎮させる。鎮南大将軍の劉弘を領荊州刺史とし、南の地域を治めさせる。周馥、繆胤はそれぞれ本来の部署に戻れ15周馥は上文にもあるように、この当時は河南尹(周浚伝附馥伝)。留台から離れて河南尹の仕事に専念するようにとのことか。繆胤は繆播伝に附伝があり、それによれば、彼は成都王に従っていたようである。成都王が洛陽へ敗走したさい、徐州の東海王のもとへ逃げた。東海王から南陽太守を授けられたので、南陽へ向かったが、前太守に拒否されて南陽に入れず、洛陽に入ったという。詔の指示はおそらくこのころのことを言っているのだろう。。〔そのほか〕百官はみな職務に戻れ。斉王冏は過日、私宅に帰すのが適当な処罰であったのに、長沙王乂は軽率にも重刑に陥れた。そこで斉王の子の紹を楽平県王に封じ、斉王の後を継がせる。このごろ、軍隊がしばしば戦争を起こし、民力を消耗させているので、供御の物(皇帝への献上物?)はすべて三分の二を減らし、戸調と田租は三分の一を減らす。法に厳しい政治を取り除き、民をいつくしんで根本を重んじるように。世が太平になったら、東京(洛陽)に帰還しよう」。大赦し、改元した。河間王顒を都督中外諸軍事とした。

 永興二年春正月甲午朔、恵帝は長安にいた。
 夏四月、詔を下し、楽平王紹を斉王に封じた。丙子、張方が皇后の羊氏を廃した。
 六月甲子、侍中、司徒、安豊侯の王戎が薨じた。隴西太守の韓稚が秦州刺史の張輔を攻め、これを殺した。李雄が僭越して帝位につき、国号を蜀とした。
 秋七月甲午、尚書の諸曹で火事があり、崇礼闥を焼いた。東海王越が徐州の方面で軍を整え、西に進んで恵帝を迎えようとした。成都王穎の部将の公師藩らが人を集めて郡県を攻め落とし、陽平太守の李志、汲郡太守の張延らを殺し、転進して鄴を攻めた。平昌公模が将軍の趙驤を派遣し、公師藩らを撃破させた。
 八月辛丑、大赦した。驃騎将軍の范陽王虓が冀州刺史の李義を追い出した16宗室伝・范陽康王綏伝附虓伝によれば、東海王は挙兵後、范陽王を領豫州刺史、都督河北諸軍事としている。このことが関連しているのかもしれないが、李義に関連する記録は残されていない。銭大昕は、范陽王がのちに領冀州刺史となったさいに(あとの注で詳述)李義を放逐したのだろうと推測し、記事の配列が誤っている可能性を指摘している(『廿二史考異』巻一八)。しかし劉琨伝に「劉琨は冀州刺史の温羨を説得して、〔刺史の〕位を范陽王に譲渡させた(琨乃説冀州刺史温羨、使譲位于虓)」とあり、范陽王が冀州刺史を領するまえの刺史は李義ではない。
 また、東海王が范陽王を領豫州刺史にしたさい、現任の豫州刺史であった劉喬を冀州刺史に転任させている(劉喬伝)。劉喬はこの人事を承服しなかったが、范陽王が現任の冀州刺史を放逐したのは、東海王の人事を実現させるためだったのではないか。
 東海王のこの人事をきっかけに、劉喬と東海王らは対立を深め、やがて東海王・范陽王グループと河間王・劉喬グループの抗争に発展してゆくのだが、劉喬が冀州刺史につこうとしなかったため、かわりに温羨が刺史につけられていたという次第なのかもしれない。なお温羨伝には刺史就任の経緯は記述されていない。
。揚州刺史の曹武が丹陽太守の朱建を殺した。李雄が将の李驤を派遣し、漢安を侵略させた。車騎大将軍の劉弘が平南将軍の彭城王釈を宛から追い出した17詳しい経緯は不明。『資治通鑑考異』はこの記事の信憑性に疑念を表している。
 九月庚寅朔、公師藩がさらに、平原太守の王景、清河太守の馮熊を殺した。庚子、豫州刺史の劉喬が范陽王虓を許昌で攻め、これを破った。壬子、成都王穎を鎮軍大将軍、都督河北諸軍事とし、鄴に出鎮させた18成都王は恵帝とともに洛陽に逃れたあと、恵帝が長安に連行されると、成都王もそれについていって長安に在留していた。。河間王顒は将軍の呂朗を派遣し、洛陽に駐屯させた。
 冬十月丙子、詔を下した、「豫州刺史の劉喬の檄文によれば、潁川太守の劉輿が驃騎将軍の虓(范陽王)を脅迫し、詔命(王言)に逆らい、悪逆をたくらみ、郡県をほしいままに掠奪し、兵を集め、かってに苟晞を兗州刺史に任命し、王命を断っているとのことである。鎮南大将軍、荊州刺史の劉弘、平南将軍の彭城王釈らは、それぞれ麾下の軍を率い、許昌に直行して集合し、劉喬と力を合わせよ。いま、右将軍の張方を派遣して大都督とし、精兵十万を統率させ、建武将軍の呂朗、広武将軍の騫貙、建威将軍の刁黙らを〔その〕先鋒とする。みな許昌に集合し、劉輿兄弟(劉輿と劉琨)を排除せよ」。丁丑、まえの車騎将軍の石超、北中郎将の王闡に劉輿らを討伐させた。赤い気が北の方角に現れ、東西にわたって天の端まで伸びた。彗星が北斗で光った。平昌公模が将軍の宋冑らを派遣して河橋に駐屯させた。
 十一月、立節将軍の周権が檄文を受け取ったと詐称して、平西将軍を自称し、皇后に羊氏を回復した。洛陽令の何喬が周権を攻め、これを殺し、ふたたび皇后〔の羊氏〕を廃した。
 十二月、呂朗らは東に進んで滎陽に駐屯し、成都王穎は〔長安から〕進んで洛陽に駐留したが、張方、劉弘らはともに兵を動かさなかったので、〔范陽王らの進撃を〕防げなかった。范陽王虓は官渡から黄河を渡り19范陽王は九月に許昌で劉喬に破れたあと、黄河を北に渡り、領冀州刺史となって、冀州で兵を調達してから南に戻ったとされる。宗室伝・范陽康王綏伝附虓伝を参照。とすれば、ここで官渡から黄河を渡り、滎陽に進むというルートはやや不自然に思われる。『資治通鑑』は「引兵済河、斬石超於滎陽」と、官渡を省いている。、滎陽を落とし、石超を斬り、許昌を襲撃し、劉喬を蕭で破った。劉喬は南陽へ敗走した。右将軍の陳敏が挙兵してそむき、楚公を自称し、中詔20〔尚書などを経由せずに〕宮中から直接発出された皇帝直筆の詔。(宮中直接発出的帝王親筆詔令。)(『漢語大詞典』)を受け取ったと詐称し、沔漢の地(荊州北部)から天子を奉迎すると言いふらした。〔また〕揚州刺史の劉機、丹陽太守の王曠を追いはらい、弟の陳恢を派遣して南に進ませ、江州を侵略させた。江州刺史の応邈は弋陽に敗走した。

 光煕元年春正月戊子朔、日蝕があった。恵帝は長安にいた。河間王顒は、劉喬の敗北を知ると、おおいに憂慮し、とうとう張方を殺し、東海王越に和睦を求めたが、東海王は受け入れなかった。宋冑らが成都王穎の将の楼裒を破り、進軍して洛陽に迫ったため、成都王は長安へ逃げた。
 甲子、東海王越は将の祁弘、宋冑、司馬纂らを派遣し、恵帝を迎えさせた。
 三月、東莱の㡉令の劉柏根がそむき、㡉公を自称し、臨淄を襲撃したので、高密王簡は聊城へ逃げた。王浚は将を派遣して劉柏根を討伐させ、これを斬った。
 夏四月己巳、東海王越は温に駐屯した。河間王顒は弘農太守の彭随、北地太守の刁黙を派遣し、湖(弘農の属県)で祁弘らを防がせた。
 五月、流星が西南へ流れた。范陽国で地面が燃え、炊飯できるほどであった。
 壬辰、祁弘らが刁黙と戦った。刁黙は大敗し、河間王顒と成都王穎は南山へ敗走し、宛へ逃げた。祁弘らが指揮する鮮卑が長安をおおいに掠奪し、二万余人を殺した。この日、太陽の光が四散し、血のように赤かった。甲午の日もこのようであった。
 己亥、祁弘らは恵帝を奉じて洛陽へ帰った。恵帝は牛車に乗り、行宮は草を敷いた所で、公卿は困難な道中をともにした。戊申、驃騎将軍の范陽王虓が司隷校尉の邢喬を殺した。己酉、盗賊が太廟の金匱と策書それぞれ四つを奪った。
 六月丙辰朔、〔恵帝は〕長安から〔洛陽に〕到着し、旧来の宮殿に登ると、悲しんで涙を流した。太廟に参拝した。皇后に羊氏を回復した。辛未、大赦し、改元した。
 秋七月乙酉朔、日蝕があった。太廟の吏の賈苞が太廟の霊衣と剣を盗んだため、誅殺された。
 八月、太傅の東海王越を録尚書とし、驃騎将軍の范陽王虓を司空とした。
 九月、頓丘太守の馮嵩が成都王穎を捕え、鄴に送った。東嬴公騰を東燕王に昇格させ、平昌公模を南陽王に昇格させた。
 冬十月、司空の范陽王虓が薨じた。范陽王の長史の劉輿が成都王穎を殺した。
 十一月庚午、恵帝が顕陽殿で崩じた。享年四十八。太陽陵に埋葬された。
 恵帝が皇太子となったとき、朝廷の人士はみな、〔恵帝は〕政務をこなせないと気づいており、武帝も疑念を抱いていた。あるとき、〔武帝は〕東宮の官属を全員召集し、〔そのうえで〕尚書の奏事を恵帝に決裁させたが、恵帝は返答を作成できなかった。賈后は左右の者をつかわし、代わりに返答を作成させたが、古典の内容を多く引用していた。給事の張泓は、「太子に学がないことは陛下も知っています。出来事を根拠にして決定するのがよいでしょう。書物を引いてはなりません」と言った。賈后はその意見に従った。そこで張泓が草稿を用意し、恵帝にそれを清書させた。武帝はその文書を見ておおいに喜び、太子はとうとう定まったのである21このエピソード、やや違和感がある。これは武帝が、恵帝が皇帝の日常業務、すなわち「尚書事」の「決」がこなせるかテストしたという話になっているが、その業務の過程に下達文書の作成が含まれていることになっている。しかし、皇帝の下達文書の文案を作成するのは、基本的には中書に委ねられており、皇帝は協議することはあっても、直接文章の作成にかかわる機会は少なかったのではないか。そのような業務の煩を嫌って中書のような官を設けているわけなのだから。尚書からの奏にはすでに施行要請が含まれているのだから、採用する場合は「可」のみでよいし、疑義がある場合はやはり中書と協議して文書を作成し、尚書(あるいは門下)に付したと考えられる。あくまで特別なテストということで、文書の作成まで恵帝におこなわせたということなのかもしれないが、ややひっかかりを覚える逸話である。。帝位につくと、政令は下々の者たちから出され、秩序はおおいに乱れ、賄賂が公然とおこなわれるようになり、権勢と高位を有する家は、高貴を鼻にかけて他人を見下すようになった。忠誠賢良の者たちが進むべき道は途絶え、讒言を好む邪悪な者が志を遂げ、〔邪悪な者たちは〕たがいに推薦しあったので、世はこれを互市と呼んでいた。高平の王沈は『釈時論』を著し、南陽の魯褒は『銭神論』を書き、盧江の杜嵩は『任子春秋』をものしたが、どれも時世に怒りをぶつけた著作である。またあるとき、恵帝が華林園でガマガエルの声を耳にすると、「いま鳴いているのは官だろうか、それとも私だろうか(朝廷に出仕しているカエルなのだろうか、野生のカエルなのだろうか)」と左右の者にたずねたので、ある者が「官有地におれば官ですし、私有地におれば私です」と答えた22恵帝の言葉の原文は「此鳴者為官乎、為私乎」。しばしば、「為」を「ために」で読み、「官のために鳴いているのだろうか、私事のために鳴いているのだろうか」とする訳を見かけるが、その訳・訓読にはやや疑問を覚える。かりに主語が人間であったら、「為官」以下は、「官人であろうか、私人であろうか」と読むのではないか。そのまま訳出し、括弧にかみくだいた訳を補っておいた。なお『太平御覧』巻四九九、真愚に引く「王隠晋書」に「讖書有蝦蟆当貴。恵帝在宮時、出問左右、『此鳴是官蝦蟆、為私乎』。賈胤対曰、『在官地中為官蝦蟆、在私地中為私蝦蟆』。於是、世間遂伝此語」とあり、『水経注』巻一六、穀水の注に引く「晋中州記」に「惠帝為太子、出聞蝦蟇声、問人為是官蝦蟇、私蝦蟇。侍臣賈胤対曰、『在官地為官蝦蟇、在私地為私蝦蟇』。令曰、『若官蝦蟇、可給廩』。先是有讖云、『蝦蟇当貴』」とあり、やはり「官ガエル」と読むのが適当であるように思う。
 しかし、恵帝のこの逸話は詩的というかジョークというか、そういう類いな感じで、愚昧ぶりを示す逸話には個人的には思えないが……。と考えたが、「官ガエルならエサをやれ」という令はなかなか普通ではないですね、やはり。
。天下が混乱すると、百姓が餓死するようになったので、恵帝は「なぜ肉粥(肉入りの粥)を食べないのだろう」と話した。恵帝の蒙昧ぶりはこのようであった。のち、恵帝は餅(麦や米を練ってつくった食物)を食べて毒にあたり、崩じた。東海王の毒殺とも言われている。

 史臣曰く、(以下略)

系図武帝(1)武帝(2)武帝(3)恵帝(1)恵帝(2)懐帝愍帝東晋

(2020/2/22:公開)
(2021/9/15:改訂)

  • 1
    原文「人相食」。「人」は「民」と同義。「相食」は文字どおりに取れば「共食い」のことだが、実際にそうしていたというより、食べ物がなくておおいに飢えている状態の比喩として一般的に用いられる表現である。『漢書』(ちくま文庫)『三国志』(ちくま文庫)『隋書』(勉誠出版)などでも「食いあう」「互いに喰らいあう」などと訳出されているのをふまえ、訳文のようにした。(2022/2/10:注追加)
  • 2
    原文「以三部兵代宿衛」。「三部兵」は三部司馬で解した。これまた推測だが、三部司馬は天子の警衛(ボディーガード)が主で、殿中の警護は業務外だったのかもしれない。なお、成都王穎伝には「表罷宿衛兵属相府、更以王官宿衛(〔成都王は〕上表し、〔現在の〕宿衛兵を廃し、〔その兵士らを〕丞相府の所属とさせ、代わりに王官に〔殿中を〕宿衛させた)」とある。
  • 3
    恵帝自身が矢で負傷したということらしい。『水経注』巻九、蕩水注に引く「盧綝四王起事」に「恵帝征成都王穎、戦敗時、挙輦司馬八人、輦猶在肩上、軍人競就殺挙輦者、乗輿頓地、帝傷三矢、百僚奔散、唯侍中嵆紹扶帝。士将兵之、帝曰、『吾吏也、勿害之』。衆曰、『受太弟命、惟不犯陛下一人耳』。遂斬之、血汚帝袂。将洗之、帝曰、『嵆侍中血、勿洗也』」とある。ついでにこの記述にもとづけば、恵帝がこのときに乗っていた車は人が肩にかつぐタイプのものであったようである。
  • 4
    成都王穎伝によれば、成都王はこれ以前に二度、九錫を賜わっているものの、二度とも辞退しており、以降、九錫授与の文言は見えない。成都王が皇太弟に立てられたとき、同時に「制度一依魏武故事」とされているが、あるいはこれが九錫のことを指しているのかもしれない。
  • 5
    原文「穎府有九錫之儀、陳留王送貂蝉文衣鶡尾」。よくわからない。とりあえず訳文のように「まるで恵帝が成都王の侍臣であるかのようであった」という意味に解しておく。
  • 6
    原文「御中黄門布被」。よく読めない。
  • 7
    原文「其遺官」。よくわからない。
  • 8
    皇帝が都から離れているあいだ、都に留まってもろもろ処理する尚書台。という意味であるらしい。知識が不足しているため、この場合は誰が最高決定者なのかがわからないが、可能性が高そうなのは尚書僕射の荀藩であろうか。
  • 9
    皇帝の意向を受けて臨時に政務を代行することを言う。(謂秉承皇帝旨意而便宜行事。)(『漢語大詞典』)
  • 10
    胡三省によれば「洛陽為東台、長安為西台」という(『資治通鑑』巻八五、永興元年十一月の条の注)。
  • 11
    正妻の長男で跡継ぎの者。(『漢辞海』)
  • 12
    この詔書は「成都王穎」「以王還第」と、穎を成都王と呼称しており、帝紀も同様に皇太弟に立って以降も「成都王」と記している。詳しくはわからないが、「皇太弟になる」ということは「成都王家を出る」という意味のはずであって、本来は「成都王」と呼ぶのは不適切な気もするが、どうなのであろうか。「以王還第」というのは、あるいは「成都王に戻して私宅に帰す」という意味なのかもしれない。
  • 13
    原文「参録朝政」。朝政を統括するということであろうか。
  • 14
    范陽王は都督豫州諸軍事(許昌)、王浚は都督幽州諸軍事、東嬴公は都督并州諸軍事。
  • 15
    周馥は上文にもあるように、この当時は河南尹(周浚伝附馥伝)。留台から離れて河南尹の仕事に専念するようにとのことか。繆胤は繆播伝に附伝があり、それによれば、彼は成都王に従っていたようである。成都王が洛陽へ敗走したさい、徐州の東海王のもとへ逃げた。東海王から南陽太守を授けられたので、南陽へ向かったが、前太守に拒否されて南陽に入れず、洛陽に入ったという。詔の指示はおそらくこのころのことを言っているのだろう。
  • 16
    宗室伝・范陽康王綏伝附虓伝によれば、東海王は挙兵後、范陽王を領豫州刺史、都督河北諸軍事としている。このことが関連しているのかもしれないが、李義に関連する記録は残されていない。銭大昕は、范陽王がのちに領冀州刺史となったさいに(あとの注で詳述)李義を放逐したのだろうと推測し、記事の配列が誤っている可能性を指摘している(『廿二史考異』巻一八)。しかし劉琨伝に「劉琨は冀州刺史の温羨を説得して、〔刺史の〕位を范陽王に譲渡させた(琨乃説冀州刺史温羨、使譲位于虓)」とあり、范陽王が冀州刺史を領するまえの刺史は李義ではない。
     また、東海王が范陽王を領豫州刺史にしたさい、現任の豫州刺史であった劉喬を冀州刺史に転任させている(劉喬伝)。劉喬はこの人事を承服しなかったが、范陽王が現任の冀州刺史を放逐したのは、東海王の人事を実現させるためだったのではないか。
     東海王のこの人事をきっかけに、劉喬と東海王らは対立を深め、やがて東海王・范陽王グループと河間王・劉喬グループの抗争に発展してゆくのだが、劉喬が冀州刺史につこうとしなかったため、かわりに温羨が刺史につけられていたという次第なのかもしれない。なお温羨伝には刺史就任の経緯は記述されていない。
  • 17
    詳しい経緯は不明。『資治通鑑考異』はこの記事の信憑性に疑念を表している。
  • 18
    成都王は恵帝とともに洛陽に逃れたあと、恵帝が長安に連行されると、成都王もそれについていって長安に在留していた。
  • 19
    范陽王は九月に許昌で劉喬に破れたあと、黄河を北に渡り、領冀州刺史となって、冀州で兵を調達してから南に戻ったとされる。宗室伝・范陽康王綏伝附虓伝を参照。とすれば、ここで官渡から黄河を渡り、滎陽に進むというルートはやや不自然に思われる。『資治通鑑』は「引兵済河、斬石超於滎陽」と、官渡を省いている。
  • 20
    〔尚書などを経由せずに〕宮中から直接発出された皇帝直筆の詔。(宮中直接発出的帝王親筆詔令。)(『漢語大詞典』)
  • 21
    このエピソード、やや違和感がある。これは武帝が、恵帝が皇帝の日常業務、すなわち「尚書事」の「決」がこなせるかテストしたという話になっているが、その業務の過程に下達文書の作成が含まれていることになっている。しかし、皇帝の下達文書の文案を作成するのは、基本的には中書に委ねられており、皇帝は協議することはあっても、直接文章の作成にかかわる機会は少なかったのではないか。そのような業務の煩を嫌って中書のような官を設けているわけなのだから。尚書からの奏にはすでに施行要請が含まれているのだから、採用する場合は「可」のみでよいし、疑義がある場合はやはり中書と協議して文書を作成し、尚書(あるいは門下)に付したと考えられる。あくまで特別なテストということで、文書の作成まで恵帝におこなわせたということなのかもしれないが、ややひっかかりを覚える逸話である。
  • 22
    恵帝の言葉の原文は「此鳴者為官乎、為私乎」。しばしば、「為」を「ために」で読み、「官のために鳴いているのだろうか、私事のために鳴いているのだろうか」とする訳を見かけるが、その訳・訓読にはやや疑問を覚える。かりに主語が人間であったら、「為官」以下は、「官人であろうか、私人であろうか」と読むのではないか。そのまま訳出し、括弧にかみくだいた訳を補っておいた。なお『太平御覧』巻四九九、真愚に引く「王隠晋書」に「讖書有蝦蟆当貴。恵帝在宮時、出問左右、『此鳴是官蝦蟆、為私乎』。賈胤対曰、『在官地中為官蝦蟆、在私地中為私蝦蟆』。於是、世間遂伝此語」とあり、『水経注』巻一六、穀水の注に引く「晋中州記」に「惠帝為太子、出聞蝦蟇声、問人為是官蝦蟇、私蝦蟇。侍臣賈胤対曰、『在官地為官蝦蟇、在私地為私蝦蟇』。令曰、『若官蝦蟇、可給廩』。先是有讖云、『蝦蟇当貴』」とあり、やはり「官ガエル」と読むのが適当であるように思う。
     しかし、恵帝のこの逸話は詩的というかジョークというか、そういう類いな感じで、愚昧ぶりを示す逸話には個人的には思えないが……。と考えたが、「官ガエルならエサをやれ」という令はなかなか普通ではないですね、やはり。
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