巻一百五 載記第五 石勒下(2)

凡例
  • 文中の〔 〕は訳者による補語、( )は訳者の注釈、12……は注を示す。番号をクリック(タップ)すれば注が開く。開いている状態で適当な箇所(番号でなくともよい)をクリック(タップ)すれば閉じる。
  • 注で唐修『晋書』を引用するときは『晋書』を省いた。

石勒(1)石勒(2)石勒(3)石勒(4)石勒(5)附:石弘・張賓

 劉曜は石季龍を高候で破り、そのまま洛陽を包囲した。石勒の滎陽太守の尹矩、野王太守の張進らはみな劉曜に降ったため、襄国はおおいに震撼した。石勒がみずから洛陽を救援しようとすると、左右の長史や司馬である郭敖、程遐らが強く諌めた、「劉曜は勝ちに乗じて勢いがありますから、これと戦闘するのは困難です。金墉城は兵糧が豊富ですから、ここを攻めてもすぐに抜くことはできないでしょう1劉曜載記によれば、このとき金墉城には石生が籠城し、劉曜の水攻めを受けていた。。劉曜は懸軍をもって千里(遠方)から来ているわけですから、その勢いは長く持続しません。〔殿下が〕みずから動いてはなりません。動けば〔万が一の出来事がおこるかもしれず、〕万全というわけではなくなり、大業が去ってしまいます」。石勒はおおいに怒り、剣に手をかけて程遐らを叱責し、出てゆかせた。こうして徐光を赦免し、召して彼に言った、「劉曜は高候で勝利した勢いに乗じて、洛陽を包囲して留まっている。凡人どもの考えとしては、みなが劉曜の鋒(勢いに乗った軍)とは当たるべきではないと言うのだ。しかし、劉曜の兵士は十万だが、一つの城を攻めて百日経っても落とせずにいるから、兵士は疲弊しているのだろう。わが初鋭(先鋒の精鋭)をもってこれを攻めれば、一戦で劉曜を生け捕りにできよう。もし洛陽が陥落すれば、劉曜は必ずや死を冀州に送りつけるであろう。そうなると黄河以北はこぞって南(の劉曜)を向き、わが事業は去ってしまう。程遐らは私がみずから出撃するのを望んでいないが、卿はどう思うかね」。徐光は答えて言った、「劉曜は高候で勝利した勢いに乗じたのに、進軍して襄国に迫ることができず、そのうえ金墉城を守る(留まる?)というのは、無能の行動です。〔劉曜の〕懸軍は三時(春・夏・秋)を経ていて、攻撃の利益を失っているのですから、もし鸞旗(天子の旗)を立ててみずから出撃なされば、〔劉曜は〕必ずや旗を遠くに見ただけで敗走するでしょう。天下を定める計略は、いまのこの一挙にかかっています。いまのこの機会は、いわゆる天が授けたものであり、授かったのに応じなければ、禍が下るものなのです」。石勒は笑って、「光の言葉が正しい」と言った。仏図澄も石勒に言った、「もし大軍が出動すれば、必ず劉曜を生け捕りにできます」。石勒はたいへん喜び、内外を戒厳させ、諫言する者は斬った。石堪、石聡、豫州刺史の桃豹らに命じ、それぞれ現在の麾下を率いさせて滎陽に集結させ、石季龍を進ませて石門を占拠させ、左衛将軍の石邃を都督中軍事とし、石勒は歩騎四万を率いて金墉城に向かい、大堨から〔黄河を〕渡った。これより以前、黄河には流氷があり、風も強かったが、石勒軍が到着すると、氷が融け、天候も穏やかになり、渡り終えると、流氷が大量に下ってきた。石勒はこれを神霊の助けと思い、〔この場所を〕霊昌津と命名した。石勒は徐光のほうを向いて言った、「劉曜が兵を成皋関に集めていれば上策だ。洛水で阻んでくれば中策。坐して洛陽に留まっているならば生け捕りにできるな」。〔石勒の〕諸軍が成皋に集結し、〔総勢で〕歩兵は六万、騎兵は二万七千であった。石勒は劉曜の守備軍がいないのを見ると、おおいに喜び、手を上げて天を指さし、ついでみずからの額を指さして、「天なり」と言った。そうして〔兵士を〕軽装備にさせ、枚を口にくわえさせ、抜け道を使って倍の道程を進み、鞏と訾の領域に向かった。劉曜が軍十余万を洛陽城の西に布陣していることを知ると、ますます喜び、左右の者に「私を祝福しろ」と言った。石勒は歩騎四万を統率して宜陽門から洛陽城に入り、故太極前殿に登った。石季龍は歩兵三万で、城の北から西に進み、劉曜軍の中軍を攻め、石堪と石聡らはそれぞれ精鋭騎兵八千で、城の西から北に進み、劉曜軍の先鋒を攻め、西陽門で会戦した。石勒はみずから甲冑に身を通し、閶闔門から出撃し、劉曜軍を挟撃した。劉曜軍はおおいに潰走し、石堪が劉曜を捕え、劉曜を〔石勒のもとへ〕送り、〔石勒は〕全軍に見せて回らせた。斬首は五万余級で、死体は金谷まで連なった。石勒は令を下した、「生け捕りにしようと思ったのは一人(劉曜)だけであるが、いま、すでにその者は捕えた。そこで、〔劉曜の?〕将士に勅を下し、武器をおさめ、帰順の道に身を投じるようにせよそこで将士に命じる。武器をおさめ、帰順を促す道にゆだねるようにせよ2原文「縦其帰命之路」。わからない。とくに「縦」。原文「其敕将士抑鋒止鋭、縦其帰命之路」。「縦」を「するにまかせる」で読んだ。今後は平穏に帰順を促す方法を取るので、武力で従える必要はもうないから戦うのをやめなさい、という意味で解釈した。(2021/4/21:訳文&注修正)」。こうして軍を返した。征東将軍の石邃らに騎兵を統率させて劉曜を護衛させ、北に進ませた。
 このときになって、祖約が挙兵して〔晋に〕敗れたため、石勒に降った。石勒は王波に祖約をなじらせた、「卿は反逆がいきづまり、勢いが窮してからようやく来降し、帰順しようとしているが、わが朝は逃亡者の隠れ蓑だと思っているのか。だが、それでも卿はあえて厚かましい面(つら)を保とうというのだな3原文「而卿敢有靦面目」。「有靦面目」は『毛詩』小雅、何人斯に見える句だが、出典かどうかは不明。」。祖約に前後の檄書を見せてから4原文「示之以前後檄書」。自信なし。祖約が趙国内の人々に向けて送った一連の檄書のこと?、祖約を赦した。
 劉曜の子の劉熙らが長安から去り、上邽へ逃げたので、石季龍を派遣してこれを討伐させた。
 石勒は冀州の諸郡を巡回し、高齢の士、孝悌の士、力田(耕作に努める)の士、文学の士を召して接見し、穀物や帛を賜い、格差があった。遠近の牧守に命じて属城に布告させ、およそ進言したいことがあれば、秘めてはばかってはならならいと告げさせ、ちっぽけな朝廷は直言に飢えていると知らしめさせた。
 石季龍が上邽を落とし、主簿の趙封を派遣して伝国の玉璽、金璽、太子玉璽それぞれ一紐を石勒に送った5『太平御覧』巻六八二、璽に引く「玉璽譜」に「晋懐帝永嘉五年、王弥入洛陽、執懐帝及伝国六璽、詣劉曜。後為石勒所并、璽復属勒。勒刻一辺、云『天命石氏』。此題今不復存。勒為冉閔所滅、此璽属閔、閔敗、璽存閔大将軍蔣幹」とある。。石季龍は進軍して集木且羌を河西で攻め、これに勝ち、数万を捕虜にし、〔こうして〕秦隴の地はすべて平定された。涼州牧の張駿はおおいに恐懼し、使者をつかわして称藩し、産物を石勒に貢献した。氐と羌十五万落を司州と冀州に移した。
 石勒の群臣は議して、石勒の功業はすでに興隆し、瑞祥も符命もともに集まっていることから、適時に徽号(旗のしるし=天子の称号)を改め、乾坤(天地)の期待に応答するべきだと結論した。そこで石季龍らは皇帝の璽綬を奉じ、石勒に尊号をたてまつったが、石勒は許さなかった。群臣が強く要請したため、石勒はそこで咸和五年をもって僭越して趙天王を号し、行皇帝事となった。祖父の邪を宣王と尊び、父の周を元王と尊んだ。妻の劉氏を王后に立て、世子の弘を太子に立てた。石勒の子の石宏を持節、散騎常侍、都督中外諸軍事、驃騎大将軍、大単于に任命し、秦王に封じ6石季龍載記上に、石虎がこのときに大単于位を自分に授けられなかったことを怒って、「大単于之望実在于我、而授黄吻婢児」とあり、おそらく石宏は石弘とそれほど年齢が離れておらず、むしろ高い位を授けられていることからすると年長だったのかも。なのに太子には石弘が立てられたのは母の出自が低かったから(「婢児」)であろうか。、左衛将軍の石斌7『太平広記』異僧二、仏図澄に「虎有子名斌、後勒以為子、勒愛之甚重」とあり(紙の本を所有していないため「中国哲学書電子化計画」より閲覧)、石虎の実子であり、かつ石勒の養子という立場であったらしい。だから石弘とは(擬似血縁だが)兄弟関係にあたる。後文でこのことを踏まえた内容があるので要注意。(以下、追記)初歩的なミスを犯してしまいお詫びします。引用した『太平広記』の文は「出高僧伝」です。中華書局から出版されている湯用彤氏の校注本『高僧伝』巻九、仏図澄伝をみると、「石虎有子名斌、後勒愛之甚重」とあり、『太平広記』の引用文と異同があるが、この箇所には湯氏の校注が付されていて、「勒」字の下に「為児勒」の三字がある本も存在するそうである。とりあえず以上を追記。(2020/8/13)を太原王とし、〔石勒の〕小子の石恢を輔国将軍、南陽王とし、中山公の石季龍を太尉、守尚書令、中山王とし、石生を河東王とし、石堪を彭城王とした。石季龍の子の石邃を冀州刺史とし、斉王に封じ、散騎常侍、武衛将軍を加え、石宣(石虎の子)を左将軍とし、石挺を侍中、梁王とした。左長史の郭敖を尚書左僕射に任命し、右長史の程遐を尚書右僕射、領吏部尚書に任命し、左司馬の夔安、右司馬の郭殷、従事中郎の李鳳、まえの郎中令の裴憲を尚書に任命し、参軍事の徐光を中書令、領秘書監に任命した。論功して封爵を授け、開国郡公となった文武官は二十一人、郡侯は二十四人、県公は二十六人、県侯は二十二人、そのほかの文武官〔への授与〕はそれぞれ格差があった。侍中の任播らが参議し(議に参加し?)、趙は〔晋の〕金行を継承して水行とし、旗幟の色は黒を尊び、犠牲の牡牛の色は白を尊び、子の日に社の祭祀をおこない、丑の日に臘の祭祀をおこなうこととした(2020/12/6:修正)。石勒はこれを聴き入れた。石勒は書を下した、「今後、判断が難しい重要な案件があったら、尚書八坐と〔専門に〕詳しい(?)〔尚書〕丞と郎は持参して(?)8原文「齎」。さっぱりわからない。「斉」であれば通じるのだが。東堂に集会し、詳細に検討し、公正に結論せよ。そこで、軍事と国事の要務で啓する必要があるもの、尚書令、尚書僕射、列曹尚書が局(専門の部局?)に応じて入殿し報告するものがあれば9原文「有令僕尚書随局入陳」。よくわからない。、寒暑や昼夜を避けずに申せ」。
 石勒は祖約が本朝(趙)に不忠であることを理由に、これを誅殺し、その子姪や親属百余人も誅殺した。
 群臣は尊号につくのがよいと石勒に強く要請したので、石勒は僭越して皇帝の位につき、境内を大赦し、建平と改元し、襄国から臨漳(鄴)へ都を移した10『資治通鑑考異』に「按建平二年四月、勒如鄴、議営新宮。三年、勒如鄴、臨石虎第。勒疾、虎詐召石宏還襄国、至虎建武元年九月、始遷鄴。是勒未嘗都鄴也」とあり、たしかに疑わしい。。高祖父を順皇と追尊し、曾祖父を威皇とし、祖父を宣皇とし、父を世宗元皇帝とし、母を元昭皇太后とした。文武の官の封建と昇進はおのおの格差があった。妻の劉氏を皇后に立て、また昭儀と夫人の位を制定して上公相当とし、貴嬪と貴人の位は列侯相当とし、定員は各一人とした。三英と九華は伯爵相当とし、淑媛と淑儀は子爵相当とし、容華と美人は男爵相当とし、必ず賢才淑女を選抜し、定員は設けなかった。
 石勒の荊州監軍の郭敬と南蛮校尉の董幼が襄陽を侵略した。石勒は駅伝を使って郭敬に勅を下し、退却して樊城に駐屯させ、郭敬に指示して旗を伏せて隠させ、無人のようにひっそりとさせ、敵軍がもし人をやって偵察させてきたら、この斥候に「自愛して守りを固めていれば、あと七、八日で騎馬の大軍(援軍)が到着するはずだ。〔そうなれば敵軍は〕馬に鞭を打っても逃げきれまい」と吹き込ませた。郭敬は兵士に津で馬を洗わせ、〔そのあと〕歩き回らせてからふたたび〔洗馬を〕はじめさせ、昼夜絶えず〔洗馬を〕つづけさせた。〔晋軍の〕斥候が帰還して南中郎将の周撫に報告すると、周撫は石勒の大軍が到着したのだと思い、恐れて武昌へ逃げた。郭敬は襄陽に入ったが、軍にかってな掠奪がなかったため、百姓は安堵した。晋の平北将軍の魏該の弟の魏遐らが魏該の部衆を率いて石城から郭敬に降った。郭敬は襄陽を破壊し、襄陽の百姓を沔水の北に移し、樊城に城壁を築いて駐屯した。
 秦州の休屠の王羌が石勒にそむいたので、秦州刺史の臨深は司馬の管光を派遣し、州軍を統率させてこれを討伐させたが、王羌に敗北した。隴右はおおいに騒擾し、氐と羌はことごとくそむいた。石勒は石生を派遣し、進軍させて隴城を占有させた。王羌の兄の子の王擢は王羌と仇怨があったので、石生は王擢に賄賂を贈り、共同して王羌をはさみうちにした。王羌は敗北し、涼州へ敗走した。秦州の夷の豪右五千余戸を雍州へ移した。
 石勒は書を下した、「今後、断獄があれば、すべて法律にもとづくように11原文「諸有処法、悉依科令」。「処法」は、用例を見るかぎり「法律案件を処理すること」で、たいてい断獄を指すようである。以下につづくように、これまでは石勒の独断で処罰を下していたけれど、これからは法律にもとづいて決定するとの意だと思われる。。私が怒って殺した者や、怒って〔処罰の〕詔を発した者のなかで、もし〔処罰した者の〕徳と位が高く、処罰が適切でなかった場合、あるいは忠勤して殉死した者の孤児がたまたま罪に触れていた場合があったならば、門下はみな、それぞれ列挙して彼らのことを奏上せよ。私は非合理な行動を反省しよう」。堂陽の陳豬の妻が一度に三人の男児を出産したので、衣帛、扶持米、乳婢一口を賜い、三年免税して労役に徴発しないこととした。このころ、高句麗と粛慎が楛矢を送り届け、宇文屋孤も名馬を石勒に献上した。涼州牧の張駿は長史の馬詵を派遣し、地図を奉じ、高昌、于窴、大宛の使者を送り届け、〔それらの国の使者は〕産物を献上した。晋の荊州牧の陶侃は兼長史の王敷を派遣して石勒に友好を求め、江南の珍宝や奇獣を献上した。秦州は白獣と白鹿を送り、荊州は白雉と白兎を送り、済陰で木連理が現れ、甘露が苑郷に降った。石勒は瑞祥が一斉に現れ、遠方の人々が〔石勒の〕徳義を慕っていることから、三歳刑以下の罪人を赦免し、百姓が昨年滞納した調を均等に減免した。涼州の殊死を特赦し、涼州の上計吏はみな郎中に任じられ、〔それぞれに〕絹十匹、綿十斤を下賜した。石勒が南郊をおこなうと、白い気が壇から天に連なった。石勒はおおいに喜び、宮殿に還ると、四歳刑を赦免した。使者をつかわし、張駿を武威郡公に封じ、涼州の諸郡を食邑とした。石勒はみずから藉田を耕し、宮殿に還ると、五歳刑を赦免し、公卿以下に金と帛を賜い、それぞれ格差があった。石勒は日蝕を理由に正殿を三日間避け、群公卿士にそれぞれ密封した文書を上奏させた。州郡の祠堂で正典でないものは禁止し、すべて排除させたが、雲を発生させて雨を降らすことができ、百姓に利益をもたらすものについては、郡県にあらためて百姓のためにその祠堂を立てさせ、嘉木を植えさせ、岳瀆以下になぞらえて〔それぞれの祠堂に〕等級を設けた。
 石勒が鄴の宮殿を建造しようとすると、廷尉の続咸が上書して厳しく諌めた。石勒はおおいに怒り、「この老臣を斬らねば、朕の宮殿が完成しない」と言い、御史に勅して続咸を捕えさせた。中書令の徐光が進み出て言った、「陛下の天性の聡明さは、堯や舜を超越していますけれども、まったく忠臣の言葉を聞こうとなされません。どうして夏癸(桀王)や商辛(紂王)のようになさるのですか。言葉が採用するべきであれば聴き入れ、採用するべきでなければ特別に容赦するべきです。なぜ、にわかに直言を理由にして列卿をお斬りになられるのでしょうか」。石勒は嘆息して言った、「人君たるもの、このように独裁してはならないものだ。なぜ、かの〔続咸の?〕直言における忠誠が見抜けなかったのか。さきのことは戯れにすぎない。人家というのは、絹百匹の資産があっても、なお別宅を買おうとするものであり、まして天下の富や万乗の尊位を有していればなおさらである。最終的には鄴の宮殿を建造するつもりであるが、ひとまず勅を下して建造を停止し、わが直言の臣の気概を遂げさせよう12原文「終当繕之耳。且勅停作、成吾直臣之気也」。「終当繕之耳」が読みづらい。『資治通鑑』が「此宮終当営之、且勅停作、以成吾直臣之気」とするのに従って訳出した。」。そして続咸に絹百匹、稲百斛を下賜した。また書を下し、公卿百官に毎年、賢良、方正、直言、秀異、至孝、廉清の者を各一人推挙させ、対策の成績が上第であった者は議郎に任じ、中第であった者は中郎に任じ、下第であった者は郎中に任じた。人材の推挙は順番にたがいに推薦されるようになり、賢者を招聘する道を広めることができた。明堂、辟雍、霊台を襄国城の西に立てた。このとき、大雨が続き、中山の西北で洪水があり、巨木百余万本を流し、堂陽に堆積した。石勒はおおいに喜び、公卿に言った、「諸卿らはわからないのか。これは災異ではない。私が鄴都を建造することを天意が望んでいるのだ」。こうして、少府の任汪、都水使者の張漸らに鄴の宮殿の建造を監督させ、石勒みずからが規模(設計?)を授けた。
 蜀の梓潼、建平、漢固の三郡の蛮巴が石勒に降った。
 石勒は、〔洛陽が〕成周の中心であり、漢と晋の旧都であったことから、さらに遷都の意向をもつようになったので、命じて洛陽を南都とし、行台治書侍御史を洛陽に設けた。
 石勒は高句麗、宇文屋孤の使者をもてなした。酒もたけなわのころ、徐光に言った、「朕はいにしえ以来の創業の君主と比べると、何等の君主であろうか」。答えて言った、「陛下の神武と策略は漢の高祖にまさり、武芸の卓絶さは魏の武帝をしのぎ、三王(堯虞禹)以降で比肩しうる人物はいません。黄帝の類いといったところでしょう」。石勒は笑って言った、「自分のことがわからない者がいるだろうか。卿の言葉はおおげさだ。朕がもし漢の高祖に出逢っていれば、北面して彼に臣従し、韓信や彭越と競って鞭をうち、先頭を争っているだろう。もし光武帝に出逢っていれば、彼と並び立って中原を駆け回るだろう。中原の鹿が誰の手にかかるかはわからないな。大丈夫が事業を行うさいは堂々とやるべきであり、明るい日月のようでなければならない。曹孟徳父子や司馬仲達父子のように、人の孤児や寡婦を欺き、媚を売って天下を取るなどということはとうていできない。朕は二劉(高祖と光武帝)の間に位置するにすぎない。どうして黄帝になぞらえられる君主であろうか」。群臣はみな頓首して万歳を称えた。
 晋の将軍の趙胤が馬頭を攻め落とした。〔陥落前に〕石堪が将軍の韓雍を派遣して救援させたが、到着したときには間に合わなかったので、そのまま南沙と海虞を侵略し、五千余人を生け捕りにした。これ以前、郭敬が退却して樊城に駐屯すると、王師(晋軍)はふたたび襄陽に駐屯した。このときになって、郭敬がまたも襄陽を攻め落とし、守備軍を留めてから〔樊城に〕帰った。
 暴風と大雨があり、建徳殿の端門や襄国の市の西門に落雷があり、五人が死んだ。西河の介山でひょうが降り、大きさは鶏の卵ほどで、平地は三尺、低地は一丈余〔積もり?〕で、旅行者や禽獣で死んだものは一万を数え、太原、楽平、武郷、趙郡、広平、鉅鹿の千余里に渡って樹木が折られ、稲の穂はすっかりなくなってしまった。石勒は東堂で服を正し、徐光にたずねた、「歴代以来、このような災異はどれだけあったのか」。徐光は答えて言った、「周、漢、魏、晋どれにもありました。天地の(自然の)規則とはいえ、明君は必ず〔天の下した〕災異ととらえましたが、それは天の怒りをうやまったからです。昨年、寒食を禁止しましたが、介子推は帝郷(石勒の郷里)の神霊で、代々尊重されてきた人物であり、廃するべきではなかったと思っている者たちもいます。一人の人民がため息をついただけでさえ、王道はこれのために欠けるもの、まして多くの神霊が怨んで上帝を怒り動かしたとあればなおさらです。たとえ天下を一致させ〔て介子推を祀〕ることはできないにしても、介山の周辺は晋の文公が〔介子推を〕封じた土地ですから、百姓に任せて介子推を奉じさせればよいでしょう」。石勒は書を下した、「寒食は并州の旧風であり、朕はその風俗のなかで生活してきたので、奇異なものとみなすことはできない。以前、外議(外朝の議?)で、介子推は諸侯の臣下で、王者は彼のためにはばかるべきではないというので、その議に従っ〔て寒食を禁止し〕たのだが、これが理由で今回の災異を引き起こしてしまったのだろうか。介子推は朕の郷里の神霊とはいえ、祭祀用の食物でないものでも〔祭祀の次第が〕乱れるということはないだろう。尚書は至急、古典を調べて議を決定し、それを報告せよ」。有司は奏し、介子推は代々尊重されているので、広く寒食の復活を要請し、くわえて介子推のために嘉樹を植え、祠堂を立て、〔祠堂を守る〕戸を支給し、奉じさせて祀らせるように述べた。石勒の黄門郎の韋諛が反駁した、「『春秋』を調べてみると、氷をたくわえて道(やり方)を失すると、陰の気が漏れ出てひょうとなる、といいます(『左伝』昭公四年?)。〔介子推がひょうの原因だとしたら、〕介子推以前のひょうは何が原因なのでしょうか。これ(ひょう)は陰陽の気が〔調和を失して〕乖離して起こすものなのです。それに介子推は賢者ですから、どうしてこのような暴害を起こしたりしましょうか。原因を冥界13原文「冥趣」。用例がないので不安だが、たぶん冥途、冥路とかと同義だと思う。に求めるのは、絶対にちがいます。現在、氷室をつくったとはいえ、貯蔵した氷が陰気の凝固した厳寒の土地になく、多くが山川の周囲にあり、陰の気が漏れてひょうになってしまうことが気がかりです。介子推は忠賢の士ですから、綿上と介休(?)の領域で奉じさせるのが適当であり、天下に共通させるものではありません」。石勒はこれを聴き入れた。こうして、氷室を陰気の凝固した厳寒の土地に移し、并州には当初のように寒食を復活させた。
 石勒は太子に尚書奏事を裁決させ、中常侍の厳震に可否を手伝わせ、征伐や刑罰の重要な案件は石勒に上呈させた。以後、厳震の権勢は宰相をしのぐこととなった。石季龍の邸宅の門は雀を捕える網がかけれるほどさびれ、石季龍はますます憂鬱となっておもしろくなかった。
 郭敬が南進して江西を掠奪したので、晋の南中郎将の桓宣はその虚をついて樊城を攻め、城中の民を連れて去った。郭敬は軍を返して樊城を救援しようとし、〔退却する桓宣を〕追って涅水で戦った。郭敬の前軍は大敗したが、桓宣軍も死傷者が多数であったので、〔郭敬が〕掠奪したものをすべて取り返すと戦闘をやめた。桓宣はそのまま南進して襄陽を取り、軍を留めて守らせた。
 石勒が鄴に行き、石季龍の邸宅を訪問し、石季龍に言った、「造営事業はいっせいに起こすことはできないのだ。宮殿が完成するのを待ってから、必ず王のために邸宅を建造する。いじけて憂鬱にならないように」。石季龍は冠を脱いで拝礼し、感謝した。石勒は「王とともに天下を保有しているのだ。どうして感謝するものだろうか」と言った。流星が現れ、大きさは象ほどあり、尾や足は蛇のような形で、北極星から西南へ五十余丈流れ、光は地を照らし、黄河に落ち、音は九百余里にわたって聞こえた。黒龍が鄴の井戸の中から現れた。石勒は龍を見て、満足げであった。鄴で群臣に朝見した。
 郡国に命じて学官を立てさせ、郡ごとに博士祭酒を二人、弟子を百五十人設け、〔弟子の学業が〕三考14三度の勤務評定。三年に一度ずつ、九年に三回、官吏の成績や能力を調べ、九年めに官位の上げ下げをすること。(『漢辞海』)して修まっていれば、台府(尚書台)台府(尚書台もしくは中央の官府)(2020/11/20:修正)へ昇進させた。こうして、太学生五人を抜擢して佐著作郎とし、時事を記録させた。このころ、大旱魃であったので、石勒はみずから廷尉を訪問し、囚人を取り調べ、五歳刑以下であればすべて〔あらためて〕軽く判決を下して釈放し、重刑であれば酒食を賜い、沐浴を許可し、一旦秋を待ってから〔あらためて〕刑を決定することにした。帰還して、まだ宮殿に着かないうちに、雨がおおいに降った。
 石勒は澧水の宮殿に行ったが、病気が重くなったので戻った。石季龍を太子の石弘、中常侍の厳震らとともに召し、禁中で看病させた。石季龍は矯命して(君命だと偽って)、石弘、厳震、内外の群臣、親戚を〔石勒から〕謝絶させたため、〔石季龍以外に〕石勒の病状を知る者はいなかった。〔また石季龍は〕偽って石宏と石堪を呼び、襄国へ戻らせた15この書きぶりからすると、二人とも要地に出鎮していたのであろう。石宏は石勒の子のなかで最も権力の大きい位を帯びているので、出鎮先で独自に動くのを警戒して呼びつけたのかもしれない。なお石堪は『資治通鑑』巻九五の胡三省注に「堪本田氏子、数有功、趙主勒養以為子」とあり、石勒の養子である。二人は襄国付近に出鎮している石勒の子の実力者だったのかもね。。石勒の病気が少し回復したとき、石宏を見かけて驚き、「秦王はどういうわけで来ているのだ。王を藩鎮におらせたのは、まさしく今日のような事態に備えるためなのだぞ。呼んだ者がいるのか、自分で来たのか。呼んだ者がいるのなら誅殺する」と言った。石季龍はおおいに恐懼し、「秦王は心配されてしばし帰ってきただけです。いま、つつしんで帰らせます」と言った。数日後、〔石勒は〕また石宏の件をたずねたので、石季龍は「詔を奉じて即座に帰らせました。いまはもう道半ばでございましょう」と言った。〔石季龍は〕さらに石宏に言い聞かせて〔襄国の〕外におらせ、そのまま石宏を帰らせなかった。
 広阿で蝗が発生した。石季龍はひそかに子の石邃を派遣し、騎兵三千を統率させ、蝗のいるところを回らせた。熒惑が昴に入った。星が鄴の東北六十里の地点に落ちた。〔墜落の?〕最初は赤、黒、黄の雲が幕のように立ちのぼり、その長さは数十匹で、〔雲が〕入り乱れ、音は落雷のようで、墜落地点の気は火のように熱く、塵が舞い上がって天に連なった。このとき、出向いて観察した農民によると、土は煮えたぎったような状態で、周囲一尺余の石が一つあり、青色で軽く、叩くと磬のような音がした。
 石勒は病気が重くなったので、遺令を下した、「三日で埋葬し、内外の百官は埋葬が終われば喪服を脱ぎ、婚姻、祭祀、飲酒、食肉を禁止しないように。征鎮や牧守はかってに任地を離れて葬儀に駆けつけてはならない。納棺時は時服を用い、棺を載せるのは普通の車を使い、金宝を副葬せず、品物を入れないように。大雅(石弘)は幼いから16幼いとは言っても二十くらいです。、おそらく朕の志を受け継ぐことはできないであろう。中山王(石季龍)以下は各自の職務をまっとうし、朕の命にそむかないように。大雅は斌17前の注で縷説したように、石虎の実子だけど石勒の養子であった。と助けあいなさい。司馬氏はおまえたちの殷鑑(過去の教訓)だから、つとめて仲よくしなさい。中山王は周公や霍光の故事をよく考えてほしい。将来の口実としてくれるな18幼主を委ねられたっていうのを盾にして大権を握りつづけたらだめだよ、周公や霍光に倣ってきちんと返還しなさいよ、ということか。」。咸和七年に死んだ。享年六十。在位十五年であった。夜に山谷に埋葬し、その場所を知る者はなく、〔その後にあらためて〕文物(儀式用具)をそろえて虚葬し、〔その墓陵を〕高平陵と号した。明皇帝の偽諡をおくり、廟号は高祖とされた。

石勒(1)石勒(2)石勒(3)石勒(4)石勒(5)附:石弘・張賓

  • 1
    劉曜載記によれば、このとき金墉城には石生が籠城し、劉曜の水攻めを受けていた。
  • 2
    原文「縦其帰命之路」。わからない。とくに「縦」。原文「其敕将士抑鋒止鋭、縦其帰命之路」。「縦」を「するにまかせる」で読んだ。今後は平穏に帰順を促す方法を取るので、武力で従える必要はもうないから戦うのをやめなさい、という意味で解釈した。(2021/4/21:訳文&注修正)
  • 3
    原文「而卿敢有靦面目」。「有靦面目」は『毛詩』小雅、何人斯に見える句だが、出典かどうかは不明。
  • 4
    原文「示之以前後檄書」。自信なし。祖約が趙国内の人々に向けて送った一連の檄書のこと?
  • 5
    『太平御覧』巻六八二、璽に引く「玉璽譜」に「晋懐帝永嘉五年、王弥入洛陽、執懐帝及伝国六璽、詣劉曜。後為石勒所并、璽復属勒。勒刻一辺、云『天命石氏』。此題今不復存。勒為冉閔所滅、此璽属閔、閔敗、璽存閔大将軍蔣幹」とある。
  • 6
    石季龍載記上に、石虎がこのときに大単于位を自分に授けられなかったことを怒って、「大単于之望実在于我、而授黄吻婢児」とあり、おそらく石宏は石弘とそれほど年齢が離れておらず、むしろ高い位を授けられていることからすると年長だったのかも。なのに太子には石弘が立てられたのは母の出自が低かったから(「婢児」)であろうか。
  • 7
    『太平広記』異僧二、仏図澄に「虎有子名斌、後勒以為子、勒愛之甚重」とあり(紙の本を所有していないため「中国哲学書電子化計画」より閲覧)、石虎の実子であり、かつ石勒の養子という立場であったらしい。だから石弘とは(擬似血縁だが)兄弟関係にあたる。後文でこのことを踏まえた内容があるので要注意。(以下、追記)初歩的なミスを犯してしまいお詫びします。引用した『太平広記』の文は「出高僧伝」です。中華書局から出版されている湯用彤氏の校注本『高僧伝』巻九、仏図澄伝をみると、「石虎有子名斌、後勒愛之甚重」とあり、『太平広記』の引用文と異同があるが、この箇所には湯氏の校注が付されていて、「勒」字の下に「為児勒」の三字がある本も存在するそうである。とりあえず以上を追記。(2020/8/13)
  • 8
    原文「齎」。さっぱりわからない。「斉」であれば通じるのだが。
  • 9
    原文「有令僕尚書随局入陳」。よくわからない。
  • 10
    『資治通鑑考異』に「按建平二年四月、勒如鄴、議営新宮。三年、勒如鄴、臨石虎第。勒疾、虎詐召石宏還襄国、至虎建武元年九月、始遷鄴。是勒未嘗都鄴也」とあり、たしかに疑わしい。
  • 11
    原文「諸有処法、悉依科令」。「処法」は、用例を見るかぎり「法律案件を処理すること」で、たいてい断獄を指すようである。以下につづくように、これまでは石勒の独断で処罰を下していたけれど、これからは法律にもとづいて決定するとの意だと思われる。
  • 12
    原文「終当繕之耳。且勅停作、成吾直臣之気也」。「終当繕之耳」が読みづらい。『資治通鑑』が「此宮終当営之、且勅停作、以成吾直臣之気」とするのに従って訳出した。
  • 13
    原文「冥趣」。用例がないので不安だが、たぶん冥途、冥路とかと同義だと思う。
  • 14
    三度の勤務評定。三年に一度ずつ、九年に三回、官吏の成績や能力を調べ、九年めに官位の上げ下げをすること。(『漢辞海』)
  • 15
    この書きぶりからすると、二人とも要地に出鎮していたのであろう。石宏は石勒の子のなかで最も権力の大きい位を帯びているので、出鎮先で独自に動くのを警戒して呼びつけたのかもしれない。なお石堪は『資治通鑑』巻九五の胡三省注に「堪本田氏子、数有功、趙主勒養以為子」とあり、石勒の養子である。二人は襄国付近に出鎮している石勒の子の実力者だったのかもね。
  • 16
    幼いとは言っても二十くらいです。
  • 17
    前の注で縷説したように、石虎の実子だけど石勒の養子であった。
  • 18
    幼主を委ねられたっていうのを盾にして大権を握りつづけたらだめだよ、周公や霍光に倣ってきちんと返還しなさいよ、ということか。
タイトルとURLをコピーしました