巻六十 列伝第三十 閻鼎 索靖 賈疋

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解系(附:解結・解育)・孫旂・孟観・牽秀繆播(附:繆胤)・皇甫重・張輔李含・張方閻鼎・索靖(附:索綝)・賈疋

閻鼎

 閻鼎は字を台臣といい、天水の人である。最初は太傅の東海王越の参軍(太傅府の参軍)となり、〔ついで〕巻令に移ったが、豫州刺史の政務を代行し、許昌に駐屯した1巻県は司州滎陽郡の属県。なぜ豫州なのか、なぜ県令が刺史を代行するのか等々思うところはあるが、西晋末の人事のようなのでいろいろ事情があるのだろう。。母の喪に遭ったため、密県内で西州(西中国)出身の流人数千人を集め、郷里へ帰ろうとした。ちょうどそのころ、京師が失陥したため、秦王鄴(のちの愍帝)が密県内へ出奔し、〔また同じく京師から逃れていた〕司空の荀藩、荀藩の弟である司隷校尉の荀組、中領軍の華恒、河南尹の華薈が密県に行台を立てていた。〔まもなく、秦王と荀藩らは、〕密県は賊と近いということで、南の許潁の地(許昌)へ行った。〔またいっぽう、〕司徒左長史の劉疇は密県で塢主になっていたが、中書令の李暅、太傅参軍の騶捷、〔同じく参軍の〕劉蔚、鎮軍長史の周顗、鎮軍司馬の李述はみな劉疇のもとへ赴いていた。〔荀組ら〕みなは、閻鼎には才覚があり、かつ精兵を擁していることをもって、閻鼎に冠軍将軍、豫州刺史を授け、劉蔚らをその参佐とするように荀藩(行台のボス)に勧めた。
 閻鼎は若くして大志を抱いていた。西方出身の流人が帰郷を望んでいるのに乗じて、〔閻鼎は〕功績を郷里で立てようと思い、そこで撫軍長史の王毗、撫軍司馬の傅遜と共謀し、秦王を推戴する計画を立て、劉疇や騶捷らに言った、「山東は覇王がおるべき場所ではない。関中のほうが良い」。河陽令の傅暢が閻鼎に書簡を送って勧めるには、秦王を奉じて洛陽に寄り、〔そのときに〕山陵を参拝し、〔それから寄り道せず〕まっすぐ進んで長安に拠り、〔長安で〕晋人と夷狄を安んじて糾合し、〔それでもって〕義軍を起こし、〔義軍によって〕宗廟を回復し、社稷の恥辱を雪ぎましょう、と。閻鼎はその書簡を得ると、すぐにでも洛陽へ行こうと思ったが、流人たちが言うには、北の道は黄河に近く、〔道中で賊に〕取り囲まれるのが心配だから、南から進み、武関から長安へ向かいたい、ということであった。〔そこで閻鼎は流人の希望に従うことにし、荀藩らといっしょに出発した。しかし〕劉疇らはみな山東の出身で、誰もが西方へ行きたがらず、荀藩、劉疇、騶捷らは〔道中で〕そろって逃げ散った2愍帝紀に拠って補足した。。閻鼎は荀藩を追ったが追いつかず、李暅らは〔閻鼎によって〕殺され、〔劉疇の一味のなかでは〕周顗と李述だけが逃げ延びた。〔閻鼎は〕そのまま秦王を奉じて進んだ。上洛に駐留したとき、山賊に襲われ、百余人が殺された。残った衆を率いて西に進み、藍田に到着した。このころ、劉聡〔の軍〕は長安へ向かっ〔て長安を落とし、占領してい〕たが、雍州刺史の賈疋に追い出され、敗走して平陽へ帰還していた3諸伝より補足しておくと、長安には南陽王模が出鎮していたが、劉聡は趙染、劉雅、劉曜、劉粲を派遣して攻めさせ、南陽王を降した。劉曜らは長安に留まったが、賈疋ら関中の晋軍がそれを攻めて敗走させた。この出来事をここで言っている。宗室伝・高密文献王泰伝附南陽王模伝、賈疋伝、劉聡載記を参照。。賈疋は人をつかわして秦王を奉迎させ、〔閻鼎らは〕とうとう長安に着いた。そして大司馬の南陽王保、衛将軍の梁芬、京兆尹の梁綜らと共同で〔秦王を〕推戴し、皇太子に立て、壇に登って天に報告し、社稷と宗廟を立てた。〔皇太子は〕閻鼎を太子詹事とし、百揆を総べさせた。
 梁綜と閻鼎は権力を争い、閻鼎は梁綜を殺してしまい、王毗を京兆尹とした。閻鼎は大謀の首謀者であり、功績を天下に立てたのであった。始平太守の麹允と撫夷護軍の索綝はともに閻鼎の功績をねたみ、かつ権力を掌握したいと望んでいた。馮翊太守の梁緯と北地太守の梁粛はどちらも梁綜の同母弟で、索綝の姻戚であった。〔麹允らは〕共謀して閻鼎の排除を画策した。そこで、彼には主君をないがしろにする心があり、大臣を独断で殺していると論述して証明し、閻鼎の討伐を願い出て、とうとう閻鼎を攻めた。閻鼎は雍へ出奔したが、氐の竇首に殺され、首は長安に送られた。

索靖

 索靖は字を幼安といい、敦煌の人である。代々、官を輩出する家で、父の索湛は北地太守であった。索靖は若くして群を抜いた資質を備えていた。郷人の氾衷、張甝、索紾、索永といっしょに〔洛陽の〕太学へ行ったが、〔みなそろって〕名声を天下に響かせ、「敦煌五龍」と呼ばれた。四人はみな若死にしてしまい、索靖だけが〔学業を大成し、〕経書と史書を博覧し、内緯(緯書?)に広く通じていた。州が別駕に辟召し、郡が賢良方正に挙げ、〔その試験の〕対策(回答のこと)は高第(優秀な成績)であった。傅玄や張華は索靖と一度会っただけなのに、両者とも索靖と交際を厚く結んだ。
 駙馬都尉に任じられ、〔ついで〕地方に出て西域戊己校尉の長史に任命された。太子僕で同郡出身の張勃が特別に上表し、索靖の才能は常人をしのぐものであるから、台閣(尚書台)におらせるのが適切であり、遠く辺境の要塞に出してしまうのは適当ではないと述べた。武帝はこれを聴き入れ、尚書郎に抜擢した。襄陽の羅尚、河南の潘岳、呉郡の顧栄と同僚であったが、みな索靖を有能と評し、敬服した。
 索靖は尚書令の衛瓘とともに草書の名手としても知られており、武帝はその書をたいへん気に入っていた。衛瓘の書(草書?)は索靖よりも優れていたが、楷書に関しては索靖にまったくかなわなかった。
 索靖は尚書台で長年勤務したのち、雁門太守に任じられ、魯相に移り、さらに酒泉太守に任じられた。恵帝が即位すると、関内侯の爵を賜った。
 索靖には先見の明があり、天下がやがて混乱するであろうと察知し、洛陽の宮門の銅駱(駱駝の銅像)を指さして、嘆息して言った、「きっとおまえを荊棘(紛争の比喩)のただなかで見ることになるだろう」。
 元康年間、西戎(斉万年のこと)が反乱を起こすと、索靖を大将軍の梁王肜の左司馬(大将軍府の左司馬)に任じ、蕩寇将軍を加えた。〔索靖は〕兵を粟邑に駐屯させ、賊を攻撃し、これを破った。始平内史に移った。趙王倫が帝位を奪うと、索靖は三王(斉王冏ら)の起義に呼応し、左衛将軍〔の王輿〕が孫秀を討ったときに〔索靖も協力して?〕功績をあげたことをもって、散騎常侍を加えられ、後将軍に移った。太安の末年、河間王顒が挙兵して洛陽へ向かうと、索靖を使持節、監洛城諸軍事、游撃将軍に任じ、雍州、秦州、涼州の義兵を統率させて賊(河間王軍)と戦わせ、おおいにこれを破ったものの、索靖も負傷して卒した。太常を追贈された。享年六十五。のち、さらに司空を追贈され、封国を安楽亭侯に進められ、荘の諡号をおくられた。
 索靖は『五行三統正験論』を著わし、陰陽の気の運行を体系的に論じた。また『索子』二十巻、『晋詩』二十巻を編纂した。さらに『草書状』を書いた。その文章は次のとおり。

(『草書状』は省略する。)

 かつて、索靖が姑臧に行ったとき、城の南に広がる石が多い荒地を見て、「のちにここに宮殿が建つだろう」と言った。張駿の時代になると、この地に南城が築かれ、宗廟が置かれ、宮殿が建てられたのであった。
 索靖には索鯁、索綣、索璆、索聿、索綝の五人の息子がおり、みな秀才に挙げられた。索聿は安昌郷侯となり、卒した。末子の索綝がもっとも有名であった。

〔索綝〕

 索綝は字を巨秀という。若くして群を抜いた資質を備えていた。索靖はいつも、「綝には国政策定に与る素質がある。書類仕事はふさわしくない。州郡の吏は我が子を働かせるのにふさわしい職ではない」と言っていた。秀才に挙げられ、郎中に任じられた。兄の仇に報復したときは、三十七人をみずから殺したので、世の人々は彼を勇壮と評した。まもなく太宰参軍に移り、好畤令に任じられ、中央に入って黄門侍郎となり、地方に出て征西の軍事に参与し(征西将軍府の参軍事となり)、長安令に移った。在官中は〔どの官でも〕評価を得た。
 成都王穎が恵帝を連行し、鄴へ行幸させたが、成都王は王浚に敗れたため、とうとう恵帝は流浪するはめになった。河間王顒は張方と索綝を東に行かせて天子を迎えさせた。〔索綝は〕功績によって鷹揚将軍に任じられ、南陽王模の従事中郎に移った。劉聡が関東を侵略すると、索綝を奮威将軍とし、劉聡を防がせた。索綝は劉聡の将の呂逸を斬り、さらに劉聡の徒党の劉豊を破った。新平太守に移った。劉聡の将の蘇鉄、劉五斗らが三輔で掠奪をはたらくと、索綝を安西将軍、馮翊太守に任じた。索綝は刑罰と恩賞をはっきり示して臨んだので、中華も夷狄も服従し、賊も乱暴をはたらこうとしなくなった。
 懐帝が平陽へ連行されると、長安も陥落してしまい、〔長安に出鎮していた〕南陽王は殺されてしまった。索綝は泣いて言った、「王の死に殉じるよりは、むしろ伍子胥になってやろう」。そこで安定に行き、雍州刺史の賈疋、扶風太守の梁綜、安夷護軍の麹允らと義兵を集め、しきりに賊の徒党を破り〔、長安から追い出すと〕、〔長安の〕旧来の建物を修繕し、宗廟を〔洛陽から長安に〕移して設置した。進軍して新平〔太守の竺恢〕を救援し、大小あわせ百回ほど戦闘し、索綝はみずから賊の帥の李羌を捕えた。〔索綝は〕閻鼎とともに秦王鄴を皇太子に立て、〔やがて皇太子は〕帝位につくこととなった。これが愍帝である。索綝は侍中、太僕に移り、まっさきに天子(愍帝)を迎えたこと、および〔愍帝即位時に〕壇に登って璽を授けたことという功績によって、戈居伯に封じられた。さらに前将軍、尚書右僕射、領吏部尚書、京兆尹に移り、平東将軍を加えられ、〔ついで〕将軍号を征東将軍に進められた。まもなく、また詔が下った、「朕はかつて、厄運に陥り、家の不幸に遭い、宛楚の地4愍帝紀、閻鼎伝によると、密から宛へ行き、そこから武関へ向かって関中に入ったそうで、この道中に経た地のこと指しているのだろう。にさすらって、旧来の都(洛陽)を失ってしまった。幸運にも、宗廟(祖先の神霊)が恩沢をもたらし、百官が力を尽くしたので、藩国を従えることができ、諸侯の上をまかせられたのである。社稷が亡びなかったのは、まことに公(索綝)の助力のゆえであるから、百揆を輔翼し、朕を支えてほしい。そこで、衛将軍を授け、太尉を領させ、位は特進とする。軍事も国政もすべて公に委任する」。
 劉曜が王城(長安)に接近してくると、索綝を都督征東大将軍5愍帝紀、建興三年十月の条によれば、都督宮城諸軍事になっている。この都督になり、かつ征東将軍を大将軍に進められた、ということか。、持節とし、劉曜を討伐させた。〔索綝は〕劉曜の呼日逐王の呼延莫を破った。その功績により、〔索綝を〕上洛郡公に封じ、食邑は一万戸とし、夫人の荀氏に新豊君を授け、子の石元を〔上洛国の〕世子とし、二人の子弟に郷亭侯を賜った。劉曜が入関して、麦の実りを刈り取っていると、索綝がふたたびこれを攻めて破った。長安から〔出陣して〕劉聡〔の軍〕を討伐したところ、劉聡の将の趙染は勝利を重ねてきたことに自信をもち、慢心している様子であり、数百の精鋭騎兵を率いて索綝に戦いをしかけた。〔索綝は〕これをおおいに破り、趙染は単騎で敗走した。驃騎大将軍、尚書左僕射、録尚書に移り、承制して政務を執った。
 劉曜がふたたび軍を率いて馮翊に侵入した。愍帝はしきりに南陽王保から兵を徴収していたので、南陽王の左右の者たちが会議して言った、「蛇が手を噛めば、壮士はその腕を切り落とすもの6原文「蝮蛇在手、壮士解其腕」。いちおう出典があり、陳琳「檄呉将校部曲文」(『文選』巻四四、所収)に「蝮蛇在手、則壮士解其節」とある。李善はさらにこの出典として、『漢書』田儋伝に「蝮蠚手則斬手」とあるのを挙げている。。しばらく〔長安に通じる〕隴の道路を遮断して7宗室伝・高密文献王泰伝附保伝によれば、南陽王は上邽に駐留し、秦州の地を保有していた、つまり長安以西に割拠していたという。、様子を見ようでないか」。従事中郎の裴詵は、「蛇はもう頭を噛んでいるぞ。頭を切り落とせるのか」と言った。南陽王は〔今回も愍帝の徴兵に応じることに決め、〕胡崧を行前鋒都督とし、諸軍が集合するのを待ってから出発させることにした。麹允は天子を連れて南陽王のもとへ行こうと主張していたが、索綝は、南陽王は必ず私欲をほしいままにするであろうと反対したので、沙汰止みになった。長安以西は朝廷を奉じなくなった。百官は貧窮し、野生の稲を採取して自活していた。このころ、三秦の尹桓、解武ら数千家が漢の覇陵(文帝陵)と杜陵(宣帝陵)を盗掘し、多くの財宝を得ていた。愍帝は索綝にたずねた、「漢の山陵にはどうしてあんなにたくさんの物が入っているのだろう」。索綝は答えて言った、「漢の天子は即位して一年経つと、山陵を築きます。〔そして毎年の〕天下の貢賦は三分割され、宗廟、賓客、山陵に充てられます。漢の武帝は在位が長かったので、崩御したときには、茂陵に物が入りきらず、周囲に植えてあった樹木はすべてひとかかえもあるほどに成長していました。赤眉が茂陵の副葬物を発掘したときは、半分も取りきれず、現在においても朽ちた帛が山積みにされ、珠玉が残されています。覇陵と杜陵は節倹な山陵で、この二陵も〔茂陵と同様に〕百世の教訓なのです8理屈がよく把握できないが、文帝と宣帝は武帝ほどではないがやはり在位が長かった皇帝で、だけど武帝陵ほど贅沢を極めたものにはなっていない、栄華を極めたような武帝陵と在位年数に比して慎ましい文帝・宣帝陵はどちらも後世の教訓である、ということだろうか。」。
 のち、劉曜がまたも軍を率い、京師を包囲し、索綝は麹允と長安小城にこもった。胡崧は〔索綝らの?〕檄書を受け取ると急いで出動し、劉曜を霊台で破った。〔ところが〕胡崧は、国家の威厳が成れば、麹允と索綝の功績が高まってしまうことを考慮したため、武器を渭水の北に棄て、けっきょく槐里へ帰ってしまった。城中は貧窮し、人々は食い合い、死ぬのも逃げるのも止めようがなく、涼州の義兵千人だけが死を賭して離れなかった。愍帝は侍中の宋敞をつかわし、書簡を劉曜に送って降ろうとした。索綝はひそかに宋敞を留めおいて、自分の子をつかわして劉曜を説得した、「現在、城中にはまだ一年分の食糧があり、容易には落とせません。もし、綝(わたし)に車騎将軍、儀同三司、食邑一万戸の郡公を保証してくだされば、城をもって降ろうと思います」。劉曜は索綝の使者を斬って送り返し、言った9以下の言葉の宛て先は、原文からだといまいちわからない。索綝かもしれないし愍帝かもしれないし、独り言(自軍の将兵)かもしれない。ここでは愍帝らに向けて言ったものとみなして訳出した。、「帝王の軍というものは、義にもとづいて行動するものだ。孤(わたし)は軍隊を率いて十五年になるが、あざむいて敵を破ったことは一度もない。必ず兵力を出し尽くし、勢いを極め尽くしてから10小手先を弄さず、敵に力勝負でぶつかる、と言っているのであろう。、敵を捕えている。いま、索綝はこのようなことを言ってきたが、いわゆる『天下の悪は同じもの』というものだ11原文「天下之悪一也」。『左伝』荘公十二年が出典。弑逆のような重大な悪事は、国の違いという立場を越えて普遍的に憎まれるものなのだ、という意味(だと思う)。索綝が言ってきたことは、敵味方という立場の違いを越え、普遍的に憎むべき悪事である、ということだろう。。そのため、ただちに使者を殺したのである。本当に兵士も食糧もまだ十分であるならば、奮い立って固守すればよい。食糧はなく、兵士も少ないのならば、さっさと天命を悟ればよい。ひとふり強く打ってみたら、玉(天子)も石(索綝)もどちらも砕けてしまうのが心配だが」。愍帝が城から出て降服すると、索綝は愍帝に随行して平陽に着いた。劉聡は、索綝が本朝(晋朝)に不忠であったことを理由に、東市で殺した。

賈疋

 賈疋は字を彦度といい、武威の人で、魏の太尉であった賈詡の曾孫である。若くして大望を抱き、度量と名望は抜群で、賈疋に会った人は誰もが喜んで心服した。とりわけ武人から尊敬を受け、〔武人らは賈疋に〕命を預けたいと願い出たのであった。最初は公府に辟召され、そのまま顕職を歴任し、安定太守に移った。雍州刺史の丁綽は貪欲かつ横暴で、百姓の支持を失っていたが、〔丁綽は〕賈疋のことを南陽王模にそしったので、南陽王は軍司の謝班に賈疋を討たせた。賈疋は瀘水へ逃げ、胡の彭蕩仲、氐の竇首と関係を結んで兄弟となり、人々を集めて謝班を攻めた。丁綽は武都へ逃げ、賈疋はふたたび安定に入り、謝班を殺した。懐帝12原文は「愍帝」だが、本伝ではこのあとで秦王鄴(愍帝)を関中に迎えており、不整合である。中華書局校勘記に引く説に従い、「懐帝」に改める。は賈疋を驃騎将軍、雍州刺史とし、酒泉公に封じた。
 このころ、諸郡の百姓は飢饉で、遺体は原野をおおいつくすほどであり、百人に一人も生き残っていなかった。賈疋はのべ二万余人の戎狄と晋人二万余人(2022/9/2:修正)を率い、長安〔に駐留する劉曜〕を討とうとしたが13長安には南陽王模が出鎮していたが、劉曜らに攻められて降り、その後は劉曜が長安に駐留していた。賈疋が長安を討ちに行ったのはそのころのことであろう。、西平太守の竺恢も〔劉曜らに降らず、郡に〕こもって守っていた。劉粲は賈疋の襲来を知ると、劉曜、劉雅、趙染に賈疋を防がせた。〔劉雅らは〕まず竺恢を攻めたが、落とせなかった。賈疋は〔劉曜軍を〕迎撃し、おおいにこれを破った14劉聡載記によれば、竺恢には劉雅、趙染があたり、賈疋には劉曜があたったらしいので、そのように補っておいた。なお、本伝は竺恢を「西平太守」とするが、「新平太守」が適当のようである(中華書局の校勘記を参照)。『資治通鑑』の整理によれば、新平に劉雅らが攻めて来て、それをさらに索綝が救援した(索靖伝附綝伝)という時系列であるらしい。。劉曜は流矢に当たり、退却して敗走した。賈疋は劉曜を追撃して甘泉まで至った。転進し、渭橋から彭蕩仲を襲撃し、これを殺した15『資治通鑑』に「疋遂襲漢梁州刺史彭蕩仲、殺之」とあり、劉氏漢の官を帯びていることから、長安陥落時に劉氏に降っていたのではないかと思われる。そのこと、もしくはそのあとふたたび晋に帰服しようとしないことを賈疋が咎めたのであろう。。とうとう秦王鄴を迎え、皇太子に奉じた。のち、彭蕩仲の子の彭夫護が群胡を率いて賈疋を攻め、賈疋は敗走したが、夜、渓流に落ちてしまい、彭夫護に殺されてしまった16『資治通鑑』は、彭夫護が攻めて来たが「わざと負けて逃げたところ、賈疋はこれを追撃し(陽不勝而走、疋追之)」、そして賈疋は落下して殺されたと記述している。『資治通鑑考異』によれば、これは『十六国春秋』に従った記述なのだという。なお、忠義伝・麹允伝は、賈疋は「屠各」に殺されたと記す。いっぽう、『資治通鑑』胡三省注は彭蕩仲を「盧水胡」とする。愍帝紀、永嘉六年九月の条だと、「賈疋討賊張連、遇害」とあり、よくわからない人名が出ている。。賈疋は知勇をそなえ、節義があった。晋室を正して回復するのをみずからの使命だと考えていたが、不幸にも転落してしまった。当時の人々はみな彼を悼んだ。

 史臣曰く、(以下略)

解系(附:解結・解育)・孫旂・孟観・牽秀繆播(附:繆胤)・皇甫重・張輔李含・張方閻鼎・索靖(附:索綝)・賈疋

(2021/2/11:公開)

  • 1
    巻県は司州滎陽郡の属県。なぜ豫州なのか、なぜ県令が刺史を代行するのか等々思うところはあるが、西晋末の人事のようなのでいろいろ事情があるのだろう。
  • 2
    愍帝紀に拠って補足した。
  • 3
    諸伝より補足しておくと、長安には南陽王模が出鎮していたが、劉聡は趙染、劉雅、劉曜、劉粲を派遣して攻めさせ、南陽王を降した。劉曜らは長安に留まったが、賈疋ら関中の晋軍がそれを攻めて敗走させた。この出来事をここで言っている。宗室伝・高密文献王泰伝附南陽王模伝、賈疋伝、劉聡載記を参照。
  • 4
    愍帝紀、閻鼎伝によると、密から宛へ行き、そこから武関へ向かって関中に入ったそうで、この道中に経た地のこと指しているのだろう。
  • 5
    愍帝紀、建興三年十月の条によれば、都督宮城諸軍事になっている。この都督になり、かつ征東将軍を大将軍に進められた、ということか。
  • 6
    原文「蝮蛇在手、壮士解其腕」。いちおう出典があり、陳琳「檄呉将校部曲文」(『文選』巻四四、所収)に「蝮蛇在手、則壮士解其節」とある。李善はさらにこの出典として、『漢書』田儋伝に「蝮蠚手則斬手」とあるのを挙げている。
  • 7
    宗室伝・高密文献王泰伝附保伝によれば、南陽王は上邽に駐留し、秦州の地を保有していた、つまり長安以西に割拠していたという。
  • 8
    理屈がよく把握できないが、文帝と宣帝は武帝ほどではないがやはり在位が長かった皇帝で、だけど武帝陵ほど贅沢を極めたものにはなっていない、栄華を極めたような武帝陵と在位年数に比して慎ましい文帝・宣帝陵はどちらも後世の教訓である、ということだろうか。
  • 9
    以下の言葉の宛て先は、原文からだといまいちわからない。索綝かもしれないし愍帝かもしれないし、独り言(自軍の将兵)かもしれない。ここでは愍帝らに向けて言ったものとみなして訳出した。
  • 10
    小手先を弄さず、敵に力勝負でぶつかる、と言っているのであろう。
  • 11
    原文「天下之悪一也」。『左伝』荘公十二年が出典。弑逆のような重大な悪事は、国の違いという立場を越えて普遍的に憎まれるものなのだ、という意味(だと思う)。索綝が言ってきたことは、敵味方という立場の違いを越え、普遍的に憎むべき悪事である、ということだろう。
  • 12
    原文は「愍帝」だが、本伝ではこのあとで秦王鄴(愍帝)を関中に迎えており、不整合である。中華書局校勘記に引く説に従い、「懐帝」に改める。
  • 13
    長安には南陽王模が出鎮していたが、劉曜らに攻められて降り、その後は劉曜が長安に駐留していた。賈疋が長安を討ちに行ったのはそのころのことであろう。
  • 14
    劉聡載記によれば、竺恢には劉雅、趙染があたり、賈疋には劉曜があたったらしいので、そのように補っておいた。なお、本伝は竺恢を「西平太守」とするが、「新平太守」が適当のようである(中華書局の校勘記を参照)。『資治通鑑』の整理によれば、新平に劉雅らが攻めて来て、それをさらに索綝が救援した(索靖伝附綝伝)という時系列であるらしい。
  • 15
    『資治通鑑』に「疋遂襲漢梁州刺史彭蕩仲、殺之」とあり、劉氏漢の官を帯びていることから、長安陥落時に劉氏に降っていたのではないかと思われる。そのこと、もしくはそのあとふたたび晋に帰服しようとしないことを賈疋が咎めたのであろう。
  • 16
    『資治通鑑』は、彭夫護が攻めて来たが「わざと負けて逃げたところ、賈疋はこれを追撃し(陽不勝而走、疋追之)」、そして賈疋は落下して殺されたと記述している。『資治通鑑考異』によれば、これは『十六国春秋』に従った記述なのだという。なお、忠義伝・麹允伝は、賈疋は「屠各」に殺されたと記す。いっぽう、『資治通鑑』胡三省注は彭蕩仲を「盧水胡」とする。愍帝紀、永嘉六年九月の条だと、「賈疋討賊張連、遇害」とあり、よくわからない人名が出ている。
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