巻五十四 列伝第二十四 陸機 陸雲

凡例
  • 文中の〔 〕は訳者による補語、( )は訳者の注釈、12……は注を示す。番号を選択すれば注が開く。
  • 文中の[ ]は文献の引用を示す。書誌情報は引用文献一覧のページを参照のこと。
  • 注で唐修『晋書』を引用するときは『晋書』を省いた。

陸機

 陸機は字を士衡といい、呉郡の人である。祖父の陸遜は呉の丞相で、父の陸抗は呉の大司馬であった。陸機は身長が七尺あり、その声は鐘の音(ね)のような響きであった。若くして異才をあらわし、文章は世に冠絶していた。儒学に心服し、礼にあらざれば実行に移さなかった。陸抗が卒すると、父の兵を統領して1呉では将が自家の兵をもち、子弟に世襲させていた。一般的に「世兵制」と呼ばれている。牙門将となった。二十歳のときに呉が滅亡すると、故郷に隠退し、門を閉じて学問に励み、十年を積み重ねた。孫氏が呉に割拠していたとき、祖父と父は代々将相(将帥と宰相)となり、江南に大勲を立てていたことから、〔陸機は〕孫晧が事業をまるごと棄て去ってしまったことにひどく憤慨していた。そこで、孫権が成功したゆえんと、孫晧が敗亡したゆえんを論じ、さらに祖父と父の功業も論述しようと思い、ついに「弁亡論」二篇を著わした。その上篇に言う。

(「弁亡論」は省略します。)

 太康の末に至ると、弟の陸雲とともに洛陽に入り、太常の張華を訪ねた。張華は以前から陸機らの名声を重んじていたので、むかしからの知り合いのように遇して言った、「伐呉の戦役は、二人の俊傑を得たことが成果であるな」。またあるとき、侍中の王済を訪ねたところ、王済は羊酪(羊乳のヨーグルト)を指して陸機に言った、「卿の呉では、何がこれに比肩するでしょうか」。答えて言った、「千里湖のジュンサイ・スープですね2原文「千里蓴羹」。『世説新語』言語篇、第二六章も同文。解釈は諸説ある。すなおな読み方は「千里湖産のジュンサイで作った吸い物」である。ただ個人的には、千里湖をジュンサイのスープに喩えた表現とする解釈(川勝義雄ほか[一九六四])がおもしろく、当意即妙的な返答に確かになっているため、その意味で訳出してみた。。まだ塩豉を加えておりませんが3塩豉(豆豉)は豆を発酵させた食品。これを煮て煮汁を作る。『斉民要術』巻八、羹臛法では、ジュンサイなどの吸い物を作るときにこの煮汁を用いており、調味料として使われていた。要するに、「千里湖に調味料はまだ加えてないけど」という意味。川勝義雄ほか[一九六四]も参照。」。世の人々は名返答だと称えた。張華は陸機のことを諸公に推薦した。のち、太傅の楊駿が辟召して祭酒とした。ちょうど楊駿が誅殺されたが、太子洗馬、著作郎と昇進を重ねていった。范陽の盧志は、多くの人々が集まる中で陸機に質問した、「陸遜と陸抗は君とどういう関係なのですか」。陸機、「君にとっての盧毓や盧珽と同じです4盧毓は盧志の曾祖父、盧珽は盧志の父。」。盧志は黙ってしまった。〔陸機が〕退席すると、陸雲は陸機に言った、「遠方の異国のことですから、詳しく知らなかったのでしょう。どうしてあそこまで言ってしまったのですか」。陸機、「わが父祖の名声は四海に広まっていた。知らないなどということがあるものか」。議者はこの一件をもって二陸の優劣を定めたのであった。
 呉王晏が淮南に出鎮すると、陸機を〔呉国の〕郎中令とした。〔その後、〕尚書中兵郎に移り、殿中郎に転じた。趙王倫が〔賈氏を討って〕輔政すると、〔陸機を〕召して相国府の参軍とした。賈謐誅殺に協力した功績により、関中侯を賜わった。趙王は帝位を簒奪しようと思い、陸機を中書郎とした。趙王が誅殺されると、斉王冏は、陸機は中書に勤務していたから、九錫を賜う文章や禅譲の詔の作成に陸機が関与したのではないか、と疑い、とうとう陸機ら九人を逮捕して廷尉に送った。成都王穎や呉王がそろって陸機の無罪を弁護したおかげで、死刑から辺境への流刑に減刑され、〔さらにその後、〕赦令に恵まれて〔流刑も〕やめになった。
 これ以前、陸機には黄耳という名の駿犬がおり、とてもかわいがっていた。〔陸機が〕京師に寓居するようになると、家(呉の実家)からの音信が長らく届かなかった。〔陸機は〕笑いながら犬に話しかけ、「わが家からまったく連絡がないんだ。私の書簡を携えて行って、返事の便りを持って来てくれないか」と言うと、犬はしっぽを振って鳴き声をあげた。そこで陸機は書簡を書き、竹の筒にこれを入れて犬の首に懸けた。犬は道を探りながら南へ走ってゆき、ついに陸機の家にたどりつき、返事を得て洛陽に帰って来たのであった。その後、このやり方がそのまま習わしとなった。当時、中原は多難で、顧栄や戴若思らはみな、陸機に呉へ帰るよう勧めていたが、陸機は自身の才能と名望に自信があったうえに、世の艱難を正さんとする志を抱いていたため、耳を貸さなかった。
 斉王は〔趙王を討った〕功績に自信があってみずから誇示しており、爵を授けられても辞退しなかった。陸機はこれを問題に思い、「豪士賦」を作って諷刺した。その序に言う。

(「豪士賦」序は省略します。)

斉王はこの諷刺を理解できず、最終的には敗亡した。
 また陸機は「聖王の国家経営において、義(道理?)は封建にあった」と考えていた。そこで、封建に関する聖王の深謀遠慮を拾い上げ5原文「採其遠指」。どういう意味なのかよくわからない。当てずっぽうで読んだ。、「五等論」を著わした。

(「五等論」は省略します。)

 当時、成都王は〔趙王討伐の〕功績を譲ってわがものとせず、謙遜して士人にへりくだっていた。陸機は生命を助けてくれた恩義に感謝していたうえ、朝廷にたびたび変事が起こっているのを目の当たりにしていたので、「成都王はきっと晋室を安泰に導けるだろう」と思い、とうとう〔成都王に〕仕えた。成都王は陸機を参大将軍軍事(大将軍府の参軍事)とし、上表して平原内史とした。太安のはじめ、成都王は河間王顒とともに挙兵して長沙王乂を討とうとし、陸機に後将軍、河北大都督を授け、北中郎将の王粋や冠軍将軍の牽秀ら諸軍二十余万人を監督させた。陸機は「三世代にわたって将となるのは道家の忌み嫌うことであり、しかも〔郷里から離れて〕客遇して出仕したのに、にわかに並み居る士人たちの右に出てしまうと、王粋や牽秀らみなが憎しみを抱くであろう」と思い、都督を固辞した。成都王は承認しなかった。陸機と同郷の孫恵も、都督を王粋に譲るよう陸機に勧めたが、陸機は言った、「〔そのようなことをすれば王粋らは、〕私が日和見して賊を避けた、と思うだろう。まさに禍を速めるゆえんだ」。とうとう出撃した。成都王は陸機に言った、「もし功業が成れば、爵は郡公、位は台司(三司)であるぞ。将軍よ、励みたまえ」。陸機、「むかし、斉の桓公は管仲を信任して九合の功績を打ち立てました6「九合」は原文まま。九度諸侯と会盟したこと。斉の桓公の功績を形容する表現としてしばしば用いられる。例えば『論語』憲問篇に「子曰、『桓公九合諸侯、不以兵車、管仲之力也。如其仁、如其仁』」とある。。燕の恵王は楽毅を疑って完成間近の事業を失いました。このたびの事業は公(成都王のこと)にかかっているのであって、機(わたし)にかかっているのではございません」。成都王の左長史の盧志は陸機の厚遇ぶりが気に入らなかったので、成都王に言った、「陸機は自分を管仲や楽毅に比し、ご主君(成都王のこと)を暗君になぞらえているのです。いにしえ以来、将を任命して軍を派遣するに当たり、臣がその主君を侮りながら成功できたためしはありません」。成都王は黙ってしまった。陸機がはじめて陣に臨んだとき、牙旗7大将の用いる、象牙で装飾をほどこした大旗。(『漢辞海』)が折れてしまったので、ひじょうに不気味に感じた。朝歌から河橋に至るまで軍を連ね、太鼓の音が数百里にわたって響き、漢魏以来、これほどまでに盛大な出兵はなかった。長沙王は天子を奉じて陸機と鹿苑で戦い、陸機軍は大敗した。七里澗に飛び込んで死ぬ者が、積み上げられていくかのように多数にのぼり、これが原因で水の流れが止まってしまった。将軍の賈棱らみなが戦死した。
 これ以前、宦官の孟玖とその弟の孟超は、ともに成都王から気に入られていた。孟超は一万人を統率して小都督となったが、まだ戦闘がはじまる前に、兵を放っておおいに掠奪した。陸機は孟超軍の主者(責任者)を逮捕した。孟超は鉄騎兵百余人を率い、陸機の本陣にまっすぐ進入してこの主者を奪い返し、陸機のほうを向いて言った、「貉奴(ムジナ野郎)8貉は東北部に生息する動物、転じて東北部の非漢族の呼称。『世説新語詞典』によれば、三国時代以降、北人が南人を侮蔑する呼び方として用いられていたという。が指揮監督なんてできるのかよ」。陸機の司馬の孫拯は、孟超を殺すよう陸機に勧めたが、陸機はその進言を採用できなかった。孟超は大勢の人々に向かって、「陸機が反乱しようとしているぞ」と言いふらした。また、孟玖に書簡を送り、「陸機は日和見してやがります。軍の決定がグズグズしているんです」と言った。戦闘になると、孟超は陸機の指示を受け付けず、軽装兵を率いて単独で突進し、戦没した。孟玖は、陸機が孟超を殺したのではないかと疑い、とうとう成都王に陸機の讒言を告げ、「陸機には異心があります」と言った。将軍の王闡、郝昌、公師藩らはみな孟玖の手先であり、牽秀らと共謀してこの讒言を証明した。成都王はおおいに怒り、牽秀に命じて陸機をひそかに捕えさせた。その日の夜、陸機は、黒い幰9車にかぶせる覆いのこと。ほろ。が車にまとわりつき、力づくで破ろうしても〔扉を〕こじ開けられない、という夢を見たが、夜が空けると、牽秀の兵がやって来たのであった。陸機は軍服を脱ぎ、白帢(白色のかぶりもの)をかぶり、牽秀と相まみえた。ふだんどおりの顔色で牽秀に言った、「呉が転覆して以来、わが兄弟や宗族は国家の厚恩をこうむり、中央に入っては帷幕(天子)に侍り、地方に出ては割符(軍事の権限)をいただきました。成都王は私に重職を授けましたが、辞退してもどうにもなりませんでした。こんにち誅殺を受けるのは、天命ではないでしょうか」。そして成都王に書簡を書いたが、その言葉はひじょうに悲痛であった。ほどなく〔陸機は〕嘆息して言った、「華亭10華亭は呉の地名。かつて陸遜が封建された地で、ここに陸機・陸抗の邸宅があった。呉の滅亡後、陸機兄弟はここで十余年を過ごしたという。『世説新語』尤悔篇、第三章の劉孝標注に引く「八王故事」、『元和郡県図志』巻二五、江南道一、蘇州、華亭県、華亭谷を参照。の鶴の声、あれをもう聞けないのか」。とうとう軍中で殺された。享年四十三。陸蔚と陸夏の二人の子も殺された。陸機が冤罪で死ぬと、兵士はこれを悲しみ、誰もが涙を流した。この日、暗い霧が昼間に出て、強風が木をへし折り、平地に一尺の雪が積もった。議者は、〔この異変は〕陸氏が冤罪であることを示していると見なした。
 陸機は天賦の才をもち、文章は壮大にして美麗であった。あるとき、張華は陸機に言った、「人が文章を作るときは、いつだって自身の才の乏しさを恨めしく思うものだが、子(あなた)は逆に才が豊かすぎることを悩ましく思っているのだな」。あるとき、弟の陸雲は書簡を送って言った、「君苗11人物の字と思われるが、不詳。は兄さんの文章を見るたびに、自分の筆と硯を燃やそうと思うそうです」。のち、葛洪は書物(『抱朴子』)を著わし、「陸機の文章は、玄圃12崑崙山上にあるという仙人の居所。(『漢辞海』)に積み上げられている玉の山のごとし。玉の一つひとつ、夜光(珠玉のブランド名)にあらざるものはないように。あるいは、五河13神話・伝説中の五色の河。(神話伝説中的五色之河。)(『漢語大詞典』)の水流のごとし。五つの色、その水源はひとつであるかのように。その雄壮にして華麗、艶やかにして豊かで、英明にして勇ましく、飄々として放逸であるのも、一代の卓絶であろうか」と述べた14現行の『抱朴子』にこれに当たる文は見えないが、佚文では確認できる(『太平御覧』巻五九九、品量文章、引など)。。以上のように陸機は人から敬服されていた。しかし、〔陸機は〕権門と交際することを好み、賈謐と親密で、〔このような〕進趣の姿勢のせいで批判を得ていた。著述した文章はぜんぶで三百余篇あり、すべて世に通行した。

〔孫拯〕

 孫拯は字を顕世といい、呉郡の富春の人である15孫拯は呉の宗室の子孫。孫桓の弟・孫俊の孫に当たり、『三国志』呉書六、宗室伝、孫桓伝の裴松之注に簡略な記述があるが、裴注の表記だと「孫丞」に作っている。。作文を得意とし、呉に仕えて黄門郎となった。孫晧の時代、侍臣の多くが罪を得ていたが、孫拯と顧栄だけは智をはたらかせて生命を保った。呉の平定後、涿令となり、成績をあげた。
 陸機が孟玖らに誣告されると、〔孟玖らは〕孫拯を逮捕して拷問し、両くるぶしの骨が露呈するほど凄惨であったが、ついに供述を変えなかった。門生の費慈と宰意が獄を訪れて孫拯の無実を証明しようとしたが、孫拯は彼らを諭して帰らせ、「わが義において、旧友を誣告することなどできない16門生の二人が「孫拯の無実を証明しようとした(明拯)」という前文といまいち嚙み合っていない印象である。思うに、孫拯は「そもそも陸機は反乱など企てていない」と供述していたところを、門生の二人は「孫拯は陸機の反乱を知らなかったのであり、それにはまったく関与していない」と弁護しようとしたので、孫拯はこのように言っているのかもしれない。整合的に読むとすればそのような解釈になるだろう。『太平御覧』巻三七二、踝に引く「陸機別伝」に「孟玖欺成都王頴曰、『陸機司馬孫承、備知機情、可考験也』。頴於是収承父子五人、考掠備加、踝骨皆脱出、終不誣機」とある。。卿らよ、二度とこのようなことをしてくれるな」と言った。二人は、「僕らもどうしてご主君(孫拯のこと)を裏切れましょうか」と言った。孫拯がとうとう獄中で死ぬと、費慈と宰意も死んだ。

陸雲

 陸雲は字を士龍という。六歳で作文ができるようになり、清純正直な性格で、才知があった。若いころから兄の陸機と名声を等しくし、文章では陸機に及ばなかったとはいえ、〔口頭の〕討論では陸機をしのぎ、「二陸」と号されていた。幼少時、呉の列曹尚書であった広陵の閔鴻が陸雲を見て奇才と評し、「この子は龍駒(龍の子ども)でなければ鳳雛(鳳凰のヒナ)であろう」と言った。〔閔鴻は?〕のちに陸雲を賢良に推挙した。ときに、十六歳であった。
 呉が平定されると、洛陽に入った。陸機がはじめて張華を訪れたとき、張華は陸雲の所在を訊いてきた。陸機は「陸雲には笑疾(ふとしたことで笑ってしまって止まらなくなるクセ)がありまして、自分から人に会おうとしないのです」と言った。まもなく陸雲がやって来た17「陸雲は自分からは来ようとしない」という返答を聞いた張華が陸雲を呼び寄せたということであろう。。張華の為人(ひととなり)はおしゃれ好きで、しかも絹のひも18原文は「帛縄」。リボンのような布であろう。をあごひげに巻き付けるのがお気に入りであった。陸雲は張華を見ると大笑いしてしまい、抑えられなくなってしまった。これより以前、〔陸雲が〕喪服を着て船に乗ったとき、振り返って水面に映る自分の姿を見ると、大笑いして落水してしまい、人に救出されて命拾いしたことがあった。陸雲は荀隠ともともと面識がなかったが、あるとき、張華の座中で同席することになった。張華は「きょう、たまたま出会ったのだ。ふつうに話すのはやめにしよう」と言った。そこで陸雲は手を挙げて礼を示し19原文は「抗手」。『漢書』巻八七、揚雄伝上の顔師古注に「抗、挙手也。言其粛恭合掌而拝也」とあり、手を挙げて掌を合わせるという礼らしい。、「雲間の陸士龍であるぞッ」と言うと、荀隠は「日下20原文まま。徐震堮氏は京師(天子のひざもと)の意味とする。荀隠の本貫は潁川で、洛陽と近いから、というのが理由である(徐氏『世説新語校箋』排調篇、第九章の注)。陸雲の「雲間」が自身の名にかこつけた表現であるらしいのを鑑みるとやや微妙な解釈な気もするが、他に妙案もなく、ここではひとまず保留することにする。の荀鳴鶴なり」と言った。鳴鶴は荀隠の字である。さらに陸雲は「青雲が開けて白雉が視界に入っているというのに、なぜなんじの弓を張って矢をつがえぬのかッ。なぜだッ」21目の前に一代の論客が現われたというのに、一戦交えてみずからの名を揚げようと思わないのか? いいぜかかってこいよ、という意味。と言うと、荀隠は「『雲龍は雄々しいのであろう――』。もともとはそう思っていたのだが、まさか山野の鹿にすぎぬとは……。獣は弱小なのに弩は強力。それゆえ、射つのにぐずぐずしてしまったというわけだ」22「雲龍」は陸雲の名と字にひっかけた言い方。陸雲の前評判からして、さぞかし立派な風格なのだろうと想像していたが、第一印象は平凡な田舎者(山野の鹿)という感じで、拍子抜けしてバトルをしかけようという気分にならなかったぜ、という意味。。張華は手を打ちながら大笑いした。揚州刺史の周浚が召して従事とすると、人に向かって言った、「陸士龍は現代の顔子(顔回)であるぞ」と。
 まもなく、公府の掾から太子舎人となり23原文「以公府掾為太子舎人」。本伝には公府の掾の経歴は記載されていない。、地方に出て浚儀令に任じられた。浚儀県は人口密集地帯の要所24原文「都会之要」。この「都会」は現代日本語での意味とほぼ同じニュアンスだと思われる。に位置し、治めるのが難しいという評判であった。陸雲が着任すると、〔県内は〕落ち着きを取り戻して治安が回復し、民衆は〔他人を〕欺けなくなり、市場からは掛け値がなくなった。〔あるとき、〕殺された者がいたが、犯人の名を挙げられなかった。陸雲は被害者の妻を逮捕したが、何も尋問しなかった。十余日して釈放すると、ひそかに人に命じてその妻の後を付けるよう指示し、「立ち去って十里を出ないうちに、男がこの妻を待っていて、話しかけるであろう。〔その男を〕すぐに捕えて来るように」と言いつけた。まもなく、はたしてそのとおりとなった。この男を尋問すると、すっかり罪を認めて言った、「その人妻と不倫関係にあり、いっしょにその夫を殺しました。彼女が釈放されると聞いたので、話をしたかったのですが、県庁に近いのを警戒しまして、そこで遠くで待っていました」。かくして、県じゅうの人々が陸雲の神がかりな聡明さを称えたのであった。郡守は陸雲の有能ぶりを嫌い、たびたび陸雲を譴責したので、陸雲は官を辞した。百姓は陸雲を追慕し、肖像を描き、県の社25土地神を祭る廟。(『漢辞海』)に祀った。
 まもなく呉王晏の郎中令に任じられた。呉王は〔洛陽の〕西園に大規模な邸宅を建てようとしたので、陸雲は上書して言った。

 臣がうかがい知るところでは、世祖武皇帝は朝廷に臨御すると無為をもって世を治め、倹約をもって民を教導し、即位して二十六年のあいだ、新築した宮殿や台観はなく、しばしば明詔を発布し、奢侈を丹念に戒めました。今上26原文は「国家」。現在帝位に就いている恵帝を指す。が位を継承され、〔武帝のその方針を〕遵奉することに努めておられますが、しかし世俗はしだいに堕落し、家々は富裕を競い、その影響が広まってゆき、とうとう風俗になってしまいました。厳詔がたびたび宣布されているとは言いましても、奢侈の風潮はますます流行しています。詔書を拝見するたびに、百姓は嘆息しているのです。清河王がむかし、墓を造成しようとしたとき、手詔が下り、先帝の倹約の教えを追述され、〔陛下の〕たいへん切実なお考えが四海に示されました。清河王が完成していた墓を破壊して詔命を奉じましたところ、海内の名士はみな喜んだのでした。臣が愚考いたしますに、先帝の遺教は日に日に影響を失っておりますが、こうした現在において、今上と共同して、おおいなる教えを協崇(調和興隆の意)し、先人のやり方を追闡(模倣発揚の意)すること〔の成否〕は、じつに殿下にかかっているのです。まず純朴を修めてから、そのあとで四方を教え正すことができるようになります。およそ華美なものは、ひとしくこれを節制すべきであり、さすれば上は主上の心を満足させ、下は民の期待にかなうでしょう。臣は凡才ながら、特別に抜擢をこうむりましたので、忠節を尽くして受けた恩に報いんとする所存でございます。ですから、〔殿下の〕お心に逆らうのを恐れず、思うところをあえて述べた次第です。もし愚臣の言葉に採るべきところがございましたら、ご反省いただけますと幸いです。

 当時、呉王は部将を信任し、〔呉国の〕諸官の銭帛(財産)を査察させたので、これについても陸雲は意見を述べた。

 つつしんで令書を拝見いたしました。部曲将の李咸と馮南、司馬の呉定、給使の徐泰らに諸官の売買および銭帛の帳簿27原文「市買銭帛簿」。「市買」は売買の意。売買の帳簿および資産の帳簿、という意味かと思われる。を査察させるとの由。臣が愚考いたしますに、聖徳(呉王を指す)が興起され、大国(呉国を指す)をおおいに領有されると、人材を選抜して官に任命し、〔かくして王国の〕百官は業務に就きました。中尉の該や大農の誕は、二人とも清廉にして慎み深く、粛々と職務をこなしています。その下の群官はみな州里の微才な人物ですが、こざかしい過ちについては日々耳にしますけれども、義を守ってまごころを尽くすということに関しては28原文「至於処義用情」。意味はよくわからない。絶対に守らなければならない一線というニュアンスだとは思うが。、ほとんど大罪はありません。いま、咸と南は軍の小人、定と泰は兵士と雑用人ですが、清廉さと慎み深さは日ごろから顕われておらず、忠信さと公正さは称えられるほどではありません。大臣が関与した帳簿ですら、まだ詳らかではないとお考えになり29原文「大臣所関、猶謂未詳」。大臣の「所関」が何を指すのかよくわからない。かりに「大臣がみずから作成した帳簿」という意味で訳した。、咸らが査察してからようやく信頼できるというのでしたら、国を開創したら小人を任用してはならないという義30原文「開国勿用之義」。『易』師の上六の爻辞に「大君有命、開国承家、小人勿用」とあるのが出典か。にあらざるばかりでなく、殿下の誠意にあふれた広大な度量をも傷つけてしまうでしょう。もし咸らが忠節を尽くし、国に利益をもたらし、功績も利益も百倍にできたとしても、国の美光におおいに裨益するという点に関しては、襟を開いて士を信頼するということの確実さには及びません。まして、もたらされる利益は一時的なものにすぎず、しかも小人に権勢を握らせ、大道を退廃させてしまうのです。これが、臣の憤慨するゆえんなのでございます。臣は大臣の位に就けられ、善を進言し、悪を諫めるのが職務です。卑見があるのならば、あえて諫言を尽くさないわけにはまいりません。愚考いたしますに、明令を発布し、このたびの査察を取りやめとするべきです。諸事いっさいを治書に委ねれば、大信をもって民を治められるようになり31原文「衆事一付治書、則大信臨下」。よくわからない。、人々は節義を尽くそうとするでしょう。

 陸雲は才士を好み、多くの人物を推薦した。文書を太常府に送り、同郡の張贍を推薦して言った。

(難しそうな文章なので省略します。)

 中央に入って尚書郎、侍御史、太子中舎人、中書侍郎となった。成都王穎が上表して清河内史とした。成都王が斉王冏を討とうとしたとき、陸雲を前鋒都督とした。斉王が誅殺されると、大将軍府の右司馬に転じた。成都王は晩年、政治が退廃してしまったので、陸雲はしばしば直言を呈して意向に逆らった。孟玖が自分の父を登用して邯鄲令にしようとすると、左長史の盧志らはみな、阿諛迎合してその意向に従ったが、陸雲は頑として承諾せず、「この県は例外なく公府の掾の資を要します32原文は「此県皆公府掾資」。邯鄲の県長に就くためには、公府掾の「資」、すなわち公府掾を務めた経歴が資格として必要だということ。中村圭爾[二〇一三]第四章を参照。。黄門(宦官)の父がこれに就く、といったことがあったでしょうか33原文「豈有黄門父居之」。公府の掾を経歴したことがなくとも、宦官の父であれば県長になれる、そんな例がかつてあっただろうか、というニュアンスであろう。」と言った。孟玖は深く怨んだ。張昌が反乱を起こすと、成都王は上表して、陸雲を使持節、大都督、前鋒将軍とし、張昌を討たせた。ちょうど長沙王乂を討つことになったので、中止となった。
 陸機が敗戦すると、〔成都王は〕あわせて陸雲も逮捕した。成都王の官属の江統、蔡克、棗嵩らは上疏して言った。

 統(わたし)たちが聞くところでは、人主が聖明であれば、臣下は諫言を尽くすのであり、かりにも思うところがあるのならば、進言をためらいません。〔したがいまして、思うところを申しあげようと思います。〕昨日、教令を承りましたが34原文「昨聞教」。この読み方でよいのか、やや自信はない。、陸機が軍事行動の期日に遅れ、軍は敗北を喫したことをもって、法にもとづいて刑罰を下す、との由。不適当な判決だと思う者は誰もおりません。三軍を引き締め、威厳を遠近に示すのにまことに十分であり、いわゆる「一人が誅戮を受けて天下が戒めを理解する」というものであります。さらにまた、重ねての教令も承りましたが、陸機が反逆を図ったことをもって、族誅を加えるのがふさわしい、との由。本末がまだわからぬ者たちは、誰もが困惑しております。そもそも「朝廷で人に爵を授けるのは、人々といっしょにうやうやしくおこなうためであり、市場で人に刑罰を加えるのは、人々といっしょにうち棄てるため」(『礼記』王制篇)です。「刑罰〔が失当でないかどうか〕を懸念せよ」(『尚書』舜典篇)とは、古人が慎んだことでした。いま、明公は義兵を起こし、そうして国難を取り除こうとしました。四海の人々が心を合わせ、雲のごとく集まって呼応し、罪人(長沙王ら)の命に残された時間はあとわずかで35原文「罪人之命、懸於漏刻」。漏刻は水時計で、転じてわずかな時間の喩え。「残りわずかな時間に命が懸かっている」=「残りわずかな時間で生死が決する」=「残された命の時間はあとわずか」という表現か。、太平の実現は、朝でなければ夕に約束できるでしょう。陸機兄弟はそろって抜擢をこうむり、ともに重任を授けられましたから、無窮の恩義にそむいて滅亡直前の賊に帰順し、泰山のような安定を棄て去って累卵のような危険におもむくわけがありません。陸機は思慮が浅はかで36原文「計慮浅近」。「深謀遠慮」の反対。、将帥たちを監督できずに、果断を決行して敵軍を滅ぼしえませんでしたし37原文「致果殺敵」。『左伝』宣公二年「戎昭果毅以聴之、之謂礼。殺敵為果、致果為毅、易之戮也」とあるのにもとづく。、〔軍事行動を〕ぐずぐずとしていたあいだには、疑わしい事もありました38原文「進退之間、事有疑似」。陸機伝で、孟超が孟玖宛ての書簡で「軍の行動がぐずぐずしている」と不満を漏らしていたが、本文が言っているのはおそらくこのことだと思われる。から、殿下のご見識を曇らせ、真実を見えにくくさせているにすぎないのです。誅殺という事柄は重大ですので、陸機に反逆の兆しがあるとおっしゃるのでしたら、王粋と牽秀にその事について調査するよう命じるべきです。その事を裏づける証拠が明白だったならば、それを万人に向けて開示し、それから陸雲らに誅罰を加えても、遅くはありません。今回のこの措置は、実際のところあまりに重大です。〔反逆が事実で、この措置が〕成功だった場合には天下の人々を心服させられましょうが、〔反逆が事実ではなく、この措置が〕失敗だった場合には必ず四方の人々を離心させてしまうでしょう。〔事の真相を〕詳しく明らかにさせないといけませんし、注意深く調べさせないといけません39原文「不可不令審諦、不可不令詳慎」。「令」の意味の取り方がよくわからないが、前文の「王粋と牽秀にその事について調査させる(令王粋牽秀検校其事)」をふまえた表現で、王粋らに「審諦」・「詳慎」させるという意味か。。統(わたし)たちはつまらぬ者どもですが、陸雲のために彼ひとりの命を請うているというわけではありません。じつに、このたびの措置は今後の成否を左右する機会であることを憂慮しているのです40原文「実慮此挙有得失之機」。文脈に合わせてこういうふうに意味を取ってみたが、正確である自信はややもてない。。そこで、愚かな頭を振り絞って、〔諫言を尽くさなかったという〕誹謗に備えようとした次第です41原文「以備誹謗」。のちに世から「江統らは事前に諫言を尽くさなかった」という謗りを浴びないよう、今の時点で懸念を述べておいた、という意味かと思われる。

成都王は聴き入れなかった。江統らが重ねて命ごいするので、成都王は逡巡し、三日が過ぎてしまった。そこで、盧志はさらにこう言った、「むかし、趙王が中護軍の趙浚を殺し、その子の趙驤は赦しましたが、趙驤は明公(成都王)のもとへ参じて趙王を討ちました。さしずめ、前例です」。蔡克が入室して成都王の面前に至ると、叩頭して血を流しながら言った、「陸雲は孟玖から怨まれており、そのことは誰もが知っています。いま、〔陸雲が〕ほんとうに殺されてしまい、罪を裏づける明白な証拠がなければ、人心に疑いを抱かせてしまうでしょう。そのようなことになってしまわないかと、明公のために惜しんでいるのです」。蔡克に付き従って入室する僚属が数十人おり、涙を流して強く命ごいするので、成都王は憐れに感じ、陸雲を赦す様子を見せた。すると、孟玖は成都王を助け起こして〔奥の部屋に?〕入り、〔成都王を〕催促して陸雲を殺させてしまった。享年四十二。娘が二人おり、息子はいなかった。門生や故吏が遺体を迎えて清河に埋葬し、墓を整備して碑を建て、四季ごとに祀った。書いた文章は三四九篇あり、また『新書』十篇を編纂した。すべて世に通行した。
 そのむかし、陸雲は旅行中、旧友の家に宿泊していたことがあった。夜、道に迷ってしまい、どこを通ればよいのかわからなくなってしまった。ふと、草むらのほうを眺めてみると、火の光があったので、そこへ進んでみたところ、一軒の家にたどりつき、一晩泊めてもらえることになった。〔家の中では〕容姿の美しいひとりの少年と対面し、『老子』について語り合ったが、〔少年の〕言葉は深遠を極めていた。夜が明けると、〔陸雲は〕辞去し、十余里進むと旧友の家に到着した。旧友は、「この数十里以内に人家はないぞ」と言う。陸雲はそこでようやく察知し、引き返して昨晩泊まった場所を探してみると、なんと王弼の墓であった。陸雲はもともと玄学の素養はなかったが、これ以後、『老子』についての言論はとりわけ先進的であった42これを陸機の逸話とするものもある(『水経注』巻一六、穀水の「又東過河南県北、東南入于洛」注など)。

〔陸耽:陸雲の弟〕

 陸雲の弟の陸耽は平東将軍府の祭酒となった43平東将軍が誰であるのかは不明。時代的に元帝ではない。。〔陸雲と〕同様に清廉の誉れがあったが、陸雲といっしょに殺された。大将軍(成都王穎)府の参軍の孫恵は、淮南内史の朱誕に書簡を送って言った、「まさか、三陸が闇朝(暗愚な朝廷)の道連れとなって、またたくまに身を滅ぼしてしまい、その徳業が失われてしまうなどとは、思いもよりませんでした。悲痛はあまりに深く、筆舌に尽くせません。国家は優秀な名士を失ってしまいました。悲しんでいるのは私ひとりだけでしょうか」。このように州里の人々から悲しまれたのであった。のちに東海王越が成都王を討とうとし、檄書を天下に発すると、陸機・陸雲兄弟を冤罪で殺したことをもって成都王の罪を言い広めたのであった。

〔陸喜:陸雲の従父兄〕

 陸喜は字を恭仲という。父の陸瑁は呉の吏部尚書であった44陸瑁は『三国志』呉書一二に立伝されている。陸遜の弟に当たる。。陸喜は呉に仕え、昇進を重ねて吏部尚書に移った。若くして名声をあげ、学問を好んで才思(才気と想像力)があった。あるとき、自叙の文章を作成した。その大略は次のとおり。

 劉向は『新語』(陸賈の著作)を見て『新序』を作り、桓譚は『新序』を読んで『新論』を作った。私は自己の力量を顧みず、揚子雲(揚雄)の『法言』に感動して『言道』を作り、賈子(賈誼)の美才を見て『訪論』を作り、子政(劉向)の『洪範』を閲覧して『古今暦』を作り、蒋子通(蒋済)の『万機論』を観覧して『審機』を作り、「幽通賦」、「思玄賦」、「四愁詩」を読んで「娯賓」と「九思」を作った45「幽通賦」は班固、「思玄賦」は張衡、「四愁詩」は張衡の作品。「娯賓」と「九思」は賦と詩のどちらであるのか、判別できない。。まこと、いわゆる「恥を忍んだ」著作である。

陸喜の著書は百篇近くあった。
 呉が平定されると、さらに『西州清論』を著わし、世に広まったが、諸葛孔明の名を称してその著書を通行させた。『西州清論』の較論格品篇に言う。

 ある人が私に質問した。「薛瑩は国士のなかでもっとも優れた第一等の人物でしょうか46薛瑩は孫呉末の人。『三国志』呉書八、薛綜伝に附伝がある。孫晧の朝廷で高位を経つつも、身を亡ぼすことなくまっとうし、呉の滅亡後は晋から散騎常侍を授けられた。。」
 答えて言った。「合理的に推論すれば、四等五等の間であろう。」
 質問した人は愕然として〔理由を〕たずねたので、答えて言った。「そもそも孫晧は無道であり、暴虐をほしいままにしていた。龍がその身を蛇に変え、その身体を活動的に動かさず、潜み隠れて登用されず、内心は推し測れない、このようであれば第一等の人物。尊位を避けて低位におり、俸禄は耕作収入に代替すれば十分で、静謐に暮らして倹約を守り、無欲淡泊である、このようであれば第二等の人物。剛直で、国家を第一に考えて統治について思いめぐらし、尊貴な者にも遠慮をもたず、方直をもって憚られ、権力者を恐れない、このようであれば第三等の人物。時宜に応じて物事を判断し、混乱した時世においても高位に留まりつづけ、忠義の心を忘れず、少々有益な善言をしばしば献上する、このようであれば第四等の人物。温厚で慎み深く、へつらうことはしないが、補佐の助けにもならず、落ち着きをもった姿勢で過ごし、栄寵を保つ、このようであれば第五等の人物。これ以下は数え上げるまでもない。したがって、第二等以上は多く世に埋没するけれども、災厄を遠ざけ、第三等以下は名声や高位を有するけれども、災禍を近づけるのだ。こういうわけで、君子は内なる明るさを暗くして、外では柔順(逆らわない)の振る舞いを履行する47原文「君子晦其明而履柔順」。『易』明夷の彖伝に「内文明而外柔順、以蒙大難、文王以之、利艱貞、晦其明也」とあるのをふまえたか。、ということがよく理解できよう。」
 質問した人は言った。「このような卓越した議論をはじめて聞きました。死ぬまで目がくらむことはないでしょう。」

 太康年間、詔が下った、「偽尚書の陸喜ら十五人は、南士のなかで名声を集めている者たちであり、みな清潔であったゆえに孫晧の朝廷には受け入れらなかった。ある者は忠義であったために罪を得て、ある者は身を退いて志を養い、田野に追いやられていた。主者は、これらみなをもともとの位に応じて叙任せよ」。〔また陸喜らの〕在住先の官庁に勅を下し、礼をもって〔洛陽へ〕送り出すよう命じた。〔陸喜らが洛陽に〕到着次第、才能に応じて48原文「随才」。直前の詔には「もともとの位に応じて(随本位)」とあったのと食い違っている気がするが、このまま訳しておいた。位を授け、そこで陸喜を散騎常侍とした。まもなく卒した。子の陸育は尚書郎、弋陽太守となった。

 制に曰く、(以下略)

(2026/6/27:公開)

  • 1
    呉では将が自家の兵をもち、子弟に世襲させていた。一般的に「世兵制」と呼ばれている。
  • 2
    原文「千里蓴羹」。『世説新語』言語篇、第二六章も同文。解釈は諸説ある。すなおな読み方は「千里湖産のジュンサイで作った吸い物」である。ただ個人的には、千里湖をジュンサイのスープに喩えた表現とする解釈(川勝義雄ほか[一九六四])がおもしろく、当意即妙的な返答に確かになっているため、その意味で訳出してみた。
  • 3
    塩豉(豆豉)は豆を発酵させた食品。これを煮て煮汁を作る。『斉民要術』巻八、羹臛法では、ジュンサイなどの吸い物を作るときにこの煮汁を用いており、調味料として使われていた。要するに、「千里湖に調味料はまだ加えてないけど」という意味。川勝義雄ほか[一九六四]も参照。
  • 4
    盧毓は盧志の曾祖父、盧珽は盧志の父。
  • 5
    原文「採其遠指」。どういう意味なのかよくわからない。当てずっぽうで読んだ。
  • 6
    「九合」は原文まま。九度諸侯と会盟したこと。斉の桓公の功績を形容する表現としてしばしば用いられる。例えば『論語』憲問篇に「子曰、『桓公九合諸侯、不以兵車、管仲之力也。如其仁、如其仁』」とある。
  • 7
    大将の用いる、象牙で装飾をほどこした大旗。(『漢辞海』)
  • 8
    貉は東北部に生息する動物、転じて東北部の非漢族の呼称。『世説新語詞典』によれば、三国時代以降、北人が南人を侮蔑する呼び方として用いられていたという。
  • 9
    車にかぶせる覆いのこと。ほろ。
  • 10
    華亭は呉の地名。かつて陸遜が封建された地で、ここに陸機・陸抗の邸宅があった。呉の滅亡後、陸機兄弟はここで十余年を過ごしたという。『世説新語』尤悔篇、第三章の劉孝標注に引く「八王故事」、『元和郡県図志』巻二五、江南道一、蘇州、華亭県、華亭谷を参照。
  • 11
    人物の字と思われるが、不詳。
  • 12
    崑崙山上にあるという仙人の居所。(『漢辞海』)
  • 13
    神話・伝説中の五色の河。(神話伝説中的五色之河。)(『漢語大詞典』)
  • 14
    現行の『抱朴子』にこれに当たる文は見えないが、佚文では確認できる(『太平御覧』巻五九九、品量文章、引など)。
  • 15
    孫拯は呉の宗室の子孫。孫桓の弟・孫俊の孫に当たり、『三国志』呉書六、宗室伝、孫桓伝の裴松之注に簡略な記述があるが、裴注の表記だと「孫丞」に作っている。
  • 16
    門生の二人が「孫拯の無実を証明しようとした(明拯)」という前文といまいち嚙み合っていない印象である。思うに、孫拯は「そもそも陸機は反乱など企てていない」と供述していたところを、門生の二人は「孫拯は陸機の反乱を知らなかったのであり、それにはまったく関与していない」と弁護しようとしたので、孫拯はこのように言っているのかもしれない。整合的に読むとすればそのような解釈になるだろう。『太平御覧』巻三七二、踝に引く「陸機別伝」に「孟玖欺成都王頴曰、『陸機司馬孫承、備知機情、可考験也』。頴於是収承父子五人、考掠備加、踝骨皆脱出、終不誣機」とある。
  • 17
    「陸雲は自分からは来ようとしない」という返答を聞いた張華が陸雲を呼び寄せたということであろう。
  • 18
    原文は「帛縄」。リボンのような布であろう。
  • 19
    原文は「抗手」。『漢書』巻八七、揚雄伝上の顔師古注に「抗、挙手也。言其粛恭合掌而拝也」とあり、手を挙げて掌を合わせるという礼らしい。
  • 20
    原文まま。徐震堮氏は京師(天子のひざもと)の意味とする。荀隠の本貫は潁川で、洛陽と近いから、というのが理由である(徐氏『世説新語校箋』排調篇、第九章の注)。陸雲の「雲間」が自身の名にかこつけた表現であるらしいのを鑑みるとやや微妙な解釈な気もするが、他に妙案もなく、ここではひとまず保留することにする。
  • 21
    目の前に一代の論客が現われたというのに、一戦交えてみずからの名を揚げようと思わないのか? いいぜかかってこいよ、という意味。
  • 22
    「雲龍」は陸雲の名と字にひっかけた言い方。陸雲の前評判からして、さぞかし立派な風格なのだろうと想像していたが、第一印象は平凡な田舎者(山野の鹿)という感じで、拍子抜けしてバトルをしかけようという気分にならなかったぜ、という意味。
  • 23
    原文「以公府掾為太子舎人」。本伝には公府の掾の経歴は記載されていない。
  • 24
    原文「都会之要」。この「都会」は現代日本語での意味とほぼ同じニュアンスだと思われる。
  • 25
    土地神を祭る廟。(『漢辞海』)
  • 26
    原文は「国家」。現在帝位に就いている恵帝を指す。
  • 27
    原文「市買銭帛簿」。「市買」は売買の意。売買の帳簿および資産の帳簿、という意味かと思われる。
  • 28
    原文「至於処義用情」。意味はよくわからない。絶対に守らなければならない一線というニュアンスだとは思うが。
  • 29
    原文「大臣所関、猶謂未詳」。大臣の「所関」が何を指すのかよくわからない。かりに「大臣がみずから作成した帳簿」という意味で訳した。
  • 30
    原文「開国勿用之義」。『易』師の上六の爻辞に「大君有命、開国承家、小人勿用」とあるのが出典か。
  • 31
    原文「衆事一付治書、則大信臨下」。よくわからない。
  • 32
    原文は「此県皆公府掾資」。邯鄲の県長に就くためには、公府掾の「資」、すなわち公府掾を務めた経歴が資格として必要だということ。中村圭爾[二〇一三]第四章を参照。
  • 33
    原文「豈有黄門父居之」。公府の掾を経歴したことがなくとも、宦官の父であれば県長になれる、そんな例がかつてあっただろうか、というニュアンスであろう。
  • 34
    原文「昨聞教」。この読み方でよいのか、やや自信はない。
  • 35
    原文「罪人之命、懸於漏刻」。漏刻は水時計で、転じてわずかな時間の喩え。「残りわずかな時間に命が懸かっている」=「残りわずかな時間で生死が決する」=「残された命の時間はあとわずか」という表現か。
  • 36
    原文「計慮浅近」。「深謀遠慮」の反対。
  • 37
    原文「致果殺敵」。『左伝』宣公二年「戎昭果毅以聴之、之謂礼。殺敵為果、致果為毅、易之戮也」とあるのにもとづく。
  • 38
    原文「進退之間、事有疑似」。陸機伝で、孟超が孟玖宛ての書簡で「軍の行動がぐずぐずしている」と不満を漏らしていたが、本文が言っているのはおそらくこのことだと思われる。
  • 39
    原文「不可不令審諦、不可不令詳慎」。「令」の意味の取り方がよくわからないが、前文の「王粋と牽秀にその事について調査させる(令王粋牽秀検校其事)」をふまえた表現で、王粋らに「審諦」・「詳慎」させるという意味か。
  • 40
    原文「実慮此挙有得失之機」。文脈に合わせてこういうふうに意味を取ってみたが、正確である自信はややもてない。
  • 41
    原文「以備誹謗」。のちに世から「江統らは事前に諫言を尽くさなかった」という謗りを浴びないよう、今の時点で懸念を述べておいた、という意味かと思われる。
  • 42
    これを陸機の逸話とするものもある(『水経注』巻一六、穀水の「又東過河南県北、東南入于洛」注など)。
  • 43
    平東将軍が誰であるのかは不明。時代的に元帝ではない。
  • 44
    陸瑁は『三国志』呉書一二に立伝されている。陸遜の弟に当たる。
  • 45
    「幽通賦」は班固、「思玄賦」は張衡、「四愁詩」は張衡の作品。「娯賓」と「九思」は賦と詩のどちらであるのか、判別できない。
  • 46
    薛瑩は孫呉末の人。『三国志』呉書八、薛綜伝に附伝がある。孫晧の朝廷で高位を経つつも、身を亡ぼすことなくまっとうし、呉の滅亡後は晋から散騎常侍を授けられた。
  • 47
    原文「君子晦其明而履柔順」。『易』明夷の彖伝に「内文明而外柔順、以蒙大難、文王以之、利艱貞、晦其明也」とあるのをふまえたか。
  • 48
    原文「随才」。直前の詔には「もともとの位に応じて(随本位)」とあったのと食い違っている気がするが、このまま訳しておいた。
タイトルとURLをコピーしました