巻四十三 列伝第十三 王戎(3)

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山濤(1)山濤(2)附:山簡・山遐王戎(1)王戎(2)附:王衍附:王澄・郭舒楽広

〔王衍:王戎の従弟〕

 王衍は字を夷甫という。顔つきは端正で1原文「神情明秀」。「神情」は表情とも精神とも取れるが、ここでは容貌の良さを言っているものと解釈した。、たたずまいは落ち着いていて気品があった。児童のころ、山濤のもとを訪れたことがあったが、山濤はしばらくのあいだ感嘆し、〔王衍が〕帰路に就くと、彼を見送りながら言った、「どういう老婦人がこのような子供を産んだのだろうか2容姿なり才覚なりがあまりにずば抜けているので「この子は本当に自分と同じ人間なのか!?」と驚嘆してしまうような感じだろうか。。しかし、天下の民草に損害をもたらすのはきっとかの者であろう」。父の王乂は平北将軍だったが、あるとき、公務の件で〔朝廷に〕使者をつかわし、奏上したものの3『世説新語』識鑑篇、第六章の劉孝標注に引く「晋陽秋」に「夷甫父乂、有簡書、将免官」とあり、ひとの免官を要請したらしい。、〔朝廷から〕期限内に返答がなかった。当時、王衍は十四歳で、京師に滞在していたため、尚書僕射の羊祜のもとを訪問し、〔王乂が奏上した公務の〕事のしだいを陳述したが、その言葉はひじょうに明晰であった。羊祜は名声と徳がとても高かったが、王衍は若年なのにへりくだる様子をみせず、人々はみな、彼を異才と評した。楊駿が娘を嫁がせようとしたが、王衍はそれを恥と思い、ついにはわざと発狂したふりをして、逃れることができた。武帝は王衍の名声を知ると、王戎に訊ねた、「夷甫は当世の誰に肩を並べるだろうか」。王戎、「〔当世で〕比肩しうる人物は見たことがありません。古人のなかから探し求めるべきでしょう」。
 泰始八年、詔を〔群臣に〕下し、辺境を安静にできる秀才を推挙させた。王衍は従来から縦横の術(外交戦略)についてよく論じていたので、列曹尚書の盧欽は遼東太守に推挙した。〔王衍はそれに〕就任しなかった。こうして、時事について論じなくなり、もっぱら玄虚(玄学的なこと、抽象的なこと)について論じるようになった。ある宴会のとき、〔王衍は同席していた〕族人から怒られ、樏4中に仕切りのある平鉢。(『漢辞海』)で顔を殴られた5『世説新語』雅量篇、第八章によれば、王衍はこの親族に頼みごとをしていたが、いつまで経ってもやってくれず、この宴会のときに催促してみたところ、逆ギレされたのだという。。王衍はずっと何も言わず、王導に引率されて車に同乗し、帰った。しかしながら不満を抑えられず、車中で鏡を手にしてみずから顔を映し、王導に言った、「見てみろよ。オレの眼光、牛の背中の上にあるぜ」6王衍の発言の原文は「爾看吾目光乃在牛背上矣」。『世説新語』雅量篇、第八章もおおむね同じ。「牛の背中云々」について、[川勝一九六四ほか]は未詳として「わたしの眼は乱れていないだろうの意か」とし、[井波二〇一四A]は「牛車のなかで鏡に顔を映したうえで、王導に語りかけ、自分の目つきを確認した」と解釈して「まっすぐ牛の背中を見ているだろう」と訳出している。思うに、牛とは腫れのことではないだろうか。牛(腫れ)の背中の上に眼光がある、すなわち目の下が腫れているということである。鏡で顔の傷を確認し、「見ろよ、目の下がえらく腫れてるぜ」と話しかけたのだろう。このようなシチュエーションならば自然なやり取りである。少なくとも上掲の既存の解釈は不自然である。。父(王乂)が北平で卒し7『世説新語』徳行篇、第二六章の劉孝標注に引く「王乂別伝」に「出督幽州諸軍事、平北将軍」とあり、『世説新語』本文では「王平北」と呼ばれていることからすると、おそらくこれが極官なのであろう。督幽州諸軍事として北平に出鎮し、当地で没したのではないだろうか。、送故〔の金品〕はとても手厚かったが8原文「送故甚厚」。高敏氏[二〇〇〇]が言うように、送故の贈品がたいへん手厚いという意味であろう(二〇頁)。前の注で述べたように、王乂は北平で在任中に没したと考えられる。在官中に死没した場合でも送故がおこなわれている例はほかに見えず、貴重な事例と言える。、〔王衍はそれらの金品を〕親しい友人たちに借用させてゆき、そのまま貸与した金品の返済を求めず、恵んでしまった9原文「為親識之所借貸、因以捨之」。自信はない。。数年のうちに家の財産はすっかり尽き果て、〔王衍は従来までの居宅から〕出て洛陽城西方の田園地帯に行き、住まいを構えた。のちに太子舎人となり、尚書郎に移り、地方に出て元城令に任じられた。終日、清談に明け暮れていたが、県令の政務もきちんと処理していた。中央に入って太子中庶子、黄門侍郎となった。
 魏の正始年間、何晏や王弼らが老荘の言説を祖述し、このような論を立てた10以下の論を何晏の「無為論」という著述からの引用だとみなす論者がしばしばある(たとえば厳可均『全三国文』巻三九)。専門外なのでその根拠はよくわからない。しいて推測すれば、『資治通鑑』巻八二、元康七年に「初、何晏等祖述老荘、立論以為、……」とあって王弼が省かれて「何晏等」に作られていることと、以下の文が中華書局の底本だと「天下万物以無為為本」に作られていることに拠っているのかもしれない。しかし後者にかんしては、中華書局の校勘記が記すように「為」は一字衍字である可能性が高く(そのため中華書局テキストだと「天下万物皆以無為本」に改められている)、内容的にも無為の論述とは言いがたいし、前者はとくに根拠となるほどのことでもない。近年ではどのように扱われているのかよくわからないが、たとえば徐国栄『魏晋玄学会要』(江蘇人民出版社、二〇一四年)という資料集の何晏の項目だと、『列子』張湛注に引く「道論」「無名論」は掲載されているが、本伝の以下の論は引かれていない。伊藤涼「何晏の政治観――玄学萌芽を考えるために」(『国学院雑誌』第一一八巻第九号、二〇一七年)という近年の専論でも「道論」と「無名論」は何晏の著作として引かれているが、本伝の記述は何晏の思想内容を伝えるものとして注釈で取り上げるにとどめており、やはり何晏の著述とは断定していない。専門ではないのでわからないが、以下の論が何かからの引用であるのはたしかであろうけれども、それの題名が「無為論」であることはおろか、何晏の著述であることも断定はできないのではないだろうか。、「天地の万物はすべて〈無〉を根源としている11たとえば何晏「道論」(『列子』天瑞篇の張湛注引)に「有之為有、恃無以生、事而為事、由無以成」とあり、『老子』第四〇章の王弼注に「天下之物、皆以有為生。有之所始、以無為本。将欲全有、必反於無也」とあり、同、第四二章の王弼注に「万物万形、其帰一也。何由致一。由於無也」とある(王弼注は楼宇烈『王弼集校釈』より引用。以下同じ)。。〈無〉というものは、あらゆる事物に通じてあらゆる事業を成功させるものであり12原文「開物成務」。『易』繋辞上伝に「子曰、『夫易何為者也。夫易、開物成務、冒天下之道、如斯而已者也』(孔子は言った。『いったい易とは何のためのものなのだろうか。そもそも易とは、万物の道理に通じて天下の事業を成就させる道であり、その道は天下を覆うのである。このようなものなのだ』)」とある。、あらゆるところに存在するのである13原文「無往不存者也」。『荘子』内篇、斉物論篇の「道悪乎往而不存」に由来するか。『易』の繋辞上伝で「開物成務」が「冒天下之道(天下を覆う道)」だと言っていることもふまえているのかもしれない。かりに『荘子』にもとづいて訳出した。
 何晏と王弼の言う「無」については、おおかたの研究者の見解ではあらゆる事象・事物をしからしめる普遍原理のようなものと理解されているようだが([堀池一九八八]、[許杭生ほか一九八九]など)、「無」と「道」の関係にかんしては意見が分かれ、[許杭生ほか一九八九]は何晏も王弼も「無」と「道」を同一視していたと捉えているごとくで(六四、九一頁)、[堀池一九八八]だと何晏は「無」と「道」を同一視し、王弼は「道」の上位概念として「無」を措定したと論じており(四五〇―五三頁、四七七頁以下)、さらに[伊藤二〇一九]はこれらとは趣を異にして、王弼は「道」の「無形」の様相を「無」と言い表わしたと解釈している。訳者は専門外なのでどの見解が妥当なのか判断がつかないが、個人的に腑に落ちたのは加賀栄治氏[一九六四]の見解である。加賀氏によれば、王弼にとって「道」は「無」を喩えた呼び名である(二九七―九八頁)。そして「「無」は有物の窮極にあるものであって、しかも有物ではな」く、「万物をして万物たらしめる理」でありながら「「万物」と一如である」。つまり本体でありながら作用であり、実在でありながら現象であるという(三〇一―三〇二頁)。上述の[堀池一九八八]や[許杭生ほか一九八九]などの解釈だと、「無」は存在を根拠づけ、存在を存在せしめる超越的原理であるはずなのに、本伝のこの箇所では「無」の述語に「存」字を使用していることをどう考えるべきか、「存」字をどう訳出するべきなのかという悩ましい問題が生じる。しかし加賀氏の理解のとおりならば「無が存在する」との表現もあながち誤りでもないらしい。そこで本文の「存」字を「存在する」と訳出することにした。
。陰陽は〈無〉を拠りどころとして万物を生み出し14原文「陰陽恃以化生」。[許杭生ほか一九八九]は「陰陽が無に依拠して万物を化生する(陰陽依靠無化生万物)」と読んでいる(六二頁)。たしかに「化生」の語は、「天地感而万物化生」(『易』咸卦の彖伝)、「天地絪縕、万物化醇、男女構精、万物化生」(『易』繋辞下伝)のように、天地(陰陽)の気が感応調和して万物を生み出すという文脈でよく使われる語である。これを考慮すれば、「陰陽」そのものが「化生」したと読むのではなく、「陰陽」が万物を「化生」したと読むのが妥当であろう。また「恃」は文脈から判断して「無に恃む」という意味であろうが、何晏「道論」(『列子』天瑞篇の張湛注引)に「有之為有、恃無以生、事而為事、由無以成」とあり、王弼にも「言無者、有之所以為利、皆頼無以為用也」(『老子』第一一章注)とあり、おのおのに類似した表現がある。とはいえ、「無に依拠する」というのはどういうことなのか、明瞭ではない。しいて『老子』第五章の王弼注に「天地任自然、無為無造、万物自相治理、故不仁也」とあり、〈天地は万物を生み出しはするが無為自然に任せる〉というこのありかたを「無の原理に依拠する」と言えなくもないのかもしれない。、万物は〈無〉を拠りどころとして形相(けいそう)を具え15原文「万物恃以成形」。伊藤涼氏[二〇二〇]によれば、王弼は万物の生成を以下のような過程で捉えている。すなわち、万物生成の「始」は「未形無名」の段階である。万物が「生」ずると、「蓄」(長育)され、「形」を具え、そして「成」(完成)に至る、と。この厳密な生成過程に従えば、本文の「成形」は「成」に至る一過程(「形」)を意味することになる。しかしこのように意味を取るのはやや不自然に感じる。いったい、万物と万物の由来との端的なちがいは、「形」の有無である。「有形有名」たる万物のおおもとは「無形無名」で、超感覚的なのである(『老子』第一章王弼注「凡有皆始於無、故未形無名之時、則為万物之始。……言道以無形無名始成万物、万物以始以成而不知其所以然、玄之又玄也」、同第一四章注「無形無名者、万物之宗也」、同第二五章注「混然不可得而知、而万物由之以成」)。諸物の物・有たる指標がまずもって「形」に求められるのだとすれば、本文の「成形」は万物が生成したことの象徴表現と考えられよう。さしあたりこの解釈で取ることにした。万物が「成形」するにあたっても無に「恃む」と本文は言うが、やはりこれについてもどのようにして無が作用するのかよくわからない。またもしいて言えば、前の訳注でも引いたが『老子』第五章の王弼注に「天地任自然、無為無造、万物自相治理、故不仁也」とあり、諸物は自然と「成形」するということなのだろうか。、賢者は〈無〉を拠りどころとして徳を修め、愚者は〈無〉を拠りどころとして災難から免れる16この二句における「無に恃む」は無私無欲をポリシーとすることの謂いであるようにも思われるが、やはり断定は避けておく。。ゆえに〈無〉がはたらきをなすのは17原文「故無之為用」。王弼は『老子』注で「以無為用」という表現をしばしば用いている(たとえば第一章注「凡有之為利、必以無為用」)。無は「本」(本体)にして「用」(はたらく手先)、ということだろうか。、爵位がなくとも尊貴なことなのである18原文「無爵而貴矣」。『荀子』儒効篇に同じ語が見えるが、出典かどうかは不明。無のはたらきは俗世で知られておらず、尊重されていないけれども、じつは万事万象を根拠づける尊いものなのだ、という意味であろう。」。王衍はこの議論をおおいに重んじた。裴頠だけがこの議論をまちがっていると考え、論を著述して批判したが、王衍は取り乱すことなく裴頠の批判に対処した。王衍は才気煥発にして容姿端麗、聡明ぶりは神のようで、つねにみずからを子貢になぞらえていた。そのうえ、名声がひじょうに高く、当世を傾けるほどであった。玄学の言論に長け、もっぱら老荘について論ずることを務めとするのみであった。いつも玉製の柄の払子を手にしていたが、〔その柄は〕手と同じ色であった19手がすごく白かったということ。『世説新語』容止篇、第八章に「王夷甫容貌整麗、妙於談玄、恒捉白玉柄麈尾、与手都無分別」とある。。〔自分の〕議論に不安な箇所があった場合は即座に訂正したので、世の人々は「口中の雌黄(口から雌黄を出している)」20「雌黄」は「硫黄と砒素とからなる混合物。薬用、黄色の顔料とする」モノで、過去の紙は黄色かったため、誤字があるとこれを塗って修正したという(『漢辞海』)。その雌黄を口から出す=訂正の発言を繰り出すことの喩え。と称した。朝廷も在野も、異口同音に王衍のことを「当代きっての龍門」21原文は「一世龍門」。「龍門」はひじょうに声望が高いことの喩え。と呼んだ。何度も要職に就任し、後進の士人たちは誰もが憧憬して模倣した。〔王衍が〕選挙を受けて朝廷に出仕してからは、朝臣らはみな〔王衍のことを朝廷じゅうで〕筆頭格とみなしていた22原文「選挙登朝、皆以為称首」。自信はない。。〔王衍は〕尊大軽薄で、自由気ままだったが、はてに〔王衍のそうしたふるまいが〕流行した。王衍が幼児を亡くしたとき、山簡が弔問に訪れた。王衍は悲しみを抑えきれずにいたので、山簡は「まだ抱きかかえる年ごろの子供なのに、どうしてここまで悲しまれるのですか」と言うと、王衍は「聖人は情を忘れ、〔たほうで〕もっとも下等な人間は情をもつにもいたらない。しからば、情が集まる人間というのは、まさしく私のような人間なのだ」23かつて何晏や王弼は聖人が情を有しているか否かを論じたことがあった。『三国志』魏書二八、鍾会伝の裴松之注に引く何劭の「王弼伝」を参照。。山簡はその言葉に感服し、あらためて幼児のために慟哭した。
 王衍の妻の郭氏は賈后の親類で24『世説新語』規箴篇、第八章は郭泰寧の娘と記している。泰寧は字で、名を豫といい、曹魏の郭淮の弟・郭配の子にあたる。郭配の娘(したがって郭豫のきょうだい)は郭槐といい、賈充に嫁ぎ、賈后を生んだ(巻一〇、賈充伝、『三国志』魏書二六、郭淮伝の裴松之注に引く「晋諸公賛」)。それゆえ、王衍の妻の郭氏と賈后とはいとこに相当する。、中宮(皇后)の権勢を借り、強情貪欲で、飽くことなく財物を集め、しきりに賄賂をもちかけていた25原文「好干預人事」。『世説新語』規箴篇、第八章は「干豫人事」に作る。[川勝ほか一九六四]は「オフィシャルな問題にも口出しをした」、[井波二〇一四B]は「公的な人事にも口を出した」と訳し、『世説新語詞典(修訂本)』は「別人の人事(別人的人事)」としている。感覚としては、「人事」の語を現代日本語でよく使われる意味(つまり井波氏の訳と『世説新語詞典』)で取るのは違和感がある。[川勝ほか一九六四]のように政治の意で取るか、または文脈からみて賄賂・口利きの意で取るのがよいと思われる。とりあえずは後者で取ることにし、「今度賈后に口利きしてあげるから見返りに金品をよこせ」という類いの要求を多くの人間に吹っ掛けていたのだと解釈した。これであれば「オフィシャルな問題」というニュアンスも多少は含まれよう。。王衍はこの妻に頭を悩ませていたが、制止できずにいた。ときに、〔王衍と〕同郷であった幽州刺史の李陽は京師の大任侠であったので、郭氏は日ごろから彼のことを恐れ憚っていた。王衍は郭氏に言った、「あなたにダメだと言っているのは私だけではなく、李陽もなんだぞ」。郭氏はこのためにややおとなしくなった。王衍は郭氏の貪欲さに辟易していたので、「銭」という言葉を決して口にしなかった。郭氏はこの心構え〔がいつでも守れるのか〕を試してやろうと思い、婢に命じて〔王衍の〕寝台を銭で囲ませ、歩けないようにさせた。王衍が朝に起床し、銭を目にすると、婢に言った、「『ソレ』をぜんぶどかしなさい」。彼の注意深さ(うっかりミスがないこと)はこのようであった。
 のちに北軍中候、中領軍、尚書令を歴任した。〔王衍の〕娘は愍懐太子の妃であったが、太子が賈后に誣告されると、王衍は禍が降りかかるのを恐れ、みずから上表して離婚させた。賈后が廃されると、有司は王衍を弾劾した、「王衍は司徒の梁王肜へ宛てた書簡で、皇太子が妃と王衍に送った親筆を書き写して進呈し、〔その皇太子の親筆の写しは〕誣告を受けた状況を説明しています。梁王らがそれを伏読したところ、〔太子のものとされる〕言葉は感情がこもっていてウソ偽りがないとのことです。王衍は重臣の位に就いているのですから、義にもとづいて責任を問われるべきです。太子は誣告をこうむって罪を得ましたが、王衍は善道を死守できず、即座に離婚を求めました。太子の親筆を得たのに、秘匿して提出しませんでした。禍からとりあえず逃れることに心が向かっており、忠誠で正直という節義がまるでありません。見せしめになるような処罰を下し、〔ほかの朝臣に〕臣としての節義を奨励なさるべきです。〔王衍を〕終身禁固となさいますよう」。〔朝廷は〕これを聴き入れた。
 王衍はふだんから趙王倫のひととなりを軽んじていた。趙王が帝位を奪うと、王衍はわざと発狂して婢を斬りつけ、禍(趙王と関わること)から逃れた。趙王が誅殺されると、河南尹に任じられ、列曹尚書に転じ、さらに中書令となった。そのころ、斉王冏には社稷再建の功績があったものの、権力を占有して恣意的に振るっており、公卿はみな斉王に拝礼していたが、王衍だけは長揖の敬礼をするのみであった。病気を理由に辞職した。成都王穎は王衍を中軍師とし、それから尚書僕射、領吏部にまで昇進し、のち、尚書令、司空、司徒に任じられた。王衍は宰相の重職に就いていながら、国家経営を心配事とせず、自分を安全に保つ策略を考えていた。東海王越に説いて言った、「中原はすでに混乱していますから、方伯(地方の長官・諸侯)に頼らねばなりません。文武を兼ね備えた人材を探してその任に就かせるのがよいと考えます」。こうして弟の王澄を荊州刺史とし、族弟の王敦を青州刺史とした。そして王澄と王敦に言った、「荊州には長江と漢水の守りがあり、青州には負海(海を後ろ盾とする)という険阻さがある。卿ら二人は外におり、私はここ(中央)に留まれば、三窟(三か所の隠れ穴)とするのに十分であろう」26「三窟」は『戦国策』斉四「斉人有馮諼者」にみえる「狡兎有三窟」に由来する。。有識者はこれを軽蔑した。
 石勒や王弥が京師に侵略すると、〔朝廷は〕王衍を都督征討諸軍事、持節、仮黄鉞とし、これを防がせた。王衍は前将軍の曹武、左衛将軍の王景らに賊を迎撃させると、〔曹武らは〕賊を撃退し、その軍事物資を鹵獲した。太尉に移り、尚書令はもとのとおりとされた。武陵侯に封じられたが、封爵を辞退して受けなかった。そのころ、洛陽には危険が迫っていたため、多くの人々は遷都によって難を避けることを望んでいたが、王衍だけは〔移動手段である〕車と牛を売り払い、そうして人心を落ち着かせようとしていた。
 東海王が苟晞を討伐するさい、王衍は太尉のまま太傅軍司となった。東海王が薨じると、〔征討軍の〕人々は共同で〔王衍を征討軍の〕元帥に推戴した。王衍は、賊がつぎつぎと起こっていることから、怖気づいて〔賊に〕あえてぶつかろうとしなかった。「私は若いときから官になるつもりはなく、牒(任官の辞令)に従って異動しているうちに、とうとうこんな地位にまでなってしまったのだ。こんにちの事態を非才の人間が対応できるものか」と言う。たちまち、全軍が石勒に破られてしまった。石勒は〔征討軍に従軍していた〕諸王公を呼び出し、接見すると、王衍に晋の罪について訊ねた。王衍は災難や失敗の原因を説明し、自分にはどうしようもないと話した。石勒はこの言葉をおおいに喜び、一日じゅう語り合った。王衍は、若いときから政事には関わってこなかったとみずから説明した。命だけは助かりたかったので、石勒に尊号を称するよう提案した。石勒は怒って言った、「君の名声は四海を覆い、その身は重職にあり、若いころから朝廷に出仕し、高齢になるまで勤めてきたのに、政事には関わってこなかったとどうして言えるのか。天下をぶち壊した罪はまさしく君のものだ」。左右の者たちに王衍を〔外へ〕つまみ出させた。〔石勒は〕徒党の孔萇に「私は天下を何度も巡っているが、こんなやつは見たことがない。生かしておくべきであろうか」と言うと、孔萇は「彼は晋の三公ですから、われわれのために尽力することはありえませんし、それに〔われわれのほうだって彼のことを〕尊重する必要があるでしょうか」と言った。石勒、「〔とはいえ、〕刀剣を下すわけにはいくまい」27原文「要不可加以鋒刃也」。『世説新語』賞誉篇、第一六章の劉孝標注に引く「八王故事」はこの言葉の上に「雖然(そうとはいっても)」の二字がある。これを参考に訳語を補うことにした。。夜、ひとをやって塀を押し倒させ、王衍をその下敷きにして殺してしまった28『晋書斠注』などが指摘していることだが、『水経注』巻二二、渠水注に「沙水自百尺溝東径寧平県之故城南、晋陽秋称晋太傅東海王越之東奔也、石勒追之、燌尸于此。数十万衆、斂手受害、勒縦騎囲射、尸積如山、王夷甫死焉」とあり、『晋陽秋』だと王衍もほかの人々と同じく射撃で死んだかのごとくに記載されていたようである。本伝とどちらが正しいのかは不明。。王衍は死の直前、〔周囲の人々のほうを〕振り向いて言った、「ああ、私たちは古人に及ばないとはいえ、もしも浮虚を尊ばずに、力を合わせて天下を正していれば、こんにちのようにはならなかっただろうに」。享年五十六であった。
 王衍は優秀で名望があり、幽遠な問題に傾注し、金銭的な話題は決して口にしなかった。王敦は長江を渡ると(東晋のこと)、いつも王衍をこのように称えていた、「夷甫が多くの凡人のあいだに身を置いていたこと、まるで珠玉が瓦や小石のなかに混じっているかのようだった」。顧愷之が画賛を作成したときも、王衍をこう称えた、「高々と清らかにそびえたち、千仭の壁が切り立っているかのよう」。人々から尊敬を受けていたことはこのようであった。
 子の王玄は字を眉子という。若いときから放達を理想とし、また才能もあり、衛玠と名声を等しくした。〔永嘉の乱後、行台を称した〕荀藩が陳留太守に登用し、尉氏に駐留させた。王玄は生来より名家の出身で、わがままな性格であり、混迷の時勢において、民心は懐かなかった。祖逖のもとへ行こうとしたが29一説に、元帝のもとへ避難するよう勧めたひとがいたが、叔父の王澄が王敦に殺されてしまったことを挙げ、元帝政権も安全ではないと言って拒否したという。『世説新語』賞誉篇、第三五章の劉孝標注に引く「八王故事」に「玄為陳留太守、或薦玄過江投琅邪王、玄曰、『王処仲得志於彼、家叔猶不免害、豈能容我』。謂其器宇不容於敦也」とある。、盗賊に殺されてしまった30塢璧の人々に殺されたともいう。『世説新語』識鑑篇、第一二章に「王平子素知眉子、曰、『志大其量、終当死塢璧間』」とあり、劉孝標注に引く「晋諸公賛」に「王玄、字眉子、夷甫子也。東海王越辟為掾、後行陳留太守、大行威罰、為塢人所害」とある。

山濤(1)山濤(2)附:山簡・山遐王戎(1)王戎(2)附:王衍附:王澄・郭舒楽広

(2022/8/12:公開)

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    原文「神情明秀」。「神情」は表情とも精神とも取れるが、ここでは容貌の良さを言っているものと解釈した。
  • 2
    容姿なり才覚なりがあまりにずば抜けているので「この子は本当に自分と同じ人間なのか!?」と驚嘆してしまうような感じだろうか。
  • 3
    『世説新語』識鑑篇、第六章の劉孝標注に引く「晋陽秋」に「夷甫父乂、有簡書、将免官」とあり、ひとの免官を要請したらしい。
  • 4
    中に仕切りのある平鉢。(『漢辞海』)
  • 5
    『世説新語』雅量篇、第八章によれば、王衍はこの親族に頼みごとをしていたが、いつまで経ってもやってくれず、この宴会のときに催促してみたところ、逆ギレされたのだという。
  • 6
    王衍の発言の原文は「爾看吾目光乃在牛背上矣」。『世説新語』雅量篇、第八章もおおむね同じ。「牛の背中云々」について、[川勝一九六四ほか]は未詳として「わたしの眼は乱れていないだろうの意か」とし、[井波二〇一四A]は「牛車のなかで鏡に顔を映したうえで、王導に語りかけ、自分の目つきを確認した」と解釈して「まっすぐ牛の背中を見ているだろう」と訳出している。思うに、牛とは腫れのことではないだろうか。牛(腫れ)の背中の上に眼光がある、すなわち目の下が腫れているということである。鏡で顔の傷を確認し、「見ろよ、目の下がえらく腫れてるぜ」と話しかけたのだろう。このようなシチュエーションならば自然なやり取りである。少なくとも上掲の既存の解釈は不自然である。
  • 7
    『世説新語』徳行篇、第二六章の劉孝標注に引く「王乂別伝」に「出督幽州諸軍事、平北将軍」とあり、『世説新語』本文では「王平北」と呼ばれていることからすると、おそらくこれが極官なのであろう。督幽州諸軍事として北平に出鎮し、当地で没したのではないだろうか。
  • 8
    原文「送故甚厚」。高敏氏[二〇〇〇]が言うように、送故の贈品がたいへん手厚いという意味であろう(二〇頁)。前の注で述べたように、王乂は北平で在任中に没したと考えられる。在官中に死没した場合でも送故がおこなわれている例はほかに見えず、貴重な事例と言える。
  • 9
    原文「為親識之所借貸、因以捨之」。自信はない。
  • 10
    以下の論を何晏の「無為論」という著述からの引用だとみなす論者がしばしばある(たとえば厳可均『全三国文』巻三九)。専門外なのでその根拠はよくわからない。しいて推測すれば、『資治通鑑』巻八二、元康七年に「初、何晏等祖述老荘、立論以為、……」とあって王弼が省かれて「何晏等」に作られていることと、以下の文が中華書局の底本だと「天下万物以無為為本」に作られていることに拠っているのかもしれない。しかし後者にかんしては、中華書局の校勘記が記すように「為」は一字衍字である可能性が高く(そのため中華書局テキストだと「天下万物皆以無為本」に改められている)、内容的にも無為の論述とは言いがたいし、前者はとくに根拠となるほどのことでもない。近年ではどのように扱われているのかよくわからないが、たとえば徐国栄『魏晋玄学会要』(江蘇人民出版社、二〇一四年)という資料集の何晏の項目だと、『列子』張湛注に引く「道論」「無名論」は掲載されているが、本伝の以下の論は引かれていない。伊藤涼「何晏の政治観――玄学萌芽を考えるために」(『国学院雑誌』第一一八巻第九号、二〇一七年)という近年の専論でも「道論」と「無名論」は何晏の著作として引かれているが、本伝の記述は何晏の思想内容を伝えるものとして注釈で取り上げるにとどめており、やはり何晏の著述とは断定していない。専門ではないのでわからないが、以下の論が何かからの引用であるのはたしかであろうけれども、それの題名が「無為論」であることはおろか、何晏の著述であることも断定はできないのではないだろうか。
  • 11
    たとえば何晏「道論」(『列子』天瑞篇の張湛注引)に「有之為有、恃無以生、事而為事、由無以成」とあり、『老子』第四〇章の王弼注に「天下之物、皆以有為生。有之所始、以無為本。将欲全有、必反於無也」とあり、同、第四二章の王弼注に「万物万形、其帰一也。何由致一。由於無也」とある(王弼注は楼宇烈『王弼集校釈』より引用。以下同じ)。
  • 12
    原文「開物成務」。『易』繋辞上伝に「子曰、『夫易何為者也。夫易、開物成務、冒天下之道、如斯而已者也』(孔子は言った。『いったい易とは何のためのものなのだろうか。そもそも易とは、万物の道理に通じて天下の事業を成就させる道であり、その道は天下を覆うのである。このようなものなのだ』)」とある。
  • 13
    原文「無往不存者也」。『荘子』内篇、斉物論篇の「道悪乎往而不存」に由来するか。『易』の繋辞上伝で「開物成務」が「冒天下之道(天下を覆う道)」だと言っていることもふまえているのかもしれない。かりに『荘子』にもとづいて訳出した。
     何晏と王弼の言う「無」については、おおかたの研究者の見解ではあらゆる事象・事物をしからしめる普遍原理のようなものと理解されているようだが([堀池一九八八]、[許杭生ほか一九八九]など)、「無」と「道」の関係にかんしては意見が分かれ、[許杭生ほか一九八九]は何晏も王弼も「無」と「道」を同一視していたと捉えているごとくで(六四、九一頁)、[堀池一九八八]だと何晏は「無」と「道」を同一視し、王弼は「道」の上位概念として「無」を措定したと論じており(四五〇―五三頁、四七七頁以下)、さらに[伊藤二〇一九]はこれらとは趣を異にして、王弼は「道」の「無形」の様相を「無」と言い表わしたと解釈している。訳者は専門外なのでどの見解が妥当なのか判断がつかないが、個人的に腑に落ちたのは加賀栄治氏[一九六四]の見解である。加賀氏によれば、王弼にとって「道」は「無」を喩えた呼び名である(二九七―九八頁)。そして「「無」は有物の窮極にあるものであって、しかも有物ではな」く、「万物をして万物たらしめる理」でありながら「「万物」と一如である」。つまり本体でありながら作用であり、実在でありながら現象であるという(三〇一―三〇二頁)。上述の[堀池一九八八]や[許杭生ほか一九八九]などの解釈だと、「無」は存在を根拠づけ、存在を存在せしめる超越的原理であるはずなのに、本伝のこの箇所では「無」の述語に「存」字を使用していることをどう考えるべきか、「存」字をどう訳出するべきなのかという悩ましい問題が生じる。しかし加賀氏の理解のとおりならば「無が存在する」との表現もあながち誤りでもないらしい。そこで本文の「存」字を「存在する」と訳出することにした。
  • 14
    原文「陰陽恃以化生」。[許杭生ほか一九八九]は「陰陽が無に依拠して万物を化生する(陰陽依靠無化生万物)」と読んでいる(六二頁)。たしかに「化生」の語は、「天地感而万物化生」(『易』咸卦の彖伝)、「天地絪縕、万物化醇、男女構精、万物化生」(『易』繋辞下伝)のように、天地(陰陽)の気が感応調和して万物を生み出すという文脈でよく使われる語である。これを考慮すれば、「陰陽」そのものが「化生」したと読むのではなく、「陰陽」が万物を「化生」したと読むのが妥当であろう。また「恃」は文脈から判断して「無に恃む」という意味であろうが、何晏「道論」(『列子』天瑞篇の張湛注引)に「有之為有、恃無以生、事而為事、由無以成」とあり、王弼にも「言無者、有之所以為利、皆頼無以為用也」(『老子』第一一章注)とあり、おのおのに類似した表現がある。とはいえ、「無に依拠する」というのはどういうことなのか、明瞭ではない。しいて『老子』第五章の王弼注に「天地任自然、無為無造、万物自相治理、故不仁也」とあり、〈天地は万物を生み出しはするが無為自然に任せる〉というこのありかたを「無の原理に依拠する」と言えなくもないのかもしれない。
  • 15
    原文「万物恃以成形」。伊藤涼氏[二〇二〇]によれば、王弼は万物の生成を以下のような過程で捉えている。すなわち、万物生成の「始」は「未形無名」の段階である。万物が「生」ずると、「蓄」(長育)され、「形」を具え、そして「成」(完成)に至る、と。この厳密な生成過程に従えば、本文の「成形」は「成」に至る一過程(「形」)を意味することになる。しかしこのように意味を取るのはやや不自然に感じる。いったい、万物と万物の由来との端的なちがいは、「形」の有無である。「有形有名」たる万物のおおもとは「無形無名」で、超感覚的なのである(『老子』第一章王弼注「凡有皆始於無、故未形無名之時、則為万物之始。……言道以無形無名始成万物、万物以始以成而不知其所以然、玄之又玄也」、同第一四章注「無形無名者、万物之宗也」、同第二五章注「混然不可得而知、而万物由之以成」)。諸物の物・有たる指標がまずもって「形」に求められるのだとすれば、本文の「成形」は万物が生成したことの象徴表現と考えられよう。さしあたりこの解釈で取ることにした。万物が「成形」するにあたっても無に「恃む」と本文は言うが、やはりこれについてもどのようにして無が作用するのかよくわからない。またもしいて言えば、前の訳注でも引いたが『老子』第五章の王弼注に「天地任自然、無為無造、万物自相治理、故不仁也」とあり、諸物は自然と「成形」するということなのだろうか。
  • 16
    この二句における「無に恃む」は無私無欲をポリシーとすることの謂いであるようにも思われるが、やはり断定は避けておく。
  • 17
    原文「故無之為用」。王弼は『老子』注で「以無為用」という表現をしばしば用いている(たとえば第一章注「凡有之為利、必以無為用」)。無は「本」(本体)にして「用」(はたらく手先)、ということだろうか。
  • 18
    原文「無爵而貴矣」。『荀子』儒効篇に同じ語が見えるが、出典かどうかは不明。無のはたらきは俗世で知られておらず、尊重されていないけれども、じつは万事万象を根拠づける尊いものなのだ、という意味であろう。
  • 19
    手がすごく白かったということ。『世説新語』容止篇、第八章に「王夷甫容貌整麗、妙於談玄、恒捉白玉柄麈尾、与手都無分別」とある。
  • 20
    「雌黄」は「硫黄と砒素とからなる混合物。薬用、黄色の顔料とする」モノで、過去の紙は黄色かったため、誤字があるとこれを塗って修正したという(『漢辞海』)。その雌黄を口から出す=訂正の発言を繰り出すことの喩え。
  • 21
    原文は「一世龍門」。「龍門」はひじょうに声望が高いことの喩え。
  • 22
    原文「選挙登朝、皆以為称首」。自信はない。
  • 23
    かつて何晏や王弼は聖人が情を有しているか否かを論じたことがあった。『三国志』魏書二八、鍾会伝の裴松之注に引く何劭の「王弼伝」を参照。
  • 24
    『世説新語』規箴篇、第八章は郭泰寧の娘と記している。泰寧は字で、名を豫といい、曹魏の郭淮の弟・郭配の子にあたる。郭配の娘(したがって郭豫のきょうだい)は郭槐といい、賈充に嫁ぎ、賈后を生んだ(巻一〇、賈充伝、『三国志』魏書二六、郭淮伝の裴松之注に引く「晋諸公賛」)。それゆえ、王衍の妻の郭氏と賈后とはいとこに相当する。
  • 25
    原文「好干預人事」。『世説新語』規箴篇、第八章は「干豫人事」に作る。[川勝ほか一九六四]は「オフィシャルな問題にも口出しをした」、[井波二〇一四B]は「公的な人事にも口を出した」と訳し、『世説新語詞典(修訂本)』は「別人の人事(別人的人事)」としている。感覚としては、「人事」の語を現代日本語でよく使われる意味(つまり井波氏の訳と『世説新語詞典』)で取るのは違和感がある。[川勝ほか一九六四]のように政治の意で取るか、または文脈からみて賄賂・口利きの意で取るのがよいと思われる。とりあえずは後者で取ることにし、「今度賈后に口利きしてあげるから見返りに金品をよこせ」という類いの要求を多くの人間に吹っ掛けていたのだと解釈した。これであれば「オフィシャルな問題」というニュアンスも多少は含まれよう。
  • 26
    「三窟」は『戦国策』斉四「斉人有馮諼者」にみえる「狡兎有三窟」に由来する。
  • 27
    原文「要不可加以鋒刃也」。『世説新語』賞誉篇、第一六章の劉孝標注に引く「八王故事」はこの言葉の上に「雖然(そうとはいっても)」の二字がある。これを参考に訳語を補うことにした。
  • 28
    『晋書斠注』などが指摘していることだが、『水経注』巻二二、渠水注に「沙水自百尺溝東径寧平県之故城南、晋陽秋称晋太傅東海王越之東奔也、石勒追之、燌尸于此。数十万衆、斂手受害、勒縦騎囲射、尸積如山、王夷甫死焉」とあり、『晋陽秋』だと王衍もほかの人々と同じく射撃で死んだかのごとくに記載されていたようである。本伝とどちらが正しいのかは不明。
  • 29
    一説に、元帝のもとへ避難するよう勧めたひとがいたが、叔父の王澄が王敦に殺されてしまったことを挙げ、元帝政権も安全ではないと言って拒否したという。『世説新語』賞誉篇、第三五章の劉孝標注に引く「八王故事」に「玄為陳留太守、或薦玄過江投琅邪王、玄曰、『王処仲得志於彼、家叔猶不免害、豈能容我』。謂其器宇不容於敦也」とある。
  • 30
    塢璧の人々に殺されたともいう。『世説新語』識鑑篇、第一二章に「王平子素知眉子、曰、『志大其量、終当死塢璧間』」とあり、劉孝標注に引く「晋諸公賛」に「王玄、字眉子、夷甫子也。東海王越辟為掾、後行陳留太守、大行威罰、為塢人所害」とある。
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