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石勒(1)/石勒(2)/石勒(3)/石勒(4)/石勒(5)/附:石弘・張賓
石勒は兵を集めて期日を告げると、王浚を襲撃しようとしたが、劉琨、鮮卑、烏丸が後顧の患いとなることを心配し、逡巡して出発できずにいた。張賓が進み出て言った、「そもそも敵国を襲撃するときは、不意をつくべきです。軍が戒厳して一日(?)経ったのに出発していませんが、どうして三方の患いのほうを顧みられているのですか」。石勒、「そうなのだ。どうしたらよいだろうか」。張賓、「彭祖が幽州に割拠できているのは、二部(たぶん烏丸と鮮卑段部のこと)に頼ったからにすぎませんが、現在はどちらも離反し、仇敵に転じてしまいました。これはつまり、外部に声援がない状態でわれわれを防がなければならないということです。幽州は凶作で、人民はみな疏食を取り、多くの人々はそむき、〔王浚が〕親信している者も去り、軍隊は寡弱です。これはつまり、内部に精鋭がいない状態でわれわれを防がなければならないということです。〔ですから〕もし大軍が〔王浚の城の〕郊外に駐在すれば、〔それだけで〕必ず瓦解するでしょう。いま、三方(劉琨、鮮卑、烏丸)はまだ平定されていないので、将軍は懸軍1本隊から遠く離れて、深く敵地に攻め入った軍隊。(『漢辞海』)軍を総動員するのではなく、一部の軍隊を遠征に派遣すること、といった程度でとらえればよいだろう。を千里先に派遣して幽州を制圧するべきです。軽装の軍ならば、往復して二旬日(二十日)もかかりません。かりに〔進軍中に〕三方に動きがあっても、軍勢が向きを変えることは可能です。この機会に応じてただちに出発するべきであり、機を逃してはなりません。かつ、劉琨と王浚はともに晋の藩を称しているものの、実際は仇敵の関係です。もし劉琨に書簡を送り、質任を送って和睦を求めれば、劉琨は必ずやわれわれを手中にしたことを嬉しがり、王浚が滅亡することを喜ぶでしょうから、終始、王浚を救援し、われわれを襲撃することはしないでしょう」。石勒、「私にはわかっていなかったことが、右侯にはすでにわかっていたのだな。ならば迷うことはない」。
こうして、軽騎兵で幽州を襲撃し、火を明かりにして夜中に進軍した。柏人に到着すると、主簿の游綸を殺した。兄の游統が范陽にいるので、〔游綸が〕作戦を漏らすことを案じたからである。張慮を派遣して劉琨に書簡を奉じ、みずからの過失が重大であることを述べ、王浚を討伐して〔晋のために〕尽力したいと求めた。劉琨は平素から王浚を嫌っていたので、もろもろの州郡に檄を発し、石勒が天命を悟って過失を反省し、積年の過ちを受け入れ、幽都2『漢書』の用例では北方の極遠の地を指すらしいが、ここは文脈から見て幽州のことであろう。を落とし、善を将来にもたらしたいと求めてきたので、いまはその要望を許し、質任を受け入れて和睦を通じることにする、と説明した。石勒軍が易水に到着すると、王浚の督護の孫緯が伝令を走らせて王浚に報告し、〔みずからは〕軍を率いて石勒を防ごうとしたが、游統がこれを制止した。王浚の将佐はみな、出軍して石勒を攻撃することを要請したが、王浚は怒り、「石公が来たのは私を奉戴しようとしているからだ。あえて攻撃を進言する者は斬る」と言った。そして饗宴の用意を命じて石勒を待った。石勒は夜明けに薊に着き、門衛を叱り飛ばして開門させた。伏兵を疑ったので、先に牛羊数千頭を走らせ、これは上礼だと公言したが、実際はもろもろの道路を〔牛羊で〕埋めつくし、伏兵を出させないようにしようとしたのであった。王浚はやっと不安を抱きはじめ、座ったり起ち上がったりしていた。石勒は〔王浚のいる〕庁舎へ登ると、兵士に命じて王浚を捕えさせ、前に立たせ、徐光に王浚を責めさせ、言わせた3徐光については、たとえば『太平御覧』巻三八四、幼智上に引く「又〔崔鴻十六国春秋〕後趙録」に「徐光字季武、頓丘人。父聡、以牛医為業。光幼好学、有文才。年十三、嘉平中、王陽攻頓丘、掠之、令主抹馬、光但書柱為詩賦、而不親馬事。陽怒、撻之、啼呼終夜不止。左右以白陽、陽召光、付紙筆、光立為頌、陽奇之」とあり、「文才」をそなえた人物だったらしい(なお、別の佚文では石勒が召して紙筆を与えてみたことになっている)。ここで徐光は石勒の代弁者のような役割を演じているわけだが、石勒は華美な表現の漢語ができず、それゆえ徐光のこのような才覚を重宝した、ということなのかもしれない。、「君の位冠は元台4指三台星中的上階二星。三台六星両両而居。其上階二星、上星象徴天子、下星象徴女主。又称天柱星、象徴三公之位。見《晋書・天文志》。故以“元台”喩天子・女主或首輔。(『漢語大詞典』)この場合は「象徴三公之位。……喩……首輔」であろう。、爵位は上公で、幽都という剽悍の国に割拠し、燕全土という突騎の郷にまたがり、精強な軍を掌握しておきながら、ただ京師が転覆するのを眺めるだけで、天子を救うことをせず、かえってみずから尊貴(天子)になろうとしていた。また、もっぱら悪人のみを任用し、忠良の人を殺し、情欲をほしいままにし、害毒が燕の土壌に広くまかれた。みずから今日のような目を招いたのであって、天によるものではない」。石勒の将の王洛生に駅馬を利用させて王浚を襄国の市に送らせ、これを斬らせた。こうして、流人をめいめいの故郷に分けて帰らせ、荀綽と裴憲を抜擢し、車服を支給した。朱碩、棗嵩、田矯らを賄賂によって政治を乱したとして罪を数えあげ、游統を王浚に不忠であったとして責め、みな斬った。烏丸の審広、漸裳、郝襲、靳市らは襄国へ移した。王浚の宮殿を焼き払った。晋の尚書の劉翰を寧朔将軍、行幽州刺史とし、薊に駐屯させ、守宰(郡県の長官)を置いて帰還した。石勒の東曹掾の傅遘を兼左長史として派遣し、王浚の首を〔箱などに?〕封印し、劉聡に戦勝を報告した。石勒が襄国へ帰還すると、劉翰は石勒にそむき、段匹磾のもとへ奔った。襄国は大飢饉で、穀物は二升で銀二斤、肉は一斤で銀一両に相当した。劉聡は幽州を平定した功績をもって、劉聡の使人(侍官?)の柳純に節を持たせて派遣し、石勒を大都督陝東諸軍事、驃騎大将軍、東単于に任命し、侍中、使持節、開府、校尉、二州牧、公はもとのとおりとし、金鉦、黄鉞、前後の鼓吹二部をくわえ、封地に十二郡を加増した。石勒は〔増封を〕固辞し、二郡だけ受け取った。石勒は左長史の張敬ら十一人を伯、子、侯に封じ、文武官の位の昇進はおのおの格差があった。
石勒の将の支雄が劉演を廩丘で攻めたが、劉演に敗北した。劉演は将の韓弘と潘良を派遣して頓丘を襲撃させ、石勒が任命した頓丘太守の邵攀を斬った。支雄は韓弘らを追撃し、潘良を廩丘で殺した。劉琨は楽平太守の焦球を派遣し、石勒支配下の常山を攻めさせ、常山太守の邢泰を斬った。劉琨の司馬の温嶠が西に進んで山胡を討伐すると、石勒の将の逯明はこれを迎え撃ち、温嶠を潞城で破った。
石勒は幽州と冀州がしだいに安定してきたので、はじめて州郡に命令を下して人戸の実態を調査させ5原文「閲実人戸」。渡辺信一郎氏によれば家産評価のことをいう。渡辺『中国古代の財政と国家』(汲古書院、二〇一〇年)二三七―二三八頁を参照。(2021/2/11:注追加)、戸ごとに貲6漢代では、未成年の者に対する人頭税、六朝では一戸ごとに納めさせた絹などの実物税。(『漢辞海』)渡辺信一郎氏は絹を指すとする。渡辺『中国古代の財政と国家』(前掲)二三七―二三八頁を参照。(2021/2/11:注追加)を二匹、租を二斛課税した。
石勒の将の陳午が浚儀をもって石勒にそむいた。逯明が甯黒を茌平で攻め、これを降し、そして東燕と酸棗を落としてから帰還した。降伏した人々二万余戸を襄国に移した。石勒は将の葛薄に濮陽を侵略させ、これを落とし、濮陽太守の韓弘を殺した。
劉聡は使人の范龕に節を持たせて派遣し、石勒に策書を下し、弓矢を賜い、爵を加増して陝東伯とし、征伐の事業を専行することを許し、刺史、将軍、守宰、列侯の任命や封建は、年末にまとめて報告させた。石勒の長子の石興を上党国世子とし、翼軍将軍をくわえ、驃騎将軍(石勒)の副弐(補佐)とした。
劉琨は王旦を派遣して中山を攻めさせ、石勒が任命した中山太守の秦固を追い出させた。石勒の将の劉勔が王旦を防ぎ、これを破り、王旦を望都関で捕えた。石勒は邵続を楽陵で襲撃した。邵続は衆を総動員して迎撃し、〔石勒は〕大敗して帰還した。
章武の王眘が科斗塁で挙兵し、石勒支配下の河間、渤海諸郡で騒擾した。石勒は揚武将軍の張夷を河間太守とし、参軍の臨深を渤海太守とし、おのおの歩騎三千を統率させてこれを鎮圧させ、長楽太守の程遐を昌亭に駐屯させ、声援とした。
平原の烏丸の展広、劉哆らの部落三万余戸を襄国へ移した。
石季龍に乞活の王平を梁城で襲撃させたが、敗北して帰還した。さらに〔石季龍に〕劉演を廩丘で攻めさせた。支雄と逯明が甯黒を東武陽で攻め、これを落とし、甯黒は黄河に飛び込んで死に、その軍一万余を襄国へ移した。邵続は段文鴦に劉演を救援させようとしたが、石季龍は退いて盧関津に留まり、これを避けたので7『水経注』巻五、河水注に「河水又東径鄄城北、……河之南岸有新城、……北岸有新台、……為盧関津」とあり、盧関津は鄄城付近にあったようである。「避之」というのは、段文鴦と接触するのを避けたということであろう。、段文鴦は進めず(黄河を渡れず?)、景亭に駐屯した。兗(州)豫(州)の豪右である張平らが挙兵して劉演を救援しようとした。石季龍は夜に軍営を放棄し、伏兵を外に設けておいて、これから河北に戻ると言いふらした。張平らはそれを信じ込み、空っぽの軍営に入った。石季龍は転進してこれを撃破し、そのまま廩丘を落とし、劉演は段文鴦の軍へ敗走した。〔石季龍は〕劉演の弟の劉啓を捕え、襄国へ送った。劉演は劉琨の兄(劉輿)の子である。石勒は、劉琨が母をいたわってくれていたことから、このことを恩徳と思っていたので、劉啓に田宅を賜い、儒官に経典を講義させた。
このころ、蝗が大発生し、中山と常山がとりわけひどかった。中山の丁零の翟鼠が石勒にそむき、中山と常山を攻めたので、石勒は騎兵を率いてこれを討伐し、翟鼠の母と妻を捕えて帰還した。翟鼠は胥関にこもっていたが、ついには代郡へ逃げた。
石勒は楽平太守の韓拠を坫城で攻めた。劉琨は将軍の姫澹を派遣し、軍十余万を統率させて石勒を討伐させ、劉琨は広牧に駐屯し、姫澹の声援となった。石勒が姫澹を防ごうとすると、ある者が諌めて言った、「姫澹の軍は精強で旺盛なので、その先鋒とは当たるべきではありません。堀を深くし、塁壁を高くして、鋭意を挫くのがよいでしょう。攻守(攻撃側と防御側)で勢いがちがっていれば、必ず万全を得られましょう8原文「攻守勢異、必獲万全」。よくわからない。」。石勒、「姫澹の大軍は遠方からやって来たため、身体は疲弊し、力は尽き果てているし、犬羊が烏合した集団というものは、号令しても整わないのだから、一戦でこれを捕えられよう。どうして精鋭がいると思うのか。〔そもそも〕寇賊がもうすぐやって来るというのに、どうしてそれを捨ておけようか。〔それに〕大軍(石勒軍)がひとたび動いたというのに、中途での退却が容易であろうか。〔途中で退却できたとしても、〕もし姫澹がわが軍の退却に乗じたならば、かえって〔わがほうの〕余裕がなくなるであろうから、どうして堀を深くして塁壁を高くするいとまがあろうか。これは戦わずして自滅する道である」。立ち上がり、諌めた者を斬った。孔萇を前鋒都督とし、三軍で遅れて進んだ者を斬らせた。疑兵(進んでくるかのように見せかけて敵を惑わす兵)を山上に設け、軍を分けて伏兵を二か所に設けた。石勒は軽騎兵で姫澹と戦い、偽って兵を集め、敗走した。姫澹は兵を出して追撃してきたので、石勒は前後の伏兵を発し、挟撃した。姫澹軍は大敗し、〔石勒は〕鎧馬一万匹を鹵獲した。姫澹は代郡へ敗走し、韓拠は劉琨のもとへ敗走した。劉琨の長史の李弘は并州をもって石勒に降ったので、劉琨はついに段匹磾のもとへ逃げた。石勒は陽曲と楽平の戸を襄国へ移し、〔陽曲と楽平に〕守宰を置いてから撤退した。孔萇は姫澹を桑乾まで追った。石勒は兼左長史の張敷を派遣し、劉聡に戦勝を報告した。
石勒が楽平を征伐すると、南和令の趙領は広川、平原、渤海の数千戸を集めて石勒にそむき、邵続のもとへ奔った。河間の邢嘏は〔石勒に〕何度も召されたが応じず、〔趙領と〕同様に衆数百を集めてそむいた。石勒は冀州の諸県を巡回し、右司馬の程遐を寧朔将軍、監冀州七郡諸軍事とした。
石勒の姉の夫で広威将軍の張越が諸将と樗蒱(ばくちの一種)をしていたとき、石勒はみずから臨席し、これを観戦していた。張越は冗談のつもりで石勒に逆らったため、石勒はおおいに怒り、力士に大声で命じて張越の脛を折らせ、これを殺した。
孔萇は代郡を攻め、姫澹は戦死した。このころ、司州、冀州、并州、兗州の流人数万戸が遼西におり、〔石勒は〕つぎつぎと呼び集めたが、〔そうして来た〕流人は〔社会不安のため〕農業に落ち着くことができなかった。孔萇らは〔騒乱を起こした〕馬厳と馮䐗を攻めたが、久しく落とせなかった。石勒が計略を張賓に訊ねると、張賓は答えて言った、「馮䐗らはもともと明公の仇敵ではありませんし、遼西の流人はみな郷里を慕う気持ちを抱いています9騒乱を起こしている者たちも敵対心をもってやっているわけではないし、流人たちも本来はこちらに戻って落ち着いて暮らしたい願望をもっているんですよ、ということだろうか。。いま、軍を帰らせ、兵士を休め、賢良な太守を選び、その者に漢の龔遂の事業10龔遂は『漢書』循吏伝に立伝されている。宣帝の時代、渤海が飢饉のために社会不安に陥ったが、龔遂が渤海の太守に赴任すると、賊と掠奪は止み、民はみな農業を楽しむようになったという。を委ね、常制にこだわらせず(臨時の処置を許し)、慈愛を行き渡らせ、武威を発揚させるのがよいでしょう。そうすれば、幽州と冀州の賊は足をつまさき立てて(こちらを仰ぎ慕って)静まり、遼西の流人は指定した日時にすぐにでも(2020/6/27:修正)集まることでしょう」。石勒は「右侯の計略が正しい」と言った。孔萇らを呼び寄せて帰らせ、武遂令の李回を易北都護、振武将軍、高陽太守に任命した。馬厳の兵士は多くが李潜(不詳)軍の出身で、李回は以前に李潜の府の長史であったが、〔馬厳軍の兵士は〕平素から李回の威徳に服していたので、多くが馬厳にそむき、李回に帰順した。馬厳は部衆が離反したため、不安になり、幽州へ逃げたが、川に溺れて死んだ。馮䐗は軍を率いて石勒に降った。李回が駐留地を易京に移すと、流人で降る者は毎年、つねに数千であった。石勒はこのことをおおいに嘉し、李回を弋陽子に封じ、邑三百戸とした。張賓に一千戸の封地を加増し、張賓の位を前将軍に進めたが、固辞して受けなかった。
河朔で蝗が大発生した。〔蝗は〕最初、地面から穴を掘って生まれ、それから二十日ほどで蚕のような形状に変わり、さらに七、八日で休眠し、四日で脱皮して飛び立つ。あらゆる草類に群がるが、三豆と麻だけは食べなかった。并州と冀州がとりわけひどかった。
石季龍は長寿津から黄河を渡り、梁国を侵略し、梁国内史の荀闔を殺した。劉琨は段匹磾、段渉復辰、段疾六眷(段就六眷?)、段末柸らと固安で会盟し、石勒討伐を謀ろうとしたので、石勒は参軍の王続に金宝を持たせて段末柸に贈らせ、離間させようとした。段末柸は石勒の恩に報いたいと思っていたうえ、手厚い賄賂に喜んだので、段渉復辰、段疾六眷らに引き返すよう説得した。劉琨と段匹磾も退却し、薊城へ向かった。
邵続は兄の子の邵済に石勒支配下の渤海を攻めさせ、三千余人を捕虜にして帰還した。劉聡の将の趙固が洛陽をもって〔晋に〕帰順したが、石勒が襲撃してくることを恐れたので、参軍の高少に書を奉じさせ、石勒を尊崇し、劉聡討伐の軍を請うた。石勒は大義をもってこれをとがめたので、趙固は深く恨んで屈辱に思い、郭黙とともに河内や汲郡を攻めて掠奪した。
段末柸が鮮卑単于の截附真を殺し、忽跋鄰を単于に立てた。段匹磾は幽州から段末柸を攻めたが、段末柸は迎撃してこれを破った。段匹磾は敗走して幽州へ戻ると、ほどなく太尉の劉琨を殺した。劉琨の将佐はあいついで石勒に降った。段末柸は弟の段騎督を派遣し、段匹磾を幽州で攻撃させた。段匹磾は部衆数千を率いて邵続のもとへ逃げようとしたが、石勒の将の石越が塩山で迎え撃ち、これをおおいに破ったため、段匹磾は退却して幽州を守った。石越は流矢に当たって死んだので、石勒は彼のために三か月、楽(娯楽?)をしりぞけ、平南将軍を追贈した。
これ以前、曹嶷が青州に割拠すると、すぐに劉聡にそむき、南を向いて晋の王命を受けていたが、〔このときになって〕建鄴が遠方にあり、勢援11背後から助ける。また、その人。(『漢辞海』)が離れていて、石勒が襲撃してくるのを恐れたため、使者を派遣して和睦を通じようとした。石勒は曹嶷に東州大将軍、青州牧を授け、琅邪公に封じた。
劉聡の病気が重くなったので、駅伝で石勒を召し、大将軍、録尚書事とし、遺詔を授けて輔政させようとしたが、石勒は固辞したので沙汰止みになった。劉聡は再度、使人に節を持たせて派遣し、石勒を大将軍、持節鉞に任命し、都督、侍中、校尉、二州牧、公はもとのとおりとし、封地に十郡を加増したが、石勒は受けなかった。劉聡が死に、子の劉粲が偽位を襲ったが、大将軍の靳準が劉粲を平陽で殺した。石勒は張敬に命じ、騎兵五千を統率させて前鋒とし、靳準を討伐させ、石勒は精鋭五万を統率してこれに続いた。襄陵の北の原野を占拠すると、羌や羯で降服する者は四万余落であった。靳準はしばしば戦闘を誘ったが、石勒は塁壁を固めてこれを挫いた。劉曜は長安から〔戻って〕蒲阪に駐屯すると、劉曜も帝号を僭称し、石勒を大司馬、大将軍に任命し、九錫を加え、封地に十郡を加増し、以前と合わせて十三郡とし12上党郡公→十二郡を加増→固辞して二郡だけ受け取る。というこれまでの経緯が正確であれば、この時点で石勒の封地は三郡。これに劉曜の加増分を合わせれば十三郡になり、ちょうど合う。、爵を趙公に進めた。石勒が靳準を平陽小城で攻めると、平陽大尹の周置らは雑戸六千を率いて石勒に降った。巴の帥や羌、羯で降服する者は十余万落あり、これらを司州の諸県に移した。靳準は卜泰を使わし、乗輿や服御を送って和睦を求めたが、石勒は劉曜と〔たがいを〕懐柔する策を競って講じていたので13原文「勒与劉曜競有招懐之計」。どちらが相手を屈服させられるか、というニュアンスで取ってみたが、自信はない。、卜泰を劉曜に送りつけ、平陽城内は劉曜に帰順する意志がないことを知らしめ、劉曜軍の士気を消沈させようとした。〔ところが〕劉曜はひそかに卜泰と盟約を結び、平陽に帰らせて〔劉曜の言葉を〕伝えさせ、屠各を慰撫させようとした。石勒は卜泰が劉曜と謀略を立てたのではないかと疑い、卜泰を斬ってすみやかに平陽を降そうとしたが14劉曜載記を参照してもちょっとよくわからないが、劉曜は卜泰をいったん石勒のもとへ送り返したのかもしれない。、諸将はみな言った、「いま卜泰を斬ると、靳準は必ずや、二度と降ろうとしないでしょう。もし、卜泰が漢(劉曜)の要盟(強制して結ばされた盟約)を城中に伝え、〔城内の人々に〕率先して靳準を誅殺させるようにすれば、靳準は必ずや恐懼し、すみやかに降るでしょう」。石勒はしばらく経ってから諸将の議に従うことにし、卜泰を平陽に帰した。卜泰が平陽に入ると、靳準の将の喬泰、馬忠らと挙兵して靳準を攻め、これを殺し、靳明を盟主に推戴し、卜泰と卜玄を派遣し、伝国の六璽を奉じて劉曜に送った。石勒はおおいに怒り、令史の羊升を派遣して平陽につかわし、靳明が靳準を殺害した罪状を責めた。靳明は怒り、羊升を斬った。石勒はひどく怒り、軍を進めて靳明を攻めた。靳明は出撃したが、石勒がこれを打ち破り、死体は二里にわたってころがった。靳明は城門を修築して守りを固め、ふたたび出撃しようとはしなかった。石勒は左長史の王脩を派遣し、劉曜に戦勝を報告した。晋の彭城内史の周堅が沛内史の周黙を殺し、彭城と沛をもって石勒に降った。石季龍は幽州と冀州の兵を率いて石勒に合流し、平陽を攻めた。劉曜は征東将軍の劉暢を派遣して靳明を救援させた。石勒は軍を蒲上に留めさせた。靳明は平陽の衆を率いて劉曜のもとへ奔り、劉曜は西に進んで粟邑へ奔った。石勒は平陽の宮殿を焼き、裴憲と石会に劉淵と劉聡の墓を修復させ、劉粲以下百余人の遺体を回収して埋葬し、渾天儀と楽器を襄国へ運んだ。
劉曜はまた、使人の郭汜らに節を持たせて派遣し、石勒を太宰、領大将軍に任命し、爵を趙王に進め、封地に七郡を加増し、以前と合わせて二十郡とし、出入の際には警蹕15天子が出入りするとき、先ばらいして通路を警備すること(『漢辞海』)させ、冕の旒は十二とし、車は金根車とし、六頭の馬に牽かせ、曹公が漢を輔佐した故事に倣わせ、夫人は王后とし、世子は王太子とした。石勒の舎人の曹平楽は〔かつて劉曜へ〕使者につかわされたまま留まり、劉曜に仕えていたが、劉曜に言った、「大司馬(石勒)は王脩らをつかわしてきましたが、外は恭順を示していますけれども、内は天子(劉曜)の強弱を観察しています。王脩が帰ってくるのを待って、天子をすばやく襲撃しようと企んでいるのです」。このとき、劉曜の勢力は実際に疲弊していたため、王脩がこの現状を伝えることを心配していた。〔そこに曹平楽の進言があったので〕劉曜はおおいに怒り、郭汜らを後追いさせて帰還させ、王脩を粟邑で斬り、太宰の任命を中止した。劉茂は〔難を免れて〕逃げ帰り、王脩が死んだわけを報告した。石勒はおおいに怒り、曹平楽の三族を誅殺し、王脩に太常を追贈した。また、殊礼の授与が中止になったことを知ると、ひどく怒り、令を下した、「孤の兄弟が劉家に奉仕すること、人臣の道を過度にしのぐほどであった。もし孤の兄弟がいなかったら、〔劉氏は〕南面して朕と称せたであろうか。〔それなのに、事業の〕基礎が確立したら、〔こちらを〕滅ぼそうとしている。天は悪(劉氏)を助けず、手を靳準に差し伸べた。孤は主君に仕える身であるから、舜が父の瞽瞍に奉仕した義をよりどころにするべきであり16原文「当資舜求瞽瞍之義」。「舜が父を求める義」というのはよくわからない。いっぽう、和刻本は「求」を「奉」に作っている。和刻本に異同があるのは珍しいことではなく、基本的には和刻本に従う必要はないのだが、ここは文意的に和刻本のほうが通じてしまう。すなわち、ひどい扱いをしてくる父であっても孝行を尽くした舜のように、自分も劉氏にこき使われたけど尽くそうと思っている、という感じ。なので、ここは例外的に和刻本に従って読んだ。、だからこそ、ふたたび賢明な主君を尊崇し、当初のように友好を整えようとしたのである。それなのに、悪を助長して改悛せず、誠意を奉じた使者を殺害するとは、思いもよらないことであった。〔そもそも〕帝王の興起に法則があるだろうか。趙王や趙帝は、〔劉曜から授けられるのではなく〕孤みずからが獲得してみせよう。称号の大小は、〔他人から〕統制されるものであろうか17原文「豈其所節邪」。『太平御覧』巻一二〇、後趙石勒に引く「崔鴻十六国春秋後趙録」は「豈爾所呼耶(おまえに呼ばれてなるものではない)」、『資治通鑑』は「何待於彼邪(あいつの受任は必要ない)」。載記もおそらく同様のニュアンスだろうと思われるので、「節」を「管理する」の意でとった。」。こうして太医、尚方、御府の令を置き、参軍の鼂讚に命じ、正陽門を建造させた。〔完成後、〕にわかに門が崩壊したため、石勒はおおいに怒り、鼂讚を斬った。怒りにまかせてあわただしく刑を執行したが、すぐに後悔し、棺と衣服を賜い、大鴻臚を追贈した。
平西将軍の祖逖が陳川を蓬関で攻めた。石季龍が陳川を救援したので、祖逖は退却して梁国に駐屯し、石季龍は揚武将軍の左伏粛に祖逖を攻めさせた。
石勒は襄国の四門(四方の門?)に宣文、宣教、崇儒、崇訓の十余の小学を増置し、将佐や豪右の子弟百余人を選抜してこれを教育し、かつ夜警の衛員にくわえた。挈壺署を置き18挈壺は『周礼』夏官に見える。鄭司農によれば、軍中で井戸を掘るとか、漏刻を掌るとかいうらしいが、(こまかく読むのがだるくて)よくわからない。、豊貨銭を鋳造した。
河西鮮卑の日六延が石勒にそむいたので、石季龍がこれを討伐し、日六延を朔方で破り、斬首は二万余級あり、捕虜は三万余人あり、獲得した牛馬は十余万であった。孔萇は幽州の諸郡を討伐し、平定した。このころ、段匹磾の部衆は飢餓で散り散りになり、〔段匹磾はみずからの〕妻子を棄てていたが、段匹磾は邵続のもとへ奔った。曹嶷が使者をつかわし、産物を献上し、黄河を境界線にしたいと願い出た。桃豹が蓬関に到着すると、祖逖は退却して淮南へ向かった。陳川の部衆五千余戸を広宗に移した。
石季龍は張敬、張賓、および将佐百余人とともに石勒に尊号を称するよう勧めた。石勒は書を下した、「孤は寡徳をもって、かたじけなくも恩寵を授かり、夙夜に戦々兢々とし、危険な場所に臨むがごとく慎重になっているのに、どうして尊号を盗んで詐称し、非難を四方から招くことができようか。むかし、周の文公は天下の三分の二を有するという重みがありながらも、なお殷朝に服従し(『論語』泰伯篇)、姜小白(斉の桓公)は天下をたばねて正すという高さにおりながらも、なお周室を尊重した(『論語』憲問篇)。まして、国家(漢)の道は殷と周よりも隆盛し、孤の徳は二伯(文王と桓公)よりも薄いのである。すみやかにこの議を中止し、二度とやかましく言わないように。今後、あえて言えば、その者を刑にかけて赦さないこととする」。こうして沙汰止みとなった。
石勒はまた別に書を下した、「現在は大乱のあとであるが、律令は煩瑣である。そこで、律令の要点を集め、施行する法制をつくれ19原文「為施行条制」。「具為条制」と「主者施行」が一つになった表現かと思ったが、後文によれば律令をいったん停止し、その間に律令簡易版を施行し、しばらく経ってから律令の運用を再開する、ということなので、「一時的に施行する法令を作成せよ」ということなのだろうと解し、そのように読んでみた。」。こうして法曹令史の貫志に命じて『辛亥制度』五千字をつくらせ、十余年施行してから、律令を運用することにした。晋の泰山太守の徐龕が〔晋に〕そむいて石勒に降った。
石季龍、張敬、張賓、左右司馬の張屈六と程遐など、文武の官百二十九人が上疏した、「臣らはこう聞いています。非常の度量があれば必ず非常の功績を立て、非常の功績があれば必ず非常の事業を成す、と。このため、三代はじょじょに衰退し、五覇がかわるがわる興ると、戦乱を静めて時世を救ったので、その功績は明君と同等になったのです。伏して思いますに、殿下は天性の明哲をそなえ、符運にかない、宇宙を制圧し、皇業を輔弼して成功させたのであり、天下の人々で息を吹き返さない者はいません。瑞祥は毎日毎月あいついで現れています。衆望は劉氏から去り、明公に威服している者は十のうち九に及びます。いま、山川は平穏で、星は不吉な輝きを見せず、夏海(大海=海外)からも翻訳を重ねて使者が来訪し、天は心を向け、民は仰ぎ慕っています。まこと、中壇20古代為挙行郊祀・封禅等大典而設的高台。(『漢語大詞典』)にお登りになり21原文「升御中壇」。「御」はよくわからないので飛ばしてしまった。、皇帝の位におつきになり、〔殿下に〕すがっている連中(自分たちのこと)にわずかばかりの恩沢をお与えください。劉備が蜀に在留したときの故事、または魏の武王が鄴に在留したときの故事に従い、河内、魏、汲、頓丘、平原、清河、鉅鹿、常山、中山、長楽、楽平の十一郡を、さきの〔殿下の封国であった〕趙国、広平、陽平、章武、渤海、河間、上党、定襄、范陽、漁陽、武邑、燕国、楽陵の十三郡22封地が十三郡になったのち、劉曜から追加で七郡を加増されていたが、そのときに同時に与えられた殊礼待遇などはまもなく撤回されているため、七郡加増もなかったことになっているのであろう。と合わせ、合計で二十四郡、二十九万戸を趙国となさいますことを要請いたします。封域(広義の趙国)内〔の郡〕は旧制に従い、〔太守を〕内史と改め、「禹貢」と魏武に則って冀州の境界を復活させ〔、それを趙国の範囲とし〕、南は盟津まで、西は龍門まで、東は黄河まで、北は塞垣(辺境の要塞と城壁)までといたしましょう。大単于〔の位〕をもって百蛮を慰撫しましょう。并州、朔州、司州の三州を廃し、〔代わりに〕いずれの地にも部司を設置して監視させましょう23『十六国春秋』および『資治通鑑』によれば、このとき張賓らは石勒に「大将軍、大単于、領冀州牧、趙王」を称するよう求めたようである。ここで要請されている趙国は、王国であるのだけど、晋制における通常の王国ではなく、複数の郡を束ねて成る王国であり、その意味で曹操の魏王国みたいなものである、ということだと思われる。その王国内の郡太守は内史に改称されたのであろう。そしてその趙国の領域範囲を古代九州制における冀州の領域と合致させ、したがって趙国を治める石勒自身は冀州牧に就き、かつ趙国内における并州、司州、朔州の地はすべて廃して冀州に統合させてしまった、ということかと思われる。『太平御覧』巻一二〇、後趙石勒に引く「崔鴻十六国春秋後趙録」に「征虜〔石〕虎与左右長史張敬、張賓等上疏曰、『大司馬雖位冠九台、非覇者之号、請改称大将軍、大単于、領冀州牧、趙王、依魏王在鄴故事、以二十四郡、戸十九万為趙国』」、『資治通鑑』巻九一、太興二年に「十一月、将佐等復請勒称大将軍、大単于、領冀州牧、趙王、依漢昭烈在蜀、魏武在鄴故事、以河内等二十四郡為趙国、太守皆為内史、準禹貢、復冀州之境、以大単于鎮撫百蛮、罷并朔司三州、通置部司以監之」とある。。伏して願いますに、つつしんで昊天に従い、衆望にお従いくださいますよう」。石勒は西を向いて辞退すること五回、南を向いて辞退すること四回であった。百官がみな叩頭して強く要請したため、石勒はようやくこれを聴きいれた。
石勒(1)/石勒(2)/石勒(3)/石勒(4)/石勒(5)/附:石弘・張賓
(2020/6/21:公開)