巻四十三 列伝第十三 王戎(4)

凡例
  • 文中の〔 〕は訳者による補語、( )は訳者の注釈、12……は注を示す。番号を選択すれば注が開く。
  • 文中の[ ]は文献の引用を示す。書誌情報は引用文献一覧のページを参照のこと。
  • 注で唐修『晋書』を引用するときは『晋書』を省いた。

山濤(1)山濤(2)附:山簡・山遐王戎(1)王戎(2)附:王衍附:王澄・郭舒楽広

〔王澄:王衍の弟〕

 王澄は字を平子という。生まれつき聡明で、まだ言葉を話せない年頃にもかかわらず、ひとの挙動を見ると、すぐにその意図を理解していた。王衍の妻の郭氏は貪欲な性格で、婢女に道路上で糞をかつがせようとしていた1『南史』巻二五、到彦之伝附到漑伝に「〔何〕敬容謂人曰、『到溉尚有余臭、遂学作貴人』。……溉祖彦之初以担糞自給、故世以為譏云」とあり、糞を運搬する労働があったと思われ、社会的に卑しい仕事とみなされていたのだろう。婢にその仕事をさせて稼がせようとしたか、またはそうした労働者を雇うのケチって婢にやらせたか、どちらかの意味であると思われる。。王澄は十四歳であったが、それはいけませんと郭氏を諫めた。郭氏は激怒し、王澄に「むかし、お義母さん2原文は「夫人」。王澄の母を指す。王澄は王衍の弟だが、同母弟なのか異母弟なのかは不明。『世説新語』規箴篇、第一〇章の劉孝標注に引く「永嘉流人名」によると王澄の母は父・王乂の第三夫人のようで、あるいは異母弟なのかもしれない。訳文はとりあえず現代日本語に合わせた表現にした。は臨終のさいにあんたをわたしに託したけど、わたしをあんたに託してはいないのよ」と言い、王澄の襟をつかんで棒でぶとうとした。王澄は抵抗して手をほどくと、窓を越えて逃げた。
 王衍は高い名声を世に博し、世の人々からひとの才能を見抜く人物として認められていた。〔王衍は〕とりわけ王澄、王敦、庾敳を高く評価しており、あるとき天下の士人のために番付を考案して、「一番阿平(王澄)、二番子嵩(庾敳)、三番処仲(王敦)」と言った。かつて王澄は王衍に「兄さんは一見すると道のようにひっそりして目立たないようにしていますが3原文「形似道」。『世説新語』賞誉篇、第二七章も同じ。[川勝ほか一九六四]は「恰好は(無為自然の)道を得たように見えるが」、[井波二〇一四B]は「外見はゆったりした道のようだが」と訳し、『世説新語詞典(修訂本)』はここの「道」を「僧人」と取っている。また関連して、『世説新語』徳行篇、第二三章の劉孝標注に引く「王隠晋書」に「魏末、阮籍嗜酒荒放、露頭散髪、裸袒箕踞。其後貴游子弟阮瞻、王澄、謝鯤、胡毋輔之之徒、皆祖述於籍、謂得大道之本。故去巾幘、脱衣服、露醜悪、同禽獣。甚者名之為通、次者名之為達也」とあり、王澄らの考えでは、格好・服装が「道」にかなっているというのは礼装にとらわれない格好をすることを意味していたようである。
 まず『世説新語詞典(修訂本)』の解釈は王衍伝ほかに関連する記述を見出せず、この解釈を採用するにはいささか躊躇を覚える。同様に、王隠『晋書』のような意味で王澄が「道のようだ」と言っているとは思えない。しかし既存の『世説』訳の解釈だと、後文とのつながりが不明瞭であるように思われる。
 確証はないが、ここは文脈を尊重して「形」を「見た印象、外見の雰囲気」、「似道」を「道のようにひっそりしている」で取った。玄学に傾注して世俗や政務とは距離を取っていたことをこう表現しているのかもしれない。
、神々しくそばだつ才気があまりに高すぎます4原文「神鋒太儁」。『世説新語』賞誉篇、第二七章も同じ。「神鋒」を[川勝ほか一九六四]、[井波二〇一四B]は精神の機鋒・はたらきと取り、『世説新語詞典(修訂本)』は「精神気宇」とし、『漢語大詞典』は風格の意とする。思うに、王衍伝の末尾で顧愷之(『世説新語』だと王導)は王衍の秀才ぶりを切り立つ「壁」に喩えていた。そこで、本伝の「神鋒」も「切り立っている才能」の意で解釈することにした。これが「高すぎる(太儁)」と言うのは、〈いかに潜んでいようとも、王衍の才は自然と目立ってしまう〉という含意ではなかろうか。」と言うと、王衍は「ひとと群れずに押し黙っている君のありさまには、さすがに敵わないよ」5原文「誠不如卿落落穆穆然也」。「落落穆穆」を[川勝ほか一九六四]、[井波二〇一四B]、『世説新語詞典(修訂本)』は磊落で温厚な様子と解している。『漢語大詞典』は「洒脱而端荘」としているが、明らかにおかしいのでここでは考慮しない。さらに現代中国語の辞典(『中日大辞典』増訂第二版)だと「(人に対して)冷淡である」とある。たしかにネット上の中国語の辞典では「落落はひとと群れないこと、穆穆は沈黙していること。落落穆穆で他人に対して冷淡であることの形容で、才能をひけらかさないことを言う」のようなニュアンスで掲載しているものが多い。王澄が磊落な性格であったことは随所に記されているし、さまざまな人士と付き合いがあったことも記述されているが、しかし本伝はこのあと、「王澄はこの件で名を著わした(澄由是顕名)」とあり、このやり取り以前の王澄はあまり世に知られていなかったという文脈になっており、したがってこの時点では人々のあいだでひっそりふるまっていたと解釈することに不都合はない。文意上、もっともしっくりくるのが「冷淡にふるまって才能をひけらかさなかった」の意なので、これで訳出することにした。と言った。王澄はこの件で名を著わした。王澄の批評を得ている人材がいたら、王衍は〔そのひとについて〕重ねて批評することなく、いつもそのたびに「もう平子を済ませているから」と言っていた。
 若くして要職を歴任し、昇進を重ねて成都王穎の従事中郎に移った。成都王のおべっかである孟玖がそしって陸機兄弟を殺すと、天下じゅうの人々が歯ぎしりして悔しがった。王澄は孟玖の私的な悪事を暴き、成都王に孟玖を殺すよう勧めると、成都王はようやく孟玖を誅殺したので、士庶みなが称賛した。成都王が敗亡すると、東海王越が司空長史にしたいと要望した〔ので、その職に就いた〕。天子を〔長安から〕奉迎した勲功によって、南郷侯に封じられた。建威将軍、雍州刺史に移ったが、就任しなかった。当時、王敦、謝鯤、庾敳、阮脩はみな王衍から親しみを受けており、「四友」と呼ばれていたが、〔このグループは〕王澄とも仲が良く、さらに光逸、胡毋輔之らも〔このメンバーと〕付き合いがあった。存分に酒宴を楽しみ、歓楽の限りを尽くしていた6本伝ではあまり明確に書かれていないが、王澄は放達の代表格と言ってもさしつかえない人士であった。『世説新語』簡傲篇、第六章の劉孝標注に引く「鄧粲晋紀」に「澄放蕩不拘、時謂之達」とあり、『世説新語』徳行篇、第二三章の劉孝標注に引く「王隠晋書」に「魏末、阮籍嗜酒荒放、露頭散髪、裸袒箕踞。其後貴游子弟阮瞻、王澄、謝鯤、胡毋輔之之徒、皆祖述於籍、謂得大道之本。故去巾幘、脱衣服、露醜悪、同禽獣。甚者名之為通、次者名之為達也」とある。
 恵帝の治世末年、王衍は東海王に進言し、王澄を荊州刺史、持節、都督、領南蛮校尉とし、王敦を青州刺史とするよう提案し〔聴き入れられ〕た。そこで王衍は〔二人に〕策略を質問したところ、王敦は「事態に応じて解決するつもりなので、事前に論じる必要はない」と言った。王澄は言葉がどんどん出てきて、策略がとめどなく論じられたので、一座の人々は感服した。王澄が鎮に出発するさい、見送る者は朝廷を傾けるほどの人数であった。王澄は木の上にカササギの巣があるのを見つけると、すばやく上着を脱いで木に登り、ヒナドリを探し出してちょっかいをかけた。ゆったりくつろいだ様子で、周囲の他人などおかまいなしであった。劉琨は王澄に言った、「あなたは一見すると快活なようですが、内心は動揺しやすく、強情です7原文「動侠」。『資治通鑑』巻八八、永嘉六年の胡三省注に「言其心軽易動、又豪侠自喜也」とあるのに従った。。この姿勢で世を渡ろうとすれば、まっとうな死を得るのは難しいでしょう」。王澄は黙り、何も答えなかった。
 王澄が鎮に到着すると、一日じゅう思うままに酒を飲み、政務を見ず、賊の襲来という急務でさえも胸中になかった。順陽の郭舒を卑賤な階層から抜擢し、別駕とし、州府〔の政務〕を委任した。そのころ、京師に危険が迫っていたため、王澄は大軍を率いて国難に駆けつけようとしたところ、暴風で節旗の竿が折れてしまった。ちょうどそのとき、王如が襄陽〔の山簡〕を侵略していた。王澄の先鋒が宜城に到着し、使者を発して山簡のもとへつかわしたが、王如の徒党である厳嶷に捕まってしまった。厳嶷は〔ひと芝居うち、〕部下に襄陽から戻ってきたフリをさせ、その者に「襄陽はまだ落ちていないか」と訊ね、〔そして演技している部下に〕「昨日早朝に落としまして、もう山簡を捕えました」と答えさせた。このやり取りを〔捕縛した王澄の使者に〕聴かせたあとで、ひそかに王澄の使者の拘束を緩めておき、脱走できるようにさせておいた。〔その使者が帰還し、耳にした襄陽陥落の話をした。〕王澄は襄陽陥落の一報を聞くと、本当のことだと信じ込み、軍を解散して帰還した。ほどなく、これ(偽報に踊らされたこと?)を屈辱と思い、食糧輸送が十分ではなかったことにかこつけ、長史の蒋俊に罪をなすりつけて斬ってしまったが、けっきょくそれ以上進むことはできなかった。荊州や湘州に散在していた巴蜀からの流民は、旧来からの住民ともめてしまい、はてに県令を殺し、楽郷にたむろするようになった。王澄は成都内史の王機にこの流民たちを討伐させた。賊は投降を願い出たので、王澄はこれを承諾したようにみせかけて、すぐに寵洲で襲撃し、賊の妻子を〔将兵への〕褒賞とし、八千余人を長江に沈めてしまった。こうして、益州と梁州からの流民四、五万家がいっせいにそむき、杜弢を首領に推戴し、南は零陵と桂陽を落とし、東は武昌を侵略し、王機を巴陵で破った。王澄はやはり不安を抱かず、王機と終日にわたって存分に酒を飲んだり、投壺や博戯(ボードゲーム?)の試合を数十局いっせいに始めたりするばかりであった。富豪の李才を殺し、その資産を没収して郭舒に下賜した。南平太守の応詹がしばしば諫めたものの、〔王澄は〕聴き入れなかった。かくして上下みな〔王澄から〕心が離れてしまい、内外いずれも不満を抱いてそむいたのであった。王澄は名声と実績に傷がついてしまったとはいえ、依然として傲岸で、調子づいていた。のちに〔王澄みずから〕軍を出動して杜弢を攻めようとし8原文「後出軍撃杜弢」。『資治通鑑』巻八八、永嘉六年に「澄自出軍撃杜弢」とあるのに従って補った。、作塘に駐屯した。山簡の参軍であった王沖が豫州でそむき、荊州刺史を自称した9王沖にかんしては巻七〇、応詹伝に「陳人王沖擁衆荊州、素服詹名、迎為刺史。詹以沖等無頼、棄還南平、沖亦不怨」とあり、巻一〇〇、杜曾伝に「会荊州賊王沖自号荊州刺史」とある。豫州で反乱を起こしたというのも変な感じがするが、ほかに関連する情報が見当たらず、詳細は不明。。王澄は恐懼し、杜蕤に江陵を守らせた。王澄は孱陵へ移動し、ついで沓中へ向かおうとした。郭舒は諫めて、「使君が州に臨んでからというもの、特別な政績はございませんけれども、いまだ人心を失っているわけではありません。いま、西に向かい、華容の義勇兵を合わせれば、この小賊を生け捕りにできましょう。どうしてご自分から放棄してしまうのですか」と言ったが、王澄は聴き入れられなかった。
 これ以前、王澄は武陵などの諸郡に対し、共同して杜弢を討伐するよう命令したので、天門太守の扈瓌は益陽に駐屯した。〔ところが、〕武陵内史の武察が武陵郡の夷人に殺されてしまったので、扈瓌は孤立していることを理由に引き返してしまった。王澄は怒り、扈瓌を更迭して杜曾を後任とした。夷人の袁遂は扈瓌の故吏だったため、扈瓌の復讐にかこつけて、とうとう挙兵して杜曾を追い出し、平晋将軍を自称した。王澄は司馬の毌丘邈に袁遂を討伐させたが、袁遂に破れてしまった。そのころ、元帝が王澄を軍諮祭酒に召したので、召還に応じることにし〔て建康へ向かっ〕た。
 その当時、王敦は江州刺史で、豫章に出鎮していたので、王澄は〔道中で〕王敦のもとに立ち寄った。王澄はかねてから高い名声があって、王敦を上回っており、士庶の誰もが王澄のことを慕っていた。そのうえ、〔王澄は〕勇敢さと腕力が常人をしのいでいたため、ふだんより王敦から畏れられていた。王澄はむかしからの態度のままで接し、王敦を軽んじた。王敦はいよいよ怒りをつのらせ、王澄を招待して〔官の宿泊施設に?〕入れて宿泊させ、秘密裏に王澄を殺そうとした。しかし王澄の左右は二十人おり、鉄製の馬鞭を装備して護衛を務め、〔また〕王澄は玉製の枕をずっと手離さずに自衛に備えていたので、王敦はまだ実行できずにいた。その後、王敦は王澄の左右に酒をふるまうと、全員酔ってしまった。〔ついで王敦は王澄から〕玉製の枕を借りて鑑賞した。その枕を持ったまま座っていた台から下りると、王澄に「どうして杜弢と連絡を取っていたんだ」と言った。王澄は「事実はおのずと証明されるさ」と答えた。王敦は〔枕を手にしたまま中座して〕奥の寝室別室(2023/8/19:修正)に入ろうとしたので10原文「敦欲入内」。「入内」は「中座して奥に引っ込むこと」だと思われる。巻六五、王導伝附王恬伝に「性慠誕、不拘礼法。謝万嘗造恬、既坐、少頃、恬便入内。万以為必厚待己、殊有喜色。恬久之乃沐頭散髮而出、拠胡牀於庭中曬髮、神氣慠邁、竟無賓主之礼。万悵然而帰」とあるのが用例。、王澄は〔制止しようとして〕王敦の衣を手で引っ張ったが、〔王敦は止まろうしなかったために王敦の〕帯を引きちぎってしまった。〔そして王敦と入れ代わるように刺客が入ってきた?。〕すると〔王澄は〕梁(はり)に登り、「こんなことをしやがって。罰(ばち)がいまに当たるぞ」と王敦を罵った。王敦は路戎という屈強な兵士に王澄を絞め殺させた11いささか展開が理解できないところもあるが(なぜ王敦の帯を引きちぎると梁へ逃げたのだろうか)、佚書の記述を参照してもよくわからないので、本伝の記述のままに訳出した。『世説新語』方正篇、第三一章の劉孝標注に引く「晋陽秋」だと路戎らを潜ませておいて絞殺させたとし、同注に引く「裴子」では王澄は「力士」と格闘のすえに「屋上」へ逃れ、しばらく経ってから亡くなったと記しており(つまり殺されたとは書かれていない)、すべて微妙にちがっている。。享年四十四。遺体を車に載せ、家に帰した。〔かつて王澄の非業の死を予言した〕劉琨が王澄の死を聞くと、嘆いて言った、「王澄みずからがこの結末を選び取ったのだ」。王敦が平定されると、王澄の故吏である佐著作郎の桓稚が上表して王澄は冤罪であったと弁護し、諡号を追贈するよう要望した。詔が下り、王澄の本官を回復し、憲の諡号をおくった。長子の王詹は若死にした。次子の王徽は右軍将軍司馬となった。

〔郭舒〕

 郭舒は字を稚行という。幼少時、学問の師に就いて学びたいと母親に願い出て、一年余りで帰ってきたが、学問の要点をおおまかに理解していた。同郷であった少府の范晷と宗族であった武陵太守の郭景はともに郭舒を称賛し、後進世代の俊才で、最終的には国政を担う人材になるだろうと評した。最初は領軍校尉となったが12『晋書斠注』に引く「読書記疑」は、就いた職は校尉の功曹または主簿ではないかと指摘している。確かにいきなり校尉になっているのは不自然である。また領軍校尉という官は聞いたことがなく、翊軍校尉の誤りではないだろうか。、独断で司馬彪を釈放したことで罪に問われ13『続漢書』の著者であるあの司馬彪と同一人物なのかは不明。、廷尉に収監された。世の人々の多くはこの行動を義と評価した。荊州刺史の夏侯含が西曹に辟召し、〔ついで〕主簿に転じた。夏侯含が事件で罪に問われたので、郭舒はみずから獄に入って〔夏侯含の身代わりとなることを求め、また〕夏侯含の無実を弁護したところ、事件は放免を得た。荊州刺史の宗岱が治中に任命したが、母の喪を理由に職を辞した。劉弘が荊州牧になると、治中に召した。劉弘が卒すると、郭舒は将士を率いて劉弘の子の劉璠を主人に推戴し、逆賊の郭励を討伐してこれを滅ぼし、荊州を安全に保った。
 王澄は郭舒の名声を耳にし、別駕に召した。王澄は終日酒を飲み、政務は意中になかったため、郭舒はいつも厳しく諫めていた。天下が大混乱に陥ると、さらに王澄に対し、徳を修め、武力をたくわえ、州域を保持するよう勧めた。王澄は、混乱は京師を起点に生じたもので、一州が防ぎきれるものではとうていないと考え、聴き入れることはできなかったものの、彼の忠誠を重んじた。あるとき、荊州の士人の宗廞が酒に酔って王澄に逆らってしまった。王澄は怒り、左右の者に怒鳴って宗廞を棒でぶたせた。郭舒は顔色を怒らせ、その左右の者に言った、「使君はひどく酔っておいでだというのに、おまえたちはどうして軽々に後先を考えない行動をするのか」。王澄は激怒し、「別駕は狂ってやがるのか。オレが酔っているだなんてデタラメ言いやがって」と言い、そしてひとに〔正気に戻してやれと〕命じて郭舒の鼻をつねらせ、眉頭を火であぶらせようとした。郭舒はひざまずいてこの仕打ちを受けた。王澄の怒りはやや収まり、宗廞はついに赦しを得たのであった。
 王澄は敗走すると、郭舒を領南郡太守とした14原文「領南郡」。確たる根拠はないが、訳文のように解釈してみた。。王澄はさらに、郭舒を引き連れて東に〔長江を〕下ろうとしたので、郭舒は言った、「舒(わたし)は万里の地の紀綱の職(州別駕のこと)だというのに、〔荊州を〕たてなおすことができず、使君を敗走の仕打ちに遭わせてしまいました。長江を渡るわけにはまいりません」。そして沌口に駐屯し、湖沢から野生のイネを採取して自給した。同郷のひとが郭舒の牛を盗んで食ってしまい、その事件が発覚すると、〔そのひとは〕謝罪に来た。郭舒は「君は飢えていたから牛を食ったんだろう。残った肉はいっしょに食おう」と言った。世の人々はこの一件によって、郭舒の度量の広さに感服した。
 郭舒は若いときから杜曾と親しかったが、以前、杜曾が〔荊州でそむいたときに?〕郭舒を召したものの、〔郭舒は〕応じなかったので、杜曾はこのことを恨みに思っていた。このときになって、王澄はさらに郭舒を順陽太守に転任させたが、杜曾はひそかに兵を派遣し、郭舒を襲撃させた。〔郭舒は〕逃走して難を逃れることができた。
 王敦が参軍に召し、〔ついで〕従事中郎に転じた。襄陽都督の周訪が卒したので、王敦は郭舒をつかわして襄陽の軍を監督させた。〔新たに襄陽に駐屯することになった〕甘卓が〔襄陽に〕到着してから、〔郭舒は〕帰還した。朝廷が郭舒を尚書右丞に召したが、王敦は留めて行かせなかった。王敦が反逆を計画したさい、郭舒は諫めたものの聴き入れられず、〔王敦は郭舒に〕武昌を守らせた。荊州別駕の宗澹は郭舒の才能をねたみ、しばしば〔荊州刺史の〕王廙に郭舒のことをそしっていた。王廙は郭舒と甘卓が結託しているのではないかと疑い、ひそかに王敦に知らせたが、王敦は受けつけなかった。あるとき、高官督護(官名?)の繆坦が武昌城の西の土地に軍営を設けたいと要望したので、武昌太守の楽凱は王敦に言った、「百姓がずいぶんむかしにその土地を購入し、野菜を植えて自給していますから、没収するべきではありません」。王敦はおおいに怒り、「王処仲が江湖に来なかったら、武昌に土地なぞ存在しただろうか。それだというのに、『ここは自分の土地だ』などと言う者がいるのか」と言った。楽凱はおびえて、あえてこれ以上言わなかった。郭舒が「公よ、舒(わたくし)の一言をお聴きください15「一言」は原文まま。ちょっとの言葉。少しでいいから聴いておくれという意味。」と言うと、王敦、「平子(王澄の字)は卿が狂(精神異常)を患っていたから〔正気に戻すために〕鼻をつねり、眉頭を焼いたというが、むかしの病気(狂のこと)が再発でもしたかね」。郭舒、「いにしえの狂は直(まっすぐ)でしたが、〔漢代に直言で名高かった〕周昌、汲黯、朱雲はまさか狂ではなかったのでしょうか16原文「古之狂也直、周昌、汲黯、朱雲不狂也」。自信はない。「不狂也」は和刻本が「狂ナラずヤ」と読んでいるのに従い、疑問・反語の意で訳出した。『漢書』巻六七、朱雲伝で、成帝に直言して怒りをかった朱雲のことを辛慶忌は「此臣素著狂直於世」と言っている。これをふまえると「いにしえは狂ならば直であったが、現代でも狂ならば直なのだ」と言っているのだろうか。「古之狂也直」にかんしては『論語』泰伯篇「狂而不直、……吾不知之」、及び同、陽貨篇「古之狂也肆、今之狂也蕩、……古之愚也直、今之愚也詐」と、類した記述は見えるものの、一致はしない。いっぽうで『後漢書』列伝四七、李雲伝の論曰に「至於誅死而不顧、斯豈古之狂也」とあり、李賢注に「論語曰、『古之狂也直、今之狂也詐而已矣』」と、本伝と同じ文言が引用されている。詳細はわからないがなんらかにもとづいた言葉ではあったのだろう。『太平御覧』巻二三八、大将軍に引く「何法盛晋中興書」には「郭舒、大将軍王敦以為従事中郎。会郭(「敦」の誤り――引用者注)討劉隗、切諫、敦大怒曰、『人中間言卿痴、故炙卿眉頭。今疾復発耶。勿復語也』。舒曰、『明公聴舒一言。舒聞古之狂也直、周昌、汲黯、朱雲皆不痴也。昔堯立誹謗之木、舜懸敢諫之鼓、公為勝堯舜耶。而乃折舒、使不得言』。敦黙然也」とあり、郭舒が諫めたのは王敦の反乱のときのこととされ、本伝のここの部分に相当する文言も微妙にちがっている。。むかし、堯は誹謗の木を植え、舜は敢諫の太鼓を設置すると17君主に悪事があれば誹謗の木に記して批判し、諫めたい事柄があれば敢諫の鼓を打つ。、それからのち、法を曲げた事件はなくなりました18法を曲げた出来事があったら謗木と諫鼓で知らせるように求めたので、そうした事件がなくなった、という意味であろう。。公は〔ご自分が〕堯や舜よりも優れているとお思いでしょうか。もし〔古人とは〕反対に舒(わたし)を屈伏させ、〔諫言を〕言えないようにさせるのでしたら、古人となんとかけ離れていることでしょうか」。王敦、「〔それなら聴こう、〕卿はどういうことを言いたいのか」。郭舒、「繆坦は小人と言うべきです。〔公の〕耳目を惑わせ、他人の私有地を没収し、強力であるのを利用して弱者を侮っています。晏子はこう言いました、『君主が可と言ったものでも、〔まずいところがあれば〕臣が不可の点を進言し、そうして可を完成させる』(『左伝』昭公二十年)と。このゆえに、舒(わたくし)らは申しあげずにいられないのです」。王敦はすぐに土地を〔百姓に〕返還させたので、民衆はこぞって郭舒を勇敢だと評した。王敦は郭舒の公正誠実ぶりを重んじ、物品の下賜はますます厚くなり、しばしば郭舒の家を訪問した。〔王敦は〕梁州刺史とするよう上表した。病気で卒した。

山濤(1)山濤(2)附:山簡・山遐王戎(1)王戎(2)附:王衍附:王澄・郭舒楽広

(2022/8/12:公開)

  • 1
    『南史』巻二五、到彦之伝附到漑伝に「〔何〕敬容謂人曰、『到溉尚有余臭、遂学作貴人』。……溉祖彦之初以担糞自給、故世以為譏云」とあり、糞を運搬する労働があったと思われ、社会的に卑しい仕事とみなされていたのだろう。婢にその仕事をさせて稼がせようとしたか、またはそうした労働者を雇うのケチって婢にやらせたか、どちらかの意味であると思われる。
  • 2
    原文は「夫人」。王澄の母を指す。王澄は王衍の弟だが、同母弟なのか異母弟なのかは不明。『世説新語』規箴篇、第一〇章の劉孝標注に引く「永嘉流人名」によると王澄の母は父・王乂の第三夫人のようで、あるいは異母弟なのかもしれない。訳文はとりあえず現代日本語に合わせた表現にした。
  • 3
    原文「形似道」。『世説新語』賞誉篇、第二七章も同じ。[川勝ほか一九六四]は「恰好は(無為自然の)道を得たように見えるが」、[井波二〇一四B]は「外見はゆったりした道のようだが」と訳し、『世説新語詞典(修訂本)』はここの「道」を「僧人」と取っている。また関連して、『世説新語』徳行篇、第二三章の劉孝標注に引く「王隠晋書」に「魏末、阮籍嗜酒荒放、露頭散髪、裸袒箕踞。其後貴游子弟阮瞻、王澄、謝鯤、胡毋輔之之徒、皆祖述於籍、謂得大道之本。故去巾幘、脱衣服、露醜悪、同禽獣。甚者名之為通、次者名之為達也」とあり、王澄らの考えでは、格好・服装が「道」にかなっているというのは礼装にとらわれない格好をすることを意味していたようである。
     まず『世説新語詞典(修訂本)』の解釈は王衍伝ほかに関連する記述を見出せず、この解釈を採用するにはいささか躊躇を覚える。同様に、王隠『晋書』のような意味で王澄が「道のようだ」と言っているとは思えない。しかし既存の『世説』訳の解釈だと、後文とのつながりが不明瞭であるように思われる。
     確証はないが、ここは文脈を尊重して「形」を「見た印象、外見の雰囲気」、「似道」を「道のようにひっそりしている」で取った。玄学に傾注して世俗や政務とは距離を取っていたことをこう表現しているのかもしれない。
  • 4
    原文「神鋒太儁」。『世説新語』賞誉篇、第二七章も同じ。「神鋒」を[川勝ほか一九六四]、[井波二〇一四B]は精神の機鋒・はたらきと取り、『世説新語詞典(修訂本)』は「精神気宇」とし、『漢語大詞典』は風格の意とする。思うに、王衍伝の末尾で顧愷之(『世説新語』だと王導)は王衍の秀才ぶりを切り立つ「壁」に喩えていた。そこで、本伝の「神鋒」も「切り立っている才能」の意で解釈することにした。これが「高すぎる(太儁)」と言うのは、〈いかに潜んでいようとも、王衍の才は自然と目立ってしまう〉という含意ではなかろうか。
  • 5
    原文「誠不如卿落落穆穆然也」。「落落穆穆」を[川勝ほか一九六四]、[井波二〇一四B]、『世説新語詞典(修訂本)』は磊落で温厚な様子と解している。『漢語大詞典』は「洒脱而端荘」としているが、明らかにおかしいのでここでは考慮しない。さらに現代中国語の辞典(『中日大辞典』増訂第二版)だと「(人に対して)冷淡である」とある。たしかにネット上の中国語の辞典では「落落はひとと群れないこと、穆穆は沈黙していること。落落穆穆で他人に対して冷淡であることの形容で、才能をひけらかさないことを言う」のようなニュアンスで掲載しているものが多い。王澄が磊落な性格であったことは随所に記されているし、さまざまな人士と付き合いがあったことも記述されているが、しかし本伝はこのあと、「王澄はこの件で名を著わした(澄由是顕名)」とあり、このやり取り以前の王澄はあまり世に知られていなかったという文脈になっており、したがってこの時点では人々のあいだでひっそりふるまっていたと解釈することに不都合はない。文意上、もっともしっくりくるのが「冷淡にふるまって才能をひけらかさなかった」の意なので、これで訳出することにした。
  • 6
    本伝ではあまり明確に書かれていないが、王澄は放達の代表格と言ってもさしつかえない人士であった。『世説新語』簡傲篇、第六章の劉孝標注に引く「鄧粲晋紀」に「澄放蕩不拘、時謂之達」とあり、『世説新語』徳行篇、第二三章の劉孝標注に引く「王隠晋書」に「魏末、阮籍嗜酒荒放、露頭散髪、裸袒箕踞。其後貴游子弟阮瞻、王澄、謝鯤、胡毋輔之之徒、皆祖述於籍、謂得大道之本。故去巾幘、脱衣服、露醜悪、同禽獣。甚者名之為通、次者名之為達也」とある。
  • 7
    原文「動侠」。『資治通鑑』巻八八、永嘉六年の胡三省注に「言其心軽易動、又豪侠自喜也」とあるのに従った。
  • 8
    原文「後出軍撃杜弢」。『資治通鑑』巻八八、永嘉六年に「澄自出軍撃杜弢」とあるのに従って補った。
  • 9
    王沖にかんしては巻七〇、応詹伝に「陳人王沖擁衆荊州、素服詹名、迎為刺史。詹以沖等無頼、棄還南平、沖亦不怨」とあり、巻一〇〇、杜曾伝に「会荊州賊王沖自号荊州刺史」とある。豫州で反乱を起こしたというのも変な感じがするが、ほかに関連する情報が見当たらず、詳細は不明。
  • 10
    原文「敦欲入内」。「入内」は「中座して奥に引っ込むこと」だと思われる。巻六五、王導伝附王恬伝に「性慠誕、不拘礼法。謝万嘗造恬、既坐、少頃、恬便入内。万以為必厚待己、殊有喜色。恬久之乃沐頭散髮而出、拠胡牀於庭中曬髮、神氣慠邁、竟無賓主之礼。万悵然而帰」とあるのが用例。
  • 11
    いささか展開が理解できないところもあるが(なぜ王敦の帯を引きちぎると梁へ逃げたのだろうか)、佚書の記述を参照してもよくわからないので、本伝の記述のままに訳出した。『世説新語』方正篇、第三一章の劉孝標注に引く「晋陽秋」だと路戎らを潜ませておいて絞殺させたとし、同注に引く「裴子」では王澄は「力士」と格闘のすえに「屋上」へ逃れ、しばらく経ってから亡くなったと記しており(つまり殺されたとは書かれていない)、すべて微妙にちがっている。
  • 12
    『晋書斠注』に引く「読書記疑」は、就いた職は校尉の功曹または主簿ではないかと指摘している。確かにいきなり校尉になっているのは不自然である。また領軍校尉という官は聞いたことがなく、翊軍校尉の誤りではないだろうか。
  • 13
    『続漢書』の著者であるあの司馬彪と同一人物なのかは不明。
  • 14
    原文「領南郡」。確たる根拠はないが、訳文のように解釈してみた。
  • 15
    「一言」は原文まま。ちょっとの言葉。少しでいいから聴いておくれという意味。
  • 16
    原文「古之狂也直、周昌、汲黯、朱雲不狂也」。自信はない。「不狂也」は和刻本が「狂ナラずヤ」と読んでいるのに従い、疑問・反語の意で訳出した。『漢書』巻六七、朱雲伝で、成帝に直言して怒りをかった朱雲のことを辛慶忌は「此臣素著狂直於世」と言っている。これをふまえると「いにしえは狂ならば直であったが、現代でも狂ならば直なのだ」と言っているのだろうか。「古之狂也直」にかんしては『論語』泰伯篇「狂而不直、……吾不知之」、及び同、陽貨篇「古之狂也肆、今之狂也蕩、……古之愚也直、今之愚也詐」と、類した記述は見えるものの、一致はしない。いっぽうで『後漢書』列伝四七、李雲伝の論曰に「至於誅死而不顧、斯豈古之狂也」とあり、李賢注に「論語曰、『古之狂也直、今之狂也詐而已矣』」と、本伝と同じ文言が引用されている。詳細はわからないがなんらかにもとづいた言葉ではあったのだろう。『太平御覧』巻二三八、大将軍に引く「何法盛晋中興書」には「郭舒、大将軍王敦以為従事中郎。会郭(「敦」の誤り――引用者注)討劉隗、切諫、敦大怒曰、『人中間言卿痴、故炙卿眉頭。今疾復発耶。勿復語也』。舒曰、『明公聴舒一言。舒聞古之狂也直、周昌、汲黯、朱雲皆不痴也。昔堯立誹謗之木、舜懸敢諫之鼓、公為勝堯舜耶。而乃折舒、使不得言』。敦黙然也」とあり、郭舒が諫めたのは王敦の反乱のときのこととされ、本伝のここの部分に相当する文言も微妙にちがっている。
  • 17
    君主に悪事があれば誹謗の木に記して批判し、諫めたい事柄があれば敢諫の鼓を打つ。
  • 18
    法を曲げた出来事があったら謗木と諫鼓で知らせるように求めたので、そうした事件がなくなった、という意味であろう。
タイトルとURLをコピーしました