巻一百四 載記第四 石勒上(2)

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石勒(1)石勒(2)石勒(3)石勒(4)石勒(5)附:石弘・張賓

 石勒は葛陂で建物を修繕し、農業を督促して船を造り、建鄴へ侵略しようとした。ちょうど長雨が三か月経っても止まなかった。元帝は諸将に江南の軍を統率させて寿春に集合させた。石勒の軍中は飢餓や疫病で死ぬ者が多数にのぼった。檄文が朝夕あいついで届くので、石勒は諸将を集めて作戦を立てようとした。右長史の刁膺は石勒を諌め、先に和議(降服)を元帝に伝え、河朔の平定を要望し、〔それらが聴き入れられて〕晋の軍が退くのを待ってから、じっくりと計画を練りなおすのがよいとした。石勒は悲し気な表情をして長嘯した。中堅〔将軍?〕の夔安は、高所に登って水攻めを避けるよう石勒に勧めた。石勒は「将軍はなぜ怯えているんだ」と言った。孔萇、支雄ら三十余将が進み出て言った、「呉軍がまだ集まらないうちに、萇らがおのおの三百の歩兵を率い、船に乗って三十余道から進みたく願います。夜に寿春の城壁に登り、呉の将の首を斬り、城を得て、その備蓄米を食糧にしましょう。今年のうちに必ず丹楊を破り、江南を平定し、司馬家の小僧どもをことごとく生け捕りにしてみせます」。石勒は笑って、「それは勇将の計略だな」と言った。各自に鎧馬を一匹下賜した。〔石勒は〕張賓のほうに目をやり、「君の計略はどうだ」と訊ねた。張賓、「将軍は帝都(洛陽)を攻め落とし、天子を捕え、王侯を殺害し、妃主(王妃や公主)を略奪して妻としました。将軍の髪の毛を引き抜くことでさえ、将軍の罪状を数えて責めるのと比べれば少ないでしょう1まどろっこしい訳になってしまったが、晋に対して犯した罪は髪の毛の本数よりも多いということ。。どうしてあちらに臣従できましょうか。去年、王弥を誅殺したあと、この地に拠点を築くべきではなかったのです。天は長雨を四方数百里にわたって降らせることで、将軍に駐留すべきではないことを示しています。鄴には堅固な三台があり、西は平陽に隣接し、四方は山河で囲まれ、要害の地勢をそなえていますから、北に移動してこの地を占有するべきです。逆らう者を討伐し、服従する者を懐柔し、河朔が平定されれば、将軍の右に出る者はいなくなるでしょう。晋が寿春にこもっているのは、将軍が進撃してくるのを恐れているからにすぎません。ですから、いま、〔将軍が〕軍を転進させたとにわかに知れば、必ずや敵が去ったと喜び、奇襲兵で後方から攻めようとまで頭をめぐらすことはできないでしょう。輜重はまっすぐに北道を進ませ、大軍(本軍)は寿春に向かい、輜重が〔十分に〕離れてから、じっくりと大軍を転進させれば、進退に余地がなくなること(進退が窮まること)を恐れる必要はありません」。石勒は袂を振り払って起ちあがり、髯(ほおのひげ)をさすって、「賓の計略が正しい」と言った。刁膺を叱責し、「君は共同で〔私を〕補佐し、事業の成功を計画するべきであるのに、どうして降服を勧めるのか。その計略は斬刑に相当する。しかし、〔君の〕性格が怯懦なのは知っているから、君を赦そう」と言った。こうして刁膺を〔長史から〕退けて将軍とし、張賓を右長史に抜擢し、中塁将軍をくわえ、右侯と号した。
 葛陂から出発すると、石季龍を派遣し、騎兵二千を統率させて寿春でくいとめさせた。ちょうど江南からの漕運船が到着し、〔襲撃して〕米と布を数十艘分鹵獲した。将士はこれを争って取りあったため、〔軍に〕防備を設けていなかった。〔そこに〕晋の伏兵がおおいにあらわれ、石季龍を巨霊口で破り、〔石季龍軍の兵士で〕川に投じて死ぬ者は五百余人あり、敗走して百里撤退し、石勒の軍に合流した。軍中は震撼し、王師(晋軍)が大軍で到来するだろうと思い、石勒は布陣して王師を待ち受けた。晋は伏兵を心配したので、退却して寿春に引き返した。石勒が通過した道路では、〔人々は〕みな防壁を固くし、原野から物をすっかりなくしていたため、掠奪しても得られる物はなく、軍中はおおいに飢え、兵士が食いあった。進んで東燕に到達すると、汲郡の向氷が衆数千を擁し、枋頭に塢壁を築いていると知った。石勒は棘津から〔黄河を〕北に渡ろうと考えていたので、向氷が渡河を待ち伏せするのではないかと心配し、諸将を集めて計略を訊ねた。張賓が進み出て言った、「聞くところでは2原文「如聞」。劉粲載記にも見られるが、和刻本はそちらでは「如」字を衍字としている。この箇所もそれに従って「如」字は訳出しないことにする。、向氷の船はすべて瀆(黄河の北岸?)にあり、まだ枋内(枋頭内地?)に引き上げていないとか。壮勇の者千人を選抜し、抜け道からひそかに黄河を渡り、襲撃して船を奪い取り、それで大軍を渡すのがよいでしょう。大軍が渡ってしまえば、向氷は必ずや捕えることができましょう」。石勒はこれを聴き入れ、支雄、孔萇らに文石津からいかだをつくらせてひそかに渡河させ、石勒は軍を率いて酸棗から棘津へ向かった。向氷は石勒の軍が到来したことを聞くと、ようやく船を内へ入れようとした。ちょうど支雄らはすでに渡り終えており、向氷の(?)塢壁の門に駐屯していた。〔支雄らは〕船三十余艘を〔南に?〕下ろし、石勒の軍を渡河させた。〔石勒は?〕主簿の鮮于豊に〔向氷を〕挑発させて戦闘を誘わせ、〔一方で〕三か所に伏兵を設けて待ち受けた。向氷は怒って出撃し、戦闘しようとしたところ、三か所の伏兵が一斉にあらわれ、向冰の軍を挟撃し〔て破っ〕た。さらに、向氷の物資を得たことで、石勒軍はとうとう充足し、士気が高まった。長躯して鄴を侵略し、北中郎将の劉演を三台で攻めた。劉演の部将の臨深、牟穆らは軍数万を率いて石勒に降った。
 このとき、将佐たちは議して、三台を攻め落としてそこを占拠しようと望んだ。張賓は進み出て言った、「劉演の軍はなお数千あり、三台は険固ですから、攻撃をかけてもすぐに落とすことはできないでしょう。〔むしろ〕捨て置けば自然と潰走します。王彭祖(王浚)と劉越石(劉琨)は強大な敵ですから、彼らがまだ備えを設けていないのに乗じて、ひそかに作戦を立て、進軍して罕城(虎牢城?)を占拠するのがよいでしょう。〔罕城を経由してわがほうの〕食糧の貯蓄を広域に輸送し、西は平陽に補給し、〔そうして〕并州(劉琨)と薊(王浚)を平定すれば、斉の桓公や晋の文公のごとき功業(覇業)を成せましょう3漢を物質的に助けつつ、漢にとっての逆賊を平定すれば、漢における第一人者、すなわち覇者になれる、ということであろうか。。また、現在は天下が沸騰し、戦争がちょうど始まったところですから、目的もなく流浪したままで、人々に定まった信念がないとなると、万全を保つのも、天下を制するのも難しいでしょう。そもそも、土地を得る者は栄え、失う者は滅ぶものです。邯鄲と襄国は趙の旧都で、険阻な山をたのみとし、地形に優れた国です。この二つの邑(都市)を選んで都に定め、そのあとで将に命じて四方に出撃させ、奇略を授け、滅亡すべきところを押して滅ぼし、存続すべきところを助けて守り固め、弱小のところを兼併し、愚昧のところを攻撃すれば、もろもろの凶悪人を排除でき、王業を定立することができるでしょう4前の「桓文之業」からさらに進んだ段階として「王業」を勧めているものと思われる。」。石勒は「右侯の計略が正しい」と言った。こうして進軍し、襄国を占有した。張賓はさらに石勒に言った、「いま、われわれがこの地を都に定めるのは、劉越石と王彭祖が深く嫌うことでしょうから、おそらく、わが城壁や堀がまだ固め終わらず、物資の貯蓄がまだ十分でないうちに、死をわれわれに送りつけようとしてくるでしょう。聞くところによりますと、広平の諸県での秋の収穫は豊作だったとか。諸将を分けて派遣し、原野の穀物を掠奪させるのがよいでしょう。〔また〕使者を平陽につかわし、この地に鎮する意向を伝えておくのがよいでしょう」。石勒もこれに同意した。こうして劉聡に上表した。諸将を分け、冀州の郡県の塢壁を攻めるように命じると、多くが降服したので、食糧を石勒に輸送した。劉聡は石勒を使持節、散騎常侍、都督冀・幽・并・営四州雑夷征討諸軍事、冀州牧に任命し、昇格させて本国の上党に封じ、上党郡公とし、食邑五万戸とし、開府、幽州牧、東夷校尉はもとのとおりとした。
 広平の游綸と張豺は衆数万を擁しており、王浚から任命を授かり、苑郷を占拠していた。石勒は夔安、支雄ら七将にこれを攻めさせ、外の防壁を破らせた。王浚は督護の王昌と、鮮卑の段就六眷、段末柸、段匹磾らの部衆の〔すべて合わせて〕五万余を派遣し、石勒を討伐させた。このとき、〔襄国の〕城壁と堀がまだ修繕できていなかったので、襄国に隔城(不詳)を築き、柵を数重に立て、障害物を設置してこれを待ち受けた。段就六眷が渚陽に駐屯したので、石勒は諸将を分けて派遣し、連続して出撃させ、挑発させて戦闘を誘わせたが、しきりに段就六眷に敗れた。また、段就六眷が攻城兵器を製造していると耳にしたため、石勒は将佐に目をやって言った、「現在、賊が到来し、しだいに圧迫が重くなっている。敵は多勢でわれわれは少数だ。おそらく、〔敵の〕攻囲は解けないし、外(漢)からの救援も来ないだろうし、内(城内)の食糧もすっかりなくなってしまった。かりに孫子や呉子が復活したとしても、城の守りを固めることはできないだろう。そこで、将士を選抜し、原野で布陣して決戦しようと考えているのだが、どう思うかね」。諸将はみな言った、「守りを固めて賊を疲弊させるのがよいと考えます。敵軍が疲弊してみずから退却したら、追ってこれを攻めましょう。勝利しないわけがありません」。石勒は張賓と孔萇のほうを見て、「君たちはどう思うのだ」と訊ねた。張賓と孔萇は口をそろえて言った、「聞くところによれば、段就六眷は来月上旬に期日を定めて北城(北の城壁)に死を送りつけようとしているとか。敵の大軍は遠方から来たうえ、連日交戦していました。わが軍勢が寡弱であることにもとづけば、考えますに、〔敵が〕あえて〔すぐに〕出撃しない〔で来月上旬に攻撃をかけようとする〕のは、心中は疲労しているからにちがいありません。いま、段氏の種族のなかでは、段末柸がもっとも剽悍で、精強な兵士はことごとく段末柸の指揮下にいます。〔段末柸を〕出撃させないよう、敵にはこちらが惰弱であるようにみせるのがよいでしょう。〔その一方で〕すみやかに北塁(北の軍塁)から穴を掘り、突門(地下道)二十余道をつくり、賊の布陣がまだ整っていない隙をうかがって、〔突門を利用して〕その不意を突き、まっすぐ段末柸の帳を攻めれば、敵は必ず恐れおののき、対処する計略を立てる余裕もないでしょう。いわゆる『急な雷は耳をふさごうとしても間にあわない』というものです。段末柸の軍が敗走すれば、ほかもおのずと潰走するでしょう。段末柸を捕えたあとならば、王彭祖は日にちを指定して(すぐにでも)(2020/6/27:注追加)平定できましょう」。石勒は笑ってこれを採用し、即座に孔萇を攻戦都督とし、突門を北城につくらせた。鮮卑(段氏)が北塁(前出の「北塁」と同義かは不明)に進入して駐屯すると、石勒はその陣がまだ整っていない隙をみはからい、みずから将士を率い、城壁の上で太鼓を打ち鳴らして鬨の声をあげ〔て、敵の注意をひきつけ〕た。ちょうどそのとき、孔萇は突門の伏兵を指揮して一斉に飛び出し、段末柸を生け捕りにし、段就六眷らの軍はとうとう敗走した。孔萇は勝利に乗じて追撃し、死体は三十余里にわたってころがり、鎧馬五千匹を鹵獲した。段就六眷は敗残兵を集めて渚陽に駐屯し、使者をつかわして和睦を求め、鎧馬や金銀を送り、同時に段末柸の三人の弟を質任として差し出し、代わりに段末柸の解放を求めた。諸将はみな、段末柸を殺して段氏の勢力を削ぐように勧めた。石勒は言った、「遼西の鮮卑は強健な国だ。私とはもともと怨恨があるわけではなく、王浚に使われているにすぎない。いま、一人を殺して一国の怨みを買ってしまうのは得策ではない。段末柸を解放すれば必ず喜ぶだろうから、二度と王浚の手先にはなるまい」。こうして質任を受け入れ、石季龍を派遣し、段就六眷と渚陽で会盟し、兄弟の関係を結ぶと、段就六眷らは撤退していった。〔石勒は〕参軍の閻綜をつかわし、劉聡に戦勝を報告した。こうして、游綸と張豺は降服を願い出て称藩した。石勒は幽州を襲撃しようと考え、将士を保養することにつとめていたため、臨機の措置として游綸と張豺の降服を許し、どちらも将軍に任命した。こうして、軍を派遣して信都を侵略し、冀州刺史の王象を殺した。王浚は邵挙を行冀州刺史とし、信都を守らせた。
 建興元年、石季龍は鄴の三台を攻めた。鄴は落ち、劉演は廩丘へ敗走し、将軍の謝胥、田青、郎牧らは三台の流人を率いて石勒に降り、石勒は桃豹を魏郡太守として彼らを慰撫させた。段末柸に命じて〔石勒の〕子とし、使持節、安北将軍、北平公に任命し、解放して遼西に帰らせた。段末柸は石勒の厚恩に感激し、道中では毎日三度、南を向いて拝礼した。段氏はとうとう石勒に帰心したので、これ以後、王浚の威勢はじょじょに衰えていった。
 石勒は苑郷を襲撃し、游綸を捕えて主簿とした。乞活の李惲を上白で攻め、これを斬った。李惲の降服した兵卒を穴埋めにしようとしたとき、郭敬を見かけて気づき、言った、「あなたは郭季子ですか?」。郭敬は叩頭し、「そうです」と言った。石勒は馬から下りてその手を取り、泣いて言った、「今日こうして遇えたのも、天のおかげでなければなんであろうか」。〔郭敬に〕衣服と車馬を賜い、上将軍に任命し、降服した者を全員赦免し、郭敬に配した。将の孔萇が定陵を侵略し、兗州刺史の田徽を殺した。烏丸の薄盛が渤海太守の劉既を捕え、五千戸を率いて石勒に降った。劉聡は石勒に侍中、征東大将軍を授け、ほかはもとのとおりとし、石勒の母の王氏を上党国太夫人に任じ、妻の劉氏を上党国夫人に任じ、印綬と首飾りはすべて王妃と同等にした。
 段末柸の質任であった弟が遼西へ逃げ帰った。石勒はおおいに怒り、〔その弟が〕通過したところ(県)の令と尉をすべて殺した。
 烏丸の審広、漸裳、郝襲が王浚にそむき、ひそかに使者をつかわし、石勒に降ったので、石勒は厚くいたわって迎えた。司州と冀州がじょじょに平穏になってきたので、民ははじめて租賦を課された。太学を立て、経書に明るく、書物に通じている吏を選んで文学掾に任命し、将佐の子弟三百人を選抜して教育させた。石勒の母の王氏が死んだが、ひっそりと山谷に埋葬し、埋葬場所を詳細に知らせなかった。ほどなく、九命の礼をととのえ、襄国の城南に虚葬した。
 石勒は張賓に言った、「鄴は魏の旧都であるから、再建しようと考えている。〔かの地の〕風俗は煩雑であるから、賢明な名士を用いて治めさせようと思うのだが、誰を任用したらよいだろうか」。張賓、「晋のもとの東莱太守である南陽の趙彭は誠実かつ機敏で、当世の主君を輔佐する才能をそなえています。将軍がもし彼を任用すれば、まことに〔将軍の〕神のごとき戦略を助けることができるにちがいありません」。そこで石勒は趙彭を召し、魏郡太守に任命しようとした。趙彭が到着すると、入って泣き、辞退して言った、「臣はかつて晋室の策(臣のリスト)に名をつらね、晋の俸禄を食んでいました。犬馬は主人を慕い、決して〔主人を〕忘れようとしないものです。晋の宗廟が窮まって草むらとなったのは、大河が東へ流れて行って戻って来ないのと同じようなことだと、まことに理解しています。明公は瑞祥にかない、天命を受けたお方ですから、〔このたびのお召しは〕龍につかまる機会と言えましょう。しかし、人からの栄誉を授かっておきながら、さらに二姓に仕えるというのは、臣の志が為すのを許しません。おそらく、明公も〔二姓に仕えるという行為自体を〕お許しになられないでしょう5【追加の注】原文「但受人之栄、復事二姓、臣志所不為、恐亦明公之所不許」。公開時は訳文のように、「二姓に仕える不義は明公もお許しになられないことだ」と読んでいた。だが、『太平御覧』巻421、義中に引く「又(崔鴻十六国春秋)後趙録」に「且受人栄寵、復事二姓者、臣志所不為、且豈愚臣之狷志、恐亦明公之所不許」とあり、「二姓に仕えないのをポリシーにしていますが、一方で明公はそのポリシーをお許しになられないでしょう」と読めるだろうか。載記本文もこの佚文を踏まえ、語を補って読むべきかもしれないが、それはやりすぎのような気もするので現段階では保留します。(2020/7/10追記)。もし、臣に余生を賜わり、臣のささいな願いをまっとうさせてくだされば、それが明公のおおいなる恩恵になりましょう」。石勒は黙然としてしまった。張賓が進み出て言った、「将軍の神旗が通過した場所では、衣冠の士で変節しない者はいませんでしたが、大義によって進退を決する人物はいままでいませんでした。このような賢者については、将軍を漢の高祖とみなし、みずからを四公に擬えているのでしょう。いわゆる『君臣が理解しあう』というものです。このこと(むりに臣従させず、賢者を特別厚遇すること)もまた、将軍の不世出の偉大さを成しとげるのに十分でして、必ず趙彭を吏にしなければならないのではありません」。石勒はおおいに喜び、「右侯の言葉は孤の心を得ている」と言った。こうして、〔趙彭に〕安車駟馬を賜い、卿の俸禄で養い、子の趙明を召して参軍とした。石勒は石季龍を魏郡太守とし、鄴の三台に出鎮させた。石季龍の簒奪の萌芽は、これより芽生えたのである。
 このころ、王浚は百官を任命して設け、ほしいままに奢侈し、淫乱暴虐であった。石勒は併呑の意志を抱いていたので、先に使者をつかわし、王浚を観察させようとした。議者はみな言った、「羊祜が陸抗に書簡を送り、たがいに知らせあったときのようにするのがよいでしょう」。このとき、張賓は病気だったので、石勒は〔張賓の居所まで〕行って相談した。張賓、「王浚は三部(鮮卑?)の力を利用し、称制して南面しています。晋の藩を称しているとはいえ、実際は僭越の野心を抱いていますから、必ずや英雄を集め、事業を成功させようと企んでいるでしょう。将軍の威声は海内を震撼させ、去就は存亡を左右し、所在は軽重を決しますから、王浚が将軍を欲するのは、楚(項羽)が韓信を招こうとしたようなものです。いま、権謀を立て、偽って使者をつかわすにしても、誠実な表向きがなければ、もしかすると〔王浚に〕猜疑心を生じさせてしまうことになり、王浚に計略をかけようとしている端緒が露見してしまえば、そのあとでは奇略でさえもしかけられないでしょう6原文「後雖奇略、無所設也」。ぎこちなくなってしまったが、「王浚に万全の対策を取らせてしまうことになり、どんなにすぐれた計略でもそれを崩せないだろう」というニュアンスだと思う。。そもそも、大事を立てる者は、必ず最初は身を低くするものです。ですから、〔王浚に〕称藩して奉戴するべきだと考えますが、それでもなお信頼されるか不安です。〔まして〕羊祜と陸抗の故事となると、よろしいことであるのか、臣にはいまだわかりかねます」。石勒は「右侯の計略が正しい」と言った。そこで舎人の王子春、董肇らを派遣し、多くの珍宝を贈り、〔王浚に〕表を奉じ、王浚を尊んで天子に推戴し、述べた、「勒はもともと卑小な胡であり、戎裔(戎狄?)の出自です。晋の綱紀が弛緩し、海内が飢餓と戦乱にみまわれているところに遭遇すると、〔勒は〕各地を流浪し、肉親は散り散りになり、危難な目に遭いましたが、冀州へ逃げて命をつなぎ、〔その地で流人たちと〕共同してつぎつぎと合流し、そうすることで性命を保てました。現在、晋の朝祚は失墜し、遠く呉会の地に移ったため、中原には主人がおらず、民衆にはよるべがありません。伏して考えますに、明公殿下は州郷(地方)の貴望(高貴な名士)であり、四海が敬服するお方です。帝王にふさわしい人物は、公のほかに誰がいましょうか。勒が身命を投げうち、義兵を起こして暴乱の賊を誅殺しているのは、まさに明公のために駆除しているのです。伏して殿下に願いますに、天に応じて時宜にかない、皇帝の位にお昇りくださいますよう。勒は明公を天地や父母のように奉戴いたします。明公よ、勒の微小な心をお察しになり、子のように慈愛してくださいますよう」。また、棗嵩7王浚伝によれば、王浚の「子壻」。王浚の腹心にも取り入ることで、王浚の信用を固めようとしたのであろう。に書簡を送り、厚く金品を贈った。王浚は王子春らに言った、「石公は当代きっての武人で、趙の旧都に割拠し、鼎立の形勢をつくりあげているのに、どうして孤に称藩するのだろうか。信用できるものだろうか」。王子春が答えて言った、「石将軍はすぐれた才能をおもちの傑物であり、軍隊は精強で旺盛であること、まことに仰るとおりでございます。そもそも考えますに、明公は州郷の貴望であり、代々にわたって輝きを積み重ねてこられ、藩岳(地方の要地)に出鎮すると、威名は極遠の地まで伝わり、まことに胡越はその風格を慕い、戎夷はその徳を歌っています。どうしてちっぽけな役所に甘んじて、神闕(天神の宮門)で襟を正そう8原文「斂衽」。目上の者に表敬する意であるらしい。ここは天神にまみえる=天子にのぼるの意であろう。としないのでしょうか。むかし、陳嬰は王の位を卑しんで王とならず9秦末、東陽で群衆が騒乱を起こすと、陳嬰を長に立て、ついで王に立てようとしたが、陳嬰はあえて王には立たず、自分は指導者にふさわしくなく、項氏がそれに適任だと話したという。おそらくこの話のことを指すのであろう。『史記』項羽本紀を参照。、韓信は皇帝の位を軽んじて皇帝になりませんでしたが10蒯通が韓信に鼎立を勧めたが、韓信はそれを採用しなかった(『漢書』蒯通伝)という話のことかもしれないが、よくわからない。、それはなぜでしょうか。帝王とは智と武力によって争うことができるものではないというのを、〔この二人は〕わかっていたからにすぎません。石将軍を明公と比べると、月と太陽、あるいは江(長江)河(黄河)と大海のようなものです。項籍や子陽(公孫述)が車を転覆させた失敗は遠いむかしのことではなく、これらの出来事は石将軍にとって明白な教訓なのです。明公はどうして不思議に思われるのでしょうか。かつ、いにしえ以来、まことに胡人で名臣となった者であれば確かに存在しますが、帝王となった者はいません。石将軍は帝王の位を嫌がって明公に譲っているのではありません。帝王の位を気にかけて取ることは、天と人とが許さないことなのです。公に願わくは、お疑いなきよう」。王浚はおおいに喜び、王子春らを列侯に封じ、使者をつかわして石勒に返答し、幽州の産物を返礼に贈った。王浚の司馬の游統はこのとき、范陽に鎮していたが、ひそかに王浚にそむこうとたくらんでおり、使者を走らせて石勒に降った。石勒はその使者を斬り、王浚に〔首を〕送り、そうして誠実な心を示した。王浚は游統を罰しなかったとはいえ、ますます石勒の忠誠を信用するようになり、二度と疑ったりしなかった。
 王子春らが王浚の使者とともに到着すると、石勒は命令を下して精鋭の兵士を隠れさせ、物資に乏しい幕府と貧弱な軍を使者に見せ、北面して使者を拝し、王浚の書を受け取った。王浚は石勒に麈尾11払子。晋以降、名士の清談や僧の談義のさいに手に持ってふるうのに用いられた。(『漢辞海』)を贈ったが、石勒はわざと手に持たず、これを壁にかけて朝夕に拝し、「王公に謁見できないので、王公に謁見しているかのように王公から賜わったものにまみえているのです」と言った。再度、董肇を派遣して王浚に表を奉じ、みずから幽州に参って尊号をたてまつることを約束した。また、書簡を棗嵩に送り、并州牧と広平公を求め、そうしてまったく偽りのないまごころを示した。
 石勒は王浚を攻略しようと思い、王子春を召してたずねた。王子春、「幽州では去年の洪水以降、民は穀物を口にしていませんが、王浚は粟を百万斛も備蓄していますのに、それを支給することもしていません。刑罰や法律は厳しく、賦役は繁多で、賢良の士を虐殺し、諫言の士を誅殺して排斥し、下々は王浚の命にこらえられず、流浪したりそむいたりして、ほとんどいなくなりつつあります。外では鮮卑と烏丸が離心し、内では棗嵩と田矯が強欲と横暴を尽くしており、人々の心は消沈してかき乱れ、兵士は疲弊しています。そうであるのに、いまだ王浚は台閣12尚書台の意か。王浚は行台を立てていた。を立て、百官を配し、漢の高祖や魏の武帝ですら取るに足りないとみずから言っています。また、幽州での謡言や怪異はとりわけひどく、聞いた者はそれらのためにみな心を寒くしていますが、王浚の心は平生のとおりで、まったく恐れる様子がありません。これは滅亡の期日がやってきたということです」。石勒は脇息を撫でて笑い、「王彭祖、まことに捕えるべし」と言った。王浚の使者が幽州に到着すると、石勒の形勢は寡弱であり、誠心があって二心はないとつぶさに報告した。王浚はおおいに喜び、石勒は信頼できると思い込んだ。

石勒(1)石勒(2)石勒(3)石勒(4)石勒(5)附:石弘・張賓

  • 1
    まどろっこしい訳になってしまったが、晋に対して犯した罪は髪の毛の本数よりも多いということ。
  • 2
    原文「如聞」。劉粲載記にも見られるが、和刻本はそちらでは「如」字を衍字としている。この箇所もそれに従って「如」字は訳出しないことにする。
  • 3
    漢を物質的に助けつつ、漢にとっての逆賊を平定すれば、漢における第一人者、すなわち覇者になれる、ということであろうか。
  • 4
    前の「桓文之業」からさらに進んだ段階として「王業」を勧めているものと思われる。
  • 5
    【追加の注】原文「但受人之栄、復事二姓、臣志所不為、恐亦明公之所不許」。公開時は訳文のように、「二姓に仕える不義は明公もお許しになられないことだ」と読んでいた。だが、『太平御覧』巻421、義中に引く「又(崔鴻十六国春秋)後趙録」に「且受人栄寵、復事二姓者、臣志所不為、且豈愚臣之狷志、恐亦明公之所不許」とあり、「二姓に仕えないのをポリシーにしていますが、一方で明公はそのポリシーをお許しになられないでしょう」と読めるだろうか。載記本文もこの佚文を踏まえ、語を補って読むべきかもしれないが、それはやりすぎのような気もするので現段階では保留します。(2020/7/10追記)
  • 6
    原文「後雖奇略、無所設也」。ぎこちなくなってしまったが、「王浚に万全の対策を取らせてしまうことになり、どんなにすぐれた計略でもそれを崩せないだろう」というニュアンスだと思う。
  • 7
    王浚伝によれば、王浚の「子壻」。王浚の腹心にも取り入ることで、王浚の信用を固めようとしたのであろう。
  • 8
    原文「斂衽」。目上の者に表敬する意であるらしい。ここは天神にまみえる=天子にのぼるの意であろう。
  • 9
    秦末、東陽で群衆が騒乱を起こすと、陳嬰を長に立て、ついで王に立てようとしたが、陳嬰はあえて王には立たず、自分は指導者にふさわしくなく、項氏がそれに適任だと話したという。おそらくこの話のことを指すのであろう。『史記』項羽本紀を参照。
  • 10
    蒯通が韓信に鼎立を勧めたが、韓信はそれを採用しなかった(『漢書』蒯通伝)という話のことかもしれないが、よくわからない。
  • 11
    払子。晋以降、名士の清談や僧の談義のさいに手に持ってふるうのに用いられた。(『漢辞海』)
  • 12
    尚書台の意か。王浚は行台を立てていた。
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