巻四十三 列伝第十三 山濤(2)

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山濤(1)山濤(2)附:山簡・山遐王戎(1)王戎(2)附:王衍附:王澄・郭舒楽広

 山濤がふたたび選挙の官職(吏部尚書)に就いて十余年のあいだ、官職がひとつ欠員になるたびに〔武帝に〕啓して数人を候補に挙げ、〔その候補者のなかに〕武帝が気に入る人材がいたならば、そのあとでようやく公的に上奏し、〔人材個人の優劣よりも〕武帝の希望に従うのを優先していた1山濤は候補者を数人みつくろうと、まず私的に武帝に知らせ(「啓」)、意向に合う人物を選ばせた。その武帝の返答を得てから、その人物を欠官に任用するよう公的に上奏した(「顕奏」)、という話であろう。中村圭爾氏[二〇一五]は山濤の「啓」を「私的な意思伝達」としているが(二二六頁)、渡邉義浩氏[二〇〇九]は「啓」が公開されていたと解釈している。『芸文類聚』巻四八、吏部尚書に引く「王隠晋書」に「濤用人、皆先密啓、然後公奏」とあり(『北堂書鈔』巻六〇、吏部尚書「用人密啓後奏」引「王隠晋書」、略同)、「啓」は「密」で「奏」は「公」であったと記されているし、文脈から考えても、中村氏の理解が妥当である。。そのため、武帝が登用した人物は、もっとも優秀な評価を得ている者ではないことがあったが2原文「故帝之所用、或非挙首」。「挙首」は「首位で採用される者」(『漢辞海』)のことで、すなわち最優秀な成績を修めた者、最優秀な評価を得ている者をいう。似た語に「称首」(「第一にとなえる。真っ先に名を挙げられる者の意で、仲間の中で傑出した者をいう」、『漢辞海』)があり、『晋書』だと王戎伝附王衍伝や楽広伝に用例がある。、人々は〔武帝と山濤とで事前にやり取りがあったことに〕気づかず、山濤の人材評価は恣意的だと思っていた3あるポストが空いたさい、衆目一致で後任の最右翼と目されていた人物がいたのに、山濤はなぜかその者ではなく、別人を後任とするよう上奏し、しかもその案が武帝に裁可されていた。人々は、山濤の人物評価は不公平で恣意的なのではないかと疑ったが、じつは山濤が薦めた人物は、武帝との事前の打ち合わせで武帝の意を得ていた人材であった。いわば出来レースだったわけだが、人々はまさかそのようなウラがあるとは思いもしなかった、という話であろう。。或るひとが武帝に対し、山濤のことをそしったので、武帝は手詔を下して山濤を戒めて言った、「そもそも、人材登用は才能のみを考慮するものだ。関係が疎遠な者や身分が低い者も漏れなく用いれば、天下はたちまちに教化されるであろう」。しかし山濤は動じずに選挙業務をつづけたところ、一年経ってようやく人心は落ち着いた4「山濤は名門の人間ばかり用いている」という批判だったので武帝はこう戒めた、ということなのであろう。とすれば、直前の人事業務にかんする逸話とはあまり関連がないのではないか。というか、武帝にとっても他人事ではないはずだが。。山濤が奏上した文章は、人物を登用するにあたって、個々人に才能を評する言葉を付しており、世の人々は〔評語がある彼の上奏文を〕「山公啓事」と呼んで褒め称えた5「山公啓事」は「山公が啓した事柄」「山公が申しあげたこと」とかいう意。『世説新語』政治篇、第七章に「山司徒前後選、殆周遍百官、挙無失才、凡所題目、皆如其言」とあるように、世の人々が称賛したのは、山濤がひとの才能をよく見抜き、それを的確に表現したことに対してであると思われる。ところで本文に従うと、山濤在任中から「山公啓事」という言い方が定着していたかのようであるが、不自然に感じる点がいくつかある。まず原文では「濤所奏、……時称山公啓事」とあり、山濤の「奏」が「山公啓事」と呼ばれたことになっている。ここでの「啓」と「奏」の文字の使い分けはあまり気にする必要がないのだろうか。また前の注で述べたように、山濤の「啓」は私的なもので、山濤在任中から公開されていたとは思えない。『世説新語』での逸話もふまえると、同時代から山濤の上奏での評語が称賛されていたのは確かであろうが、それが格別に「山公啓事」と同時代から呼ばれていたとはかぎらないのではないだろうか、つまり山濤の「啓」を「山公啓事」と呼ぶようになったのは「啓」が広く公開されるようになってからのことではなかろうか。そのような疑念が残るものの、訳文は原文に従って訳出した。
 なお『隋書』巻三五、経籍志四、集部、総集に『山公啓事』三巻が著録されている。『芸文類聚』や『太平御覧』では『山濤啓事』とも称されている。『隋書』経籍志四、集部の別集には『晋少傅山濤集』九巻が記録されているから、おそらく『山濤集』のなかから人物評語にかかわる「啓」を選抜してまとめたものが書物としての『山公啓事』なのであろう。『太平御覧』などに佚文が残り、厳可均『全晋文』巻三四などに輯本がある。

 山濤は朝廷で中立の立場にあったが、晩年は楊皇后の党派が専権する事態に直面した。楊氏を登用したくなかったので、〔武帝を〕遠回しに諫めることが多かったが、武帝は問題に気づきはしたものの、改めることはできなかった。のち、高齢と病気が重いことを理由に、上疏して引退を申し出た、「臣は八十歳が目前に迫り、朝夕に命をつなぎとめているありさまです。もしいささかでも貢献できることがあるのでしたら、御世において余力を残したりするものでしょうか。年波が寄り、もはや仕事に堪えません。いま、四海は安息し、天下の人々は教化を思慕し、清静を統治の方針に採っておりますため、民はおのずと正しくあります6原文「従而静之、百姓自正」。『老子』第五七章に「我好静而民自正」とある。。〔このように治まっているのですから、ほかの仕事は〕わずかに風教を重んじることに努めるのみでして、陛下もほかに必要な仕事はございません。臣は耳目が耄碌し、向上心を保てません。君臣や父子の関係にうわべの言葉は必要なく、ゆえに率直に愚心を申しあげるしだいです。お願いいたすところをどうかお許しいただければと存じます」。そして冠を脱ぎ、はだしになり7原文「免冠徒跣」。うといのでこうした所作の意味するところはよくわからないが、謝罪の意志を示すときに行なわれる動作。この場合は「これまでお目こぼしにより罪を猶予していただきましたが、職務に堪えず、汚してしまっていたので、甘んじて罰をお受けします」という意味だと思われる。、印綬を奉還した。詔が下った、「天下の政務は膨大なうえ、呉が平定されたばかりで、あらゆる制度が構築されているところだから、いっしょに心を尽くして民を感化させねばならない。君は往年の心構えを忘れてしまい、ささいな病気を理由に引退を求めているが、それが君に望んでいるふるまいであろうか。朕はいまなお戦々兢々として不安をぬぐえず、いまだに手をこまねくだけの政治はできずにいる。君も隠棲に憧れて倣うことができようか8原文「君亦何得高尚其事乎」。『易』蠱卦、上九の爻辞に「不事王侯、高尚其事」とあるのにもとづく。出仕しないことを高潔とみなし、憧れること。。至公を尊重するようにせよ。煩わしいうわべの言葉を繰り返さないように」。
 山濤はしきりに上表して引退を求めたが、〔武帝は〕またも詔を下し、承認しなかった。尚書令の衛瓘が上奏した、「山濤はささいな病苦を理由に、長いあいだ職務を執っていません。手詔が頻繁に下されているというのに、いまなお聖旨に従っていません。議に加わりまして意見を具申させていただきますが、〔山濤は〕不変の節操という高尚がそなわっておらず、公務に努めるという義にそむいています。もし本当に重病であるならば、やはり位にいるべきではありません。山濤の官を免ずるのがよいと考えます」。衛瓘に中詔9〔尚書などを経由せずに〕宮中から直接発出された皇帝直筆の詔。(宮中直接発出的帝王親筆詔令。)(『漢語大詞典』)を下した、「山濤は徳によって朝廷の名士となったが、いつもひどく謙遜しており、いたって誠実でごまかしがない。だからこそ、このごろ詔を下し、必ずや引退の志を変えさせ、不徳の者(武帝自身のこと)を補佐させようと考えているのだ。主者(衛瓘のこと?)は詔の主旨を理解していないばかりか、かえって譴責する文書10原文「詆案」。『漢語大詞典』は「指弾・弾劾する(指責・挙劾)」とするが、前の句との関係もふまえ、「案」を「文書」の意で取った。を加えており、賢者を尊重する風流を損ない、わが不徳を積み重ねてしまっている。遠近の人々に示しがつくだろうか」。山濤はやむをえず、ふたたび出勤して政務を執った。
 太康のはじめ、尚書右僕射に移り、光禄大夫を加えられ、侍中と選挙担当はもとのとおりとされた。山濤は高齢と病気を理由に固辞したが、手詔が下って曰く、「君は道徳によって世の模範となっているうえ、先帝以下、誰もが君の高遠な思慮に一目置いている11原文「況自先帝識君遠意」。よくわからない。武帝は太子の時代から山濤と交流があったので、「先帝の時代以来、私は君の高遠な思慮をよくわかっている」という意味でも取れるが、ここでは山濤の優秀さを世の誰もが慕っていることを述べたいはずだと思われたので、訳文のように取った。。私は君を頼りにして風俗を厚くしようと考えていたのに、どうして朝政を放り棄てて遠ざけ、ひたすら隠棲の志を尊ぶばかりでいようとするのだろうか。わが思いの限りを尽くしても、なおも説得するのに不十分なのだろうか。〔これほどに真心を込めて説諭しているのに、君は〕どうして痛切が窮まっている言葉を言って来るのだろうか12原文「何来言至懇切也」。「来言」は向こうから寄せられた言葉のこと。「言至懇切」は言葉がきわめて誠実であるさま。。時機を逸さずに〔職場に戻って職務に〕励み努め、わが切実な希望におおいにかなうようにせよ。君が志を撤回してくれなければ、朕は落ち着いて眠ることもできない」。山濤はさらに上表して固辞したものの、〔武帝は〕承認しなかった。
 呉が平定されたのち、武帝は天下に詔を下し、軍役(戦時の労役)を停止し、海内に平和を示し、すべての州郡から兵士を廃し、大郡には武吏百人、小郡には五十人を置くこととした。武帝が宣武場で軍事訓練を実施したとき、山濤はちょうど病気を患っていたが、詔を下し、歩輦13高位の人をのせ、持ち上げたりかついだりして運ぶみこし。(『漢辞海』)に乗せて随従させた。そして〔山濤は〕盧欽と用兵の本質について議論し、州郡から軍備を取り去るべきではなかったと主張し、その論はひじょうに精密であった。そのときに話を聞いていた面々はこう思った。山濤は『孫子』や『呉子』を学んでいないのに、図らずも〔山濤の意見は〕それらの兵法と合致している、と。武帝は山濤の論を「天下の名言である」と称えたが、採用できなかった。〔恵帝の〕永寧年間以後になると、何度も事変が起き、寇賊が大量に沸き起こったが、どの郡国にも軍備がなかったために制圧できず、天下はとうとう大混乱に陥ってしまい、山濤の言ったとおりになったのである14『晋書斠注』が指摘するように、盧欽は咸寧四年に卒しており(武帝紀盧欽伝)、孫呉平定後に山濤と議論するのは不可能である。
 のちに司徒に任じられたが、山濤はまたも固辞した。詔に言う、「君は老年の有徳者で、朝廷の長老であるから、君に台輔(三公のこと)の位を授けたのである。しかし、深遠にも謙遜を尊び、何度も繰り返しているゆえ、まことに煩悶を覚える。君よ、朝政に生涯参与し、朕を助けよ」。山濤も上表して言った、「臣は天朝に仕えて三十余年になりますが、ついにほんのわずかも教化を盛んにすることができませんでした。陛下は臣をひいきにして止むことがなく、むやみに三公を授けておられます。臣が聞くところでは、徳が薄いのに位が高かったり、能力が低いのに職務が重要だったりすれば、上は鼎の足を折るような凶事が起き15原文「上有折足之凶」。「折足」は「鼎の足を折る。帝王・大臣などの能力が重任に堪えず、国家を滅ぼすことのたとえ」(『漢辞海』)。、下は廟門の災難が生ずるでしょう16原文「下有廟門之咎」。「廟門之咎」が何を指すのかはわからない。前漢時代に廟門での反逆未遂事件が起きているが(『漢書』巻八八、儒林伝、梁丘賀伝)、これを指すか。。陛下に願わくは、累代の恩をお恵みになり、臣に骸骨を与えていただきますよう」。詔に言う、「君は朝政を輔翼し、皇室を安定させ、補佐の勲功があり、朕が頼りとしている存在である。司徒の官職は、まことに国家の教化をつかさどる職であり、ゆえに敬って〔君に〕授け、人々の希望に応えようとしたのである。謙遜してみずからへりくだるのは適切なふるまいであろうか」。すぐに勅を下し、〔山濤からの〕上奏文を遮断させ、使者をつかわし、病床にて印綬を授けた。山濤は「お迎えの近い人間が官庁を汚してよいものか」と言うと、病気をおして車に乗り、私宅に帰ってしまった。太康四年に薨じた。享年七十九。詔を下し、東園秘器、朝服一具、衣一襲、銭五十万、布百匹を下賜して葬儀に提供した。策書を授け、司徒の蜜印紫綬、侍中の貂蝉の冠、新沓伯の蜜印青朱綬を追贈し、太牢の犠牲で祀り、康の諡号をおくった。埋葬直前、銭四十万、布百匹を下賜した。〔司徒府の〕左長史の范晷らが上言した、「山濤が長年愛用してきた私宅は十間ほどで、子孫が入りきりません」。武帝は子孫のために邸宅を建ててやった。
 むかし、山濤が庶民の身分で貧乏だったとき、妻の韓氏に言った、「ひもじいだろうが、こらえておくれ。将来、絶対に三公になるからさ。といっても、君が公の夫人という重い身分をこらえられるかは知らんけどね17原文「忍饑寒、我後当作三公、但不知卿堪公夫人不耳」。目加田誠氏[二〇〇三]は「貧乏をがまんしてくれ。しかし心配なのは、私は後にきっと三公の位にのぼるだろうが、あなたがその夫人にふさわしいかどうかだ」と訳しており(八五頁)、直訳するとたしかにそういう言葉なのだが、それにしてもひどすぎるので、そのような解釈が本当に適切なのか疑問を覚えてしまう。『世説新語』賢媛篇、第一一章、劉孝標注に引く「王隠晋書」には「韓氏有才識、濤未仕時、戯之曰、『忍寒、我当作三公、不知卿堪為夫人不耳』」とあり、山濤は「戯」れてこの発言をしたと記されている、そこで訳者はこの言葉をジョークと解することにした。「忍」はつらいことに耐えること、「堪」は重いものに耐えることをいう。この二つの語をかけて、妻が貧乏を我慢(「忍」)できるのは知っているけど、高貴な身分は我慢(「堪」)できないんじゃないかなぁ~、と。三公になってみせるとの発言もまったく現実味がなく、ただの軽口であろう。ようするにこれは、山濤は貧乏を悲嘆していたわけでもなければ、強い出世欲を持って貧乏からの脱出をめざしていたわけでもなく、軽いジョークを飛ばして貧乏生活を楽しんでいた、と彼の人柄を示す説話なのだろう。」。〔のちに〕高官に昇っても、貞節で慎み深く、倹約を守り、爵は千乗の大国に等しかったにもかかわらず、側室はいなかった。下賜品や俸禄は親族や旧友に恵んでいた。
 以前、陳郡の袁毅が鬲令であったとき、汚職をむさぼり、公卿に賄賂を贈り、そうして実態のない名声を得ようとしていた。山濤にも絹糸百斤を贈ったが、山濤は〔自分だけが〕世の人々とちがうことをしたくなかったため18原文「濤不欲異於時」。『太平御覧』巻八一四、糸に引く「竹林七賢論」には「鬲令袁毅、為政貪濁、賂遺朝廷、以営虚誉、遺山濤糸百斤。衆人莫不受、濤不欲為異、乃受之、命内閤之梁上而不用也」とあり、〈みなが受け取っているなかで自分だけちがうこと(=受け取らないこと)をしたくなかったから受け取った〉と記されている(なお『太平御覧』巻四九二、貪に引く「竹林質権論」は「濤不欲異衆、受之」に作っている)。本文もこれに従って訳出することにした。、受け取って棚の上に置いておいた。のちに袁毅の贈賄の件が露見し、〔袁毅は〕檻車で廷尉に送られ、賄賂を受け取った人物は全員取り調べを受けた。山濤はそのときにやっと絹糸を持ち出して吏に提出したが、数年間放置されていたのでほこりが積もっており、封印は切られていなかった19この事件の顚末にかんして、巻四四、華表伝附華廙伝に「初、〔華〕表有賜客在鬲、使廙因県令袁毅録名、三客各代以奴。及毅以貨賕致罪、獄辞迷謬、不復顕以奴代客、直言送三奴与廙、而毅亦盧氏壻也。又中書監荀勖先為中子求廙女、廙不許、為恨、因密啓帝、以袁毅貨賕者多、不可尽罪、宜責最所親者一人、因指廙当之」とあり、〈袁毅の贈賄を受け取った人間が多すぎるので袁毅と親しかった人間ひとり(華廙のこと)の責任を問うのがよい〉と荀勖は勧めたという。現に巻三三、何曾伝附何劭伝に「咸寧初、有司奏劭及兄遵等受故鬲令袁毅貨、雖経赦宥、宜皆禁止。事下廷尉。詔曰、『太保與毅有累世之交、遵等所取差薄、一皆置之』」とあり、何劭兄弟は「経赦宥」すなわち不問とされていたらしい。たほう、巻九三、外戚伝、王恂伝には「鬲令袁毅嘗餽以駿馬、恂不受。及毅敗、受貨者皆被廃黜焉」とあり、収賄した者はすべて免官処分を受けたかのごとくである。どちらが事実として妥当なのかよくわからないが、おそらく山濤にかんしてはやはり不問にされたのではないかと思う。
 山濤は八斗の酒20計算間違いでなければ、八斗は現代のリットルに換算すると一六リットルに当たり、おおむね一升瓶十本分=一斗樽一樽に相当する。を飲んでようやく酔うほどの強さであった。武帝がこのことを確かめてみようと思い、八斗の酒を山濤に飲ませてみたが、〔じつは〕こっそりとその酒を増量させていた。すると、山濤は本来の量(八斗)に達したところで飲むのをやめた。
 山該、山淳、山允、山謨、山簡の五人の子がいた。
 山該は字を伯倫という。父の爵を継ぎ、出仕して并州刺史、太子左衛率まで出世し、長水校尉を追贈された。山該の子の山瑋は字を彦祖といい、翊軍校尉になった。次子の世回は吏部郎、散騎常侍になった。山淳は字を子玄といい、出仕しなかった。山允は字を叔真といい、奉車都尉になった。この二人は幼少時からクル病21原文「尩病」。井波律子氏[二〇一四A]は山允らを「くる病のため短身だった」と述べている(二〇四頁)。「尩」には「胸、脛、背などの骨が湾曲する症状を指す。またはそのような病気のひとを指す(指胸・脛・背等処骨骼的湾曲症。亦指有這種残疾的人)」(『漢語大詞典』)という意味があり、身体が短小であったという後文もふまえると、井波氏の解釈どおり、くる病のことを言っていると考えるべきだろう。で、身体はとても小さかったが、聡明さは常人をしのいでいた。武帝はそれを聞いて会いたがったので、山濤は断りきれず、山允に意向をたずねてみた。山允は自分がクル病であるのを理由に挙げ、行きたがらなかった。山濤は〔山允が〕自分よりも優秀だと思い22原文「濤以為勝己」。よくわからない。「勝己」の用例を調べても基本的に「自分より優秀な者」という意味しかなさそうである。隠棲志向をまっとうできず、今回の武帝の要請すらも断りきれなかった山濤に対し、山允はこういう場面でも謙遜して応じず、隠棲を保とうとしたので、そうしたさまを「自分よりも優れている」と思ったのだろうか。後掲の上表に「絶人事(世間との関わりを絶つ)」という隠棲の常套表現が使われているのも考慮すると、やはり山允の隠者ぶりに感心したのかもしれない。
 いっぽう、『世説新語』方正篇、第一五章には「山公大児著短恰、車中倚。武帝欲見之、山公不敢辞、問児、児不肯行。時論乃云勝山公」と、類似した説話が載っている。ここの「大児」は一般的に言えば長子を指すはずだし、現に劉孝標は「晋諸公賛」を引いて山該の事跡を注記している。すなわち『世説新語』では山允の逸話ではなく、長子・山該の逸話となっている。そして『世説新語』では、周囲の人々が「大児」のことを「山公よりも優れている」と評したことになっている。
、そこで〔山允の希望を汲んで〕上表した、「臣の二人の息子はクル病で、世間との関わりを絶つのが適当ですから、詔をお受けするわけにはまいりません」。山謨は字を季長といい、賢明で才知があり、司空掾まで出世した。

山濤(1)山濤(2)附:山簡・山遐王戎(1)王戎(2)附:王衍附:王澄・郭舒楽広

(2022/8/12:公開)

  • 1
    山濤は候補者を数人みつくろうと、まず私的に武帝に知らせ(「啓」)、意向に合う人物を選ばせた。その武帝の返答を得てから、その人物を欠官に任用するよう公的に上奏した(「顕奏」)、という話であろう。中村圭爾氏[二〇一五]は山濤の「啓」を「私的な意思伝達」としているが(二二六頁)、渡邉義浩氏[二〇〇九]は「啓」が公開されていたと解釈している。『芸文類聚』巻四八、吏部尚書に引く「王隠晋書」に「濤用人、皆先密啓、然後公奏」とあり(『北堂書鈔』巻六〇、吏部尚書「用人密啓後奏」引「王隠晋書」、略同)、「啓」は「密」で「奏」は「公」であったと記されているし、文脈から考えても、中村氏の理解が妥当である。
  • 2
    原文「故帝之所用、或非挙首」。「挙首」は「首位で採用される者」(『漢辞海』)のことで、すなわち最優秀な成績を修めた者、最優秀な評価を得ている者をいう。似た語に「称首」(「第一にとなえる。真っ先に名を挙げられる者の意で、仲間の中で傑出した者をいう」、『漢辞海』)があり、『晋書』だと王戎伝附王衍伝や楽広伝に用例がある。
  • 3
    あるポストが空いたさい、衆目一致で後任の最右翼と目されていた人物がいたのに、山濤はなぜかその者ではなく、別人を後任とするよう上奏し、しかもその案が武帝に裁可されていた。人々は、山濤の人物評価は不公平で恣意的なのではないかと疑ったが、じつは山濤が薦めた人物は、武帝との事前の打ち合わせで武帝の意を得ていた人材であった。いわば出来レースだったわけだが、人々はまさかそのようなウラがあるとは思いもしなかった、という話であろう。
  • 4
    「山濤は名門の人間ばかり用いている」という批判だったので武帝はこう戒めた、ということなのであろう。とすれば、直前の人事業務にかんする逸話とはあまり関連がないのではないか。というか、武帝にとっても他人事ではないはずだが。
  • 5
    「山公啓事」は「山公が啓した事柄」「山公が申しあげたこと」とかいう意。『世説新語』政治篇、第七章に「山司徒前後選、殆周遍百官、挙無失才、凡所題目、皆如其言」とあるように、世の人々が称賛したのは、山濤がひとの才能をよく見抜き、それを的確に表現したことに対してであると思われる。ところで本文に従うと、山濤在任中から「山公啓事」という言い方が定着していたかのようであるが、不自然に感じる点がいくつかある。まず原文では「濤所奏、……時称山公啓事」とあり、山濤の「奏」が「山公啓事」と呼ばれたことになっている。ここでの「啓」と「奏」の文字の使い分けはあまり気にする必要がないのだろうか。また前の注で述べたように、山濤の「啓」は私的なもので、山濤在任中から公開されていたとは思えない。『世説新語』での逸話もふまえると、同時代から山濤の上奏での評語が称賛されていたのは確かであろうが、それが格別に「山公啓事」と同時代から呼ばれていたとはかぎらないのではないだろうか、つまり山濤の「啓」を「山公啓事」と呼ぶようになったのは「啓」が広く公開されるようになってからのことではなかろうか。そのような疑念が残るものの、訳文は原文に従って訳出した。
     なお『隋書』巻三五、経籍志四、集部、総集に『山公啓事』三巻が著録されている。『芸文類聚』や『太平御覧』では『山濤啓事』とも称されている。『隋書』経籍志四、集部の別集には『晋少傅山濤集』九巻が記録されているから、おそらく『山濤集』のなかから人物評語にかかわる「啓」を選抜してまとめたものが書物としての『山公啓事』なのであろう。『太平御覧』などに佚文が残り、厳可均『全晋文』巻三四などに輯本がある。
  • 6
    原文「従而静之、百姓自正」。『老子』第五七章に「我好静而民自正」とある。
  • 7
    原文「免冠徒跣」。うといのでこうした所作の意味するところはよくわからないが、謝罪の意志を示すときに行なわれる動作。この場合は「これまでお目こぼしにより罪を猶予していただきましたが、職務に堪えず、汚してしまっていたので、甘んじて罰をお受けします」という意味だと思われる。
  • 8
    原文「君亦何得高尚其事乎」。『易』蠱卦、上九の爻辞に「不事王侯、高尚其事」とあるのにもとづく。出仕しないことを高潔とみなし、憧れること。
  • 9
    〔尚書などを経由せずに〕宮中から直接発出された皇帝直筆の詔。(宮中直接発出的帝王親筆詔令。)(『漢語大詞典』)
  • 10
    原文「詆案」。『漢語大詞典』は「指弾・弾劾する(指責・挙劾)」とするが、前の句との関係もふまえ、「案」を「文書」の意で取った。
  • 11
    原文「況自先帝識君遠意」。よくわからない。武帝は太子の時代から山濤と交流があったので、「先帝の時代以来、私は君の高遠な思慮をよくわかっている」という意味でも取れるが、ここでは山濤の優秀さを世の誰もが慕っていることを述べたいはずだと思われたので、訳文のように取った。
  • 12
    原文「何来言至懇切也」。「来言」は向こうから寄せられた言葉のこと。「言至懇切」は言葉がきわめて誠実であるさま。
  • 13
    高位の人をのせ、持ち上げたりかついだりして運ぶみこし。(『漢辞海』)
  • 14
    『晋書斠注』が指摘するように、盧欽は咸寧四年に卒しており(武帝紀盧欽伝)、孫呉平定後に山濤と議論するのは不可能である。
  • 15
    原文「上有折足之凶」。「折足」は「鼎の足を折る。帝王・大臣などの能力が重任に堪えず、国家を滅ぼすことのたとえ」(『漢辞海』)。
  • 16
    原文「下有廟門之咎」。「廟門之咎」が何を指すのかはわからない。前漢時代に廟門での反逆未遂事件が起きているが(『漢書』巻八八、儒林伝、梁丘賀伝)、これを指すか。
  • 17
    原文「忍饑寒、我後当作三公、但不知卿堪公夫人不耳」。目加田誠氏[二〇〇三]は「貧乏をがまんしてくれ。しかし心配なのは、私は後にきっと三公の位にのぼるだろうが、あなたがその夫人にふさわしいかどうかだ」と訳しており(八五頁)、直訳するとたしかにそういう言葉なのだが、それにしてもひどすぎるので、そのような解釈が本当に適切なのか疑問を覚えてしまう。『世説新語』賢媛篇、第一一章、劉孝標注に引く「王隠晋書」には「韓氏有才識、濤未仕時、戯之曰、『忍寒、我当作三公、不知卿堪為夫人不耳』」とあり、山濤は「戯」れてこの発言をしたと記されている、そこで訳者はこの言葉をジョークと解することにした。「忍」はつらいことに耐えること、「堪」は重いものに耐えることをいう。この二つの語をかけて、妻が貧乏を我慢(「忍」)できるのは知っているけど、高貴な身分は我慢(「堪」)できないんじゃないかなぁ~、と。三公になってみせるとの発言もまったく現実味がなく、ただの軽口であろう。ようするにこれは、山濤は貧乏を悲嘆していたわけでもなければ、強い出世欲を持って貧乏からの脱出をめざしていたわけでもなく、軽いジョークを飛ばして貧乏生活を楽しんでいた、と彼の人柄を示す説話なのだろう。
  • 18
    原文「濤不欲異於時」。『太平御覧』巻八一四、糸に引く「竹林七賢論」には「鬲令袁毅、為政貪濁、賂遺朝廷、以営虚誉、遺山濤糸百斤。衆人莫不受、濤不欲為異、乃受之、命内閤之梁上而不用也」とあり、〈みなが受け取っているなかで自分だけちがうこと(=受け取らないこと)をしたくなかったから受け取った〉と記されている(なお『太平御覧』巻四九二、貪に引く「竹林質権論」は「濤不欲異衆、受之」に作っている)。本文もこれに従って訳出することにした。
  • 19
    この事件の顚末にかんして、巻四四、華表伝附華廙伝に「初、〔華〕表有賜客在鬲、使廙因県令袁毅録名、三客各代以奴。及毅以貨賕致罪、獄辞迷謬、不復顕以奴代客、直言送三奴与廙、而毅亦盧氏壻也。又中書監荀勖先為中子求廙女、廙不許、為恨、因密啓帝、以袁毅貨賕者多、不可尽罪、宜責最所親者一人、因指廙当之」とあり、〈袁毅の贈賄を受け取った人間が多すぎるので袁毅と親しかった人間ひとり(華廙のこと)の責任を問うのがよい〉と荀勖は勧めたという。現に巻三三、何曾伝附何劭伝に「咸寧初、有司奏劭及兄遵等受故鬲令袁毅貨、雖経赦宥、宜皆禁止。事下廷尉。詔曰、『太保與毅有累世之交、遵等所取差薄、一皆置之』」とあり、何劭兄弟は「経赦宥」すなわち不問とされていたらしい。たほう、巻九三、外戚伝、王恂伝には「鬲令袁毅嘗餽以駿馬、恂不受。及毅敗、受貨者皆被廃黜焉」とあり、収賄した者はすべて免官処分を受けたかのごとくである。どちらが事実として妥当なのかよくわからないが、おそらく山濤にかんしてはやはり不問にされたのではないかと思う。
  • 20
    計算間違いでなければ、八斗は現代のリットルに換算すると一六リットルに当たり、おおむね一升瓶十本分=一斗樽一樽に相当する。
  • 21
    原文「尩病」。井波律子氏[二〇一四A]は山允らを「くる病のため短身だった」と述べている(二〇四頁)。「尩」には「胸、脛、背などの骨が湾曲する症状を指す。またはそのような病気のひとを指す(指胸・脛・背等処骨骼的湾曲症。亦指有這種残疾的人)」(『漢語大詞典』)という意味があり、身体が短小であったという後文もふまえると、井波氏の解釈どおり、くる病のことを言っていると考えるべきだろう。
  • 22
    原文「濤以為勝己」。よくわからない。「勝己」の用例を調べても基本的に「自分より優秀な者」という意味しかなさそうである。隠棲志向をまっとうできず、今回の武帝の要請すらも断りきれなかった山濤に対し、山允はこういう場面でも謙遜して応じず、隠棲を保とうとしたので、そうしたさまを「自分よりも優れている」と思ったのだろうか。後掲の上表に「絶人事(世間との関わりを絶つ)」という隠棲の常套表現が使われているのも考慮すると、やはり山允の隠者ぶりに感心したのかもしれない。
     いっぽう、『世説新語』方正篇、第一五章には「山公大児著短恰、車中倚。武帝欲見之、山公不敢辞、問児、児不肯行。時論乃云勝山公」と、類似した説話が載っている。ここの「大児」は一般的に言えば長子を指すはずだし、現に劉孝標は「晋諸公賛」を引いて山該の事跡を注記している。すなわち『世説新語』では山允の逸話ではなく、長子・山該の逸話となっている。そして『世説新語』では、周囲の人々が「大児」のことを「山公よりも優れている」と評したことになっている。
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