巻六十二 列伝第三十二 劉琨(3)

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劉琨(1)劉琨(2)劉琨(3)附:劉群・劉輿・劉演祖逖附:祖納

 建武元年、劉琨は石勒討伐について段匹磾と取り決めを交わした。段匹磾は劉琨を大都督に推戴し、血をすすって誓約書を記し〔盟を結ぶと〕1『芸文類聚』巻三三、盟に「晋劉琨与段匹磾盟文」が引かれている。(2020/10/14:注追加)、各地の方守に檄を発し、襄国に集合するよう呼びかけた。劉琨と段匹磾は進んで固安に駐屯し、大軍の到着を待った。段匹磾の従弟の段末波は石勒から厚い賄賂を受け取っていたので、彼だけは進まずにおり、そうしてこの作戦を妨害した。劉琨と段匹磾は、勢力が弱劣であるのを理由に撤退した。この年、元帝は劉琨を侍中、太尉に移し、そのほかの官はもとのとおりとし、あわせて名刀を贈った。劉琨は返答して言った、「つつしんでこの身に佩び、二虜(劉聡と石勒)を斬ってみせます」。
 段匹磾が兄(段疾陸眷)の喪に駆けつけようとしたので帰郷して兄(段疾陸眷)の葬儀におもむこうとしたので(2020/12/16:修正)、劉琨は世子の劉群をつかわして段匹磾を送らせた。しかし段末波は兵を率いて段匹磾を迎撃し、これを敗走させ、劉群は段末波に捕らえられた。段末波は劉群を礼遇し、劉琨を幽州刺史とするのを承認し2現任の刺史は段匹磾なので、ようするに段匹磾を刺史から引きずりおろそうとしたということ。、〔劉琨と〕盟を結んで段匹磾を襲撃しようと考え、ひそかに使者をつかわし、劉群の書簡を持参させ、劉琨に内応を要請したが、〔その使者は〕段匹磾の巡回騎兵に捕えられた。当時、劉琨は〔段匹磾とは〕別れて、故征北府小城に駐屯していたが、今回のことを知らなかった。ほどなく段匹磾のもとに来て彼に会うと、段匹磾は劉群の書簡を劉琨に見せて言った、「公を疑っていないゆえに、公に打ち明けるまでのこと」。劉琨、「公とは盟を結んで、王室を助けることを志とし、〔公の〕武力を頼みとしている。私が願っているのは、国家の恥をそそぐことなのだ。もし息子の書簡がひそかに届いたとしても、息子一人を理由に公をそむき、義を忘れるわけはない」。段匹磾は平素から劉琨を尊敬していたうえ、もともと劉琨を殺すつもりはなかったので、駐屯地に戻るのを許そうとした。段匹磾の中弟(まんなかの弟)の段叔軍は学問を好んで智謀があり、段匹磾に信頼されていたが、彼が段匹磾に言った、「われらは胡夷にすぎないのに、晋人を服従させることができているのは、〔晋人が〕わが衆を恐れているからです。いま、わが骨肉(肉親)が禍を起こしていますが、これは〔晋人がわれらを〕謀略にかける絶好の機会でしょう。もし劉琨を奉じて挙兵する者がいれば、わが族は全滅するでしょう」。そこでとうとう、段匹磾は劉琨を留めたのであった。劉琨の庶長子(庶子で年長の子)の劉遵は誅殺を恐れ、劉琨の左長史の楊橋、并州治中従事の如綏とともに〔故征北府小城の〕門を閉じて城にこもった。段匹磾は劉遵を説得したがうまくいかなったので、兵を繰り出して劉遵を攻めた。劉琨の将の龍季猛は、食糧不足に追い詰められたため、とうとう楊橋と如綏を斬って降った。
 当初、劉琨が晋陽を去ったとき、死に及んでも国家の恥がそそがれないことを心配し、また夷狄は義をもって服従させがたいことを理解していたので、至誠を〔段匹磾らに?〕つつみ隠さず示すことで、万に一つの幸運を得ようと願っていたのであった。将佐に会うたび、言葉をかけて発奮するいっぽう、道が窮していることに悲嘆しており、部曲を率いて賊の軍塁で戦死するのを望んでいた。この計画3前文にみえる、どうせ死ぬなら最後は敵に突撃して死のうという本望のことであろう。が果たされないまま、ついに段匹磾に捕えられてしまった。必ず死ぬであろうと自覚していたが、顔色は穏やかであった。五言詩をつくって段匹磾の別駕従事の盧諶4原文は「其別駕」とあり、劉琨の別駕の意のように読めるが、盧欽伝附諶伝に「建興末、随琨投段匹磾。匹磾自領幽州、取諶為別駕」とあるので、段匹磾の別駕と取るのが正確のようである。ちなみに盧欽伝附志伝および諶伝によると、盧諶は洛陽陥落時、父の盧志に従って劉琨に帰したという。劉粲と令狐泥が晋陽を攻めたとき、親子そろって劉粲に捕えられ、盧諶だけは劉粲の参軍に起用されて晋陽に留まり、盧志らその他の家族はみな平陽へ移された。劉琨と猗盧が晋陽を奪還すると、盧諶は劉琨に合流できたが、平陽に移されていた家族は殺されてしまったそうである。その後、盧諶は劉琨の司空府に召され、劉琨が段匹磾に投じるさいにも随行し、そして本訳注冒頭で述べたように、段匹磾の別駕に召されていた。に贈った5以下の詩は『文選』巻二五、贈答三に収録されている劉越石「重贈盧諶」と同じ(一部に文字の異同はある)。訳文は川合康三ほか訳注『文選 詩篇』第三冊(岩波書店、二〇一八年)三二一―二五頁を引用した。

 手の中に握られた懸黎の璧、それはもともと楚の荊山に産する美しき玉。思えばあの太公望は、かつては渭水のほとりで釣りをする老翁であった。漢の鄧禹も強く心を動かされ、千里を馳せて光武帝のもとに参上したではないか。白登山の戦いで漢の高祖が窮地を脱したのは陳平の奇計のおかげ。鴻門の会で危難を免れたのは張良の智略によるもの。晋の文公重耳は、苦楽をともにした五人の賢者を任用し、斉の桓公小白は、自分の帯鉤を射た管仲を宰相とした。かりにもこの二人の覇者をもり立てられるなら、敵か味方かなど問題にしなかった。真夜中に枕をさすりながら嘆息し、このような功臣たちと交わりたいと切に思う。わたしもずいぶん老い衰えてしまった。なんともう周公を夢に見ることもない。聖人は節義をおのずと体得し、天命を知るがゆえに憂いもない、とは誰が言ったのか。孔子でさえ麒麟が捕らえられたのを悲しみ、西郊での狩りに涙を流したのだ。晋王朝再興のいさおしがまだ建たないのに、夕日はたちまち西に沈みゆく。時はわたしに味方せず、空に浮かぶ雲のように過ぎ去る。赤い実が強風に吹き落とされ、咲き誇った花も秋に散りしく。狭い道に入りこんで華麗な車蓋は傾き、驚いた馬たちが二本のながえを砕く。まさか、百たびも鍛えた鋼鉄の志が、指にまとう柔弱な金具に変わってしまうとは。(以上、川合康三ほか訳注『文選 詩篇』第三冊(岩波書店、二〇一八年)三二一二五頁より引用。)

劉琨の詩が寓した意はふつうではなく(文字どおりではなく)、心中の鬱憤を表現し、遠く張良と陳平に思いを馳せ、鴻門の会と白登山の戦いの故事に感動することで、盧諶を発奮させようとしたのである6鴻門も白登山も、どちらも高祖にとって絶体絶命の危地であったが、張良と陳平の働きにより、高祖は危機から脱することができた。詩でこの故事を引き合いに出すことによって、自分が置かれている状況も高祖と同じである(=いま自分が何を求めているか、言いたいことはわかるよね)と表現したということであろう。。盧諶にはもとより奇策〔を立てるほどの才知?〕などなく、ふつうの言葉で〔詩をつくって〕応答してしまい、劉琨の言わんとするところと噛み合わずに、ふたたび詩を劉琨に贈ったのであった。そのさい、劉琨に言った、「さきの篇は帝王たらんとする大志がうたわれていましたが、人臣が口にすることではないと思いますよ」。
 しかし、劉琨は晋室に忠誠を尽くしていたうえ、平素から高い名望があったので、拘束されてひと月経つと、遠近の人々みなが憤慨するようになった。段匹磾が任命した代郡太守の辟閭嵩は、劉琨が任命した雁門太守の王拠および後将軍の韓拠と謀略を通じ、ひそかに武器を製造し、段匹磾を襲撃しようと考えた。しかし韓拠の娘は段匹磾の子の妾であり、この謀略を知ると段匹磾に話してしまった。こうして〔段匹磾は〕王拠、辟閭嵩、およびその徒党を捕え、ことごとく誅殺した。ちょうどこのとき、王敦はひそかに使者をつかわし、段匹磾に劉琨を殺させようとしたが、段匹磾は衆が自分にそむくのを恐れてもいたので、とうとう詔があったと称して劉琨を収監した。当初、劉琨は王敦の使者が到着したと聞くと、息子に言った、「処仲(王敦の字)の使者が来たのに、私に話がないのは、私を殺すつもりだからだろう。死と生には命運があるものだ〔から致しかたのないことだ〕が、恥をそそげなかったことだけが心残りだ。地下で両親に合わせる顔がない」。そう言うと、涙を抑えきれなかった。段匹磾はとうとう劉琨を絞め殺した。享年四十八。息子と姪(兄弟姉妹の子)の四人7この後に掲載されている盧諶らの上表には「〔段匹磾〕反禍害父息四人、従兄二息同時并命」とあり、劉琨を合わせて全部で六人が正確のようである。中華書局の校勘記を参照。がいっしょに殺された。朝廷は、段匹磾がいぜん強勢で、〔段匹磾に〕国家のために石勒を討伐させるべきだと考えたので、劉琨への哀悼儀礼を挙行しなかった。
 太興三年、劉琨のもとの従事中郎であった盧諶8盧欽伝附諶伝によれば、劉琨の司空府で従事中郎を務めている。、崔悦9盧欽伝附諶伝にあらましの経歴が記されており、「与諶俱為琨司空従事中郎」とある。魏の崔林の曾孫で、劉琨の妻の姪(兄弟姉妹の子)であったという。らが上表して劉琨の無罪を訴えた10以下の上表は敦煌文献中にある「晋史」の残巻(P. 2586)にもみえる(以下、同文献を引用するときは「敦煌文献P. 2586」と略記する)。国際敦煌プロジェクト(IDP)でデジタル画像を確認したhttp://idp.bl.uk/(最終閲覧日二〇二〇年一〇月一一日。左下の検索ボックスに「2586」と入力して「GO」し、「Pelliot chinois 2586」を選択してください)。同文献の詳細と釈文は岩本篤志「敦煌・吐魯番発見「晋史」写本残巻考――『晋陽秋』と唐修『晋書』との関係を中心に」(『西北出土文献研究』二、二〇〇五年)を参照。本伝に引用されているものと字の異同や句の出入で大きくちがうところもあるが、いちいちには注記しない。

 臣はこう聞いています。国家を統治するための根本は、典刑11普遍的な法のこと。常刑、常法ともいう。『尚書』や『毛詩』に見える語。を尊重することのうちにあり、政治を確立するための務めは、関塞(要所?)を固く慎むことのうちにある、と。まして、方岳12方嶽とも。地方の専任を授かった臣のこと。の臣であり、殺生の権力を握っているのに、正義と邪悪を正さずして悪事をふさぎとめることができるものでしょうか。
 卑見では、故司空、広武侯の琨は、恵帝の混乱の時期において、諸侯が騒動を起こす変難に遭遇し、皇室に協力し、道義と誠実の心はいよいよ奮い立ち、みずから華夷を統べ、じかに矢石に向かっていくと、石超は首を差し出し、呂朗は面縛され、社稷は安寧を得て、天子は車を〔洛陽へ〕引き返しました。天子奉迎の勲功が、琨はまことに高いのです。このことは、琨が忠節を尽くしていた証拠のひとつです。その後、并州刺史で東嬴公であった騰が、晋川は困窮していることを理由に鎮を臨漳(鄴)へ移すと、太原と西河の人々はことごとく三魏へ移動しました。琨が并州刺史を授かると、ちょうどその疲弊を受け継いだのであり、官に赴任したとき、并州に残留していた戸はほとんどおらず、危険に傾きやすい情勢にあたり、救済が困難な土地を治めることになったのですが、負傷者を集め、戎狄を慰撫すると、数年のうちに公私ともじょじょに復興してゆきました。このころ、京師が陥落し、大量の悪人がほしいままに暴れ、辺境の民衆は転倒し、一時であっても安逸を得たいと願いました。そこでみなが思ったのは、并州は四方が山河に囲まれた堅固な地で、そのうえ関所を閉じて険阻な場所を守って〔并州にこもり〕、物資を蓄え、兵士を養うことも可能だ、ということでした。〔しかし琨は〕言葉を激しくたぎらせて声を怒らせ、忠義の心が奮発し、天子が恥辱にまみれたのに、〔みずからの〕身を粉にして節義に殉じないというのは、心が晴れないふるまいである、と考えたのでした。そこでついに、山川を跋扈し、東西に征討を起こしたのです。〔ところが、〕屠各が隙に乗じ〔て襲撃してき〕たので、晋陽は潰滅し、琨の父母は虐殺の憂き目に遭い、一族は殺戮の禍をこうむったのでした。もし、琨が州民の希望に従い、こもって守りを固める戦略をとっていれば、聖朝は〔賊に〕誅罰を下せていなかったかもしれませんが、〔琨の〕一族は死なずに済んだことでしょう。猗盧が敗亡し、晋人が帰順すると、琨は平城で帰属したばかりの晋人を受け入れたのでした。しかし将軍の箕澹は、これらの人々(新たに合流した人々)は晋人とはいえ、ひさしく辺境で過ごしていたから、法によってととのえるのは困難であり、すぐに用いることはできない、と考えました。ですが琨はこの意見を批判し、忠義が表情にあらわれていました。もしも箕澹の意見を聴き入れ、一時的な生存をむさぼろうとすれば、并州で安住したはずであり、燕薊の地(幽州)へ逃れることは必ずやなかったでしょう。琨は、方岳の位に就いたものの、秩序の根本が振るわないのは、大任を負っているのは名ばかりで、なにもせずに三公に就いているからではない、と思っていました。このために、陛下が即位されると、すぐに過失を挙げて辞意を告げ、前後の章表でつぶさに誠意を述べたのです。それからまもなく、従事中郎であった臣の続澹に印綬、節、伝13おそらく、関所や津を通過するのに必要な身分証明書のこと。大庭脩『秦漢法制史の研究』(創文社、一九八二年)第五篇第一章を参照。を持たせ、本朝(元帝)へ奉還するように命じ、段匹磾の使者の栄邵といっしょに出発することを取り決めたのでした。ところが段匹磾は、琨は王室の大臣であるから、自分の権勢を奪うのではないかと心配するようになり、琨を嫌う様子がしだいに外へあらわれるようになったのでした。このような状態を理解した琨は、〔段匹磾のもとに〕長く留まれないことを考慮し、妻と大小の息子14成人している子供も成人していない子供もみな、ということであろう。をつかわし、そろって京師(建康)へ行かせ、家族をすべて陛下に委ねようとしていました。〔そのようにしておけば、段匹磾に対する懸念が杞憂であり〕戦争を起こす機会があれば、みずからは一兵卒にくわわり、〔たほうで懸念が的中し〕もし段匹磾が悪事をほしいままにすれば、〔自分は助からなくても〕妻と息子は生き延びることができるからです。そこで、〔陛下につかわす予定であった〕臣の続澹につぶさに命令を下し、ひそかにこの意向(家族を南に移したい意向)を陛下に告げさせ、〔陛下に〕要望して、道中に詔勅を下し、〔琨の家族の〕迎えと護衛を命じてほしいと伝えさせようとしたのでした。ちょうどこのとき、王成が平陽から逃れて来たのですが、彼は琨らを説いて、南陽王の保が隴右で帝号を称し、軍隊はひじょうに勢い盛んであるから、関中へ移動するべきだと話しました。段匹磾はこの話を聞くと、〔南陽王のほうを〕眺望する心を抱き、〔陛下のもとへ出発させるはずだった〕栄邵を留め、まえの兼大鴻臚の辺邈を南陽王への使者としてつかわそうとしました。しかし、続澹だけが南へ出発してしまうと、このこと(段匹磾が元帝に使者を奉じず、南陽王に奉じたこと)を〔陛下に〕話してしまうのではないかと恐れたため、とうとう〔続澹の〕出発を承認しなかったのです。琨の赤心は、こうしてついに陛下へ伝えられませんでした。段匹磾の兄が亡くなり、後継ぎの子が幼かったため、〔段匹磾は〕喪に参じるのを利用して兄の国を奪おうとたくらみました。また〔段匹磾は〕、国家を欺いてあなどり、邪心を抱いて禍を喜ぶようなことをしてしまったので、おそらく父母や宗族は彼の罪を赦さないのではないかとも思っていました。これらのために、鎧をはずして弓を納め〔て国に入り〕、ひそかに乱を起こそうと計画し、従叔の麟と従弟の末波らを殺して国を奪おうとしたのでした。段匹磾のある親信がひそかに麟と末波に知らせたので、麟と末波は人をつかわして段匹磾を防ぎました。段匹磾はわずかに身ひとつで逃れてきましたが、段匹磾はもう死んだと百姓は思ったので、みなが琨を頼りに彼のもとへ向かいました。もし、琨がこのとき、段匹磾を殺す心を有していたら、容易に捕えることができ、労力を費やすこともなかったでしょう。これ以後、上下(官と民)がともに離心してしまったので、段匹磾はついに胡人と晋人を全員引き連れて上谷へ移動しようと考えました。琨はその案にまったく賛同せず、厭次(邵続)へ移動し、南のほうに進んで朝廷を頼ったほうがよいと勧めたのですが、段匹磾は聴き入れることができず、かえって琨父子四人を殺し、琨の従兄の息子二人15敦煌文献P. 2586は「兄息従兄息二人」とする。も同時に命を落としました。琨が殺害をこうむるまえ、段匹磾が禍を起こす心をまちがいなく抱いているとわかっていましたので、臣らにこう語ってきました。「国家の厚恩をこうむりながら、お返しすることができなかった。才知がいたらなかったとはいえ、このたびの厄運にめぐりあってしまったからでもある。死なない者はいない。死ぬか生きるかは命運なのだ。ただ、下は節義を一地方で尽くすことができず、上は誠心を陛下に示せなかったのが心残りだ」。その言葉は感情がこもっており、周囲の人々を感動させました。段匹磾は琨を殺すと、でたらめにも誹謗をくわえ、琨は神器(帝位)をうかがい、不軌を謀っていたのだと称しました。琨は公孫述や隗囂のような頑迷な野心とは無縁で、また韓信や黥布のような誅殺を心配する心もありませんでしたし、混乱の時期を流転し、異類の中で肩身を狭くしていたにもかかわらず、段匹磾が称するような〔不軌をうかがう〕心を保持していたものでしょうか。愚昧な臧獲(奴婢の賤称)や聡明な厮養(賤民)ですら、反逆をくわだてないでしょう。まして、国士のなかに名を連ね、忠節を第一にあらわした者ならばなおさらでしょう。
 段匹磾は琨を殺すと、陛下の密詔であると称しました。もし琨に罪があり、陛下が誅殺をお下しになられたのならば、遺骸を市でさらし、民衆とともにこれを遺棄するのが道理であって、異俗のやからに台輔(三公)の臣を殺させるわけがないのは明白です。そうであるならば、詔を騙って罪があると称するのは、〔その詐称が〕ささいな罪であっても必ず誅殺せねばなりません。制書と偽って功があると称するのは、〔本当は〕大きな功であっても評価しません。〔と言いますのも、〕まさに思いますに、興廃の根本はすべてここ(王言の詐称)にかかっているからであり、盛衰の原因はふさいでおかねばならないからです。しかし、段匹磾にはためらいを感じる事柄はなく、乱に乗じてかってに殺し、偽って王命にかけつけ、鼎臣を殺害しました。諸夏の名望に恥辱を与え、王室の法をそこなっています。これが容認できるというのでしたら、容認できないものがあるのでしょうか。もし聖朝がなおも容赦され、大本を明らかにされないのでしたら、不逞のやからが段匹磾の足跡を踏襲し、自由に殺生し、任意に〔人を〕近づけたり遠ざけたりすることでしょう。〔そのとき、〕陛下はどのような理由で彼を誅殺されるのでしょうか。〔ところで、琨の殺害は別の観点からも問題です。そもそも〕戦車を破砕して変難を鎮圧するのは、戦勝の将にのみかかっています。暴虐を平定して反乱を討伐するのは、必ず智略の臣を必要とします。ゆえに、古語に「山に猛獣がいれば、藜(アカザの葉)や藿(豆の葉)ですら採集されない」16漢の鄭昌が蓋寛饒の無罪を弁護したときに用いた言葉(『漢書』蓋寛饒伝)。藜藿は貧民の食物を象徴するもの。猛獣ような臣がいれば、どんなものであっても強奪されることはない、ということか。と言いますが、これは虚言ではありません。黄河以北、かつ幽并以南の地域で、醜類が憚っていた〔猛獣のような〕人物は琨だけでした。琨が殺されたのち、多くの悪人は嬉々とし、満足しない者はおらず、太鼓を鳴らして中州(中原)に進み、まったく滞ることがありませんでした懸念をもっていませんでした(2020/10/13:修正)。このこともまた、華夷の大小みなが長く嘆息するゆえんでございます17この段落、公開当初の訳文より大幅に修正した。申しわけありません。(2020/10/11)
 伏して思いますに、陛下は叡聖の隆盛にあたられ、中興の端緒をひらかれ、まさに典刑を明らかにして万国を統治しようとされているところでございます。しかし、琨は殺害をこうむるべき者ではなく禍害を非所18原文まま。『漢語大詞典』は「正常な生活を送れない場所のこと。監獄や辺境など」と語釈している。ただし『晋書』では胡族によって陥落した地域のことを「非所」と呼ぶ例がしばしばあり、「誤った場所」「不適当な場所」というニュアンスのほうが強いように思われる。本伝のこの箇所は、胡族が支配している河北地域を指してこう言っているものと考えられる。(2021/2/11:注追加)でこうむり(2021/2/11:修正)、冤罪の悲しみはすでにこのうえなくつのっていますのに、朝廷が審理しているとはいまだ聞き及んでいません。むかし、壺関の三老は衛太子の罪を弁護し、谷永と劉向は陳湯の功績を擁護しましたが、〔これらは〕下は功罪の境界を明らかにでき、上は聖主の心を悟らせることができました。臣らは祖考以来、代々格別の待遇を授かり、〔中央に〕入っては翠幄(宮中?)に侍り、〔地方に〕出ては彤管をかんざしとしましたが19原文「出簪彤管」。「彤管」は赤いくだ。『漢語大詞典』に「漢代尚書丞、尚書郎毎月所賜的一双赤管大筆。後用為在朝任官之典」とある。また「筆をかんざしにする」というのは「帝王の近臣や士大夫の心得の一つ」、転じて「官吏になる」意であるらしい(『漢辞海』、「簪筆」の項)。「出」とある場合は、たいてい地方官を指すものだが、ここの場合は「宮中の外」(外朝)を言うのかもしれない。、十分に位を果たせず、辺境に流浪し、琨とともに巡り歩き、事の始終に関わっていました。このため、むかしの三臣20壺関の三老、谷永、劉向を指すか。の義に仰ぎならい、つつしんで本末をご説明し、死を冒して申しあげたしだいです。聖朝が特別にご憐憫を賜わりくださいますよう。

 太子中庶子の温嶠も上疏して劉琨を弁護した21温嶠の上疏は敦煌文献P. 2586だと引用されている。。そこで元帝は詔を下した、「もとの太尉、広武侯の劉琨は、忠誠厚く、王室に誠心を尽くしていたが、不幸にも難事に遭い、志節はまっとうされなかった。朕はこれをはなはだ悼む。過日は戦争があったので、弔祭をくわえていなかった。そこで、幽州〔刺史?〕に命を下し、ただちに旧例に従って弔祭を挙行するように」。侍中、太尉を追贈し、愍の諡号をおくった。
 劉琨は若くして大志を抱き、縦横(弁論)の才能があり、自分より優れた人物とよく交際していたが、すこぶるうわついていて現実味がなかった。范陽の祖逖と友人であったが、祖逖が〔元帝に?〕登用されたことを知ると、親類や旧友なじみの親類(2020/10/15:修正)に書簡を送って言った、「私は矛を枕にして朝を待ち、逆賊の首をさらすことを志していますが、祖生(祖逖)が私よりも先に馬に鞭を振るうのではないかといつも心配しています」。劉琨の意気込みはこのようであった。晋陽に駐留していたとき、胡騎に幾重にも包囲されたことがあった。城中は困窮し、やりようがなかった。すると、劉琨は月の夜に楼に登り、清らかな声でうそぶいた。賊はこれを聞くと、みな悲しみに沈んで嘆いた。〔劉琨は〕深夜に胡笳を演奏すると、賊はまたも涙を流してすすり泣き、郷愁の思いが切実であった。夜が明けると、ふたたびこれを演奏した。賊はみな包囲を棄てて逃げた。子の劉群があとを継いだ。

劉琨(1)劉琨(2)劉琨(3)附:劉群・劉輿・劉演祖逖附:祖納

  • 1
    『芸文類聚』巻三三、盟に「晋劉琨与段匹磾盟文」が引かれている。(2020/10/14:注追加)
  • 2
    現任の刺史は段匹磾なので、ようするに段匹磾を刺史から引きずりおろそうとしたということ。
  • 3
    前文にみえる、どうせ死ぬなら最後は敵に突撃して死のうという本望のことであろう。
  • 4
    原文は「其別駕」とあり、劉琨の別駕の意のように読めるが、盧欽伝附諶伝に「建興末、随琨投段匹磾。匹磾自領幽州、取諶為別駕」とあるので、段匹磾の別駕と取るのが正確のようである。ちなみに盧欽伝附志伝および諶伝によると、盧諶は洛陽陥落時、父の盧志に従って劉琨に帰したという。劉粲と令狐泥が晋陽を攻めたとき、親子そろって劉粲に捕えられ、盧諶だけは劉粲の参軍に起用されて晋陽に留まり、盧志らその他の家族はみな平陽へ移された。劉琨と猗盧が晋陽を奪還すると、盧諶は劉琨に合流できたが、平陽に移されていた家族は殺されてしまったそうである。その後、盧諶は劉琨の司空府に召され、劉琨が段匹磾に投じるさいにも随行し、そして本訳注冒頭で述べたように、段匹磾の別駕に召されていた。
  • 5
    以下の詩は『文選』巻二五、贈答三に収録されている劉越石「重贈盧諶」と同じ(一部に文字の異同はある)。訳文は川合康三ほか訳注『文選 詩篇』第三冊(岩波書店、二〇一八年)三二一―二五頁を引用した。
  • 6
    鴻門も白登山も、どちらも高祖にとって絶体絶命の危地であったが、張良と陳平の働きにより、高祖は危機から脱することができた。詩でこの故事を引き合いに出すことによって、自分が置かれている状況も高祖と同じである(=いま自分が何を求めているか、言いたいことはわかるよね)と表現したということであろう。
  • 7
    この後に掲載されている盧諶らの上表には「〔段匹磾〕反禍害父息四人、従兄二息同時并命」とあり、劉琨を合わせて全部で六人が正確のようである。中華書局の校勘記を参照。
  • 8
    盧欽伝附諶伝によれば、劉琨の司空府で従事中郎を務めている。
  • 9
    盧欽伝附諶伝にあらましの経歴が記されており、「与諶俱為琨司空従事中郎」とある。魏の崔林の曾孫で、劉琨の妻の姪(兄弟姉妹の子)であったという。
  • 10
    以下の上表は敦煌文献中にある「晋史」の残巻(P. 2586)にもみえる(以下、同文献を引用するときは「敦煌文献P. 2586」と略記する)。国際敦煌プロジェクト(IDP)でデジタル画像を確認したhttp://idp.bl.uk/(最終閲覧日二〇二〇年一〇月一一日。左下の検索ボックスに「2586」と入力して「GO」し、「Pelliot chinois 2586」を選択してください)。同文献の詳細と釈文は岩本篤志「敦煌・吐魯番発見「晋史」写本残巻考――『晋陽秋』と唐修『晋書』との関係を中心に」(『西北出土文献研究』二、二〇〇五年)を参照。本伝に引用されているものと字の異同や句の出入で大きくちがうところもあるが、いちいちには注記しない。
  • 11
    普遍的な法のこと。常刑、常法ともいう。『尚書』や『毛詩』に見える語。
  • 12
    方嶽とも。地方の専任を授かった臣のこと。
  • 13
    おそらく、関所や津を通過するのに必要な身分証明書のこと。大庭脩『秦漢法制史の研究』(創文社、一九八二年)第五篇第一章を参照。
  • 14
    成人している子供も成人していない子供もみな、ということであろう。
  • 15
    敦煌文献P. 2586は「兄息従兄息二人」とする。
  • 16
    漢の鄭昌が蓋寛饒の無罪を弁護したときに用いた言葉(『漢書』蓋寛饒伝)。藜藿は貧民の食物を象徴するもの。猛獣ような臣がいれば、どんなものであっても強奪されることはない、ということか。
  • 17
    この段落、公開当初の訳文より大幅に修正した。申しわけありません。(2020/10/11)
  • 18
    原文まま。『漢語大詞典』は「正常な生活を送れない場所のこと。監獄や辺境など」と語釈している。ただし『晋書』では胡族によって陥落した地域のことを「非所」と呼ぶ例がしばしばあり、「誤った場所」「不適当な場所」というニュアンスのほうが強いように思われる。本伝のこの箇所は、胡族が支配している河北地域を指してこう言っているものと考えられる。(2021/2/11:注追加)
  • 19
    原文「出簪彤管」。「彤管」は赤いくだ。『漢語大詞典』に「漢代尚書丞、尚書郎毎月所賜的一双赤管大筆。後用為在朝任官之典」とある。また「筆をかんざしにする」というのは「帝王の近臣や士大夫の心得の一つ」、転じて「官吏になる」意であるらしい(『漢辞海』、「簪筆」の項)。「出」とある場合は、たいてい地方官を指すものだが、ここの場合は「宮中の外」(外朝)を言うのかもしれない。
  • 20
    壺関の三老、谷永、劉向を指すか。
  • 21
    温嶠の上疏は敦煌文献P. 2586だと引用されている。
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