巻五十五 列伝第二十五 潘岳

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夏侯湛(附:夏侯淳・夏侯承)/潘岳(附:潘尼)/張載(附:張協・張亢)

潘岳

 潘岳は字を安仁といい、滎陽の中牟の人である。祖父の潘瑾は安平太守、父の潘芘は琅邪内史であった。潘岳は若年にして英才をもって称賛され、郷里の人々は「奇童」と号し、終賈1前漢の終軍と賈誼の併称。二人とも若くして成熟したため、後世これにちなんで、年少で才能がある者を指した(漢・終軍和賈誼的并称。両人皆早成、後因以指年少有才的人)。(『漢語大詞典』)のともがらであると評した。若くして司空府や太尉府に辟召され2潘岳「閑居賦」(本伝掲載、訳文は省略)の序に「僕少竊郷曲之誉、忝司空太尉之命、所奉之主、即太宰魯武公其人也」とあり、府主は賈充であったという。、秀才に挙げられた3潘岳「閑居賦」(本伝掲載、訳文は省略)の序に「挙秀才為郎」とあり、郎官になったようである。潘岳「秋興賦」(『文選』巻一三)の序に「晋十有四年、余春秋三十有二、始見二毛。以太尉掾兼虎賁中郎将、寓直于散騎之省」とある。
 泰始年間、武帝がみずから藉田を耕すと、潘岳は賦を作成してその出来事を賛美した。その賦に言う。

(「藉田賦」は省略します。)4「藉田賦」は『文選』巻七にも収録。

 潘岳の才能と名声は世に冠絶していたが、多くの人々から妬まれ、とうとう十年のあいだくすぶって出世できなかった5原文「棲遅十年」。「棲遅」を「隠棲した」の意味で解する研究も散見する。潘岳の詩「河陽県作」(『文選』巻二六)に「長嘯帰東山、擁耒耨時苗」とあるのが根拠である。しかし潘岳は「閑居賦」の序で自身の官歴を整理しているが、ここの段階で官を辞したとは言っていないのが気がかりである。また、この直後の「地方官に任命されても意をえなかった」という記述から推せば、官から退いたわけではなく、「郎官のまま滞留して一向に昇進できなかった」という状態を指して「棲遅」と言っているようにも思われる。さしあたりはどちらとも取れるような訳文にしておいた。。地方に出て河陽令となったが、自分の才能に自信をもっていたので、気持ちが塞がって志を得られなかった6本来の出世コースからすれば尚書郎になるべきところ、地方官に出されたため、この選考に不満をもったともされる。『太平御覧』巻八九八、牛上に引く「又曰」(王隠晋書)に「潘岳出為河陽令、以仕次宜為郎、不得意出。山濤領選、岳内非之」とある。[中村圭爾二〇一三]第四章も参照。。その当時、尚書僕射の山濤や、領吏部尚書の王済と裴楷ら7本伝を見るかぎり、王済と裴楷は吏部尚書に就いた記録はない。また後引の諷刺に出てくる和嶠も吏部の官の経歴はない。三人とも武帝の親任を得て順調なキャリアを歩み、侍中や中書などの近侍の官に就いていた点では共通する。『世説新語』政事篇、第五章は「山公以器重朝望、年踰七十、猶知管時任。貴勝年少若和・裴・王之徒、並共宗詠」とする。ただし『世説新語』はここのエピソードを潘岳のものとはしていない。は、そろって武帝から親任されていたが、潘岳は内心、彼らに批判的で、閣道8高殿にかけた渡り廊下。復道とも言う。に次のような童謡を書きつけた。「閣道の東9尚書省を指すか。に大きな牛10山濤のこと。あり。王済はむながいをかけ、裴楷はしりがいをつける。和嶠はあくせく世話を焼いて休めない」11『世説新語』政事篇、第五章は、この童謡の作者を一説に潘尼(潘岳の従子。本伝附伝)とする。
 懐令に転じた。そのころ、逆旅12宿泊施設のこと。ここではとくに私営のものを言う。は商業〔的な利益〕を追求して農業を衰退させ〔る風潮を助長し〕、風紀を紊乱する者や亡命者がたくさん身を寄せる場所となっており、法規を壊乱していたため、〔武帝は〕勅を下して逆旅を排除すべしと命じた。十里ごとに官営の宿泊施設をひとつ設置し13原文「十里一官㰚」。「官㰚」は『漢語大詞典』に「古代、官府が道路沿いに建てた宿泊施設を指す(指古代官府沿途所建的客桟)」とあるのに従って訳出した。、老人、子供、貧戸にこれを守衛させ、さらに吏をつかわして管理させ、客舎に倣って14原文「依客舎」。「客舎」は逆旅と同じで、やはりここでは私営のものを指す。「依」はよくわからないが、今回は「客舎のやり方に従って」という意味で読んでみた。〔利用客から〕銭を徴収させた。潘岳の議に言う。

 謹んで思案いたしますに、逆旅には久しい由来がございます。旅人は〔ここに〕頼って休泊し、住人(経営者)は代金を少しだけ収め、〔たがいに必要なものを〕交換し、〔こうして〕おのおの適所を得ているのです。官は労役や賦税を課すことなく、人民〔の活動〕を活用して利益を興しており、恩恵が百姓に加えられるうえ、公(おおやけ)にはささいな費用も発生しません。語15原文まま。下引の文は『論語』や『孔子家語』に確認できず、出典不明。俚諺の類いか。に「許由は堯の〔位を譲るという〕命を辞退すると、逆旅に宿泊した」とあり、『春秋外伝』(『国語』)に「晋の陽処父は甯を通った際に、逆旅に宿泊した」(晋語五)とあります。魏の武皇帝も〔逆旅を〕正当なものと見なしており、その詩に「逆旅、整設し、以て商賈に通ず(宿屋はきれいに整えられて、旅の商人を迎え入れる)」とあります16この詩は「歩出夏門行(冬十月)」。本文に( )で挿入した訳文は川合康三編訳『曹操・曹丕・曹植詩文選』(岩波書店、二〇二二年)六〇頁より引用したもの。。しからば、堯より現代にいたるまで、客舎を認可しない法が存在したためしは一度もなかったのです。商鞅だけが客舎を批判していますが、〔彼の議論は〕もとより聖世の言論ではございません。現今、四海が朝見に集い、九服が貢献に参じ、八方が数多来たり、公人私人こもごも道路に満ちあふれているゆえ、近畿に人が集中し、客舎も密集しています。〔客舎には〕冬は温かい部屋が、夏は涼しい日陰の部屋があります。飼料が大量に用意され17原文「芻秣成行」。「成行」は「行列をなす」の意。うまい日本語表現が思い浮かばなかったが、「たくさんある」ことを指しているのだと思われる。、道具が供給されています。牛を疲弊させたら必ず投宿し、〔牛が〕身体を涼ませているうちに近づいて、槅(くびき)を取り、鞍を外します18原文「疲牛必投、乗涼近進、発槅写鞍」。よく読めない。。〔逆旅には〕みなが休める場所があるのです。
 また、およそ強盗は、すべて〔人が少ない〕僻地で発生し、大勢がいる土地では止むものです。十里の間(かん)が人跡まばらであれば、悪だくみが心に浮かび、道路が連なって客舎19原文は「館」。文脈から考えて、ここではとくに宿泊施設を指すのだろうと解釈した。が並んでいれば、強掠の欲望が委縮します。くわえて、〔後者のような場所であれば、誰かが〕声を聞きつけて助けに来たり、ただちに進発して追跡したりします。助けなければ罪を得ますし、追跡しなければ罪に問われるからです。暴力を禁じて逃走者を捕えるために、有司が常駐しています。そもそも、これらはすべて客舎がもたらす利益であり、官営宿泊施設には欠乏しているものなのです。また、旅人は道を急いでおりますから、穀物を買って炊事するのは、すべて黄昏と早朝です20後文とどう接続するのかがよくわからないが、この時間以外は休まず進み続けているということを言いたいのだろうか。。盛夏の昼は暑いですから、夜も先へ進みます21原文「又兼星夜」。「星夜」について、『漢語大詞典』に「連夜のこと。急ぐさまの形容(連夜。形容急速)」という意味が掲載されているが、ニュアンスとしてはこれに近いであろう。用例に『三国志』呉書一五、呂岱伝「頃之、廖式作乱、攻囲城邑、零陵・蒼梧・鬱林諸郡騷擾、岱自表輒行、星夜兼路」がある。本文の場合は、夏は涼しくなった日没後も先に進むということだろうか。。これらのうえで、〔夕方の〕早い時間の閉門に門限が定まっていると、官営宿泊施設の門に間に合いません。あるいは閉門に遅れるのを避けて路傍に走り込んだりすると、まさしく「財産管理をゆるがせにして盗難を誘導する」(『易』繋辞上伝)原因になってしまいます。かりに、客舎が法令や教化を多く損なっているのを理由に、官が防御設備を整えた宿泊施設を警備することにしても、〔その職務を果たすのは〕いったいどのような人間なのでしょうか。かの河橋や孟津だと、紙幣や銭の輸送は高第22成績優秀の意。漢代では対策試験の成績を指す場合と官吏の成績を指す場合がある。後漢だと、対策高第は議郎を授けられることが多かったという。[福井一九八八]第二章第五節を参照。本文は対策高第を指していると思われるが、晋代の対策高第にはどのような官が授けられる傾向があったのかは不明。議郎に近い官だとは思うが。が監督しますし、人の出入の計数は品郎23郎官を指すのであろう。が両岸で相互チェックしていますが、それでもなお、ミスが起こることはあるでしょう。そのゆえに、〔このような仕事に対しても〕俸禄という利益を懸け、功労という報酬を認定するのです。もし、賤吏(身分の低い吏)や弱者が官営宿泊施設の税を独占管理し、門の開閉の権限を一手に握り、最高管理者としての権力24原文「不校之勢」。「校」は「対抗する」の意。客舎の中で自分に並ぶ権限をもつ者がいないことを言う。意訳した。を恃みとするようになれば、これは道路に巣くう害虫25原文は「蠹」。木、衣服、書物などを食う虫を指す。であり、不正による利益を増加させる温床です。歴代の旧俗を尊重して守り、旅行宿泊者26原文は「行留」。やや自信はもてないが、文脈から訳文のような意味で解した。の歓心を得られるようにし、客舎には清掃して〔旅人を〕接待させること27原文「使客舎洒掃以待」。清掃する(「洒掃」)とは、たんに衛生環境のことを言っているのではなく、不法な要素の一掃などガバナンス的なニュアンスであろう。、旅人には客舎28原文は「家」だが、文脈からして客舎を指すと判断した。を〔自由に〕選んで休ませることが、どうして万民の待ち望んでいる希望でないものでしょうか。

尚書省の諸曹が〔潘岳の議を取りあげて〕奏上し、朝廷はこれを聴き入れた。
 潘岳は相次いで二邑(河陽と懐の二つの県)を治め、政治の成績をあげることに努めた。登用されて尚書度支郎に任じられ、廷尉評に移ったが、公事を理由に免じられた29「公事」は原文まま。公的な事柄・業務のこと。公務上で何らかの問題があったということか。。楊駿が輔政すると、〔楊駿は太傅府の〕吏佐を精選し、潘岳を太傅主簿に召した。楊駿が誅殺されると、除名された。そのむかし、譙の公孫宏は若くして父を亡くし、困窮したため、河陽で客として耕作した。琴の演奏に巧みで、すこぶる作文に長けていた。潘岳が河陽令になったとき、彼の才能を気に入り、ひじょうに手厚く遇した。〔潘岳が除名された〕このときになって、公孫宏は楚王瑋の長史となり、殺生の権限を独占するようになった。ときに、楊駿の綱紀(府の属吏)はみな連座に相当しており、同じく太傅府主簿であった朱振はすぐに殺されてしまった。潘岳は〔政変が起きて楊駿が殺された〕その日の夕暮れ、私用で休暇を取っていて〔洛陽の〕外にいたが30原文「其夕取急在外」。潘岳「西征賦」(『文選』巻一〇)に「夕獲帰於都外、宵未中而難作」とあり、李善注に引く「王隠晋書」に「潘岳為楊駿府主簿、駿被誅日、岳取急、対人朱振代夷三族」とある。これらに拠って補った。、公孫宏は楚王に対し、潘岳のことを仮吏31暫定的に職務を代行する官吏のこと(暫時代理職務的官吏)。(『漢語大詞典』)だと言ったので、〔潘岳は禍から〕免れることができた。まもなく選考されて長安令となった。「西征賦」を制作し、〔洛陽から長安への〕道中における人、事物、山水を叙述し、文飾は清華で、文意は完美な境地に達していた32原文「旨詣」。『漢語大詞典』に「文章の主旨が完美な境地に達していることを言う(謂文章的主旨達到完美的境界)」とあるのに拠った。が、文言が多いので採録しない33「西征賦」は『文選』巻一〇に収録。当時の風俗を描いた紀行文というより、道中の山水や遺跡にまつわる歴史上の人物や出来事のイメージを交えて感慨を叙述した感じだった(感想)。。中央に召されて博士に任じられたが、召される前に母の病気を理由に勝手に官を離れたことをもって免じられた。まもなく著作郎となり、散騎侍郎に転じ、給事黄門侍郎に移った。
 潘岳は軽率浮薄な性格で、世俗的な利得を追いかけていた。石崇らとともに賈謐にへつらって仕え、つねに賈謐が外出する機会をうかがい、そのたびに石崇と塵を眺めながら拝礼した。愍懐太子を陥れた文章は、潘岳の文である。賈謐の二十四友において、潘岳は筆頭であった。賈謐による晋書の限断についての奏議も、潘岳の文である。潘岳の母はたびたび彼をなじり、「あんたは『足る』を知りなさい。いつまでむさぼり欲しがるの」と言った。しかし、潘岳はけっきょく改めることができなかった。
 仕官したものの出世しないため、「閑居賦」を作って述べた。

(「閑居賦」は省略します。)34「閑居賦」は『文選』巻一六にも収録。

 そのむかし、〔潘岳の父の〕潘芘が琅邪内史であったとき、孫秀は小史35巻五九、趙王倫伝も同じく「小史」だが、「小吏」に作る文献もある。『世説新語』仇隙篇、第一章の劉孝標注に引く「王隠晋書」、『資治通鑑』巻八三、永康元年八月を参照。どちらにしても意味は同じであろう。として潘岳に給仕したが、嘘つきで自己愛が強かった。潘岳は孫秀の為人(ひととなり)を嫌悪し、しばしばむち打って辱めたので、孫秀はつねに怨みを抱いていた。趙王倫が輔政すると、孫秀は中書令になった。潘岳は〔中書?〕省内で孫秀に言った、「孫令、むかし世話してやったのをまだ覚えているか?」孫秀は答えて言った、「『中心に之を蔵す、何れの日か之を忘れん』、ですね36原文「中心蔵之、何日忘之」。『毛詩』小雅、隰桑が出典。鄭箋に沿って読めば「私はこの君子を心より愛していて、遠方におったとしても努めて思いやっているし、忘れることはできない」という意味。」。潘岳はこのとき、禍から逃れられないことを悟った。ほどなく、孫秀はついに潘岳、石崇、欧陽建を誣告し、彼らが淮南王允や斉王冏を奉じて乱を起こそうと画策していると告発し、潘岳を誅殺して夷三族とした。潘岳は市に向かう間際、母に別れの言葉を告げ、「母さん〔の忠告?〕に背いてしまいました」と言った。逮捕された当初、〔潘岳らは〕みなたがいの状況を知らなかった。石崇はすでに護送されて市におり、潘岳は遅れて到着した。石崇は潘岳に向かって「安仁、卿もこうなってしまったか」と言うと、潘岳は「『白首まで帰する所を同じくせん』(死ぬまで一緒にいよう)と言えるな」と答えた。潘岳の「金谷詩」に「分を投じて石友に寄す、白首まで帰する所を同じくせん」と言う37この詩は『文選』巻二〇に収録されている。「気持ちをこめて固い絆の友に贈る、白髪になるまで変わることのないように」(川合康三ほか訳『文選』一、岩波書店、二〇一八年、二八〇頁)。。こうしてやっと、その文言の予言が実現したのであった。潘岳の母、兄の侍御史・潘釈、弟の燕令・潘豹、司徒掾・潘拠、潘拠の弟・潘詵、〔そのほか潘岳の〕兄弟の息子やすでに嫁いだ娘は、長幼を問わず一挙に殺され、潘釈の子の潘伯武だけが難を逃れて生き延びた。潘豹の娘とその母親は抱き合って号泣し、ほどくことができなかった。ちょうど詔が下り、二人を赦免した。
 潘岳は容姿が端麗で、文章はきわめて美しく、とりわけ哀誄の文を作るのが得意であった。若いころのあるとき、パチンコ38パチンコ(「弾」)は狩猟道具として持参したのであろう。をわきにかかえて洛陽の道へ出たところ、彼に遭遇した婦人たちは、みんなで手をつないで〔潘岳の車を〕取り囲み、果物を投げ込んで、とうとう〔潘岳は果物で〕車をいっぱいにして帰った。当時、張載はひじょうに醜男で、外出のたびに小僧たちが瓦や小石を投げ込むので、〔張載は〕すっかりくたびれて帰った39『世説新語』容止篇、第七章の劉孝標注に引く「語林」、略同。『世説新語』本文は張載ではなく左思が対比になっている。。潘岳の従子は潘尼という。

〔潘尼:潘岳の従子〕

 潘尼は字を正叔という。祖父の潘勖は漢の東海相、父の潘満は平原内史で、二人とも学問と品行によって称賛された40潘勖については、『三国志』魏書二一、衛覬伝の裴松之注に引く「文章志」に簡略な列伝がある。。潘尼は若くして卓越した才能を示し、潘岳とともに文章によって名を知られるようになった。淡泊にして寡欲で、競争を好まない性格であり、学問や著述をライフワークとするのみであった。「安身論」を著わして信条を明らかにした。その辞に言う。

(「安身論」は省略します。)41『芸文類聚』巻二三、鑑誡にも一部が引用されているが、そちらでは作者が王粲となっている。現代の研究ではどちらが正しいとされているのか、訳者にはよくわからない。

 最初、州の辟召に応じたが、のちに父の高齢を理由に位を辞し、養老した。太康年間、秀才に挙げられ、太常博士となった。高陸令、淮南王允の鎮東参軍(鎮東将軍府の参軍事)を歴任した。元康のはじめ、太子舎人に任じられ、「釈奠頌」を進呈した。その辞に言う。

(「釈奠頌」は省略します。)42『芸文類聚』巻三八、釈奠にも一部収録。

 地方に出て宛令となった。在任中、寛大ではあったが罪に目をつぶることはなく、民に慈愛をかけ、政務にいそしみ、公平を厳守して賄賂を遺棄した。中央に入って尚書郎に任じられ、まもなく著作郎に転じた。「乗輿箴」を作り、その辞に言う。

(「乗輿箴」は省略します。)43『芸文類聚』巻一一、総載帝王にも一部収録。

 趙王倫が帝位を簒奪し、孫秀が政治を専制すると、忠良の士はみな災禍をこうむった。潘尼はとうとう病気が重くなり、休暇を取って墳墓を掃除した。斉王冏の起義を聞くと、〔斉王が駐留している〕許昌へ赴いた。斉王は〔潘尼を〕召して参軍とし、〔潘尼は〕当世の急務についての謀議に参加し、書記を兼務した。斉王の事業が成功すると、安昌公に封じられた。黄門侍郎、散騎常侍、侍中、秘書監を歴任した。永興の末、中書令となった。そのころ、三王(長沙王、成都王、河間王)が戦争し、皇家(司馬家)は事変が多発していたが、潘尼は要職におりながら、のんびり過ごすだけであった。憂慮が迫ることはなかったとはいえ、艱難を嘗め尽くした44原文「雖憂虞不及、而備嘗艱難」。生命の危険が迫ることはなかったが、さんざんな苦労に遭った、という意味であろうか。。永嘉年間、太常卿に移った。洛陽の陥落直前、家族を連れて東の成皐へ向かい、郷里に帰ろうとした。道中で賊に遭遇し、進むことができず、塢壁で病没した。享年六十余。

夏侯湛(附:夏侯淳・夏侯承)/潘岳(附:潘尼)/張載(附:張協・張亢)

(2025/9/7:公開)

  • 1
    前漢の終軍と賈誼の併称。二人とも若くして成熟したため、後世これにちなんで、年少で才能がある者を指した(漢・終軍和賈誼的并称。両人皆早成、後因以指年少有才的人)。(『漢語大詞典』)
  • 2
    潘岳「閑居賦」(本伝掲載、訳文は省略)の序に「僕少竊郷曲之誉、忝司空太尉之命、所奉之主、即太宰魯武公其人也」とあり、府主は賈充であったという。
  • 3
    潘岳「閑居賦」(本伝掲載、訳文は省略)の序に「挙秀才為郎」とあり、郎官になったようである。潘岳「秋興賦」(『文選』巻一三)の序に「晋十有四年、余春秋三十有二、始見二毛。以太尉掾兼虎賁中郎将、寓直于散騎之省」とある。
  • 4
    「藉田賦」は『文選』巻七にも収録。
  • 5
    原文「棲遅十年」。「棲遅」を「隠棲した」の意味で解する研究も散見する。潘岳の詩「河陽県作」(『文選』巻二六)に「長嘯帰東山、擁耒耨時苗」とあるのが根拠である。しかし潘岳は「閑居賦」の序で自身の官歴を整理しているが、ここの段階で官を辞したとは言っていないのが気がかりである。また、この直後の「地方官に任命されても意をえなかった」という記述から推せば、官から退いたわけではなく、「郎官のまま滞留して一向に昇進できなかった」という状態を指して「棲遅」と言っているようにも思われる。さしあたりはどちらとも取れるような訳文にしておいた。
  • 6
    本来の出世コースからすれば尚書郎になるべきところ、地方官に出されたため、この選考に不満をもったともされる。『太平御覧』巻八九八、牛上に引く「又曰」(王隠晋書)に「潘岳出為河陽令、以仕次宜為郎、不得意出。山濤領選、岳内非之」とある。[中村圭爾二〇一三]第四章も参照。
  • 7
    本伝を見るかぎり、王済と裴楷は吏部尚書に就いた記録はない。また後引の諷刺に出てくる和嶠も吏部の官の経歴はない。三人とも武帝の親任を得て順調なキャリアを歩み、侍中や中書などの近侍の官に就いていた点では共通する。『世説新語』政事篇、第五章は「山公以器重朝望、年踰七十、猶知管時任。貴勝年少若和・裴・王之徒、並共宗詠」とする。ただし『世説新語』はここのエピソードを潘岳のものとはしていない。
  • 8
    高殿にかけた渡り廊下。復道とも言う。
  • 9
    尚書省を指すか。
  • 10
    山濤のこと。
  • 11
    『世説新語』政事篇、第五章は、この童謡の作者を一説に潘尼(潘岳の従子。本伝附伝)とする。
  • 12
    宿泊施設のこと。ここではとくに私営のものを言う。
  • 13
    原文「十里一官㰚」。「官㰚」は『漢語大詞典』に「古代、官府が道路沿いに建てた宿泊施設を指す(指古代官府沿途所建的客桟)」とあるのに従って訳出した。
  • 14
    原文「依客舎」。「客舎」は逆旅と同じで、やはりここでは私営のものを指す。「依」はよくわからないが、今回は「客舎のやり方に従って」という意味で読んでみた。
  • 15
    原文まま。下引の文は『論語』や『孔子家語』に確認できず、出典不明。俚諺の類いか。
  • 16
    この詩は「歩出夏門行(冬十月)」。本文に( )で挿入した訳文は川合康三編訳『曹操・曹丕・曹植詩文選』(岩波書店、二〇二二年)六〇頁より引用したもの。
  • 17
    原文「芻秣成行」。「成行」は「行列をなす」の意。うまい日本語表現が思い浮かばなかったが、「たくさんある」ことを指しているのだと思われる。
  • 18
    原文「疲牛必投、乗涼近進、発槅写鞍」。よく読めない。
  • 19
    原文は「館」。文脈から考えて、ここではとくに宿泊施設を指すのだろうと解釈した。
  • 20
    後文とどう接続するのかがよくわからないが、この時間以外は休まず進み続けているということを言いたいのだろうか。
  • 21
    原文「又兼星夜」。「星夜」について、『漢語大詞典』に「連夜のこと。急ぐさまの形容(連夜。形容急速)」という意味が掲載されているが、ニュアンスとしてはこれに近いであろう。用例に『三国志』呉書一五、呂岱伝「頃之、廖式作乱、攻囲城邑、零陵・蒼梧・鬱林諸郡騷擾、岱自表輒行、星夜兼路」がある。本文の場合は、夏は涼しくなった日没後も先に進むということだろうか。
  • 22
    成績優秀の意。漢代では対策試験の成績を指す場合と官吏の成績を指す場合がある。後漢だと、対策高第は議郎を授けられることが多かったという。[福井一九八八]第二章第五節を参照。本文は対策高第を指していると思われるが、晋代の対策高第にはどのような官が授けられる傾向があったのかは不明。議郎に近い官だとは思うが。
  • 23
    郎官を指すのであろう。
  • 24
    原文「不校之勢」。「校」は「対抗する」の意。客舎の中で自分に並ぶ権限をもつ者がいないことを言う。意訳した。
  • 25
    原文は「蠹」。木、衣服、書物などを食う虫を指す。
  • 26
    原文は「行留」。やや自信はもてないが、文脈から訳文のような意味で解した。
  • 27
    原文「使客舎洒掃以待」。清掃する(「洒掃」)とは、たんに衛生環境のことを言っているのではなく、不法な要素の一掃などガバナンス的なニュアンスであろう。
  • 28
    原文は「家」だが、文脈からして客舎を指すと判断した。
  • 29
    「公事」は原文まま。公的な事柄・業務のこと。公務上で何らかの問題があったということか。
  • 30
    原文「其夕取急在外」。潘岳「西征賦」(『文選』巻一〇)に「夕獲帰於都外、宵未中而難作」とあり、李善注に引く「王隠晋書」に「潘岳為楊駿府主簿、駿被誅日、岳取急、対人朱振代夷三族」とある。これらに拠って補った。
  • 31
    暫定的に職務を代行する官吏のこと(暫時代理職務的官吏)。(『漢語大詞典』)
  • 32
    原文「旨詣」。『漢語大詞典』に「文章の主旨が完美な境地に達していることを言う(謂文章的主旨達到完美的境界)」とあるのに拠った。
  • 33
    「西征賦」は『文選』巻一〇に収録。当時の風俗を描いた紀行文というより、道中の山水や遺跡にまつわる歴史上の人物や出来事のイメージを交えて感慨を叙述した感じだった(感想)。
  • 34
    「閑居賦」は『文選』巻一六にも収録。
  • 35
    巻五九、趙王倫伝も同じく「小史」だが、「小吏」に作る文献もある。『世説新語』仇隙篇、第一章の劉孝標注に引く「王隠晋書」、『資治通鑑』巻八三、永康元年八月を参照。どちらにしても意味は同じであろう。
  • 36
    原文「中心蔵之、何日忘之」。『毛詩』小雅、隰桑が出典。鄭箋に沿って読めば「私はこの君子を心より愛していて、遠方におったとしても努めて思いやっているし、忘れることはできない」という意味。
  • 37
    この詩は『文選』巻二〇に収録されている。「気持ちをこめて固い絆の友に贈る、白髪になるまで変わることのないように」(川合康三ほか訳『文選』一、岩波書店、二〇一八年、二八〇頁)。
  • 38
    パチンコ(「弾」)は狩猟道具として持参したのであろう。
  • 39
    『世説新語』容止篇、第七章の劉孝標注に引く「語林」、略同。『世説新語』本文は張載ではなく左思が対比になっている。
  • 40
    潘勖については、『三国志』魏書二一、衛覬伝の裴松之注に引く「文章志」に簡略な列伝がある。
  • 41
    『芸文類聚』巻二三、鑑誡にも一部が引用されているが、そちらでは作者が王粲となっている。現代の研究ではどちらが正しいとされているのか、訳者にはよくわからない。
  • 42
    『芸文類聚』巻三八、釈奠にも一部収録。
  • 43
    『芸文類聚』巻一一、総載帝王にも一部収録。
  • 44
    原文「雖憂虞不及、而備嘗艱難」。生命の危険が迫ることはなかったが、さんざんな苦労に遭った、という意味であろうか。
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