巻四十三 列伝第十三 山濤(3)

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山濤(1)山濤(2)附:山簡・山遐王戎(1)王戎(2)附:王衍附:王澄・郭舒楽広

〔山簡〕

 山簡は字を季倫という。温厚で気品があり、父の風格をそなえていたが、二十余歳になっても、山濤は彼を評価していなかった。山簡は嘆息して言った、「もう三十になろうというのに、家公(ちちぎみ)に認められずにいるなんて」。のちに譙国の嵆紹、沛郡の劉謨、弘農の楊準と名声を等しくした。最初は太子舎人となり、太子庶子、黄門郎と昇進を重ね、地方に出て青州刺史となった。中央に召されて侍中に任じられ、しばらくして列曹尚書に転じた。鎮軍将軍1和刻本は「鎮南将軍」の誤りではないかと疑っている。、荊州刺史を経て、領南蛮校尉に命じられたが、荊州に行かなかったため2原文「歴鎮軍将軍、荊州刺史、領南蛮校尉、不行」。「歴(……を経て)」がよくわからないが、とりあえず訳出してみた。、ふたたび列曹尚書に任じられた。光煕のはじめ、吏部尚書に転じた。永嘉のはじめ、地方に出て雍州刺史、鎮西将軍となった。中央に召されて尚書左僕射、領吏部となった。
 山簡は、朝臣おのおのに知っている人材を推挙させることで、人材を獲得するルートを拡充しようと思い、上疏して言った、「臣が思いますに、いにしえ以来、栄枯盛衰はまことに人材を官に任命する職務にかかっています。かりにも人材を得られれば、どんな物事でも治まるでしょう。『尚書』に『ひとの才能を見分けられるのは英智があるというもの。堯陛下ですらこれをなすのは困難であったのだ』(臯陶謨篇)とあります。堯と舜の栄華は八元八愷が登用されたからですし、周室の繁栄は大勢の士人が出仕していたからです。秦漢以降、そうした風流はしだいに失われていきました。後漢になると、女君が臨朝し3『後漢書』帝紀一〇、皇后紀上の序文に「東京皇統屡絶、権帰女主、外立者四帝、臨朝者六后」とあり、李賢注に「章帝竇太后、和熹鄧太后、安思閻太后、順烈梁太后、桓思竇太后、霊思何太后也」とある。、高官や要職が皇帝の保母〔の縁故を得た者〕から抜擢されましたが4原文「尊官大位、出於阿保」。『後漢書』列伝四二、崔駰伝附崔寔伝に「寔従兄烈、有重名於北州、歴位郡守・九卿。霊帝時、開鴻都門榜売官爵、公卿州郡下至黄綬各有差。其富者則先入銭、貧者到官而後倍輸、或因常侍・阿保別自通達。……烈時因傅母入銭五百万、得為司徒」とあり、霊帝期に宦官や乳母(「阿保」「傅母」)に銭を納めて高官の位を得る者がいたという。原文はやや言葉足らずだが、このことを言いたいのだろうと解し、言葉を補って訳出した。、これは混乱の端緒でした。このため、郭泰や許劭のような人々は民間で清議を明白にし、陳蕃や李固のような人々は朝廷で忠節を固持しました。そうしてようやく、君臣間の名分や忠節のような、古今にわたって伝えられてきた秩序について、しっかり明言できるようになったのです5原文「然後君臣名節、古今遺典、可得而言」。よく読めない。前文で言われている朝野の人々の存在によって、「君臣名節」のような「古今遺典」が絶えることなく存続できた、という意味で解釈してみた。。初平のはじめから建安のおわりまでの三十年間、百姓は離散し、死んでしまってほとんどいなくなってしまいましたが、これは混乱の極致でした。世祖武皇帝は天命に応じ、民心に従い、魏から受禅しましたが、泰始のはじめは御自身で万機をお執りになり、佐命の功臣はみな職務を遵守しました。そのころ、黄門侍郎の王恂と庾純がはじめて太極殿の東堂で政事の意見を聴いて審理し6原文「於太極東堂聴政」。太極殿東堂で開催された小朝会のことをいう。懐帝紀の訳注を参照のこと。、尚書奏事について評議するようになりましたが、刑罰について議論することが多く、選挙については議論しませんでした。臣が考えますに、〔その当時は〕難しい問題を後回しにし、簡単な問題を処理しようとしたからでしょう。陛下ははじめて万国に君臨し、人々は忠誠を尽くそうと心に誓っています。〔太極殿東堂で〕政事の意見をお聴きなさる日は毎回、公卿大臣に命じて優先的に選挙について議論させ、各自に面識のある若い秀才、郷里の俊傑、任用にかなう才士を言わせるようにいたしましょう。〔そして小朝会のあとで、〕全員にそれらの名を奏上させ、主者(尚書吏部)に〔奏上された人材を〕欠員に応じて優先して叙任させましょう。これが『朝廷でひとに爵を授けるのは、人々といっしょにうやうやしくおこなう』7原文「爵人於朝、与衆共之」。出典は『礼記』王制篇だが、もとは「爵人於朝、与士共之、刑人於市、与衆弃之」とあり、肝心な字が誤っている。という義です」。朝廷はこれを聴き入れた。
 永嘉三年、地方に出て征南将軍、都督荊・湘・交・広四州諸軍事、仮節となり、襄陽に出鎮した。当時、四方で戦乱が起き、天下は瓦解し、王室の威信は振るわず、官民みな不安を抱いていた。山簡はゆったりと過ごして一年を越し、酒にひたるばかりであった。習氏は荊州の豪族で、池をそなえた美しい庭園を所有していた。山簡は遊びに出かけるたびに、その池のほとりへ行くことが多く、酒宴を設けて毎回酔いつぶれ、この池を「高陽池」と名づけていた。当時、このように歌う児童がいた、「山公はいずこにお出かけ、高陽池にお出ましさ。日が暮れたら車に突っ伏してお帰りになり8原文「日夕倒載帰」。『襄陽記』(『芸文類聚』巻九、池、引)、『襄陽耆旧伝』(『太平御覧』巻四六五、歌、引)はこれと同じだが、『世説新語』任誕篇、第一九章は「日莫倒載帰」に作る。「日夕」にも日暮れの意味があるので(『漢語大詞典』)、「日夕」と「日莫」は同義とみてよいだろう。この句は解釈が分かれ、[川勝ほか一九六四]は「日暮れのお帰り車は逆のり」、[井波二〇一四C]は「日暮れには、馬にさか乗りしてお帰りになり」と訳し、また『晋書斠注』に引く李治『敬斎古今黈』は「倒載」を「車に倒れ臥して乗る」と解釈している。[川勝ほか一九六四]は、後文の「倒著白接籬(白い接籬を逆にかぶる)」を考慮して、「倒」を逆転の意味で読んだのだと思われるが、「逆さまに乗車する」というのはどういう情景なのか、想像しにくい。井波律子氏が「逆さまに乗馬する」と読んでいるのもそのためであろうと思われるが、しかしそれもまたイメージがしにくい。下の句で〈山簡は酩酊していて何も覚えていない〉とあり、イメージとして浮かぶのは突っ伏して寝ながら車に乗っている様子ではなかろうか。つまり李治の解釈が比較的妥当だと思われる。、酔いつぶれて何もわからない。たまに馬に乗れるときもあるけれど、白い接籬9シラサギの羽で飾った帽子。(『漢辞海』)が前後逆さま。鞭を振り上げ、葛疆を指してひとこと、『并州男児とどっちが上手いかな』10『世説新語』世界文学大系訳[川勝ほか一九六四]は「并州男児は由来騎馬に巧みであった」と注している。妥当な解釈であろう。」。葛疆は家が并州にあり、山簡のお気に入りの将であった。
 まもなく督寧・益軍事を加えられた。このころ、劉聡が〔中原に〕侵入し、京師に危険が迫っていた。山簡は督護の王万を派遣し、軍を統率させて戦難に駆けつけさせた。〔王万が〕涅陽に駐屯したところ、宛の賊の王如に敗れてしまい、〔山簡は〕とうとう城にこもって守りを固めた。洛陽が陥落すると、山簡も賊の厳嶷に圧迫を受けたので、夏口へ移動した。流亡している人民を招き集めたので、江漢の地(荊州北部)の人々は[山簡のもとに]身を寄せた。そのころ、華軼が江州で乱を起こしており、或るひとが華軼討伐を山簡に勧めた。山簡は「彦夏(華軼の字)は旧友で、彼のために失望を覚えているが、ひとの隙につけこんで11原文「利人之機」。旧友という間柄を利用して不意打ちする、という意味であろう。功績を立てようなど、どうして簡(わたし)がするものか」と言った。彼の篤実ぶりはこのようであった。当時、楽府の伶人(楽官)は難を避けて多くが沔漢の地(荊州北部)へ逃れていた。〔山簡が〕宴会を開いたとき、僚属が伶人らに音楽を演奏させるよう提案したことがあった。山簡は「社稷が転覆したというのに、建てなおすことができずにいるのだから、〔我々は〕晋朝の罪人である。どうして音楽を演奏できようか」と言った。そして涙を流して悲憤したので、同席していた者たちはみな恥じ入った。
 六十歳で卒し、征南大将軍、儀同三司を追贈された。子を山遐という。

〔山遐〕

 山遐は字を彦林という。余姚令となった。当時、東晋が創業したばかりで12原文「時江左初基」。このような表現は東晋・元帝期を指すことが多いが、中村圭爾氏[二〇〇六]が指摘するように、本伝後文に登場する何充が会稽内史になったのは成帝期・蘇峻の乱後なので(巻七七、何充伝)、実際は成帝時代のことである(七九頁)。、法令が弛緩しており、多くの豪族が戸口を隠匿し、私附13原文まま。私的従属民、私有民のような類いであろうが、賤民とまで言ってしまってよいかは議論が分かれそうである。元帝のころは中原から避難してきた流亡民が大量に江南豪族の「客」や「奴」に転没したことが知られているが([中村圭爾二〇〇六]七〇―七六頁、[長谷川二〇一九]六〇頁などを参照)、ここの「私附」が客や奴と同じであるのか否かは不明。としていた。山遐は厳しい法令にもとづいて矯正し、県に到着して八旬日(八十日)にして、〔隠匿されていた〕一万余口をあぶりだした14豪族・勢力者による戸の隠匿(いわゆる「蔵戸」)というのは、豪族・勢力者が流亡民などを庇護し、そのまま行政には申告せず、戸籍に登録せずにいることをいう。そうして庇護した流亡民を労働させつつ、流亡民のほうも戸籍登録から逃れているため、税の徴収を免れることができる。東晋時代において蔵戸は社会問題だったようで、のちの哀帝の時代に「庚戌制」と呼ばれる大々的な蔵戸の摘発が実施された([中村圭爾二〇〇六]八〇―八一頁)。。県人の虞喜は戸を隠匿していた罪によって棄市の刑に相当したので、山遐は虞喜の身柄を確保しようとした15[籾山二〇〇六]によれば、一般に犯罪は官憲への告訴・告発によって発覚する。告訴を受理した官憲は被告を逮捕し、複数回の尋問を経て罪名とそれに相当する刑罰を確定させるという(第二章第一節)。ここの場合も、私人か官人から「虞喜は蔵戸の罪を犯していて死罪に相当する」といった類いの告発があり、山遐はそれを承けて虞喜を逮捕しに行こうとした、ということであろう。。豪族らはみな山遐に歯ぎしりし、執事(朝廷の担当官?)にこう言った。虞喜は高尚な節操をそなえており、屈辱を与えるべきではない、と16虞喜は巻九一、儒林伝に立伝されており、学識ある処士として当時は高名であった。かつ余姚の虞氏は後漢以来の名族でもあった。擁護の声があがった背景にはこのような事情も働いていたとみてまちがいない。[大川一九八七]三〇、五四―五五頁を参照。。また、山遐がかってに県の庁舎を建てた、とも言った。とうとう〔山遐を〕無断で庁舎を建てた罪におとしいれた。山遐は会稽内史の何充に書簡を送り、「あと百日ください。罰を逃れている連中をとことん打尽にし、それから官を退いて罪に就くのでしたら、後悔はございません」と言った。何充は〔山遐の無罪を〕弁護したが、認められなかった。ついに罪に問われて免官された。
 のちに東陽太守となったが、政治は法に厳しい方針であった。康帝は詔を下して言った、「東陽における近ごろの囚人の取り調べは、恒常的に重罪認定が多い17原文「東陽頃来竟囚、毎多入重」。「入重」は重罪に判定すること。少し自信がないので訳文には反映させなかったが、死刑判決を受けた囚人をおおむね指すと思われる。「竟囚」の「竟」は「考」などと同義で、罪状の取り調べ、尋問の意だと思われる。『宋書』巻八五、謝荘伝に「旧官長竟囚畢、郡遣督郵案験、仍就施刑。督郵賤吏、非能異於官長、有案験之名、而無研究之実。愚謂此制宜革。自今入重之囚、県考正畢、以事言郡、并送囚身、委二千石、親臨覈辯、必収聲吞釁、然後就戮」とあり、おおよそ〈従来の制度では、県の官長が「竟囚」を終えると、郡は督郵をつかわして囚人を再調査させ、問題がなければ県が論決した刑罰を執行する。しかし督郵は位の低い吏で、県の官長に異議を唱えることができず、再調査の名目はあっても、真相究明の実態は存在しない。思うに、この制度は改正するべきである。今後、県で重罪に認定された囚人は、県の「考正」が終わりしだい、その案件を郡に報告し、あわせて囚人の身柄を引き渡し、二千石に委ねる。二千石はみずから再尋問し、必ず声を聴いて罪を吟味し、県の論決に問題がなければ死罪に処す〉という意味であろう。すなわち「竟囚」と「考正」が同じ意味で用いられていると考えられ、取り調べ、尋問の意で取るのが妥当と思われる。参考までに「竟囚」に類した語を挙げておくと、『宋書』巻九四、恩倖伝、戴明法伝に「時建康県考囚、或用方材圧額及踝脛」と、「考囚」という語がみえ、建康県は「考囚」のさいに拷問をすることがあったという記述なので、ここの「考囚」もやはり尋問の意であろう。
 なお籾山明氏の研究[二〇〇六]によると、秦漢時代は県レベルの裁判において、(1)判決を下された囚人が再審を請求した場合(「乞鞫」)、(2)判決に悩む事件の場合(「上讞」)、(3)死罪などの重罪を判決する場合、いずれも郡が事件を再捜査することになっていた。そして少なくとも(1)と(3)は郡が都吏(督郵)に再捜査させていたらしい(第二章第三節)。謝荘伝で謝荘が提案している改革案に、二千石がみずから再尋問するのは「入重」の囚人で、再尋問後に「戮」すとあることから、この「入重」とは死罪を指すのであろう。すなわち謝荘伝で取り上げられている旧来の督郵の再捜査制度とは県が死罪判決を下した事件にかんしてであり、秦漢時代の(3)の制度の名残と言えるのかもしれない。
。郡に罪人が多いのだろうか、それとも、拷問によって自白を得ようとするから、誰もみずからの身を守ることができないのだろうか18原文「将捶楚所求、莫能自固邪」。『漢書』巻五一、路温舒伝に「夫人情安則楽生、痛則思死。棰楚之下、何求而不得。故囚人不勝痛、則飾辞以視之」とあり、〈拷問(「棰楚」)で脅せば何を求めても得られ、囚人は痛みに堪えかねてウソの自白をする〉という。本文はこれにもとづいた表現なのであろう。」。山遐は動揺することなくこの詔に応対し、〔従来からの方針を改めなかったので〕郡域は引き締まったのであった。在官中に卒した。

 史臣曰く、(以下略)

山濤(1)山濤(2)附:山簡・山遐王戎(1)王戎(2)附:王衍附:王澄・郭舒楽広

(2022/8/12:公開)

  • 1
    和刻本は「鎮南将軍」の誤りではないかと疑っている。
  • 2
    原文「歴鎮軍将軍、荊州刺史、領南蛮校尉、不行」。「歴(……を経て)」がよくわからないが、とりあえず訳出してみた。
  • 3
    『後漢書』帝紀一〇、皇后紀上の序文に「東京皇統屡絶、権帰女主、外立者四帝、臨朝者六后」とあり、李賢注に「章帝竇太后、和熹鄧太后、安思閻太后、順烈梁太后、桓思竇太后、霊思何太后也」とある。
  • 4
    原文「尊官大位、出於阿保」。『後漢書』列伝四二、崔駰伝附崔寔伝に「寔従兄烈、有重名於北州、歴位郡守・九卿。霊帝時、開鴻都門榜売官爵、公卿州郡下至黄綬各有差。其富者則先入銭、貧者到官而後倍輸、或因常侍・阿保別自通達。……烈時因傅母入銭五百万、得為司徒」とあり、霊帝期に宦官や乳母(「阿保」「傅母」)に銭を納めて高官の位を得る者がいたという。原文はやや言葉足らずだが、このことを言いたいのだろうと解し、言葉を補って訳出した。
  • 5
    原文「然後君臣名節、古今遺典、可得而言」。よく読めない。前文で言われている朝野の人々の存在によって、「君臣名節」のような「古今遺典」が絶えることなく存続できた、という意味で解釈してみた。
  • 6
    原文「於太極東堂聴政」。太極殿東堂で開催された小朝会のことをいう。懐帝紀の訳注を参照のこと。
  • 7
    原文「爵人於朝、与衆共之」。出典は『礼記』王制篇だが、もとは「爵人於朝、与士共之、刑人於市、与衆弃之」とあり、肝心な字が誤っている。
  • 8
    原文「日夕倒載帰」。『襄陽記』(『芸文類聚』巻九、池、引)、『襄陽耆旧伝』(『太平御覧』巻四六五、歌、引)はこれと同じだが、『世説新語』任誕篇、第一九章は「日莫倒載帰」に作る。「日夕」にも日暮れの意味があるので(『漢語大詞典』)、「日夕」と「日莫」は同義とみてよいだろう。この句は解釈が分かれ、[川勝ほか一九六四]は「日暮れのお帰り車は逆のり」、[井波二〇一四C]は「日暮れには、馬にさか乗りしてお帰りになり」と訳し、また『晋書斠注』に引く李治『敬斎古今黈』は「倒載」を「車に倒れ臥して乗る」と解釈している。[川勝ほか一九六四]は、後文の「倒著白接籬(白い接籬を逆にかぶる)」を考慮して、「倒」を逆転の意味で読んだのだと思われるが、「逆さまに乗車する」というのはどういう情景なのか、想像しにくい。井波律子氏が「逆さまに乗馬する」と読んでいるのもそのためであろうと思われるが、しかしそれもまたイメージがしにくい。下の句で〈山簡は酩酊していて何も覚えていない〉とあり、イメージとして浮かぶのは突っ伏して寝ながら車に乗っている様子ではなかろうか。つまり李治の解釈が比較的妥当だと思われる。
  • 9
    シラサギの羽で飾った帽子。(『漢辞海』)
  • 10
    『世説新語』世界文学大系訳[川勝ほか一九六四]は「并州男児は由来騎馬に巧みであった」と注している。妥当な解釈であろう。
  • 11
    原文「利人之機」。旧友という間柄を利用して不意打ちする、という意味であろう。
  • 12
    原文「時江左初基」。このような表現は東晋・元帝期を指すことが多いが、中村圭爾氏[二〇〇六]が指摘するように、本伝後文に登場する何充が会稽内史になったのは成帝期・蘇峻の乱後なので(巻七七、何充伝)、実際は成帝時代のことである(七九頁)。
  • 13
    原文まま。私的従属民、私有民のような類いであろうが、賤民とまで言ってしまってよいかは議論が分かれそうである。元帝のころは中原から避難してきた流亡民が大量に江南豪族の「客」や「奴」に転没したことが知られているが([中村圭爾二〇〇六]七〇―七六頁、[長谷川二〇一九]六〇頁などを参照)、ここの「私附」が客や奴と同じであるのか否かは不明。
  • 14
    豪族・勢力者による戸の隠匿(いわゆる「蔵戸」)というのは、豪族・勢力者が流亡民などを庇護し、そのまま行政には申告せず、戸籍に登録せずにいることをいう。そうして庇護した流亡民を労働させつつ、流亡民のほうも戸籍登録から逃れているため、税の徴収を免れることができる。東晋時代において蔵戸は社会問題だったようで、のちの哀帝の時代に「庚戌制」と呼ばれる大々的な蔵戸の摘発が実施された([中村圭爾二〇〇六]八〇―八一頁)。
  • 15
    [籾山二〇〇六]によれば、一般に犯罪は官憲への告訴・告発によって発覚する。告訴を受理した官憲は被告を逮捕し、複数回の尋問を経て罪名とそれに相当する刑罰を確定させるという(第二章第一節)。ここの場合も、私人か官人から「虞喜は蔵戸の罪を犯していて死罪に相当する」といった類いの告発があり、山遐はそれを承けて虞喜を逮捕しに行こうとした、ということであろう。
  • 16
    虞喜は巻九一、儒林伝に立伝されており、学識ある処士として当時は高名であった。かつ余姚の虞氏は後漢以来の名族でもあった。擁護の声があがった背景にはこのような事情も働いていたとみてまちがいない。[大川一九八七]三〇、五四―五五頁を参照。
  • 17
    原文「東陽頃来竟囚、毎多入重」。「入重」は重罪に判定すること。少し自信がないので訳文には反映させなかったが、死刑判決を受けた囚人をおおむね指すと思われる。「竟囚」の「竟」は「考」などと同義で、罪状の取り調べ、尋問の意だと思われる。『宋書』巻八五、謝荘伝に「旧官長竟囚畢、郡遣督郵案験、仍就施刑。督郵賤吏、非能異於官長、有案験之名、而無研究之実。愚謂此制宜革。自今入重之囚、県考正畢、以事言郡、并送囚身、委二千石、親臨覈辯、必収聲吞釁、然後就戮」とあり、おおよそ〈従来の制度では、県の官長が「竟囚」を終えると、郡は督郵をつかわして囚人を再調査させ、問題がなければ県が論決した刑罰を執行する。しかし督郵は位の低い吏で、県の官長に異議を唱えることができず、再調査の名目はあっても、真相究明の実態は存在しない。思うに、この制度は改正するべきである。今後、県で重罪に認定された囚人は、県の「考正」が終わりしだい、その案件を郡に報告し、あわせて囚人の身柄を引き渡し、二千石に委ねる。二千石はみずから再尋問し、必ず声を聴いて罪を吟味し、県の論決に問題がなければ死罪に処す〉という意味であろう。すなわち「竟囚」と「考正」が同じ意味で用いられていると考えられ、取り調べ、尋問の意で取るのが妥当と思われる。参考までに「竟囚」に類した語を挙げておくと、『宋書』巻九四、恩倖伝、戴明法伝に「時建康県考囚、或用方材圧額及踝脛」と、「考囚」という語がみえ、建康県は「考囚」のさいに拷問をすることがあったという記述なので、ここの「考囚」もやはり尋問の意であろう。
     なお籾山明氏の研究[二〇〇六]によると、秦漢時代は県レベルの裁判において、(1)判決を下された囚人が再審を請求した場合(「乞鞫」)、(2)判決に悩む事件の場合(「上讞」)、(3)死罪などの重罪を判決する場合、いずれも郡が事件を再捜査することになっていた。そして少なくとも(1)と(3)は郡が都吏(督郵)に再捜査させていたらしい(第二章第三節)。謝荘伝で謝荘が提案している改革案に、二千石がみずから再尋問するのは「入重」の囚人で、再尋問後に「戮」すとあることから、この「入重」とは死罪を指すのであろう。すなわち謝荘伝で取り上げられている旧来の督郵の再捜査制度とは県が死罪判決を下した事件にかんしてであり、秦漢時代の(3)の制度の名残と言えるのかもしれない。
  • 18
    原文「将捶楚所求、莫能自固邪」。『漢書』巻五一、路温舒伝に「夫人情安則楽生、痛則思死。棰楚之下、何求而不得。故囚人不勝痛、則飾辞以視之」とあり、〈拷問(「棰楚」)で脅せば何を求めても得られ、囚人は痛みに堪えかねてウソの自白をする〉という。本文はこれにもとづいた表現なのであろう。
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