凡例
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宗室伝系図/安平王孚/附:安平世子邕・義陽王望・太原王輔・翼・下邳王晃・太原王瓌・高陽王珪・常山王衡・沛王景/彭城王権・高密王泰(附:高密王略・新蔡王騰・南陽王模)/范陽王綏(附:虓)・済南王恵(附:勲)/譙王遜(附:承)・高陽王睦・任城王陵
譙剛王遜
譙の剛王の遜は字を子悌といい、宣帝の弟で魏の中郎であった進の子である。魏に仕えて関内侯となり、城陽亭侯に改封され、参鎮東軍事(鎮東将軍府の参軍事)となり、軽車将軍、羽林左監に任じられた。五等が開建されると、涇陽男に改封された。武帝が受禅すると、譙王に封じられ、食邑は四四〇〇戸とされた。泰始二年に薨じた。随と承の二人の子がおり、定王の随が〔後継者に〕立った。〔随が〕薨じると、子の邃が立ったが、石勒に没した。元帝は承に遜のあとを継がせた。
〔譙王承〕
閔王の承は字を敬才といい、若いころから情に厚く、志と品行があった。奉車都尉、奉朝請に任じられ、昇進を重ねて広威将軍、安夷護軍に移り、安定に出鎮した。恵帝に随従して〔長安から〕洛陽へ戻ると、游撃将軍に任じられた。永嘉年間、天下がしだいに乱れてくると、〔洛陽から〕ひそかに脱出して〔荊州の〕征南将軍の山簡を頼ろうとたが、ちょうど山簡が卒してしまったため、〔そのままさらに南へ〕進んで武昌に到着した。元帝がはじめて揚州に出鎮すると、承は建康に帰し、軍諮祭酒に任じられた。愍帝が中央に召して龍驤将軍としたが、〔長安へ〕行かなかった。元帝が晋王となると、承制して新たに承を譙王に封じた。太興のはじめ、屯騎校尉に任じられ、輔国将軍を加えられ、領左軍将軍となった。
承は官に就いていても倹約を心がけ、家には母屋以外の居室はなかった。まもなく散騎常侍を加えられ、輔国将軍と左軍将軍はもとのとおりとされた。王敦は主君をないがしろにする心をもっており、〔王敦からの〕表疏にはみくびるような態度が見られた。元帝は夜に承を召すと、王敦の上表文を見せて言った、「王敦はこのごろ、官職は十分に高いはずなのに、要求が止まず、このようなことまで言ってくるようになった。どうしたらよいであろうか」。承、「陛下、早急に彼を始末しなければ、災難が起こるでしょう」。元帝は藩屏を建てようと考えていたが、そのときにちょうど王敦が上表し、宣城内史の沈充を湘州刺史とするよう求めてきた。元帝は承に言った、「湘州は険阻で守りが堅い南楚の地であり1巻五、懐帝紀、永嘉元年八月に「分荊州・江州八郡為湘州」とあり、『宋書』巻三七、州郡志三、湘州によれば、八郡の内訳は荊州の長沙・衡陽・湘東・邵陵・零陵・営陽・建昌、江州の桂陽の八つで、州治は臨湘(長沙の属県)に置かれていた。ただし巻一五、地理志下、荊州だと、湘州は荊州の長沙・衡陽・湘東・零陵・邵陵、江州の桂陽、広州の始安・始興・臨賀の九郡を割いて新設されたとあり、正確なところはよくわからない。どちらにせよ、荊州の長江以南の地域を中心として新設された州である。、長江上流の要害に位置し、三州2『資治通鑑』巻九一、太興三年の胡三省注によれば荊州、交州、広州を指す。しかし、交州ではなく江州が適切な気もするが、何とも言いかねる。の集合地点を治めており、これは『用武の国(武力の使用に適した地)』である。叔父(承のこと)をここに置くのはいかがであろうか」。承、「臣は幸いにも末属(遠縁の親族)であったおかげで、身をもって宿衛の任に当たりましたが3屯騎校尉、左軍将軍といった宿衛の武官を歴任したことを言う。、まだ奔走して骨を折るような働きをしていないにもかかわらず、たびたび過分な厚遇をいただいておりますから、日夜にわたって自己研鑽に励み、天徳に報いようと考えておりました。主君が命ずることは、『わが力を尽くすのみ』(『左伝』僖公二十四年)であり、どうして辞退しようと思うでしょうか。しかし、湘州は蜀賊の爪痕が残り4原文「湘州蜀寇之余」。『資治通鑑』巻九一、太興三年は「湘州経蜀寇之余」に作る。杜弢の反乱が平定されて間もないことを言う。、人も物資も尽き果てています。もし、まず陛下のご威光をお借りして5原文「上憑天威」。このような読み方で正しいのか、やや自信はない。刺史以外の官号を要求しているか。、任地に赴くことができましたら、三年が経ってから軍事行動6原文は「戎役」。「王敦の征伐作戦」という意味ではなく、五胡諸国の征伐など反晋勢力平定のための軍事行動を指すのではないかと思われる。に参加させてください。三年未満ですと、〔軍事行動に加わって〕身を粉にしたとしても、成果は出ないでしょう」。こうして、詔を下して言った。
そもそも、王者は天意をよりどころにして人民を治めるが、多くの有能な人材がいなければ、その仕事を果たすことはできない。それで、外は賢才を登用して風教を樹立し、内は親親と睦まじくして藩屏を拡充するのである。このゆえに、〔周の時代に〕太公は斉に封じられ、伯禽は魯に配置されたのだ。これは先王のすぐれた典制であり、古今の普遍的な道理なのである。わが晋が事業を創建すると、列国(諸侯国)が無数に開かれた。そこで官職を授けて、琅邪武王(伷)に東夏を治めさせ、汝南文成王(亮)に淮許(豫州の方面)を統べさせ、扶風王(駿)と梁王(肜)にかわるがわる関中を守らせ、東嬴公(騰)に并州を主管させた。いま、公族は少なくなり、往時に及ばぬとはいえ、どうして旧来の制度を廃れさせることができようか。散騎常侍、左将軍7左軍将軍の誤りか。、譙王の承は清廉誠実で、志は忠恪(忠義と慎み)にあり、そこで〔朕の〕左右を警護させたところ8宿衛の将軍に任命したことをいう。、恭敬はますます顕著であった。いま、承を監湘州諸軍事、南中郎将、湘州刺史とする。
これ以前、劉隗は「王敦の威勢ははなはだ盛んで、最終的には制御できなくなるであろう」と考えたので、元帝に対し、腹心たちを地方へ出して、四方に出鎮させるよう勧めていた。そのため、〔元帝は〕まず承を湘州刺史とし、つづけて劉隗と戴若思らを登用し、両者とも州牧としたのであった。承が湘州へ向かう道中で武昌に着くと、武装を解いて王敦と会見した。王敦は酒宴を開いて承を歓待したが、承の内心をうかがおうと思い、承に言った、「大王は本来、優秀な士人でございます。おそらく、将帥の才はおもちでないでしょう」。承、「公はまだ見たことがないから知らないだけだ9原文「公未見知耳」。やや不自然な感じもする読み方だが、文脈を勘案するとこういうふうに意味を取ったほうがよさそうなのでこう訳した。。鉛の刀であろうと、一度は斬れるのだぞ10原文は「鉛刀豈不能一割乎」。「鉛刀一割」という成語は「鉛の刀でも、最初の一回だけなら物を切ることができる。愚鈍な者でも一度だけは役に立つことのたとえ」(『漢辞海』)。なまくら刀でも一度は斬れることを王敦は見知らぬだけ、という返答。」。承は、王敦が自分の内心をうかがおうとしていたため、わざとこのような発言をしたのである。案の定、王敦は銭鳳に言った、「あの方は恐れは知らないが、勇ましい言葉は勉強して知っているようだ11鉛の刀の言い回しは後漢の班超の言葉に由来する(『資治通鑑』巻九一、太興三年十二月の胡三省注)とされるので、その知識があることを言っているのかもしれない。。このような武に乏しい人間に、いったい何ができようか」。〔王敦は〕承が鎮に赴くことを容認した。当時、湘州は荒廃し、公私とも困窮していた。承はみずから倹約に努め、葦茭車12他に用例がなく、不詳。「葦茭」はアシを撚り合わせて作った縄を指す。に乗り、人民の慰撫に専心し、有能との評判をおおいにあげた。王敦は、承が自分にとって厄介な存在になることを懸念し、偽って北伐すると称して、承の管内の船と馬車をすべて徴収した。承はそれが策略であるのを見抜き、半分を王敦に与えた。
ほどなく王敦は変難を起こすと、参軍の桓羆を派遣して、「劉隗が恩寵を独占していますので、ただちに討伐します」と承を説得し、〔みずからの〕軍司となって期日に合わせて上京するよう、承に要請した。承は嘆息して言った、「私は死ぬであろう。土地は荒廃し、人口は少なく、孤立無援の情勢だ。君主の災難に駆けつけるのは忠、君王の事業に殉ずるのは義。忠と義のほかに何を求めようか」。そこで義を唱えようとしたが、衆人は迷っていた。承は言った、「私は国恩をこうむったから、義としてそむくことはできない」。湘州府の長史の虞悝は憤慨していて節義があり、〔自身のもとを訪れた〕承に言った13巻八九、忠義伝、虞悝伝によれば、このとき虞悝は母の喪で郷里(長沙)の自宅にいたらしく、そこへ承が弔問に訪れて虞悝に相談したところ、後文のような趣旨の返答をしたという。これをふまえて訳文を補った。、「王敦は分陝の任14「分陝」は周公旦と召公奭が陝を境界にして世を治めた故事。周公と召公のように、元帝と天下を共同統治する立場にあった、ということであろう。におりながら、にわかに反逆を起こしました。天地が許さぬ人間であり、人と神が憎悪する人物であります。大王は宗室の藩屏ですのに、どうしてやつの詐欺に従うべきでしょうか。ただちに奮起し、生死を賭けるべきです15原文「存亡以之」。たびたび正史にも用例のある言い回しだが、正確な意味はよくわからない。」。こうして虞悝、その弟でまえの丞相府の掾であった虞望、建昌太守で長沙出身の王循、衡陽太守で淮陵出身の劉翼らと盟約を誓い、桓羆を拘束し、檄書を湘州じゅうに飛ばし、期日を指定して巴陵16長沙の北の境界近くにある県。に集合するよう呼びかけた。零陵太守の尹奉がまっさきに義挙に同調し、軍を営陽へ向かわせた17『宋書』巻三七、州郡志三、湘州、営陽太守を参照すると、営陽は零陵の南に置かれていた郡のようであり、なぜその方向に軍を差し向けたのか、事情はよくわからない。太守が不在だったのかもしれない。。こうして州内のみなが義挙に賛同したのであった。そこで虞望に〔この義挙に〕従わない者を討伐させ18前後で言っていることが食い違っているが、気にしないでほしい。、〔虞望は〕湘東太守の鄭澹を斬った。鄭澹は王敦の姉の夫であった。
王敦は南蛮校尉の魏乂、将軍の李恒、田嵩らを派遣し、兵士二万をもって承を攻めさせた。承は戦いながら守り、尹奉と虞望からの救援を待ったが、〔湘州(長沙)の〕城壁と堀は強固でなく、人心は震撼していた。南の〔広州刺史の〕陶侃へ身を寄せるよう勧める者もいれば、撤退して零陵や桂陽に拠るべきだと言う者もいた。承は言った、「私は義兵を挙げたのだから、節義に殉じるのが志だ。どうしてかりそめに生きながらえて、敗走の将となることができようか。義挙が失敗に終わったときは、百姓にわが心(義に殉ずること)を知らしめよ」。
当初、〔襄陽に駐屯していた〕安南将軍の甘卓は承に書簡を送り、守りに徹するよう勧め、〔その間に自身は〕兵を率いて沔口(夏口)へ向かい、王敦の帰路を断てば19王敦の本拠は武昌で、沔口より長江をやや東に下った先にある。襄陽―沔口(夏口)―武昌はすべて長江沿いにあった。、湘州の包囲はおのずと解けるはずであろう、と言った。承は返信して言った。
季思足下(季思は甘卓の字)
お勤めご苦労20原文「労於王事」。現代のあいさつでとりあえず冒頭に「お疲れさまです」と言うようなものに相当するのではないかと思われる。。天の綱紀がにわかに崩壊し、中原がすっかり廃墟となってしまったため、四海の義士は〔失地の〕回復を図っているところで、江左での中興は始まったばかりだというのに、まさか寵臣(王敦)から悪逆が生じようとは……。私は愚昧であるが、皇族の宗室であるおかげで21原文「託宗皇属」。「宗」がよくわからない。「皇属」の「宗」という意味で読んでみた。、うやうやしく密命にあずかって南夏に出鎮することとなり、じきじきに中詔を賜わって〔陛下から授けられた〕既成の計画を心中に秘めることとなった。〔建康を出立するとき、〕伯仁22伯仁は周顗の字。当時は尚書左僕射と護軍将軍に就いていた。ら諸賢は別れ道で扼腕して離別を残念がってくれたが、〔湘州に〕赴任してまだ日が浅く、あらゆる物事がよく把握できていない。しかし邪悪な人間は動揺しやすいものだから、〔私の湘州赴任を知って不安を抱き、〕とうとう害毒をまき散らすにいたってしまったようだ。その知らせを聞くや、驚愕して身体が飛び上がり、精神が衝撃を受けて呆然となってしまった。「子が親のもとへ喜んで駆けつけるように、民衆が主君のもとへ喜んで馳せ参じる」(『毛詩』大雅、霊台)の義をもって、人々は百人力の勇気を奮わんと思い、命令してもいないのに〔湘州に〕集結し、その人数は数千を超えている。一瞬の機会で決着をつけ、山海のごとき怒りを爆発させるのに、まことに十分であった。しかしながら、急な事態で慌ただしく、船隊の準備が済む前に、魏乂と李恒がすぐに現われて包囲してきた。だから、思っていたとおりに事が進まず、志と力を発揮できずにいたのだ。すると、にわかに足下から使者をいただき、〔足下が書簡で述べておられる〕ご趣旨に深く賛同する次第。優れた作戦が衷心誠意を込めて講じられており、何度も読み返し、感無量であった。足下が軽装ですばやく行軍できれば、まだ間に合うかもしれない。もしためらって手間取るようであれば、「魚の干物屋で私を探してくれ」(『荘子』外物篇)ということになろう。「戦争に拙速(まずくても迅速)な事例は聞いたことがあるが、工遅(巧みでも長引く)な事例は聞いたことがない」(『孫子』作戦篇)という。季思足下よ、よくよく努めてくれたまえ。文章では思いを述べ尽くせぬゆえ、これにて筆を擱かせてもらう。
甘卓軍は䐗口に駐屯していたが、〔建康での〕王師の敗北を知ると、軍を停止して進まなかった23䐗口は豬口とも表記する。沔口より西方にある長江沿いの地。襄陽から長江を下って来ることができる。巻七〇、甘卓伝だと、甘卓は䐗口に至ってもなお迷って進まずにいたところ、王師敗北の知らせが届いたのだという。。魏乂らの攻撃は日に日に激しくなった。さらに王敦は、〔建康入城後に〕入手した政府関係者の書簡24原文「台中人書疏」。「台中人」は「尚書台(ないし中央政府)の人間」を指す。承宛ての書簡か、別の誰か宛ての書簡かは不明。を〔魏乂のもとへ〕送り、魏乂に〔その書簡を湘州城中へ〕射らせて承に見させた。城内は朝廷の陥落を知り、誰もが失意に沈んで悔やんだ。劉翼は戦死し、百余日もちこたえたが、城はとうとう陥落した。魏乂は檻車で承を〔建康から武昌に戻っていた王敦のもとへ〕送ったが、荊州刺史の王廙は王敦の指示を受け、その道中で承を殺してしまった。享年五十九。〔のちに〕王敦が平定されると、詔が下り、車騎将軍を追贈された。子の無忌が〔後継ぎに〕立った。
(無忌以下の附伝は省略します。)
高陽王睦
高陽王の睦は字を子友といい、譙王遜の弟である。魏の安平亭侯で、侍御史を歴任した。武帝が受禅すると、中山王に封じられ、食邑は五二〇〇戸とされた。睦はみずから上表し、六国と蓼国が皐陶を祀り25六と蓼は春秋時代の諸侯国。いずれも皐陶の子孫が封じられた国とされる。、鄫国と杞国が相を祀った26鄫(繒)と杞は春秋時代の諸侯国。いずれも夏の子孫が封じられた国とされる。相は夏帝の相を指すか。鄫と杞がとくに相を祀ったとする記述は見つけられていないのでよくわからないが……。故事に倣って廟を立てたい、と要望した27正確には、『通典』巻五一、兄弟俱封各得立禰廟議に「按睦、譙王之弟、兄弟俱封、今求各立禰廟」とあり、兄弟おのおので父(司馬進)の廟を立てたいと要望したのである。。事案は太常に下り、礼典を根拠に評議が交わされた。博士祭酒の劉憙らの議に言う。
『礼記』の王制篇に「諸侯は五廟。二昭二穆に太祖と合わせて五つ」とあります。これはつまり、〔諸侯は〕始祖(太祖)の廟を立てます。思うに、嫡統(嫡子の系統)にして承重28宗廟と祭祀の重任を継承することを指す。(指承受宗廟与喪祭的重任。)(『漢語大詞典』)したひとりだけが、〔始祖の廟を〕立てられるのだと考えられます。たとえ支弟(支庶の弟)も〔嫡統と〕そろって始封の諸侯になったとしても、廟を立てることはできません29睦の父・進は、睦の兄・遜の子孫が祀るべきであるから、睦が進の廟を立てることは不可能である……という話だと思われる。。いま、睦は正統(嫡子の系統)ではありませんから、もし祖廟を立てようとしても、中山国が〔嫡統の国と同時に〕並立することはできません。後世の中山国が睦のために廟を立てることは可能です。〔睦は〕後世の子孫の始祖だからです。
詔を下して言った、「礼文は不明瞭で、この制度は重大な事であるから、詳細に審議させるのがよかろう。礼官に下して博議させ、そのあとで判断を下すべきである」30『通典』巻五一、兄弟俱封各得立禰廟議に劉憙以外の議も掲載されており、両立可能とする議(荀顗)も出ているが、最終的な結論はわからない。武帝は一度は両立可能論に傾いたようだが、その後、考えを変えたようである(『通典』の文章が難しくて正確に読めないため推測)。。
咸寧三年、睦は〔天下に?〕使者をつかわし、人を募集して中山国の八県に移住させ、亡命者の私占31原文「逋逃私占」。「逋逃」は本籍地から流亡している民を言う。生活困窮者、逃亡犯、脱税者など。「私占」に関しては、『漢書』巻八、宣帝紀、地節三年三月に「流民自占八万余口」とあり、顔師古注に「占者、謂自隠度其戸口而著名籍也」とある。また『後漢書』帝紀二、明帝紀、中元二年四月に「其賜天下男子爵、人二級。……及流人無名数欲自占者人一級」とあり、李賢注に「無名数謂無文簿也。占謂自帰首也」とある。「占」とは、流民のような本籍地を脱した民が自首することを言うようである。「私」は私的に、つまり非公式に、の意。以上を総合して考えれば、本文の言う「私占」とは、本籍から離脱して流亡した民が、しかるべき公的機関に自首せずに、睦の中山国に自首して中山国の戸籍に登記された、ということを指しているのではないかと思われる。を受け入れたところ、姓名を変えて免税待遇者になりすました者が七〇〇余戸に及んだ32原文「遣使募徙国内八県、受逋逃私占、及変易姓名、詐冒復除者七百余戸」。読みにくく、こういう句読の切り方で適切なのかも自信はない(中華書局の標点には従っていない)。どうにか意味が通りそうな読み方をしてみた。。冀州刺史の杜友が奏上し、睦は亡命者を誘致しており、国君にふさわしくないと告発した。有司が奏上し、この事件は赦令の前の出来事だったので、赦免するべきであると述べた。詔を下して言った、「中山王はどうしてこれほどのことをやったのか。奏を読んでひどく失望した。親戚を〔封建して〕広く樹立したのは、上は王室を助けさせ、下は百姓に恩恵をもたらそうと考えたからである。〔それなのに、〕自身のみを裕福にするばかりで、民に法律を犯させているではないか33原文は「豈徒栄崇其身、而使民踰典憲乎」で、一見すると「豈徒……」の反語構文(どうして……のみであろうか)のごとくだが、そう読むと意味が取りにくく、そもそも反語で読もうとすることが難しく感じる。そこで、「徒」は「栄崇其身」のみにかかると解釈し、「豈」は疑問調の推量として読んでみた。諸侯の俸禄の内訳については諸説あるが(巻七、成帝紀の訳注を参照)、国の戸が供出する租調はすべて国君に納税されるわけではなく、一定額は朝廷に貢納する決まりとなっている。睦は民に不正申告をさせて七〇〇戸を免税世帯(国にも朝廷にも納税しない世帯)と偽装する一方で、実際はそれらの世帯からも徴税し、それをそのまま自身のふところに入れてしまっていたのであろう。。この事案については、おおいに得失を議論し、可否の所在を正さねばならない。かりにも国君にふさわしくないというのであれば、赦令の対象期間中であることを考慮する必要があろうか。睦を降格して県侯とする」。そこで丹水県侯に封じた。
呉が平定されると、太康のはじめに詔が下り、爵が回復されることとなった。有司が奏上し、江陽王に封ずるよう求めたところ、武帝は言った、「睦はおとなしく過ちを反省し、更生して徳を修めた。いま、爵土を保有させようとするのは、たんに赦すというだけではないのだ。江陽は険しい地勢で、かつ遠方であるから、高陽郡に封ずるように」。そこで高陽王に封じた。元康元年、宗正となった。在位中に薨じた。世子の蔚は早世していたので、孫の毅が〔後継ぎに〕立った。散騎侍郎に任じられたが、永嘉年間に石勒に没した。隆安元年、詔が下り、譙敬王恬の次子・恢之の子の文深に毅のあとを継がせた。立つこと五年にして薨じ、後継ぎがいなかったため、高密王純之の子の法蓮に文深のあとを継がせた。宋が受禅すると、国は廃された。
任城景王陵(附:司馬順、西河王斌)
任城の景王の陵は字を子山といい、宣帝の弟で魏の司隷従事であった安城亭侯の通の子である。〔陵は〕最初は議郎に任じられた。泰始元年、北海王に封じられ、食邑は四七〇〇戸とされた。泰始三年、任城王に改封され、就国した。咸寧五年に薨じ、子の済が〔後継ぎに〕立った。散騎侍郎、給事中、散騎常侍、輔国将軍に任じられた。東海王越に随従して項に滞在中、石勒に殺され、二人の子もいっしょに没した。順と斌の二人の弟がいた。
〔司馬順〕
順は字を子思といい、最初は習陽亭侯に封じられた。武帝が受禅すると、順は嘆息して言った、「唐虞(堯舜)の故事と乖離している出来事なのに、偽って禅譲という名分をでっちあげてしまうなんて」。とうとう悲しんで泣いてしまった。このため廃位され、武威の姑臧県に流された。罪を受けて追放されたといえども、心を変えることなく卒した。
〔西河王斌〕
西河の繆王の斌は字を子政といい、魏の中郎であった。武帝が受禅すると、陳王に封じられ、食邑は一七一〇戸であった。泰始三年、西河に改封された。咸寧四年に薨じ、子の隠が〔後継ぎに〕立った。隠が薨じると、子の孴が立った。
史臣曰く、(以下略)
宗室伝系図/安平王孚/附:安平世子邕・義陽王望・太原王輔・翼・下邳王晃・太原王瓌・高陽王珪・常山王衡・沛王景/彭城王権・高密王泰(附:高密王略・新蔡王騰・南陽王模)/范陽王綏(附:虓)・済南王恵(附:勲)/譙王遜(附:承)・高陽王睦・任城王陵
(2026/7/21:公開)
