巻一百七 載記第七 石季龍下(1)

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石季龍(1)石季龍(2)石季龍(3)附:石世・石遵・石鑑附:冉閔

 永和三年、石季龍は桑梓苑でみずから藉田を耕し、妻の杜氏は近郊で先蚕(養蚕の神)を祀り、そのまま襄国へ行き、石勒の墓陵を拝謁した。
 中書監の石寧を征西将軍とし、并州と司州の兵二万余人を統率させて麻秋らの後詰とした。張重華の将の宋秦らは二万戸を率いて来降した。黄河と湟水の間の領域にいる氐や羌十余万落は張璩(張氏の将)と呼応していたため、麻秋は氐らを憚って、進軍しなかった。張重華の金城太守の張沖も郡をもって石寧に降った。麻秋はほどなく曲柳に駐屯し、劉寧と王擢は進軍して晋興の武街を攻めた。張重華の将の楊康らは劉寧と沙阜で戦い、劉寧は敗北し、退却して金城に帰還した。王擢は武街を落とし、張重華の護軍の曹権と胡宣を捕え、七千余戸を雍州に移した。石季龍はさらに孫伏都を征西将軍とし、麻秋とともに歩騎三万を統率させ、長駆させて黄河を渡らせ、さらに長最に城壁を築かせた。張重華はおおいに恐懼し、将の謝艾を派遣して迎撃させ、これを破り、麻秋は退却して金城に帰還した。
 石勒と石季龍はどちらも貪欲で、礼節がなく、王者として十州の地を領有し、金、帛、珠、玉や外国の奇異な物品は数えきれないほど所有しているのに、それでも足りないと思い、歴代の帝王や先賢の陵墓をことごとく発掘し、埋葬されている宝物を奪った。邯鄲城の西の石子堈の上には趙簡子の墓があったが、このときになって石季龍はこれを掘り起こさせた。最初は深さ一丈余の炭を得て、次は厚さ一尺の木の板と厚さ八尺の重なった木の板を得て、泉に到達した。泉の水はひじょうに透きとおっていて、とても冷たく、絞車(牽引する車)をつくり、牛皮の袋で水を汲ませたが、ひと月余で水はなくなってしまい、〔それ以上は〕発掘できなかったので止めになった。また、秦の始皇帝の墓を発掘させ、銅の柱を奪い、鋳造しなおして容器を作成した。
 このころ、沙門の呉進が石季龍に言った、「胡の運勢は衰退し、晋が復興するでしょう。晋人を労役で苦しませ、その気を潰してしまうのがよいでしょう」。石季龍はこうして、尚書の張群に近郡の男女十六万を徴発させ、車十万乗をもって土を運ばせ、鄴の北に華林苑と長い障壁を築かせたが、その広長(縦と横の距離)は数十里であった。趙攬、申鍾、石璞らは上疏し、天文が混乱し、民衆は疲弊していることを述べ、引見の折りにも面と向かって諫め、それらの言葉はたいへん厳しかった。石季龍はおおいに怒り、「障壁が朝に完成して夕に崩れたとしても、後悔などしない」1原文「牆朝成夕没、吾無恨矣」。『資治通鑑』には「使苑牆朝成、吾夕没、無恨矣」とある。と言った。そして張群に催促して、たいまつをともらせて夜どおしで作業させた。三つの観と四つの門を建造し、〔そのうちの?〕三つの門は漳水を通し、すべて鉄製の扉をつくらせた。〔作業中に〕暴風と大雨が起こり、死者は数万人であった。揚州〔刺史〕が黄色い鵠(オオハクチョウ)の雛を五羽献上した。首の長さは一丈で、鳴き声は十余里にわたって聞こえた。雛を玄武池に浮かべた(池で飼った)。〔各地の〕郡国が蒼い麟を十六頭、白い鹿を七頭、この間に送ってきたが、石季龍は司虞の張曷柱に命じてこれらを調教させ、芝蓋2指車蓋或傘蓋。芝形如蓋、故名。(『漢語大詞典』)を牽引させ、充庭儀礼で並べる車にくわえた3原文「列于充庭之乗」。「充庭」については、『宋書』礼志五に「旧有充庭之制、臨軒大会、陳乗輿車輦旌鼓於殿庭。張衡東京賦云、『龍路充庭、鸞旗払霓』。晋江左廃絶。宋孝武大明中修復」とあり、儀礼の一種であったようである。。〔鄴の?〕北の城壁を開鑿し、河川を華林園に引き入れた。〔その作業中に?〕城壁が崩れ、圧死者は百余人であった。
 石宣に命令を下し、山川に祈願し、〔それが終わったら〕ついで狩猟をするように命じた。車は大輅で、羽葆で飾った華蓋をそなえ、天子の旌旗を立て、軍は十六軍、兵士は十八万で、〔鄴の〕金明門から出発した。石季龍は後宮から陵霄観に登り、この様子を遠望すると、笑って言った、「わが家は父子でこのようである。天が落ち、地が崩れでもしないかぎり、何も心配するものはない。子を抱きかかえ、孫と遊ぶことだけが日々の楽しみよ」。石宣は獣を追いかけ回して飽きることがなく、あちこちに行宮を設け、〔行宮は〕四方それぞれ百里を範囲とし、禽獣を〔その範囲内へ〕走らせて囲い、すべて日暮れにはその場所へ集めていた。文武の官はひざをついて中腰になり、〔禽獣が逃げ出さないようにするための〕包囲を何重にも設け、たいまつは星々のように数多あり、その光は昼のように明るかった。〔石宣は〕屈強な騎兵百余騎に命じ、馬を走らせてその包囲の中で〔禽獣を〕射らせた。石宣は寵愛している顕徳美人と車に同乗し、この様子を見物し、楽しんで帰るのも忘れ、禽獣が絶えてからお開きになった。禽獣が〔包囲から〕逃げ出した場合は、〔逃げ出した場所で〕包囲を担当していた者が罪に問われ、有爵者は馬を剥奪され、徒歩で一日走らされ、爵がない者は鞭うち百回とされた。法と刑罰を峻厳にしたため、文武の漢は戦慄し、兵士で飢えたり凍えたりして死んだ者は一万余人であった。石宣の弓馬や衣服はすべて「御」と号し4「御」は「天子の物」というニュアンス。自分の物は天子に相当するぞ、と称したことを言っているのだろう。、間に割り込む者がいれば5原文「有乱其間者」。自信なし。、冒禁(禁令を犯す)罪をもってこれを罰した。通過した三州十五郡は、蓄えた物資が何も残らなかった。石季龍は石韜にも石宣と同様のことをするように命じ、并州から出発させ、晋や秦の地で遊ばせた。石宣は石韜が気に入られているのをふだんから憎んでいたが、この行動によってますます憎むようになった。宦官の趙生は石宣から気に入られてはいたが、石韜からはそうではなかった。〔そこで〕ひそかに石韜を排除するよう石宣に勧めた。こうして、兄弟で滅ぼしあう策略が起こったのであった。
 麻秋がふたたび張重華の将の張瑁を河陝で襲撃し、これを破り、斬首は三千余級であった。枹罕護軍の李逵は軍七千を率いて石季龍に降った。黄河以南の氐や羌はことごとく降った。
 石韜は堂を太尉府に建造し、宣光殿と号し、その梁(はり)の長さは九丈であった。石宣はこれを見ておおいに怒り、工匠を斬り、梁を切断してから立ち去った。石韜は怒り、梁を十丈に伸ばし〔て再設置し〕た。石宣はこれを聞くとはなはだ怒り、親任している楊柸と牟成に言った、「韜は凶悪な小童で、反抗し、このたびのようにあえて私にさからっている。おまえらがヤツを殺すことができたら、私は西宮に入り〔主上に取り計らって〕6『資治通鑑』胡三省注によれば「虎居西宮」という。、韜の封国の食邑をすべておまえらに分配してやる。韜が死んだら、主上は必ずみずから喪に臨むであろうから、その機会を利用して大事(石虎の弑逆)を実行すれば、成功しないわけがない」。楊柸らは承諾した。ときに(決行日)、東南に黄黒色の雲があり、数畝ほどの大きさであったが、しだいに三つに分かれ、〔それぞれが〕一匹の布のような形になり、東西方向に天を移動し、色は黒かつ青であった。〔その雲は〕酉の時刻には太陽を貫き、日没後は七本に分かれ、それぞれは数十丈離れており、その間には白い雲が魚の鱗のように点々としてあり、子の時刻になると〔すべての雲が?〕消滅した。石韜はもともと天文の知識があったため、これを見ると気分が悪くなり、左右の者に顔を向けて言った、「この異変は些細なことではない。刺客が京師に現れるにちがいないが、誰がこの予兆(刺客の対象)に相当しているのかはわからない」。その日の夜、石韜は属僚と東明観で宴会した。音楽が演奏され、酒もたけなわとなると、石韜は憂鬱ぎみになって長く嘆息し、こう言った(うたった?)、「ひとは、世におれば常がなくてはかなく、別れは容易だが出会いは難しい。おのおのに一杯を注ぐから、心を開いて私のために飲んでほしい。〔そして〕必ず酔ってくれ。後日の再会がいつになるかわからないのを承知しているのに、飲まないというのか」。そしてはらはらと涙を流したので、左右の者ですすり泣かない者はおらず、そのまま仏の精舎に宿泊した。石宣は楊柸、牟皮、牟成、趙生らに獼猴梯7『資治通鑑』胡三省注に「梯小而長、人如獼猴攀縁而上、故曰獼猴梯」という。を使わせて侵入させ、石韜を殺し、使った刀や矢を置いて立ち去った。朝、石宣はこのこと(石韜が死んだこと)を奏した。石季龍は驚きと悲しみのあまり気絶し、しばらくたってから意識が戻った。〔殿から〕出て喪に臨もうとしたが、司空の李農が諫めて言った、「秦公を殺害した下手人はおそらく蕭牆(塀かこい)の内側にいます(すぐ身近にいます)から、不測の憂慮が起こるでしょう。出るべきではありません」。そこで石季龍はやめた。兵を厳重にし、太武殿で挙哀した。石宣は素車に乗り、千人を従え、石韜の喪に臨んだが、哭かず、ただ「呵々(笑い声の擬音)」と言うのみで、石韜にかぶせられた衾(ふとん)を上げさせて遺体を見ると、おおいに笑って去って行った。大将軍(石韜?)記室参軍の鄭靖、尹武らを捕え、彼らに罪をなすりつけようとした。
 石季龍は、石宣が石韜を殺したのではないかと疑っていたので、一計を案じて石宣を召そうとしたが、入内しないことを不安に思い、そこで偽り、石宣の母(杜氏)が〔石韜の死を悲しんで?〕このうえなく慟哭し、息も絶え絶えだと言った。石宣は自分が疑われているとは思わなかったので、中宮(皇后)に入朝し、そのままそこに留まった。建興の史科が告発してこのように話した、「石韜が死んだ夜、〔私は〕東宮の長上(上官?)の楊柸の家に宿泊していたのですが、楊柸は夜に五人の人物といっしょに外から帰って来て、こう話していました、『大事は定まったな。あとは大家(たぶん石宣)の長寿を願うのみ。われわれは富貴が約束されたな』。話が終わると中に入ってきました。科は暗闇の中で寝ていたため、楊柸は見えなかったようです。科はすぐに出て行き、〔庭に?〕逃げ隠れました。にわかに楊柸が二人の人物とともに出てきて、科を探していましたが見つけられず、楊柸は『宿泊していた客人がさっきの話を聞いていた。彼を殺して口を閉ざさねばならん。いま逃げおおせられたら、大事を起こさせてしまうぞ』と言いました。科は垣根を飛び越えて逃げ延びました」。石季龍は使者に馬を走らせて楊柸の一味を捕えに行かせ、楊柸、牟皮、趙生の身柄を確保した。楊柸と牟皮はほどなく逃亡してしまったが、趙生を捕えて詰問すると、趙生はつぶさに自白した。石季龍の悲しみと怒りはますますつのり、石宣を席庫8『資治通鑑』胡三省注に「席庫、蔵席之所」という。に幽閉し、あごに穴をあけて鉄の輪を通し、輪に鎖をつなげて石宣を拘束した。数斗の木漕をつくると、汁物と飯を混ぜて入れ、犬や猪のような食わせ方でそれを石宣に食わせた。〔石季龍は〕石韜を殺した刀と矢を手にすると、付いている血を舐め、慟哭し、宮殿を震動させた。柴を鄴の北で積み上げ、その上に竿を立て、竿の先端には轆轤(滑車)をつけ、縄を通し、ハシゴを積んだ柴に立てかけた。石宣を竿の下のところに運び、石韜が親任していた宦官である郝稚と劉覇に石宣の髪と舌を抜かせ、〔あごの輪についている鎖を〕引っ張らせてハシゴを登らせ、積んだ柴の上にあげた。郝稚は縄を〔石宣の〕あご〔の輪〕に通し、轆轤を使って縛り上げ、劉覇は〔石宣の〕手足を切断し、眼を斬り、腹を潰し、石韜と同じような傷を負わせた。四方から火を放ち、その煙と炎は天に届くほどであった。石季龍は昭儀以下数千人を従えて中台9『資治通鑑』胡三省注に「中台者、三台之中台、即銅雀台」とある。に登り、この様子を見物した。火が消えると、灰を集め、分割して諸門の十字路に廃棄した。石宣の妻子九人を殺した。石宣の小子(いちばん小さい男の子)はまだ数歳で、石季龍はこの子を溺愛していたため、この子を抱きかかえると泣いてしまった。その子は「ボクのせいじゃないよ」と言った。石季龍は赦免しようとしたが、大臣は許さず、とうとう石季龍の腕の中から取りあげて殺してしまった。〔石季龍から引き離されるとき〕子供は石季龍の服を引っ張っておおいに泣き叫んだので、世の人々はみな子供のために涙を流し、石季龍はこれがきっかけで病気になった。また、東宮の四率(前後左右の衛率)以下の三百人、宦官五十人を誅殺し、全員を車裂きにして節解(骨の関節をバラす)し、漳水に遺棄した。石宣の東宮を汚し、イノシシや牛を飼育した。東宮の衛士十余万人はみな涼州に流されて〔辺境の〕警備に就かされた。これより以前、散騎常侍の趙攬は石季龍に「中宮(皇后)に事変が起こるでしょうから10天王皇后が廃されることを指すか。なぜ皇后が話に持ち出されるのかいまいちわからないが、まったく文意が通じないわけではないのでこのまま訳出した。なお『資治通鑑』は「中宮」を「宮中」に作っている。、対策を講じるべきです」と言っていた。石宣が石韜を殺すと、石季龍は、趙攬が知っていたのに話さなかったのではないかと疑い、彼も誅殺してしまった。石宣の母の杜氏を廃して庶人とした。貴嬪の柳氏は尚書の柳耆の娘で、才色をそなえていたので特別に寵愛されていたが、柳氏の二人の兄が石宣に気に入られていたことで連座し、柳氏も殺してしまった。石季龍は彼女の容姿をしのび、またも柳耆の小女(いちばん小さい女の子)を華林園に納めた。
 石季龍は太子を立てる件について議を開いたが、太尉の張挙は進み出て言った、「燕公の斌と彭城公の遵はどちらも文武を兼ねそなえています。陛下はすでにお歳をお召しになり、四海はまだ統一されていません。二公からお選びになり、太子に立てることをご要望いたします」11原文「燕公斌、彭城公遵並有武芸文徳、陛下神歯已衰、四海未一、請択二公而樹之」。張挙の言葉は『資治通鑑』だと「燕公斌有武略、彭城公遵有文徳、惟陛下所択」とだいぶ異なっている。また『資治通鑑』はこれにつづけて「虎曰、『卿言正起吾意』。戎昭将軍張豺曰、『燕公母卑賎、又嘗有過[͡胡注:欲殺張賀度也]、彭城公母前以太子事廃[胡注:遵与邃同母]、今立之、臣恐不能無微恨、陛下宜審思之』。初、虎之破上邽也、……」とある。載記本文は張豺の言葉がカットされ、「初、戎昭張豺之破上邽也……」となっているが、削る部分をまちがえてしまったのかもしれない。。むかし、戎昭将軍(過去の職ではなく現在の職)の張豺が上邽(劉曜の残党)を破ったとき、劉曜の幼い娘を捕えた。十二歳で、容姿が優れていたため、石季龍は彼女を寵愛した。〔劉氏は〕子の石世を生み、〔石世は〕斉公に封じられていた。このときになって、張豺は石季龍が年老いて多くの病気を抱えていることから、石世を後継ぎに立てれば、劉氏は太后に就き、自身は〔適切な太子を勧めた功をもって〕輔政の任を得るだろうとたくらみ、石季龍に説いて言った、「陛下はふたたび後継ぎを立てようとされていますが、〔二公は〕どちらも卑賎な妓女から生まれた子ですから、禍があいついで起こることでしょう。いま、母の身分が高く、孝行である者を選んで太子に立てるのがよろしいかと存じます」。石季龍は「卿、しばらく黙っていたまえ。太子がどこにいるのかはわかっている」と言った。ふたたび東堂で議を開くと、石季龍は言った、「私は三斛の純灰12「純」は「余計なものが混じっていない」「きれいな」とかいうニュアンスだろう。を飲んで腹を清めようと思う。腹が汚れているから、凶悪な子が生まれ、〔邃や宣のように〕二十余歳になったら公(父親)を殺そうとするのであろう13『資治通鑑』には「何為専生悪子、年踰二十輒欲殺父(どうして凶悪な子ばかりが生まれ、二十を越えたら父親を殺そうとするのだろう)」とあり、より悲壮感の込められた表現になっている印象。。いま、世は十歳になったばかりで、二十になったときには私はすっかり老いている」。こうして、張挙、李農とともに議を決定し、公卿に勅を下し、石世を太子に立てる要望を上書させた。大司農の曹莫は〔その奏案に〕署名しなかったので、〔公卿らは石季龍にその奏案を上呈できなかった。そこで〕石季龍は張豺をつかわして理由を尋ねさせた。曹莫は頓首して「天下の事業は重大ですから、年少者を太子に立てるのはよくありません。このため、署名しようとしなかったのです」と言った。石季龍は言った、「曹莫は忠臣だが、朕の意向を十分には理解できていないようだ。張挙と李農はわが心を理解しているから、彼らに曹莫を説得させよう」。こうしてとうとう、石世を皇太子に立て、劉氏を皇后に立てた。石季龍は太常の條攸と光禄勲の杜嘏を召して言った、「卿らにめんどうをかけることになるが、太子を教導してほしい。まこと、繰り返したくない。私からの頼みだ、わかってほしい」。條攸を太傅に任命し、杜嘏を少傅に任命した。
 このころ、石季龍は病気が癒えた。永和五年をもって僭越し、南郊で皇帝の位につき、境内を大赦し、太寧と元号を立てた。百官は位を一等加増され、諸子は郡王に昇格した。尚書の張良を尚書右僕射とした。
 もとの東宮で辺境の警備に流された高力14『資治通鑑』胡三省注によると「石宣簡多力之士以衛東宮、号曰高力、置督将以領之」という。ら一万余人は、もうすぐ涼州の警備に就くところであり、雍城に到着していたが、〔皇帝即位の〕大赦に含まれなかった。そのうえ〔石季龍は〕勅を雍州刺史の張茂に下して高力らを〔涼州へ〕届けさせたが、張茂は全員から馬を奪い、徒歩で鹿車(小さい車)を押させ、食料を拠点に運ばせた15高力らが警備に就く拠点への食糧も同時に運ばせたということだろう。。高力督の定陽の梁犢らは人々が怨みをつのらせているのを利用し、挙兵して東に帰ろうと画策し、ひそかに胡人の頡独鹿をつかい、戍卒16おそらく辺境警備の兵役により、拠点に駐屯している兵卒のこと。にこっそりと知らせると、戍卒はみな手をたたいて舞い踊り、大声をあげた。そこで梁犢は晋の征東大将軍を自称し、衆を率いて下辯を攻め落とし、張茂を脅して大都督、大司馬にまつりあげ、軺車(小型の軽車)に載せた。安西将軍の劉寧は安定からこれを攻めたが、大敗して帰還した。秦雍の領域(関中)の城や拠点で陥落しないところはなく、二千石や長史17『資治通鑑』は「長吏」に作る。二千石と併称するならば『資治通鑑』のほうが適切に思える。を斬り、長駆して東へ向かった。高力らはみな腕力があり、射撃に長け、一人で十余人に匹敵した。兵器がなかったとはいえ、あちこちで百姓の大斧を奪い、それに一丈の柄を取りつければ、神のように進撃し、向かうところは潰滅した。戍卒はみなこれについてゆき、長安に着くころにはすでに十万に達していた。このとき、楽平王の石苞が長安に出鎮しており、精鋭を総動員して防戦したものの、一戦して敗れてしまった。梁犢ははそのまま東に進んで潼関を出て、洛川へ向かった。石季龍は李農を大都督、行大将軍事とし、衛軍将軍の張賀度、征西将軍の張良、征虜将軍の石閔らを統べさせ、歩騎十万を率いさせて梁犢を討伐させた。新安で戦ったが、李農軍は戦果を得なかった敗北した(2020/12/27:修正)。さらに洛陽で戦ったが、李農軍はふたたび敗れたため、退却して成皐に城壁を築いた。梁犢は東に進んで滎陽や陳留で掠奪した。石季龍はおおいに恐懼し、燕王の石斌を大都督中外諸軍事とし、精鋭騎兵一万を率いさせ、姚弋仲、苻洪らを統べさせて梁犢を滎陽の東で攻めさせた。〔石斌軍は〕おおいにこれを破り、梁犢の首を斬って帰還した。〔姚弋仲や石閔らは帰還せずに留まり、〕残党を討伐し、すべてこれを滅ぼした。
 にわかに晋の将軍の王龕が沛郡を落とした。始平の馬勖が洛氏の葛谷で挙兵し、将軍を自称した。石苞がこれを攻めて滅ぼし、三千余家を誅殺した。
 このころ、熒惑が積尸(星の名称)を犯し、さらに昴と月も犯した。〔さらに〕熒惑が北の河鼓を犯すと、それからほどなく、石季龍の病気が重くなったので、石遵を大将軍とし、関西に出鎮させ、石斌を丞相、録尚書事とし、張豺を鎮衛大将軍、領軍将軍、吏部尚書とし、そろって遺書を授け、輔政させた。劉氏は、石斌が輔政すると石世を殺してしまうのではないかと憂慮し、張豺とともに画策して石斌を誅殺しようとした。この当時、石斌は襄国にいたので、使者をつかわして偽って言った、「主上のご病気はすでに回復傾向にあります。王よ、狩猟の自粛はしばらく停止してかまいません」。石斌は酒を好み、狩猟に耽る性格であったため、とうとう狩猟に出かけて好きなだけ酒を飲んだ。劉氏は矯命を下し、石斌は忠と孝の心がないと言って、石斌の官を免じ、王の位をもって邸宅に帰らせ、張豺の弟の張雄に龍騰五百人を統率させて石斌を警護させた。石遵が幽州から鄴に到着すると、〔劉氏は?〕勅を下して朝堂で拝命を受けさせ、禁兵三万を配して関中に送り出した。石遵は〔石季龍に面会できないので〕泣きながら去って行った。この日、石季龍は病気が小康したので、「遵はまだか」と訊いた。左右の者は「〔鄴を〕離れてすでにしばらく経ちます」と答えた。石季龍は「会えなかったのが心残りだ」と言った。石季龍は〔太武殿の〕西閤を来訪すると、龍騰将軍や中郎二百余人が整列し、前で拝礼した。石季龍は「なにか望むことは」と訊くと、みな口をそろえ、御身はお優れでないのですから、燕王を宿衛にお入れになり、兵馬の事柄を〔王に〕つかさどらせるようにしていただきたいと述べ、ある者は〔燕王を〕皇太子に立てて欲しいと要望した。石季龍は石斌が免じられたことを知らなかったので、なじって「燕王は宮中におらぬのか。呼んでこい」と言った。左右の者は、燕王は酒の飲みすぎで体調を崩し、入朝できませんと言った。石季龍は「すぐに輦(天子の車)を用意して迎えに行け。璽綬を授けてやる」と言ったが、とうとう迎えに行く者はいなかった18『資治通鑑』胡三省注には「左右皆為劉后母子、故竟無行者」とあり、左右の者に迎えを命じたけれど、彼らは劉氏の息がかかっていたから従わなかったとしているようである。。まもなく、意識が朦朧とし、〔奥に〕入ってしまった。張豺は〔石斌を監視していた〕弟の張雄らに、石季龍の命令だと偽って石斌を殺させ、劉氏も矯命を下して張豺を太保、都督中外諸軍、録尚書事とし、千の歩兵と百の騎兵をくわえ、すべて霍光が漢を輔佐した故事に倣わせた。侍中の徐統は嘆息して「禍が起こるだろう。関わりたくないものだ」と言うと、薬を仰いで死んでしまった。にわかに石季龍も死んだ。石季龍は最初、咸康元年に僭越して立ち、死んだのは太和六年19太和は海西公の元号で明らかにおかしい。中華書局校勘記が言うように、永和(穆帝の元号)の誤りであろう。なお穆帝紀、『資治通鑑』に従えば永和五年のことである。で、在位はのべ十五年であった。

>>石世・石遵・石鑑

  • 1
    原文「牆朝成夕没、吾無恨矣」。『資治通鑑』には「使苑牆朝成、吾夕没、無恨矣」とある。
  • 2
    指車蓋或傘蓋。芝形如蓋、故名。(『漢語大詞典』)
  • 3
    原文「列于充庭之乗」。「充庭」については、『宋書』礼志五に「旧有充庭之制、臨軒大会、陳乗輿車輦旌鼓於殿庭。張衡東京賦云、『龍路充庭、鸞旗払霓』。晋江左廃絶。宋孝武大明中修復」とあり、儀礼の一種であったようである。
  • 4
    「御」は「天子の物」というニュアンス。自分の物は天子に相当するぞ、と称したことを言っているのだろう。
  • 5
    原文「有乱其間者」。自信なし。
  • 6
    『資治通鑑』胡三省注によれば「虎居西宮」という。
  • 7
    『資治通鑑』胡三省注に「梯小而長、人如獼猴攀縁而上、故曰獼猴梯」という。
  • 8
    『資治通鑑』胡三省注に「席庫、蔵席之所」という。
  • 9
    『資治通鑑』胡三省注に「中台者、三台之中台、即銅雀台」とある。
  • 10
    天王皇后が廃されることを指すか。なぜ皇后が話に持ち出されるのかいまいちわからないが、まったく文意が通じないわけではないのでこのまま訳出した。なお『資治通鑑』は「中宮」を「宮中」に作っている。
  • 11
    原文「燕公斌、彭城公遵並有武芸文徳、陛下神歯已衰、四海未一、請択二公而樹之」。張挙の言葉は『資治通鑑』だと「燕公斌有武略、彭城公遵有文徳、惟陛下所択」とだいぶ異なっている。また『資治通鑑』はこれにつづけて「虎曰、『卿言正起吾意』。戎昭将軍張豺曰、『燕公母卑賎、又嘗有過[͡胡注:欲殺張賀度也]、彭城公母前以太子事廃[胡注:遵与邃同母]、今立之、臣恐不能無微恨、陛下宜審思之』。初、虎之破上邽也、……」とある。載記本文は張豺の言葉がカットされ、「初、戎昭張豺之破上邽也……」となっているが、削る部分をまちがえてしまったのかもしれない。
  • 12
    「純」は「余計なものが混じっていない」「きれいな」とかいうニュアンスだろう。
  • 13
    『資治通鑑』には「何為専生悪子、年踰二十輒欲殺父(どうして凶悪な子ばかりが生まれ、二十を越えたら父親を殺そうとするのだろう)」とあり、より悲壮感の込められた表現になっている印象。
  • 14
    『資治通鑑』胡三省注によると「石宣簡多力之士以衛東宮、号曰高力、置督将以領之」という。
  • 15
    高力らが警備に就く拠点への食糧も同時に運ばせたということだろう。
  • 16
    おそらく辺境警備の兵役により、拠点に駐屯している兵卒のこと。
  • 17
    『資治通鑑』は「長吏」に作る。二千石と併称するならば『資治通鑑』のほうが適切に思える。
  • 18
    『資治通鑑』胡三省注には「左右皆為劉后母子、故竟無行者」とあり、左右の者に迎えを命じたけれど、彼らは劉氏の息がかかっていたから従わなかったとしているようである。
  • 19
    太和は海西公の元号で明らかにおかしい。中華書局校勘記が言うように、永和(穆帝の元号)の誤りであろう。なお穆帝紀、『資治通鑑』に従えば永和五年のことである。
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