凡例
- 文中の〔 〕は訳者による補語、( )は訳者の注釈、1、2……は注を示す。番号を選択すれば注が開く。
- 文中の[ ]は文献の引用を示す。書誌情報は引用文献一覧のページを参照のこと。
- 注で唐修『晋書』を引用するときは『晋書』を省いた。
むかし、帝王は奇類を生んだ。淳維は伯禹(禹)の子孫なのである1淳淮は『史記』匈奴列伝にみえ、匈奴の祖先とされている。のち、赫連勃勃が禹の後裔(夏)を称するのはこの伝承によるものと思われる。。〔しかし、祖先が中国と同じであるのならば、〕どうして異類(奇類)なのであろうか2原文「古者帝王乃生奇類、淳維、伯禹之苗裔、豈異類哉」。よくわからない。祖先が同じであるならば、何をもって中国とはちがった異民族というのか、的な意で取ってみた。。〔中国とちがい、かの者どもは〕髪を結わず、動物の皮を着用し、羊の肉と乳を飲食するからであり、しかも中国を震撼させること、その由来は久しいからである3原文「其来自遠」。ふつうに読んだら「遠方から来る」だが、楽志の序文にも同じ文言がみえ、そちらは「由来が古い」の意であると思われる。こちらも「中国侵攻の由来は古い」で読めなくもないので、とりあえずその意で取ってみた。。天はいまだに禍を降したことを悔やまず、〔異族の〕種と部落はますます増殖している。その風俗は陰険かつ邪悪で、気質は獰猛であるが、それらのことは前代の史書に記されており、また詳細に記録されている。黄帝は異族が規律を犯すことを憂えたので、出動して討伐したのである。周の武王は荒服の地に〔異族を〕放逐したが、〔異族を〕禽獣と同等だとみなしたからである。しかしながら、〔かの者どもは〕寒さの厳しい原野において、月を観察し4『史記』匈奴列伝によれば、匈奴は月の満ち欠けで攻撃と退却を決めたという。、風を観測し、隙を見てとると土埃をあげ〔て進攻し〕、間隙に乗じてほしいままに暴れまわるので、辺境の城は帯をゆるめる余裕を得られず、百姓は〔徴発がつづくので〕家屋にいないありさまであった5原文「百姓靡有室家」。『漢書』巻九四上、匈奴伝上に「至穆王之孫懿王時、王室遂衰、戎狄交侵、暴虐中国。中国被其苦、詩人始作、疾而歌之、曰『靡室靡家、獫允之故』『豈不日戒。獫允孔棘』」とあり、顔師古注に「小雅采薇之詩也。孔、甚也。棘、急也。言征役踰時、靡有室家夫婦之道者、以有獫允之難故也。豈不日日相警戒乎。獫允之難甚急」とある。。孔子は「管仲がいなかったら、私は被髪左袵していたであろう」と言った(『論語』憲問篇)。この言葉が言っているのは、兵士を訓戒し、軍隊を整序できれば、辺境は服従し、境内も安定する、ということである。そのため、燕は造陽の郊(城外?)に長城を築き、秦は臨洮の険阻さを塹壕とし、〔築城のために〕天山に登り、地脈を絶ち、〔東は〕玄菟を包摂し、〔北は〕黄河にまでいたったが、〔これらは〕夷狄が中華を乱すのを防ぐためなのである。その事前の防備はこのようであった。
漢の宣帝ははじめて呼韓邪単于を受け容れると、辺境のとりでにおらせ、〔辺境の〕監視を任せ、はじめて夷狄を寛大に処した。光武帝も南単于庭の数万人を西河郡に移住させ、のちには五原郡にまで移動し、〔匈奴の移住地は〕七郡にも連なった6五原郡の件は不詳。『後漢書』列伝七九、南匈奴伝によれば、呼韓邪はまず五原の塞で来降を請い、それを受けて後漢は五原の付近に単于庭を立てさせたが、ほどなく雲中郡に移し、ついで西河郡の美稷県に移した。そのころに呼韓邪は、諸王を朔方や五原など北辺の七郡に配している。「後亦転至五原」というのは、序文の筆者の勘違いか何かではないか。。董卓の乱のさいには、汾水と晋陽の地(并州)の郊外は騒然とした。〔晋のとき、〕郭欽は武帝に奏上文をたてまつり、江統は恵帝に策略を献じたが、二人とも〔問題だと〕考えたのは、魏は戎夷を住まわせ、都市と地方に(天下のいたるところに)雑居させた、ということであった。〔そこで〕漠南の城塞の外に移すように求め、殷と周の服(九服的なもの?)と同じになるように定めんとしたのである。江統は并州の多くの部落を憂慮し、郭欽は盟津(孟津)〔に并州の夷狄が短時間で到達可能なこと〕を心配した。〔そうした〕言葉がなお〔臣らの〕口から発せられているうちに、劉元海がほどなく到来したのである。俚諺に「ほんの少しのことから失う」というのがあるが、〔この失敗は〕晋の卿大夫の恥辱である。劉聡が軍に号令をかけると、東は斉の地を兼併した。劉曜が旗をめぐらせると、西は隴山を越えた。〔こうして劉氏は〕両京(洛陽と長安)と百万の百姓を転覆させた。〔晋の〕天子は長江を越えて帝王の物品(帝位)を保ち、険阻な土地に割拠し、首を中原に向けたが、武力で救済することはかなわず、長淮(淮水?)以北を割いて、大抵は放棄したのである。胡人はわが〔中華の〕艱難に乗じ、鑣(くつわ)をそろえずに〔めいめいに〕乱を起こした。晋の臣には、遠方で軍隊の力に恃もうとし、あいついで愚行を模倣する者たちがいた。
おおよそ〔概略する。〕劉元海は恵帝の永興元年に離石に拠って漢を称した(前趙)。九年後、石勒が襄国に拠って趙を称した(後趙)7以下、年数はメチャクチャ。。張氏はこれに先立って河西に拠っていたが、石勒が趙を称して三十六年後の歳に、張重華が涼王を自称した(前涼)。その一年後、冉閔が鄴に拠って魏を称した(冉魏)。その一年後、苻健が長安に拠って秦を称した(前秦)。慕容氏はこれに先立って遼東に拠って燕を称していたが、苻健が秦を称して一年後の歳に、慕容儁がはじめて僭越して帝号を称した(前燕)。三十一年後、後燕の慕容垂が鄴に拠った。二年後、西燕の慕容沖が阿房に拠った。この歳、乞伏国仁が枹罕に拠って秦を称した(西秦)。一年後、慕容永が上党に拠った(西燕)。この歳、呂光が姑臧に拠って涼を称した(後涼)。十二年後、慕容徳が滑台に拠って南燕を称した。この歳、禿髪烏孤が廉川に拠って南涼を称し、段業が張掖に拠って北涼を称した。三年後、李玄盛が敦煌に拠って西涼を称した。一年後、沮渠蒙遜が段業を殺し、涼を自称した(北涼)。四年後、譙縦が蜀に拠って成都王を称した。二年後、赫連勃勃が朔方に拠って大夏を称した。二年後、馮跋が慕容離班を殺し、和龍に拠って北燕を称した8以上、十六国時代の国のアウトラインとなったわけだが、李氏成漢、姚氏後秦がおらず。。天下全体で、十のうち八を失った。いずれもが、龍旌や帝服9原文「龍旌帝服」。ほかの史書の用例をみると「龍駕帝服」「龍駕帝飾」とかもある。天子の服飾品の意か。をそなえ、社を建て祊を設け、華人と夷狄はこぞって参集し、ひとかどの人物はことごとく在留したのであった10原文「提封天下、十喪其八、莫不龍旌帝服、建社開祊、華夷咸曁、人物斯在」。わからない。。ある者は大都市の郷(一帯の土地?)を奪い、ある者は数州の地を擁し、その雄大な計画は国内を席巻し、その軍隊は国外を併合し、戦争は勝負が決するまでつづき、人命は刀と矢によって失われた11原文「窮兵凶於勝負、尽人命於鋒鏑」。よくわからない。。戦国であった時代は百三十六年。劉元海がこの災禍のはじまりであった。
(2020/3/21:公開)
(2021/9/4:改訂)