巻四十四 列伝第十四 石鑑 温羨

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鄭袤(附:鄭黙・鄭球)・李胤/盧欽(附:盧浮・盧珽・盧志・盧諶)華表(附:華廙・華恒・華嶠)石鑑・温羨

 目 次

石鑑

 石鑑は字を林伯といい、楽陵の厭次の人である。寒門の出身で、平素から公明誠信な志をもっていた。魏に出仕し、尚書郎、侍御史、尚書左丞、御史中丞を歴任し、〔御史中丞在任中は〕多くのひとを糾弾したので、朝廷の人々は石鑑のことを畏怖した。地方に出て并州刺史、仮節、護匈奴中郎将となった。
 武帝が受禅すると、堂陽子に封じられた。中央に入って司隷校尉となり、列曹尚書に転じた。そのころ、秦涼(西辺)が胡虜に破られたため、〔朝廷は〕石鑑を派遣して都督隴右諸軍事としたが1巻三、武帝紀、泰始六年六月に、秦州刺史の胡烈が胡慮(樹機能)に敗れて戦死したので、石鑑を行安西将軍、都督秦州諸軍事として派遣したとの記事がある。都督名がちがっているものの、おそらくこのときのことであろう。樹機能討伐の首尾については本伝に記述されていないが、『資治通鑑』巻七九、泰始六年六月に「〔石〕鑑討樹機能、卒不能克」とあり、討伐は失敗に終わったようである。翌七月には汝陰王駿(のちの扶風王駿)が関中に派遣されているから、討伐失敗を承けて汝陰王と交代させられたのであろう。、成果の報告が虚偽だったかどで罪に問われ、免官された2石鑑は関中で、安西将軍軍司であった杜預と諍いを起こし、杜預を弾劾して中央に送還してしまっていた。石鑑が遠征から戻ると、その成果報告が事実ではなかったため、今度は杜預が石鑑を弾劾した。こうして二人は言い合いをはじめたため、とうとう二人とも罪に問われて免官になったという。巻三四、杜預伝に「石鑑自軍還、論功不実、為預所糾、遂相讐恨、言論諠譁、並坐免官」とある。。その後、鎮南将軍、豫州刺史となったが、呉賊を討伐したときの首級の数を粉飾したかどで罪に問われた3『資治通鑑』はこの一件を泰始七年春に配列している。これに従えば、ここで言われている呉の討伐とはいわゆる伐呉のことではない。。詔が下った、「むかし、雲中太守の魏尚は〔報告した〕首級の数が事実でなかったために刑罰を受け4魏尚は前漢のひと。この話は『史記』巻一〇二、馮唐列伝に見える。、武牙将軍の田順は捕虜の数を水増ししたために〔罪に問われて〕自殺した5田順は前漢のひと。宣帝の時代、趙充国ら五将軍とともに出兵して匈奴を討ったが、捕虜数の報告を水増ししたことなどで罪に問われ、自殺した。『漢書』巻九四、匈奴伝上などに見える。。事実を偽って法にそむくのは、古今を問わずに憎まれる行動である。石鑑は大臣の位にあり、私が信頼を寄せている人材であった。かつて西方における軍事活動では、公は朝廷を欺き、失敗を成功と偽り、最後まで事実を点検しようとしなかった6原文「竟不推究」。よくわからない。〈虚偽だと告発された功績の実態を調べなおしたり確認したりする作業をしなかった〉ということ、つまり〈報告を訂正しようとしなかった〉という意味だろうか。とりあえずこの意味で訳出した。。中間(ついこの前)、罷免からしばらく経つのを俟たずに、すぐにふたたび任用して、過失を補ってくれるように期待していたのだが、なんと下々の者たちと口裏を合わせて虚偽を報告してきた。大臣たるもの、義としてこのようなふるまいが許されるだろうか。有司の奏上は正しいが7原文「有司奏是也」。後文を鑑みるに、有司はおそらく死罪を要請したのであろう。、顧慮してみると、〔情がまだ残っていて有司の言うとおりにするには〕忍びない。いま、郷里に帰らせ、終身にわたって登用を許可しないこととするが、爵土を削ることはしない」。しばらくのち、光禄勲に任じられ、ふたたび司隷校尉となり、じょじょに昇進して特進を加えられ、右光禄大夫、開府に移り、領司徒となった。前代では、三公が冊授されたさいはいつも小会を催していたが、これは宰相を尊ぶための制度であった。しかし魏末以降、廃れて開催されていなかった。石鑑が領司徒となるに及んで、小会の開催を命じる詔が下った。こうして、〔三公冊授時の小会が〕とうとう常制となったのである。太康の末年、司空に任じられ、領太子太傅となった。
 武帝が崩御すると、石鑑は中護軍の張劭とともに山陵の警衛を監督した。そのころ、大司馬の汝南王亮が太傅の楊駿に疑念を向けられていたので、あえて葬儀に出席しようとせず、城外に出て野営していた。ときに、汝南王が挙兵して楊駿を討とうとしていると密告する者がおり、楊駿はおおいに恐懼し、楊太后に進言して恵帝に手詔を作成させた。そしてそれを石鑑と張劭に授け、陵兵を統率して汝南王を討つように命じた。張劭は楊駿の甥(姉妹の子)であったので、即座に部下を引き連れ、石鑑に早急の進発を催促した。しかし石鑑は承服できないと思ったので、討伐命令を保留し、ひとをつかわしてこっそりと汝南王の様子を探らせたところ、すでに別途を進んで許昌へ戻っていた。かくして楊駿は討伐を中止にしたため、論者は石鑑のことを称賛した。山陵の任務が終わると、昌安県侯に封じられた。
 元康のはじめ、太尉となった。八十余歳にして意気軒昂で、みずから若者のつもりであったので、世の人々はこれを称えていた。ほどなく薨じ、元の諡号をおくられた。子の石陋、字は処賤が封爵を継ぎ、屯騎校尉を歴任した8なお石鑑の子の石尟とその子の石定は墓誌が見つかっている。趙超『漢魏南北朝墓誌彙編』に収録。

温羨

 温羨は字を長卿といい、太原の祁の人で、漢の護羌校尉であった温序の後裔である。祖父の温恢は魏の揚州刺史であった。父の温恭は済南太守であった。〔温羨の〕兄弟六人はみな世に名が知られ、「六龍」と号されていた。温羨は若くして明敏をもって称賛され、斉王攸が掾に辟召し、〔ついで〕尚書郎に移った。恵帝が即位すると、豫州刺史に任じられ、〔中央に〕入って散騎常侍となり、昇進をかさねて列曹尚書に移った。斉王冏が〔趙王倫を討って〕輔政すると、温羨は〔父の〕攸の故吏であったことから、特別に温羨に親愛を加え、吏部尚書に転じた。
 これより以前、〔趙王が賈后らを誅殺したとき、同時に〕張華が誅殺されていたが、斉王は建議して張華の官位と爵を回復したいと提案した9このときの斉王の発議は張華伝、解系伝に掲載されている。。論者のなかには〔張華が賈后による愍懐太子の廃位を防げなかったことを理由に〕反対する者もいたが、温羨はそれに反駁して言った、「天子より以下〔、大夫にいたるまで〕、諫争の臣〔の設置人数〕はおのおの格差があり〔、諫争の臣を置くことで過失を防ぐのがいにしえ以来のならわしであり〕ますから10原文「自天子已下、争臣各有差」。『孝経』諫諍章に「昔者天子有争臣七人、雖無道、不失其天下。諸侯有争臣五人、雖無道、不失其国。大夫有争臣三人、雖無道、不失其家」とあるのにもとづいているものと思われる。温羨がこれを引いて言わんとするところがいまいち明瞭でないので、おそらく言いたいであろうことを〔 〕で補ってみた。、罪を一人だけに帰すことはできません11この議題においては、罪は愍懐太子の廃位を防げなかったことを指すが、諫める立場にあった者は複数存在したのであるから、張華一人だけを批判するのはおかしいのではないか、ということ。こういう主張を展開するというのは、張華に対してそのような批判が集中的に向けられていた当時の状況を推測させるが、実際のところ、張華が誅殺された表向きの理由からして、愍懐太子の廃位を抑止できなかった責任を問われてのことだった可能性がある。張華伝に「華将死、謂張林曰、『卿欲害忠臣耶』。林称詔詰之曰、『卿為宰相、任天下事、太子之廃、不能死節、何也』。華曰、『式乾之議、臣諫事具存、非不諫』。林曰、『諫若不従、何不去位』。華不能答」とある。。ゆえに、晏子は『〔君主が社稷のためではなく〕私欲のために死んだのならば、親愛を加えられていた臣以外にこの事態に対処しようと思う者がいるだろうか』と言ったのです12「故」(ゆえに)が文頭にあるが、前文と論旨がつながっているように思えない(「もとより」と読もうかとも思ったが、それも違和感があるので却下した)。思うに、もとは前文のあとに「そもそも場合によっては、必ずしも死を冒してまで諫言しなければならないわけではない」という類いの一般論が述べられ、「ゆえに晏子はこう言ったのである」とつづくのが本来の論理展開だったのではないだろうか。そのような疑いが晴れないのだが、とりあえずこのまま補うことなく訳出しておく。晏子の言葉の原文は「為己死亡、非其親暱、誰能任之」で、出典は『左伝』襄公二十五年に載せる晏子の言葉「君民者、豈以陵民、社稷是主。臣君者、豈為其口実、社稷是養。故君為社稷死、則死之、為社稷亡、則亡之。若為己死而己亡、非其私暱、誰敢任之」。杜預注に「私暱、所親愛也。非所親愛、無為当其禍」とある。。〔そうして晏子は崔杼に弑された斉の荘公に殉じませんでしたが、張華が死を冒してでも諫争しなかったことを責めるべきなのでしょうか。〕13晏子の故事を引いて言いたいのはこういうことであろう。張華伝によると、斉王冏に張華らの名誉回復を発案するよう勧めたのは摯虞で、彼の斉王宛の箋に「議者有責華以愍懐太子之事不抗節廷争。当此之時、諫者必得違命之死。先聖之教、死而無益者、不以責人。故晏嬰、斉之正卿、不死崔杼之難。……理尽而無所施者、固聖教之所不責也」とあるのにもとづいて解釈を補ってみた。晋の里克が二人の庶子を殺したこと14晋の献公の没後、新たに立った驪姬の子の奚斉、および奚斉の後に立ったその弟の悼子(卓子)をあいついで殺したこと。里克は夷吾を迎えて君に立てた(晋の恵公)。、斉の陳乞が〔君主の荼を弑し、荼の兄の〕陽生(斉の悼公)を立てたこと、漢朝が呂氏を誅殺したこと、いずれも長年かけてようやく計画を実行できました。〔悪徳の〕主君に仕えて生き延びつつ、悪君を廃して新君を立てるという志を数か月のあいだに実行できた者はいまだかつて存在しません15当時、そんなにすぐ賈后の陰謀を阻止することなど不可能であった、という擁護であろう。。〔愍懐太子の廃位を議論した〕式乾殿での会議のさい、張華だけが〔廃位を〕諫めました。〔当時の〕宰相たちは協調的ではなく、風教を受けて威儀を正し、〔君主を〕善事に導くことができず16原文「不能承風賛善」。「賛善」は「賛美する」の意で使われることが多いが、ここでは「善を助ける」と読んだ。、上の指示を仰いで命令に従うだけの様相でしたから、〔そのようななかでの諫言は〕なんと困難なことではないでしょうか。まして、このたびは皇后が皇太子をそしり、殺したわけですが、〔君子は〕内難に関与しないのであり17原文「内難不預」。『公羊伝』荘公二十七年に「君子辟内難、而不辟外難」とあるのにもとづくか?、〔内難に関わるのは〕礼の所在ではありませんから、諫言を挟むのはなおさら困難なことなのです。くわえて、皇后のご身分は皇帝と等しく、尊貴さは帝位と同等で、罪はあくまで子を無罪の罪に陥れたことなのでして、反逆の事件とはならず、義として討つべきところにもなりません。いま、張華が子に冤罪を着せた皇后を廃せなかったことを、晋の趙盾が主君を殺した賊を討たなかったことと同列に置き、張華を降格して罪を責めていますけれども、義において〔二つの事例は〕通じていません」。最終的には、張華は爵と官位を回復できたのであった。
 その後、天子に従軍して成都王穎を討伐し、功績をあげたことをもって大陵県公に封じられ、食邑は千八百戸とされた。地方に出て冀州刺史となり、後将軍を加えられた。范陽王虓が許昌で敗れると、〔河北に渡って〕みずから冀州を牧そう(治めよう)としたため、温羨は范陽王に冀州刺史を譲った。恵帝が長安へ行幸すると、温羨を中書令としたが、就任しなかった。恵帝が洛陽へ帰還すると、召して中書監とし、散騎常侍を加えた。拝命する前に恵帝が崩じてしまい、懐帝が即位すると、左光禄大夫、開府(開府儀同三司?)、領司徒に移った。識者はみな出世が速いと評した。官位に就いてほどなく、病気で卒した。司徒を追贈され、元の諡号をおくられた。温祗、温允、温裕の三人の息子がいた。
 温祗は字を敬斉といい、太傅西曹掾であった。温允は字を敬咸といい、太子舎人であった。温裕は字を敬嗣といい、武安長公主を降嫁され、光禄大夫にまでのぼった。

 史臣曰く、(以下略)

鄭袤(附:鄭黙・鄭球)・李胤/盧欽(附:盧浮・盧珽・盧志・盧諶)華表(附:華廙・華恒・華嶠)石鑑・温羨

(2021/2/11:公開=温羨伝)
(2023/5/23:公開=石鑑伝)

  • 1
    巻三、武帝紀、泰始六年六月に、秦州刺史の胡烈が胡慮(樹機能)に敗れて戦死したので、石鑑を行安西将軍、都督秦州諸軍事として派遣したとの記事がある。都督名がちがっているものの、おそらくこのときのことであろう。樹機能討伐の首尾については本伝に記述されていないが、『資治通鑑』巻七九、泰始六年六月に「〔石〕鑑討樹機能、卒不能克」とあり、討伐は失敗に終わったようである。翌七月には汝陰王駿(のちの扶風王駿)が関中に派遣されているから、討伐失敗を承けて汝陰王と交代させられたのであろう。
  • 2
    石鑑は関中で、安西将軍軍司であった杜預と諍いを起こし、杜預を弾劾して中央に送還してしまっていた。石鑑が遠征から戻ると、その成果報告が事実ではなかったため、今度は杜預が石鑑を弾劾した。こうして二人は言い合いをはじめたため、とうとう二人とも罪に問われて免官になったという。巻三四、杜預伝に「石鑑自軍還、論功不実、為預所糾、遂相讐恨、言論諠譁、並坐免官」とある。
  • 3
    『資治通鑑』はこの一件を泰始七年春に配列している。これに従えば、ここで言われている呉の討伐とはいわゆる伐呉のことではない。
  • 4
    魏尚は前漢のひと。この話は『史記』巻一〇二、馮唐列伝に見える。
  • 5
    田順は前漢のひと。宣帝の時代、趙充国ら五将軍とともに出兵して匈奴を討ったが、捕虜数の報告を水増ししたことなどで罪に問われ、自殺した。『漢書』巻九四、匈奴伝上などに見える。
  • 6
    原文「竟不推究」。よくわからない。〈虚偽だと告発された功績の実態を調べなおしたり確認したりする作業をしなかった〉ということ、つまり〈報告を訂正しようとしなかった〉という意味だろうか。とりあえずこの意味で訳出した。
  • 7
    原文「有司奏是也」。後文を鑑みるに、有司はおそらく死罪を要請したのであろう。
  • 8
    なお石鑑の子の石尟とその子の石定は墓誌が見つかっている。趙超『漢魏南北朝墓誌彙編』に収録。
  • 9
    このときの斉王の発議は張華伝、解系伝に掲載されている。
  • 10
    原文「自天子已下、争臣各有差」。『孝経』諫諍章に「昔者天子有争臣七人、雖無道、不失其天下。諸侯有争臣五人、雖無道、不失其国。大夫有争臣三人、雖無道、不失其家」とあるのにもとづいているものと思われる。温羨がこれを引いて言わんとするところがいまいち明瞭でないので、おそらく言いたいであろうことを〔 〕で補ってみた。
  • 11
    この議題においては、罪は愍懐太子の廃位を防げなかったことを指すが、諫める立場にあった者は複数存在したのであるから、張華一人だけを批判するのはおかしいのではないか、ということ。こういう主張を展開するというのは、張華に対してそのような批判が集中的に向けられていた当時の状況を推測させるが、実際のところ、張華が誅殺された表向きの理由からして、愍懐太子の廃位を抑止できなかった責任を問われてのことだった可能性がある。張華伝に「華将死、謂張林曰、『卿欲害忠臣耶』。林称詔詰之曰、『卿為宰相、任天下事、太子之廃、不能死節、何也』。華曰、『式乾之議、臣諫事具存、非不諫』。林曰、『諫若不従、何不去位』。華不能答」とある。
  • 12
    「故」(ゆえに)が文頭にあるが、前文と論旨がつながっているように思えない(「もとより」と読もうかとも思ったが、それも違和感があるので却下した)。思うに、もとは前文のあとに「そもそも場合によっては、必ずしも死を冒してまで諫言しなければならないわけではない」という類いの一般論が述べられ、「ゆえに晏子はこう言ったのである」とつづくのが本来の論理展開だったのではないだろうか。そのような疑いが晴れないのだが、とりあえずこのまま補うことなく訳出しておく。晏子の言葉の原文は「為己死亡、非其親暱、誰能任之」で、出典は『左伝』襄公二十五年に載せる晏子の言葉「君民者、豈以陵民、社稷是主。臣君者、豈為其口実、社稷是養。故君為社稷死、則死之、為社稷亡、則亡之。若為己死而己亡、非其私暱、誰敢任之」。杜預注に「私暱、所親愛也。非所親愛、無為当其禍」とある。
  • 13
    晏子の故事を引いて言いたいのはこういうことであろう。張華伝によると、斉王冏に張華らの名誉回復を発案するよう勧めたのは摯虞で、彼の斉王宛の箋に「議者有責華以愍懐太子之事不抗節廷争。当此之時、諫者必得違命之死。先聖之教、死而無益者、不以責人。故晏嬰、斉之正卿、不死崔杼之難。……理尽而無所施者、固聖教之所不責也」とあるのにもとづいて解釈を補ってみた。
  • 14
    晋の献公の没後、新たに立った驪姬の子の奚斉、および奚斉の後に立ったその弟の悼子(卓子)をあいついで殺したこと。里克は夷吾を迎えて君に立てた(晋の恵公)。
  • 15
    当時、そんなにすぐ賈后の陰謀を阻止することなど不可能であった、という擁護であろう。
  • 16
    原文「不能承風賛善」。「賛善」は「賛美する」の意で使われることが多いが、ここでは「善を助ける」と読んだ。
  • 17
    原文「内難不預」。『公羊伝』荘公二十七年に「君子辟内難、而不辟外難」とあるのにもとづくか?
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