巻三十六 列伝第六 張華(1)

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衛瓘附:衛恒・衛璪・衛玠・衛展張華(1)張華(2)・附:張禕・張韙・劉卞

 張華は字を茂先といい、范陽の方城の人である。父の張平は魏の漁陽太守であった。張華は若いころに父を亡くして貧窮し、みずから羊を放牧していた。同郡出身の盧欽は張華に会うと、彼のことを高く評価した。同郷の劉放も張華の才能を評価し、娘を嫁がせた。張華の学業は該博にして優秀、詩文は温和にして美麗であり、聡明博識で多くの物事に精通し、図緯や方伎の書物(予言書や実用書の類いのこと)もすべて精読していた。若くして自然と礼節を身につけ、言行は必ず礼儀にかなっていた。義を見れば実行する勇気をもちあわせ、困窮しているひとを広く救済する篤実さをそなえていた。度量と見識は広大で、世の人々で張華の才を測りえた者はほとんどいなかった。
 まだ名が知られていないころ、「鷦鷯賦」をものして胸の内をみずから表現した。その詞に言う。

(「鷦鷯賦」は省略する。)

陳留の阮籍はこの賦を閲覧すると、嘆息して「王佐の才だ」と言った。これによって名声が揚がりはじめた。
 范陽太守の鮮于嗣が張華を〔朝廷に〕推薦し,、太常博士となった。盧欽が張華のことを文帝に話すと、河南尹の丞に転じ、拝命する前に佐著作郎に任じられた。しばらくして、〔文帝の府の?〕長史に移り、中書郎を兼任した。朝議のときに上呈する上奏文〔の代筆〕が多く採用されたため1原文「朝議表奏、多見施用」。〈議の文章を代筆して多く採用された〉とも、〈会議で具申した意見が多く採用された〉とも取れる。佚書の記述をふまえると前者か。『芸文類聚』巻五八、書に引く「張華別伝」に「大駕西征鍾会、至長安、華兼中書侍郎従行、掌軍事中書疏表檄、文帝善之」とある(『北堂書鈔』巻五七、中書侍郎「張華掌書疏」引、『太平御覧』巻五九七、檄、引、略同)。、そのまま真に就いた(中書郎が本官となった)。晋が受禅すると、黄門侍郎に任じられ、関内侯に封じられた。
 張華は記憶力が抜群によく、四海の内の事柄ならば、掌を指さすことかのように難なく語ることができた。あるとき、漢代における宮殿の制度と建章宮の「千門万戸」(千の門と一万の扉)について武帝が質問すると2建章宮は前漢・武帝が建てた離宮。『漢書』巻二五下、郊祀志下に「作建章宮、度為千門万戸」とあり、同、巻六五、東方朔伝に「今陛下以城中為小、図起建章、左鳳闕、右神明、号称千門万戸」とある。武帝が建章宮の何について質問したのかよくわからないが、張華の博覧強記を示すエピソードらしいので、門戸それぞれの詳細を訊ねたということだろうか。、張華がスラスラと回答するので、聴いていた者はほれぼれと聴き入り、〔張華が〕地面に図を描くので、左右の人々は視線が釘づけとなった。武帝はこのさまをひじょうにすぐれていると評価し、世の人々は張華を子産になぞらえた。数年後、中書令に任じられ、のちに散騎常侍を加えられた。母の死去に遭い、服喪は礼制を超過するほどであったが、〔武帝は〕中詔3〔尚書などを経由せずに〕宮中から直接発出された皇帝直筆の詔。(宮中直接発出的帝王親筆詔令。)(『漢語大詞典』)を下して激励し、強制的に職務を執らせた。
 かねてより武帝は水面下で羊祜と伐呉の作戦を練っていたが、群臣の多くは〔呉の討伐を〕不可能と考えていた。張華だけが伐呉計画に賛同していた。その後、羊祜が重篤になると、武帝は張華をつかわして羊祜を見舞わせ、伐呉の作戦について訊ねさせた。そのときの羊祜の返答は羊祜伝に記してある。〔伐呉を〕決行するに及んで、〔武帝は〕張華を度支尚書とし、水運輸送を計画させ、戦略を決定させた。大軍が出発したものの、いまだ成果を得られなかったため、賈充らは張華を誅殺して天下に謝罪するべきですと上奏した。武帝は「この戦いはわが意志だ。張華は私に賛同してくれているにすぎない」と言った。当時、大臣たちはみな、軽々しく進軍するべきではないと考えていたが、張華だけは従来の方針を固持し、必ず成功すると思っていた。呉が滅亡すると、詔が下った、「尚書、関内侯の張華は、かつて故太傅の羊祜と協力して作戦を策定し、そのまま軍事作戦を担当し、〔諸将を〕各地に配置し、戦略を決定し、必勝の計を練り、謀略の勲功をあげた。そこで、封爵を昇格させて広武県侯とし、食邑を一万戸加増し、息子ひとりを亭侯に封じ、その食邑を一五〇〇戸とし、〔また張華に〕絹一万匹を下賜する」。
 張華の名声は当世において高く、多くの人々から敬服を受けていた。晋の史書、儀礼、法制の文案はことごとく張華に委託され、〔張華が時勢に合わせて旧制を〕改変した箇所は多く4原文「多所損益」。「有所損益」という表現が史書にしばしばみえるが、多くは前代の礼制や法制などの制度に改変を加えることを意味する。「二漢郊禋之制具存、魏所損益可知」(巻一九、礼志上)、「時主観時立法、防姦消乱、靡有常制、故周因於殷、有所損益」(巻四五、劉毅伝)など。、当時の詔勅はすべて〔張華が〕起草したものであった。名声はいよいよ高まり、台輔(三公)のごとき期待を集めていた。しかし荀勖は名族を自負し、武帝の恩寵が深いことを恃んでいたので、張華に嫉妬し、日ごろから隙をうかがい、張華を外鎮へ追い出そうと画策していた。そのころ、武帝が張華に「誰ならば後事(こうじ)を託せるだろうか」とたずねたところ、張華は「うるわしい徳をそなえられ、きわめて近親たる斉王さま(武帝の弟の攸)以外にございません」と答えた。武帝の意中の人物ではなかったばかりか、わずかに意にそむいていたため、とうとう〔荀勖の〕讒言が〔信じられて〕広まるようになった。こうして〔武帝は〕張華を地方に出し、持節、都督幽州諸軍事、領護烏桓校尉、安北将軍とした。〔張華は幽州で〕新参のひとも旧来の民もどちらも安心させ、夷人も夏人も張華を慕った。東夷の馬韓と新弥は山と海に囲まれ、幽州から四千余里離れており、〔そのほかに〕歴代にわたっていまだに帰順したことのない二十余国があったが、〔これらの国ぐに〕すべてが使者をつかわし、朝貢した。かくして遠方の夷狄が帰服し、〔幽州の?〕境界から心配事がなくなり、連年豊作で、軍隊は精強になった。
 朝議が催され、張華を中央に召して宰相とし、また称号を儀同三司に進めようとした5原文「朝議欲徴華入相、又欲進号儀同」。直訳気味に訳出した。どちらの文も言わんとすることは、〈張華を朝廷に呼び戻して三公の位に就けさせようとした〉ということであろう。。むかし、張華は処士の馮恢に対する批判を武帝に述べたことがあった6処士というのは見てくれだけで、中身は俗物にすぎないといった類いの批判であったと思われる。『太平御覧』巻二二四、散騎侍郎に引く「干宝晋紀」に「処士馮恢、志行過人、以為散騎侍郎。張華曰、『臣請観之。若不見臣、上也。見而有傲世之容、次也。敬而為賓主者、固俗士也』。及華至、恢待之恭。於是時人少之」とある。。馮紞は馮恢の弟で、武帝からいたく寵愛されていた。馮紞が武帝に侍っていたあるとき、なごやかな雰囲気で魏晋交替期の出来事について議論していたが、そこで便乗してついでに言った、「臣が愚考しますに、鍾会の禍乱は太祖さま(司馬昭)におおいに責任がございます」。武帝は顔色を変え、「卿、何を言うか」と言った。馮紞は冠を脱ぎ、謝罪して言った、「臣は愚昧にも妄言を吐きました。罪は万死に当たります。しかし、臣の些末な考えには、まだお伝えしなければならないことが残っています」。武帝、「言いたいこととは何だね」。馮紞、「臣が思いますに、すぐれた御者は〔四頭立て馬車の〕六本の手綱が伸縮するタイミング〔で自在に馬車を操縦できるの〕を必ず理解していますし、すぐれた為政者は人材を官に就ける方策における統制の加減〔で人材をコントロールできるの〕を必ず熟知していました7原文「善政者必審官方控帯之宜」。「官方」は「方、術也。言為官之方術也」(『資治通鑑』巻七九、泰始四年正月、胡三省注)。「控帯」は史書の用例だと、「(土地などに)囲まれている/隣接している」のニュアンスで使用されていることが多いが、それだと本伝の文脈には適していない。前後のつながりとしては、「控」字は統制の意で取るのがよいが、そうなると今度は「帯」字をどう取るのかがわからなくなる。とりあえずここは二字で「統制」と訳出した。。それゆえ、仲由は才気が過ぎるために抑制を受け、冉求は意志薄弱だったためにハッパをかけられ(『論語』先進篇)、漢の高祖の八人の王8八人の異姓の王のことか。『史記』巻一九、恵景間侯者年表に「昔高祖定天下、功臣非同姓疆土而王者八国」とあり、「集解」に「異姓国八王者、呉芮、英布、張耳、臧荼、韓王信、彭越、盧綰、韓信也」とある。は恩遇が過度であったために滅び、光武帝の功臣たちは冷遇されたために終わりをまっとうしました9光武帝は漢朝中興に功のある諸将に権力を授けなかった。『後漢書』列伝一二、論曰に「議者多非光武不以功臣任職、至使英姿茂績、委而勿用。然原夫深図遠筭、固将有以焉爾。……光武鑑前事之違、存矯枉之志、雖寇・鄧之高勲、耿・賈之鴻烈、分土不過大県数四、所加特進・朝請而已」とある。。〔ひとの上に立つ者において、〕上は仁愛か暴虐かの別があり、下は暗愚か賢明かの違いがあるというのではありません。思うに、抑圧するか抜擢するか、権力を奪うか授けるか〔の違い〕がこのようにあらわれるにすぎません。鍾会の才能や見識はたかが知れていましたのに、太祖さまの称賛は度が過ぎており、あの者の策略を嘉し、彼奴の優秀ぶりを称え、権勢のある地位に就け、大軍を委任しました。そのため、鍾会にこう思わせてしまったのです、『策略に手抜かりはなかったのに、功績が評価されていない』と。〔こうして〕力を恃みに増長し、とうとう反逆を起こしたのです。かりに太祖さまが鍾会のちっぽけな能力を〔分相応に〕任用し、礼儀によって節制し、権力を抑制し、〔分不相応に破格の待遇を与えずに〕規則どおりに登用すれば、反逆心が芽生えることはなく、反乱が起こることもなかったでしょう」。武帝、「なるほど」。馮紞は頭をぬかずいて言った、「陛下はすでに愚臣の言葉に納得なされました。ですから、堅い氷が張る前兆10原文「堅氷之漸」。『易』坤の初六の爻辞に「履霜堅氷至」とあるのをふまえる。霜を踏みしめる時期が過ぎたら堅い氷の時期がやって来る、すなわち物事には前兆があるという意味。に注意をめぐらし、鍾会のようなやからに〔国家の〕破滅を決して招かせることのないようになさるべきです」。武帝、「現今、鍾会のような人間がいるのかね」。馮紞、「東方朔には『申しあげることがどうして容易でありましょうか』(『漢書』東方朔伝)という言葉があり、『易』には『臣は慎重にならなければ、身を滅ぼす』(繋辞上伝)とあります」。そこで武帝は左右の者たちに席を外させ、「卿、とことん話したまえ」と言った。馮紞、「陛下の謀略の臣であり、天下に大勲をあげ、海内で〔その名を〕知らぬひとはなく、方鎮に駐屯して軍隊を総括する任にある者です。すべては陛下のご思慮にかかっております」。武帝は黙ってしまった。しばらく経ち、張華を中央に召して太常とした。太廟のむなぎが折れたことが理由で免官された。けっきょく武帝の世が終わるまで〔無官のままで〕、列侯の朝位をもって朝見した。
 恵帝が即位すると、張華を太子少傅とした。張華、王戎、裴楷、和嶠らはみな有徳の名士であったため、そろって楊駿から嫌われ、誰も朝政に参与できなかった。楊駿の誅殺後、〔朝廷は〕楊皇太后を廃そうとし、群臣を朝堂に集め〔て会議させ〕た。議者はみな〔賈后らに〕忖度し、「『春秋』は〔魯が〕文姜と絶縁〔したのを容認〕しましたが11原文「春秋絶文姜」。巻三一、后妃伝上、武悼楊皇后伝に載せる有司の奏に「魯侯絶文姜、春秋所許」とあるのをふまえて訳語を補った。、このたびは太后ご自身から宗廟と絶交なさいましたため、やはり廃位が適当と考えます」と意見を出した。張華だけがこのような議を提出した、「夫婦間の道とは、父がそれを子に求めることはできず、子がそれを父に求めることもできないものですが、皇太后は先帝に対して罪を犯したわけではありません12つまり夫婦間に問題があったわけではないということ。。いま、〔皇太后は〕信頼している人間をひいきし、当世に母としての模範を示しませんでした。漢が趙皇太后を廃して孝成皇后とした故事13『漢書』巻九七下、外戚伝下、孝成趙皇后伝の顔師古注に引く晋灼注によれば、この措置は「使哀帝不母、罪之也(趙皇太后を哀帝の母とせず、処罰したのである)」という。に従い、皇太后の称号を降格し、武皇后の称謂へ戻し、離宮に住まわせ14原文は「居異宮」。后妃伝上、武悼楊皇后伝が「処之離宮」に作るのをふまえて訳出した。、そうして貴終の恩をまっとうする15原文「以全貴終之恩」。『儀礼』喪服篇に「父卒、継母嫁、従為之服報。伝曰、『何以期也。貴終也』」とあり、鄭玄注に「嘗為母子、貴終其恩」とあるのが出典と思われるが、意味はよくわからない。おそらく〈継母への報恩を果たす〉といったところであろうか。のが適切です」。採用されず、最終的に楊太后を庶人に廃した。
 楚王瑋が密詔を授かって太宰の汝南王亮、太保の衛瓘らを殺すと、〔宮殿の〕内外で兵が騒がしくなり、朝廷はおおいに恐懼し、どうしたらよいのかわからない状態であった。張華は恵帝に進言した、「楚王は詔と騙ってかってに二公(汝南王と衛瓘)を殺しました。〔楚王に従った〕将兵は突然の命令だったため〔正常に判断できず〕、これは国家の意向なのだと思い、楚王に従ったにすぎません。いま、騶虞幡を持たせた使者をつかわし、外軍に戦闘態勢の解除を命じれば、道理としてきっと〔将兵らはその命令に〕なびいて従うでしょう16騶虞幡(白虎幡とも言う)は天子からつかわされた使者であることを保証するための旗。この旗を持った使者が伝える命令はすなわち天子からの命令であることを意味する。またここで直接に言及されている「外軍」とは護軍将軍統属下の宿衛軍のこと。このときの楚王は内軍を総括する領北軍中候の地位にあり、本来は外軍に対する指揮動員の権限を有していないが、巻五九、楚王瑋伝によると、楚王は密詔によって都督中外諸軍事を授かっていたらしく、このことを諸軍に告げて動員している。すなわち矯詔で授けられた都督中外によって外軍を動員することが可能になったのだと思われる。楚王瑋伝によると、騶虞幡を持った使者は「楚王矯詔(楚王は詔を詐称している)」と言って解散を命じたというので、ようするに〈楚王が都督中外を授かったというのはウソで、彼の出す命令は本当の天子の命令ではない。騶虞幡を持っている自分が伝える命令こそが天子の本当の意向だ〉と外軍の将兵に触れ回ったのであろう。騶虞幡については訳者のブログ記事「晋朝の騶虞幡、白虎幡」を参照。」。恵帝はこれを聴き入れると、はたして楚王軍は崩壊した。楚王が誅殺されると、張華は策略の首謀者となって功績をあげたことを理由に17張華は騶虞幡の件のみならず、楚王誅殺についても進言があったようで、このことも功績として評価されたのかもしれない。『文選』巻四九、干令升「晋紀総論」の李善注に引く「干宝晋紀」に「太子太傅孟観知中宮旨、因譖二公欲行廃立之事。楚王瑋殺太宰汝南王亮、太保衛瓘。張華以二公既亡、楚必専権、使董猛言於后、遣謁者李雲宣詔免瑋付廷尉。瑋以矯詔伏誅」とある。、右光禄大夫、開府儀同三司、侍中、中書監に任じられ、金章紫綬を授けられた。開府を固辞した。
 賈謐は賈后と共謀して、張華は寒門出身で、儒教の教養をそなえて智謀に長け、進んでは上位者に圧力をかけるような嫌いがなく、退いては多くの人々から頼りにされていることから、朝廷の根幹をゆだね、あらゆる政務で意見をうかがおうとした。〔賈后らは〕迷って決断できず、裴頠に意見を聴いてみると、裴頠はふだんから張華を重んじていたため、その案におおいに賛成した。張華はついに忠誠を尽くして朝政を助け、政治の過失を補った。暗愚な主君と淫虐な皇后の時代に直面していたとはいえ、天下が安らかに治まっていたのは張華の功績である。張華は外戚の繁栄ぶりを不安に感じ、「女史箴」を制作して遠回しに諫めた。賈后は邪悪で嫉妬深い女性であったが、〔「女史箴」の意図に〕気づき、張華に敬意を払った。このようにしてしばらく経つと、〔朝廷は張華の〕前後の忠義の功績を評価し、壮武郡公に昇格させた。張華は十余回も辞退したが、中詔を下してねんごろに言い聞かせると、ようやく受けた18『太平御覧』巻二〇〇、功臣封に引く「又曰張華伝曰」(王隠晋書)に「華以建策、加華右光禄大夫、開府儀同三司。固辞不受府、詔聴、乃更論平呉之功、封華郡公三千戸、王(「主」の誤字――引用者注)者択近郡平土、詳依典制、施行。華譲前後十余、頻繁懇誠、不聴、遂受封」とある。。数年後、下邳王晃に代わって司空となり、領著作となった。
 賈后が皇太子(愍懐太子)の廃位を企てると、太子左衛率の劉卞は〔その動きを察知したが、彼は〕皇太子からひじょうに信任されている人物で、〔皇太子が〕宴会を開くたびに、劉卞は必ずそれに〔付き添って〕参加していた。〔宴会の席上、〕賈謐が傲慢に振る舞い、皇太子がそれを苦々しく思って言葉や顔色にあらわすと、賈謐も不満げになる場面を〔劉卞は〕何度も目撃していた。劉卞は賈后の太子廃位計画について張華にたずねると、張華は「知らないなあ」と答えた。劉卞、「卞(わたし)は寒門の出身で、須昌県の小吏であったところを公(あなた)に抜擢していただき19原文「受公成抜」。「成抜」は意味不詳。「抜擢」と訳出しておいた。、こんにちに至っています。男士は己れを理解してくれている者に感激を覚えるもの20原文「士感知己」。「士」(=劉卞)は自分を評価してくれた「知己」(=張華)に感動している、の意。。それゆえ、言葉を尽くして打ち明けたのです。それなのに公は卞に疑いをおもちなのですか」。張華、「かりにそういう密謀があったとして、君はどうするつもりなのかね」。劉卞、「東宮には優秀な人材が茂った林のように集っており、四率(前後左右の衛率)の精鋭は一万人にのぼり、公は阿衡の任に就いています。もし公の命令を頂戴できれば、皇太子は朝見の機会を利用して朝廷に入り、尚書奏事を録しましょう。そして賈后を金墉城に移して廃位するのには、黄門(宦官?)二人の力を要するだけで済みましょう」。張華、「現在は天子が位に就いておられ〔て健在であり〕、太子はひとの子という立場であるし、私も阿衡の任命を授かったわけではない21原文「吾又不受阿衡之命」。『資治通鑑』巻八三、元康九年十一月の胡三省注に「華自言事任不可以伊尹自居」とあるのに従って訳出した。。〔それなのに〕いきなり太子と私が共同してそのようなことをおこなえば、それは君父(天子たる父親)をないがしろにすることを意味し、不孝を天下に示すことになろう。たとえ目論見どおりに成功したとしても、罪を免れることはできまい。まして権勢をもつ外戚が朝廷にあふれ、威権を握る者は一人だけではないのだから、なおさら安全でいられるものだろうか」。恵帝が群臣を式乾殿に集め、太子の親筆を出して群臣にあまねく見せると22恵帝と賈后の死を願い、自身の即位を祈る文書のこと。巻五三、愍懐太子伝によると、賈后は恵帝重篤とウソをつき、愍懐太子を朝廷に呼び出した。賈后は太子に会わず、別室に案内させ、婢女をつかわして接待し、酒を飲ませて酩酊させた。そして潘岳にあらかじめ作成させておいた、恵帝と賈后の死を願い、自身の即位を祈る内容の祈祷文の下書きを太子に浄書させた。酩酊していたので字が不完全だったが、賈后はあとから補って完成させ、恵帝に進呈した。本伝のこの箇所で恵帝が示した文書とはこれのことである。、発言しようとする者はいなかった。ただ張華だけが諫めて言った、「これは国家の重大な禍です。漢の武帝以来、嫡子を廃位するたびにいつも混乱に至っています。くわえて、国家は天下を領有して23原文「有天下」。天下を統一して、という意。まだ日が浅いのですから、陛下に願わくはこの件を詳しくお調べなさいますよう」。尚書左僕射の裴頠は「まずその親筆の書簡をリークした者について調査するべきです」と意見し、また「〔ほかの〕太子の親筆と比較し、〔筆跡が〕異なっていれば、おそらく捏造でしょう」とも要請した。賈后はそこでふところから太子のふだんの上奏文十余紙を出した。群臣は見比べてみたものの、やはり「ちがう」と言おうとする者はいなかった。会議は日没になっても結論が出ず、賈后は張華らの意志が堅いことを知ったので、上表して〔太子に死を賜うのではなく〕庶人に廃するよう求め24原文「因表乞免為庶人」。愍懐太子伝によれば、この文書を理由に太子に死を賜うべきか否かがこの会議で議論されていたという。、恵帝はその上表を可決した。
 これ以前、趙王倫が鎮西将軍となったが、関中に混乱をもたらし、氐や羌がそむいたので、〔朝廷は〕梁王肜に交代させることにした。或るひとが張華に説いて言った、「趙王は貪欲愚昧で、孫秀を信任し、あちこちで騒動を起こしています。しかも孫秀は悪だくみが巧妙で、人並み外れた悪人です。いま、梁王をつかわして孫秀を斬らせ、趙王の半身を刈り取り、関中に謝罪するべきではありませんか。まずいところがございましょうか」。張華はこれを聴き入れ、梁王は〔この策謀を〕承諾した。孫秀の友人の辛冉が西方からやって来て、梁王に言った、「氐や羌はみずからそむいたのであって、孫秀のせいではございません」。こうして〔孫秀は〕死を免れることができたのである。趙王が〔洛陽に〕戻ると、賈后に迎合し、そのツテを利用して録尚書事の地位を求め、のちにはさらに尚書令のポストを求めた。張華と裴頠はともに頑として認可しなかったため、恨みを買ってしまい、趙王と孫秀は張華を仇のように憎んだ。武庫で火災があったさい、張華はこれに乗じて事件が起こることを危惧し、兵を各所に配列させて〔宮城を〕防備させ、それから消火活動にあたったため、歴代の宝物や、漢の高祖の斬蛇剣、王莽の首、孔子の靴などがすべて焼失してしまった。そのとき、張華は剣が屋根を突き破って飛んで行ったのを目撃したが、どこに行ったのかはわからなかった。
 かつて、張華が封じられた壮武郡で、桑が柏に変化する出来事があったが、識者は不吉な現象と捉えた。また、張華の邸宅や出勤先の官庁で怪異現象がしばしばあった。末子の張韙は中台の星座が崩れている25原文「中台星坼」。中台は星座の名称。三公を象徴する星座群「三台」を構成するうちのひとつ。『漢語大詞典』によると、とくに司徒または司空を象徴する星座であるという。「坼」は『資治通鑑』巻八三、永康元年三月の胡三省注に「坼者、両星不相比也」とあり、星座の形が崩れることを指すと思われる。のを理由に、張華に辞職を勧めた。張華は耳を貸さず、「天道は奥深いもの。ただ徳を修めてその異変に応えるのみだ。座して天命を待つほかない」と言った。趙王と孫秀が賈后を廃位しようとたくらむと、孫秀は司馬雅をつかわし、夜中に張華に告げさせた、「いま、社稷が危険になりつつある。趙王は公(あなた)と協力して朝廷を正し、覇者の事業26諸侯の第一人者となって帝室の威厳を回復することを言う。を実行なさるおつもりだ」。張華は、孫秀らが〔覇業で満足せず〕必ず帝位簒奪をなすつもりだと察知していたので、この誘いを拒否した。司馬雅は怒って、「刀がいまにも首に振り下ろされそうなときだというのに、そんなことをほざきおって」27原文「刃将加頸、而吐言如此」。『資治通鑑』巻八三、永康元年四月が「刃将在頸、猶為是言邪」と作るのを参考にした。と言い、振り返らずに出て行った。張華が昼寝をしていると、屋根が崩落する夢を見たので、目が覚めると気分が悪くなった。この日の夜、〔趙王らの〕クーデターが起こり、詔と偽って張華を呼び出し、とうとう〔張華は〕裴頠といっしょに捕まった。張華は死の直前、張林に言った、「卿は忠臣を殺すつもりなのか」。張林は詔と称して張華を詰問した、「卿は宰相となり、天下の政務を任されておきながら、太子が廃位されるときに節義に殉じることができなかった28死を覚悟して諫めることをしなかった、ということ。。なぜなのか」。張華、「式乾殿での会議にかんしては、臣の諫言がもれなく記録されている。諫めなかったわけではない」。張林、「諫めて聴き入れられなかったのならば、どうして位を辞さなかったのか」。張華は答えられなかった。ほどなく使者が到着し、「詔により、公を斬る」と言った。張華、「臣は先帝の老臣で、この心に何の偽りもなく、誠心誠意に仕えてきた。命は惜しくないが、王室にふりかかる災厄がはかりしれないのを恐れているのだ王室にふりかかる災難が気がかりだ。この災厄、〔規模が〕測りがたい(2022/10/4:修正)」。とうとう太極前殿の馬道の南で殺し、夷三族とした。朝野で張華の死を悲しまない者はいなかった。享年六十九。

衛瓘附:衛恒・衛璪・衛玠・衛展張華(1)張華(2)・附:張禕・張韙・劉卞

(2022/10/3:公開)

  • 1
    原文「朝議表奏、多見施用」。〈議の文章を代筆して多く採用された〉とも、〈会議で具申した意見が多く採用された〉とも取れる。佚書の記述をふまえると前者か。『芸文類聚』巻五八、書に引く「張華別伝」に「大駕西征鍾会、至長安、華兼中書侍郎従行、掌軍事中書疏表檄、文帝善之」とある(『北堂書鈔』巻五七、中書侍郎「張華掌書疏」引、『太平御覧』巻五九七、檄、引、略同)。
  • 2
    建章宮は前漢・武帝が建てた離宮。『漢書』巻二五下、郊祀志下に「作建章宮、度為千門万戸」とあり、同、巻六五、東方朔伝に「今陛下以城中為小、図起建章、左鳳闕、右神明、号称千門万戸」とある。武帝が建章宮の何について質問したのかよくわからないが、張華の博覧強記を示すエピソードらしいので、門戸それぞれの詳細を訊ねたということだろうか。
  • 3
    〔尚書などを経由せずに〕宮中から直接発出された皇帝直筆の詔。(宮中直接発出的帝王親筆詔令。)(『漢語大詞典』)
  • 4
    原文「多所損益」。「有所損益」という表現が史書にしばしばみえるが、多くは前代の礼制や法制などの制度に改変を加えることを意味する。「二漢郊禋之制具存、魏所損益可知」(巻一九、礼志上)、「時主観時立法、防姦消乱、靡有常制、故周因於殷、有所損益」(巻四五、劉毅伝)など。
  • 5
    原文「朝議欲徴華入相、又欲進号儀同」。直訳気味に訳出した。どちらの文も言わんとすることは、〈張華を朝廷に呼び戻して三公の位に就けさせようとした〉ということであろう。
  • 6
    処士というのは見てくれだけで、中身は俗物にすぎないといった類いの批判であったと思われる。『太平御覧』巻二二四、散騎侍郎に引く「干宝晋紀」に「処士馮恢、志行過人、以為散騎侍郎。張華曰、『臣請観之。若不見臣、上也。見而有傲世之容、次也。敬而為賓主者、固俗士也』。及華至、恢待之恭。於是時人少之」とある。
  • 7
    原文「善政者必審官方控帯之宜」。「官方」は「方、術也。言為官之方術也」(『資治通鑑』巻七九、泰始四年正月、胡三省注)。「控帯」は史書の用例だと、「(土地などに)囲まれている/隣接している」のニュアンスで使用されていることが多いが、それだと本伝の文脈には適していない。前後のつながりとしては、「控」字は統制の意で取るのがよいが、そうなると今度は「帯」字をどう取るのかがわからなくなる。とりあえずここは二字で「統制」と訳出した。
  • 8
    八人の異姓の王のことか。『史記』巻一九、恵景間侯者年表に「昔高祖定天下、功臣非同姓疆土而王者八国」とあり、「集解」に「異姓国八王者、呉芮、英布、張耳、臧荼、韓王信、彭越、盧綰、韓信也」とある。
  • 9
    光武帝は漢朝中興に功のある諸将に権力を授けなかった。『後漢書』列伝一二、論曰に「議者多非光武不以功臣任職、至使英姿茂績、委而勿用。然原夫深図遠筭、固将有以焉爾。……光武鑑前事之違、存矯枉之志、雖寇・鄧之高勲、耿・賈之鴻烈、分土不過大県数四、所加特進・朝請而已」とある。
  • 10
    原文「堅氷之漸」。『易』坤の初六の爻辞に「履霜堅氷至」とあるのをふまえる。霜を踏みしめる時期が過ぎたら堅い氷の時期がやって来る、すなわち物事には前兆があるという意味。
  • 11
    原文「春秋絶文姜」。巻三一、后妃伝上、武悼楊皇后伝に載せる有司の奏に「魯侯絶文姜、春秋所許」とあるのをふまえて訳語を補った。
  • 12
    つまり夫婦間に問題があったわけではないということ。
  • 13
    『漢書』巻九七下、外戚伝下、孝成趙皇后伝の顔師古注に引く晋灼注によれば、この措置は「使哀帝不母、罪之也(趙皇太后を哀帝の母とせず、処罰したのである)」という。
  • 14
    原文は「居異宮」。后妃伝上、武悼楊皇后伝が「処之離宮」に作るのをふまえて訳出した。
  • 15
    原文「以全貴終之恩」。『儀礼』喪服篇に「父卒、継母嫁、従為之服報。伝曰、『何以期也。貴終也』」とあり、鄭玄注に「嘗為母子、貴終其恩」とあるのが出典と思われるが、意味はよくわからない。おそらく〈継母への報恩を果たす〉といったところであろうか。
  • 16
    騶虞幡(白虎幡とも言う)は天子からつかわされた使者であることを保証するための旗。この旗を持った使者が伝える命令はすなわち天子からの命令であることを意味する。またここで直接に言及されている「外軍」とは護軍将軍統属下の宿衛軍のこと。このときの楚王は内軍を総括する領北軍中候の地位にあり、本来は外軍に対する指揮動員の権限を有していないが、巻五九、楚王瑋伝によると、楚王は密詔によって都督中外諸軍事を授かっていたらしく、このことを諸軍に告げて動員している。すなわち矯詔で授けられた都督中外によって外軍を動員することが可能になったのだと思われる。楚王瑋伝によると、騶虞幡を持った使者は「楚王矯詔(楚王は詔を詐称している)」と言って解散を命じたというので、ようするに〈楚王が都督中外を授かったというのはウソで、彼の出す命令は本当の天子の命令ではない。騶虞幡を持っている自分が伝える命令こそが天子の本当の意向だ〉と外軍の将兵に触れ回ったのであろう。騶虞幡については訳者のブログ記事「晋朝の騶虞幡、白虎幡」を参照。
  • 17
    張華は騶虞幡の件のみならず、楚王誅殺についても進言があったようで、このことも功績として評価されたのかもしれない。『文選』巻四九、干令升「晋紀総論」の李善注に引く「干宝晋紀」に「太子太傅孟観知中宮旨、因譖二公欲行廃立之事。楚王瑋殺太宰汝南王亮、太保衛瓘。張華以二公既亡、楚必専権、使董猛言於后、遣謁者李雲宣詔免瑋付廷尉。瑋以矯詔伏誅」とある。
  • 18
    『太平御覧』巻二〇〇、功臣封に引く「又曰張華伝曰」(王隠晋書)に「華以建策、加華右光禄大夫、開府儀同三司。固辞不受府、詔聴、乃更論平呉之功、封華郡公三千戸、王(「主」の誤字――引用者注)者択近郡平土、詳依典制、施行。華譲前後十余、頻繁懇誠、不聴、遂受封」とある。
  • 19
    原文「受公成抜」。「成抜」は意味不詳。「抜擢」と訳出しておいた。
  • 20
    原文「士感知己」。「士」(=劉卞)は自分を評価してくれた「知己」(=張華)に感動している、の意。
  • 21
    原文「吾又不受阿衡之命」。『資治通鑑』巻八三、元康九年十一月の胡三省注に「華自言事任不可以伊尹自居」とあるのに従って訳出した。
  • 22
    恵帝と賈后の死を願い、自身の即位を祈る文書のこと。巻五三、愍懐太子伝によると、賈后は恵帝重篤とウソをつき、愍懐太子を朝廷に呼び出した。賈后は太子に会わず、別室に案内させ、婢女をつかわして接待し、酒を飲ませて酩酊させた。そして潘岳にあらかじめ作成させておいた、恵帝と賈后の死を願い、自身の即位を祈る内容の祈祷文の下書きを太子に浄書させた。酩酊していたので字が不完全だったが、賈后はあとから補って完成させ、恵帝に進呈した。本伝のこの箇所で恵帝が示した文書とはこれのことである。
  • 23
    原文「有天下」。天下を統一して、という意。
  • 24
    原文「因表乞免為庶人」。愍懐太子伝によれば、この文書を理由に太子に死を賜うべきか否かがこの会議で議論されていたという。
  • 25
    原文「中台星坼」。中台は星座の名称。三公を象徴する星座群「三台」を構成するうちのひとつ。『漢語大詞典』によると、とくに司徒または司空を象徴する星座であるという。「坼」は『資治通鑑』巻八三、永康元年三月の胡三省注に「坼者、両星不相比也」とあり、星座の形が崩れることを指すと思われる。
  • 26
    諸侯の第一人者となって帝室の威厳を回復することを言う。
  • 27
    原文「刃将加頸、而吐言如此」。『資治通鑑』巻八三、永康元年四月が「刃将在頸、猶為是言邪」と作るのを参考にした。
  • 28
    死を覚悟して諫めることをしなかった、ということ。
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