凡例
- 文中の〔 〕は訳者による補語、( )は訳者の注釈、1、2……は注を示す。番号を選択すれば注が開く。
- 文中の[ ]は文献の引用を示す。書誌情報は引用文献一覧のページを参照のこと。
- 注で唐修『晋書』を引用するときは『晋書』を省いた。
鄭袤(附:鄭黙・鄭球)・李胤/盧欽(附:盧浮・盧珽・盧志・盧諶)/華表(附:華廙・華恒・華嶠)/石鑑・温羨
華表
華表は字を偉容といい、平原の高唐の人である。父の華歆は清潔な人徳と高尚な品行をそなえ、魏の太尉になった。華表は二十歳のときに散騎郎、〔ついで〕黄門郎に任じられ、昇進を重ねて侍中に移った。正元のはじめ、石苞が来朝すると、高貴郷公を賛美し、魏の武帝の生まれ変わりだと称えた。そのときにそれを聞いていた者は、汗を流して背中を濡らした1『太平御覧』巻三八七、汗に引く「王隠晋書」には「華表、字偉容、平原高唐人、侍中。石苞朝、出、表問国家何如、苞曰、『武帝更生也』。表聞、汗出沾背」とあり、石苞に質問してその返答を聞いた人物は華表と特定されている。。華表は禍が起こるのを恐れ、しきりに病気と称し、私宅へ帰ってしまった。そのゆえ、災難を免れたのである。のちに列曹尚書に移った。五等爵が開建されると、観陽伯に封じられた。〔文帝の?〕葬儀への〔物品の〕供給に不備があったかどで罪に問われ、免官された。
泰始年間、太子少傅に任じられ、光禄勲に転じ、太常卿に移った。数年後、高齢と病気を理由に辞職を願い出た。詔が下った、「華表は清廉貞節で、純真な行動を実践し、老成2歳を重ねて徳を磨きあげること。の名声をあげている。長いあいだ王事3原文まま。たいてい「王朝の事業」などを指す語だが、ここではとくに太常がつかさどるところの儀礼に関わる事業を言うか。をつかさどり、粛々と慎んで職務に当たり、怠ることなく励んだ。しかし病気を理由に強く辞職を申し出ており、その上奏文はこのうえなく心がこもっている。いま、上奏してきたことを聴き入れて、〔華表を〕太中大夫とし、銭二十万、寝台の帳、敷物を下賜し、俸禄や賞賜は卿の朝位と同等とし、私宅の門に行馬(馬止めの柵)を設けよ」。
華表は節操を曲げないことによって名声をあげた。司徒の李胤や司隷校尉の王宏らはみな、華表の寡欲で淡白なさまに感嘆し、〔華表を〕高貴にすることも卑賤にすることもできないし、親密な関係にすることも疎遠な関係にすることもできない、と評した。咸寧元年八月に卒した。享年七十二。康の諡号をおくられた。詔が下り、朝服を下賜された4参考までに宮崎市定氏[一九九七]の批評を引用しておく。「華表なる人物は、魏の功臣華歆の子である。彼が二十歳にして第五品なる散騎黄門侍郎に拝せられたのは、魏の黄初四年(二二三年)に当り、九品官人法が施行された四年目である。彼が果して郷品第一品に挙げられたのが事実ならば、この採点は甚だ甘いと言わざるを得ない。何となれば彼はその後七十二歳の寿を保ち、晋の咸寧元年(二七五年)に歿しているが、魏晋二代に仕えて、侍中、太子少傅、光禄勲、太常卿などを歴任しながら、ついに三品官に止まって二品に上れなかった。非常な好人物であったらしいが、同時に余程無能であったらしく思われる。/してみると彼が上品に挙げられたのは、魏の司徒という父華歆の面子から来たものと言わざるを得ない。況んや司徒なる官は中正の総元締であるから、中正等が之に向って阿諛することは当然考えられる。恐らくこれが先例となって前述のような任子制度が九品官人の中に取り入れられたのであろう。勢力者の子弟が特別待遇を受けるということが貴族主義の始まりであり、そういう事実が堆積した所に貴族制が成立するのである」(一四五―一四六頁。「/」は改行一字下げ)。。華廙、華岑、華嶠、華鑑、華澹、華簡の六人の子がいた5これ以降の附伝には華廙と華嶠のみが立伝されている。華澹は『三国志』魏書一三、華歆伝の裴松之注に引く「晋諸公賛」に、華簡は『北堂書鈔』巻五七、中書侍郎「華簡以文藻遷」に引く「王隠晋書華簡伝」(『芸文類聚』巻四八、中書侍郎引、略同)に、それぞれ簡略な事跡が記載されているが、残る華岑と華鑑は詳細不明。なお巻六一に立伝されている華軼は華澹の子である。。
〔華廙:華表の子〕
華廙は字を長駿という。温厚鋭敏で、学才と道徳をそなえていた。妻の父である盧毓は〔尚書吏部曹に勤務して〕選挙の職務を担当しており、姻戚を登用しづらかったため、華廙は三十五歳になっても登用を得ず、年齢を重ねてから中書通事郎になった。泰始のはじめ、冗従僕射に移った。若くして武帝から礼遇を受け、黄門侍郎、散騎常侍、前軍将軍、侍中、南中郎将、都督河北諸軍事6「魏晋南北ブログ」の記事「華廙の都督区の謎」で指摘されているが、この「河北諸軍事」は誤りである可能性が高い。を歴任した。父(華表)の病気が重くなると、無断で帰宅し、ついで喪(華表の死去)に遭った。旧例では、埋葬が終われば職務に復帰する決まりであったが、華廙は〔服喪を完遂するために職務復帰を〕固辞し、〔慣例どおり復帰することを望んでいた〕武帝の意向にそむいた。
これ以前、華表には鬲県に居住している賜客7原文まま。文字どおり、皇帝から賜与された客を言うのであろう。晋代には衣食客と佃客の制があったことが知られており、ともに客の主人の官品に従って人数が制限されていた。衣食客および佃客の詳細は、以下に引用する[松丸ほか一九九六]の記述を参照。「佃客とは、主家である官人と小作関係にあるものであり、また衣食客とは主家から衣食の支給をうけるものである。このうち後者については、戸をもって表記されている前者とは対照的に人を単位としているところをみると、戸を構成できない家内奴隷に近い存在ともとれるが、主家の官品に応じて税役が免除されるということは、原則として衣食客も佃客とおなじく国家の税役の対象となったということであって、彼らも一般農民とおなじように国家の戸籍に登録されていたことを意味する」(一一六―一一七頁、執筆:中村圭爾氏・関尾史郎氏)。がいたが、〔華表は〕華廙に指示し、鬲令の袁毅とのツテを利用して、〔客の〕名を〔鬲県の帳簿書類に〕登録させるさいに、三人分の客は奴に身代わりをやらせた8原文「使廙因県令袁毅録名、三客各代以奴」。よく読めない。制度にかんする知識も必要になりそうだが、その知識についても不安がある。
越智重明氏[一九六三]は「皇帝が華表に、鬲県の庶を客戸として賜わった。そこで華表はその子の華廙に、県令袁毅に因って客戸の戸主たるものの名を記録させるようにした。ところが新らしく華表の客戸たるべき三戸の戸主は(富裕であったので)、各々県令袁毅に(賂を送って)たのみこみ(官)奴(あるいは三戸のもっていた奴)を以てこれにかえ、その名を客戸の戸主の名だとしてもらった」(八二頁。( )内は著者注)と読み、また注(9)で別解を示し、「「録名」の語は、あるいは華表の戸籍に客戸の構成員の名を附記することを指しているのかも知れない」と言う。まず「客が袁毅に賄賂を贈り、自分の奴を戸主にすり替えた」という本文での解釈は、端的に誤りだと思われる。疑問点を細かく挙げればキリがないが、たとえば「使」字は下句の「三客各代以奴」までかけ、不正を請託したのは客本人ではなく、客の主人である華氏のほうだと読むのが自然ではなかろうか(少なくとも和刻本はそのように読んでいる)。注(9)の別解はありうる解釈だが、華表は洛陽に居住していたはずで、華表と客とは離れた場所で別々に生活していたと思われる。それにもかかわらず、客の居住先の県令である袁毅が、なぜ華表の戸籍に記入する権限を有しているのだろうか。
客と戸籍の関係など、ほかにも関連がありそうな研究・考察は数多いが、どれも解釈に決定的な論拠を与えてはくれないため、ここでは詳述しない。文の構造を確認してみると、原文の「甲代以乙」は、「手元・身近に存在しない甲の代わりに乙を代役とする」という意味で用いられる句形ではないかと思われる。それゆえ、ここで言われている不正行為は「三人の奴を客に偽装させ、書類に登録させた」というものではないだろうか。とりあえずその意味で取ることにした。ただし、客の数が水増しされることによってどのようなメリットがあるのかはわからない。。袁毅が贈賄によって罪を得ると9袁毅は何劭や山濤といった中央の高官に賄賂を贈っていた。賄賂を受けた人数は多数にのぼり、朝廷が騒然としたためか、袁毅の不正騒動は巻三三、何曾伝附何劭伝や巻四三、山濤伝などに記録が残っている。、取り調べ中の供述は混乱していたが、〔華家の〕奴を客の替え玉にしたとは決して明らかにせず、たんに三人の奴を華廙に差し上げただけとだけ供述していた。〔このように口を割らなかったのは〕袁毅も盧氏の婿だったからである。また、中書監の荀勖は以前、中子のために華廙の娘を妻に求めたことがあったが、華廙は承認しなかった。このことを根にもっており、そこでひそかに武帝に啓し、袁毅の贈賄を受け取った者は多数おり、全員を罰することはできないから、もっとも関係が親しかった者ひとりを処罰するのが適案だと提言した。そして華廙を指名し、これにぴったりだと述べたのであった。くわえて、華廙には服喪の件で意向に逆らったという過失があったことも災いし、〔朝廷は〕とうとう服喪中であった華廙の官を免じ、爵土を貶削することとした。大鴻臚の何遵が上奏し〔てこの処置に異議を唱え〕、華廙を〔世子の位からも〕免じて庶人とし、封爵を継がせるべきではないと述べ、華表の世孫の華混に華表のあとを継がせるよう求めた10朝廷の下した処罰は免官、および爵位の降格と食邑の削減であって、華廙が華表の封爵を継ぐことは許していたのだが、何遵は華廙が封爵を継承すること自体に反対したという話。。有司が上奏した、「華廙が犯した罪〔に相当する刑罰〕は除名と削爵であり、〔終身的な処罰ではなく〕一時的な法制です。華廙は世子であり、名簿にも記載されていますのに11すなわち、世子の地位が法的に保証されているということ。、継承を認可しなかったら、これは〔除名と削爵のほかに〕刑罰を二度加えることになってしまいます。諸侯が法を犯した場合、八議にもとづいて刑罰を判決するのは、功績を称え、爵位を重んじるからです12「八議」は刑罰を減免される八つの人間類型のこと。『周礼』秋官、小司寇では「八辟」と呼ばれているが、『漢語大詞典』によれば、漢代から「八議」と呼称されるようになったという。八議のうち、本文に関係するのは「議功」と「議貴」で、顔師古によれば「議功」は「有大勲力者」のこと、「議貴」は「爵位高者也」のことを指す(『漢書』巻二三、刑法志の注)。『周礼』小司寇に「以八辟麗邦灋、附刑罰。一曰、議親之辟。二曰、議故之辟。三曰、議賢之辟。四曰、議能之辟。五曰、議功之辟。六曰、議貴之辟。七曰、議勤之辟。八曰、議賓之辟」とある。。嫡男系統の者を、終身廃棄の罪13原文「終身棄罪」。おそらく「終身禁固の罪」と同じ意味。を犯したわけでもないのに廃位してしまうのは、重すぎます。律に依拠し、封爵の継承をお認めになるべきです」。詔が下って言った、「諸侯が薨去したら、その子は歳を越してから位につく〔、そしてそれから天子より爵命を授かる〕。これが古制である。〔世子たる華廙が父を継いで〕位につくべきところだが、かえってこれを〔即位前に世子から〕廃するのだから、〔即位後に授かるはずであった〕爵命(爵位と官位)がすべて失われるのだ14原文「諸侯薨、子踰年即位、此古制也。応即位而廃之、爵命皆去矣」。まったくわからない。『白虎通疏証』爵篇に載っている議論を参照して当てずっぽうに解釈した。。どうして『刑罰を二度加える』ことになるのだろうか15廃嫡は官爵の剥奪を伴う処罰なのだから、追加の刑罰には当たらない、ということか。。くわえて、私が華廙を処罰しようとするのは、汚職を粛清するためであって、もともと常法を論じているわけではない16原文「本不論常法也」。「常法」はおそらく「常刑」と同義で、「恒常的/普遍的な法」の意だと思われる。文脈から勘案すれば、「華廙に下す刑罰は何が適切なのかを議論するにあたって、法の普遍的なありかたや刑罰の原則論という観点から問題を論じたいわけではない」と言いたいのであろう。。諸賢らは私のこの意図を〔議論の論点として〕明確にできず、それどころかいよいよ礼の規律に食いちがい17原文「詭易礼律」。よくわからない。「礼律」は辞書的には「礼教と法律」の意味だが、ここは後文(「不顧憲度」)を考慮し、「律」を礼と対になるような意味での法とは解釈せずにたんに「規律」「掟」と解し、熟して「礼の規律」と読むことにした。、法の規則をかえりみず、主君は廃嫡を命じているのに、下々は復位させようとしている。これは上下が完全に相反している状態である」。かくして有司は奏上し、〔華廙の封爵継承を主張した〕議者の官を免じるように求めたが、詔が下り、みな贖(刑罰の代替に金品を納める)によって罪をあがなわせた。華混は世孫であったために封爵を受け継ぐべきだったが、逃げ去ってしまい、髪を切って発狂したフリをし、啞(おし)を患って言葉を話せなくなったため、授爵されずに済んだ。世の人々はみな、華混のこのふるまいを称賛した。
華廙は地元18原文は「家巷」。ここでは洛陽の私宅がある地域を指すと思われる。に隠棲し、十年近くに及んだが、その間、子や孫に教育を施し、経書を講義していた。経書の要点を集成し、それを『善文』と名づけると、世に広く流通した。陳勰と協力し、自宅のそばに飼育しているブタを囲う柵を設置した。武帝は外出した或るときにそれを見かけ、理由を質問すると、左右の者たちは実情を答えたので、武帝は心から華廙のことを憐れんだ19原文が説明不足のため、どういう実情だったのかはよくわからない。農業に専念しているという意味だろうか。。また後日、武帝は陵雲台に登ったときに、華廙の苜蓿園20「苜蓿」(もくしゅく)は「マメ科の多年草。三つ葉で地をおおうように生える。牧草として漢代に西域からもたらされた」(『漢辞海』)。のほうを眺めやると、田畑がとてもきれいに整備されていたので、往時(華廙の官僚時代)を思い出して懐かしくなった。
太康のはじめに大赦があり、〔それによって罪が赦されて〕ようやく封爵を継ぐことができた。しばらくすると城門校尉に任じられ、〔ついで〕左衛将軍に移った。数年後、中書監になった。恵帝が即位すると、侍中と光禄大夫を加えられ、尚書令となり、爵を公に昇格された。華廙は楊駿の召喚に応じようとしたが、時間内に〔宮中に?〕戻れなかったため、有司が奏上して官を免じられた。まもなく太子少傅に移り、散騎常侍を加えられた。つねに礼典を遵守し、教導の義を得ていた。のち、高齢で体力が衰え、かつ病気も重くなったので、詔を下し、太医をつかわして治療させた。位を光禄大夫、開府儀同三司に進められた。当時、河南尹の韓寿(賈后の義弟)が賈后に〔仲介を〕依頼し、自分の娘を華廙の孫の華陶に嫁がせたいと〔華廙に〕要望したところ、華廙は拒絶して承認しなかった。賈后はこのことを深く根にもち、それゆえ、ついに台司(三公)に登用されなかった。七十五歳で卒し、元の諡号をおくられた。華混、華薈、華恒の三人の子がいた。
〔華混、華薈:華廙の子〕
華混は字を敬倫という。父の爵を継ぎ、清廉貞節、質朴公正で、侍中、列曹尚書を歴任し、在官中に卒した。子の華陶があとを継ぎ、鞏令に任じられた。石勒に没した。
華薈は字を敬叔という。河南尹となった。荀藩や荀組といっしょに賊から逃れ〔て密県から南へ向かっ〕たが、臨潁に着いたところで、父子(華薈とその子)ともども殺されてしまった21情報が不足していて定かではないが、巻六〇、閻鼎伝の「値京師失守、秦王出奔密中、司空荀藩、藩弟司隷校尉組、及中領軍華恒、河南尹華薈、在密県建立行台、以密近賊、南趣許潁」とあるのが本文と関係している記述であろうか。たほう、『資治通鑑』は華薈の死去をこの閻鼎伝の記事より数年後の建武元年八月に配している(巻九〇)。しかしそうすると、建武元年当時にはすでに荀藩が亡くなっているため(建興元年没)、本伝と整合しなくなる。とりあえずは閻鼎伝の記事をふまえて訳出することにした。。
〔華恒:華廙の子〕
華恒は字を敬則という。博学で、清廉をもって称賛を得た。武帝の娘の滎陽長公主を降嫁され、駙馬都尉に任じられた。元康のはじめ、東宮が立てられると、華恒は選抜を受けて太子の賓友となり、関内侯を賜わり、食邑は百戸とされた。司徒の王渾の倉曹の掾属に辟召され、〔ついで〕散騎侍郎に任じられ、散騎常侍、北軍中候と昇進を重ね、たちまち領軍将軍に任命され、散騎常侍を加えられた。
愍帝が即位すると、華恒を列曹尚書とし、苑陵県公に昇格させた。しばらくすると、劉聡が長安に迫ってきたので、詔を下し、華恒を外任に出して鎮軍将軍、領潁川太守とし、外援(外部からの援軍)とした。華恒は義軍を糾合し、二千人を得たが、西方へ駆けつける前に関中は陥落してしまった。そのころ、多くの賊が勢い盛んで、各地の州郡があいついで敗北していた。華恒も潁川郡を放棄して東へ〔長江を〕渡ろうとしたが、従兄の華軼が元帝に誅殺されていたため、この件が原因で迷いを感じていた。そこで先に驃騎将軍の王導へ〔取り次ぎを依頼する〕書簡を送ると、王導は元帝に〔華恒の件を〕進言した。元帝は「兄弟の罪でさえたがいへ波及しないもの。群従(いとこ)ならばなおさらだ」と言った。即座に華恒を呼び寄せ、光禄勲に任じた。華恒が〔建康に〕到着すると、〔光禄勲を〕拝命する前にさらに衛将軍とされ、散騎常侍を加えられ、本州の大中正とされた。
まもなく太常に任じられた。郊祀の実施について議が開かれると、列曹尚書の刁協と国子祭酒の杜彝の議は、洛陽に帰還してから郊祀を整備することを主張した。華恒の議は、漢の献帝が許にいたときはすぐに郊祀を実施しているので、この地(建康)で整備するべきだと主張した。司徒の荀組と驃騎将軍の王導は華恒の議に賛同し、ついに〔洛陽帰還を待たずに〕郊祀の儀注を定めた。まもなく、病気を理由に解任を求めたため、詔を下して言った、「太常の職務は宗廟の管轄で、烝嘗22嘗烝とも。収穫物を供えて祖先を祀る祭礼。は敬粛重大な祭礼だが、華恒の患っている病気は、その職務をみずから執り行なうに堪えない程度である。夫子は『私が祭祀に参与しなければ、祭祀をしていないのと同じだ』(『論語』八佾篇)と言っているが、宗伯(儀礼担当の官職)の職務が担当する仕事はなおさら〔担当の官が参与できなければいけないの〕である。いま、華恒を廷尉に転任させる」。しばらくすると、特進を加えられた。
太寧のはじめ、驃騎将軍に移り、散騎常侍を加えられ、督石頭水陸諸軍事となった。王敦が上表し、華恒を護軍将軍に転任させたが、病気を理由に拝命しなかった。金紫光禄大夫を授けられ、さらに領太子太保となった。成帝が即位すると、散騎常侍を加えられ、領国子祭酒となった。咸和のはじめ、愍帝の時代に下賜されたり昇格されたりした封爵を一律にすべて取り消し、華恒はあらためて王敦討伐の功績によって苑陵県侯に封じられ、ふたたび領太常となった。蘇峻の乱のとき、華恒は成帝の左右に侍り、石頭まで随行し、苦難をつぶさに嘗め、疲労困憊しながら越年した。
そのむかし、華恒が本州の大中正であったとき、同郷の任譲は軽薄で品行に欠けていたため、華恒によって〔郷品を〕退割された。任譲は蘇峻軍に在籍しているあいだ、勢いに任せて殺害した人間が多かったが、華恒を見かけるたびに敬虔な態度に変わり、暴力を振るわなかった。鍾雅や劉超が死ぬと、〔その禍が〕華恒にも及びそうであったので、任譲は心を尽くして擁護し、そのゆえに〔華恒は〕生き延びることができた23巻七〇、劉超伝によれば、劉超と鍾雅も成帝に侍っており、蘇峻軍の将と内通して脱出を図ったものの、その密謀が漏れてしまい、蘇峻は任譲に二人を拘束させた。任譲は二人を捕えると、そのまま殺してしまったという。。
成帝が元服を加えると、さらに皇后を娶ろうとした。戦乱のあとで、書籍が失われてしまったので、婚姻および元服の儀礼を執行するにあたり、依拠する文献がなかった。華恒は古典を調べてそれらの儀注を編纂し、同時に郊廟、辟雍、朝廷の礼則も編集したが、〔これらの儀注は〕祭事にすべて採用された。左光禄大夫、開府に移し、散騎常侍はもとのとおりとされたが、固辞した。拝命する前にちょうど卒してしまった。享年六十九。策書を下し、侍中、左光禄大夫、開府を追贈し、敬の諡号をおくった。
華恒は清廉謙虚にして質素であり、顕官に就いていたとはいえ、いつも布衣粗食で、高齢になるといよいよ度が増していった。死去したときには、家に余分な財産がなく、書物が数百巻あるだけだったので、世の人々はこのさまをもって華恒に敬愛を抱いた。子の華俊があとを継ぎ、尚書郎となった。華俊の子の華仰之は大長秋となった。
〔華嶠:華表の子〕
華嶠は字を叔駿という。才気が大きく、学問は該博で、若くして名声があった。文帝が大将軍になると、〔大将軍府の〕掾属に辟召され、〔ついで〕尚書郎に任じられ、車騎将軍府の従事中郎に転じた。泰始のはじめ、関内侯を賜わった。太子中庶子に移り、〔ついで〕地方に出て安平太守とされたが、親の高齢を理由に辞退して赴任しなかったところ、あらためて散騎常侍に任じられ、中書省の著作の業務を担当し24原文「更拝散騎常侍、典中書著作」。『太平御覧』巻二二四、散騎常侍に引く「華嶠集」に「詔曰、『散騎以従容侍従、承答顧問、掌讃詔命、平処文籍、故前世多参用文学之士。義郎華嶠有論義著述之才、其以嶠為散騎常侍、兼与中書共参著作事』。嶠表謝云、『非臣典筆申辞所能陳謝』」とある(華嶠の返答はよく読めない)。、領国子博士となった。侍中に移った。
太康の末年、武帝は頻繁に宴会を開いていたが、病気を患うことも多かった。ちょうどやや癒えたので、華嶠は侍臣とともに上表して祝賀を述べたが、その機会に少し諫言を呈した、「伏して思いますに、陛下のお身体が少しずつ快方に向かわれているとのことで、上下ともども慶祝し、思わず喝采してしまいました。臣らは愚弄ですが、ひそかにいささか思うところがございます。愚考しますに、おろそかにしていた部分でも成果を収めておけば、事業の途中でしっかりやっておけばよかったと後悔することもなくなるでしょうし25原文は「事乃無悔」。かなりの意訳になったので注記しておく。、完成間近の状態でも災禍の勃発を考慮して備えておけば26原文「慮福於垂成」。このままだとよく読めない。和刻本は「慮禍於垂成」に作ってあり、〈油断してはならない〉という全体の文意に合致している。そこで和刻本に従い、「福」を「禍」に改めて読んだ。、王朝の命数は日に日に更新されて〔延びて〕ゆくでしょう。陛下にわずかに願わくは、聖なるご明察を深くお垂れになり、おろそかにしている部分〔を放置しておくこと〕の後悔を遠くご配慮なさって、日新の幸福を実現なされますように。和気27原文まま。ここでは活力の源となる気を言う。元気。を清静にととのえ、精神を静養し、清廉簡素という部屋で身を休め、淡白虚無という領域に心を留めおかれますよう。世俗の平凡な訓戒に辟易し、下々の言葉を軽視することがなければ、豊饒な慶福は日に日に長くなり、天下は幸甚となることでしょう」。武帝は手詔で応答した、「すぐにでも休息しよう。心配することはない」。元康のはじめ、宣昌亭侯に封じられた。楊駿が誅殺されると、楽郷侯に改封され、列曹尚書に移った。
のち〔詔が下り〕、華嶠は博学多識で、著書は事実に忠実であり、良史の志をもっていた28原文「有良史之志」。王隠『晋書』佚文は「有良史之才」に作る(『北堂書鈔』巻五七、秘書監「有良史之才」および同「華嶠文雅洽通」、引)。「才」字のほうが適切だと思うが、原文のまま訳出しておく。ことから、秘書監に転任させ、散騎常侍を加えた。〔秘書監の〕朝位は中書監と同等とし、〔秘書の〕官府は内台とし29原文「班同中書、寺為内台」。「内台」は東晋以降の用例だと尚書台を指すようだが、ここでは「殿中に置かれる台府」の意味であろう。
巻二四、職官志、『宋書』巻四〇、百官志下によれば、晋の武帝は秘書を中書省に統合して、中書所属下の部局とし、秘書監を廃止したが、その後、恵帝は「永平中」(職官志)に秘書監を復置したという。厳密には、武帝時代に荀勖が秘書監に就いているので、武帝期を通じて秘書監が廃されていたわけではないが、荀勖就任後、いずれかの時期に廃止されたのであろう。巻四、恵帝紀、永平元年二月に秘書監復置が記されており、職官志、『宋書』百官志の記述は大筋で正しいと思われる。船木勝馬氏[一九八七]は、秘書監復置時にその任に就けられた人物こそ華嶠だと解釈している(四三四頁)。しかし恵帝紀の永平元年二月とは楊駿の誅殺前であり、本伝とは時系列に齟齬が生じている。この点について船木氏は特に言及していないが、許容範囲内の時間のズレということであろうか。とはいえ、本伝の「班同中書、寺為内台」が秘書監復置と密接に関連する記述であることは確かであろうと思う。すなわち、「班同中書」とは秘書監の礼遇を中書監と同等に引き上げて復置ないし新設したこと、「寺為内台」とは秘書の官府を独立した台庁として設置したことをそれぞれ述べたものと考えられるのである。これらの措置が実質的に意味するところは、秘書の部局が中書省から分離され、独立した官府を設けられたということであろう。なお『通典』巻二六、秘書監には「恵帝永平中、復別置秘書監、并統著作局、掌三閣図書。自是秘書之府、始居於外」とあり、秘書が独立して「秘書之府、始居於外」という。「居於外」を素直に読むと「(秘書の官府は)殿外に置かれた」という意味になると思われ、本伝の「寺為内台」とは矛盾する。あるいは『通典』の文は中書の「外」から出たことを言っているのであって、「殿外」の意味ではないのだろうか。いったん『通典』の文は脇に措いて訳出することにした。、中書・散騎・著作の業務、および治礼、音律30原文「治礼音律」。「治礼」が名詞的な意味で使われている用例はあまり見当たらない(治礼郎のような官があるが、「儀礼整備担当の郎」といった意味あいだろう)。だからであろう、中華書局は後ろの「音」を「考」の誤りではないかと疑っているが、これは「治」を動詞で読もうとしているからだと考えられる。しかし後ろの句が「天文数術」となっていることを鑑みると、中華書局のその読み方には承服しがたく、やはり「治礼」と「音律」それぞれ名詞的に読むべきなのであろう。とりあえずそのまま訳出した。、天文、数術、南省の文章、門下の書類をすべてまとめて担当させた31原文「中書・散騎・著作及治礼音律、天文数術、南省文章、門下撰集、皆典統之」。難解。『太平御覧』巻二三三、秘書監に引く「華嶠集」に「詔曰、『……使中書、散騎、著作及治礼者〔「音」の誤りか――引用者注〕律、天文数術、南省文章、門下撰集、皆典領之』」とあり、『北堂書鈔』巻五七、秘書監「天文数術皆統之也」に引く「王隠晋書」に「典中書著作、及治礼音律、天文数術、南省文章、門下撰集、皆統之」とあるのを参考に読んでみた。最初の「中書・散騎・著作」のうち、「散騎・著作」は秘書監と散騎常侍を兼務することを言うのだと思うが、「中書」はよくわからない。「秘書庫」を指すのであろうか。「治礼音律、天文数術」については、『北堂書鈔』巻五七、著作佐郎「典文数術」に引く「石瑞記」に「太安元年、前著作佐郎丘衆表称、『世祖武皇帝擢臣負薪之中、授承著作佐郎、典治天下文義数術、乃撰諸志也』」と、似た文章があり、志の編纂に必要な文書・書籍の管理・校訂を言うのであろうか。「南省文章、門下撰集」もわからないが、「南省」は「門下」と対になっていることから考えて、尚書台などの外朝官庁を指すのかもしれない。「南省」と「門下」に保管されている行政文書を言うのであろう。現段階では以上のように推測しているが、あまり自信ももてないので、やや羅列気味に訳出した。。
かねてより華嶠は「漢紀」32原文まま。荀悦の『漢紀』のことではなく、後漢朝がみずから編纂していた自国史(いわゆる『東観漢記』)のこと。この史書は後漢以来、たんに「漢記」と呼ばれていたが、六世紀はじめころには「東観」を冠して呼称されるようになっていたという([呉二〇〇八]四―六頁)。「東観」は「漢記」が編纂されていた台観のこと。が煩雑だと考えていたため、奮然として〔漢史を〕編纂しなおす志を抱いていた。折りよく台郎(尚書郎)に就き、官制に関する仕事を担当すると33原文「典官制事」。本伝をふまえれば、華嶠が尚書郎に就任したのは曹魏末だと思われるが、革命目前のこの時期、尚書僕射・裴秀の主導で官制改革がおこなわれていた。華嶠は尚書郎としてこの事業に関与したということなのであろう。巻二、文帝紀、咸煕元年七月に「帝奏司空荀顗定礼儀、中護軍賈充正法律、尚書僕射裴秀議官制、太保鄭沖総而裁焉」とあり、巻三五、裴秀伝に「遷尚書僕射。魏咸熙初、釐革憲司。時荀顗定礼儀、賈充正法律、而秀改官制焉」とある。、これによって宮廷に所蔵されている書籍をあまねく閲覧できるようになったので、ようやく漢史の著述に着手したのであった。〔叙述は〕光武帝から始まり、孝献帝で終わり、〔叙述の期間は〕一九五年間で、帝紀が十二巻、皇后紀が二巻、十典が十巻、列伝が七十巻、三譜、序伝、目録〔が各一巻〕、合計で九十七巻を著わした。華嶠の考えでは、「皇后は天(皇帝)に並び立って〔皇帝と〕つれあいとなる存在である。〔それなのに〕前代の史書(班固『漢書』)が〔皇后のために〕外戚伝を設けて全体の末尾に継ぎ足しているのは、皇后のこの義に合致していない」。そこで〔列伝形式を〕変更して皇后紀を立て、帝紀の次に配列したのである。また、志を変更して典としたが、これは〔『尚書』に〕「堯典」が置かれている〔体裁に倣った〕からである。〔この著作を〕『漢後書』と改名し34『華嶠集』序(『北堂書鈔』巻九九、著述「継迹遷固」引)と『晋諸公賛』(『三国志』華歆伝の裴松之注引)は書名を「後漢書」に作っている。『隋書』経籍志、『旧唐書』経籍志、『新唐書』芸文志でも同様だし、裴松之も『三国志』注で「漢書」「後漢書」と引用している。正しい書名は「後漢書」の可能性が高そうだが、本訳は原文に従い、「漢後書」で統一する。、奏上して提出すると、朝臣に詔が下り、会議を開かせて審議させた。そのとき、中書監の荀勖、中書令の和嶠、太常の張華、侍中の王済はみな、華嶠の文章は質朴で、事実に忠実であり、司馬遷や班固のような体例をそなえているうえ、実録の風格があると評し、『漢後書』を秘府(宮廷書庫)に所蔵するよう提言した。〔しかしその提言はすぐに採択されずにいたが、〕のち、太尉の汝南王亮や司空の衛瓘が東宮(皇太子時代の恵帝)の傅(もり役)になると35原文「太尉汝南王亮、司空衛瓘為東宮傅」。本伝の構成からすると、『漢後書』の完成とそれをめぐる一連の話は恵帝時代の出来事のように読め、ここの「東宮」も恵帝の東宮、すなわち愍懐太子を指すかのごとくである。しかし汝南王が太尉、衛瓘が司空で、かつ二人が東宮の傅官を領していたのは武帝時代である。それに、そもそも上に出てくる荀勖と王済は武帝時代に死去している。それゆえ、『漢後書』にかんする話はどれも武帝期の出来事であり、ここの「東宮」も皇太子時代の恵帝と解釈するのが妥当であろう。、〔『漢後書』を〕通読して講義したいと奏上したので、ついに〔秘府に所蔵するようにとの〕提言が実行された36原文「事遂施行」。この「事」を汝南王らの奏上(原文は「列上」)と取ることもできるが、「遂」字があるのは前文の内容を受けてのことだと考え、訳文のように解釈した。(2023/5/24:訳注追記)『北堂書鈔』巻九九、著述「継迹遷固」に引く「華嶠集序」に「嶠作後漢書百巻、張華等称其有良史之才、足以継迹遷固、乃蔵之秘府、与三史並流」とある。ここの「三史」とは『史記』『漢書』『東観漢記』のこと。。華嶠が著述した論議、難駁、詩賦の文章類は〔全部で〕数十万言あった。奏上した政策には、官制、「太子、宜シク宮ニ還ルベシ」(太子は宮殿に戻るべきである)、安辺(辺境統治)、雩祭(雨ごいの祭祀)、明堂辟雍、「河渠ヲ浚導シ、禹ノ旧跡ヲ巡リ、都水官ヲ置ク」(溝渠を浚渫し、禹の水路遺跡を巡視し、溝渠の管理担当として都水官を設置する)、「蚕宮ノ礼ヲ修メ、長秋ヲ置ク」(蚕宮の礼37「蚕宮」は蚕を養育するための宮室。「蚕宮之礼」とは養蚕にかんする皇后の儀礼のことで、皇帝にとっての籍田儀礼に相当するものであろうと思われる。なお華嶠のこの上奏は巻一九、礼志上に引かれている。を整え、皇后宮の長官として長秋を設置する)があり、多くが施行された。元康三年に卒した。少府を追贈され、簡の諡号をおくられた。
華嶠は大の酒好きで、しょっちゅう泥酔していた。編纂中の十典が完成する前に卒してしまったので、秘書監の何劭は上奏し、華嶠の次子である華徹を佐著作郎として、続きを編纂させるように求め〔、聴き入れられ〕たが、完成前に卒してしまった。のち、秘書監の繆徴が再度上奏し、華嶠の末子である華暢を佐著作郎とするよう求め〔て聴き入れられ〕た。〔華暢は〕十典を完成させ、あわせて魏晋史の紀伝の草稿を著わし、著作郎の張載らとともに史官の地位にあった。永嘉の乱のとき、〔宮廷に所蔵していた〕書籍は失われてしまったが、華嶠の『漢後書』で残存したのは、三十余巻であった38『史通』古今正史篇に「散騎常侍華嶠刪定東観記為漢後書、帝紀十二、皇后紀二、典十、列伝七十、譜三、総九十七篇。其十典竟不成而卒。自斯已往、作者相継、為編年者四族、創紀伝者五家、推其所長、華氏居最。而遭晋室東徙、三惟一存」とある。。
華嶠には華頤、華徹、華暢の三人の子がいた。華頤があとを継ぎ、長楽内史まで昇進した。華暢は才能があり、著述した文章は数万言にのぼった。戦乱に遭い、荊州へ避難したが、賊に殺されてしまった。享年四十であった。
鄭袤(附:鄭黙・鄭球)・李胤/盧欽(附:盧浮・盧珽・盧志・盧諶)/華表(附:華廙・華恒・華嶠)/石鑑・温羨
(2023/5/23:公開)