巻六十二 列伝第三十二 祖逖(2)

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劉琨(1)劉琨(2)劉琨(3)附:劉群・劉輿・劉演祖逖附:祖納

〔祖納:祖逖の兄〕

 祖納は字を士言という。〔兄弟のなかで〕もっとも品行をそなえ、清言(清談)を得意とし、文義(作文)は立派であった。至孝の性格で、若くして父を亡くして貧しく、いつもみずから炊飯して母を養った。平北将軍の王敦1ここの逸話は『世説新語』徳行篇にも収録されている話で、『世説新語』では「王平北」と呼称されているが、劉孝標は王衍の父の王乂を指すとしている。銭大昕は「案、王敦未嘗為平北将軍、伝誤也。此事見世説徳行篇、但云『王平北』、不著其名、劉孝標注以為王乂也。世説称王敦、必云『王大将軍』。晋史好採世説、豈此例尚未之知邪」(『廿二史考異』巻二一)と述べ、本伝の誤りだとする。はこのことを聞くと、自分の二人の婢を〔祖納の家に〕贈り、〔祖納を〕召して従事中郎とした。ある人がこれをおちょくり、「奴(祖納)の価値は二人の婢ということだな」と言うと、祖納は「百里奚は五枚の羊の皮よりも低かったと言い切れるのかい」と言い返した。尚書の三公曹の郎に移り、昇進を重ねて太子中庶子に移った。歴任した官では、批判して誤りを正した事柄が多く、時世を助けた。
 斉王冏が義兵を起こすと、趙王倫は斉王の弟の北海王寔と、まえの黄門郎であった弘農の董祚の弟の董艾を捕えた。〔二人が〕斉王とともに事を起こしたかどで、〔趙王は〕どちらも殺そうとしたが、祖納が上疏して彼らを救おうとすると、ともに赦免された。
 のちに中護軍、太子詹事となり、晋昌公に封ぜられた。洛陽付近が混乱しそうだったので、東南に避難した。元帝が丞相となると、〔祖納を〕召して軍諮祭酒とした。祖納は囲碁を好んでいたが、〔あるとき〕王隠は祖納に言った、「禹は寸陰の時間すらも惜しみ、数局の碁を打っていたとは聞かない(碁にかまけている場合かね)」。祖納、「私だって憂鬱を忘れているだけさ」。王隠、「聞くところでは、古人は〔時運に〕遭遇すれば、功(働き)をもってみずからの道を成し遂げ、もし〔時運に〕遭遇しなければ、言論をもってみずからの道を成し遂げたという。いにしえでは必ずこのようにであったが、いまでも妥当だろう。晋にはまだ史書がないけれども、天下はおおいに混乱し、過去の事跡は失われてしまった。君は五都で若い時期を過ごし、四方で官人(地方官)となり、中華も夷狄も、それに成功も失敗も、すべて見聞しただろう。〔それなのに〕どうして〔見聞したことを〕記述して編纂しないのか。応仲遠の『風俗通』、崔子真の『政論』、蔡伯喈の『勧学篇』、史游の『急就章』、これらですらすべて世間に流布したがゆえに、〔身は〕没しても〔名は〕不朽となったのだ。僕は才能がないとはいえ、志を立てるつもりがないわけではない。だからこそ、死して名があらわれないことを憂えているのであって、〔これが〕みずから努力して休まない理由なのである。まして、国史は得失(成功と失敗)の軌跡を明らかにし、同時に憂鬱を晴らしてくれるのだから、兼済2わが身だけでなく天下をも善くすること。『孟子』尽心章句上「窮則独善其身、達則兼善天下」に由来するらしい。といえよう。どうして碁を打ってから憂いを忘れる必要があろうか」。祖納は嘆息して言った、「君の言うような道に喜びを覚えないわけではないさ。能力が及ばないだけなんだ」。そこでこのことを元帝に言った、「いにしえ以来、小国ですら史官がいました。まして大府であれば、どうして設置しないでおられましょうか」。そして王隠を推挙し、こう称賛したのであった、「清廉かつ亮直(明るく正しい)で、学問に思慮深く取り組み、五経や史書は精通しているものが多く多くの五経や史書に精通し(2020/11/9:修正)、そのうえ学問を好んで倦むことなく、水が流れるようにすばやく善言を聴き入れます。もし一代の典籍を撰修させれば、〔そこで示されるであろう〕勧善懲悪は、まことに一世の秀作となるでしょう」。元帝は記室参軍の鍾雅に諮問すると、鍾雅は「祖納が推挙した人物は史才がありますが、いまはまだ〔史官を〕設けることはできません」と言った。とうとう、この案件は沙汰止みとなった。しかし史官の設置は、祖納がきっかけだったのである。
 これ以前、弟の祖約は祖逖と母親が同じで、とても仲がよかったが、祖納と祖約は母親が異なるため、すこぶる不仲であった。そのため〔祖納は〕ひそかに元帝に啓した、「祖約は胸の内では上を侮る心を抱いていますから、抑制して使うのがよろしいと思います。いま、高官に就けて左右に侍らせたり、彼に権勢を授けたりするのは、戦乱のきっかけになるでしょう」。〔当時の〕人々は、祖納は祖約と母親が異なり、祖約の寵遇を嫉んだのだと思った。そこで祖納の上表を暴露して祖約に見せると、祖約は祖納を仇のように憎むようになり、朝廷はこれをきっかけに祖納を冷遇するようになった。祖納は閑居3文字どおりならば「静かに暮らす」こと。史書の用例とここでの文脈をふまえると、「官を退いて隠棲する」という含意がある。してからというもの、清談したり、文史(文学と史書)を読んだりするのみであった。祖約が反乱を起こすと、朝野(朝廷と原野)は祖納の見識に感嘆した。温嶠は、祖納が同郷人の父党4原文「州里父党」。「父党」は父方の親族、もしくは父の友人を意味し、本文はどちらでも通じそうだが、諸史書の用例を見るかぎり、後者の意で用いられることが多いので、後者の「父の友人」を指して用いられているのかもしれない。であったことから、敬して(尊重して?)拝礼した。温嶠が時の有力者となると、祖納には名理(清談)がそなわっているとさかんに言い立てたので、〔祖納は〕光禄大夫に任じられた。
 あるとき、祖納は梅陶に質問した、「君の郷里5汝南のこと。『世説新語』方正篇の劉孝標注に引く「晋諸公賛」に「〔梅〕頣字仲真、汝南西平人」とあり、同、劉孝標注に引く「永嘉流人名」に「頣、領軍司馬。頣弟陶、字叔真」とある。では月旦評をやっていたそうだが、どういうものなんだ」。梅陶、「善は顕彰されて悪は非難される。つまり良き法だな」。祖納、「〔しかし〕まだ役には立っていないようだが」。このとき、王隠が同席していたが、つづいて言った、「『尚書』は『三年に一度、〔官人の〕成績を考査し、三回の考査を経て、無能な者を退け、有能な者を昇らせる』(舜典篇)と言っている。ひと月で〔善悪を〕批評できるものだろうか」。梅陶、「それは官法6「官人を見分ける方法」の意であろう。だとすれば、下の「私法」は「私人を見分ける方法」である。だ。月旦は私法だぞ」。王隠、「『易』は『善を積み重ねた家には必ず子孫に幸いがもたらされ、不善を積み重ねた家には必ず子孫に災いがもたらされる』7出典は『易』坤の文言伝。この文につづけて「臣弑其君、子弑其父、非一朝一夕之故、其所由来者漸矣。由辯之不早辯也。易曰『履霜、堅氷至』、蓋言順也」とある。禍福は突然起こるのではなく、だんだんと積み重なって起こるものだから、前兆を察知するのが大事だ、という(初六の爻辞の)解説。と言うが、〔『易』がここで〕『家』と言っているのは、なぜ官ではないのだろうか8『易』のこの文は、家(先祖)の善悪は長い時間が経ってようやくわかる、と言っているが、君の理屈だと善悪を判別するのに長期間を要するのは官なんだよね? おかしくない? という反論なのだと思う。。〔『易』が言うように、〕必ずや長い積み重ねを経て、ようやく善悪が明らかになるはずであって、公私でどうして異なるだろうか。〔また〕古人にこういう言葉がある、貞良(貞節で善良)であるのに身を滅ぼすのは先祖のせい9原文は「殃」(災難)だが、うまく日本語に置き換えできないので意訳した。、厳酷であるのに生きながらえるのは先祖のおかげ10原文は「勲」だが、「殃」と同じく意訳した。、と。世代を重ねてようやく〔善悪が〕明らかになるのだから、たかがひと月でわかるものだろうか。かりに、どうしても月旦をしなければならないとすれば、顔回がスス〔が混入した飯〕を食ったのも11原文「食埃」。「呂氏春秋」(『芸文類聚』巻七九、夢、所引)に「孔子窮乎陳蔡之間、藜羹不糝、七日不嘗粒、昼寝。顔回索米得而来、爨之、幾熟、孔子望見回、攫其甑中而飯之。食熟、謁孔子而進之。孔子起曰、『今者夢見先君、食絜欲饋』。顔回対曰、『不可。嚮食埃煤入甑中、棄食不祥、因攫而飯之』」とあるのにもとづくものと思われる。なお、文字が本伝と同じであるため『芸文類聚』所引のものを挙示したが、新編諸子集成版は「嚮者煤炱入甑中、棄食不祥、回攫而飯之」(審分覧、任数篇)とあり、文意は変わっていない。ちなみに本文は顔回の言葉につづけて「孔子歎曰、『所信者目也、而目猶不可信。所恃者心也、而心猶不足恃。弟子記之、知人固不易矣』。故知非難也、孔子之所以知人難也」とある。ひとを見極めるのは難しいことを示す説話のようである。、貪欲だとの批判を免れないだろう。盗蹠がわずかな物をくすねたのは、清廉だとみなされるだろう12『史記』李斯列伝に「是故韓子曰『布帛尋常、庸人不釈、鑠金百溢、盜跖不搏』者、非庸人之心重、尋常之利深、而盜跖之欲浅也」とあるのにもとづく?
 顔回と盗跖にまつわる言説をここで引いているのは、一見の判断をよく精査してみるとじつは間違っている、という意図のことであろうと思われる(盗跖の出典は正しいのか自信がないが)。余談だが、顔回と盗跖は『史記』伯夷列伝で「天道、是か非か」の例として挙げられている二人でもあり、もしかすると何らかそのことも意識されている? わからないが。
。〔月旦は〕朝に種をまいて暮れに収穫するようなものであり、〔そんな短い期間では〕善悪はまだはっきりしないはずだ」。このころ、梅陶と鍾雅は〔祖納をまじえて〕しばしばほかの事柄についても議論していたが、そのたびに祖納は〔討論に〕苦戦したので、「君たちは汝潁の士で13鍾雅の本貫は潁川である。、錐のように鋭い。私は幽冀の士で、槌のように鈍い。わが鈍い槌を手にして、君たちの鋭い錐を打ってやれば、ぜんぶぶち壊せるんだけどな」と言った。梅陶と鍾雅は口をそろえ、「神のような錐があってだな。槌ではどうしようもないぜ」と言うと、祖納は「神のような錐があるなら、神のような槌だってあるさ」と言った。鍾雅は反論できなかった14『太平御覧』巻七六三、椎に引く「王隠晋書」に「梅陶及鍾雅数説事、祖納輒困之、因曰、『君汝頴之士、利如錐。我幽冀之士、鈍如椎。持我鈍椎、椎君利錐、皆当摧』。陶雅並称、『有神錐、不可得椎』。納曰、『假有神錐、必有神椎』」とあり、本伝とほぼ同じだが、『太平御覧』巻四六六、嘲戯に引く「又曰」(裴啓語林)には「祖士言与鍾雅相調、鍾語祖曰、『我汝潁之士、利如錐。卿燕代士、鈍如槌」。祖曰、『以我鈍槌打爾利錐』。鍾曰、『自有神錐、不可得打』。祖曰、『既有神錐、亦有神槌』鍾遂屈』とあり、『語林』だとやや違っている。。家で卒した15官を退いていたということ。光禄大夫に除されて官界に復帰していたはずだが、けっきょく離職したのだろう。

 史臣曰く、(以下略)

(2020/10/31:公開)

劉琨(1)劉琨(2)劉琨(3)附:劉群・劉輿・劉演祖逖附:祖納

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    ここの逸話は『世説新語』徳行篇にも収録されている話で、『世説新語』では「王平北」と呼称されているが、劉孝標は王衍の父の王乂を指すとしている。銭大昕は「案、王敦未嘗為平北将軍、伝誤也。此事見世説徳行篇、但云『王平北』、不著其名、劉孝標注以為王乂也。世説称王敦、必云『王大将軍』。晋史好採世説、豈此例尚未之知邪」(『廿二史考異』巻二一)と述べ、本伝の誤りだとする。
  • 2
    わが身だけでなく天下をも善くすること。『孟子』尽心章句上「窮則独善其身、達則兼善天下」に由来するらしい。
  • 3
    文字どおりならば「静かに暮らす」こと。史書の用例とここでの文脈をふまえると、「官を退いて隠棲する」という含意がある。
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    原文「州里父党」。「父党」は父方の親族、もしくは父の友人を意味し、本文はどちらでも通じそうだが、諸史書の用例を見るかぎり、後者の意で用いられることが多いので、後者の「父の友人」を指して用いられているのかもしれない。
  • 5
    汝南のこと。『世説新語』方正篇の劉孝標注に引く「晋諸公賛」に「〔梅〕頣字仲真、汝南西平人」とあり、同、劉孝標注に引く「永嘉流人名」に「頣、領軍司馬。頣弟陶、字叔真」とある。
  • 6
    「官人を見分ける方法」の意であろう。だとすれば、下の「私法」は「私人を見分ける方法」である。
  • 7
    出典は『易』坤の文言伝。この文につづけて「臣弑其君、子弑其父、非一朝一夕之故、其所由来者漸矣。由辯之不早辯也。易曰『履霜、堅氷至』、蓋言順也」とある。禍福は突然起こるのではなく、だんだんと積み重なって起こるものだから、前兆を察知するのが大事だ、という(初六の爻辞の)解説。
  • 8
    『易』のこの文は、家(先祖)の善悪は長い時間が経ってようやくわかる、と言っているが、君の理屈だと善悪を判別するのに長期間を要するのは官なんだよね? おかしくない? という反論なのだと思う。
  • 9
    原文は「殃」(災難)だが、うまく日本語に置き換えできないので意訳した。
  • 10
    原文は「勲」だが、「殃」と同じく意訳した。
  • 11
    原文「食埃」。「呂氏春秋」(『芸文類聚』巻七九、夢、所引)に「孔子窮乎陳蔡之間、藜羹不糝、七日不嘗粒、昼寝。顔回索米得而来、爨之、幾熟、孔子望見回、攫其甑中而飯之。食熟、謁孔子而進之。孔子起曰、『今者夢見先君、食絜欲饋』。顔回対曰、『不可。嚮食埃煤入甑中、棄食不祥、因攫而飯之』」とあるのにもとづくものと思われる。なお、文字が本伝と同じであるため『芸文類聚』所引のものを挙示したが、新編諸子集成版は「嚮者煤炱入甑中、棄食不祥、回攫而飯之」(審分覧、任数篇)とあり、文意は変わっていない。ちなみに本文は顔回の言葉につづけて「孔子歎曰、『所信者目也、而目猶不可信。所恃者心也、而心猶不足恃。弟子記之、知人固不易矣』。故知非難也、孔子之所以知人難也」とある。ひとを見極めるのは難しいことを示す説話のようである。
  • 12
    『史記』李斯列伝に「是故韓子曰『布帛尋常、庸人不釈、鑠金百溢、盜跖不搏』者、非庸人之心重、尋常之利深、而盜跖之欲浅也」とあるのにもとづく?
     顔回と盗跖にまつわる言説をここで引いているのは、一見の判断をよく精査してみるとじつは間違っている、という意図のことであろうと思われる(盗跖の出典は正しいのか自信がないが)。余談だが、顔回と盗跖は『史記』伯夷列伝で「天道、是か非か」の例として挙げられている二人でもあり、もしかすると何らかそのことも意識されている? わからないが。
  • 13
    鍾雅の本貫は潁川である。
  • 14
    『太平御覧』巻七六三、椎に引く「王隠晋書」に「梅陶及鍾雅数説事、祖納輒困之、因曰、『君汝頴之士、利如錐。我幽冀之士、鈍如椎。持我鈍椎、椎君利錐、皆当摧』。陶雅並称、『有神錐、不可得椎』。納曰、『假有神錐、必有神椎』」とあり、本伝とほぼ同じだが、『太平御覧』巻四六六、嘲戯に引く「又曰」(裴啓語林)には「祖士言与鍾雅相調、鍾語祖曰、『我汝潁之士、利如錐。卿燕代士、鈍如槌」。祖曰、『以我鈍槌打爾利錐』。鍾曰、『自有神錐、不可得打』。祖曰、『既有神錐、亦有神槌』鍾遂屈』とあり、『語林』だとやや違っている。
  • 15
    官を退いていたということ。光禄大夫に除されて官界に復帰していたはずだが、けっきょく離職したのだろう。
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