凡例
- 文中の〔 〕は訳者による補語、( )は訳者の注釈、1、2……は注を示す。番号をクリック(タップ)すれば注が開く。開いている状態で適当な箇所(番号でなくともよい)をクリック(タップ)すれば閉じる。
- 注で唐修『晋書』を引用するときは『晋書』を省いた。
解系(附:解結・解育)・孫旂・孟観・牽秀/繆播(附:繆胤)・皇甫重・張輔/李含・張方/閻鼎・索靖(附:索綝)・賈疋
李含
李含は字を世容といい、隴西の狄道の人である。始平に僑居していた。若くして才能を示し、どちらの郡(隴西郡と始平郡)からも孝廉に挙げられた。安定の皇甫商は州里の若者で、若年ながら豪族であることを鼻にかけていた。〔皇甫商は〕李含の家は寒微であるとみなしていたが、〔李含へ〕交際を願い出たところ、李含は拒絶して受けつけなかったので、皇甫商は恨みにもち、とうとう州(雍州刺史?)にそそのかしたので、州は短檄で李含を召し、門亭長に任じた。ちょうどそのとき、雍州刺史の郭奕はふだんから李含の賢明さを聞いていたので、車から下りて李含を別駕に抜擢し、とうとう属僚たちの筆頭に置かれたのであった。まもなく秀才に挙げられ、公府に推薦され〔、太保の掾に召され〕た。太保掾から秦国の郎中令に移った。司徒は李含を登用し、始平の中正を領させた。秦王柬が薨じると、李含は台儀1不詳。中央官庁に勤務する官吏の通例か。神矢法子氏は「通常の尚書省の規則」と解している(神矢「晋時代における違礼審議――その厳礼主義的性格」、『東洋学報』六七―三・四、一九八六年、六九頁)。に従い、埋葬が終わったら喪を解除した。尚書の趙浚は内朝で寵愛2原文は「内寵」。趙王倫伝では、賈后らが粛清されたさいにいっしょに誅殺されているので、賈后のお気に入りであったのだろう。を受けていたが、李含が自分に仕えないのを嫌っていたので、とうとう上奏し、李含は喪を解除するべきでなかったと批判した。本州(雍州)大中正の傅祗は名義を理由に李含を貶退した。御史中丞の傅咸は上表して李含を弁護した3以下は『通典』』巻八八、斬縗三年にも掲載されているが、異同が多い。適宜に補いつつ訳出した。。
臣の州(雍州)出身で、秦国郎中令である始平の李含は、忠正かつ清廉で、政務を治める才能があり、まことに史魚のような公直を保持する風格4史魚は衛の大夫。国に道があろうがなかろうが、直をまっすぐ貫き通すと孔子に評された。『論語』衛霊公篇に「子曰、直哉史魚、邦有道如矢、邦無道如矢」とある。をそなえています。かえってこのために世間と折り合いがつけられないのですが、しかし名声も品行もあまりに高く、覆い隠すこともできないものですから、両郡とも孝廉異行に挙げたのです。尚書の郭奕が雍州刺史に赴任したさいは、李含は寒門でかつ若年であったのに、郭奕は一気に昇級させて別駕としました。太保の衛瓘は李含を掾に辟召しましたが、「李世容は晋の匪躬5『易』蹇、六二の爻辞に「王臣蹇蹇、匪躬之故」とあるのが出典。「自分のためではなく、国家のために尽くす」という意味あい。の臣だ」と、ふだんから臣に言っていました。
秦王が薨じられたとき、〔李含の〕悲嘆ぶりは人を感動させ、葬儀に集まった百官みながその様子を目撃しています。しかしいま、李含が不本意ながらも王制に従っ〔て、令に準拠して喪服を脱ぎ、埋葬から十七日後に中正の職務をとっ〕たことをもって6〔 〕内の補語は『通典』に「如令除服、葬後十七日乃親中正職」とあるのに拠る。、〔世の議者は〕7『通典』に「時議」とあるのに拠る。李含が悲痛から逃れて喜楽に身を置いているとみなし、李含の中正を剥奪してしまいました。〔しかしまた、「天子の喪の場合、埋葬が終わったら喪を解除している」と疑義が出ましたところ、尚書は「天朝は至尊である。いまは藩国の場合を議論しているのに、天子の例を援用してそれに準拠するのは適切ではない」と言ってきました。かりに〕8以上の補語は『通典』に「而復閡於天子之喪既葬而除、便云、『天朝殊尊、援以為準、非所宜言』。若……」とあるのに拠る。天王の朝廷(天子の喪)は埋葬が終わっても解除せず、藩国の喪は埋葬が終わったら解除すると定まっているのに、藩国の場合でも〔天子と〕同様に解除しないことにしようとするのならば、そこではじめて「至尊を援用して卑賤をそれに準拠させるのは適切ではない」と批判するべきでしょう。〔しかし、そもそも実際はそうではなく、〕いま、天朝は上で〔埋葬が済んだら〕喪服を脱いでいるのに9原文「天朝告于上」。よく読めない。『通典』は「天朝釈乎上」と作っており、こちらなら読めるので、『通典』に従うことにした。、それなのに藩国は下で〔埋葬が終わっても〕服喪をつづけさせようと望んでいるのです。これでは藩国に対する義のほうが厚く、天朝に対する礼のほうが薄い、ということになってしまいます。〔臣には尚書がかのように言ってきた意図がはかりかねます。〕10『通典』に「未喩此旨」とあるのに拠る。また、〔尚書は〕「諸王公の喪はすべての場合において、喪を完遂することになっている。礼においては、〔官人は〕寧(父母の喪)が開けてから叙任されると定まっているが、そのようにしているのは、喪礼の制度を尊重し、誠心誠意それに励み努めなければならないからなのは明白である」11原文「諸王公皆終喪、礼寧乃叙、明以喪制宜隆、務在敦重也」。よく読めない。と言っていますが、そもそも「寧が開けてから叙任される」のは、その官人の病を憐れむためにすぎないのは明白です12原文「明以哀其病耳」。よく読めない。「病」というのは、服喪して悲しみのあまり病気になる、という意か。たとえば『礼記』問喪篇に「或問曰、杖者以何為也。曰、孝子喪親、哭泣無数、服勤三年、身病体羸、以杖扶病也」とあるごとし。。〔尚書が言うような決まりは〕天朝(晋朝)のものとはちがっていますし、喪を完遂させるとの礼の規定はいまだ目にしたことがありません。国制(晋朝の礼制)においては、埋葬が終わってから喪を解除し、喪が解除されたら祔祭(神主=位牌を先祖の廟に入れる祭祀)を執り行ないます。漢魏から聖晋にいたるまで〔、みなそのように実践してきました。〕13『通典』に「皆所共行」とあるのに拠る。、文帝がご逝去されたときだと世祖(武帝)の哀悼は礼を過ぎ、武帝が崩御されたときだと陛下(恵帝)はやせ細り、悲しみを諒闇(服喪を過ごす部屋)でかかえて三年喪に服したしだいですが、〔そのいっぽうで〕率土の臣妾が〔武帝や陛下の服喪に〕すがりついて倣い、〔同じように〕服喪を完遂したいと思う心をもたなかったものでしょうか。まこと、国制に違反してはならないゆえ、埋葬が終わった段階で不承不承、喪を解除したのです。天王の喪は上で解除しているのに、藩国の臣のみは服喪を完遂するというのは、不安を覚えずにいられません。また、秦王には後継ぎがおありでないため、李含が喪主になる必要がありました。王の喪が解除されてから祔祭を行なうわけですから、それは吉祭(吉礼による祭祀)であるはずです。すると、〔尚書は〕それに言いがかりをつけ、「王〔の神主〕がまだ廟に置かれていないうちは、喪主は服を脱いではならない」と言っています。秦王は始封の王(秦国の最初の王)で、〔神主を〕合祀する先祖はありませんから、神主の置かれている場所が廟になるでしょう。このような場合、国制はどのようにするのが妥当であると言っているのかを調べもせず、廟がないこと14原文「無廟」。前文で言っていることをふまえれば、「廟がない」というのは「廟がまだ設けられていない」、さらに「神主がまだ廟に置かれていない」ということを実質的に言っているのではないかと思う。を理由に〔李含を〕貶退しました。李含のこのたびの行動について、博士に案件を転送し、礼文を調べさせれば、必ずや、放勲(堯)が亡くなったときに三年のあいだ〔民はあらゆる音楽を〕やめ、ひっそりとすごしたことや15『孟子』万章章句上に「堯典曰、『二十有八載、放勛乃徂落、百姓如喪考妣三年、四海遏密八音』」とある。、世祖(武帝)が崩御されたときに数旬日で即吉したことを提出することでしょう。いにしえの事例を引用して現今の事例を正せば、いつの世にも貶退が下されることになるでしょうに、どうして李含だけが喪服を脱いではならないのでしょうか。現今、〔埋葬が終わってから喪を解除しても〕貶退がないのは、王制のゆえです。主上が喪に服し、悲しみの泣き声が止まなくとも(喪を完遂しようとも)、股肱や近侍の臣は〔弟子が師に対してするように〕心喪(心中で服喪する)するのが適当です。〔心喪するわけですから、〕すぐに婚姻や歓楽を行なうのは適切でありませんが、そのように明文化されているわけではないのは、埋葬が済んだら喪服を脱ぐという国制をゆがめるわけにはいかないからではないのでしょうか16モラル的には問題があるけど、法的に違反だと明文化できない、ということか。。さらに当初、李含は王の服喪があるのを理由に、上書して差代17おそらく「代役を派遣すること」の意。しばらく王の喪に服する予定なので、その期間中、中正の職務を代わりに治めてくれる人間を派遣してほしいと朝廷に求めたのではないだろうか。を要請しています。しかし尚書は勅にて、王の埋葬は近日中におこなわれることであるし、埋葬が済み次第、李含は職務に復帰するべきであると命じ、差代を許可しませんでした。埋葬が終わり、李含はなお躊躇を覚えて〔、職務に復帰せずに〕18『通典』に「不時摂職」とあるのに拠る。いましたが、司徒府がしばしば符を発して〔李含の部下である〕訪問19おそらく中正の属僚職の名称。宮崎市定『九品官人法の研究――科挙前史』(中央公論社、一九九七年、原著は一九五六年)一三八頁を参照。を処罰し、李含に圧力をかけたので、〔そうなってからようやく李含は職務を執ったのでした。李含は尚書の勅と司徒府の符に従って〕20『通典』に「含乃視事。含承天台之勅、逼司徒府之符」とあるのに拠る。職務に復帰したのです。しかしそれからまもなく、尚書は職務に復帰したことを批判したわけです。これでは、尚書の勅と司徒府の符が李含を悪へとおとしいれたということになるでしょう。もし、尚書と司徒府〔の命令〕が教義を損なったと考えるのならば、拠正(是正?)しなければなりませんけれども、〔いま、〕符と勅を正さず、李含だけに貶退を加えています。〔臣がこうして意見を述べているのは、〕行き詰まったすえに処罰を受けた李含がかわいそうだというのではありません。国制は不公平であってはならないのです。
また、李含は隴西の人を自認しており、戸籍は始平に属しているとはいえ、始平のことなら何でも知っているというわけではありません。〔始平の〕中正に任じられた当初以来、言葉を繰り返して「始平国の人ではないので、中正に適任ではありません」と言っていました。のちに秦国の郎中令となったときも、この官は選挙の官だと〔他人から指摘されたのではなく〕みずからが考え、〔そこで上書し、〕尚書や司徒府を引いて〔王国における郎中令の役割を〕なぞらえ、常山太守の蘇韶に譲りましたが、その言葉に込められた心はひじょうに誠実で、文字に表われています。李含が〔中正や郎中令を〕強く辞退したのは秦王が薨じる前のことでした。〔そして〕埋葬後、躊躇を覚えつつも、罰を前にして行き詰まり、職務を執ったにすぎません21これらはどのような批判に対しての反論であるのか、『通典』でも明記されておらず、わからない。李含は中正や郎中令にふさわしくないと、いまさら李含の資格等をほじくり返して批判する意見に対し、「いや、もうすでに李含自身が辞退を申し出ていたのに何をいまさら言っているんだ」ということか。。臣の従弟の祗は州都(州大中正)で、風教を厚くすることに意を注いでいますが、〔彼のような者であっても〕李含はすでに過ちを犯したと議しています。不良の人々がとうとう〔善良な人々を〕扇動したわけで、そんな彼らが望んでいるのは、名義をタテにとって王法が問題にしない事柄を問題案件にしてしまうことなのです。そして彼らが求めていたことは得られました、すなわち〔始平の?〕中正の龐騰が李含の郷品を削ったのです。臣には祁大夫22晋の祁奚のこと。晋の叔向が罪を疑われて捕われたとき、彼のために弁明し、赦免を求めた。『左伝』襄公二十一年に見える。のような徳はございませんが、李含が龐騰から侮蔑を受けているのを目にし〔、憤慨を抑えきれなかっ〕23『通典』に「不勝其憤」とあるのに拠る。たゆえ、つつしんで上表して奏聞するしだいです。朝廷に願わくは、適時に博議を開き、龐騰がむやみに刀尺24『漢語大詞典』および『漢辞海』によれば、はさみと定規の裁縫道具の意味で、転じて「人の才能を評価し、任免する権限のたとえ」(『漢辞海』)の意があり、本文がその用例に挙げられている。個人的にはややピンと来ないが……。を振るうのをお許しになさいませんよう。
恵帝は聴き入れず、李含はついに貶退され、〔郷品を〕五品に削られた25『通典』巻八八、斬縗三年に引く傅咸の上表によれば、中正の龐騰の議に従い、三品削られたのだというから、もとは郷品二品である。本伝冒頭によれば李含は寒門であったはずだが……。。長安へ戻り、一年あまりのち、光禄26宮崎市定『九品官人法の研究』(前掲)一二三頁は光録勲とする。が李含を派遣して寿城の邸閣督27宮崎市定『九品官人法の研究』(前掲)一二三頁によれば九品。寿城は不詳。晋寿?にしようとした。司徒の王戎が上表し、李含は以前に大臣(郎中令を指すのであろう)になったことがあり、〔郷品を〕削られたといっても、このような低い職に充てるべきではない、と述べた。詔が下り、〔その人事を〕停止させた。のちに始平令になった。
趙王倫が帝位を奪うと、ある人が孫秀に言った、「李含は文武で秀でた才能を有してはいますが、その才能を人のために活かすことはないでしょう」。孫秀はそこで東武陽令とした。河間王顒が上表し、李含を征西将軍府の司馬にしたいと要望し〔て聴き入れられ〕、ひじょうに信任された。しばらくして長史に移った。河間王は〔斉王冏の起義に呼応した〕夏侯奭を誅殺し、斉王冏の使者を〔捕えて〕趙王へ送り、張方を派遣し、軍を統率させて趙王のもとへ行かせたが、これらはどれも李含の計略である。のち、河間王が三王28正確には「二王」(斉王と成都王)と記すべきであろう。中華書局の校勘記を参照。の軍の盛大ぶりを知ると、李含に龍驤将軍を加え、席薳ら鉄騎兵を〔李含に〕統率させ〔て張方のもとへ行かせ〕、張方軍を転進させて義軍に呼応させた。天子が位に回復すと、李含は潼關に着いてから〔長安へ〕帰還した。
これ以前、梁州刺史の皇甫商は趙王から刺史に任じられていたが、趙王が敗亡すると、刺史を辞して河間王を訪問したので、河間王は彼を厚くもてなした。李含は河間王を諫めた、「皇甫商は趙王が信任していた臣です。罪を心配してここに来たのですから、そう何度も会うべきではありません」。皇甫商はこれを知って李含に恨みをもった。皇甫商が京師に帰るさい、河間王は酒席を設けて餞別したが、〔その宴席上、〕李含の諫言の一件が原因で皇甫商は李含と諍いになってしまい、河間王が二人を仲裁した。のち、李含は中央に召されて翊軍校尉となった。その当時、皇甫商は斉王の軍事に参与していたが29原文「商参斉王冏軍事」。おそらく参軍のことではあろうが、原文を重んじて訳出した。皇甫重伝にも斉王の参軍であったことが記述されている。、さらに斉王の大司馬府には夏侯奭の兄がおり、夏侯奭が起義すると西の藩鎮(河間王のこと)によって不当に殺された、と〔その兄は〕言っていた。〔斉王府の人たちに恨みをもたれていることに〕李含は内心、不安を感じていた。斉王の右司馬の趙驤も李含と不仲であった。斉王が閲兵をしようとしたさい、李含は、趙驤が兵を用いて自分を討ちにくるのではないかと恐怖し、単騎で河間王のもとへ逃げ、密詔を授かったと詐称した。河間王はすぐさま夜に面会したが、〔李含は〕河間王を説得して言った、「成都王穎は至親の身でおられ、大きな功績を挙げ、〔趙王を討ったあとは京師に留まらずに〕藩鎮へ帰還し、はなはだ人心を得ています。斉王は等親を飛び越えて威権を独占しており、朝廷の人々は憚って横目で見ています。いま、長沙王乂へ檄書を発し、斉王を討つように命じましょう。〔そうしておき、長沙王が討伐の檄書を受けることを〕先に斉王の耳に入れさせれば、斉王は必ず長沙王を誅殺するでしょう。それから檄書を〔四方に〕発し、斉王に〔長沙王殺害の〕罪を加えれば、斉王を〔容易に〕捕えることができるでしょう。斉王を排除してから成都王を立て、横暴な者を払って至親を樹立し、そうして社稷を安泰にすれば、大きな勲功になるでしょう」。河間王はこれを聴き入れ、ついに上表して斉王討伐を願い出た。李含を都督に任じ、張方らを監督させて諸軍を統率させ、洛陽へ向かわせた。李含が陰盤に駐屯すると、長沙王が斉王を誅殺したので、李含らは軍を引き返した。
当初、李含のもともとの謀略では、長沙王と斉王をいっぺんに葬り、権力を河間王へ集めさせ、そうして李含自身も長年の野心をかなえようという手はずであった。長沙王は斉王に勝利してしまったが、河間王と成都王はなお藩鎮に留まったままで、〔李含らの〕志はまだ実現していなかった。河間王は李含を河南尹とするよう上表した30皇甫重伝では朝廷に召された(「徴」)と記されている。司馬光は皇甫重伝の記述を採用し、『晋書斠注』皇甫重伝に引く「晋書校文」は河間王が上表して推薦し、朝廷がそれを聴き入れて召したのだと解釈している。。そのころ、皇甫商は長沙王からも信任を受けており、皇甫商の兄の皇甫重は当時の秦州刺史であった。李含は皇甫商への憎しみがいよいよ増してゆき、しかも皇甫重とも険悪になった。河間王は李含が〔京師から〕逃げて〔長安に〕戻って以降、重要な事柄を〔李含に〕委ねていたため、皇甫重が自分を襲撃してくるかもしれない〔のに、肝心の李含がいない〕と不安を感じるようになり、そこで〔秦州諸郡の〕軍に命じて皇甫重を攻囲させ、〔河間王と皇甫重は〕たがいに上表して相手の罪を述べ立てた。侍中の馮蓀は河間王の党派であったので、皇甫重を中央に召し返すよう要望した。皇甫商は長沙王を説得して言った、「河間王の奏文はすべて李含が仕組んだことです。もし早急に〔李含を〕始末しなければ、災難がいまにも降りかかるでしょう。それに河間王の過日の行動(斉王討伐をしかけたこと)は、李含の計略に従ったものなのです」。このため、長沙王は李含を殺してしまった。
張方
張方は河間の人である。代々貧しく、卑賤の家であったが、体力と武勇をもって河間王顒に見いだされ、昇進をかさねて兼振武将軍に移った。永寧年間、河間王は上表して斉王冏を討伐し、張方を派遣し、兵二万を統率させて前鋒とした。斉王が長沙王乂に殺されると、河間王と成都王穎はさらに長沙王討伐を上表し、張方を派遣し、軍を統率させて函谷関から進入させ、河南に駐屯させた。恵帝は左将軍の皇甫商を派遣して張方を防がせたが、張方は潜伏部隊を用いて皇甫商の軍を破り、とうとう〔洛陽に〕入城した。長沙王は恵帝を奉じて張方を城内で討とうとした。張方軍の兵士は天子を遠くから確認するとやや後退してしまい、張方は後退する兵士を押しとどめようとしたものの、かなわず、張方軍はとうとう大敗し、殺された者や負傷者が街なかにあふれた。張方は退却し、十三里橋に軍塁を築いたが、兵士は意気消沈しており、強い気力を取り戻せず、多くの者が夜に撤退することを張方に勧めた。張方は言った、「兵の勢いが鋭くなったり鈍くなったり変化するのはよくあることだが、重要なのは敗北を利用して勝利を得ることだ。私はここからさらに前進して軍塁を築き、長沙王の不意を突こうと思う。これが用兵の妙なのだ」。夜陰に乗じて洛陽城の七里にまで近づいた。長沙王は勝利を収めたばかりで、〔張方の出撃を〕予想していなかった。張方の軍塁ができあがっているとにわかに聞くと、出撃して戦ったものの、敗北した。東海王越らは長沙王を捕え、金墉城に移送した。張方は郅輔に長沙王を連れ出させて軍営に帰還させると、長沙王を焼き殺してしまった。こうして、洛陽内の官私の奴婢一万余人をおおいに拉致してから西の長安へ帰還した。河間王は張方に右将軍、馮翊太守を加えた。
蕩陰の戦役では、河間王はふたたび張方を派遣し、洛陽に駐屯させようとしたが、〔洛陽に留められていた〕上官巳、苗願らが張方に抗戦し、〔張方は〕大敗したので退却した。清河王覃が上官巳と苗願を夜襲し、二人は敗走したため、張方はようやく洛陽に入ることができた。清河王は広陽門で張方を出迎え、拝礼したが、張方は車を走らせて近づくと、車から下り、清河王を助け起こして拝礼をやめさせた。こうして、ふたたび皇后の羊氏を廃した31恵帝紀、永興元年八月の条によると、皇太子に復位していた清河王も同時に太子から廃されている。もっとも、「皇太子に復位していた」とは言っても、周浚伝附馥伝によれば洛陽を留守していた上官巳らがかってに皇太子に担ぎ上げた(つまり成都王の皇太弟を認めなかった)だけで、おそらく正式な復位ではない。清河王は推戴をそこまで拒否していたように見受けられないが、どういう心変わりで上官巳らを排斥し、張方を迎え入れるにいたったのかはよくわからない。そもそも清河王はこの時点で十歳なので、周囲の大人たちがいろいろ判断した末のことなのだろう。。恵帝が鄴から洛陽に帰還してくるさい、張方は子の張羆を派遣し、三千騎で奉迎させた。〔恵帝が〕河橋を渡ろうとするころ、張方はさらに〔自分が〕使っている陽燧車、青蓋、素升三百人で小鹵簿を形成し〔てつかわし〕、恵帝を迎えさせた32恵帝紀、永興元年八月の条には「張方帥騎三千、以陽燧青蓋車奉迎」とある。陽燧車はよくわからない。素升については、「升」字は「弁」字の誤りだという説があるらしく(中華書局の校勘記)、とすれば「白いかんむり」のことか?。〔恵帝が〕芒山のふもとに着くと、張方はみずから一万余騎を率い、雲母輿と旌旗の飾りを奉じ、恵帝を護衛して行進した。当初、張方は恵帝に接見すると、拝礼しようとしたが、恵帝は車を下り、みずから拝礼をやめさせた。
張方が洛陽に滞在してすでに久しく、兵士は略奪をはたらき、哀献皇女(恵帝の娘)の墓をあばいた。軍人が騒動を起こしても、〔張方は〕気にもとめなかった。〔張方は〕発議して西方への遷都を希望したが、その移動の痕跡をたどられないようにしようと思い、天子の外出時に拉致して遷都してしまおうと考えた。そこで恵帝に廟へ参拝するように要望したが、恵帝は聴き入れなかった。張方はとうとう兵を総動員して殿中に入り、恵帝を迎えた。恵帝は兵士がやってきたのを見ると、竹林に逃げて隠れたが、軍人が恵帝を引っ張り出した。張方は馬上で稽首して33馬上で頭を下げながら、ということであろうか。言った、「胡賊が好き放題に暴れていますが、宿衛軍はわずかしかございません。陛下はこんにち、臣の軍塁へ行幸なさってください。臣が災難を防いでみせましょう。身命を賭して戦い、決して裏切りません」。このとき、軍人は殿中に乱入し、競って流蘇34色のついた羽や絹糸で作った穂状の飾り物。車馬や窓のカーテンなどにつける。(『漢辞海』)や武帳35『資治通鑑』胡三省注は『漢書』汲黯伝の顔師古注に引く孟康注「今御武帳、置兵闌五兵於帳中也」を引いている。この注自体がよく読めないが、武器を帳の中に陳列している部屋、という意味であるらしい。しかしこの意味では本文は通じない。同注で顔師古が却下している「武帳、織成帳為武士象也」という応劭の理解のほうが本文には都合がよい。を裂き、馬の帴(敷き物)36『資治通鑑』胡三省注に「馬藉」とあるのに拠る。またがるところに敷くものかと思うが。にしてしまった。張方は恵帝を奉じて弘農に到着した。河間王は司馬の周弼を派遣し、張方に皇太弟(成都王)を廃したい旨を伝えたが、張方は反対した。
恵帝が長安に着くと、張方を中領軍、録尚書事、領京兆太守とした。そのころ、豫州刺史の劉喬が檄書を発し、潁川太守の劉輿が范陽王虓を脅迫して皇帝の命令に逆らわせていると称していた。〔さらに〕東海王越らが山東で挙兵するに及んで、〔河間王は〕ようやく張方を派遣し、歩騎十万を統率させ、東海王らを遠征させた。張方は軍を覇上に駐屯したが、劉喬が范陽王らに敗れてしまった。河間王は劉喬の敗戦を知ると、おおいに不安を抱き、討伐を中止させようとしたが、張方が従わないのを心配し、ためらって決められなかった。
むかし、張方が山東(河間は冀州所属)から〔関中に〕やって来たとき、ひじょうに貧窮していたが、長安の富人の郅輔が厚く援助したのであった。張方が出世すると、郅輔を帳下督とし、郅輔ととても親密にしていた。河間王の参軍の畢垣は河間の名族であったが、張方に軽く見られていたので、怒りをつのらせて河間王に説いて言った、「張方は覇上に久しく駐屯していますが、山東の賊(東海王ら)の勢いが盛んであるのを知るや、ぐずぐずして進んでいません。災難が芽吹くまえに摘んでおくのがよいと思います。彼の親信の郅輔ならば張方の謀略をよく知っているはずでしょう」。繆播らもこれ以前に河間王と張方を離間させようとしていた。そこで河間王は郅輔を呼びつけさせた。畢垣は郅輔を出迎え、説いて言った、「張方がそむくつもりのようです。卿はそのことを知っていると噂されています。もし王がそのことを質問なさったら、卿はどのようにお答えなさいますか」。郅輔は驚き、「張方がそむくつもりなど、そんなこと本当に知りませんよ。どうしたらよいでしょうか」。畢垣、「王がおたずねになられたら、『はい』とだけお答えなさい。それしか助かる道はありません」。郅輔が入室すると、河間王は郅輔に質問した、「張方がそむくというのだが、卿はそのことを知っているのかね」。郅輔、「はい」。河間王、「卿は張方を討てるかね」。郅輔、「はい」。そこで河間王は郅輔に張方宛の書簡を届けさせることにし、書簡を渡す機会を利用して張方を殺させようとした。郅輔は張方と親密であったので、刀を携帯したまま入室したが、守閤(寝室の入口の守衛?)は疑念をもたなかった。〔張方が〕火のそばで〔書簡の〕封を開けているすきに、張方の首を斬った。河間王は郅輔を安定太守とした。これ以前、繆播らは、張方を斬って首を東海王に送れば、東軍に停戦を要求できる、と意見を述べていた。〔ところが東軍は〕張方の死を知ると、ますます競って入関しようとしたので、河間王は張方を殺してしまったことをひどく悔やみ、人をやって郅輔も殺してしまった。
解系(附:解結・解育)・孫旂・孟観・牽秀/繆播(附:繆胤)・皇甫重・張輔/李含・張方/閻鼎・索靖(附:索綝)・賈疋
(2021/2/11:公開)