巻一百五 載記第五 石勒下(1)

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石勒(1)石勒(2)石勒(3)石勒(4)石勒(5)附:石弘・張賓

 太興二年、石勒は趙王を僭称し、殊死以下を赦免し、百姓の田租の半分を均等に免除し1原文「均百姓田租之半」。『漢書』文帝紀、文帝二年九月の詔に「其賜天下民今年田租之半」とあり、顔師古注に「免不収之」とあるが、これと同義と思われるので、ふまえて訳出した。、孝悌の者、力田の者、死義(義に殉じた者)の孤児に帛を賜い、おのおの格差があり、親のいない子、子のいない老人、配偶者のいない男女に一人につき穀物三石を賜い、七日間の酒盛りを下賜した。春秋の列国、または漢初の諸侯王が世代ごとに元年を称していたことに倣い、趙王元年と改称した。はじめて社稷を立て、宗廟を設け、東西宮を建造した。従事中郎の裴憲、参軍の傅暢、杜嘏をみな領経学祭酒に任命し、参軍の続咸、庾景を律学祭酒に任命し、任播、崔濬を史学祭酒に任命した。中塁将軍の支雄、遊撃将軍の王陽をともに領門臣祭酒とし、胡人の訴訟の解決を掌らせ、張離、張良、劉群、劉謨らを門生主書とし、胡人の〔禁中への?〕出入の管理を掌らせ、〔胡人に〕禁令を重視させ、衣冠の華族を侮蔑することを許さなかった。胡人を国人と号した2この措置と合わせてのことかはわからないが、石勒は「胡」字を避けたことで知られる。『芸文類聚』巻八五、豆に引く「鄴中記」に「石勒諱胡、胡物皆改名、胡䴵曰麻餅、胡綏曰香綏、胡豆曰国豆」とあり、『太平御覧』巻八六〇、餅に引く「趙録」に「石勒諱胡、胡物皆改名、胡餅曰搏鑪、石虎改曰麻餅」とある。後文にも関連したエピソードがある。。使者を派遣して州郡を巡回させ、農業を奨励させた。張賓に大執法を加え、朝政をもっぱら総べさせ、位は官僚の筆頭とした。石季龍を単于元輔、都督禁衛諸軍事に任命し、前将軍の李寒を領司兵勲に任命し、国子(国人=胡人の子?)に剣術と射術を指導させた。記室の佐明楷、程機に命じて『上党国記』を編纂させ、中大夫の傅彪、賈蒲、江軌に命じて『大将軍起居注』を編纂させ、参軍の石泰、石同、石謙、孔隆に命じて『大単于志』を編纂させた。これ以後、朝会はつねに天子の礼楽をもって群臣を饗宴し、儀礼や衣冠は従容(落ち着いているさま)としていて、見事であった。群臣は議し、論功することを要請すると、石勒は言った、「孤が挙兵して以来、今年で十六年になる。文武の官や将士で孤の征伐に従ってきた者は、誰もが矢や石にもの怖じせず、あらゆる苦難をなめつくしてきた。葛陂の戦役においては、その功績がとりわけ顕著であったから、それへの褒賞を優先するべきであろう。もし生き残っている者がいたら、〔褒賞の〕爵や封建の軽重は、功績や位に応じて格差を設け、戦死者の孤児には〔生存していた場合よりも?〕褒賞に一等を加増する。このようにすることで、生存者と死者を慰問し、孤の心を明らかにするのに十分であることを願う」。また書を下し、国人に禁令を出し、あによめと密通することと、喪中に婚姻することを許さず、火葬はもともとの習俗のようにさせた(もとの習俗のとおり、火葬することを許した)。
 孔萇は邵続の十一の別営を攻め、すべて降した。邵続はまもなく石季龍に捕えられ、襄国へ送られた。劉曜の将の尹安と宋始が洛陽にて石勒に降った。
 晋の徐州刺史の蔡豹が徐龕を檀丘で破ると、徐龕は使者をつかわして石勒のもとへ行かせ、蔡豹討伐の計略を述べた。石勒は将の王歩都を派遣し、徐龕の前鋒とし、張敬に騎兵を統率させてこれに続かせた。張敬が東平に到着すると、徐龕は張敬が自分を襲撃するのではないかと疑い、王歩都ら三百余人を斬り、ふたたび晋に降った。石勒はおおいに怒り、張敬に命じて徐龕の急所になる地を占拠させ、そこを守らせた。
 大雨が長く続き、中山と常山がとりわけひどかった。滹沲が溢れ、〔氾濫した水は〕山に衝突し、谷を水没させた。大きな松の木は倒されたり、抜かれたりし、滹沲で水に浮かぶと、東は渤海にまで到達した。原湿3広平与低湿之地。……亦泛指原野。(『漢語大詞典』)の領域には〔流された木が〕ことごとく山のように積みあがっていた。
 孔萇が段文鴦の十余の軍営を攻め落とした。孔萇は防備を設けておらず、段文鴦が夜襲してきたため、大敗して帰還した。
 石勒ははじめて軒懸の音楽と八佾の舞を制定し、金根車、黄屋左纛、天子の車の旗をつくり、〔こうして〕礼楽が整った。
 石季龍に歩騎四万を統率させて徐龕を討伐させると、徐龕は長史の張霄をつかわして石勒のもとへ行かせ、降服を乞い、妻子を送って質任としたので、それらを受け入れた。このとき、蔡豹は譙城に駐屯していたが、石季龍が蔡豹を攻めると、蔡豹は夜に遁走したので、石季龍は軍を率いて封丘に城壁を築いてから帰還した。
 朝臣や掾属以上の士族三百戸を襄国の崇仁里に移し、公族大夫を置いてこれらを管理させた。石勒の宮殿と諸門がようやく完成した。法令を制定するとひじょうに厳格で、「胡」〔の語〕を諱むことにかんしてはとくに厳しかった。あるとき、酔った胡人が乗馬したまま止車門に入ってしまったことがあった。石勒はおおいに怒り、宮門小執法の馮翥に言った、「そもそも人君が法令を定めれば、法の威厳が天下に行きわたることを望むものであって、まして宮門の領域であればなおさらのことだ。さっき馬を走らせて門に入ってきたのはどいつだ。はばからずに言ってみろ」。馮翥はおびえて〔「胡」を〕諱むことを忘れ、「さきほど、酔った胡人が馬に乗って入ってきました。大声で制止しようとしたのですが、言葉が通じませんでした」と言ってしまった。石勒は笑って、「胡人ならばたしかに話が通じにくいだろうよ」と言い、大目に見て罰しなかった。
 石季龍に託候部の掘咄哪を岍山の北で攻めさせ、〔石季龍は〕これをおおいに破り、牛馬二十余万を得た。
 石勒は五品を清定し、張賓に選挙を担当させた4「清定」は石季龍載記上にも見える語で、成績考査のことを言うらしい。「五品を清定する」というのは、「人物を選考して五品以上のポストにふさわしい人間が就くように定めた」もしくは「いわゆる「郷品」五品以上にふさわしい人物を選考した」ということだと推測している(というか両者の意、つまり後者の考査を経て前者の人事に反映する、というのが成績考課の眼目だと思うので、こういうふうに切り分けて考える必要はないかも)。その人選を張賓が担当したということであろう。そして五品以上が定まってから、後文のように「続定九品」、すなわち六品以下を定めたのだと思われる。なお魏晋の九品制においては、五品と六品は公卿大夫と士の境界にあたり(宮崎市定『九品官人法の研究――科挙前史』中公文庫、一九九七年、原著は一九五六年、一一五―一一九頁)、南朝では、上級士族の起家官と下級士族の極官が混在する六品より上、すなわち五品に上りうるか否かで格差があったらしい(同前、二六五―二八八頁)。石勒がこのときに布いたであろう九品制は魏晋のそれを完全に踏襲したものではなさそうだが(見慣れない官名が散見するため)、「清定五品」が私の解釈のとおりであるならば、五品と六品でやはりボーダーを設けていたらしいことがうかがえるのであり、この点では魏晋を継承していたと思われる。。さらにつづけて九品も定めさせた。張班を左執法郎に任命し、孟卓を右執法郎に任命し、士族を定める(選挙?)ことを掌らせ、選挙の仕事を補助させた。百官と州郡に命じ、毎歳おのおのに、秀才、至孝、廉清、賢良、直言、武勇の士を項目ごとに一人推挙させた。都部従事を一州につき一部設け、秩は二千石とし、職掌は丞相司直の職務に準拠した。
 石勒は令を下した、「去年の洪水は大きな材木を発生させ、あちこちに山積しているが、これはまさに、皇天は孤が宮殿を修繕するのを望んでいるということであろう。そこで、洛陽の太極殿に倣い、建徳殿を建造せよ」。従事中郎の任汪を派遣し、工匠五千を統率させ、材木を集めさて進上させた。黎陽の陳武の妻が一度に三男一女を出産すると、陳武は妻子を連れて襄国に行き、上書してみずから〔事の次第を〕述べた。石勒は書を下し、〔この出来事は〕二儀(陰陽)が調和し、和気(調和した陰陽の気)が引き起こしたことだとみなし、乳婢一口、穀百石、雑綵四十匹を下賜した。
 石季龍は段匹磾を厭次で攻めた。孔萇は段匹磾の部内(指揮下?)の諸城を討伐し、これを落とした。段匹磾は勢いが窮したため、臣下を率い、棺を携え、城から出て降った。石季龍は段匹磾を襄国へ送り、石勒は段匹磾を冠軍将軍に任命し、弟の段文鴦と亜将の衛麟を左右中郎将とし、みな金章紫綬とした。〔段匹磾下の?〕流人三万余戸を解散させ、本業(農業)に戻らせ、守宰(郡県の長官)を置いて慰撫した。こうして、冀州、并州、幽州、遼西以西5原文は「遼西巴西」に作るが、中華書局校勘記の言うとおり、「已西」の誤りであろう。明らかにおかしいのでここは「已」に改めて訳出した。の屯結(塢壁?)はすべて石勒に落とされたのであった。
 このころ、晋の征北将軍の祖逖は譙を占有し、中原を平定しようとしていた。祖逖は面倒見がよかったため、黄河以南の多くは石勒にそむいて祖逖に帰順した。石勒はこれを憚り、あえて侵略せずに書を下した、「祖逖はしばしば辺境の害を起こしているが、祖逖は北州の名士であるため、おそらくは故郷を忘れられぬ思いがあるのだろう。そこで、幽州に命令を下し、祖氏の墳墓を修繕し、祖氏のために守冢を二家置くように。祖逖が趙他のようにこの恩に感激し、その侵略を止めてくれることを願おう」。祖逖はこれを聞くとたいへん喜び、参軍の王愉を派遣して石勒のもとへつかわし、産物を贈り、友好を結んだ。石勒は祖逖の使者を厚くもてなし、左常侍の董樹を返礼としてつかわし、馬百匹、金五十斤をもって応答した。これ以後、兗州と豫州の地は平和となり、民衆は休息を得たのであった。
 従事中郎の劉奥が建徳殿建造時に井戸の木を傾けてしまい、短くしてしまったことで罪に坐し、〔石勒は〕殿中で斬った。石勒は後悔し、太常を追贈した。
 建徳校尉の王和が円形の石を発掘したが、銘文があり、「律権石重四鈞同律度量衡有新氏造(律権石(重さを測るための石)。重さは四鈞。律、度、量、衡を統一。有新氏の製造)」とあった。議しても詳しいことはわからず、ある者は瑞祥とみなした。参軍の続咸は「王莽の時代の物である」と言った。その当時は兵乱のあとで、〔過去の〕制度が埋没してしまったため、そのまま礼官に〔石を〕下して標準の規則とするように命じた。また鼎一つを発見し、容積は四升で、中に大銭三十文があり、〔銭には〕「百当千、千当万(百は千になり、千は万になるだろう)」とあった。鼎の銘文は十三文字あったが、篆書であったため解読できず、永豊倉に保管しておいた。この発見にちなんで、公私に銭を通行させたが、民は喜ばなかった。そこで公の絹を出して銭と交換し、中級の絹は一匹あたり銭千二百、下級の絹は一匹あたり銭八百に〔交換額を〕制限した。しかし〔そうして公の絹が出回ると、〕百姓は私的(非公式)に中級の絹を一匹あたり銭四千、下級の絹を一匹あたり銭二千で取引した。利にさとい者は、私銭を安く買い(公の絹を私の場で売って公式レートよりも多くの銭を入手し)、官に高く売った(安価で入手した銭を公の場で使って非公式レートよりも多くの絹を入手した)。〔これによって〕罪に問われて死んだ者は数十人であったが、銭はついに通行しなくなった。石勒は洛陽の銅馬と翁仲の二つを襄国へ移し、永豊門に並べた。
 祖逖の牙門の童建が新蔡内史の周密を殺し、使者をつかわして石勒に降った。石勒はこれ(童建?使者?)を斬り、首を祖逖に送って、「天下の悪は同一だ。天下の悪はどこでも同じだ6原文「天下之悪一也」。『左伝』荘公十二年が出典。弑逆のような重大な悪事は、国の違いという立場を越えて普遍的に憎まれるものなのだ、という意味(だと思う)。(2021/1/13:修正&注追加)。反逆した臣や逃亡した官吏は、私の仇敵である。将軍にとっての悪は私にとっての悪と同様である」と言った。祖逖は使者をつかわして感謝した。これ以後、兗州と豫州の領域の塢壁で〔石勒に〕そむいた者は、祖逖はことごとくそれを受け入れなくなったため、二州の人民は多くが〔石勒と祖逖(晋)に〕両属した。
 石勒は武郷の老人を襄国へ来させた。到着すると、石勒はみずから郷里の老人と年齢順に座って宴会し、会話は日常のことにまでおよんだ。そのむかし、石勒は李陽と隣り同士で、毎年いつも麻をひたすための池をめぐって争い、たがいに殴り合っていた。このときになって、〔石勒は〕父老に言った、「李陽は壮士であったが、どうして来ていないのかね。麻をひたす争いは庶民だったときの恨みではあるが、孤はちょうど天下からの信頼を高めようとしているのだから、どうして匹夫に復讐しようとするだろうか」。そこで李陽を呼ばせた。まもなくやって来ると、石勒はいっしょに酒に酔ってふざけあい、李陽のひじをつかんで笑い、「孤はむかし、卿の老拳に飽き飽きしていたが、卿も孤の毒手にうんざりしていただろう」と言った。こうして第一等の邸宅一軒を賜い、参軍都尉に任じた。令を下した、「武郷はわが豊沛である。万年ののちでも、霊魂は必ずここに帰るであろうから、武郷を三世代のあいだ免税とする」。石勒は、百姓が農業に戻ったばかりで、財産がまだ豊かではないことから、醸造の禁止を厳しく定め、郊祀や宗廟はすべて甘酒を使用した。これを数年間施行すると、ふたたび醸造しようとする者はいなくなった。
 ほどなく、石季龍を車騎将軍に任命し、騎兵三万を統率させて鮮卑の鬱粥を離石で討伐させ、牛馬十余万を得た。鬱粥は烏丸へ逃げた。〔石季龍は〕鬱粥の多くの城をことごとく降した。
 これより以前、石勒の世子の石興は死去してしまったが、このときになって、子の石弘を世子に立て、領中領軍とした。
 石季龍を派遣し、中外(内外)の精鋭四万を統率させて徐龕を討伐させた。徐龕は守りを固めて戦わなかったため、〔石季龍は〕建物を建てて屯田し、長囲を連ねてその地に留まった。晋の鎮北将軍の劉隗が石勒に降ったので、鎮南将軍に任じ、列侯に封じた。石季龍が徐龕を攻め落とし、これを襄国へ送った。石勒は〔徐龕を〕高さ百尺の楼で袋の中に入れ、楼の上から〔袋を〕投げて殺し、王歩都らの妻子に切り裂かせて食わせ、徐龕の降服した兵士三千を穴埋めにした。晋の兗州刺史の劉遐は恐れ、鄒山から撤退して下邳に駐屯した。琅邪内史の孫黙が琅邪をもって晋にそむき、石勒に降った。徐州と兗州の領域の塢壁は多く質任を送って降服を求めたので、みな守宰に任じた。
 清河の張披は程遐の長史であったとき、程遐は彼をたいへん親任していたが、張賓が〔冀州刺史(石勒)の〕別駕に推挙し、召して政事に参与させた。程遐は張披が自分から去ったことを恨み、また張賓の権勢が盛んであることをにくんだ。石勒の世子の石弘は程遐の甥(姉妹の子)であったので7『太平御覧』巻一二〇、石弘に引く「崔鴻十六国春秋後趙録」に「石弘字大雅、第三子、母程夫人、右光禄遐之妹」とある。、後援があることをみずから利用し、威厳を朝廷から集めようと考えた。そこで〔程遐は〕石弘の母(程氏)に張披らをそしらせ、〔石勒に〕言わせた、「張披と張賓は游侠であり、門客は一日に百余乗の車が参っており、人望はみな彼らに帰していますが、〔これは〕社稷の利益ではありません。張披を排除して国家に利益をもたらすのがよいと思います」。石勒はこれに賛同した。このときになって、張披は急用を得て召されたが、期限内に来なかったので、これを理由にしてとうとう殺してしまった。張賓は程遐が自分と石勒を離間させようとしていることを察知したので、そのままあえて〔張披の赦免を〕求めなかった。ほどなくして、〔石勒は〕程遐を右長史とし、朝政を総べさせた8この載記に附されている張賓載記によれば、程遐が右長史になったのは張賓没後の後任としてであるので、このときになって張賓が亡くなったということである。。これ以後、朝臣で〔程遐に〕震撼しない者はおらず、〔みな〕程氏のもとへ赴いたのであった。
 このころ、祖逖が卒したので、石勒はようやく〔南にある晋の〕辺境の拠点を侵攻した。石勒の征虜将軍の石他が王師(晋軍)を酇の西で破り、将軍の衛栄を捕えて帰還した。征北将軍の祖約は恐れ、撤退して寿春に行った。石勒の境内で疫病が大流行し、死者は十人のうち二、三人であったので、徽文殿の建造を中止した。将の王陽を派遣して豫州に駐屯させ、〔石勒は晋の〕隙をうかがう野心を抱いた。こうして、兵難は日々あいつぎ、梁と鄭の領域は騒然とするようになった。
 さらに石季龍を派遣し、中外の歩騎四万を統率させて曹嶷を討伐させた。これより以前、曹嶷は〔部下と〕議して、海中へ移り、根余山にこもろうと思っていたが、ちょうど疫病がひどかったため、計画はまだ実行されていなかった。石季龍が進軍して広固を包囲すると、東莱太守の劉巴と長広太守の呂披がともに郡をもって降った。石他を征東将軍とし、羌胡を河西で討伐させた。左軍将軍の石挺が広固で軍に川を渡らせると兵を増員すると(2020/8/8:修正)、曹嶷が降ったため、襄国へ送った9広固城の周囲には川が巡っていたらしい。『太平御覧』巻一六〇、青州に引く「斉記」に「晋永嘉五年、東莱牟平曹嶷為刺史、所築城有大澗、甚広、因之為固、謂之広固城、側有五龍口」とあり、『元和郡県図志』巻一〇、河南道六、青州、広固城に「義煕五年、宋武帝征慕容超於広固也、城側有五龍口、険阻難攻、兵力疲弊、河間人玄文説〔劉〕裕曰、『昔趙攻曹嶷、望風者以為澠水帯城、非可攻抜、若塞五龍口、城当必陥。石季龍従之、嶷請降。後五日大雨震雷、復開、徙舟嶧陽。……』」とある。(以下、追記)この注は原文の「済師于広固」の「済」を「川を渡る」で取っていたためにつけたものであったが、そもそも「済」は「増やす」の意であった。いちおう広固の地理的特性としては間違った説明をしているわけではないのでこのまま残しておくが、当初はそういう意図でつけた注であることを付記しておく。(2020/8/8)。石勒は曹嶷を殺し、その軍三万を穴埋めにした。石季龍は曹嶷の民衆を皆殺しにしようとしたが、石勒の青州刺史の劉徴が言った、「いま、徴を留め、民を治めさせようとしていますが、民がいなければ何を治めようというのでしょうか。〔そうなるならば〕徴は帰ることにいたしましょう」。石季龍はそこで男女七百口を留めて劉徴に配し、広固に鎮させた。青州の諸郡県の塢壁はすべて陥落した。
 石勒の司州刺史の石生が晋の揚武将軍の郭誦を陽翟で攻めたが、勝てなかった。進軍して襄城を侵略し、千余人を捕虜にして帰還した。
 石勒は参軍の樊坦が清貧であることから、抜擢して章武内史を授けた10この時期の通例というか慣例というか、そんな感じの人事として、「貧」だから太守・県令を求める/に任命する、というのがある。事例はわんさかあるが、たとえば適当に開いた『世説新語』言語篇の劉孝標注を適当にみると、「中興書曰、李充……以貧求剡県」(80)「中興書曰、〔張〕天錫後以貧拝廬江太守」(94)とか。ここの樊坦への任命が関係あるかはわからないですけどね。。〔樊坦は〕ほどなく入ってきて別れの挨拶をしたが、石勒は樊坦の衣冠がぼろぼろであるのを見ておおいに驚き、「樊参軍はそんなにも貧窮していたのか」と言った。樊坦は純朴な性格だったので、「最近、羯賊11『太平御覧』巻三九一、笑に引く「晋中興書」は「羯胡」に作る。の非道に遭いまして、財産がすっかりなくなってしまったのです」と、深く考えずとっさに答えてしまった。石勒は笑って、「羯賊がそんな乱暴を働いたのか。ならばいま〔私が〕賠償してやらねばならんな」と言った。樊坦はおおいに恐懼し、叩頭して泣いて謝罪した。石勒は、「孤の律12法律の意であろう。たぶん「胡」字を諱むという法と関連のあるものを指していると思うが……。はもともと凡俗な士人を防止するためのものであるから、卿ら老書生には関係のないことだ」13樊坦の言った「羯賊」は石勒の比喩かもしれず、うっかりそう口走ってしまったことを必死に謝罪しているようにも読めるのだが、そうであったら石勒のこういう返答は的外れのように感じる。「胡」のほかに「羯」も法によって禁止されていたか、実際は「羯胡」と言っていたか、どちらかの理由によってうっかり法禁を破ってしまったことに対し、「君に悪意や差別意識がないことはわかっているから、今回のはヘイトスピーチとはみなさず、大目に見るよ」と返答しているのだと思う。と言い、車馬、衣服、身支度用の銭三百万を賜い、財利に貪欲な風潮に発破をかけた(?)14原文「以励貪俗」。よくわからない。
 石勒の将兵都尉の石瞻が下邳を侵略し、晋の将軍の劉長を破り、そのまま蘭陵を侵略し、さらに彭城内史の劉続を破った。東莞太守の竺珍と東海太守の蕭誕は郡をもって〔晋を〕そむき、石勒に降った。
 石勒はみずから大学と小学を来訪し、諸学生の経義(経書の解釈)を試験し、とりわけ成績が優秀な学生には帛を褒賞として与え、〔成績に応じて〕格差があった。石勒は平素から文学を好み、陣中でもつねに儒生に史書を読ませて聞き、いつも〔聴き取った〕史書の内容にもとづいていにしえの帝王の善悪を論じたが、朝廷の賢者や儒士で石勒の意見を耳にした者は誰もが称賛した15たぶん「正確に聴き取っていてすごい」と「考えが鋭くてすごい」の二つの意味で「すごい」なのだと思う。。あるとき、人に『漢書』を読ませていたが、酈食其が六国の後裔を立てるよう〔高祖に〕勧める場面を聞いておおいに驚き、「この方法は絶対に間違っている。最終的に天下の事業を成功させることがどうしてできたのか」と言った。留侯(張良)がそれを諌める場面になって、「幸いにもこの人物がいたのか」と言った。石勒の天性の資質と英明さはこのようであった16『世説新語』識鑑篇(7)にほぼ同内容の話が収録されている。同劉孝標注に引く「鄧粲晋紀」に「勒手不能書、目不識字」とあり、またたびたび徐光らに通訳的なことをさせていることから、漢語は書けない、読めない、高度な発話はできない、聴き取りは問題なし、という感じであったのだろう。
 石勒は徐州と揚州から兵を徴発し、下邳で石瞻のもとに集合させた。劉遐は恐れ、さらに下邳から泗水の汭へ逃げた。
 石生が劉曜の河内太守の尹平を新安で攻め、これを斬り、十余の塢壁を落とし、五千余戸を降し、拉致して帰還した。これ以後、劉曜と石勒の間で禍が結ばれ、矛は毎日交わされるようになり、河東と弘農の領域の百姓は心休まることがなかった。
 右常侍の霍皓を勧課大夫とし、典農使者の朱表、典勧都尉の陸充らと州郡を巡回させ、戸籍を調査させて実態を正し、農業と養蚕を奨励させた。農業と養蚕がもっとも修まっている者には五大夫の爵を下賜した。
 石生に延寿関から出撃させて許と潁川の地を侵略させると、捕虜は一万余で、降った者は二万であった。石生はそのまま康城を攻め落とした。晋の将軍の郭誦が石生を追撃すると、石生は大敗し、死者は千余人であった。石生は敗残兵を集めると、康城に駐屯した。石勒の汲郡内史の石聡は石生の敗北を知ると、馳せてこれを救援しようとし、進軍して郭黙を攻め、男女二千余人を捕虜にした。石聡は晋の将の李矩や郭黙らを攻めて破った。
 石勒が近郊で狩りに出ようとすると、主簿の程琅が諌めて言った、「劉氏や司馬氏の刺客は、林のように点々と分布しています。変事がにわかに起これば、帝王も一人分の人間にすぎません。孫策の災難を考慮せずにいられるものでしょうか。それに、枯れ木や朽ちた株であろうともすべて害になりえます。馬を走らせること(狩り)の弊害は、古今が戒めていることなのです」。石勒は勃然として言った、「私は体力がもともと十分あるし、〔何かあっても一人で〕対応できる。卿には文書の仕事をつかさどらせているだけだから、此輩(この人=石勒?)に〔今回のようなことを〕言う必要はない17原文「但知卿文書事、不須白此輩」。書類処理がお前の仕事であって、諫言は職務でないし、お前にそういうのを求めているんじゃないし、という意で読んでみたが、自信はなし。」。この日、獣を追いかけまわしたが、馬は木に接触して死に、石勒もほとんど危ない目に遭ったので、「忠臣の諫言を用いなかったのは、私の過ちであった」と言った。そこで程琅に朝服、錦、絹、関内侯の爵を下賜した。こうして、朝臣が謁見すると、忠言が競って進上されるようになった。
 晋の都尉の魯潜18この人の墓誌に曹操の墓の位置が記されていて話題になった。がそむき、許昌をもって石勒に降った。石瞻が晋の兗州刺史の檀斌を鄒山で攻め落とし、檀斌は戦死した。石勒の西夷中郎将の王勝が并州刺史の崔琨と上党内史の王眘を襲撃して殺し、并州をもって石勒にそむいた。これより以前、石季龍は劉曜の将の劉岳を石梁で攻めていたが、このときになって石梁が陥落し、劉岳を捕えて襄国へ送った。石季龍はさらに王勝を并州で攻め、これを殺した。李矩は劉岳の敗北を知ると、恐れて滎陽から遁走し、〔晋=南へ〕帰った。李矩の長史の崔宣が李矩の衆二千を率いて石勒に降った。こうして、司州と兗州の地をすべて領有することになり、徐州と豫州の淮水沿いの諸郡県はみな降した。
 石勒は洛陽の日影時計を襄国へ移すよう命令を下し、これを単于庭に配置した。佐命の功臣三十九人を石の箱に記し、建徳前殿に設置した。桑梓苑を襄国に設けた。
 あるとき、石勒は夜中に忍んで外出し、宿衛の様子を確認しようと思い、繒、帛、金銀を持参して門衛に賄賂として贈り、門から出してくれるよう求めた。〔すると〕永昌門の門候の王仮は石勒を逮捕しようとしたが、従者が来たので実行されずに済んだ。朝になり、〔石勒は〕王仮を召して振忠都尉とし、関内侯の爵を下賜した。石勒が苑郷に行ったとき、記室参軍の徐光を召したが、徐光は酒に酔っていて来なかった。徐光は人心を集めていた人物だったため、〔石勒は〕いつもこれを不満に思っていたが、今回のことで怒りが爆発し、牙門に降格させた。石勒が苑郷から鄴に向かったとき、徐光は侍立して当直をつとめていたが、いらいらした様子でたもとをまくりあげて振り乱し、仰ぎ見るけれども顧みなかった19原文「仰視不顧」。よくわからない。「不顧」の用例を確認すると、気にしない、無視するの意が多いので、「呼びかけると仰ぎ見るけれども無視した」ということ? さすがに不遜すぎるか……。。石勒はこれを不快に思い、徐光をなじった、「卿に謝ってあえておもしろくない気分になろうと私が思うものか」20原文「何負卿而敢怏怏邪」。自信なし。。こうして、徐光と妻子を獄に幽閉した。
 石勒は鄴に宮殿を建造し、さらに世子の石弘を鄴に鎮させようと思い、ひそかに程遐とこのことを共謀した。石季龍は勲功が高いことを自認しており、鄴に拠り立って基盤を築こうとしていたので、もともと鄴から去るつもりはなかった。〔程遐が?〕三台に邸宅を建て、そこに移住すると、石季龍は程遐を深く恨み、左右の者数十人をやって夜に程遐の邸宅に侵入させ、妻や娘を強姦させ、衣服や財産を強奪させて去らせた。石勒は石弘を鄴に出鎮させ、禁兵一万人を配した。車騎将軍(たぶん石虎)統率下の五十四の軍営はすべて石弘に配され、驍騎将軍、領門臣祭酒の王陽に六夷をもっぱら統御させ、そうして石弘を補佐させた。
 石聡が寿春を攻めたが、落とせず、そのまま逡遒と阜陵を侵略し、五千余人を殺害したり拉致したりしたため、〔晋の〕京師はおおいに震撼した。
 済岷太守の劉闓、将軍の張闔らが〔晋に〕そむき、下邳内史の夏侯嘉を殺し、下邳をもって石生に降った。
 石瞻が河南太守の王羨を邾で攻め、これを落とした。
 龍驤将軍の王国が〔晋に〕そむき、南郡をもって石勒に降った。晋の彭城内史の劉続がふたたび蘭陵と石城を占拠したが、石瞻が攻めて、これを落とした。
 石勒は州郡に命令を下し、墳墓で墓穴があいたまま埋められていないものがあれば、その家を聴取させの罪を取り調べさせ(2020/7/19:修正)、遺体が〔埋葬されず〕さらされたままになっていれば、県にその家のために棺と埋葬着を用意させた。牙門将の王波を記室参軍とし、九流(九品)の選定をつかさどらせ21原文「典定九流」。「定」は「清定」の「定」と同義だと思われる。周馥伝に、司徒左西属であった周馥について「主定九品」とあるのを考慮すると、九品までの「郷品」の決定を担当した、ということか。、はじめて秀才と孝廉に経書を試験する制度を立てた。
 茌平令の師懽が黒い兎を捕まえたので、石勒に献上した。程遐らは次のようにみなした。〔これは〕石勒が「龍のごとく飛翔して(天子に即位して)天命を改める瑞祥です。晋に対しては、水行をもって〔晋の〕金行を受け継ぐことになりますが、兎というのは陰精(月)の動物で、玄(黒)は水行の色です22天文志上に「月、水之精也」とある。(2020/7/28:追記)。これは殿下に対して、すみやかに天と人の嘱望にかなうようにするのがよいと示しているのです」。こうして大赦し、晋の咸和三年を太和と改元した。
 石堪が晋の豫州刺史の祖約を寿春で攻め、軍を淮水のほとりに駐屯させた。晋の龍驤将軍の王国が南郡をもって〔晋にそむき〕石堪に降った(前文と重複)。南陽都尉の董幼がそむき、襄陽の軍を率いて〔王国につづいて〕これまた石堪に降った。祖約の将佐らはみなひそかに使者をつかわし、石勒に帰順した。石聡は石堪と淮水を渡り、寿春を落とした。祖約は歴陽へ敗走し、寿春の百姓で石聡に落とされた者は二万余戸であった。

>>つづく

  • 1
    原文「均百姓田租之半」。『漢書』文帝紀、文帝二年九月の詔に「其賜天下民今年田租之半」とあり、顔師古注に「免不収之」とあるが、これと同義と思われるので、ふまえて訳出した。
  • 2
    この措置と合わせてのことかはわからないが、石勒は「胡」字を避けたことで知られる。『芸文類聚』巻八五、豆に引く「鄴中記」に「石勒諱胡、胡物皆改名、胡䴵曰麻餅、胡綏曰香綏、胡豆曰国豆」とあり、『太平御覧』巻八六〇、餅に引く「趙録」に「石勒諱胡、胡物皆改名、胡餅曰搏鑪、石虎改曰麻餅」とある。後文にも関連したエピソードがある。
  • 3
    広平与低湿之地。……亦泛指原野。(『漢語大詞典』)
  • 4
    「清定」は石季龍載記上にも見える語で、成績考査のことを言うらしい。「五品を清定する」というのは、「人物を選考して五品以上のポストにふさわしい人間が就くように定めた」もしくは「いわゆる「郷品」五品以上にふさわしい人物を選考した」ということだと推測している(というか両者の意、つまり後者の考査を経て前者の人事に反映する、というのが成績考課の眼目だと思うので、こういうふうに切り分けて考える必要はないかも)。その人選を張賓が担当したということであろう。そして五品以上が定まってから、後文のように「続定九品」、すなわち六品以下を定めたのだと思われる。なお魏晋の九品制においては、五品と六品は公卿大夫と士の境界にあたり(宮崎市定『九品官人法の研究――科挙前史』中公文庫、一九九七年、原著は一九五六年、一一五―一一九頁)、南朝では、上級士族の起家官と下級士族の極官が混在する六品より上、すなわち五品に上りうるか否かで格差があったらしい(同前、二六五―二八八頁)。石勒がこのときに布いたであろう九品制は魏晋のそれを完全に踏襲したものではなさそうだが(見慣れない官名が散見するため)、「清定五品」が私の解釈のとおりであるならば、五品と六品でやはりボーダーを設けていたらしいことがうかがえるのであり、この点では魏晋を継承していたと思われる。
  • 5
    原文は「遼西巴西」に作るが、中華書局校勘記の言うとおり、「已西」の誤りであろう。明らかにおかしいのでここは「已」に改めて訳出した。
  • 6
    原文「天下之悪一也」。『左伝』荘公十二年が出典。弑逆のような重大な悪事は、国の違いという立場を越えて普遍的に憎まれるものなのだ、という意味(だと思う)。(2021/1/13:修正&注追加)
  • 7
    『太平御覧』巻一二〇、石弘に引く「崔鴻十六国春秋後趙録」に「石弘字大雅、第三子、母程夫人、右光禄遐之妹」とある。
  • 8
    この載記に附されている張賓載記によれば、程遐が右長史になったのは張賓没後の後任としてであるので、このときになって張賓が亡くなったということである。
  • 9
    広固城の周囲には川が巡っていたらしい。『太平御覧』巻一六〇、青州に引く「斉記」に「晋永嘉五年、東莱牟平曹嶷為刺史、所築城有大澗、甚広、因之為固、謂之広固城、側有五龍口」とあり、『元和郡県図志』巻一〇、河南道六、青州、広固城に「義煕五年、宋武帝征慕容超於広固也、城側有五龍口、険阻難攻、兵力疲弊、河間人玄文説〔劉〕裕曰、『昔趙攻曹嶷、望風者以為澠水帯城、非可攻抜、若塞五龍口、城当必陥。石季龍従之、嶷請降。後五日大雨震雷、復開、徙舟嶧陽。……』」とある。(以下、追記)この注は原文の「済師于広固」の「済」を「川を渡る」で取っていたためにつけたものであったが、そもそも「済」は「増やす」の意であった。いちおう広固の地理的特性としては間違った説明をしているわけではないのでこのまま残しておくが、当初はそういう意図でつけた注であることを付記しておく。(2020/8/8)
  • 10
    この時期の通例というか慣例というか、そんな感じの人事として、「貧」だから太守・県令を求める/に任命する、というのがある。事例はわんさかあるが、たとえば適当に開いた『世説新語』言語篇の劉孝標注を適当にみると、「中興書曰、李充……以貧求剡県」(80)「中興書曰、〔張〕天錫後以貧拝廬江太守」(94)とか。ここの樊坦への任命が関係あるかはわからないですけどね。
  • 11
    『太平御覧』巻三九一、笑に引く「晋中興書」は「羯胡」に作る。
  • 12
    法律の意であろう。たぶん「胡」字を諱むという法と関連のあるものを指していると思うが……。
  • 13
    樊坦の言った「羯賊」は石勒の比喩かもしれず、うっかりそう口走ってしまったことを必死に謝罪しているようにも読めるのだが、そうであったら石勒のこういう返答は的外れのように感じる。「胡」のほかに「羯」も法によって禁止されていたか、実際は「羯胡」と言っていたか、どちらかの理由によってうっかり法禁を破ってしまったことに対し、「君に悪意や差別意識がないことはわかっているから、今回のはヘイトスピーチとはみなさず、大目に見るよ」と返答しているのだと思う。
  • 14
    原文「以励貪俗」。よくわからない。
  • 15
    たぶん「正確に聴き取っていてすごい」と「考えが鋭くてすごい」の二つの意味で「すごい」なのだと思う。
  • 16
    『世説新語』識鑑篇(7)にほぼ同内容の話が収録されている。同劉孝標注に引く「鄧粲晋紀」に「勒手不能書、目不識字」とあり、またたびたび徐光らに通訳的なことをさせていることから、漢語は書けない、読めない、高度な発話はできない、聴き取りは問題なし、という感じであったのだろう。
  • 17
    原文「但知卿文書事、不須白此輩」。書類処理がお前の仕事であって、諫言は職務でないし、お前にそういうのを求めているんじゃないし、という意で読んでみたが、自信はなし。
  • 18
    この人の墓誌に曹操の墓の位置が記されていて話題になった。
  • 19
    原文「仰視不顧」。よくわからない。「不顧」の用例を確認すると、気にしない、無視するの意が多いので、「呼びかけると仰ぎ見るけれども無視した」ということ? さすがに不遜すぎるか……。
  • 20
    原文「何負卿而敢怏怏邪」。自信なし。
  • 21
    原文「典定九流」。「定」は「清定」の「定」と同義だと思われる。周馥伝に、司徒左西属であった周馥について「主定九品」とあるのを考慮すると、九品までの「郷品」の決定を担当した、ということか。
  • 22
    天文志上に「月、水之精也」とある。(2020/7/28:追記)
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