『宋書』巻三十九 志第二十九 百官上(2)

凡例
  • 文中の〔 〕は訳者による補語、( )は訳者の注釈、12……は注を示す。番号をクリック(タップ)すれば注が開く。開いている状態で適当な箇所(番号でなくともよい)をクリック(タップ)すれば閉じる。

上公・公府員/特進・将軍・都督/卿/尚書/門下

 〔丞相府に給事する〕蒼頭1漢代、奴婢のことを指して「蒼頭」と言ったらしい。魏の孟康によれば、一般の民衆(良民)のことは「黒」で象徴させるいっぽう、賤民は「黒」ではなく「青」で象徴させることで、良民と区別させたのだという。『漢書』巻七二、鮑宣伝の顔師古注に「孟康曰、『黎民黔首、黎黔皆黒也。下民陰類、故以黒為号。漢名奴為蒼頭、非純黒、以別於良人也。諸給殿中者所居為廬、蒼頭侍従因呼為廬兒』。臣瓚曰、『漢儀注、官奴給書計、従侍中已下為蒼頭青幘』」とある。で字(呼び名)を宜禄という者がいた。漢のとき、丞相府〔の官吏〕が〔丞相に〕具申することがあるたびに、閤門(丞相府の門)に至って宜禄を呼び出した2以上の文は読むのがむずかしく、憶測をまじえて訳出した。まず蒼頭についてだが、衛宏『漢旧儀』(孫星衍の校本)に「丞相……六月一更倉頭廬児」とあり、丞相府に蒼頭が給仕していたと考えられる。また同じく『漢旧儀』(同校本)に「丞相府……諸吏初除謁視事、問君侯応閤奴名、白事以方尺板叩閤、大呼奴名」とあり、本志で記述されているのもおそらくこのことなのではないかと思われる。そこで、これら二つの文を参考にして訳出した。。〔のち、〕これ(丞相への取次を頼むときに門をたたいて「宜禄」と言うこと)を常制とした。
 丞相は三人の長史を置いた。丞相が病気になれば、御史大夫が百官を率いて三日のあいだ朝に安否をたずねた3『太平御覧』巻二〇四、丞相上に引く「応劭漢官」に「丞相有疾、御史大夫日一問起居、百官亦如之」とあり、同、「漢旧儀」に「丞相有病、皇帝法駕親至、問疾、薨即移於第中、賜棺賻葬地、葬日公卿以下会送」とある。。病気が治ると、詔を下して尚書令または光禄大夫をつかわし、養牛(皇帝が飼育している牛)と上尊酒4上等な酒。如淳は発酵させる米の種類で上中下のランク分けがなされ、上は稲米でつくるとする。顔師古は米の種類は関係なく、味の濃淡で上中下がつけられるとする。『漢書』巻七一、平当伝の顔師古注に「如淳曰、『律、稲米一斗得酒一斗為上尊、稷米一斗得酒一斗為中尊、粟米一斗得酒一斗為下尊』。師古曰、『稷即粟也。中尊者宜為黍米、不当言稷。且作酒自有澆醇之異為上中下耳、非必繫之米』」とある。を下賜した5養牛と上尊酒の下賜は『漢書』に実例が見えている。『漢書』巻八一、張禹伝に「加賜黄金百斤、養牛、上尊酒、太官致餐、侍医視疾、使者臨問」とあり、同、巻八四、翟方進伝に「使尚書令賜君上尊酒十石、養牛一、君審処焉」とある。。漢の景帝のとき、三公が病気になると、中黄門をつかわして見舞わせた。魏と晋の場合は〔中黄門ではなく〕黄門郎で、とりわけ位が重い者は侍中になることもあった。魏の武帝が丞相となって以来、〔丞相府には〕左右の二人の長史を置くのみであった。東漢では、太傅府は掾と属〔合わせて〕十人、御属一人、令史十二人を置いたが、みなどの曹の所属であったのかはわからない。太尉から大将軍、驃騎将軍、車騎将軍、衛将軍にいたるまでの府は、すべて長史一人を置いた。さらに将軍は、それぞれ司馬一人を置いた。太傅府は長史を置かなかった6『太平御覧』巻二〇六、太傅に引く「宋書」に「晋宣帝為魏太傅、誅曹爽後、置左右長史、掾、属、舎人各十人、事既非常、加又領兵、非准例也」とあり(『芸文類聚』巻四六、太傅に引く「沈約宋書」略同)、中華書局は本文のこのあとにつづいていたはずの佚文である可能性を指摘している。
 太尉府は掾と属二十四人を置いた。西曹は府吏の人事をつかさどり、東曹は二千石や長吏(県の令長)の人事をつかさどり、戸曹は民戸、祭祀、農業の事柄をつかさどり、奏曹は奏議の事柄をつかさどり、辞曹は訴訟の事柄をつかさどり、法曹は郵駅や法令の事柄をつかさどり7原文「主郵駅科程事」。この読み方で適切であるのか自信はない。郵と駅は文書を伝送するための機関もしくは施設。西北出土の漢簡(居延漢簡や懸泉置漢簡)には「駅騎」「駅卒」「駅馬」といった語が多く見えており、各所に設けられた駅という機関ないし施設に馬を備えておき、文書伝送のさいに駅騎らが各駅の馬を乗り継いで伝送していったのではないかと考えられる。郵は張家山漢簡「二年律令」の行書律に規定が記されており、たとえば「十里置一郵」(行書律二六四)などとある。鷹取祐司氏によれば、郡間の幹線道路上に配置されていた(鷹取『秦漢官文書の基礎的研究』汲古書院、二〇一五年、二七一頁以下)。また同行書律二六五―二六六には「一郵十二室、……。有物故、去、輒代者有其田宅。有息、戸勿減。令郵人行制書、急書、復、勿令為它事」とあり、「制書、急書」の伝送に従事する郵人という人々が郵に居住していたようで、その身分は一般の民というよりはやや官に近く、いささか特殊だったとみられる(高村武幸『漢代の地方官吏と地域社会』汲古書院、二〇〇八年、七五―七七頁)。鷹取氏は郵を用いた文書伝達の方式について、「幹線道路上に十里ごとに設置された郵を順次逓伝していく伝送方式で、郵で運び手が交代する」(鷹取『秦漢官文書の基礎的研究』、前掲、二七六―二七七頁)と述べている。晋代でも郵と駅は配置されていたと考えられ、たとえば西晋恵帝期ころのものと目される「郴州晋簡」に「都郵南到穀駅廿五里、吏黄明、士三人、主」(一―二六)、「和郵到両橋駅一百廿里、吏李頻、士四人、主」(二―三八四)と見えている。、尉曹は卒徒や輸送の事柄をつかさどり8原文「主卒徒転運事」。「卒」は徭役に徴発された編戸、「徒」は労役刑に服している刑徒。渡辺信一郎『中国古代の財政と国家』(汲古書院、二〇一〇年)第二章、第四章、とくに一五二頁を参照。「転運」は京師や郡外への輸送労働を指すか。渡辺氏は「卒・徒、転運の事」と読んでいる(同前、一五二頁)。、賊曹は盗賊の事柄をつかさどり、決曹は刑罰の事柄をつかさどり、兵曹は兵の事柄をつかさどり、金曹は貨幣や塩鉄の事柄をつかさどり、倉曹は倉庫の穀物の事柄をつかさどり、黄閤主簿9三公の府の「閤」(門)は黄色に塗られていたらしい。『宋書』巻一五、礼志二に「三公黄閤、前史無其義。史臣按、礼記『士韠与天子同、公侯大夫則異』。鄭玄注、『士賤、与君同、不嫌也』。夫朱門洞啓、当陽之正色也。三公之与天子、礼秩相亜、故黄其閤、以示謙不敢斥天子、蓋是漢来制也。張超与陳公箋、『拝黄閤将有日月』、是也」とある。はあらゆる事務を取りまとめて治めた10『続漢書』百官志一、太尉、掾史属の本注に「西曹主府史署用。東曹主二千石長吏遷除及軍吏。戸曹主民戸祠祀農桑。奏曹主奏議事。辞曹主辞訟事。法曹主郵駅科程事。尉曹主卒徒転運事。賊曹主盜賊事。決曹主罪法事。兵曹主兵事。金曹主貨幣塩鉄事。倉曹主倉穀事。黄閤主簿録省衆事」とあり、本文とほぼ同じ。。御属は一人、令史は二十二人。御属は公御をなすことをつかさどった11『続漢書』百官志一、太尉、令史及御属の本注に「御属主為公御」とあり、本文と同じ。「為公御」はよくわからないが、御属の名称から推すと、何らかの曹に所属することなく、公(太尉)に直属しているような属(副)ということか。『続漢書』百官志一、太尉、令史及御属の劉昭注に引く「荀綽晋百官表注」には「御属如録事也」とあるが、漢代の郡県の府に録事なる職があり、書類処理に従事していたらしく(厳耕望『中国地方行政制度史――秦漢地方行政制度』厳耕望史学著作集、上海古籍出版社、二〇〇七年、原著は一九六一年、一二四、一二六頁)、魏晋南朝の州郡でも変わらず同様の職務を担ったとされている(厳耕望『中国地方行政制度史――魏晋南北朝地方行政制度』上、厳耕望史学著作集、上海古籍出版社、二〇〇七年、原著は一九六三年、一四一、一七〇頁)。荀綽が言うところの録事は地方官府のそれであろうか。。令史には閤下令史、記室令史、門下令史があるが、そのほかは記録がない12『続漢書』百官志一、太尉、令史及御属の本注に「閤下令史主閤下威儀事。記室令史主上章表報書記。門令史主府門。其余令史、各典曹文書」とある。。案ずるに、掾と属は二十四人というが、東西曹以下、のべ十二曹あるから、各曹ごとに掾と属を一人ずつ置けば、合計で二十四人である。
 司徒府は掾と属三十一人、御属一人、令史三十五人を置いた。司空府は掾二十九人、御属一人、令史三十一人を置いた。司空府は〔太尉府と司徒府とは〕別に道橋掾があった。そのほか、〔太尉の府と比べて〕増減した職員の名称は、記録がないので知ることができない。
 東漢のとき、大将軍と驃騎将軍〔の府〕は従事中郎二人、掾と属二十九人、御属一人、令史三十人であった。車騎将軍と衛将軍は従事中郎二人、掾と属二十人、御属一人、令史二十四人であった。兵曹の掾史は兵の事柄をつかさどり、稟仮掾史は稟仮(俸給)をつかさどり13『続漢書』百官志一、将軍には「稟仮掾史主稟仮禁司」とある。、また外刺姦を置き、違法者への処罰をつかさどらせた14『続漢書』百官志一、将軍には「又置外刺、刺姦、主罪法」とあり、外刺と刺姦の二職が置かれていたかのごとくである。。兵を率いて外方へ討伐に出動するさい、軍の営には五部あり、部ごとに校尉一人、軍司馬一人がいた。部の下には曲があり、曲ごとに軍候一人がいた。曲の下には屯があり、屯ごとに屯長一人がいた。校尉を置かない場合は、部には軍司馬一人のみがいることとなる。ほかに軍仮司馬、軍仮候がいた15『続漢書』百官志一、将軍によれば、どちらも「副弐」であるという。それぞれ部司馬と軍候の副官ということであろう。。〔本営とは〕別の営の場合は〔その司馬を〕別部司馬とした。〔大将軍、驃騎、車騎、衛以外の〕ほかの将軍で征伐のために置かれるものは、府には職員がないが、〔上述の将軍と〕同様に部と曲に司馬と軍候がおり、兵を率いた16『続漢書』百官志一、将軍に「其領軍皆有部曲。大将軍営五部、部校尉一人、比二千石。軍司馬一人、比千石。部下有曲、曲有軍候一人、比六百石。曲下有屯、屯長一人、比二百石。其不置校尉部、但軍司馬一人。又有軍仮司馬、仮候、皆為副弐。其別営領属為別部司馬、其兵多少各隨時宜。門有門候。其余将軍、置以征伐、無員職、亦有部曲、司馬軍候以領兵」とあり、おおむね同じ。。案ずるに、大将軍以下の掾属は三司の府と比べて増減があるが、〔その仔細は〕記録がないので知ることができない。〔将軍府に〕令史と御属を置く場合は三司の府と同じである。〔兵曹掾史のように〕掾史と呼ぶ場合〔の将軍府〕は、〔曹には〕掾はいるが属はいないということであり、また令史と御属も記されていないから、三司の府と同じではない17原文「置令史、御属者、則是同三府也。其云掾史者、則是有掾而無属、又無令史、御属、不同三府也」。自信がないが、訳文のように読んでみた。。(以上までは漢代の府の職員の記述)
 魏のはじめの公の府の職員は、記録に十分な記述がない。晋の景帝が大将軍となると、掾十人を置き、西曹、東曹、戸曹、倉曹、賊曹、金曹、水曹、兵曹、騎兵曹にそれぞれ〔掾を〕一人としたから18合計で九曹しかなく、十人にならない。、属はいなかったのであろう。魏の元帝の咸熙年間、晋の文帝が相国となると、相国府に中衛将軍、驍騎将軍、左長史と右長史、司馬〔それぞれ一人〕、従事中郎四人、主簿四人、舎人十九人、参軍二十二人、参戦十一人、掾と属三十三人を置いた。東曹は掾と属各一人、西曹は属一人、戸曹は掾一人と属二人、賊曹は掾一人と属二人、金曹は掾と属各一人、兵曹は掾と属各一人、騎兵曹は掾二人と属一人、車曹は掾と属各一人、鎧曹は掾と属各一人、水曹は掾と属各一人、集曹は掾と属各一人、法曹は掾と属各一人、奏曹は掾と属各一人、倉曹は属二人、戎曹は属一人、馬曹は属一人、媒曹は属一人、合計で〔掾と属は〕三十三人である。〔このほかに〕散属が九人いたので、のべ四十二人であった。(以上は曹魏の府の職員の記述)
 晋のはじめ、位従公以上の者はみな19『晋書』巻二四、職官志によると、驃騎将軍、車騎将軍、衛将軍、諸大将軍、左右光禄大夫、光禄大夫で開府儀同三司を授けられた者が「位従公」である(訳者は「位従公」を「朝位は公に準じる」=「儀同三司」だと考えている。詳しくはブログ記事「唐修『晋書』職官志の「位従公」について」を参照)。「公」は太宰、太傅、太保、司徒、司空、大司馬、大将軍、太尉である。「位従公」と「公」のうち、武官系を「武官公」、文官系を「文官公」と言う。「武官公」は大司馬、太尉、大将軍と開府儀同三司を授けられた驃騎将軍、車騎将軍、衛将軍、諸大将軍。「文官公」が太宰、太傅、太保、司徒、司空と開府儀同三司を授けられた左右光禄大夫、光禄大夫。、〔府に〕長史、西閤祭酒、東閤祭酒、西曹掾、東曹掾、戸曹属、倉曹属、賊曹属それぞれ一人を置いた。兵を加えられた者はさらに〔府に〕司馬、従事中郎、主簿、記室督それぞれ一人、舎人四人を置いた。持節都督となった者は、〔府に〕参軍六人を置いた。安平献王孚が太宰となると、掾と属を十人に増員されたが、兵曹、鎧曹、士曹、営軍、刺姦の五つの曹すべてに属を置き、従来の曹の掾属20前文に見える西曹掾、東曹掾、戸曹属、倉曹属、賊曹属の五人の掾属を指す。と合わせて十人となったのである。楊駿が太傅となると、祭酒を四人に増員され、掾と属を二十人に増員されたが、兵曹が左兵曹と右兵曹に分割され、〔この二曹と〕法曹、金曹、田曹、集曹、水曹、戎曹、車曹、馬曹の十曹すべてに属を置いたので、二十人となったのである。趙王倫が相国となると、〔長史を分割して〕左長史と右長史、司馬〔それぞれ一人〕、従事中郎四人、参軍二十人、主簿、記室督、祭酒それぞれ四人、掾と属四十人を置いた。東曹と西曹にも属を置き、そのほかの十八曹すべてにも掾を置いたので、四十人である。すべての曹に御属、令史、学幹を置いた。御属の職務は録事〔のようなもの〕である21原文「御属職録事也」。前の注で引いた『続漢書』百官志一、太尉、令史及御属の劉昭注に引く「荀綽晋百官表注」に「御属如録事也」とあるのにもとづいた記述だと思われるので、補って訳出した。録事については漢の太尉府御属の注を参照のこと。。(以上は西晋の府の職員の記述)
 晋の江左(東晋のこと)以来、公〔の府〕は長史、倉曹掾、戸曹属、東閤祭酒、西閤祭酒それぞれ一人、主簿〔一人〕、舎人二人、御属二人を置き、令史は定員がなかった。軍を〔加えられて〕統べている場合は〔府に〕司馬一人、従事中郎二人を置き、参軍は定員がなかった。〔礼秩を〕加崇された場合は〔府に〕左長史と右長史、司馬〔それぞれ一人〕、従事中郎四人、掾と属四人を置いた。すなわち、倉曹が属を増やされ、戸曹が掾を増やされたのである。江左における加崇は、これが最高のものであった。(以上は東晋の府の職員の記述)22肝心の宋について記述されていないので、『通典』巻二〇、総叙三師三公以下官属から関連する箇所を引用し、簡単に補っておく。「宋には〔府を有する官に〕太傅、太保、太宰、太尉、司徒、司空、大司馬がおり、いずれの府にも長史一人、将軍(?)一人がいる。また、それぞれの府には司馬を一人置くが、太傅府は置かない。〔これらの府における〕長史や掾属は後漢とほぼ同じである(宋有太傅、太保、太宰、太尉、司徒、司空、大司馬、諸府皆有長史一人、将軍一人。又各置司馬一人、而太傅不置。長史、掾属亦与後漢略同)」。
 長史、司馬、舎人は秦の官である。従事中郎、掾、属、主簿、令史は前漢の官である。陳湯が大将軍の王鳳の従事中郎になっているのが、この証左である。御属、参軍は後漢の官である。孫堅が車騎将軍の参軍となっているのが、この証左である。元来、〔府の参軍は〕府主に対して敬する必要はなかったが、晋のとき、太原の孫楚が大司馬の石苞の参軍となると、石苞を軽んじて侮ったため、〔府主に〕敬するようにはじめて定まったのである23「(致)敬」という場合の「敬」がどういう礼儀を言うのかはよくわからない。『芸文類聚』巻四七、大司馬に引く「王隠晋書」に「石苞、泰始之初、拝大司馬。旧参軍於都督無敬、故孫楚抗衡於苞。苞以楚傲、更相表理。参軍有敬、自楚始也」とある。。祭酒は晋の官である。漢の呉王濞が劉氏祭酒になっている。そもそも、祭祀は酒を本質とするもの(酒を捧げて先祖を祀るということ)であり、年長者が祭祀を取り仕切る。ゆえに祭酒を〔年長者へ授けられる〕称号としたのである24『芸文類聚』巻四六、祭酒に引く「韋昭辯釈名」に「祭酒者、謂祭六神、以酒醊之也。辯云、凡会同饗讌、必尊長先用、先用必以酒祭先、故曰祭酒。漢時、呉王年長、以為劉氏祭酒是也」とあり、『太平御覧』巻二三六、国子祭酒に引く「徐広釈祭酒」に「古主人具饌、則賓中長者一人、挙酒祭地、是則長者為祭酒也」とあり、『続漢書』百官志二、太常、博士祭酒の劉昭注に「胡広曰、『官名祭酒、皆一位之元長者也。古礼、賓客得主人饌、則老者一人挙酒以祭於地、旧説以為示有先』」とある。。漢の侍中や魏の散騎常侍で功労が高い者は、みな祭酒になった25侍中祭酒は『後漢書』伝一五、卓茂伝に「更始立、以茂為侍中祭酒」とみえ、李賢注に「続漢志曰、『侍中、無員、掌侍左右、顧問応対、本有僕射一人、中興転為祭酒』」とある。散騎の祭酒はまだ例が見つかっていない。。公府の祭酒はこの名称を踏襲したものであろう。長史と従事中郎は吏を管轄し26長史は立場上、府主の次の序列にあたる職。『続漢書』百官志一、太尉、長史の本注に「署諸曹事」とあり、『太平御覧』巻二〇九、三公府掾属、太尉長史に引く「応劭漢官儀」に「太尉、司徒、司空長史、秩比千石。号為毗佐三台、助和鼎味」とある。
 従事中郎については、前漢代、『漢書』巻七〇、陳湯伝に「大将軍鳳奏以為従事中郎、莫府事壱決於湯」とあり、府の事務を一手に握っていたという。また『続漢書』百官志一、将軍、従事中郎の本注に「職参謀議」とあり、参謀の軍職であったという。両者の記述は違背するものではなく、従事中郎は軍府の参謀役であったのだろう。前文で公に加兵されたときは府に従事中郎を置くとの記述が見えているが、このように従事中郎はもともと軍職であるのであろう。しかし後文で記されるように、東晋元帝のときには従事中郎は諸曹を主管する職に転換されている。『太平御覧』巻二〇九、三公府掾属、太尉従事中郎に引く「干宝司徒儀」に「従事中郎之職、各掌其所治之曹而紀綱其事、維正大体、参輔謀議」とあり、東晋元帝期における変質が反映された職掌の説明になっているが、干宝の『司徒儀』は『南斉書』巻一六、百官志に「晋世王導為司徒、右長史干宝撰立官府、職儀已具」とあるように(句読は興膳宏・川合康三『隋書経籍志詳攷』汲古書院、一九九五年、三四〇頁に拠る)、干宝が王導の司徒府に入ってから著述されたものであり、王導の司徒就任は明帝の太寧元年であるから(『晋書』巻六、明帝紀)、少なくとも明帝期以降の著作ということになる。つまり、元帝時代以降も従事中郎は諸曹主管の職務と定められていたのであろう。なお、干宝の『司徒儀』はあくまで司徒府の僚属についての儀注であるものの、従事中郎に関しては府によって職掌が異なっていたとは考えにくく、如上の従事中郎の記述は従事中郎一般の説明にも適用できるものと考える。宮崎市定『九品官人法の研究――科挙前史』(中央公論社、一九九七年、原著は一九五六年)一二三頁などによれば、従事中郎は郷品三品が就くべき官であった。
、司馬は将を管轄し27『北堂書鈔』巻六八、司馬「脩武政簡軍旅」に引く「干宝司徒儀」に「司馬之職、掌佐公、脩武政上、簡其軍旅、飾其器械也」とある。、主簿、祭酒、舎人は閤内(門内=府内)の事柄をつかさどり28主簿は漢代、州郡の府にも同名の職が置かれていたが、厳耕望氏によればそれらの主簿は府主に対してもっとも親近の腹心で、当時の中央官でいえば尚書、こんにちでいえば秘書のごとき働きをなしていたという(厳耕望『中国地方行政制度史――秦漢地方行政制度』、前掲、一二四―六、三〇八頁)。公府の主簿については、『続漢書』百官志一、太尉、掾史属の本注に見える黄閤主簿が公府主簿を指すと思われ、同本注に「録省衆事(あらゆる事務を取りまとめて治めた)」と職事が説明されているから、おそらく州郡の主簿同様、公府内の事務等を取りまとめる役割を果たしていたのであろう。魏晋以降も公府の主簿が散見しており、詳細はわからないが、魏晋南朝の州郡の主簿は漢代とあまり変化していないらしいので(厳耕望『中国地方行政制度史――魏晋南北朝地方行政制度』上、前掲、一六四―一六六頁)、公府の主簿も大きくは変わっていないのではないだろうか。
 祭酒の職はよくわからない。
 舎人は、宮崎市定氏によれば「その府主に対して個人的に仕える三大夫の役であっ〔た〕から最も卑賤な職とされたが、寒士は屡々この舎人の位につくことを余儀なくされた」という(宮崎『九品官人法の研究』、前掲、一九四頁、〔 〕内は引用者の補充)。府主の日用雑事に奉仕するということなのであろう。
、参軍、掾、属、令史は諸曹の事柄をつかさどった29参軍(参軍事)は、石井仁氏によると後漢末以降、群雄が私的に設けた参謀職のひとつ。魏晋以降は府の職員として公的に定着してゆき、変わらず参謀的な役割を果たしていたようである。しかし時代が降るにつれ、南朝では掾属に代わって諸曹の長官になっていった。そのうえ、軍を率いる役割も兼ねていたそうである。石井「参軍事考――六朝軍府僚属の起源をめぐって」(『文化』五一―三・四、一九八八年)を参照。本文で諸曹を主管する職として言及されているのは、参軍がかかる変質を遂げていた時期にこの文が書かれたことを示しているのかもしれない。後文で「今」(現在)や東晋元帝の曹の参軍が列挙されているが、それらの参軍はすでに曹の長官であったのだろう。
 は曹の長、は副。『続漢書』百官志一、太尉、掾史属の劉昭注に引く「漢書音義」に「正曰掾、副曰属」とあり、『太平御覧』巻二〇九、三公府掾属、司徒掾に引く「干宝司徒儀」に「掾属之職、敦明教義、粛厲清風、非礼不言、非法不行、以訓群吏、以貴朝望、各掌其所治之曹」とある。
 令史は曹の下級職で、各曹の書類処理に従事した。「舎人よりももっと地位の低い賤職」(宮崎市定『九品官人法の研究』、前掲、一九五頁)。
。司徒府は、公(司徒)が欠員ならば30司徒が欠員の場合の司徒府の規定を以下で述べている。この規定はおそらく魏晋以降のもののはずである。、舎人を省くのみ〔で、ほかの職員は通常時と変わらずに置くもの〕とされていた。司徒府は常設であり、その職員はほかの公府と異なる。すなわち、左長史31通常の公府は長史が一人置かれるのみだが、司徒府の場合は左右一人ずつ、のべ二人の長史が置かれたということ。司徒府の左長史は九品の人事を差配する職とされており、要職であったらしい。『北堂書鈔』巻六八、長史「差次九品詮衡人倫」に引く「干宝司徒儀」に「左長史之職、掌差次九品、詮衡人倫」とある。、右長史32『太平御覧』巻二〇九、三公府掾属、司徒長史に引く「干宝司徒儀」に「右長史職掌、撿其法憲、明其分職」とある。なお『北堂書鈔』巻六八、長史「掌察郡吏」に引く「干宝司徒儀」に「左長史」の職掌として「撿其法憲、明其分職」が記されているが、「左」は「右」の誤りであろう。、左西曹の掾と属それぞれ一人33通常の公府にも西曹があるが、長史同様、司徒府の場合はやはり左右二つに分かれて置かれたということ。左西曹の掾属も左長史と同じく、選挙業務に与ったらしい。『晋書』巻二四、職官志によると、司徒府の「西曹称右西曹」とあり、ほかの公府にも存在するふつうの西曹は右西曹と呼び換えられた。がおり、ほかの職員は同じである34宮崎市定氏によると、「郡国の中正は本来中央の司徒に属し、尚書とは別系統をなしている。即ち司徒・中正は官吏資格を与え、尚書は実際に官吏の任免黜陟を行う」(宮崎『九品官人法の研究』、前掲、一三七頁)。宮崎氏に従えば、司徒に属する中正が郷品を定めると、それを司徒府に上申し、承認を求める。その承認手続きの実務を担うのが左長史や左西曹であるらしい。そして司徒府が官吏資格を承認したら、尚書吏部が官職を選定する。実態は「司徒は単に資格審査を行って官吏資格を与えるだけで……司徒府は吏部の人事に干渉することができぬから、単に官吏資格の与え放しに終る」(一五八頁)。とはいえ、司徒府の承認は人事に不可欠であることに変わりなく、ゆえに司徒府は司徒が欠員であっても職員は常設され、機能を維持するのである。宮崎氏は「九品官人法とは、司徒府と尚書との合作になる選挙法である」(一八二頁)とも表現している。。ほかの公府は公(府主)がいれば置かれるが、欠員ならば廃される。晋の元帝が鎮東大将軍および丞相となると、〔鎮東府および丞相府に〕従事中郎を置き、定員はなく、諸曹を分担させた。〔またその府には〕録事中郎、度支中郎、三兵中郎がいた。参軍には諮議参軍二人がおり、諷議(諫めたり助言したりすること)をつかさどった35後文に見えるように、元帝の府の参軍は諸曹の主管を担っていたと考えられ、そのため宮崎市定氏は「他の参軍は夫々の曹をもって事務を分担しているが、これ〔諮議参軍のこと――引用者〕は無任所で中央における侍中のような存在である」(宮崎『九品官人法の研究』、前掲、二三九頁)と諮議参軍を特徴づけている。府主の相談役という「私設参謀官の正統を継承」(石井仁「参軍事考」、前掲、二三〇頁)した職とも言えるのであろう。。〔諮議参軍は〕晋の江左のはじめに置かれ、〔同じく諷議の職である〕軍諮祭酒36石井仁「参軍事考」(前掲)二二八頁によると、軍諮祭酒の起源は後漢末から三国期に群雄が置いた軍師祭酒であり、これがのち、晋の景帝の諱を避けて軍謀祭酒、軍祭酒などと表記されるようになり、ついには軍諮祭酒にいたったのであるという。を継承したものである37詳しく調べきれていないが、元帝の丞相府等に諮議参軍は見えず、多くは軍諮祭酒である。金民寿氏は「軍諮祭酒は諮議祭酒・諮議参軍とも称され」たと述べている(金氏「東晋政権の成立過程――司馬睿(元帝)の府僚を中心として」、『東洋史研究』四八―二、一九八九年、七八頁)。しかし、簡単に確認したかぎり、元帝即位以後から諮議参軍が見えはじめ、かわって軍諮祭酒はほとんど見えなくなっていく。そこで、本文の「因軍諮祭酒也」を「軍諮祭酒を継承したものである」と訳出し、軍諮祭酒を諮議参軍に改めたのだと解釈することにした。。宋の高祖が相国となると、諮議参軍のみを置き、その定員はなかった。現在の諸曹には、録事、記室、戸曹、倉曹、中直兵、外兵、騎兵、長流賊曹、刑獄賊曹、城局賊曹、法曹、田曹、水曹、鎧曹、車曹、士曹、集38中華書局の校勘記によると、衍字の可能性があるという。、右戸、墨曹の計十八曹に参軍がいる。曹に配属されていない参軍については、定員はない。江左のはじめ、晋の元帝の鎮東府および丞相府には、録事39『通典』巻二八、左右衛、録事参軍に「東晋元帝初為鎮東大将軍、置録事参軍。自後無聞」とあり、元帝の鎮東府ではじめて録事参軍が置かれたという。『北堂書鈔』巻六九、録事参軍「総録衆曹管其文案」に引く「干宝司徒儀」に「録事之職、掌総録衆曹、管其文案。凡府、自上章以下意遠失者、弾正以法。掌凡詣同案之事」とあり、諸曹の文書の取りまとめ役であったらしい(司徒府の録事はほかの公府と異なり特殊であったとは思えないので、この『司徒儀』の記述は公府の録事一般に適用できるものとみなす)。なお、これまで注でたびたび触れてきたが、漢から魏晋南朝期にかけての地方行政府にも録事がおり、やはり書類処理に従事していたようである。前引の『通典』には「自後無聞」とあり、たしかにめっきり見かけなくなるが、晋末ころからまた散見するようになる。動静の仔細は現在では論述しきれない。、記室、東曹、西曹、度支、戸曹、法曹、金曹、倉曹、理曹、中兵、外兵、騎兵、典兵、兵曹、賊曹、運曹、禁防、典賓、鎧曹、田曹、士曹、騎士、車曹に参軍がいた。そのうちの東曹、西曹、度支、金曹、理曹、典兵、兵曹、賊曹、運曹、禁防、典賓、騎士、車曹の十三曹〔の参軍〕は現在では廃され、〔元帝の府の諸曹参軍で〕残っているのは十二曹である。元帝ののち、〔江左の公府には〕さらに直兵、長流、刑獄、城局、水曹、右戸、塁曹の七曹〔の参軍〕が置かれた。高祖が相国となると、中兵と直兵〔のそれぞれの参軍〕を合わせ、一人の参軍を置くことにしたが、曹は〔併合せず、中兵と直兵の〕二つのままであった。現在では、小府で長流参軍を置かない場合は、禁防参軍を置いている。蜀の丞相の諸葛亮の府には行参軍がおり、晋の太傅の司馬越の府にも行参軍と兼行参軍がおり、のち、しだいに「長兼」の字が〔兼行参軍に〕加えられるようになった。除拝のとき(朝廷が任命するとき)は参軍事となり40正参軍と呼ばれることもある。宮崎市定氏によると、ほかの府員とは異なり、参軍はもともと中央から任命されるものであったという。宮崎『九品官人法の研究』(前掲)二三九―二四〇頁。、府板のとき(府主が裁量で任命するとき)は行参軍となる。晋末以来、〔この慣例は変化し、〕参軍事と行参軍にもそれぞれ除拝の場合と板授の場合があった41除拝の参軍事(正参軍)、板授の参軍事(行正参軍)、除拝の行参軍、板授の行参軍の四種があったということ。。板授の行参軍の下が長兼行参軍である42長兼行参軍については、『南斉書』巻一六、百官志に「其行参軍不署者、為長兼員」とあり、諸曹に配属されなかった行参軍のことだという。本文で言わんとすることは、おそらく正参軍、行正参軍、行参軍、板行参軍の順にランクがあり、長兼行参軍はもっとも下級の板行参軍よりも下だということであろうか。。参軍督護は江左が置いた43宮崎市定氏は長兼行参軍よりもさらに下の参軍であるとする。宮崎『九品官人法の研究』(前掲)二四一頁。。〔参軍は?〕もともと、みな営を統べ、部曲を有していたが44文脈からみて参軍の話だと思われるが、みな独自の部隊を有していたということ。、現在では有していない。公府の長史と司馬は秩千石、従事中郎は六百石、東曹と西曹の掾は四百石、ほかの掾は三百石、属は二百石である。

(2020/12/13:公開)
(2020/12/14:改訂)

上公・公府員/特進・将軍・都督/卿/尚書/門下

  • 1
    漢代、奴婢のことを指して「蒼頭」と言ったらしい。魏の孟康によれば、一般の民衆(良民)のことは「黒」で象徴させるいっぽう、賤民は「黒」ではなく「青」で象徴させることで、良民と区別させたのだという。『漢書』巻七二、鮑宣伝の顔師古注に「孟康曰、『黎民黔首、黎黔皆黒也。下民陰類、故以黒為号。漢名奴為蒼頭、非純黒、以別於良人也。諸給殿中者所居為廬、蒼頭侍従因呼為廬兒』。臣瓚曰、『漢儀注、官奴給書計、従侍中已下為蒼頭青幘』」とある。
  • 2
    以上の文は読むのがむずかしく、憶測をまじえて訳出した。まず蒼頭についてだが、衛宏『漢旧儀』(孫星衍の校本)に「丞相……六月一更倉頭廬児」とあり、丞相府に蒼頭が給仕していたと考えられる。また同じく『漢旧儀』(同校本)に「丞相府……諸吏初除謁視事、問君侯応閤奴名、白事以方尺板叩閤、大呼奴名」とあり、本志で記述されているのもおそらくこのことなのではないかと思われる。そこで、これら二つの文を参考にして訳出した。
  • 3
    『太平御覧』巻二〇四、丞相上に引く「応劭漢官」に「丞相有疾、御史大夫日一問起居、百官亦如之」とあり、同、「漢旧儀」に「丞相有病、皇帝法駕親至、問疾、薨即移於第中、賜棺賻葬地、葬日公卿以下会送」とある。
  • 4
    上等な酒。如淳は発酵させる米の種類で上中下のランク分けがなされ、上は稲米でつくるとする。顔師古は米の種類は関係なく、味の濃淡で上中下がつけられるとする。『漢書』巻七一、平当伝の顔師古注に「如淳曰、『律、稲米一斗得酒一斗為上尊、稷米一斗得酒一斗為中尊、粟米一斗得酒一斗為下尊』。師古曰、『稷即粟也。中尊者宜為黍米、不当言稷。且作酒自有澆醇之異為上中下耳、非必繫之米』」とある。
  • 5
    養牛と上尊酒の下賜は『漢書』に実例が見えている。『漢書』巻八一、張禹伝に「加賜黄金百斤、養牛、上尊酒、太官致餐、侍医視疾、使者臨問」とあり、同、巻八四、翟方進伝に「使尚書令賜君上尊酒十石、養牛一、君審処焉」とある。
  • 6
    『太平御覧』巻二〇六、太傅に引く「宋書」に「晋宣帝為魏太傅、誅曹爽後、置左右長史、掾、属、舎人各十人、事既非常、加又領兵、非准例也」とあり(『芸文類聚』巻四六、太傅に引く「沈約宋書」略同)、中華書局は本文のこのあとにつづいていたはずの佚文である可能性を指摘している。
  • 7
    原文「主郵駅科程事」。この読み方で適切であるのか自信はない。郵と駅は文書を伝送するための機関もしくは施設。西北出土の漢簡(居延漢簡や懸泉置漢簡)には「駅騎」「駅卒」「駅馬」といった語が多く見えており、各所に設けられた駅という機関ないし施設に馬を備えておき、文書伝送のさいに駅騎らが各駅の馬を乗り継いで伝送していったのではないかと考えられる。郵は張家山漢簡「二年律令」の行書律に規定が記されており、たとえば「十里置一郵」(行書律二六四)などとある。鷹取祐司氏によれば、郡間の幹線道路上に配置されていた(鷹取『秦漢官文書の基礎的研究』汲古書院、二〇一五年、二七一頁以下)。また同行書律二六五―二六六には「一郵十二室、……。有物故、去、輒代者有其田宅。有息、戸勿減。令郵人行制書、急書、復、勿令為它事」とあり、「制書、急書」の伝送に従事する郵人という人々が郵に居住していたようで、その身分は一般の民というよりはやや官に近く、いささか特殊だったとみられる(高村武幸『漢代の地方官吏と地域社会』汲古書院、二〇〇八年、七五―七七頁)。鷹取氏は郵を用いた文書伝達の方式について、「幹線道路上に十里ごとに設置された郵を順次逓伝していく伝送方式で、郵で運び手が交代する」(鷹取『秦漢官文書の基礎的研究』、前掲、二七六―二七七頁)と述べている。晋代でも郵と駅は配置されていたと考えられ、たとえば西晋恵帝期ころのものと目される「郴州晋簡」に「都郵南到穀駅廿五里、吏黄明、士三人、主」(一―二六)、「和郵到両橋駅一百廿里、吏李頻、士四人、主」(二―三八四)と見えている。
  • 8
    原文「主卒徒転運事」。「卒」は徭役に徴発された編戸、「徒」は労役刑に服している刑徒。渡辺信一郎『中国古代の財政と国家』(汲古書院、二〇一〇年)第二章、第四章、とくに一五二頁を参照。「転運」は京師や郡外への輸送労働を指すか。渡辺氏は「卒・徒、転運の事」と読んでいる(同前、一五二頁)。
  • 9
    三公の府の「閤」(門)は黄色に塗られていたらしい。『宋書』巻一五、礼志二に「三公黄閤、前史無其義。史臣按、礼記『士韠与天子同、公侯大夫則異』。鄭玄注、『士賤、与君同、不嫌也』。夫朱門洞啓、当陽之正色也。三公之与天子、礼秩相亜、故黄其閤、以示謙不敢斥天子、蓋是漢来制也。張超与陳公箋、『拝黄閤将有日月』、是也」とある。
  • 10
    『続漢書』百官志一、太尉、掾史属の本注に「西曹主府史署用。東曹主二千石長吏遷除及軍吏。戸曹主民戸祠祀農桑。奏曹主奏議事。辞曹主辞訟事。法曹主郵駅科程事。尉曹主卒徒転運事。賊曹主盜賊事。決曹主罪法事。兵曹主兵事。金曹主貨幣塩鉄事。倉曹主倉穀事。黄閤主簿録省衆事」とあり、本文とほぼ同じ。
  • 11
    『続漢書』百官志一、太尉、令史及御属の本注に「御属主為公御」とあり、本文と同じ。「為公御」はよくわからないが、御属の名称から推すと、何らかの曹に所属することなく、公(太尉)に直属しているような属(副)ということか。『続漢書』百官志一、太尉、令史及御属の劉昭注に引く「荀綽晋百官表注」には「御属如録事也」とあるが、漢代の郡県の府に録事なる職があり、書類処理に従事していたらしく(厳耕望『中国地方行政制度史――秦漢地方行政制度』厳耕望史学著作集、上海古籍出版社、二〇〇七年、原著は一九六一年、一二四、一二六頁)、魏晋南朝の州郡でも変わらず同様の職務を担ったとされている(厳耕望『中国地方行政制度史――魏晋南北朝地方行政制度』上、厳耕望史学著作集、上海古籍出版社、二〇〇七年、原著は一九六三年、一四一、一七〇頁)。荀綽が言うところの録事は地方官府のそれであろうか。
  • 12
    『続漢書』百官志一、太尉、令史及御属の本注に「閤下令史主閤下威儀事。記室令史主上章表報書記。門令史主府門。其余令史、各典曹文書」とある。
  • 13
    『続漢書』百官志一、将軍には「稟仮掾史主稟仮禁司」とある。
  • 14
    『続漢書』百官志一、将軍には「又置外刺、刺姦、主罪法」とあり、外刺と刺姦の二職が置かれていたかのごとくである。
  • 15
    『続漢書』百官志一、将軍によれば、どちらも「副弐」であるという。それぞれ部司馬と軍候の副官ということであろう。
  • 16
    『続漢書』百官志一、将軍に「其領軍皆有部曲。大将軍営五部、部校尉一人、比二千石。軍司馬一人、比千石。部下有曲、曲有軍候一人、比六百石。曲下有屯、屯長一人、比二百石。其不置校尉部、但軍司馬一人。又有軍仮司馬、仮候、皆為副弐。其別営領属為別部司馬、其兵多少各隨時宜。門有門候。其余将軍、置以征伐、無員職、亦有部曲、司馬軍候以領兵」とあり、おおむね同じ。
  • 17
    原文「置令史、御属者、則是同三府也。其云掾史者、則是有掾而無属、又無令史、御属、不同三府也」。自信がないが、訳文のように読んでみた。
  • 18
    合計で九曹しかなく、十人にならない。
  • 19
    『晋書』巻二四、職官志によると、驃騎将軍、車騎将軍、衛将軍、諸大将軍、左右光禄大夫、光禄大夫で開府儀同三司を授けられた者が「位従公」である(訳者は「位従公」を「朝位は公に準じる」=「儀同三司」だと考えている。詳しくはブログ記事「唐修『晋書』職官志の「位従公」について」を参照)。「公」は太宰、太傅、太保、司徒、司空、大司馬、大将軍、太尉である。「位従公」と「公」のうち、武官系を「武官公」、文官系を「文官公」と言う。「武官公」は大司馬、太尉、大将軍と開府儀同三司を授けられた驃騎将軍、車騎将軍、衛将軍、諸大将軍。「文官公」が太宰、太傅、太保、司徒、司空と開府儀同三司を授けられた左右光禄大夫、光禄大夫。
  • 20
    前文に見える西曹掾、東曹掾、戸曹属、倉曹属、賊曹属の五人の掾属を指す。
  • 21
    原文「御属職録事也」。前の注で引いた『続漢書』百官志一、太尉、令史及御属の劉昭注に引く「荀綽晋百官表注」に「御属如録事也」とあるのにもとづいた記述だと思われるので、補って訳出した。録事については漢の太尉府御属の注を参照のこと。
  • 22
    肝心の宋について記述されていないので、『通典』巻二〇、総叙三師三公以下官属から関連する箇所を引用し、簡単に補っておく。「宋には〔府を有する官に〕太傅、太保、太宰、太尉、司徒、司空、大司馬がおり、いずれの府にも長史一人、将軍(?)一人がいる。また、それぞれの府には司馬を一人置くが、太傅府は置かない。〔これらの府における〕長史や掾属は後漢とほぼ同じである(宋有太傅、太保、太宰、太尉、司徒、司空、大司馬、諸府皆有長史一人、将軍一人。又各置司馬一人、而太傅不置。長史、掾属亦与後漢略同)」。
  • 23
    「(致)敬」という場合の「敬」がどういう礼儀を言うのかはよくわからない。『芸文類聚』巻四七、大司馬に引く「王隠晋書」に「石苞、泰始之初、拝大司馬。旧参軍於都督無敬、故孫楚抗衡於苞。苞以楚傲、更相表理。参軍有敬、自楚始也」とある。
  • 24
    『芸文類聚』巻四六、祭酒に引く「韋昭辯釈名」に「祭酒者、謂祭六神、以酒醊之也。辯云、凡会同饗讌、必尊長先用、先用必以酒祭先、故曰祭酒。漢時、呉王年長、以為劉氏祭酒是也」とあり、『太平御覧』巻二三六、国子祭酒に引く「徐広釈祭酒」に「古主人具饌、則賓中長者一人、挙酒祭地、是則長者為祭酒也」とあり、『続漢書』百官志二、太常、博士祭酒の劉昭注に「胡広曰、『官名祭酒、皆一位之元長者也。古礼、賓客得主人饌、則老者一人挙酒以祭於地、旧説以為示有先』」とある。
  • 25
    侍中祭酒は『後漢書』伝一五、卓茂伝に「更始立、以茂為侍中祭酒」とみえ、李賢注に「続漢志曰、『侍中、無員、掌侍左右、顧問応対、本有僕射一人、中興転為祭酒』」とある。散騎の祭酒はまだ例が見つかっていない。
  • 26
    長史は立場上、府主の次の序列にあたる職。『続漢書』百官志一、太尉、長史の本注に「署諸曹事」とあり、『太平御覧』巻二〇九、三公府掾属、太尉長史に引く「応劭漢官儀」に「太尉、司徒、司空長史、秩比千石。号為毗佐三台、助和鼎味」とある。
     従事中郎については、前漢代、『漢書』巻七〇、陳湯伝に「大将軍鳳奏以為従事中郎、莫府事壱決於湯」とあり、府の事務を一手に握っていたという。また『続漢書』百官志一、将軍、従事中郎の本注に「職参謀議」とあり、参謀の軍職であったという。両者の記述は違背するものではなく、従事中郎は軍府の参謀役であったのだろう。前文で公に加兵されたときは府に従事中郎を置くとの記述が見えているが、このように従事中郎はもともと軍職であるのであろう。しかし後文で記されるように、東晋元帝のときには従事中郎は諸曹を主管する職に転換されている。『太平御覧』巻二〇九、三公府掾属、太尉従事中郎に引く「干宝司徒儀」に「従事中郎之職、各掌其所治之曹而紀綱其事、維正大体、参輔謀議」とあり、東晋元帝期における変質が反映された職掌の説明になっているが、干宝の『司徒儀』は『南斉書』巻一六、百官志に「晋世王導為司徒、右長史干宝撰立官府、職儀已具」とあるように(句読は興膳宏・川合康三『隋書経籍志詳攷』汲古書院、一九九五年、三四〇頁に拠る)、干宝が王導の司徒府に入ってから著述されたものであり、王導の司徒就任は明帝の太寧元年であるから(『晋書』巻六、明帝紀)、少なくとも明帝期以降の著作ということになる。つまり、元帝時代以降も従事中郎は諸曹主管の職務と定められていたのであろう。なお、干宝の『司徒儀』はあくまで司徒府の僚属についての儀注であるものの、従事中郎に関しては府によって職掌が異なっていたとは考えにくく、如上の従事中郎の記述は従事中郎一般の説明にも適用できるものと考える。宮崎市定『九品官人法の研究――科挙前史』(中央公論社、一九九七年、原著は一九五六年)一二三頁などによれば、従事中郎は郷品三品が就くべき官であった。
  • 27
    『北堂書鈔』巻六八、司馬「脩武政簡軍旅」に引く「干宝司徒儀」に「司馬之職、掌佐公、脩武政上、簡其軍旅、飾其器械也」とある。
  • 28
    主簿は漢代、州郡の府にも同名の職が置かれていたが、厳耕望氏によればそれらの主簿は府主に対してもっとも親近の腹心で、当時の中央官でいえば尚書、こんにちでいえば秘書のごとき働きをなしていたという(厳耕望『中国地方行政制度史――秦漢地方行政制度』、前掲、一二四―六、三〇八頁)。公府の主簿については、『続漢書』百官志一、太尉、掾史属の本注に見える黄閤主簿が公府主簿を指すと思われ、同本注に「録省衆事(あらゆる事務を取りまとめて治めた)」と職事が説明されているから、おそらく州郡の主簿同様、公府内の事務等を取りまとめる役割を果たしていたのであろう。魏晋以降も公府の主簿が散見しており、詳細はわからないが、魏晋南朝の州郡の主簿は漢代とあまり変化していないらしいので(厳耕望『中国地方行政制度史――魏晋南北朝地方行政制度』上、前掲、一六四―一六六頁)、公府の主簿も大きくは変わっていないのではないだろうか。
     祭酒の職はよくわからない。
     舎人は、宮崎市定氏によれば「その府主に対して個人的に仕える三大夫の役であっ〔た〕から最も卑賤な職とされたが、寒士は屡々この舎人の位につくことを余儀なくされた」という(宮崎『九品官人法の研究』、前掲、一九四頁、〔 〕内は引用者の補充)。府主の日用雑事に奉仕するということなのであろう。
  • 29
    参軍(参軍事)は、石井仁氏によると後漢末以降、群雄が私的に設けた参謀職のひとつ。魏晋以降は府の職員として公的に定着してゆき、変わらず参謀的な役割を果たしていたようである。しかし時代が降るにつれ、南朝では掾属に代わって諸曹の長官になっていった。そのうえ、軍を率いる役割も兼ねていたそうである。石井「参軍事考――六朝軍府僚属の起源をめぐって」(『文化』五一―三・四、一九八八年)を参照。本文で諸曹を主管する職として言及されているのは、参軍がかかる変質を遂げていた時期にこの文が書かれたことを示しているのかもしれない。後文で「今」(現在)や東晋元帝の曹の参軍が列挙されているが、それらの参軍はすでに曹の長官であったのだろう。
     は曹の長、は副。『続漢書』百官志一、太尉、掾史属の劉昭注に引く「漢書音義」に「正曰掾、副曰属」とあり、『太平御覧』巻二〇九、三公府掾属、司徒掾に引く「干宝司徒儀」に「掾属之職、敦明教義、粛厲清風、非礼不言、非法不行、以訓群吏、以貴朝望、各掌其所治之曹」とある。
     令史は曹の下級職で、各曹の書類処理に従事した。「舎人よりももっと地位の低い賤職」(宮崎市定『九品官人法の研究』、前掲、一九五頁)。
  • 30
    司徒が欠員の場合の司徒府の規定を以下で述べている。この規定はおそらく魏晋以降のもののはずである。
  • 31
    通常の公府は長史が一人置かれるのみだが、司徒府の場合は左右一人ずつ、のべ二人の長史が置かれたということ。司徒府の左長史は九品の人事を差配する職とされており、要職であったらしい。『北堂書鈔』巻六八、長史「差次九品詮衡人倫」に引く「干宝司徒儀」に「左長史之職、掌差次九品、詮衡人倫」とある。
  • 32
    『太平御覧』巻二〇九、三公府掾属、司徒長史に引く「干宝司徒儀」に「右長史職掌、撿其法憲、明其分職」とある。なお『北堂書鈔』巻六八、長史「掌察郡吏」に引く「干宝司徒儀」に「左長史」の職掌として「撿其法憲、明其分職」が記されているが、「左」は「右」の誤りであろう。
  • 33
    通常の公府にも西曹があるが、長史同様、司徒府の場合はやはり左右二つに分かれて置かれたということ。左西曹の掾属も左長史と同じく、選挙業務に与ったらしい。『晋書』巻二四、職官志によると、司徒府の「西曹称右西曹」とあり、ほかの公府にも存在するふつうの西曹は右西曹と呼び換えられた。
  • 34
    宮崎市定氏によると、「郡国の中正は本来中央の司徒に属し、尚書とは別系統をなしている。即ち司徒・中正は官吏資格を与え、尚書は実際に官吏の任免黜陟を行う」(宮崎『九品官人法の研究』、前掲、一三七頁)。宮崎氏に従えば、司徒に属する中正が郷品を定めると、それを司徒府に上申し、承認を求める。その承認手続きの実務を担うのが左長史や左西曹であるらしい。そして司徒府が官吏資格を承認したら、尚書吏部が官職を選定する。実態は「司徒は単に資格審査を行って官吏資格を与えるだけで……司徒府は吏部の人事に干渉することができぬから、単に官吏資格の与え放しに終る」(一五八頁)。とはいえ、司徒府の承認は人事に不可欠であることに変わりなく、ゆえに司徒府は司徒が欠員であっても職員は常設され、機能を維持するのである。宮崎氏は「九品官人法とは、司徒府と尚書との合作になる選挙法である」(一八二頁)とも表現している。
  • 35
    後文に見えるように、元帝の府の参軍は諸曹の主管を担っていたと考えられ、そのため宮崎市定氏は「他の参軍は夫々の曹をもって事務を分担しているが、これ〔諮議参軍のこと――引用者〕は無任所で中央における侍中のような存在である」(宮崎『九品官人法の研究』、前掲、二三九頁)と諮議参軍を特徴づけている。府主の相談役という「私設参謀官の正統を継承」(石井仁「参軍事考」、前掲、二三〇頁)した職とも言えるのであろう。
  • 36
    石井仁「参軍事考」(前掲)二二八頁によると、軍諮祭酒の起源は後漢末から三国期に群雄が置いた軍師祭酒であり、これがのち、晋の景帝の諱を避けて軍謀祭酒、軍祭酒などと表記されるようになり、ついには軍諮祭酒にいたったのであるという。
  • 37
    詳しく調べきれていないが、元帝の丞相府等に諮議参軍は見えず、多くは軍諮祭酒である。金民寿氏は「軍諮祭酒は諮議祭酒・諮議参軍とも称され」たと述べている(金氏「東晋政権の成立過程――司馬睿(元帝)の府僚を中心として」、『東洋史研究』四八―二、一九八九年、七八頁)。しかし、簡単に確認したかぎり、元帝即位以後から諮議参軍が見えはじめ、かわって軍諮祭酒はほとんど見えなくなっていく。そこで、本文の「因軍諮祭酒也」を「軍諮祭酒を継承したものである」と訳出し、軍諮祭酒を諮議参軍に改めたのだと解釈することにした。
  • 38
    中華書局の校勘記によると、衍字の可能性があるという。
  • 39
    『通典』巻二八、左右衛、録事参軍に「東晋元帝初為鎮東大将軍、置録事参軍。自後無聞」とあり、元帝の鎮東府ではじめて録事参軍が置かれたという。『北堂書鈔』巻六九、録事参軍「総録衆曹管其文案」に引く「干宝司徒儀」に「録事之職、掌総録衆曹、管其文案。凡府、自上章以下意遠失者、弾正以法。掌凡詣同案之事」とあり、諸曹の文書の取りまとめ役であったらしい(司徒府の録事はほかの公府と異なり特殊であったとは思えないので、この『司徒儀』の記述は公府の録事一般に適用できるものとみなす)。なお、これまで注でたびたび触れてきたが、漢から魏晋南朝期にかけての地方行政府にも録事がおり、やはり書類処理に従事していたようである。前引の『通典』には「自後無聞」とあり、たしかにめっきり見かけなくなるが、晋末ころからまた散見するようになる。動静の仔細は現在では論述しきれない。
  • 40
    正参軍と呼ばれることもある。宮崎市定氏によると、ほかの府員とは異なり、参軍はもともと中央から任命されるものであったという。宮崎『九品官人法の研究』(前掲)二三九―二四〇頁。
  • 41
    除拝の参軍事(正参軍)、板授の参軍事(行正参軍)、除拝の行参軍、板授の行参軍の四種があったということ。
  • 42
    長兼行参軍については、『南斉書』巻一六、百官志に「其行参軍不署者、為長兼員」とあり、諸曹に配属されなかった行参軍のことだという。本文で言わんとすることは、おそらく正参軍、行正参軍、行参軍、板行参軍の順にランクがあり、長兼行参軍はもっとも下級の板行参軍よりも下だということであろうか。
  • 43
    宮崎市定氏は長兼行参軍よりもさらに下の参軍であるとする。宮崎『九品官人法の研究』(前掲)二四一頁。
  • 44
    文脈からみて参軍の話だと思われるが、みな独自の部隊を有していたということ。
タイトルとURLをコピーしました