巻六十 列伝第三十 繆播 皇甫重 張輔

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解系(附:解結・解育)・孫旂・孟観・牽秀繆播(附:繆胤)・皇甫重・張輔李含・張方閻鼎・索靖(附:索綝)・賈疋

繆播(附:繆胤)

 繆播は字を宣則といい、蘭陵の人である。父の繆悦は光禄大夫であった。繆播は才知をそなえ、弁舌が明晰で、名声があった。高密王泰が司空になると、繆播を〔司空府の〕祭酒とし、昇進を重ねて太弟(おそらく成都王穎)中庶子に移った。
 恵帝が長安へ行幸すると、河間王顒は天子を意のままに操って諸侯に命令させようとした。東海王越が挙兵して天子を奉迎しようとすると、繆播は父(高密王泰)の故吏であったため、重要な事柄を委任した1本伝に附されている繆胤の伝によると、繆胤も太弟の官属であったが、成都王穎が鄴から洛陽へ落ち延びるさい、成都王には付いてゆかず、東海王越のもとへ逃げたという。そして東海王は繆胤と繆播をいっしょに関中へ行かせたとある。したがって、繆播も繆胤と行動をともにしていたのであろうと思われる。。繆播の従弟である太弟右衛率の繆胤は、河間王の前妃の弟であった。東海王は繆播と繆胤を長安につかわして河間王を説得させることにし、恵帝を奉じて洛陽へ帰還させるように求め、〔また東海王と〕河間王とで分陝2天下の共同統治の意。長沙王乂伝の訳注を参照。することを誓約しようとした。繆播と繆胤は平素より河間王から敬われて信頼されていたので、面会するや、〔河間王は〕素直に言うことを聴き入れた。河間王の将の張方は罪が重いことを自覚しており、まっさきに誅殺されるのではないかと不安に思ったので、河間王に言った、「現在、地形にめぐまれた土地を占有し、国(関中)は豊かで、軍は強力です。天子を奉じて〔天下に〕号令すれば、あえて服従しない者がいましょうか」。河間王は張方の謀略に心が動き、どうするか決められなかった。張方は繆播と繆胤が東海王の手先となって遊説しているのを嫌がり、彼らの殺害をひそかにたくらんだ。繆播らも張方が難事を起こすのを心配し、〔河間王に〕これ以上言おうとしなかった。このころ、東海王軍の勢いはひじょうに盛んで、河間王はこのことを重く憂慮していた。そこで繆播と繆胤はもう一度河間王を説得し、早急に張方を斬って謝罪すれば、労さずして安全を得られると諭した。河間王はこれを聴き入れ、こうして張方を斬って山東の諸侯に謝罪した。河間王はのち、この行動を悔やみ、ふたたび兵をもって東海王に抵抗したが、たびたび東海王に敗北した。恵帝が旧都(洛陽)に戻ると、繆播も太弟(のちの懐帝)に付き従って洛陽へ帰った。多くの苦労を経るうち、太弟とはたがいに親しみを覚えるようになっていた。
 恵帝が崩じると、太弟が帝位についた。すなわち懐帝である。〔懐帝は〕繆播を給事黄門侍郎とし、まもなく侍中に転じ、中書令に移った。信任は日に日に高まり、単独で王言を管轄した。当時、東海王は自分自身から〔刑罰を下すなどして〕威権を示していたが、懐帝は武力で〔東海王を〕討ちたおすことができず、内心で東海王をおおいに嫌っていた。繆播、繆胤らは公輔3三公四輔の略。天子の補佐役の意。の才量をそなえ、また国家に忠義を尽くしていたため、〔懐帝は〕重要な事柄を委任した。東海王は〔繆播らが〕自分の害になることを心配し、そこで入朝し、兵士を宮殿に入れ、繆播らを懐帝のそばで捕えた。懐帝は嘆いて、「姦臣や賊子はいつの世にもいるものだが、『私以前の世ではなく、私以後の世でもなく、どうして今の世なのか』4原文「不自我先、不自我後」。『毛詩』大雅、瞻卬に「心之憂矣、寧自今矣。不自我先、不自我後」とあるのが出典で、鄭箋に「喩己憂所従来久也。悪政不先己、不後己、怪何故正当之」とある。。悲しいことだ」と言い、立ち上がって繆播らの手を取り、こらえられずに涙を流し、すすり泣いた。東海王はとうとう繆播らを殺した。朝廷も原野も憤り、みなが言った、「〔繆播らのような〕善人は国家の紀綱(おおもと)である5原文「善人、国之紀也」。ほかの正史に同じ文言で用例があり、どこかに出典がありそうだが、不明。「善人、国之主也」(『左伝』襄公三十年)など、酷似した例はある。。にもかかわず、これに暴力を加えるとは。〔そんなことをしでかした東海王は〕終わりをまっとうできるものだろうか」。東海王が薨じると、懐帝は繆播に衛尉を追贈し、少牢で祀った。

〔繆胤〕

 繆胤は字を休祖といい、安平献王孚の外孫(娘の子)である。繆播と名声をほぼ等しくしていた。最初は尚書郎となり、のちに太弟(おそらく成都王穎)左衛率に移り、魏郡太守に転任した。王浚の軍が鄴に近づき、〔成都王穎軍の〕石超らが大敗を喫すると、繆胤は徐州の東海王のもとへ逃げた。東海王は繆胤と繆播をいっしょに関中へ入らせた。〔繆胤らが河間王顒に〕説いた内容は〔河間王によって〕実行に移され、恵帝は東へ帰還した。東海王は繆胤を冠軍将軍、南陽太守とした。繆胤は藍田から武関を通り、南陽へ向かったが、まえの太守の衛展は繆胤を拒んで受け入れなかったので、繆胤は洛陽へ戻った。懐帝が即位すると、繆胤を左衛将軍に任じ、〔ついで〕散騎常侍、太僕に移った。ほどなく、繆播、懐帝の舅(母親の兄弟)の王延、尚書の何綏、太史令の高堂沖とともに政治の機密に参画するようになったが、東海王に殺された。

皇甫重

 皇甫重は字を倫叔といい、安定の朝那の人である。思慮深く、かつ果断な性格で、才気にあふれ、司空の張華の面識を得た。じょじょに昇進して新平太守に移った。元康年間、張華が版(板)を授けて〔皇甫重を〕秦州刺史とした6原文「華版為秦州刺史」。「版」(「板」とも記す)は、越智重明「魏晋南朝の板授について」(『東洋学報』四九―四、一九六七年)二頁によれば、人事辞令の紙を載せた板をいう。「板」の意味のひとつに、「本来天子が直接任命すべき官を天子以外のものが「かりに」任命する」(二頁)というものがあり、本文はこのケースに該当するように思われる。もっとも、越智氏は当時の張華が人事任命の権限を握っているとは考えがたいとし、本文の「華」字はもと「黄」字であったと推測して、「黄版」すなわち天子から任命を授かったのだと解釈している(一八頁)。
 斉王冏が輔政すると、皇甫重の弟の皇甫商を〔大司馬府の〕参軍とした。斉王が誅殺されると、長沙王乂も〔皇甫商を〕参軍とした。当時、河間王顒が関中に出鎮していたが、河間王の将の李含は以前から皇甫商および皇甫重と不仲で、つねに憎しみを抱いていたが、このときになって李含は河間王に説いて言った、「皇甫商は長沙王に任用されていますが、皇甫重のほうは最後まで人の部下になることはないでしょう。早急に皇甫重を排除して、災難の片方を取り除いておくのがよろしいと思います。上表して、皇甫重を内職(中央の官職)に召すよう薦め、彼が長安を通るときを利用して捕えてしまいましょう」。皇甫重はその策略に気づき、そこで露檄を尚書にたてまつり、河間王が李含を信任して戦乱を計画していることを理由に挙げ、隴上7『資治通鑑』胡三省注に「自隴以西六郡統於秦州」とあり、胡三省は隴以西の六つの郡としている。の兵士を召集し、李含討伐を名分に〔行動を起こ〕したいと述べた。長沙王は、〔近ごろ〕戦争がしきりに起こったけれども、今になってようやく終息したのを理由に、使者をつかわして皇甫重に戦争をやめるよう詔で命じること、〔またいっぽうで〕李含を河南尹に召すこと、〔この二つの案を〕上表して要請した(2021/2/13:訳文微修正)。李含は徴召に応じたが、皇甫重は詔に従わなかった。河間王は金城太守の游楷、隴西太守の韓稚ら四郡の兵を派遣し、皇甫重を攻めさせた。
 しばらく経つと、成都王穎が河間王と共同で挙兵し、いっしょに長沙王を攻めようとし、皇后の父である尚書僕射の羊玄之と皇甫商の討伐を名分に掲げた。長沙王は皇甫商を左将軍、河東太守とし、一万余人を統率させ、闕門8闕門は通常、宮城の門を指すが、張方伝によると皇甫商を破って「入城」つまり洛陽城に入っており、整合がとれない。恵帝紀、太安二年八月の条には「遣将軍皇甫商距方于宜陽」とあり、同、九月の条に「張方入京城」とあるため、本伝の「闕門」は何かの間違いである可能性が高いと思われる。で〔河間王が洛陽へ派遣した〕張方を防がせたが、張方に敗れてしまい、とうとう河間王の軍は進み得たのであった。長沙王はすでにしばしば敗戦を喫していたので、皇甫商に間道から恵帝の手詔を持参させて〔西方へ伝えさせ〕、〔その手詔でもって〕游楷に全軍の戦闘停止を命じ、皇甫重に軍を進めて河間王を討つよう命じようとした。皇甫商は長安を経て新平に着いたが、そこで偶然、従甥(父方の従姉妹の子)に会った。従甥はふだんから皇甫商を嫌っていたので、河間王に彼のことを知らせた。河間王は皇甫商を捕え、これを殺してしまった。
 長沙王はすでに敗亡したものの、皇甫重は依然として守りを固め、外門を閉ざしていたので、城内は〔長沙王の敗亡を〕知らなかった。四郡の兵は土の山を築いて城を攻めたが、皇甫重はそのたびに連弩で反撃した。あちこちに地下道を掘って外からの攻撃を防ぎ、臨機応変の計略があらゆるところから発動するので、四郡の兵は城に近づくことができず、将兵はこれがために戦死していった。河間王は落とせないことを悟ると、上表し、御史をつかわして詔を布告させ、皇甫重に降服を説得させるよう要望した。〔使者の詔を読んで〕皇甫重はそれが朝廷の本心ではないと見抜き、詔に従わなかった。御史の騶人9車の付き人のような人であるらしい。『資治通鑑』胡三省注には「騶、……厩御也。晋制、諸公給騶八人、下至御史、各有差。斉王融曰、『車前無八騶、何得称丈夫』。則騶蓋辟車之卒」とある。を捕えると、「弟が兵を引き連れて来る手はずで、もう着いてもいいころだが、まだだろうか」とたずねた。騶人は「すでに河間王に殺されてしまいました」と答えた。皇甫重は青ざめ、即座に騶人を殺した。こうして、城内の人々は外からの救援が来ないことを知り、とうとう協力して皇甫重を殺したのだった。
 これより以前、皇甫重が包囲を受けて厳しい情勢にあったころ、〔皇甫重は〕養子の皇甫昌をつかわし、東海王越に救援を要請した。東海王は、河間王が成都王を〔皇太弟から〕廃し、山東の諸侯と和解したばかりであるため、出兵に応じなかった。そこで皇甫昌はもとの殿中人10『資治通鑑』胡三省注は「旧属二衛部曲者」と解説している。の楊篇と結託し、東海王の命令と偽って羊后を金墉城から迎え、宮殿に入り、皇后の命令をもって兵を出動させて張方を討伐させ、天子を奉迎させようとした。いきなり事が運んでいったので、百官は最初こそみなでこの命令に従っていたが、まもなくみなで皇甫昌を誅殺した。

張輔

 張輔は字を世偉といい、南陽の西鄂の人で、漢の河間相であった張衡の子孫である。若くして幹局11『漢語大詞典』は「謂弁事的才幹器局」(事を処置する才能と器量を言う)とあるが、漠然としていてよくわからない。があり、従母兄の劉喬と名声を等しくした。
 最初は藍田令に任じられ、〔赴任先では〕豪強に屈しなかった。このころ、強弩将軍の龐宗は西州(西中国)の大姓で、護軍将軍の趙浚は龐宗の妻の一族であった。そのようなわけで〔龐宗の?〕僮僕は好き放題に振る舞い、百姓を困らせていた。張輔はこれを逮捕し、二人の奴を殺し、さらに龐宗の二百余頃の田を押収して貧戸に支給したところ、県じゅうがこれを称賛した。山陽令に転任したが、ここでも太尉の陳準の家の僮僕が横暴にしていたので、張輔はまたもこれを打ち殺してしまった。昇進をかさねて尚書郎に移り、宜昌亭侯に封じられた。
 御史中丞に移った。当時、積弩将軍の孟観は明威将軍の郝彦とそりが合わず、孟観は軍の仕事の機会に乗じて郝彦を殺してしまった。また、賈謐、潘岳、石崇はたがいに推薦しあい、たがいに褒めあっていた。義陽王威には虚偽を申告している事柄があった。張輔はこれらすべてを弾劾した。梁州刺史の楊欣が姉の喪に遭って12『通典』巻六〇、降服大功末可嫁姉妹及女議によると、姉の喪に遭っていた(のに以下のような礼儀にもとる行動をとったと責められている)のは楊欣の息子(楊俊)である。本文は文字を脱落させてしまっているのかもしれない。『通典』の文については後ろの注を参照。旬日たっていないころ、車騎将軍長史の韓預はむりやり楊欣の娘をめとって妻とした。張輔は〔南陽の〕中正であったので、韓預を貶退し〔て郷品を二等削り〕、そうして風俗を清らかにした。論者はこれを称賛した13この件については『通典』巻六〇、降服大功末可嫁姉妹及女議に記録されており、「晋南陽中正張輔言司徒府云、『故涼州刺史揚欣女、以九月二十日出赴姉喪殯、而欣息俊因喪後二十六日、強嫁妹与南陽韓氏、而韓就揚家共成婚姻。韓氏居妻喪、不顧礼義、三旬内成婚、傷化敗俗、非冠帯所行。下品二等、本品第二人、今為第四。請正黄紙』。梁州中正梁某言、『俊居姉喪嫁妹、犯礼傷義、貶為第五品』」とある。。孫秀が権力を握ると、義陽王は張輔を孫秀と仲たがいさせようとしくんだ。孫秀はそれにはまってしまい、張輔を法にもとづいて逮捕しようとした。張輔は孫秀に書簡を送って言った、「輔(わたし)は古人を仰ぎ倣い、『官に臨んで職務を遂行する』14原文「当官而行」。『左伝』文公十年に載せる子舟の言葉が出典。宋公が孟諸沢で楚王らを迎えて狩猟を催したさい、宋公に違反があったので子舟は公の御者を鞭打った。すると、「『国君を辱めてはいけない』と子舟……に言う者がいたが、子舟は言った。『官に在って職責を果たすのに、強引といわれることはない。……命を惜しんで職責を放棄したくはない』」(小倉芳彦訳『春秋左氏伝』上、岩波書店、一九八八年、三五九頁)というやりとりが交わされた。引用訳の「官に在って職責を果たす」が「当官而行」にあたる箇所である。張輔がこの文句を引いているのも、「高貴な身分といえども、違反があれば憚らずに処分する、そうして職務を怠らずに果たすのがもっとも重要だと心得ている」という、『左伝』のシチュエーションを意識して引いているのであろう。ということをわきまえているのみで、こざかしくも保身の策略をなそうなどとは露ほども考えたことはありません。いま、義陽王はまことに寛大なお方ですから、〔かつて輔(わたし)が弾劾したことを〕意に介しているのではありません15義陽王は私怨で張輔を批判しているのではない、と釈明して王を批判しかえすのを避けているのだろうか。。しかしながら、輔(わたし)の母は七十六歳で、いつも心配しており、輔(わたし)が近いうちに怨みを買って罪を得てしまうだろうと考えているようです。明公に願わくは、よくご注意なさって輔(わたし)の一連の行動を精査してもらえませんか。たんなる国家の愚臣にすぎません」。孫秀は邪悪ではあったが、張輔が正しく、義陽王にぬれぎぬを着せられていることを理解したので、沙汰やみになった。
 のちに馮翊太守に移った。このとき、長沙王乂は、河間王顒が関中を専制支配し、不臣の行動を見せていることを恵帝に進言したので、〔恵帝は〕雍州刺史の劉沈と秦州刺史の皇甫重に密詔を下し、河間王の討伐を命じた。こうして、劉沈らは河間王と長安で戦ったが、張輔はとうとう兵を率いて河間王を救援したため、劉沈らは敗北した。河間王は張輔を恩人とし、皇甫重に代わって張輔を秦州刺史とした。河間王の災難(劉沈らの攻撃)にかけつけたとき、金城太守の游楷も同様に功績をあげ、梁州刺史に移されたが、赴任しなかった。游楷は張輔が秦州に赴任してくるのを聞いても、赴任時に張輔を迎えること16いわゆる「迎新」(新たに赴任した地方官を出迎える)の慣例をいうのであろう。をしなかったので、〔張輔は〕游楷をひそかに殺してしまった17原文には「陰図之」とあるが、後文に「又殺天水太守」とあるので、ここの「図」にも殺害のニュアンスが含まれているものと解釈した。(2021/2/13:注追加)。さらに〔張輔は〕天水太守の封尚も殺し、みずからの威勢を西方で伸張させようとした。〔張輔は〕隴西太守の韓稚を呼び寄せた。〔韓稚は属僚を集め、招集に応じるかをめぐって〕会議を開いたが、結論が出なかった18原文「召隴西太守韓稚会議、未決」。よく読めない。中華書局の標点を改め、「召隴西太守韓稚、会議、未決」と読むことにし、補語のような理解で解釈を試みた。。韓稚の子の韓朴は武芸に秀でていたが、会議で異論を唱える者を斬ってしまい、すぐさま兵士を集めて張輔を攻めた。張輔は韓稚と遮多谷の入り口で戦ったが、張輔軍は敗北し、天水府(故封尚)のもとの帳下督である富整に殺された。
 むかし、張輔は論文を記してこう主張していた、「管仲は鮑叔に及ばない。鮑叔は主君に奉じるべき人物、身をささげるべき人物をわかっていた。管仲は主君を奉じておきながら助けられず、出奔先(魯)も事業の後ろ盾となる国ではなかった19原文「所奔又非済事之国」。管仲ではなく魯のほうに批判の矛先が向いているようなのは解せないが、公子糾のバックアップに成功しなかったことを言っていると読んでみた。。三人の妻をもち、諸侯専用の台を所有するという分不相応を犯していた。すべて鮑叔がしなかったことである」。また班固と司馬遷も論じた20以下の論文は『芸文類聚』巻二二、品藻、および『太平御覧』巻四四七、品藻下に引く「張輔名士優劣論」にもみえている。本文では省略されているが、両書の引用文は次の文が冒頭に置かれている。「世の人々が司馬遷と班固を論じると、多くの人は班固のほうが優れているというが、それはまちがいだと私は考える(世人論司馬遷班固、多以固為勝、余以為失)」(『芸文類聚』所引)。、「司馬遷の叙述は、言葉は簡潔だが事柄は網羅されており、三千年の出来事を叙述するのにたった五十万字である。班固は二百年の出来事を叙述するのに八十万字を要している。冗長と簡略とで〔二人は〕同等ではない(簡略な司馬遷のほうが優れている)。班固が司馬遷に及ばない理由の一つめである。良史による出来事の叙述は、善は推奨に十分なもの、悪は訓戒に十分なものだけである。一般的な道徳を示すものや、ごく普通の動き、些末な出来事はどれも叙述に採用しない。ところが、班固はすべて記述している。司馬遷に及ばない理由の二つめである。〔班固は〕晁錯を批判して、忠臣の道を損なわせている。司馬遷に及ばない理由の三つめである。司馬遷は〔史書の体裁を〕創造したが、班固はそれを踏襲しただけで、難しさと易しさとでいよいよ同等ではない。また、司馬遷は蘇秦、張儀、范雎、蔡沢のために列伝を立て、のびのびとした文章がなめらかにつづいており、これによっても司馬遷の異才を証明するのに十分である。ゆえに、弁士を叙述するときは文章をきらびやかに修飾し、実録を記述するときは事実を精査して実直な表現を取っているのである21原文「叙実録則隠核名検」。「名検」について、『漢語大詞典』は「名誉与礼法」とする。字面で意味を考えるとそうなるのかもしれないが、晋代のわずかな用例をみてみると、この語は浮華の対極の意味で用いられており、「儒学的な品行」を指しているように思われる。本文はその意だと通じないが、「浮華の対極の意で用いられる」という点だけに着目すれば、「実直である、質朴である」という意味で使われているのかもしれない。その意であれば、前文の「辞藻華靡」とうまいぐあいに対になるし、『漢書』司馬遷伝、賛曰の「弁而不華、質而不俚、其文直、其事核、不虚美、不隠悪、故謂之実録」という評言とも符合する。よって、ややイレギュラーな語釈ではあるが、「実直である」と訳出した。。これが、司馬遷が良史と評されるゆえんである」。また、魏の武帝は劉備に及ばないとか、楽毅は諸葛亮に劣るとも論じたが、言葉が多いので掲載しない22いずれも『芸文類聚』巻二二、品藻および『太平御覧』巻四四七、品藻下に引用されているが、文字が多いのでここには載せない。

解系(附:解結・解育)・孫旂・孟観・牽秀繆播(附:繆胤)・皇甫重・張輔李含・張方閻鼎・索靖(附:索綝)・賈疋

(2021/2/11:公開)

  • 1
    本伝に附されている繆胤の伝によると、繆胤も太弟の官属であったが、成都王穎が鄴から洛陽へ落ち延びるさい、成都王には付いてゆかず、東海王越のもとへ逃げたという。そして東海王は繆胤と繆播をいっしょに関中へ行かせたとある。したがって、繆播も繆胤と行動をともにしていたのであろうと思われる。
  • 2
    天下の共同統治の意。長沙王乂伝の訳注を参照。
  • 3
    三公四輔の略。天子の補佐役の意。
  • 4
    原文「不自我先、不自我後」。『毛詩』大雅、瞻卬に「心之憂矣、寧自今矣。不自我先、不自我後」とあるのが出典で、鄭箋に「喩己憂所従来久也。悪政不先己、不後己、怪何故正当之」とある。
  • 5
    原文「善人、国之紀也」。ほかの正史に同じ文言で用例があり、どこかに出典がありそうだが、不明。「善人、国之主也」(『左伝』襄公三十年)など、酷似した例はある。
  • 6
    原文「華版為秦州刺史」。「版」(「板」とも記す)は、越智重明「魏晋南朝の板授について」(『東洋学報』四九―四、一九六七年)二頁によれば、人事辞令の紙を載せた板をいう。「板」の意味のひとつに、「本来天子が直接任命すべき官を天子以外のものが「かりに」任命する」(二頁)というものがあり、本文はこのケースに該当するように思われる。もっとも、越智氏は当時の張華が人事任命の権限を握っているとは考えがたいとし、本文の「華」字はもと「黄」字であったと推測して、「黄版」すなわち天子から任命を授かったのだと解釈している(一八頁)。
  • 7
    『資治通鑑』胡三省注に「自隴以西六郡統於秦州」とあり、胡三省は隴以西の六つの郡としている。
  • 8
    闕門は通常、宮城の門を指すが、張方伝によると皇甫商を破って「入城」つまり洛陽城に入っており、整合がとれない。恵帝紀、太安二年八月の条には「遣将軍皇甫商距方于宜陽」とあり、同、九月の条に「張方入京城」とあるため、本伝の「闕門」は何かの間違いである可能性が高いと思われる。
  • 9
    車の付き人のような人であるらしい。『資治通鑑』胡三省注には「騶、……厩御也。晋制、諸公給騶八人、下至御史、各有差。斉王融曰、『車前無八騶、何得称丈夫』。則騶蓋辟車之卒」とある。
  • 10
    『資治通鑑』胡三省注は「旧属二衛部曲者」と解説している。
  • 11
    『漢語大詞典』は「謂弁事的才幹器局」(事を処置する才能と器量を言う)とあるが、漠然としていてよくわからない。
  • 12
    『通典』巻六〇、降服大功末可嫁姉妹及女議によると、姉の喪に遭っていた(のに以下のような礼儀にもとる行動をとったと責められている)のは楊欣の息子(楊俊)である。本文は文字を脱落させてしまっているのかもしれない。『通典』の文については後ろの注を参照。
  • 13
    この件については『通典』巻六〇、降服大功末可嫁姉妹及女議に記録されており、「晋南陽中正張輔言司徒府云、『故涼州刺史揚欣女、以九月二十日出赴姉喪殯、而欣息俊因喪後二十六日、強嫁妹与南陽韓氏、而韓就揚家共成婚姻。韓氏居妻喪、不顧礼義、三旬内成婚、傷化敗俗、非冠帯所行。下品二等、本品第二人、今為第四。請正黄紙』。梁州中正梁某言、『俊居姉喪嫁妹、犯礼傷義、貶為第五品』」とある。
  • 14
    原文「当官而行」。『左伝』文公十年に載せる子舟の言葉が出典。宋公が孟諸沢で楚王らを迎えて狩猟を催したさい、宋公に違反があったので子舟は公の御者を鞭打った。すると、「『国君を辱めてはいけない』と子舟……に言う者がいたが、子舟は言った。『官に在って職責を果たすのに、強引といわれることはない。……命を惜しんで職責を放棄したくはない』」(小倉芳彦訳『春秋左氏伝』上、岩波書店、一九八八年、三五九頁)というやりとりが交わされた。引用訳の「官に在って職責を果たす」が「当官而行」にあたる箇所である。張輔がこの文句を引いているのも、「高貴な身分といえども、違反があれば憚らずに処分する、そうして職務を怠らずに果たすのがもっとも重要だと心得ている」という、『左伝』のシチュエーションを意識して引いているのであろう。
  • 15
    義陽王は私怨で張輔を批判しているのではない、と釈明して王を批判しかえすのを避けているのだろうか。
  • 16
    いわゆる「迎新」(新たに赴任した地方官を出迎える)の慣例をいうのであろう。
  • 17
    原文には「陰図之」とあるが、後文に「又殺天水太守」とあるので、ここの「図」にも殺害のニュアンスが含まれているものと解釈した。(2021/2/13:注追加)
  • 18
    原文「召隴西太守韓稚会議、未決」。よく読めない。中華書局の標点を改め、「召隴西太守韓稚、会議、未決」と読むことにし、補語のような理解で解釈を試みた。
  • 19
    原文「所奔又非済事之国」。管仲ではなく魯のほうに批判の矛先が向いているようなのは解せないが、公子糾のバックアップに成功しなかったことを言っていると読んでみた。
  • 20
    以下の論文は『芸文類聚』巻二二、品藻、および『太平御覧』巻四四七、品藻下に引く「張輔名士優劣論」にもみえている。本文では省略されているが、両書の引用文は次の文が冒頭に置かれている。「世の人々が司馬遷と班固を論じると、多くの人は班固のほうが優れているというが、それはまちがいだと私は考える(世人論司馬遷班固、多以固為勝、余以為失)」(『芸文類聚』所引)。
  • 21
    原文「叙実録則隠核名検」。「名検」について、『漢語大詞典』は「名誉与礼法」とする。字面で意味を考えるとそうなるのかもしれないが、晋代のわずかな用例をみてみると、この語は浮華の対極の意味で用いられており、「儒学的な品行」を指しているように思われる。本文はその意だと通じないが、「浮華の対極の意で用いられる」という点だけに着目すれば、「実直である、質朴である」という意味で使われているのかもしれない。その意であれば、前文の「辞藻華靡」とうまいぐあいに対になるし、『漢書』司馬遷伝、賛曰の「弁而不華、質而不俚、其文直、其事核、不虚美、不隠悪、故謂之実録」という評言とも符合する。よって、ややイレギュラーな語釈ではあるが、「実直である」と訳出した。
  • 22
    いずれも『芸文類聚』巻二二、品藻および『太平御覧』巻四四七、品藻下に引用されているが、文字が多いのでここには載せない。
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