巻三十六 列伝第六 張華(2)

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衛瓘附:衛恒・衛璪・衛玠・衛展張華(1)張華(2)・附:張禕・張韙・劉卞

張華(前ページからの続き)

 張華は見どころのある人物を好みひとを愛する気質であり(2023/5/21:再修正)、倦むことなく人材を登用した。窮賤候門1原文まま。「窮賤」は貧賤の意。「候門」は文字どおりにとれば訪問の意だが、よくわからない。いずれにせよ、どちらも寒門のことを言うのであろう。の人士にいたるまで、ささいな善行であっても感嘆称賛し、その者のために名声を広めてやった。日ごろから書籍を好み、死去したときは家に余剰財産がなく、机や小箱に文献や史籍があふれているのみであった。引っ越ししたあるときには、書物が車三十乗分にのぼった。秘書監の摯虞が官書(宮中所蔵の書物)を整理したさいは、すべて張華の蔵書を利用して〔校訂し〕正確な記述を採用した秘書監の摯虞が官書を編纂するさいは、すべて張華の蔵書を利用して正確な情報を採取した2この一文、[大平二〇一三]二五三頁の解釈に拠って修正した。(2022/10/4:修正)。天下の奇書や世にも珍しい書籍はことごとく張華のもとに存在していた。このため〔彼の〕博学多識に比肩する人物は世にいなかった。
 恵帝の治世中、長さ三丈の鳥の毛を入手したひとがおり、それを張華に見せた。張華は見ると、悲痛な表情になって言った、「これは海鳧(かいふ)という海鳥の毛だ。出現したら天下が乱れるのだ」。ある会食にて、陸機が張華に鮓(なれずし)3塩と米粉などで塩漬けにして発酵させた魚。なれずし。(『漢辞海』)を贈った。そのときは賓客が満席であったが、張華は食器を開けると、「これは龍の肉だ」とすぐに言った。人々はその言葉を信じなかったが、張華は言った、「試しに酢をかけてみてくれ。きっと異変が起こるから」。〔言ったとおりにしてみると〕まもなく五色の光が生じた。陸機は帰ると、鮓を持ってきてくれたひとに質問してみた。すると、はたしてこう言ったのであった、「菜園に積んであるカヤのそばで、見た目が変わった一匹の白魚を見つけました。その魚で鮓を作ったところ、驚くほどおいしかったので差し上げたのです」と。固く密閉されている武庫の中から、突然オスのキジの鳴き声がした。張華、「これは蛇がキジに化けたにちがいない」。〔武庫を〕開けて確認してみると、はたしてキジのそばに蛇のぬけがらがあった。呉郡にある臨平湖の湖岸が崩落し、石の鼓がひとつ出土したが、ばちで叩いても音が鳴らなかった。帝(恵帝?)が張華に訊ねると、張華は「蜀の桐を採取し、魚の形に加工して〔ばちを作り、それで〕叩けば鳴るでしょう」と言った。そこで言ったとおりにしてみると、たしかに数理にわたって音が響いたのであった。
 むかし、呉がまだ滅亡していないころ、斗宿と牛宿の間に紫の気が常時観測され、道術者はみな「呉はまさしく強勢である。まだ滅ぼすことはできない〔という徴表だ〕」とみなしたが、張華だけはそうではないと考えていた。呉の平定後、紫の気はいよいよ明るくなった。張華は豫章の雷煥が天文現象に詳しいと聞き、そこで雷煥を招いて〔自室に?〕泊まらせ、ひとばらいして言った、「いっしょに天文を研究すれば、将来の吉凶がわかるはずです」。そして楼に登り、夜空を観察した。雷煥、「僕は長いこと天を観測してきましたが、斗宿と牛宿の間にすこぶる異常な気がございます」。張華、「これはなんの徴しなのでしょうか」。雷煥、「宝剣の精気です。それが立ち上って天に達しているのです」。張華、「君の言うとおりでしょう。私は若いとき、人相見にこう言われました。六十歳を過ぎると三公になり、きっと宝剣を得てそれを佩くことになろう、と。この言葉を証明したいものですが」。そこで雷煥に質問した、「〔その宝剣は〕どこの郡にあるのでしょうか」。雷煥、「豫章郡の豊城県にあります」。張華、「君を県令に登用し、ひそかに協力して探索したいのですが、いかがでしょうか」。雷煥はその案を承諾した。張華はおおいに喜び、すぐに雷煥を豊城令に任命した。雷煥は県に到着すると、獄舎の基礎を掘り起こし、地下四丈余の深さで石の箱ひとつを見つけた。光が異常に輝いており、中には二つの剣が入っていて、どちらにも名前が刻まれていた。ひとつは「龍泉」、もう片方は「太阿」とあった。その日の日暮れ、斗宿と牛宿の間の気がふたたび現象することはなかった。雷煥は南昌の西方の山へ行き、山の北側の岩穴付近にある土で剣を拭き清めると、光がまばゆく輝いた。大盆に水をはり、剣をその上に置くと、この様子を見ていた者はまっしろな光で目がくらんでしまった。〔雷煥は〕使者をつかわし、剣ひとふりとこの土を張華に贈り、もうひとふりは手元に留め、みずから佩いた。或るひとが雷煥に言った、「ふたふりを発見したのにひとふりしか送っていませんが、張公を騙しおおせるものでしょうか」。雷煥、「本朝はもうすぐ乱れるでしょうが、張公は必ずその禍をこうむります。この剣はいずれ徐君の墓の木につながる運命にあります4むかし、季札が呉の使者として中原へ行ったとき、往路で徐の国に立ち寄った。徐の君主(「徐君」)は季札が佩いていた剣を気に入ったが、欲しいとは言葉に出さなかった。季札はそのまま去って諸国を遍歴し、帰路でふたたび徐に寄ったが、かの君主はすでに亡くなっていた。そこで季札は剣を君主の墓の木にかけ、徐を去ったのであった。『史記』巻三一、呉太伯世家を参照。剣はもともと季札が徐君に贈ったもので、やがてその場所に戻るはずだという推量を述べているのだろう。。神秘な品物は、最終的には変化してどこかに行ってしまうのであって、いつまでもひとの使用品のままではありません」。張華は剣を得ると、それを大切にし、いつも座席の近くに置いていた。張華は「南昌の土よりも華陰の赤土のほうがよい」と思い、雷煥に書簡を送って言った、「剣の刃の紋様を仔細に観察してみますと、これは干将ですね5干将は刀匠の名にして、その剣の名。『後漢書』列伝四二、崔駰伝の李賢注に引く「呉越春秋」によると、干将はふたつの剣を製作し、ひとつを「干将」、もうひとつを妻の名からとって「莫邪」と名づけたという。「干将、呉人也、造二剣、一曰干将、二曰莫邪。莫邪者、干将之妻名也。干将作剣、采五山之精、合六金之英、百神臨観、遂以成剣」とある。なお前文では、この二本の剣の名は「龍泉」と「太阿」であったが、『史記』巻六九、蘇秦列伝の「集解」に引く「呉越春秋」に「楚王召風胡子而告之曰、『寡人聞呉有干将、越有欧冶、寡人欲因子請此二人作剣、可乎』。風胡子曰、『可』。乃往見二人、作剣、一曰龍淵、二曰太阿」とあり、楚王が呉の干将と越の欧冶に作らせた剣の名が「龍淵(泉)」と「太阿」であったという。これらはあくまで『呉越春秋』が伝える一説で、ほかにも諸説ありそうだが、どちらにせよ、張華は干将に由来する遺物を自力で見抜くことができたという逸話である。。〔対になる〕莫邪のほうも届かないのはなぜでしょうか。まあしかし、天賦の神物ですから、いずれ〔二本は〕合流するでしょうね」。そして華陰の土一斤を雷煥に贈った。雷煥があらためて〔その土で〕剣を拭き清めると、輝きは増大した。張華が誅殺されると、〔張華の所有していた〕剣は行方がわからなくなった。雷煥が卒し、子の雷華が州の従事となると、〔赴任時、雷煥が遺した〕剣を携えて延平津を渡ろうとした。すると剣はいきなり腰のすきまから飛び出し、河に落ちてしまった。ひとを水に潜らせて取って来させると、〔そのひとは〕剣を見つけられなかったが、二匹の龍を見つけた。おのおの長さは数丈あり、とぐろを巻いていて、模様があった。潜っていたひとは恐くなって引き返した。まもなく、光が水面を照らし、波が沸き起こった。こうして剣を失ったのであった。雷華は嘆息して言った、「先君(ちちぎみ)は『変化してどこかに行ってしまう』と言い、張公(張華)は『いずれ合流する』とお考えだったが、たしかに予言されていたとおりであった」。張華の博学ぶりは多くこのような類いで、詳しく載せきることはできない。
 その後、趙王と孫秀が誅殺され、斉王冏が輔政すると、摯虞は斉王に書簡を送った、「最近、張華の没後に中書省に入ったのですが、張華が先帝(武帝)の時代に詔へ応答したときの草稿を見つけました。先帝は張華に対し、輔政を果たし、重任を担い、後事を託せる者について下問すると、張華は『うるわしい徳をそなえられ、きわめて近親たる先王さま(斉王冏の父である攸のこと)以外にございません。朝廷に留めて社稷の重鎮となさるべきです』と答えています。彼の忠義のはかりごとや誠意のこもった言葉は、あの世に逝ってもウソやデタラメがなく、死後に明らかとなりました6原文「信於幽冥、没而後彰」。死後に生前の忠義誠実が虚偽であったと発覚することなく、むしろ本当に忠義誠実であったことが明らかとなった、と言いたいのであろう。。場当たり的で時勢に合わせていたような連中と一緒くたに論じることはできません。議者のなかには、張華が愍懐太子廃位のときに節義をかたくなにして諫めなかったことを問題視する者がいます7たとえば嵆紹が挙げられる。巻八九、忠義伝、嵆紹伝を参照。。あの会議のときに諫めた人間は、必ずや命令に逆らったという死をこうむったことでしょう。いにしえの聖王の教えによれば、死んで利益がないならば、〔節義に殉じなかった〕ひとを問題視しません。したがって、晏嬰は斉の正卿でしたが、崔杼が荘公を弑逆する事変に殉じませんでしたし、季札は呉の宗臣(君主と同族の臣)呉で尊敬を集めていた臣でしたが(2022/11/5:修正)、〔闔閭の即位が〕順当か不正かといった道理を言い争いませんでした。道理が尽き果て、手の施しようがない場合というのは、もともと聖人の教えにおいても問題視しない場面なのです8なお摯虞と同様の論点から張華を擁護した者に温羨がいる(巻四四、温羨伝)。」。かくして斉王は上奏した9以下の上奏文は巻六〇、解系伝にもおおむね同じ文言で掲載されている。、「臣が聞くところでは、衰えた家を再興させ、後継ぎが絶えた祭祀を存続させることは、聖人がなすところの偉大な政治であり、悪を毀損して善を顕彰することは、『春秋』がなすところのすぐれた義です。このため、武王は〔殷の王族であった〕比干の墓を土盛りし、商容10賢人と称され、紂王に仕えたが、位を廃されたのだという。『史記』殷本紀に「商容賢者、百姓愛之、紂廃之」とある。の故郷の里門に〔商容のことを〕表彰しましたが11原文「表商容之閭」。『史記』留侯世家の「索隠」に引く崔浩注(『漢書』注?)に「表者、標榜其里門也」とあるのに従い、「表」を「門に額をかけるなどとして善人や有徳者を表彰する」と読んでみた。
 比干と商容の両者は殷の紂王によって退けられたが、周の武王の克殷後、名誉を回復された。この故事は(革命こそ成っていないものの)この当時の状況になぞらえられている。すなわち、前代の趙王倫時代に廃された善良の臣がいるから、この故事に倣って彼らの名誉を回復するべきだ、というわけである。
、じつに『死と生の理(ことわり)』12原文「幽明之故」。『易』繋辞上伝に「仰以観於天文、俯以察於地理、是故知幽明之故。原始反終、故知死生之説」とあり、韓康伯の注に「幽明者、有形无形之象、死生者、終始之数也」とあり、「正義」に「『是故知幽明之故』者、故謂事也」とある。これが出典のようにみえるが、本文は少なくとも韓康伯の注解のようには使っていない。直前に引用されている比干らや、後文で挙げられる張華らが「善行や節義をまっとうしたゆえに死んでしまった者」とみなされているらしいことからすると、ここの「幽明之故」は「死ぬことと生きることの道理・命運」くらいの意で、「死ぬべきではなかったのに死んでしまったことをよく理解していた」というぐあいに用いられているのではないかと思うが、あまり明瞭には理解が整理できておらず、自信はない。に通暁した手法です。孫秀が反逆をはたらき、佐命の封国を滅ぼし、剛直な臣下を誅殺し、そうして王室を衰弱させ、乱暴をほしいままにふるい、功臣の子孫は多く絶やされました。張華や裴頠はおのおの畏怖されていたがゆえに誅殺され、解系と解結はともに『羔羊』13『毛詩』召南の篇名。官にありながら正直節倹であることを称えた詩とされる。詩序に「鵲巣之功致也。召南之国化文王之政、在位皆節倹正直、徳如羔羊也」とある。のために殺され、欧陽建らは罪がないのに死にました。百姓は彼らを憐れんでいます。いま、陛下は日月の輝きを一新し、維新の宣言を布告しましたが、彼ら一族は恩恵をこうむっていません。むかし、欒氏や郤氏は没落して卑賤な官に落ちぶれましたが14原文「欒郤降在皁隸」。『左伝』昭公三年に「欒、郤、胥、原、狐、続、慶、伯、降在皁隸」とあり、杜預注に「八姓晋旧臣之族也。皁隷、賤官」とある。、『春秋』はその過ちを伝に記しています15原文「春秋伝其違」。解系伝は「違」を「人」に作る。どちらにしてもよくわからないのだが、後文とのつながりもふまえ、ここは本伝の「違」が正しいとみなし、「春秋の伝(左伝)はそれを間違いだと言っている」という意味で読むことにした。。幽王は功臣の後裔を絶やし、賢者の子孫を見捨てましたが、詩人はこれを風刺して批判しています16おそらく『毛詩』小雅、裳裳者華のこと。詩序に「刺幽王也。古之仕者世禄、小人在位、則讒諂並進、棄賢者之類、絶功臣之世焉」とある。。臣はかたじけなくも右職17原文は「在職」。解系伝は「右職」に作る。解系伝が正しいと思われるため、「右職」で訳出した。「右職」は地位の高い重職の意。ここでは大司馬を指すと考えられる。に就けられ、愚誠をささげようと思うしだいです。もし陛下のご意向にかなうようでしたら、群官に通議(博議と同義?)を命じていただけると幸いです」。〔こうして議が開かれたが、〕議者は各自に意見があっ〔て一致していたわけではなかっ〕たものの、多くの者は張華の冤罪を述べた。〔結論が出る前にやがて斉王が失脚すると?、〕壮武国の臣である竺道も長沙王乂のもとを訪問し、張華の爵と官位を回復するよう求めた。結論が出ないまま長い時間が経ってしまった。
 太安二年、詔が下った、「そもそも、ソリの合わない者たちがたがいになじりあったり18原文「愛悪相攻」。出典は『易』繋辞下伝「愛悪相攻而吉凶生」で、「正義」に「若泯然无心、事无得失、何吉凶之有。由有所貪愛、有所憎悪、両相攻撃。或愛攻於悪、或悪攻於愛、或両相攻撃、事有得失、故吉凶生也」とある。心に好き嫌いの感情が生じれば物事の損益=吉凶も生じる、という文であろう。後文の「佞邪醜正」に合わせて適宜に訳出した。、悪人が正直な人物を憎んだりすることは、いにしえ以来存在する。故司空で壮武公であった張華は忠節を尽くし、朝政の輔翼をおもんぱかり、智謀の勲功をたて、事件が起こるたびに彼の智略に頼った。かつて、張華があげた輔弼の功績をもって、〔ほかの五等諸侯と〕同様に五等に封建するのがふさわしいと考えたのだが19原文「宜同封建」。「封建」がどの爵を指すのかよくわからないが、後文に張華が何度も辞退したとあるので、恵帝期に賜与された壮武公を指すのであろう。武帝から賜わった広武県侯は列侯のようなので、ここの「封建」とは五等諸侯に封じることを言うのかもしれない。かりにその意で解釈した。、張華は強く辞退して八、九回も繰り返し、『諸侯封建の制度においては、そのようにすることはできません』と切実に陳述し20原文「深陳大制不可得爾」。「大制」はたんに国制程度の意味あいだと思うが、文脈からしてとくに封建の制度を指していると思われること、巻四六、劉頌伝に載せる劉頌の上疏で、諸侯封建の制のことを「大制」と言っている例があることを考慮し、訳語のとおりとした。、ついには国家が転覆や恥辱の憂き目に遭う心配をしたのであった。その言葉には真心がこもっており、遠近の人々を奮起させるのに十分であった。張華の至誠は天地の神々に誓って明らかなのである。張華は伐呉の勲功をもって先帝から爵(広武県侯)を授かった。のちの封爵(壮武公)は〔張華自身が言うとおり〕国制に不適合であったし、ささいな功績(積年の輔弼の功績)をもって以前の大賞(広武県侯のこと)を超過するのは妥当ではなかった。張華が殺されたのは、すべて悪人が反逆をたくらみ、不当に冤罪をこうむったからである。そこで、張華の侍中、中書監、司空公、広武侯を回復し、没収した財産、印綬、符策(辞令の文書?)を返還し21『後漢書』や『三国志』には官爵を授ける/棄てることを「印綬・符策を授ける/棄てる」と表現する例がしばしばある。張華から印綬符策を没収していたのも、官爵を取りあげる意味あいがあったからであろう。、使者をつかわして張華を弔祭(哀悼して祀る)する使者をつかわして弔い、彼を祀らせることとする(2022/10/4:訳文修正)22一見、張華の官爵を回復しているようにみえるが、よく読むと恵帝期に賜与された五等公(壮武郡公)は取りあげられ、それ以前の爵(列侯の広武県侯)に戻されている。どうしてこうなったのか、詳細は不明。」。
 むかし、陸機兄弟は志が高潔豪快で、呉の名家出身を自負していた。入洛した当初、中原の人士に対抗心を燃やしていたが、張華にひとたび会うと旧友のように打ち解け、張華が徳をそなえて模範的な人柄であるのを尊敬し、先生に対するような礼をはらった。張華の誅殺後、誄を作り、また「詠徳賦」を制作して張華を哀悼した。
 張華は『博物志』十篇や文章を著わし、どれも世に広まった。張禕、張韙の二人の息子がいた。

〔張禕・張韙:張華の子〕

 張禕は字を彦仲という。学問を好み、謙虚で父の風格をそなえ、散騎常侍を歴任した。張韙は博学で、天文に精通し、散騎侍郎となった。張華と同時に殺された。張禕の子の張輿は字を公安といい、張華の爵(広武県侯)を継いだ。避難して長江を渡り、丞相掾、太子舎人に辟召された。

〔劉卞〕

 劉卞は字を叔龍といい、東平の須昌の人である。もともとは兵家の子で23原文「本兵家子」。いわゆる兵戸の出身という意味だと思われる。、質朴で寡黙だった。若くして県の少吏となった。功曹が夜、酒が回ったまま便所へ行こうとして、劉卞に灯りを持たせようとしたところ、〔劉卞は〕言うことを聞かなかった。功曹は劉卞を嫌うようになり、ほかの件にかこつけて亭子24詳細不明だが、後文も勘案すると亭に勤務する職務らしい。[水間二〇〇九B]によると、漢代の亭には亭長、亭佐(後漢以降設置)、亭卒が配置されており、亭長と亭佐が吏であったという。また[水間二〇〇九A]によれば、亭卒には徭役に徴発された者が充てられていた。西晋時代はというと、「郴州晋簡」に「松泊郵南到徳陽亭廿五里、吏区浦、民二人、主」(二‐一六六簡)という簡があり、当時の桂陽郡内の亭には「吏」が一人、「民」が数人配置されていたのではないかと思われる。ただし亭に配置されている具体的な職名までは確実に知ることができない。劉卞は吏であることが明らかであるから、漢代の亭長または亭佐のことを亭子とも呼ぶのだろうか。に任じた。祖秀才というひと25秀才に挙げられた祖某の意。この時点で秀才に挙げられていたのではなく、こののちに挙げられたのではないかと思われる。人物を極官や代表的な歴官で呼ぶごとくに「祖秀才(秀才に挙げられた祖さん)」と呼称しているのではなかろうか。が亭の中で刺史宛ての書簡を執筆していたが、しばらく時間をかけても完成しなかった。劉卞が祖秀才に少し助言すると、〔そうして完成した文章が〕卓越していたため、招聘された。祖秀才は県令に言った、「劉卞は公府の掾に相当する才能の持ち主です。卿はどうして亭子に就かせているのですか」。県令はすぐに召して門下吏としたが、どの書類仕事も粗雑で、丁寧に処理できなかった。県令は劉卞に「学問、やれるかい」とたずねると、劉卞は「やらせてください」と答えたので、県令はただちに就学させた。それからほどなく、劉卞の兄は太子の長兵26原文まま。東宮府の軍隊といえば衛率だが、関連は不詳。長柄兵器の部隊兵という意味か。だったのだが、そのまま死んでしまった。兵役の例により、代替を要求されたので、功曹は劉卞を兄の兵役の代替とするよう求めた。県令は「祖秀才の推薦があるから」と言い、そのまま聴き入れなかった。劉卞はのちに県令に随従して洛陽に行ったが、〔その機会に〕太学に入ることができ、経学の試験を受け〔て所定の成績を修めたため〕、台の四品吏になった27原文「試経為台四品吏」。[宮崎一九九七]は郷品四品相当の官(八品)とし、「台」は一般的に尚書台・御史台を指すとしつつも、広く中央官一般を指す例もあることをふまえ、ここでは具体的に何を指すかは不明と述べる(一五四―一五五頁)。中央官一般を指すと考えるのが妥当かもしれない。『宋書』巻一四、礼志一に「晋武帝泰始八年、有司奏、『太学生七千余人、才任四品、聴留』。詔、『已試経者留之、其余遣還郡国』」とあり、[宮崎一九九七]が解釈するとおり、太学の経学試験における足切りラインの合格者が郷品四品相当だったのだろう(一五四頁)。。訪問28職名。中正の部下で、状(中正が作成する人物評の書類)の実質的・実務的な作成を担っていたらしい。[宮崎一九九七]一三八、一七八頁参照。が鹿車29シカが一頭しか入らないような小さな車。(『漢辞海』)一台分の黄紙を筆写するよう〔劉卞に〕指示したところ30『晋書』にはしばしば人事に関する文書のことを「黄紙」と呼ぶ例が見えるが、ここもおそらく同様で、具体的に言えば「状」を指すのであろう。中正などに上呈するための浄書作業を代わりにやらせようとしたということだろうか。、劉卞は「劉卞(わたくし)は他人のために黄紙を筆写する人間ではございません」と言った。訪問は〔劉卞の反応を〕知ると怒り、中正に告げ口したので、〔郷品を〕退割されて尚書令史となった。或るひとが劉卞に言った、「君の才能は簡略で、おおまかな仕事は荷えますが、細かな仕事はこなせません。守舎人になるのがもっともよいと思います31「守舎人」は原文まま。おそらく官の建物を留守・警備する役目のひとのことで、書類仕事は向いていないという意味であろうか。」。劉卞はその言葉に従った。
 のちに吏部令史となり、斉王攸の司空主簿に移り、太常丞、司徒左西曹掾、尚書郎へと転じ、歴任した官職すべてで適任と評された。昇進を重ねて散騎侍郎に移り、并州刺史に任じられ、中央に入って太子左衛率となった。賈后が愍懐太子の廃位を計画していることを知って、おおいに憂慮し、策略を考案して張華に接見したが採用されず、いよいよ不安を募らせた。賈后の一派がめだたない格好で外界を観察していると、劉卞が〔賈后らについて〕話しているところを頻繁に耳にしたので、〔賈后は〕劉卞を軽車将軍、雍州刺史に左遷した。劉卞は話が漏洩していることに気づき、賈后に誅殺されることを恐れたため、毒薬を飲んで死んだ。以前、劉卞が并州刺史であったさい、〔太子左衛率就任にあたって〕むかしの同僚であった須昌県の小吏十余人が送別の宴会を開いた。そのなかの一人が劉卞をあなどると、劉卞はその者を引きずり出させてしまった。人々はこの件をもって劉卞を批判した。

 史臣曰く、(以下略)

衛瓘附:衛恒・衛璪・衛玠・衛展張華(1)張華(2)・附:張禕・張韙・劉卞

(2022/10/3:公開)

  • 1
    原文まま。「窮賤」は貧賤の意。「候門」は文字どおりにとれば訪問の意だが、よくわからない。いずれにせよ、どちらも寒門のことを言うのであろう。
  • 2
    この一文、[大平二〇一三]二五三頁の解釈に拠って修正した。(2022/10/4:修正)
  • 3
    塩と米粉などで塩漬けにして発酵させた魚。なれずし。(『漢辞海』)
  • 4
    むかし、季札が呉の使者として中原へ行ったとき、往路で徐の国に立ち寄った。徐の君主(「徐君」)は季札が佩いていた剣を気に入ったが、欲しいとは言葉に出さなかった。季札はそのまま去って諸国を遍歴し、帰路でふたたび徐に寄ったが、かの君主はすでに亡くなっていた。そこで季札は剣を君主の墓の木にかけ、徐を去ったのであった。『史記』巻三一、呉太伯世家を参照。剣はもともと季札が徐君に贈ったもので、やがてその場所に戻るはずだという推量を述べているのだろう。
  • 5
    干将は刀匠の名にして、その剣の名。『後漢書』列伝四二、崔駰伝の李賢注に引く「呉越春秋」によると、干将はふたつの剣を製作し、ひとつを「干将」、もうひとつを妻の名からとって「莫邪」と名づけたという。「干将、呉人也、造二剣、一曰干将、二曰莫邪。莫邪者、干将之妻名也。干将作剣、采五山之精、合六金之英、百神臨観、遂以成剣」とある。なお前文では、この二本の剣の名は「龍泉」と「太阿」であったが、『史記』巻六九、蘇秦列伝の「集解」に引く「呉越春秋」に「楚王召風胡子而告之曰、『寡人聞呉有干将、越有欧冶、寡人欲因子請此二人作剣、可乎』。風胡子曰、『可』。乃往見二人、作剣、一曰龍淵、二曰太阿」とあり、楚王が呉の干将と越の欧冶に作らせた剣の名が「龍淵(泉)」と「太阿」であったという。これらはあくまで『呉越春秋』が伝える一説で、ほかにも諸説ありそうだが、どちらにせよ、張華は干将に由来する遺物を自力で見抜くことができたという逸話である。
  • 6
    原文「信於幽冥、没而後彰」。死後に生前の忠義誠実が虚偽であったと発覚することなく、むしろ本当に忠義誠実であったことが明らかとなった、と言いたいのであろう。
  • 7
    たとえば嵆紹が挙げられる。巻八九、忠義伝、嵆紹伝を参照。
  • 8
    なお摯虞と同様の論点から張華を擁護した者に温羨がいる(巻四四、温羨伝)。
  • 9
    以下の上奏文は巻六〇、解系伝にもおおむね同じ文言で掲載されている。
  • 10
    賢人と称され、紂王に仕えたが、位を廃されたのだという。『史記』殷本紀に「商容賢者、百姓愛之、紂廃之」とある。
  • 11
    原文「表商容之閭」。『史記』留侯世家の「索隠」に引く崔浩注(『漢書』注?)に「表者、標榜其里門也」とあるのに従い、「表」を「門に額をかけるなどとして善人や有徳者を表彰する」と読んでみた。
     比干と商容の両者は殷の紂王によって退けられたが、周の武王の克殷後、名誉を回復された。この故事は(革命こそ成っていないものの)この当時の状況になぞらえられている。すなわち、前代の趙王倫時代に廃された善良の臣がいるから、この故事に倣って彼らの名誉を回復するべきだ、というわけである。
  • 12
    原文「幽明之故」。『易』繋辞上伝に「仰以観於天文、俯以察於地理、是故知幽明之故。原始反終、故知死生之説」とあり、韓康伯の注に「幽明者、有形无形之象、死生者、終始之数也」とあり、「正義」に「『是故知幽明之故』者、故謂事也」とある。これが出典のようにみえるが、本文は少なくとも韓康伯の注解のようには使っていない。直前に引用されている比干らや、後文で挙げられる張華らが「善行や節義をまっとうしたゆえに死んでしまった者」とみなされているらしいことからすると、ここの「幽明之故」は「死ぬことと生きることの道理・命運」くらいの意で、「死ぬべきではなかったのに死んでしまったことをよく理解していた」というぐあいに用いられているのではないかと思うが、あまり明瞭には理解が整理できておらず、自信はない。
  • 13
    『毛詩』召南の篇名。官にありながら正直節倹であることを称えた詩とされる。詩序に「鵲巣之功致也。召南之国化文王之政、在位皆節倹正直、徳如羔羊也」とある。
  • 14
    原文「欒郤降在皁隸」。『左伝』昭公三年に「欒、郤、胥、原、狐、続、慶、伯、降在皁隸」とあり、杜預注に「八姓晋旧臣之族也。皁隷、賤官」とある。
  • 15
    原文「春秋伝其違」。解系伝は「違」を「人」に作る。どちらにしてもよくわからないのだが、後文とのつながりもふまえ、ここは本伝の「違」が正しいとみなし、「春秋の伝(左伝)はそれを間違いだと言っている」という意味で読むことにした。
  • 16
    おそらく『毛詩』小雅、裳裳者華のこと。詩序に「刺幽王也。古之仕者世禄、小人在位、則讒諂並進、棄賢者之類、絶功臣之世焉」とある。
  • 17
    原文は「在職」。解系伝は「右職」に作る。解系伝が正しいと思われるため、「右職」で訳出した。「右職」は地位の高い重職の意。ここでは大司馬を指すと考えられる。
  • 18
    原文「愛悪相攻」。出典は『易』繋辞下伝「愛悪相攻而吉凶生」で、「正義」に「若泯然无心、事无得失、何吉凶之有。由有所貪愛、有所憎悪、両相攻撃。或愛攻於悪、或悪攻於愛、或両相攻撃、事有得失、故吉凶生也」とある。心に好き嫌いの感情が生じれば物事の損益=吉凶も生じる、という文であろう。後文の「佞邪醜正」に合わせて適宜に訳出した。
  • 19
    原文「宜同封建」。「封建」がどの爵を指すのかよくわからないが、後文に張華が何度も辞退したとあるので、恵帝期に賜与された壮武公を指すのであろう。武帝から賜わった広武県侯は列侯のようなので、ここの「封建」とは五等諸侯に封じることを言うのかもしれない。かりにその意で解釈した。
  • 20
    原文「深陳大制不可得爾」。「大制」はたんに国制程度の意味あいだと思うが、文脈からしてとくに封建の制度を指していると思われること、巻四六、劉頌伝に載せる劉頌の上疏で、諸侯封建の制のことを「大制」と言っている例があることを考慮し、訳語のとおりとした。
  • 21
    『後漢書』や『三国志』には官爵を授ける/棄てることを「印綬・符策を授ける/棄てる」と表現する例がしばしばある。張華から印綬符策を没収していたのも、官爵を取りあげる意味あいがあったからであろう。
  • 22
    一見、張華の官爵を回復しているようにみえるが、よく読むと恵帝期に賜与された五等公(壮武郡公)は取りあげられ、それ以前の爵(列侯の広武県侯)に戻されている。どうしてこうなったのか、詳細は不明。
  • 23
    原文「本兵家子」。いわゆる兵戸の出身という意味だと思われる。
  • 24
    詳細不明だが、後文も勘案すると亭に勤務する職務らしい。[水間二〇〇九B]によると、漢代の亭には亭長、亭佐(後漢以降設置)、亭卒が配置されており、亭長と亭佐が吏であったという。また[水間二〇〇九A]によれば、亭卒には徭役に徴発された者が充てられていた。西晋時代はというと、「郴州晋簡」に「松泊郵南到徳陽亭廿五里、吏区浦、民二人、主」(二‐一六六簡)という簡があり、当時の桂陽郡内の亭には「吏」が一人、「民」が数人配置されていたのではないかと思われる。ただし亭に配置されている具体的な職名までは確実に知ることができない。劉卞は吏であることが明らかであるから、漢代の亭長または亭佐のことを亭子とも呼ぶのだろうか。
  • 25
    秀才に挙げられた祖某の意。この時点で秀才に挙げられていたのではなく、こののちに挙げられたのではないかと思われる。人物を極官や代表的な歴官で呼ぶごとくに「祖秀才(秀才に挙げられた祖さん)」と呼称しているのではなかろうか。
  • 26
    原文まま。東宮府の軍隊といえば衛率だが、関連は不詳。長柄兵器の部隊兵という意味か。
  • 27
    原文「試経為台四品吏」。[宮崎一九九七]は郷品四品相当の官(八品)とし、「台」は一般的に尚書台・御史台を指すとしつつも、広く中央官一般を指す例もあることをふまえ、ここでは具体的に何を指すかは不明と述べる(一五四―一五五頁)。中央官一般を指すと考えるのが妥当かもしれない。『宋書』巻一四、礼志一に「晋武帝泰始八年、有司奏、『太学生七千余人、才任四品、聴留』。詔、『已試経者留之、其余遣還郡国』」とあり、[宮崎一九九七]が解釈するとおり、太学の経学試験における足切りラインの合格者が郷品四品相当だったのだろう(一五四頁)。
  • 28
    職名。中正の部下で、状(中正が作成する人物評の書類)の実質的・実務的な作成を担っていたらしい。[宮崎一九九七]一三八、一七八頁参照。
  • 29
    シカが一頭しか入らないような小さな車。(『漢辞海』)
  • 30
    『晋書』にはしばしば人事に関する文書のことを「黄紙」と呼ぶ例が見えるが、ここもおそらく同様で、具体的に言えば「状」を指すのであろう。中正などに上呈するための浄書作業を代わりにやらせようとしたということだろうか。
  • 31
    「守舎人」は原文まま。おそらく官の建物を留守・警備する役目のひとのことで、書類仕事は向いていないという意味であろうか。
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