巻五十七 列伝第二十七 張光 趙誘

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羅憲(附:羅尚)・滕脩・馬隆(附:馬咸)・胡奮(附:胡烈)・陶璜・吾彦/張光・趙誘

 目 次

張光

 張光は字を景武といい、江夏の鍾武の人である。身長は八尺、眉目秀麗で、美しい声をしていた。若くして江夏郡の吏となった。家には代々部曲1部曲は、官・私を問わずに部隊・兵士を指す語だが(浜口[一九六六]外篇第二篇)、本文の場合は私兵を指す。がおり、〔張光は部曲を率いて?〕牙門将として呉の討伐に功績をあげた。江夏西部都尉に移り、北地都尉に転じた。
 これ以前、趙王倫が関中都督となったとき、氐・羌が反乱を起こした。北地太守の張損は戦死し、郡県の吏や兵士で万全の者はあまりいなかった。張光は百余人を率いて馬蘭山の北に駐屯したが、賊がこれを包囲し、百余日に及んだ。張光は将士をいたわりつつ励まし、しばしば奇襲攻撃をしかけ、賊を攻め破っていた。張光は、兵士が少なく、かつ〔本拠地から〕遠く離れていることから、敗死を覚悟した。そのころ、ちょうど梁王肜が司馬の索靖を派遣し、兵を統率させて張光の迎えに行かせたので、張光軍はこぞって泣き、とうとう長安に帰還できた。梁王は上表し、「張光は包囲されて孤絶した地におりながら、耿恭のごとき忠誠を保ちました。〔張光に〕抜擢を加え、奨励に努めるべきです」と述べた。こうして、張光は抜擢されて新平太守を授けられ、鼓吹を加えられた。
 そのころ、雍州刺史の劉沈が密詔を授かり、河間王顒を討とうとしたので、張光は挙兵して劉沈に協力した。その当時、劉沈は秦州刺史の皇甫重に事を委ねていたが、皇甫重はみずからが関西の豪族であることを自負し、内心でいつも張光を軽んじていたので、張光の策略は多く採用されなかった。二州(雍州と秦州)の軍が潰滅すると、〔張光は〕河間王に捕えられた。河間王が張光に、「先日の挙兵時はどのような策を立てようとしていたのかね」と言うと、張光は顔色を正して答えた、「劉雍州は私の計略を採用しませんでした。大王に今があるのはそのおかげにすぎません」。河間王は張光を勇壮と思い、召し寄せて酒宴を終日開いた。〔河間王は〕上表して〔張光を〕右衛府の司馬とした。
 陳敏が反乱を起こすと、〔河間王は〕張光を順陽太守に任じ、陵江将軍を加え、歩騎五千を統率させて荊州へ行かせ、これを討伐させた。荊州刺史の劉弘は張光にもともと敬意をもっており、「南楚の秀才」と称えていた。ときに、江夏太守の陶侃は、陳敏の大将の銭端と長岐で対峙していた。決戦間近となったとき、襄陽太守の皮初は歩兵を率い、張光を伏兵にして待機させ、武陵太守の苗光は水軍を率い、船団を沔水に隠した。皮初らが賊と交戦すると、張光は伏兵を現わしてこれに呼応し、水陸から同時に奮戦したので、賊軍は大敗した。劉弘は上表し、張光は殊勲をあげたと報告した。材官将軍、梁州刺史に移った。
 これより以前、秦州の鄧定ら二千余家は、飢餓のために漢中に流入し、成固(漢中の属県)に集まっていたが、しだいに掠奪をなすようになった。梁州刺史の張殷は巴西太守の張燕を派遣してこれを討伐させた。追いつめられた鄧定は、偽って張燕に降伏を申し出て、あわせて張燕に金銀を贈った。張燕は喜び、進軍を緩めた。〔この間に〕鄧定はひそかに李雄と結託し、李雄は軍を派遣して鄧定を救援した。張燕は退却し、鄧定はとうとう進出して漢中に迫った。漢中太守の杜正沖は東の魏興へ逃走し、刺史の張殷も官を棄てて逃げてしまった。〔このような状況で新たに梁州刺史に任命された〕張光は梁州〔の州治の漢中〕にたどり着くことができず、魏興に留まった。そして諸郡の太守と協力関係を結んで、奪取を計画した。張燕はまっさきに口を開いて言った、「漢中は荒廃していて、賊の大群が間近に迫っています。奪還するには、英雄でなければ不可能です」。杜正沖は言った、「張燕は賊から金銀を受け取り、スムーズに進撃せず、自軍に慢心して賊に余裕を与えました。漢中陥落を招いたのは、まことに張燕の罪です」。このため、張光は怒りを見せ、張燕を叱責して外に出させ、これを斬って見せしめにさらした。張光は荒廃した地域を慰撫したので、百姓は喜んで服従した。こうして、張光は漢中に帰還し、鎮したのであった。
 このころ、逆賊の王如の残党である李運や揚武らが、襄陽から三千余家を引き連れて漢中に入ってきたので、張光は参軍の晋邈に軍を統率させて派遣し、黄金でこれを阻ませた。晋邈は李運から手厚い賄賂を受け取ったので、李運を受け入れるよう張光に勧めた。張光は晋邈の進言を聴き入れ、〔李運らを〕成固に滞在させた。ほどなく晋邈は、李運が多くの財宝をもっていたので、これも奪い取りたくなり、さらに張光にこう言った、「李運の集団は農耕をやらず、武器を調達してばかりいます。何を考えているのか測りかねますので、急襲して捕えておくのがよいかと思います」。張光はこれも信じた。晋邈軍を派遣して李運を討たせが、勝利できなかった。張光は氐王の楊茂捜に援軍を要請すると、揚茂捜は子の楊難敵を派遣して救援させた。楊難敵は張光に金品を要求したが、張光は差し出さなかった。そこで楊武は楊難敵に手厚く賄賂を贈り、「われわれ流人の財宝はすべて張光のところにあります。われわれを攻めるよりも、張光を攻めたほうがよいですよ」と言った。楊難敵はおおいに喜び、口では張光を援助すると言っておきながら、内実では李運に同調していた。張光はこれに気づかなかったので、子の張援に軍を統率させて派遣し、晋邈を救援させた。李運と楊難敵は晋邈らを挟撃し、張援は流矢に当たって死に、賊はとうとうおおいに勢いづいた。張光は籠城して守りを固め、夏から冬まで及んだが、怒りのあまり病を得てしまった。佐吏や百姓はみな、魏興に退却するよう張光に勧めたが、張光は剣に手をかけて言った、「私は国家の厚恩をこうむりながら、賊を滅ぼすことができなかった。いま自害を遂げられるのならば、昇仙するのと変わらぬこと。どうして退却などできようか2国家の恩にそむいて退くくらいなら死んだほうがマシだ、という意味。」。言い終わると死んでしまった。享年五十五。百姓は泣き悲しみ、遠近の誰もが張光の死を惜しんだ。張炅と張邁の二人の子がいた。

〔張炅、張邁:張光の子〕

 張炅は若くして太宰府の掾に辟召された。張邁は才知に優れ、父の風格をそなえていた。梁州の民衆は張邁を推戴し、暫定的に州の政事を治めさせたが、張邁は賊と戦って死んでしまった。別駕の范曠と督護の王喬は張光の妻子を奉じ、生き残りの兵士を率いて魏興へ退いた。その後、義陽太守の任愔が梁州刺史となると、張光の妻子は本郡(江夏郡)へ帰った。南平太守の応詹は都督の王敦に進言した、「張光は梁州刺史在任中、衰亡した家を復興させ、その威厳は巴漢を振るわせました。中原が転覆し、征鎮が陥落するなか、外からの救援はなく、内では備蓄に欠きましたが、寡兵で多勢と互角にわたりあい、年をまたいで防衛し、節義を奮い立たせて屈しませんでした。さかのぼって功績を評定して追贈し、生者と死者を慰藉するべきかと存じます」。王敦は耳を貸そうとしなかった。

趙誘

 趙誘は字を元孫といい、淮南の人である。代々、将として名声をあげていた。州(揚州)が主簿に辟召した。
 揚州刺史の郗隆が斉王冏の檄書を受け取り、〔斉王が〕挙兵して趙王倫を討つよう呼びかけてきたとき、郗隆は檄書を奉じて義を決行しようとしたが、子姪(自分の子と兄弟の子)らはみな洛陽に滞在していた〔のが気がかりであった〕。なりゆきを傍観しようとすれば、斉王から討たれてしまうかもしれないのが心配である。進退に迷いが生じ、吏を集めて協議した3なお、じつは郗隆は趙王と親しく、趙王が帝位を奪うと、郗隆を揚州刺史に任じたという(巻六七、郗鑑伝附郗隆伝)。郗隆が躊躇していたのにはこうした事情もある。。趙誘は郗隆に説いて言った、「趙王は帝位を奪い、海内のみなが憎んでいる人間です。もし義兵がにわかに起これば、趙王の敗亡は必定でしょう。いま、明使君のために考えますと、みずから精鋭を率い、ただちに許昌へ向かうのに越したことはありません。これが上策です。そのようにしないのでしたら、あるいは〔ご自身は前線へ行かずに〕後方に留まり、猛将に兵を統率させて派遣し、会盟に参加させるというのもよいでしょう。これは中策です。もし、小規模な軍隊を派遣し、形勢に応じて優勢なほうを助けるというのでしたら、これは下策です」。郗隆、「私は二帝4『資治通鑑』巻八四、永寧元年の胡三省注には「二帝、謂宣帝・武帝。或曰、二帝、謂恵帝及趙王倫、非也」とある。しかし前注で述べたように、郗隆が趙王と親しかったことを考慮すると、胡三省が否定している「恵帝及趙王倫」説もわりと正しい気がするが……。また宣帝までさかのぼって含めてよいのならば、武帝ではなく文帝にしたほうがよいのではないだろうか。趙王倫は宣帝の子、斉王冏は文帝の孫だからである。なんにせよ、「二帝」が具体的に誰を指すのかはいまいちわからない。のどちらにも御恩があるから、誰にも肩入れしない。州を保全することだけが願いだ」。趙誘は治中の留宝や主簿の張褒らといっしょに郗隆を諫めて言った、「もし誰にも協力しなければ、災難が降りかかるでしょう。そうなれば、州も保全できません」。郗隆は迷って決められず、とうとう部下に殺されてしまった。
 趙誘は〔郗隆が殺されると職を辞し、〕家に戻ると、門を閉ざして引きこもった。左将軍の王敦が参軍とし、広武将軍を加えた。甘卓や周訪とともに華軼を討伐し、これを破った。さらに西湘で杜弢を攻撃した。太興のはじめ、ふたたび甘卓とともに杜弢を攻め、これを滅ぼした。功績を重ねていることをもって、平阿県侯を賜わり、陶侃に代わって武昌太守となった。そのころ、杜曾が荊州で第五猗を迎え、反乱を起こした5後文でも明言されるが、第五猗は愍帝が荊州刺史として荊州に派遣した人物。杜曾はこれを荊州を統治する正当な刺史として推戴したのであった。巻五八、周訪伝、巻一〇〇、杜曾伝などを参照。。王敦は趙誘を派遣し、襄陽太守の朱軌と協力させ、これを食い止めさせようとした。第五猗は愍帝が派遣した荊州刺史であるうえ、名望も得ていたので、荊楚の人々から支持されていた。趙誘らは苦戦し、みな戦死してしまった。王敦はいたく悲しんで〔趙誘に追贈するよう〕上表し、〔朝廷は趙誘に〕征虜将軍、秦州刺史を追贈し、敬の諡号をおくった。

〔趙龔、趙胤:趙誘の子〕

 子の趙龔は趙誘といっしょに戦死した。元帝が晋王となると、令を下して新昌太守を追贈した。趙龔の弟の趙胤は字を伯舒という。王敦が周訪に杜曾を攻めさせたとき、趙胤は従軍を願い出た。周訪は杜曾の強勢ぶりを脅威に思い、そこで先に趙胤を出して杜曾を釣り出し、杜曾軍を疲弊させてから〔自身が〕攻めかかろうと考えた。〔この作戦で杜曾軍を破り、〕趙胤は多くの首級をさらしあげた。王導が召して従事中郎とした。南頓王宗がそむくと、趙胤は南頓王を殺した。こうして、王導と庾亮はともに趙胤を頼りにするようになった。冠軍将軍に転じ、西豫州刺史6「西」はおそらく衍字であろう。「西」字が付く武官を同時に授けられていたところ、いろいろと字が脱落してこうなったのかもしれない。に移った。在官中に没した。

 史臣曰く、(以下略)

羅憲(附:羅尚)・滕脩・馬隆(附:馬咸)・胡奮(附:胡烈)・陶璜・吾彦/張光・趙誘

(2026/7/6:公開)

  • 1
    部曲は、官・私を問わずに部隊・兵士を指す語だが(浜口[一九六六]外篇第二篇)、本文の場合は私兵を指す。
  • 2
    国家の恩にそむいて退くくらいなら死んだほうがマシだ、という意味。
  • 3
    なお、じつは郗隆は趙王と親しく、趙王が帝位を奪うと、郗隆を揚州刺史に任じたという(巻六七、郗鑑伝附郗隆伝)。郗隆が躊躇していたのにはこうした事情もある。
  • 4
    『資治通鑑』巻八四、永寧元年の胡三省注には「二帝、謂宣帝・武帝。或曰、二帝、謂恵帝及趙王倫、非也」とある。しかし前注で述べたように、郗隆が趙王と親しかったことを考慮すると、胡三省が否定している「恵帝及趙王倫」説もわりと正しい気がするが……。また宣帝までさかのぼって含めてよいのならば、武帝ではなく文帝にしたほうがよいのではないだろうか。趙王倫は宣帝の子、斉王冏は文帝の孫だからである。なんにせよ、「二帝」が具体的に誰を指すのかはいまいちわからない。
  • 5
    後文でも明言されるが、第五猗は愍帝が荊州刺史として荊州に派遣した人物。杜曾はこれを荊州を統治する正当な刺史として推戴したのであった。巻五八、周訪伝、巻一〇〇、杜曾伝などを参照。
  • 6
    「西」はおそらく衍字であろう。「西」字が付く武官を同時に授けられていたところ、いろいろと字が脱落してこうなったのかもしれない。
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