凡例
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序・宣穆張皇后・景懐夏侯皇后・景献羊皇后・文明王皇后/武元楊皇后・武悼楊皇后(附:左貴嬪・胡貴嬪・諸葛夫人)/恵賈皇后・恵羊皇后(附:謝夫人)・懐王皇太后・元夏侯太妃
恵賈皇后
恵賈皇后は諱を南風といい、平陽の人で、小名を旹(じ)という。父の賈充は別に列伝がある。当初、武帝は太子(恵帝)のために衛瓘の娘を娶ろうと思ったが、楊元后は賈氏や郭氏といった〔賈后の〕親族からの口利きを聞き入れて、賈氏との婚姻を希望した。武帝は言った、「衛公の娘には五つの可(良いところ)があるが、賈公の娘には五つの不可(良くないところ)がある。衛家の血筋は理性的で、男児に恵まれ、容姿が美しく、長身で、色が白い。賈家の血筋は嫉妬深く、男児に恵まれず、容姿が醜く、短身で、色が黒い」。〔それでもなお〕楊元后は強く要望し、荀顗や荀勖も口をそろえて賈充の娘は聡明だと称賛するので、〔賈家との〕婚姻を決めた。最初は賈后の妹・賈午を娶ろうとしたが、賈午は十二歳で、太子より一つ若く、身体が小さくてまだ〔成人向け?の〕衣服を着用できなかった。そこであらためて南風を娶ることにしたが、当時十五歳で、太子より二つ年上であった。泰始八年二月辛卯、冊書を授け、太子妃に任じた。〔賈后は〕妬み深く、悪だくみや嘘が多かったので、太子は怖がっていぶかり、太子と一夜を過ごす嬪御(側室)はほとんどいなかった。
武帝は太子の不恵を日ごろから疑っており、しかも朝臣の和嶠らが〔太子の資質について〕異論を唱えることが多かったため、太子を試そうとした。東宮のすべての官属を呼び寄せ、彼らのために宴会を設けてやり、一方で〔太子宛てに〕ひそかに判断に迷う政務案件を封書で届け、太子にこれを決裁させることとし、使者をそのまま留まらせて返答を待たせた。賈妃はおおいにおののき、別人に委ねて答案を作成させた。答案作成者は古典の義を豊富に引用したが、給使の張泓は言った、「太子は学問に通じておりませんのに、詔に回答するのに古典の義を引くのでは、必ずや草案の作成者を詰問され、ますます譴責されるでしょう。〔言葉を飾らずに〕たんに考えだけを述べて回答するのが最善です」。賈妃はひじょうに喜び、張泓に言った、「私のためによい回答を作ってくれれば、汝と富貴を共にしようぞ」。張泓にはもともと多少の才能があったので、草案を用意し、〔賈妃はそれを〕太子に浄書させた。武帝はそれを閲覧して、たいへんに喜んだ。まず太子少傅の衛瓘に見せると、衛瓘はおおいに恐縮した。衛瓘が以前に〔太子を〕批判していたことを、衆人はそこではじめて知ったのである。殿上の人々はみな万歳をとなえた。賈充はひそかにひとをやって賈妃に伝えた、「衛瓘のジジイめ。もう少しでおまえの家を滅ぼすところであったわ」。
賈妃は残酷な気質で、これまでに数人の人間をみずから殺していた。或るとき、妊娠した妾(側室)に戟を投げつけ、腹が斬られると同時に胎児が地面に落ちた、という事件があった。武帝はそれを耳にすると、おおいに怒り、すぐに金墉城を修繕し、賈妃を〔そこに幽閉して〕廃位しようとした。充華1充華は后妃の位で、九嬪のひとつ。の趙粲が落ち着いた様子で言った、「賈妃は若いですし、嫉妬は女性につきものの感情にすぎません。成長すればおのずと治るにちがいありません。どうかこうした点をご理解くださいますよう」。その後、楊珧も賈妃をかばって「陛下は賈公閭をお忘れなのですか」と言った。荀勖が切に救済したので、廃位をまぬがれた。恵帝が即位すると、皇后に立てられ、河東公主2河東公主は孫秀の子・孫会に尚している(巻五九、趙王倫伝)。これから推すに、河東公主は実際は羊后の子ではないだろうか(詳細はこのあとの注を参照)。、臨海公主3『太平御覧』巻一五二、公主に引く「又曰」(臧栄緒晋書)に「臨海公主、恵帝第四女、羊皇后所生、初封清河公主」とあり、賈后ではなく、羊后の娘とされている。『晋書斠注』は、ここで挙げられている四人の娘には他にも羊后の娘が混入しているのではないかと推測している。、始平公主、哀献皇女を生んだ4『芸門類聚』巻一六、公主に引く「臧栄緒晋書」に「賈后二女宣華・女彦。封宣華弘農郡公主。女彦、年八歳、聡明岐嶷、便能書学、諷誦詩論、病困、賈后欲議封女以長公主、彦語后曰、『我尚小、未及成人、礼不用公主』。及薨、諡哀献皇女、以長公主礼葬送」とある。。
賈后の暴虐は日増しにひどくなっていった。侍中の賈模は賈后の族兄、右衛将軍の郭彰は賈后の従舅(母親のいとこ)で、どちらも才能と名望によって位に就き、楚王瑋や東安公繇と共同で朝政を分担した5この朝政体制は楊氏誅殺後のものである。。賈后の母・広城君の養孫である賈謐は、国政に干渉し、その権力は君主に等しかった。東安公はひそかに賈后の廃位をたくらんでおり、〔これを察した〕賈氏は東安公を忌避していた。〔その後、〕太宰の汝南王亮や衛瓘らは上表して、東安公を帯方へ流し、楚王の北軍中候を没収するよう求めた。賈后は楚王がこの件に不満をもっているのを知り、そこで恵帝に密詔を作成させ、楚王に衛瓘と汝南王の誅殺を命じ、そうして宿年の恨みを晴らさせようとした。賈模は賈后の凶悪ぶりを知ると、禍が自分に及ぶのを恐れ、裴頠や王衍と廃位を謀ったが、王衍が後悔したので謀略は沙汰やみとなった6王衍ではなく張華の誤りであろう。。
賈后はしまいに淫乱放蕩となり、太医令の程拠らとの不倫は内外に知れ渡っていた。洛南の盗尉部所属の小吏で、容姿端麗な者がいた。厮役を終えると7原文「既給厮役」。「厮役」は、ここでは雑用労役を指すと考えられる。、突然尋常ではない衣服を着てきたので、人々は誰もが窃盗を疑い、尉は彼に嫌疑をかけて取り調べをした8原文「辯之」。この「辯」は「是非を弁別する」の意味で解釈した。。〔そのときはちょうど〕賈后の遠戚が盗品を探していたところだったので、出向いて〔小吏の〕答弁を聴聞した。小吏は次のような話をした。「過日、ひとりの老女にたまたま逢いまして、〔その老女が〕こんな話をしました。『家に病人がいるのですが、師卜(占い師)が「城南の少年が病気を鎮められるだろう」と言うもので。ちょっとお時間をくださいな。必ず厚いお返しをいたしますから』と。そこで付いて行くことにしました。車に乗ると帳が下ろされ、竹で編まれた箱の中に入り、進むこと十余里ばかり、六、七の門限9門の下の横木。内外を分ける境界。(『漢辞海』)を過ぎたところで箱を開けると、楼門をそなえた立派な屋敷が目に飛び込んできました。『ここはどこなんだ』と尋ねると、『天上でございます』と。そしてすぐに香りのする湯で身体を洗われ、美しい衣服と豪華な食事が運び込まれてきました。〔それから〕年齢は三十五、六ほどの、ひとりの婦人に見(まみ)えました。短身で、肌色は青黒、眉の端に傷がありました。数夜引き留められ、いっしょに寝たり、酒食を楽しんだり。帰りの間際になって、これらのたくさんの品物を贈られたのです」。〔賈后の遠戚の〕聴聞者は女性の見た目の特徴を聞くと、それが賈后だとわかり、決まりが悪そうに笑いながら帰ってゆき、尉も意味を理解したのであった。当時、他にも〔ここに〕入る者がいたのだが、多くは死んでいた。この小吏だけが、賈后に気に入られたがゆえに、命を保って出ることができたのである。河東公主が病気になると、師巫(祈禱師)が寛令(寛容な政令)を施行するべきだと診断したので、〔賈后は〕詔と称して天下を大赦した。
これ以前、賈后は妊娠したと偽り、ワラを室内に入れて産具とし10原文「内藁物為産具」。『資治通鑑』巻八三、元康九年十一月は「内藁物産具」に作る。『漢語大詞典』は「産具」を「妊娠中の身体を指す(指孕身)」とする。この『漢語大詞典』をはじめ、「ワラを服の中に入れて妊娠の腹に見せかけた」と読む解釈が多い(例えば[赤羽ほか二〇一九])。しかし『資治通鑑』はこのような読み方をしていないし、「産具」という字面上から『漢語大詞典』のような意義を読み取るのは難しいように感じるし、「内藁物為産具」を「腹に詰め物をした」と読むのは苦しいように思われる。そもそもだが、ワラといえばお産時に敷くのに使うモノであろう。元帝もワラの上に生まれたようであるし(巻六、元帝紀)、お産のときに必要なモノ、すなわち「産具」のひとつといえばワラというのが、当時の常識だったのではないだろうか。ここの文章はそうした常識を前提にしてすなおに読めばよいと思われる。つまり「ワラを室内に運び込んで、『あ、これはお産に使うためのワラなんですよ~』と周囲にアピールした」という趣旨であろうと思われる。この解釈で訳文を作成した。、ついには妹(賈午)の夫である韓寿の子・尉祖を養子に取ったが、諒闇で生んだ子だとかこつけたがために11原文「託諒闇所生」。「諒闇」は「天子が父母の喪に服する部屋」(『漢辞海』)で、要するに他人がほとんど出入りしない部屋ということであろう。、露見しなかった。こうしてとうとう、太子(愍懐太子)の廃位を謀り、養子を代わりに立てようとしたのである。そのころの洛中には、次のような童謡が広まっていた。「南風が激しく吹き、黄沙12巻五三、愍懐太子伝は「白沙」に作る。同伝によれば、愍懐太子の小字は「沙門」といい、これに仮託しているのだという。を巻き上げる。魯国を遠く眺望すると、鬱蒼とした山々13原文は「鬱嵯峨」。うまく訳文に反映できなかったが、「鬱」も「嵯峨」も勢い盛んなさまを表わす。魯は賈充の封国で、この当時は養孫の賈謐が継いでいた。が見える。三か月経ったら、おまえの家を滅ぼそう」14恵帝紀によると、元康九年十二月に愍懐太子が廃され、翌年の永康元年四月に賈后が廃された。。賈后の母・広城君は、賈后に息子がいなかったので愍懐太子をたいへん尊重し、しきりに賈后を忠告して、〔賈后が愍懐太子へ〕慈愛を与えるように導こうとしていた。賈謐は高貴な身分を恃みにして傲慢放縦であり、太子を尊崇しなかったので、広城君はいつも厳しく咎めていた。広城君が重篤となると、占術者が「広城に封じるべきではない」と言うので、宜城に改封された。賈后が〔宮城から〕出て看病すること十余日、〔その間、〕太子はつねに宜城邸を訪れ、医者を引き連れて出入りし、慎み深く礼を尽くした。宜城君は臨終に賈后の手を取り、太子に心を尽くすよう言いつけ、その言葉はひじょうに切実であった。また「趙粲と午(賈后の妹・賈午)は、きっとおまえの事々を乱すでしょう。私の死後、もう耳を貸してはなりませんよ。私の言葉をよく覚えておきなさい」と。賈后はこれを守ることができず、とうとう天下を専制統治し、その権威は内外を従えた。さらに趙粲や賈午ともっぱら奸計ばかりを立て、太子を誣告して殺し、数多の悪事が明々白々としていた。そのむかし、〔賈后が〕楊駿、汝南王亮、太保の衛瓘、楚王瑋らを誅殺したときは、すべて臨機応変に専決し、宦官の董猛がそれらの事案に与っていた。董猛は武帝の時代に寺人監となり、東宮に侍ったことから、賈后より信頼を得たのである。楊駿誅殺に与り、武安侯に封じられ、董猛の三人の兄はみな亭侯となったので、天下の人々はみな不満を向けていた。
太子が廃位されると、趙王倫や孫秀らは衆人の憎悪に乗じて賈后の廃位を画策した。賈后はしばしば、宮婢に見すぼらしい服装をさせて世間の様子を見聞させていたので、趙王らの謀略はすこぶる漏洩していた。〔趙王らの動静を知った〕賈后はおおいに危惧し、とうとう太子を殺して衆人の希望を断ち切ろうとした。すると趙王は兵を率いて宮城に進入し、翊軍校尉の斉王冏を殿中に入らせ、賈后を廃するよう命じた。賈后は斉王の母と不仲であったため、趙王は斉王をつかわしたのである。〔斉王に遭遇すると、〕賈后は驚愕して、「卿は何をしに来たのか」と言った。斉王が「后を捕えよとの詔です」と言うと、賈后は「詔はこの私が発出しているのだぞ。どうして詔であるものか何の詔だ?(2025/3/8:修正)」と言った。〔連行された〕賈后が上閤(宮殿の門)までたどり着くと、遠くから恵帝に大きな声で呼びかけた、「陛下は妻をおもちなんですよ。他人に妻を廃させていますが、ゆくゆくはご自身で廃してくださいね15原文「陛下有婦、使人廃之、亦行自廃」。解釈に自信はない。」。また斉王に「首謀者は誰なの」と尋ね、斉王は「梁と趙ですよ(梁王肜と趙王倫)」と言った。賈后はこう言った、「犬をつなぐには首をつながなくちゃならなかったのに、こたびはかえって尻尾をつないでしまった。こんな事態にならないわけがないよね」16『資治通鑑』巻八三、永康元年四月の胡三省注には「恨不先誅梁・趙也」とある。禍の芽をつむために先に愍懐太子を殺したが、先決しなければならなかったのは朝廷の首班とも言うべき趙王と梁王の排除であった、ということだろう。。宮殿(太極殿)の西に来ると17原文「至宮西」。閤門から出たあとで「宮西」を経るというのもよくわからないが、すべてそのまま訳出した。、賈謐の遺体を目にし、ふたたび声を上げて泣いたが、すぐに泣き止んだ。趙王は矯詔を下し、列曹尚書の劉弘らに節を持たせてつかわし、金屑酒(毒酒)を贈って賈后に死を賜わった18趙王倫伝や『資治通鑑』によると、賈后はまず建始殿に幽閉され、ついで金墉城へ移送され、金墉城で死を賜わったのだという。。賈后は在位十一年であった。趙粲、賈午、韓寿、董猛らもすべて誅殺された。
臨海公主はこれ以前に清河に封じられていたが、洛陽での戦乱(永嘉の乱)のさい、人にさらわれ、呉興の銭温に売られた。銭温は娘に〔公主を〕贈ったが、娘は公主を手ひどく扱った。元帝が建鄴に出鎮すると、公主は県を訪れてみずから事情を話した。元帝は銭温と娘を誅殺し、〔公主を〕臨海に改封し、宗正の曹統に降嫁させた。
恵羊皇后
恵羊皇后は諱を献容といい、泰山の南城の人である。祖父の羊瑾、父の羊玄之はどちらも外戚伝を参照のこと。賈后が廃位されると、孫秀は羊后を〔皇后に〕立てることを発議した。羊后の外祖父・孫旂は孫秀と族を合流させており、またその子どもたちはみずから孫秀と付き合いを結んでいたため、太安元年に皇后に立てられた。宮殿に入る間際、衣服の中で火が起こった。
成都王穎は、長沙王乂を討とうとしたとき、羊玄之の討伐を名分とした。長沙王が敗亡すると、成都王は奏上し、羊后を廃して庶人とし、金墉城におらせるよう求め〔、聴き入れられ〕た。陳眕らが成都王の征伐を唱えると、〔恵帝は天下を〕大赦し、羊后の位を回復した。〔その後、恵帝の親征軍が成都王軍に敗れ、〕張方が洛陽に入ると、ふたたび羊后を廃した。〔恵帝が鄴から洛陽へ帰還してまもなく、〕張方が無理やり天子を移動させ、長安へ行幸させると、洛陽の留台はふたたび羊后の位を回復した。永興のはじめ(永興二年)、張方はまたも羊后を廃した19恵帝紀によれば、永興二年十一月にも羊后は皇后に擁立されたが、同月、洛陽令の何喬によって廃されている。『資治通鑑』はこの出来事のあとに、本文後文の河間王顒の矯詔を続けている。。河間王顒は矯詔を発し、羊后が何度も悪人に擁立されていることを理由に、列曹尚書の田淑を派遣して、羊后に死を賜わるよう留台に命じた。〔督促する〕詔書がしきりに届き、司隷校尉の劉暾は尚書僕射の荀藩や河南尹の周馥とともに早馬を走らせ20原文は「馳」。このあとの展開を見ても、劉暾らが直接長安へ向かったとは考えられないので、「急ぎの使者を走らせた」という意味で解釈した。、上奏した。「手詔をたまわり、つつしんで拝読いたしましたが、恐れ驚き、悩みはてております。臣が古今の書物から考えますに、国や家を破滅させ、宗廟を滅亡させてしまうのは、すべて衆人の意志に逆らったことが招いた結果です。陛下が〔長安へ〕お移りになられて、旧京(洛陽)は虚無となり、庶民は動揺し、拠りどころがございません。家々は〔陛下がお戻りになるのを〕つま先だって待ち望み、人々は天子の御車の音を懐かしみ、〔陛下の〕高大なる恩徳や、武器を捨てて帰農することを切望しています。しかし軍の包囲は解除されず、あちこちで代わる代わる決起が生じています21原文「兵纏不解、処処互起」。当時の情勢が調べきれず、この文の意味も十全には理解できない。。善者22原文まま。おそらく恵帝を指す。がやって来ず、人心が猜疑しあっているからではないでしょうか。いま、上官巳が闕門(宮門)に侵入して戦闘を起こし、宮殿に火を放って、百姓が騒乱していますから、上官巳を鎮圧して〔百姓を〕静めるべきでございます。それなのに、大使がにわかに至り、威圧的な態度で毒薬を持参して、〔羊庶人が軟禁されている〕金墉城を訪れようとしましたので、内外みなが驚愕し、主上のご意向ではないであろう、と思ったのです。羊庶人の一家は破滅し、〔ご自身は〕奥深くの宮殿(金墉城を指す)に放棄され、門の警備は峻厳であり、天地から断絶されているかのようですから、悪人と反乱をくわだてる機縁はありません。人々は賢愚を問わず、誰もが『そうではない』と思っています。刑罰を通知する書類が急に届くや、その罪は罪に当たらなかったので23原文は「罪不値辜」。理解に自信はもてないが、「罪に問われない程度の過ち」という意味ではなく、「この罪は冤罪」と言いたいのだと思われる。、人心はことごとく憤っており、容易に騒動を招いてしまうことでしょう。そもそも、一人を殺して天下が喜ぶのならば、それは宗廟や社稷にとって幸福です。〔ところが〕いま、一人の窮乏した人間を殺して天下を悲しませようとしているのです。悪人が隙に乗じて事変を起こすのではないかと、臣は危惧しています。臣はかたじけなくも京輦(洛陽)を担任し、民心を観察していますから、まことにひどく憂慮している次第です。〔羊后への処罰感情を?〕堪(こら)えなさるべきかと存じます。目の当たりにしていることを容認いたしかねますゆえ、つつしんでひそかに啓聞いたしました。陛下に願わくは、あらためて太宰(河間王)と深くご検討なさいますよう。遠近の人々に疑惑を抱かせ、天下から批判を招くことのないようお願い申しあげます」。河間王は上表を見ておおいに怒り、陳顔と呂朗を東に派遣して劉暾を逮捕させようとした。劉暾は青州へ逃げたが、結局、羊后は命を保つことができた。恵帝が洛陽に帰還すると、羊后を迎えて位を回復した。のち、洛陽令の何喬がまたも羊后を廃した24『太平御覧』巻一三八、恵羊皇后に引く「臧氏晋書」も、何喬による廃位を本伝と同じ時系列で記している。しかし『晋書斠注』に引く『晋書校文』も指摘するように、これは前注で述べた、永興二年十一月の何喬の廃位を誤ってこの時系列で配置してしまったのではないかと思われる。。張方の首が届くと、その日にふたたび羊后の位を回復した25恵帝紀によれば、恵帝が洛陽へ戻ってきたのは光煕元年六月のことで、このときにはすでに張方は死亡している(恵帝紀によると光煕元年正月に死没)。。
ちょうど恵帝が崩御すると、羊后は、太弟(のちの懐帝)が〔皇帝に〕立つと〔羊后自身と新皇帝との関係が〕嫂叔関係となり26「嫂叔」は原文まま。「嫂」はあによめ(兄の妻)、「叔」はこじゅうと(夫の弟)。太弟(懐帝)にとって羊后はあによめ、羊后にとって太弟はこじゅうとに当たるということ。、太后を称することができないのを憂慮し、前太子の清河王覃に〔宮中へ〕入るよう催促し、これを〔皇帝に〕立てようとしたが、果たせなかった。懐帝が即位すると、羊后を尊んで恵帝皇后とし、弘訓宮に住まわせた。洛陽が敗亡すると、劉曜に没した。劉曜が帝位を僭称すると、〔羊后を〕皇后とした。そして尋ねた。「司馬家の小僧と比べて、私はどうかな」。羊后、「同列に論じることができるでしょうか。陛下は基礎を築いた聖主、あちらは亡国の暗夫です27ふつうに考えれば恵帝のことだが、後文の内容は懐帝について話しているようにも読めなくない。というより、両者が混同されてしまっているように読める。。妻ひとり、子ひとり、そして自分自身、この三つすら守りきることができませんでした。尊貴にのぼりつめて帝王となったのに、妻子は凡人に辱められたのです28王弥を指すか。巻一〇〇、王弥伝によれば、王弥は洛陽を落としたときに羊后を陵辱したという。。妾(わたし)はそのとき、本当に死にたくなる目に遭わされました。ふたたび今日(こんにち)のような日があろうとは、思いもよりませんでした。妾は名家の生まれですが、世の男は全員あの凡夫のような連中であろうと、かつては思っていたものです。巾櫛29原文まま。「手ぬぐいと櫛。洗面用具」のことで、「夫に仕えることの象徴」(『漢辞海』)。を奉じて以来、天下には〔陛下のような〕丈夫がおられることをはじめて知りました」。劉曜はひじょうに寵愛し、劉曜の子を二人生んで死んだ。偽諡を献文皇后という。
〔謝夫人〕
謝夫人は名を玖という。家は元来貧賤で、父は羊の屠殺を生業としていた。謝玖は清廉で慈愛深く、貞節かつ正直であり、容姿に優れていた。〔武帝の時代に〕選抜されて後宮に入り、才人30才人は后妃の位のひとつ。『宋書』后妃伝に記される晋武帝時代の制度では、三夫人九嬪より下の位。となった。
恵帝が東宮にいたころ、太子の妃を娶る計画が進んでいた。武帝は、太子がなお幼く、閨房での所作がまだわからないことを気遣い、そこで〔謝玖を〕東宮へ行かせて夜を共にさせ、これによって〔恵帝の〕寵愛を得て身ごもったのであった。賈后がこれを嫉妬するので、謝玖は西宮(禁中)へ戻ることを求め〔て聴き入れられ〕た。〔そして西宮で〕ついに愍懐太子を生んだが、三、四歳になるまで恵帝は〔その子の存在を〕知らなかった。〔恵帝が〕入朝したとき、愍懐太子がほかの皇子たちといっしょに遊んでいるのを見かけ、愍懐太子の手を握ると、武帝が「この子はおまえの子だぞ」と言った。愍懐太子が皇太子に立てられると、〔恵帝は〕謝玖を淑媛31淑媛は后妃の位で、九嬪のひとつ。に任じた。賈后は愍懐太子と謝玖が会うことを許さず、謝玖を一室に軟禁した。愍懐太子が殺されると、謝玖も殺された。永康のはじめ、詔を下し、愍懐太子を改葬したので、謝玖に夫人の印綬を贈り、顕平陵に埋葬した。
懐王皇太后
懐王皇太后は諱を媛姫といい、出自はわからない。最初に武帝の後宮に入り、中才人32中才人は后妃の位のひとつ。才人と同様、三夫人九嬪より下の位。に任じられたが、若くして卒した。懐帝が即位すると、皇太后に追尊された33ついでだが、『太平御覧』巻一三八、梁皇后に引く「臧氏晋書」には、懐帝皇后・梁氏の簡略な列伝が記載されている。以下に訳出しておく。「梁皇后は諱を蘭壁といい、安定の人である。祖父の梁鴻季は儀同三司、父の梁芬は司徒であった。梁后は最初に豫章王妃となり(豫章王はのちの懐帝)、懐帝が即位すると皇后となった。永嘉年間、胡賊に没した」。。
元夏侯太妃
元夏侯太妃は名を光姫といい、沛国の譙の人である。祖父の夏侯威は兗州刺史であった。父の夏侯荘は字を仲容といい、淮南太守、清明亭侯であった。
夏侯妃は名門の生まれで、幼くして聡明であった。琅邪武王(伷)が世子の覲のために〔夏侯妃を〕娶り、〔夏侯妃は〕元帝を生んだ。琅邪恭王(覲)が薨じると、元帝が継いで立ったので、〔夏侯妃は〕王太妃を称した。永嘉元年、江南で薨じ、琅邪国に埋葬された。そのむかし、「銅馬が海に入るときは事業建立の機会(銅馬入海建鄴期)」という讖緯があったが、太妃の小字は銅環といい、しかも元帝は江南で中興したのであった。
序・宣穆張皇后・景懐夏侯皇后・景献羊皇后・文明王皇后/武元楊皇后・武悼楊皇后(附:左貴嬪・胡貴嬪・諸葛夫人)/恵賈皇后・恵羊皇后(附:謝夫人)・懐王皇太后・元夏侯太妃
(2025/3/2:公開)