巻四十三 列伝第十三 王戎(2)

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山濤(1)山濤(2)附:山簡・山遐王戎(1)王戎(2)附:王衍附:王澄・郭舒楽広

 王戎ははじめて甲午制を定め、すべての選挙(官僚の任命)において、被選挙者はみな、まず〔地方官に就いて〕百姓を治め〔実績をあげ〕てから、〔中央の官職を〕授けることとした1本伝の時系列に従えば、恵帝・元康元年の制定となるが、中村圭爾氏[二〇一五]は王戎がこれ以前の武帝期に吏部尚書に就いたときのことである可能性を指摘し、そうだとすれば太康一〇年の成立であろうと推測している(一二八―一二九頁)。なお甲午制で経由を必要とするところの地方官とは県令長のことである([宮崎一九九七]一三六頁)。。司隷校尉の傅咸が王戎を弾劾して言った、「『尚書』に『三年ごとに成績を査定し、三回の査定を経て、優秀な者を昇格させ、無能な者を降格させる』(舜典)とあります。現在、内外の群官は、地方官に就任して一年未満であるにもかかわらず、王戎は上奏して〔中央に〕呼び戻しています。〔このような短期間では〕能否がまだ明らかになっていないのみならず、送故(前任者を送り出す)の一行や迎新(新任者を迎えに行く)の一行がひっきりなしに道路を行き交い2原文「送故迎新、相望道路」。各地で地方官の交代が頻繁におこなわれるため、前任者の送り出しと新任者の迎えがたえず道路を往来しているさまを言う。一種の定型表現で、「間者守宰数見換易、迎新相代、疲労道路」(『後漢書』列伝二三、朱浮伝)、「今州県職司、或莅政無幾、便徴召遷転、迎新故旧、紛紜道路」(『三国志』呉書一六、陸凱伝)、「自頃長吏軽多去来、送故迎新、交錯道路」(巻八二、虞預伝)などの例がある。
 漢代からそうであったのかはわからないが、魏晋時期の送故は前任者に一定期間同行し、迎新は新任者の滞在地まで迎えに行っていたようである。迎新の例としては巻四九、光逸伝に「後為門亭長、迎新令至京師。胡毋輔之与荀邃共詣令家、望見逸、謂邃曰、『彼似奇才』」とあり、光逸は新令を迎えに洛陽の居宅にまで赴いていたらしい。送故の例としては、巻六三、李矩伝に「〔李矩〕及長、為吏、送故県令於長安、征西将軍梁王肜以為牙門」とあり、李矩は前任の平陽県令を長安まで送ったあとも、おそらくそのまま前任者に随従して長安に滞在し、やがて長安に出鎮していた梁王に辟召されたのであろう。また『三国志』魏書九、夏侯尚伝附夏侯玄伝の裴松之注に引く「世語」に「〔王〕経字玄偉、初為江夏太守。大将軍曹爽附絹二十四匹令交市于呉、経不発書、棄官帰、母問帰状、経以実対。母以経典兵馬而擅去、対送吏杖経五十」とあり、送故の吏(「送吏」)が王経の郷里にまで同行していることが確認できる。こうした送故の吏がどのタイミングで離れていくのかは不明だが、東晋はじめの虞預の送故迎新にかんする言葉に「加以王塗未夷、所在停滞、送者経年、永失播植」とあり(虞預伝)、政情不安な状況下ゆえ送者が「経年(一年が過ぎる)」ほどになっていると述べていることからすると、一般的には一年経たずに離れていたのだと思われる。[周一良一九八五]八三頁、[高二〇〇〇]を参照。
、汚職が長官交代の機会に乗じて生じ3原文「巧詐由生」。『三国志』魏書二一、劉廙伝の裴松之注に引く「廙別伝載表論治道」に「況於長吏以下、群職小任、能皆簡練備得其人也。其計莫如督之以法。不爾而数転易、往来不已、送迎之煩、不可勝計。転易之間、輒有姦巧」とあり、「県令長の交代のたびごとに『姦巧』がある(転易之間、輒有姦巧)」という本伝に類した文言が見られる。さらに関連する記述を求めると、『漢書』巻八九、循吏伝、黄覇伝に「数易長吏、送故迎新之費、及姦吏縁絶簿書盗財物」とあり、顔師古注に「縁、因也。因交代之際而棄匿簿書以盗官物也」とある。すなわち「姦吏縁絶簿書盗財物」とは〈悪い県令長は交代の機会を利用し、帳簿書類を隠滅して官の物資を横領する〉という意味であるらしい。どちらの例も本伝と文言および文脈が類似しているため、これらにもとづいて解釈することにした。ちなみに魏晋時期の送故は官有の金品をあわせて送るのが慣例になっていたが([周一良一九八五]八三頁、[高敏二〇〇〇])、この習慣のことを「巧詐由生」と批判的に表現しているのかもしれない。、農業に損失を与え、政治に損害を及ぼしています4原文「傷農害政」。官(「政」)にも民(「農」)にもダメージを与えている、と解釈した。頻繁な送故迎新が官民に損害を与えるという言い方は一種の定型文句でもあり、たとえば『三国志』陸凱伝に載せる陸凱の上疏に「先帝時、居官者成久於其位、然後考績黜陟。今州県職司、或莅政無幾、便徴召遷転、迎新故旧、紛紜道路、傷財害民、於是為甚、是不遵先帝十九也」とあり、「傷害財民」という文言が見える。もう少し具体的な記述を探してみると、本文で王戎を弾劾している傅咸はこのとき、「中間以来、長吏到官、未幾便遷、百姓困於無定、吏卒疲於送迎」との認識をもっていたとされ(巻四七、傅玄伝附傅咸伝)、県令長が頻繁に交代してしまうため、百姓は安定しない地方行政に苦しみ、吏は度重なる送迎に疲労しているという。また元帝承制時代の丁潭の上書に「今之長吏、遷転既数、有送迎之費」とあり(巻七八、本伝)、送迎に費用がかかっていることが指摘されている。同様に東晋はじめの虞預の言葉に「自頃長吏軽多去来、送故迎新、交錯道路。受迎者惟恐船馬之不多、見送者惟恨吏卒之常少。窮奢竭費謂之忠義、省煩従簡呼為薄俗、転相放効、流而不反、雖有常防、莫肯遵修」とあり(虞預伝)、当時の風潮では送迎に多くの出費をかけるのが重んじられていたという。以上のような政情不安の常態化、頻繁な送迎による疲弊、地方官府の出費のかさみなどといったかたちで官民に損害を与えていたのだろう。。王戎は堯や舜の典範を仰いで依拠せず、浮華を助長し、風俗を退廃させ、無益であるばかりか、甚大な損失になっています。王戎の官を免じ、風俗を手厚くなさるべきです」5傅玄伝附傅咸伝にもこのときの弾劾の記述があるが、「時僕射王戎兼吏部、咸奏、『戎備位台輔、兼掌選挙、不能謐静風俗、以凝庶績、至令人心傾動、開張浮競。中郎李重、李義不相匡正。請免戎等官』」とあり、本伝とは奏の文面が異なっている。前の注で甲午制は武帝太康年間成立の可能性があることを記したが、傅咸の弾劾自体は傅咸伝でも恵帝年間のこととされており、弾劾が恵帝時代に起きたことであるのは確かなのであろう。念のために付言すると、傅咸は甲午制そのもの(まず地方官で官人としての能否を判定する)を批判しているのではなく、王戎の選挙が甲午制の意図にそむき、さっさと中央官に徴してしまっていることを糾弾しているのである。。王戎は〔恵帝の外戚である〕賈氏や郭氏と姻族関係にあったため、けっきょく罪を問われずに済んだ。ほどなく司徒に転じた。王政が崩壊しつつあることから、〔賈氏ら権力者に〕迎合して機嫌を取った。そのころに愍懐太子が廃位されたが、〔太子を廃位しようとする賈后を〕最後まで一言も諫めなかった。
 裴頠は王戎の婿(娘の夫)だったため、〔趙王倫がクーデターを起こして朝政を掌握したさいに〕裴頠が誅殺されると、王戎は連座して免官された。斉王冏が起義すると、孫秀は王戎を洛陽城内で拘束したが、趙王倫の子は王戎を軍司に用いようとした。博士の王繇が言った、「濬沖はウソや欺きが多く、心をコロコロ変える打算的な人間です6原文「譎詐多端」。「多端」は一般的に「回数が多い(何度も繰り返す)、「多方面に及ぶ」、「多様である」、「やることが多い(物事が複雑である/多忙である)」といった意味の語だが、しばしば本伝のように詐欺の語の後ろに付いて用いられるケースがある。たとえば「責授登州刺史柳璨、……詭譎多端、苞蔵莫測」(『旧唐書』巻二〇、哀帝紀下、天祐二年十二月)、「〔李〕仲言辯譎多端、〔王〕守澄見之甚悦」(『旧唐書』巻一六七、李逢吉伝)、「虜人雖来、義不先用、勒兵自固、以観成敗、王師勝則分功、敗則図変、狡詐多端、不可信」(『新唐書』巻二二四、叛臣伝上、李懐光伝)など、唐書によく見える。いま挙げた例は「ウソを常習的に繰り返している」「ありとあらゆる面をウソでつくろう」と訳すことも可能だと思われ、そうであるならば「多端」の一般的な用法内に収まる。この場合、(1)「多端」は上の詐欺の語に係り、詐欺の程度を説明する働きをもっていることになる。
 しかしいっぽう、「〔沮渠〕蒙遜子秉、……険詖多端、真君中、遂与河東蜀薛安都謀逆」(『魏書』巻九九、盧水胡沮渠蒙遜伝)、「其別部大人劉庫仁勇而有智、鉄弗衛辰狡猾多端、皆不可独任」(『北史』巻二一、燕鳳伝)という例があり、これら「険詖多端」「狡猾多端」の「多端」を「何度も繰り返す」「多方面に及ぶ」という意で取ることはできないと思われる。さらに注目すべきことに『北史』燕鳳伝の「狡猾多端」は『魏書』巻二四、燕鳳伝だと「狡猾多変」に作られており、『北史』の「多端」は「多変」と同義であるように見られるのである。
 そこで検索範囲をもう少し広げ、狡猾や詐欺を示す語のあとに「多○」が付く例を探してみると、「多方」(『晋書』巻一二六、禿髪傉檀載記「傉檀権詐多方、憑山河之固、未可図也」)、「多事」(『魏書』巻八〇、斛斯椿伝「椿狡猾多事、好乱楽禍、干時敗国、朝野莫不讐疾之也」)、「多計」(『梁書』巻五六、侯景伝「侯景狡猾多計、反覆難知、我死後、必不為汝用」)、「多計略」(『陳書』巻三一、任忠伝「〔任忠〕及長、譎詭多計略」)、「多謀」(『旧唐書』巻一一一、張鎬伝「滑州防禦使許叔冀、性狡多謀、臨難必変」)、「多算」(『新唐書』巻九二、杜伏威伝「伏威狡譎多算、毎剽劫、衆用其策皆効」)と、さまざまなケースが見出せる。「多端」の例も含め、基本的にはどの例も狡知に長けていること、信頼しがたいことを形容しているようである。どの「多○」もおおむね共通した意味をもっているとすれば、それはおそらく「たくらみごとが多い」ではないだろうか。それが文脈に応じて「狡知に長けている」となったり、「打算的で態度がさまざまに変わるので信頼できない」となったりするのであろう。つまりこの場合、(2)「多端」はこの語単独で主語の邪悪さを形容していることになる。
 では本伝の「多端」を(1)と(2)のどちらの用法で取るべきだろうか。確たる自信はもてないが、多くの用例に鑑み、(2)の用法で取ることにしたい。文脈からみても、〈王戎の本心はうかがいしれず、信頼できない〉というのがここで言いたいことだと思われる。よって、ここの「多端」を「態度をさまざまに変える」という意味で訳出した。
。少年の手下に収まるものでしょうか7原文「安肯為少年用」。本伝と似た例に『梁書』侯景伝「侯景狡猾多計、反覆難知、我死後、必不為汝用」、『新唐書』巻一八〇、李徳裕伝「沙陀・退渾、不可恃也。夫見利則進、遇敵則走、雑虜之常態、孰肯為国家用邪」がある。」。こうして中止になった。恵帝が位に復帰すると、王戎を尚書令とした。まもなく、河間王顒が使者をつかわし、成都王穎のもとへやって説き伏せさせ、斉王冏を誅殺しようとした。その檄書が〔洛陽にも〕届くと、斉王は王戎に言った8以下の発言は巻五九、斉王冏伝だと斉王が百官に向かって言ったことになっている。、「孫秀が反逆をなし、天子は力づくで幽閉された。孤(わたし)は義兵を糾合し、悪人の首領を平定し、臣子としての節義はまことに天地の神々に明らかである。二王(河間王と成都王)は讒言を信頼し、大難を起こそうとしている。〔孤は〕忠誠な謀略を頼りにして不和をやわらげるつもりである。卿よ、私のために策を立ててくれたまえ」。王戎、「公は首唱して義兵を挙げ、大業をたてなおしました。開闢以来、これほどの功業はあったためしがございません。しかし、論功行賞が功労のあったひとにまで及んでいないため、官民ともに失望し、人々は異心を抱いています。いま、二王の兵士は百万を数え、その勢いにぶつかるべきではありません。もし〔官職を辞して〕王の位をもって私宅にお帰りになられれば、もともとの爵位(斉王の爵のこと)を失わずに済みましょう。権力を委譲し、謙譲を尊ぶこと、これこそ安全を求めるための策です」。斉王の謀臣である葛旟は怒って言った、「漢魏以来、私宅に戻った王公で、妻子を守りえた者がいただろうか。こんな意見を出す者は斬るべきだ」。かくして百官は恐れおののいた。王戎は薬の発作が起きたフリをして便所から落ち、災難から逃れることができた9原文「偽薬発堕厠、得不及禍」。「薬の発作で便所から落ちたとウソをついた」と読めなくもないが、それだと誰かが「王戎が便所から落ちた」と言いに行っていることになり、やや不自然なシチュエーションに感じる。王戎には嘔吐の持病があったので、持病の発作が起きたとウソをつき、トイレへ駆け込んで朝廷から脱出したといういきさつではなかろうか。
 王戎は、晋室が混乱しつつあることから、蘧伯玉の人となりを思慕して10『論語』衛霊公篇に「君子哉蘧伯玉、邦有道則仕、邦無道則可巻而懐之」とあり、『論語集解』に「包曰、『「巻而懐」、謂不与時政、柔順不忤於人』」とあり、政治に関わらず、他人にも逆らわないように柔和するさまを指すと思われる。、時勢に応じて身を処し、物怖じせずに直言するような節義はもっていなかった。選挙の官職に就いて以来、寒素の人材を推薦し、虚名の士人を退けたことは一度もなく、ただ世の情勢に合わせて人事を定め、〔個人の才能を考慮せず〕門戸を基準に選挙するのみであった。まもなく司徒に任じられ、三公を取りまとめる位にあったものの、仕事を属僚に放り投げていた。こっそり小型の馬に乗って11原文「間乗小馬」。「間」は「秘密裏に」とも「ときどき」とも訳せるが、『芸文類聚』巻四七、司徒に引く「又曰」(「王隠晋書」)に「常乗馬轝、無日不出」とあるのをふまえ、「秘密裏に」で取った。無断外出を繰り返していたということだろう。便門(不詳)から外出していたが、その姿を目撃した者は彼が三公だとは気づかなかった。故吏の多くが高官に出世していたが、道路で出くわすといつも避けて王戎に道を譲った。〔王戎は〕蓄財を好むタチで、八方から〔財利を〕広く集め、田園や水力で動く臼は天下のいたるところに存在していた。富を蓄え、銭を積み集めること、限りを知らないほどで、しょっちゅうみずから牙籌(計算の道具)を手にしては、昼夜を問わずに〔資産を〕計算し、いつも経済的に困窮しているかのよう〔に蓄財に励んでいたの〕であった12原文「恒若不足」。前文との文脈を考慮すると、計算の数が合わないことを言っているとも読める。ただ、このような表現は果て知らずに蓄財に励んでいることを言うときにしばしば使われており、たとえば『宋書』巻五一、宗室伝、長沙景王道憐伝に「道憐素無才能、言音甚楚、挙止施為、多諸鄙拙。高祖雖遣将軍佐輔之、而貪縦過甚、畜聚財貨、常若不足、去鎮之日、府庫為之空虛」とあり、『後漢書』帝紀八、霊帝紀の李賢注に引く「続漢志」に「太后雖積金銭、猶慊慊常若不足、使人舂黄粱而食之也」とある。また『三国志』魏書一六、鄭渾伝の裴松之注に引く「張璠漢紀」に「〔鄭泰〕家富於財、有田四百頃、而食常不足、名聞山東」とあり、『魏書』巻八四、儒林伝、平恒伝に「廉貞寡欲、不営資產、衣食至常不足、妻子不免飢寒」とあるように、経済的に事欠くさまを「不足」と表現することもある。これらをふまえ、ここは蓄財に励むさまを述べたものと解釈した。。しかもケチであり、みずからの衣食にすらカネを出し惜しんだので、天下の人々は王戎のこのありさまを「どうしようもない病気」と言っていた。娘が裴頠のもとに嫁いださい、数万の銭を貸したが、しばらくたっても返してこなかった。後日、娘が帰省したところ、王戎は不満げな顔色だったので、娘は慌てて返済した。すると、ようやく笑顔を見せるようになった。従子の結婚式直前、王戎は単衣ひとつを贈ったが、婚礼が終わると、あらためて〔代金を〕要求した13原文「更責取」。『世説新語』倹嗇篇、第二章は「更責之」に作る。[川勝ほか一九六四]、[井波二〇一四D]に従い、「責」を「代金を請求する」の意で取った。。〔王戎の〕家にうまいスモモの樹があり、よくこの実をひとに貸し与えていたが14原文「常出貸之」。あとで代金を請求したということだろうか。『世説新語』倹嗇篇、第四章は「売之」とあってわかりやすい。、他人が種子を得てしまうのを不安に思い、いつも核(さね)にキリで穴を開けていた。このことによって世間から批判を浴びた。
 その後、恵帝に随行して〔成都王への〕北伐に従軍したが、王師は蕩陰で敗北した。王戎はさらに鄴に着き、〔その後、〕恵帝に従って洛陽へ戻った。恵帝が西方(長安)へ移動したため、王戎は郟へ逃げた。危険が迫る場所におり、みずから刀剣を手にしていたが、ふだんのように談笑し、恐怖している様子はまったく見せなかった。しばしば親族や賓客を招待し、終日歓楽していた。永興二年、郟で薨じた。享年七十二。元の諡号をおくられた。
 王戎は人材を見抜く眼をそなえていた。あるとき、山濤を加工前の玉や金と評し、「人々はみな、そういうものを宝物だとありがたがるが、どういう器物(加工品)になるのかはわかっていない」と。王衍を評し、「出で立ちがスラっと抜き出ていて、まるで玉でできた林や樹木のようだ。おのずと風塵(俗世のこと)にそびえたつ標識である」と。裴頠は長所を活かすのが下手、荀勖は短所を活かすのが上手、陳道寧は頑健で、長い竹竿を何本も束ねたかのよう、と批評した。族弟の王敦は高い名声をあげていたが、王戎は彼のことを嫌っていた。王敦が王戎を訪問するたびに、いつも病気と言って会わなかった。王敦は後日、はたして反乱を起こしたのであった。王戎のひとを見抜く眼と先見の明はこのような類いであった。あるとき、黄公(黄のオヤジ)の飲み屋のそばを通り過ぎたところ、振り返って後ろの車の乗客に言った、「私はむかし、嵆叔夜や阮嗣宗とこの店で痛飲したのですよ。竹林での交遊にも末席にあずからせていただきましたなあ。嵆阮の二人が逝ってしまうと、私はすぐに世俗に拘束されてしまいました。こんにち、この店を間近で見かけはしましたが、まるで山河が隔たっているかのような距離を感じましたね」15『世説新語』傷逝篇、第二章、略同。王戎の言葉の最後の「邈若山河」は既存の『世説新語』訳だと「山河のようにはるかなる存在だ」([川勝ほか一九六四])、「はるかの遠く彼方の山や川のようだ」([井波二〇一四C])と訳出されているが、ここでは(心理的な)距離の遠さを「邈」と言っているはずであり、「山河で隔てられているかのように遠く隔たっている」という意味で取るのが妥当だろう。『後漢書』列伝六四下、袁紹伝附袁譚伝に「劉表以書諫譚曰、『……、然孤与太公、志同願等、雖楚魏絶邈、山河迥遠、戮力乃心、共奨王室』」とあるのが類例。。むかし、孫秀が琅邪郡の吏であったとき、郷品〔の判定〕を郷論に要望した。王戎の族弟の王衍は許可するつもりではなかったが、王戎は孫秀に郷品を下すよう〔王衍に〕勧めた16このときに孫秀が就いていた職は郷品が不要の職(官品のない職)だったのだろうが、具体的にこれに該当する職は不明。宮崎市定氏[一九九七]は地方官のなかでも「軍府、王府の上層僚佐になる際には郷品が必要なので、孫秀が郷品を求めたのは恐らく彼が趙王倫の府に移る際であったであろう」(二七六頁)と述べている。孫秀が「郷品を郷論に求めた(求品於郷議)」ことにかんしてもうひとつ参考になるのが、巻四六、李重伝である。恵帝・元康年間、燕国の中正であった劉沈が霍原なる人物を郷品二品で推薦したが、司徒府に却下されてしまうという騒動があった(巻八九、忠義伝、劉沈伝、巻九四、隠逸伝、霍原伝もあわせて参照)。このときの李重の奏に「〔劉沈〕始挙原、先諮侍中・領中書監華、前州大中正・後将軍嬰、河南尹軼。去三年、諸州還朝、幽州刺史許猛特以原名聞、擬之西河、求加徴聘。如沈所列、州党之議既挙、又刺史班詔表薦如此」とある。劉沈は推薦のさいに数人の人物を列挙して人材保証を得られていることを証明していたらしいが、その保証の一部が「州党之議」と言われている。これに相当すると思われるのは「侍中・領中書監華、前州大中正・後将軍嬰、河南尹軼」への諮問であろう。この華、嬰、軼の三人のうち、華は張華を指すと考えられる。恵帝はじめころの官職と一致しており、かつ張華は幽州范陽の出身で、「州党」に相当するからである(越智重明氏[一九七〇]も張華と断定している)。だとすれば、残る二人もやはり幽州出身の著名人なのであろう。このような、中正の推薦時に出身地の著名人から推薦保証を得ることを「郷品を郷論に求めた(求品於郷議)」と言っているのではないかと思われる。王衍は琅邪出身なので、孫秀の郷論に関与することになったのだろう。。孫秀が野心をかなえると、旧来から怨恨があった朝士はことごとく誅殺されたが、王戎と王衍は無事を得たのであった。
 子の王万は高い名声を博していた。若年にしておおいに肥満で、王戎はぬかを食わせたものの、ますます太った。〔王戎よりも先に〕十九歳で卒した17この子について、一説に名は綏、字は万子という。『世説新語』賞誉篇、第二九章に「戎子万子、有大成之風、苗而不秀」とあり、劉孝標注に引く「晋諸公賛」に「王綏字万子、辟太尉掾、不就、年十九卒」とあり、『世説新語』傷逝篇、第四章の劉孝標注に引く「王隠晋書」に「戎子綏、欲取裴遁女、綏既蚤亡、戎過傷痛、不許人求之、遂至老無敢取者」とある。賞誉篇、第二九章の劉孝標注に引く「晋書」は王万とし、本伝と同じ記述になっているが、劉孝標はとくにコメントせず両説を併記する体裁を取っている。それゆえ、本伝がまちがっているとも一概に言いきれない。。庶子の王興は、王戎から可愛がられなかった。従弟である陽平太守の王愔の子を〔王戎の〕後継ぎとした。

山濤(1)山濤(2)附:山簡・山遐王戎(1)王戎(2)附:王衍附:王澄・郭舒楽広

(2022/8/12:公開)

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    本伝の時系列に従えば、恵帝・元康元年の制定となるが、中村圭爾氏[二〇一五]は王戎がこれ以前の武帝期に吏部尚書に就いたときのことである可能性を指摘し、そうだとすれば太康一〇年の成立であろうと推測している(一二八―一二九頁)。なお甲午制で経由を必要とするところの地方官とは県令長のことである([宮崎一九九七]一三六頁)。
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    原文「送故迎新、相望道路」。各地で地方官の交代が頻繁におこなわれるため、前任者の送り出しと新任者の迎えがたえず道路を往来しているさまを言う。一種の定型表現で、「間者守宰数見換易、迎新相代、疲労道路」(『後漢書』列伝二三、朱浮伝)、「今州県職司、或莅政無幾、便徴召遷転、迎新故旧、紛紜道路」(『三国志』呉書一六、陸凱伝)、「自頃長吏軽多去来、送故迎新、交錯道路」(巻八二、虞預伝)などの例がある。
     漢代からそうであったのかはわからないが、魏晋時期の送故は前任者に一定期間同行し、迎新は新任者の滞在地まで迎えに行っていたようである。迎新の例としては巻四九、光逸伝に「後為門亭長、迎新令至京師。胡毋輔之与荀邃共詣令家、望見逸、謂邃曰、『彼似奇才』」とあり、光逸は新令を迎えに洛陽の居宅にまで赴いていたらしい。送故の例としては、巻六三、李矩伝に「〔李矩〕及長、為吏、送故県令於長安、征西将軍梁王肜以為牙門」とあり、李矩は前任の平陽県令を長安まで送ったあとも、おそらくそのまま前任者に随従して長安に滞在し、やがて長安に出鎮していた梁王に辟召されたのであろう。また『三国志』魏書九、夏侯尚伝附夏侯玄伝の裴松之注に引く「世語」に「〔王〕経字玄偉、初為江夏太守。大将軍曹爽附絹二十四匹令交市于呉、経不発書、棄官帰、母問帰状、経以実対。母以経典兵馬而擅去、対送吏杖経五十」とあり、送故の吏(「送吏」)が王経の郷里にまで同行していることが確認できる。こうした送故の吏がどのタイミングで離れていくのかは不明だが、東晋はじめの虞預の送故迎新にかんする言葉に「加以王塗未夷、所在停滞、送者経年、永失播植」とあり(虞預伝)、政情不安な状況下ゆえ送者が「経年(一年が過ぎる)」ほどになっていると述べていることからすると、一般的には一年経たずに離れていたのだと思われる。[周一良一九八五]八三頁、[高二〇〇〇]を参照。
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    原文「巧詐由生」。『三国志』魏書二一、劉廙伝の裴松之注に引く「廙別伝載表論治道」に「況於長吏以下、群職小任、能皆簡練備得其人也。其計莫如督之以法。不爾而数転易、往来不已、送迎之煩、不可勝計。転易之間、輒有姦巧」とあり、「県令長の交代のたびごとに『姦巧』がある(転易之間、輒有姦巧)」という本伝に類した文言が見られる。さらに関連する記述を求めると、『漢書』巻八九、循吏伝、黄覇伝に「数易長吏、送故迎新之費、及姦吏縁絶簿書盗財物」とあり、顔師古注に「縁、因也。因交代之際而棄匿簿書以盗官物也」とある。すなわち「姦吏縁絶簿書盗財物」とは〈悪い県令長は交代の機会を利用し、帳簿書類を隠滅して官の物資を横領する〉という意味であるらしい。どちらの例も本伝と文言および文脈が類似しているため、これらにもとづいて解釈することにした。ちなみに魏晋時期の送故は官有の金品をあわせて送るのが慣例になっていたが([周一良一九八五]八三頁、[高敏二〇〇〇])、この習慣のことを「巧詐由生」と批判的に表現しているのかもしれない。
  • 4
    原文「傷農害政」。官(「政」)にも民(「農」)にもダメージを与えている、と解釈した。頻繁な送故迎新が官民に損害を与えるという言い方は一種の定型文句でもあり、たとえば『三国志』陸凱伝に載せる陸凱の上疏に「先帝時、居官者成久於其位、然後考績黜陟。今州県職司、或莅政無幾、便徴召遷転、迎新故旧、紛紜道路、傷財害民、於是為甚、是不遵先帝十九也」とあり、「傷害財民」という文言が見える。もう少し具体的な記述を探してみると、本文で王戎を弾劾している傅咸はこのとき、「中間以来、長吏到官、未幾便遷、百姓困於無定、吏卒疲於送迎」との認識をもっていたとされ(巻四七、傅玄伝附傅咸伝)、県令長が頻繁に交代してしまうため、百姓は安定しない地方行政に苦しみ、吏は度重なる送迎に疲労しているという。また元帝承制時代の丁潭の上書に「今之長吏、遷転既数、有送迎之費」とあり(巻七八、本伝)、送迎に費用がかかっていることが指摘されている。同様に東晋はじめの虞預の言葉に「自頃長吏軽多去来、送故迎新、交錯道路。受迎者惟恐船馬之不多、見送者惟恨吏卒之常少。窮奢竭費謂之忠義、省煩従簡呼為薄俗、転相放効、流而不反、雖有常防、莫肯遵修」とあり(虞預伝)、当時の風潮では送迎に多くの出費をかけるのが重んじられていたという。以上のような政情不安の常態化、頻繁な送迎による疲弊、地方官府の出費のかさみなどといったかたちで官民に損害を与えていたのだろう。
  • 5
    傅玄伝附傅咸伝にもこのときの弾劾の記述があるが、「時僕射王戎兼吏部、咸奏、『戎備位台輔、兼掌選挙、不能謐静風俗、以凝庶績、至令人心傾動、開張浮競。中郎李重、李義不相匡正。請免戎等官』」とあり、本伝とは奏の文面が異なっている。前の注で甲午制は武帝太康年間成立の可能性があることを記したが、傅咸の弾劾自体は傅咸伝でも恵帝年間のこととされており、弾劾が恵帝時代に起きたことであるのは確かなのであろう。念のために付言すると、傅咸は甲午制そのもの(まず地方官で官人としての能否を判定する)を批判しているのではなく、王戎の選挙が甲午制の意図にそむき、さっさと中央官に徴してしまっていることを糾弾しているのである。
  • 6
    原文「譎詐多端」。「多端」は一般的に「回数が多い(何度も繰り返す)、「多方面に及ぶ」、「多様である」、「やることが多い(物事が複雑である/多忙である)」といった意味の語だが、しばしば本伝のように詐欺の語の後ろに付いて用いられるケースがある。たとえば「責授登州刺史柳璨、……詭譎多端、苞蔵莫測」(『旧唐書』巻二〇、哀帝紀下、天祐二年十二月)、「〔李〕仲言辯譎多端、〔王〕守澄見之甚悦」(『旧唐書』巻一六七、李逢吉伝)、「虜人雖来、義不先用、勒兵自固、以観成敗、王師勝則分功、敗則図変、狡詐多端、不可信」(『新唐書』巻二二四、叛臣伝上、李懐光伝)など、唐書によく見える。いま挙げた例は「ウソを常習的に繰り返している」「ありとあらゆる面をウソでつくろう」と訳すことも可能だと思われ、そうであるならば「多端」の一般的な用法内に収まる。この場合、(1)「多端」は上の詐欺の語に係り、詐欺の程度を説明する働きをもっていることになる。
     しかしいっぽう、「〔沮渠〕蒙遜子秉、……険詖多端、真君中、遂与河東蜀薛安都謀逆」(『魏書』巻九九、盧水胡沮渠蒙遜伝)、「其別部大人劉庫仁勇而有智、鉄弗衛辰狡猾多端、皆不可独任」(『北史』巻二一、燕鳳伝)という例があり、これら「険詖多端」「狡猾多端」の「多端」を「何度も繰り返す」「多方面に及ぶ」という意で取ることはできないと思われる。さらに注目すべきことに『北史』燕鳳伝の「狡猾多端」は『魏書』巻二四、燕鳳伝だと「狡猾多変」に作られており、『北史』の「多端」は「多変」と同義であるように見られるのである。
     そこで検索範囲をもう少し広げ、狡猾や詐欺を示す語のあとに「多○」が付く例を探してみると、「多方」(『晋書』巻一二六、禿髪傉檀載記「傉檀権詐多方、憑山河之固、未可図也」)、「多事」(『魏書』巻八〇、斛斯椿伝「椿狡猾多事、好乱楽禍、干時敗国、朝野莫不讐疾之也」)、「多計」(『梁書』巻五六、侯景伝「侯景狡猾多計、反覆難知、我死後、必不為汝用」)、「多計略」(『陳書』巻三一、任忠伝「〔任忠〕及長、譎詭多計略」)、「多謀」(『旧唐書』巻一一一、張鎬伝「滑州防禦使許叔冀、性狡多謀、臨難必変」)、「多算」(『新唐書』巻九二、杜伏威伝「伏威狡譎多算、毎剽劫、衆用其策皆効」)と、さまざまなケースが見出せる。「多端」の例も含め、基本的にはどの例も狡知に長けていること、信頼しがたいことを形容しているようである。どの「多○」もおおむね共通した意味をもっているとすれば、それはおそらく「たくらみごとが多い」ではないだろうか。それが文脈に応じて「狡知に長けている」となったり、「打算的で態度がさまざまに変わるので信頼できない」となったりするのであろう。つまりこの場合、(2)「多端」はこの語単独で主語の邪悪さを形容していることになる。
     では本伝の「多端」を(1)と(2)のどちらの用法で取るべきだろうか。確たる自信はもてないが、多くの用例に鑑み、(2)の用法で取ることにしたい。文脈からみても、〈王戎の本心はうかがいしれず、信頼できない〉というのがここで言いたいことだと思われる。よって、ここの「多端」を「態度をさまざまに変える」という意味で訳出した。
  • 7
    原文「安肯為少年用」。本伝と似た例に『梁書』侯景伝「侯景狡猾多計、反覆難知、我死後、必不為汝用」、『新唐書』巻一八〇、李徳裕伝「沙陀・退渾、不可恃也。夫見利則進、遇敵則走、雑虜之常態、孰肯為国家用邪」がある。
  • 8
    以下の発言は巻五九、斉王冏伝だと斉王が百官に向かって言ったことになっている。
  • 9
    原文「偽薬発堕厠、得不及禍」。「薬の発作で便所から落ちたとウソをついた」と読めなくもないが、それだと誰かが「王戎が便所から落ちた」と言いに行っていることになり、やや不自然なシチュエーションに感じる。王戎には嘔吐の持病があったので、持病の発作が起きたとウソをつき、トイレへ駆け込んで朝廷から脱出したといういきさつではなかろうか。
  • 10
    『論語』衛霊公篇に「君子哉蘧伯玉、邦有道則仕、邦無道則可巻而懐之」とあり、『論語集解』に「包曰、『「巻而懐」、謂不与時政、柔順不忤於人』」とあり、政治に関わらず、他人にも逆らわないように柔和するさまを指すと思われる。
  • 11
    原文「間乗小馬」。「間」は「秘密裏に」とも「ときどき」とも訳せるが、『芸文類聚』巻四七、司徒に引く「又曰」(「王隠晋書」)に「常乗馬轝、無日不出」とあるのをふまえ、「秘密裏に」で取った。無断外出を繰り返していたということだろう。
  • 12
    原文「恒若不足」。前文との文脈を考慮すると、計算の数が合わないことを言っているとも読める。ただ、このような表現は果て知らずに蓄財に励んでいることを言うときにしばしば使われており、たとえば『宋書』巻五一、宗室伝、長沙景王道憐伝に「道憐素無才能、言音甚楚、挙止施為、多諸鄙拙。高祖雖遣将軍佐輔之、而貪縦過甚、畜聚財貨、常若不足、去鎮之日、府庫為之空虛」とあり、『後漢書』帝紀八、霊帝紀の李賢注に引く「続漢志」に「太后雖積金銭、猶慊慊常若不足、使人舂黄粱而食之也」とある。また『三国志』魏書一六、鄭渾伝の裴松之注に引く「張璠漢紀」に「〔鄭泰〕家富於財、有田四百頃、而食常不足、名聞山東」とあり、『魏書』巻八四、儒林伝、平恒伝に「廉貞寡欲、不営資產、衣食至常不足、妻子不免飢寒」とあるように、経済的に事欠くさまを「不足」と表現することもある。これらをふまえ、ここは蓄財に励むさまを述べたものと解釈した。
  • 13
    原文「更責取」。『世説新語』倹嗇篇、第二章は「更責之」に作る。[川勝ほか一九六四]、[井波二〇一四D]に従い、「責」を「代金を請求する」の意で取った。
  • 14
    原文「常出貸之」。あとで代金を請求したということだろうか。『世説新語』倹嗇篇、第四章は「売之」とあってわかりやすい。
  • 15
    『世説新語』傷逝篇、第二章、略同。王戎の言葉の最後の「邈若山河」は既存の『世説新語』訳だと「山河のようにはるかなる存在だ」([川勝ほか一九六四])、「はるかの遠く彼方の山や川のようだ」([井波二〇一四C])と訳出されているが、ここでは(心理的な)距離の遠さを「邈」と言っているはずであり、「山河で隔てられているかのように遠く隔たっている」という意味で取るのが妥当だろう。『後漢書』列伝六四下、袁紹伝附袁譚伝に「劉表以書諫譚曰、『……、然孤与太公、志同願等、雖楚魏絶邈、山河迥遠、戮力乃心、共奨王室』」とあるのが類例。
  • 16
    このときに孫秀が就いていた職は郷品が不要の職(官品のない職)だったのだろうが、具体的にこれに該当する職は不明。宮崎市定氏[一九九七]は地方官のなかでも「軍府、王府の上層僚佐になる際には郷品が必要なので、孫秀が郷品を求めたのは恐らく彼が趙王倫の府に移る際であったであろう」(二七六頁)と述べている。孫秀が「郷品を郷論に求めた(求品於郷議)」ことにかんしてもうひとつ参考になるのが、巻四六、李重伝である。恵帝・元康年間、燕国の中正であった劉沈が霍原なる人物を郷品二品で推薦したが、司徒府に却下されてしまうという騒動があった(巻八九、忠義伝、劉沈伝、巻九四、隠逸伝、霍原伝もあわせて参照)。このときの李重の奏に「〔劉沈〕始挙原、先諮侍中・領中書監華、前州大中正・後将軍嬰、河南尹軼。去三年、諸州還朝、幽州刺史許猛特以原名聞、擬之西河、求加徴聘。如沈所列、州党之議既挙、又刺史班詔表薦如此」とある。劉沈は推薦のさいに数人の人物を列挙して人材保証を得られていることを証明していたらしいが、その保証の一部が「州党之議」と言われている。これに相当すると思われるのは「侍中・領中書監華、前州大中正・後将軍嬰、河南尹軼」への諮問であろう。この華、嬰、軼の三人のうち、華は張華を指すと考えられる。恵帝はじめころの官職と一致しており、かつ張華は幽州范陽の出身で、「州党」に相当するからである(越智重明氏[一九七〇]も張華と断定している)。だとすれば、残る二人もやはり幽州出身の著名人なのであろう。このような、中正の推薦時に出身地の著名人から推薦保証を得ることを「郷品を郷論に求めた(求品於郷議)」と言っているのではないかと思われる。王衍は琅邪出身なので、孫秀の郷論に関与することになったのだろう。
  • 17
    この子について、一説に名は綏、字は万子という。『世説新語』賞誉篇、第二九章に「戎子万子、有大成之風、苗而不秀」とあり、劉孝標注に引く「晋諸公賛」に「王綏字万子、辟太尉掾、不就、年十九卒」とあり、『世説新語』傷逝篇、第四章の劉孝標注に引く「王隠晋書」に「戎子綏、欲取裴遁女、綏既蚤亡、戎過傷痛、不許人求之、遂至老無敢取者」とある。賞誉篇、第二九章の劉孝標注に引く「晋書」は王万とし、本伝と同じ記述になっているが、劉孝標はとくにコメントせず両説を併記する体裁を取っている。それゆえ、本伝がまちがっているとも一概に言いきれない。
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