巻三十六 列伝第六 衛瓘(2)

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衛瓘附:衛恒・衛璪・衛玠・衛展張華(1)張華(2)・附:張禕・張韙・劉卞

〔衛恒:衛瓘の子〕

 衛恒は字を巨山という。若くして斉王攸の司空府に辟召され、太子舎人、尚書郎、秘書丞、太子庶子、黄門郎を歴任した。
 衛恒は草書と隷書に巧みで、『四体書勢』を著わし、こう論じた。

(『四体書勢』は省略する。)

 衛瓘が楚王瑋のたくらみに陥ると、衛恒は異変を知るや、何劭が嫂(あによめ)の父であったことから、塀の穴をくぐって何劭の家へ行き、〔何劭に〕情勢をたずねた。何劭は〔情勢を〕把握していたが話さなかった。衛恒は帰路に就き、〔自宅の〕厨房のそばを通ったとき、捕縛に来た者がちょうどものを食べていたところであったため1原文「還経厨下、収人正食」。よく読めない。「収人」については、巻六九、周顗伝に「俄而与戴若思俱被収、路経太廟、顗大言曰、『……』。語未終、収人以戟傷其口、血流至踵」とあり、捕縛の担当者を言うのであろう。、そのまま〔捕えられて〕殺されてしまった。のちに長水校尉を追贈され、蘭陵貞世子と諡号をおくられた。衛璪と衛玠の二人の息子がいた。

〔衛璪:衛恒の子〕

 衛璪は字を仲宝という。衛瓘の爵(蘭陵公)を継いだ。のちに東海王越が蘭陵を自身の封国に加増したため、江夏郡公に改封され、食邑は八五〇〇戸とされた。懐帝が即位すると、散騎侍郎となった。永嘉五年、劉聡に没した。元帝は衛瓘の玄孫の衛崇に〔衛璪の〕あとを継がせた。

〔衛玠:衛璪の弟〕

 衛玠は字を叔宝という。五歳にして風貌が端正に整っていた。祖父の衛瓘は「この子は凡人とはちがう。老い先短く、この子の成長を目にできないことだけが気がかりだ」と言った。児童のとき、羊車に乗って市場に入ると、その姿を目撃した人々はみな〔衛玠のことを〕玉人(玉でできたように美しいひと)と噂し、衛玠を一目見ようする群衆が都を傾けるほど大勢おしよせた。驃騎将軍の王済は衛玠の舅(母の兄弟)で、爽やかな容姿であったが、衛玠に会うたびにいつも嘆息し、「珠玉が近くにいると、自分の顔つきの醜さを自覚してしまうね」と言っていた。またあるときには、「衛玠と遊んでいると、輝いている珠玉が近くにあるかのように明るくて、燦然とひとを照らしておりますよ」とひとに語った。成長すると、玄妙な道理をよく論じるようになった。その後、病気がちになり、身体が弱ってしまったため、母親は衛玠が話をするのをいつも禁じていた。たまたま体調が良い日があれば、親友は機を見計らって一言(ちょっとの言葉)だけ〔衛玠に〕お願いしたが、〔その衛玠の一言に〕誰もが感嘆し、微妙な境地に達していると評したのであった。琅邪の王澄は高い名声を博し、他人に感服することはめったになかったが、衛玠の言葉を耳にするたびに、いつも嘆息して卒倒していた。そこで世の人々は「衛玠が道を論じると、平子(王澄の字)は卒倒する」という風評を立てた。王澄、王玄、王済はひとしく高い名声があったが、みな衛玠の下にあったため、世は「王家の三子は衛家の一児に及ばない」と評した。衛玠の妻の父は楽広で、天下に高名であったため、議者は「妻の父君(楽広のこと)は氷のように透き通り2楽広が衛瓘から「水鏡」と評されたことを踏まえた評言だと思われる。巻四三、楽広伝を参照。、娘婿(衛玠のこと)は玉のように光沢がある」と論評した。
 しばしば辟召されたが、どれにも応じなかった。しばらくのち、太傅府の西閤祭酒となり、〔ついで〕太子洗馬に任じられた。〔兄の〕衛璪は散騎侍郎となり、懐帝に侍って仕えた。衛玠は、天下がおおいに混乱していることを理由に、家を移して南へ向かうのを希望した。母親は「仲宝(衛璪の字)を置いていけない」と言った。衛玠は懇切丁寧に説得し、〔南へ避難することが〕一家が生き延びる算段なのですと言い聞かせると、母親は涙を流して従った。別れに及んで、衛玠は兄(衛璪)に言った、「在三(父・師・君)への義は、人間が重んじなければならないものです。いまの世は、身を捧げるべき時世だと言えるでしょう。兄さん、ご健闘を」。母親を車に乗せて移動し、江夏に到着した。
 衛玠は妻を先に亡くしていた。征南将軍の山簡は衛玠に接見すると、たいへん丁重に遇した。山簡は言った、「むかし、戴叔鸞(後漢の隠者)は娘を嫁がせるにあたって、賢者にのみ嫁がせ、貴賤を問わなかった。衛氏という高貴な家の出身で、しかも名望すぐれた人物ならばなおさら配偶者にふさわしいだろう」。こうして娘を〔衛玠に〕嫁がせた。そのまま豫章へ進んだ。当時、大将軍の王敦が豫章に出鎮していたが、その長史の謝鯤は以前から衛玠のことを重んじており、再会を喜び合い、一日じゅう話し込んでいた3本伝の文脈的には、衛玠の話し相手は謝鯤であろう。『世説新語』文学篇、第二〇章も同様で、王敦は衛玠と謝鯤の議論に入れなかったという。たほう、『世説新語』嘗誉篇、第五一章、および「衛玠別伝」(『世説新語』同章の劉孝標注引、『北堂書鈔』巻九八、談講「談論弥日」引)は、終日話し合っていた相手を王敦としている。。王敦は謝鯤に言った、「むかし、王輔嗣(王弼)は中朝(中原王朝=曹魏)で金言を発したが、この子(おかた)は江南で玉音を復活させている。微言の遺業は断絶していたが、ふたたびつむがれるであろうな。まさか永嘉の末年にあらためて正始の音を耳にしようとは。何平叔(何晏)4『世説新語』嘗誉篇、第五一章、および同章の劉孝標注に引く「玠別伝」は「阿平」に作る。阿平とは王澄(字は平子)の愛称で、文脈からして「阿平」が正しい。どこかの過程で誤りが生じてしまったのだろう。が健在だったならば、〔王澄と同様に〕彼もまた卒倒していただろう」。衛玠はあるときからこう考えていた、「ひとの不注意があれば情によって赦せばいいし、悪意をもって無礼をはたらいてきたら論理によって追いはらえばいい」5原文「非意相干、可以理遣」。感情的にならずにあしらえばいい、ということか。。そのゆえ、〔衛玠は〕生涯にわたって怒った表情を見せなかった。
 〔衛玠が観察するには、〕王敦は豪胆爽快で不世出の才を有しながら、ひとの上に立ちたがる気質なので、おそらく国家の忠臣ではないであろう、と思い、建業へ行くことを求めた。京師(建康)の士人は衛玠の容貌〔の評判〕を知ると、土塀のように見物人が集まった。衛玠は疲労と病気がとうとう重くなり、永嘉六年に卒した6本伝および『世説新語』容止篇、第一九章だと、衛玠が建康で死んだかのごとくである。しかし同章の劉孝標注は、「永嘉流人名」によると豫章に到着してひと月半ほどで亡くなっていること、ほかの史書には豫章で没したと記されていることから、建康に下ったとするのは誤りだと述べている。埋葬地が豫章の属県であったことをふまえると、劉孝標の指摘が正しい。。享年二十七。世の人々は「衛玠は見物の餌食に遭ったんだ」と噂した。南昌(豫章の属県)に埋葬した。謝鯤は衛玠のために慟哭した。或るひとが「あなたが悲しまれてこれほどまでの哀悼を捧げるのはなぜですか」と訊ねると、謝鯤は「国家の棟梁(むなぎとはり)が折れたのです。無意識に哀悼してしまいます」と答えた。咸和年間、墓を江寧(丹陽の属県)に移転した。丞相の王導が教を下して言った、「衛洗馬は明らかに改葬されるべきである。この君子は風流7原文まま。風雅洒脱で傑出しているさま。の名士で、天下じゅうが注目していた人物であったから、ささやかな祭礼をあげ8原文「修薄祭」。『世説新語』傷逝篇、第六章は同文だが、同章の劉孝標注および『太平御覧』巻五五五、葬送三に引く「衛玠別伝」は「修三牲之祭」に作る。思うに、「薄祭(ささいな祭礼)」とは謙遜表現であろう。訳語は[井波二〇一四C]を参考にした。、旧交を温めるに値しよう」。のち、劉惔と謝尚が中朝(西晋)の士人について議論していたときに、或るひとが「杜乂9巻九三、外戚伝に立伝。杜預の孫で、東晋・成帝皇后杜氏の父。列伝に「美姿容、有盛名於江左」とあり、東晋で名声が高く、とりわけ容姿の評判がよかったらしい。この点で衛玠と比較されたのであろう。は衛洗馬と比べていかがですか」と質問すると、謝尚は「どうして比較にあたいしようか。二人の間には〔あまりに大きい開きがあるから〕数人を入れられるぞ」と言った。劉惔も「杜乂は外見がきれいなだけ。叔宝(衛玠の字)は精神が澄みとおっているわけよ」と言った。有識者からはこのように重んじられていた。ときに、中興(東晋)の名士のうち、王承と衛玠だけが当時の筆頭であった。

〔衛展:衛恒の族弟〕

 衛恒の族弟である衛展は字を道舒といい、尚書郎、南陽太守を歴任した。永嘉年間、江州刺史となり、昇進を重ねて晋王(帝位即位前の元帝のこと)の大理に移った。〔元帝が〕詔を下し、子を尋問して父〔の罪〕を立証しようとしたり、父母を拷問して〔罪を犯して逃亡している〕子の居場所を吐かせたりするような命令があった。衛展は、〔そのような命令は〕おそらく政教(政治と教化)を損なうだろうと思い、どちらについても上奏し、こうした措置を廃止するように求めた。中興が建つと(東晋が成ると)、廷尉となり、上疏して肉刑を復活させるべきだと論じた。その言葉は刑法志に記してある。卒し、光禄大夫を追贈された。

衛瓘附:衛恒・衛璪・衛玠・衛展張華(1)張華(2)・附:張禕・張韙・劉卞

(2022/10/3:公開)

  • 1
    原文「還経厨下、収人正食」。よく読めない。「収人」については、巻六九、周顗伝に「俄而与戴若思俱被収、路経太廟、顗大言曰、『……』。語未終、収人以戟傷其口、血流至踵」とあり、捕縛の担当者を言うのであろう。
  • 2
    楽広が衛瓘から「水鏡」と評されたことを踏まえた評言だと思われる。巻四三、楽広伝を参照。
  • 3
    本伝の文脈的には、衛玠の話し相手は謝鯤であろう。『世説新語』文学篇、第二〇章も同様で、王敦は衛玠と謝鯤の議論に入れなかったという。たほう、『世説新語』嘗誉篇、第五一章、および「衛玠別伝」(『世説新語』同章の劉孝標注引、『北堂書鈔』巻九八、談講「談論弥日」引)は、終日話し合っていた相手を王敦としている。
  • 4
    『世説新語』嘗誉篇、第五一章、および同章の劉孝標注に引く「玠別伝」は「阿平」に作る。阿平とは王澄(字は平子)の愛称で、文脈からして「阿平」が正しい。どこかの過程で誤りが生じてしまったのだろう。
  • 5
    原文「非意相干、可以理遣」。感情的にならずにあしらえばいい、ということか。
  • 6
    本伝および『世説新語』容止篇、第一九章だと、衛玠が建康で死んだかのごとくである。しかし同章の劉孝標注は、「永嘉流人名」によると豫章に到着してひと月半ほどで亡くなっていること、ほかの史書には豫章で没したと記されていることから、建康に下ったとするのは誤りだと述べている。埋葬地が豫章の属県であったことをふまえると、劉孝標の指摘が正しい。
  • 7
    原文まま。風雅洒脱で傑出しているさま。
  • 8
    原文「修薄祭」。『世説新語』傷逝篇、第六章は同文だが、同章の劉孝標注および『太平御覧』巻五五五、葬送三に引く「衛玠別伝」は「修三牲之祭」に作る。思うに、「薄祭(ささいな祭礼)」とは謙遜表現であろう。訳語は[井波二〇一四C]を参考にした。
  • 9
    巻九三、外戚伝に立伝。杜預の孫で、東晋・成帝皇后杜氏の父。列伝に「美姿容、有盛名於江左」とあり、東晋で名声が高く、とりわけ容姿の評判がよかったらしい。この点で衛玠と比較されたのであろう。
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