凡例
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- 注で唐修『晋書』を引用するときは『晋書』を省いた。
陳寿・王長文・虞溥/司馬彪・王隠・虞預/孫盛・干宝・鄧粲・謝沈/習鑿歯・徐広/参考資料(修晋書詔、佚晋史一覧表ほか)
陳寿
陳寿は字を承祚といい、巴西の安漢の人である1陳寿は『華陽国志』巻一一、後賢志にも立伝されており、内容的にはそちらのほうが詳しい。。若いころから学問を好み、同郡の譙周に師事し、蜀に仕えて観閣令史となった。宦官の黄皓が権勢を独占すると、大臣はみな心を曲げて黄皓に迎合したが、陳寿だけは屈さなかった。このため、しばしば罪に問われて降格を受けた。父の喪に遭ったが、病気にかかり、婢女に薬を練らせていたところ、来客がその光景を目撃し、郷里の人々は貶議2原文まま。文字どおり「批判の議論」という意味であろうか。巻四五、何攀伝だと「巴西陳寿・閻乂、犍為費立、皆西州名士、並被郷閭所謗、清議十余年」とあり、「清議にかけられていた」と表現されている。を起こした。蜀が平定されると、この貶議が原因で、何年もくすぶったままであった。司空の張華は陳寿の才能を惜しみ、陳寿は疑われるようなことを避けようとしなかったとはいえ、実情をたどれば排斥には及ばないと考え、孝廉に挙げた。佐著作郎に任じられ、地方に出て陽平3「平陽」の誤りと指摘されている。『晋書斠注』を参照。令に任じられた。『蜀相諸葛亮集』を編纂し、これを奏上した。著作郎に任じられ、領本郡中正となった。『魏国志』『呉国志』『蜀国志』4原文は「魏呉蜀三国志」。いわゆる『三国志』のこと。『華陽国志』後賢志に「寿乃鳩合三国史、著魏呉蜀三書六十五篇、号三国志」とあり、『史通』古今正史篇に「著作陳寿乃集三国史、撰為国志」とある。先行和訳ないし先行研究だと、原文の箇所は「魏・呉・蜀の『三国志』」と読まれていることが多いが、原文の文章構造は『華陽国志』の「魏呉蜀三書」と同じだと思われるので、これを参考にして「魏国志、呉国志、蜀国志の三つ」という意味で読むことにした。「本来の書名は『三国志』ではなかった」ということを訳者が主張したいわけではないので、その点は誤解しないでいただきたい。を編纂し、全六十五篇であった。世の人々は、陳寿は叙述が巧みで、良史の才があると称賛した。その当時、夏侯湛は『魏書』を著述していたが、陳寿の著作を見ると、すぐに自分の著書を破って〔執筆を〕やめてしまった。張華は『三国志』を高く評価し、陳寿に向かって言った、「まさに晋史〔の編纂〕を託すべきだな」。世の人々から重んじられたこと、このようであった。一説に次のような話がある。丁儀や丁廙は魏で高名を博していたが、陳寿は彼らの子に言った、「千斛の米をいただけるのでしたら5原文「可覓千斛米見与」。意訳した。直訳すれば「千斛の米が与えられることをお願いできるのであれば」。、尊公(父親)のために立派な列伝を書いてあげましょう」。丁氏は米を贈らなかったので、〔陳寿は〕ついに丁儀らのために列伝を立てなかった6『芸文類聚』巻七二、米に引く「語林」では、陳寿はこの発言を「丁梁州」に言ったとされている。この「丁梁州」とは、津田資久氏[二〇〇一]が指摘するように、晋に仕えて梁州刺史にまで至った丁弥を指す。丁弥は会稽山陰を本貫とし、父の固は孫呉に仕え、自身と子の潭は晋に仕えた。巻七八、丁潭伝、『三国志』呉書一二、虞翻伝の裴松之注に引く「会稽典録」を参照。一方、丁儀らの本貫は沛郡であるから(『三国志』魏書一九、陳思王植伝の裴松之注に引く「魏略」)、丁弥ら会稽丁氏とは別である。津田氏は、『語林』の説話は『呉志』に丁固伝が立てられていないことに因んだ内容であったが、唐修『晋書』の編纂者は『語林』を誤認したため、本伝のような説話が創作された、としている。。〔また、〕陳寿の父は馬謖の参軍であったが、馬謖が諸葛亮に誅殺されると、陳寿の父も罪に問われて髠刑(髪を剃る刑罰)を受け、そのうえ諸葛瞻は陳寿を軽んじていた。陳寿は諸葛亮のために列伝を立てたが、〔その列伝で〕「諸葛亮は用兵の策略に長けておらず、敵に対応する才能がなかった」と言い、「諸葛瞻は書が巧みなだけで、名声は実質を過ぎていた」と言った7晋代からすでにこのような噂が立てられていたようで、例えば『世説新語』排調篇、第四四章の劉孝標注に引く「王隠晋書」に「寿字承祚、巴西安漢人。好学、善著述、仕至中庶子。初、寿父為馬稷参軍、諸葛亮誅稷、髠其父頭、亮子瞻又軽寿、故寿撰蜀志、以愛憎為評也」とある。。議者はこれらのことをもって陳寿を批判した、と8「一説に次のような話がある(或云)」は丁氏のエピソードのみにかかるのかもしれないが、文の流れとしてここまでかけるのもありうるように感じたので、ここまでかけて読んでみた。。
張華は陳寿を中書郎に推挙しようとしていたが、荀勖は張華を嫌い、陳寿も憎んでいたので、とうとう吏部へ遠回しに要求して、陳寿を長広太守に左遷させた。母の老齢を理由に固辞し、就任しなかった。杜預が鎮(襄陽)へ赴こうとする際、ふたたび陳寿を武帝に推薦し、黄散9黄門侍郎と散騎常侍のこと。『初学記』巻一二、黄門侍郎の叙事に引く「斉職儀」に「初、秦又有給事黄門之職(黄門侍郎とは別に給事黄門という官職があったという意味――訳者注)、漢因之。至東漢初、并二官(黄門侍郎と給事黄門のこと――訳者注)曰給事黄門侍郎。後又改為侍中侍郎、尋復旧。自魏及晋、置給事黄門侍郎四人、与侍中俱管門下衆事。与散騎常侍並清華、代謂之黄散焉」とある。散騎常侍ではなく散騎侍郎とする研究などもある。に任じるのが適当だと述べた。このため、御史治書を授けられた。母の死去を理由に離職した。母は洛陽に埋葬するよう遺言したので、陳寿はその遺志を遵守した。すると、母の遺体を郷里に持ち帰って埋葬しなかったことでまたも罪に問われ、ついに貶議をこうむってしまった。そのむかし、譙周は陳寿に言った、「卿はきっと才気と学問によって名を成すだろうが、中傷もこうむるだろう。だがそれも不運というわけではない。深く慎むがよい10原文「亦非不幸也。宜深慎之」。非難を受けるのは時の運不運の問題ではなく、気をつければ避けられる問題だから、言行には注意しなさい、という意味であろう。」。陳寿はここに至ってふたたび罷免と恥辱を招いてしまったが、すべて譙周の言ったとおりであった。
数年後、起家して太子中庶子となったが、それを拝命する前に、元康七年に病卒した11原文「後数歳、起為太子中庶子、未拝。元康七年、病卒」。中華書局は「未拝」で改段落しているが、文言の並びからすれば訳文のように読むべきであろう。『華陽国志』後賢志は、太子中庶子に就いたのち、愍懐太子が廃されると兼散騎常侍となり、張華が九卿に登用しようとしたが誅殺されてしまったためその話はなくなり、そのまま卒した、という。愍懐太子が廃されたのは元康九年、張華が誅殺されたのは翌年の永康元年であるから、本伝の記述とは食い違っていることになる。津田氏[二〇〇一]は『華陽国志』の時系列を正しいと判定し、本伝の「元康七年」は「永康元年」の誤写としている。。享年六十五。梁州大中正、尚書郎の范頵らが上表して言った、「むかし、漢の武帝は詔を下し、『司馬相如の病気が重いゆえ、ひとをつかわしてその著書をすべて手に入れておくのがよいであろう』と言いました。使者は司馬相如の遺著を入手しましたが、〔その遺著は〕封禅について述べており、天子はこれを高く評価しました。臣らが案じますに、故治書侍御史の陳寿は『三国志』を編纂しましたが、その言辞には勧善懲悪が多く含まれ、得失を明らかにしており、教化に益するところがございます。〔文章の〕美しさは司馬相如に及びませんが、質朴さは勝っています。願わくは、〔陳寿の著書を〕収集して筆記するようにしていただきたく存じます」。こうして詔を河南尹と洛陽令に下し、陳寿の居宅へ行かせて彼の著書を筆写させた。また陳寿は『古国志』五十篇と『益都耆旧伝』十篇も編纂しており、そのほかの文章も世に通行した。
王長文
王長文は字を徳叡といい、広漢の郪の人である12王長文は『華陽国志』巻一一、後賢志にも立伝されており、内容的にはそちらのほうが詳しい。。若くして才気と学問をもって名を知られたが、放蕩で礼節に縛られず、州や府の辟召にはすべて応じなかった。州が別駕従事に辟召すると、粗末な服装でひそかに外出してしまい、州を挙げてその行き先を知る者はいなかった。のちに、成都の市中で粗忽にしゃがみながら胡餅をかじっていた〔ところを見つけられた〕。刺史はその不屈ぶりを知り、礼を払って彼を送り帰らせた。〔帰宅すると〕門を閉じて引きこもり、人付き合いを絶った。書物四巻を著わし、『易』に擬え、名づけて『通玄経』と言った。〔その内容には〕文言や卦象があり13原文「有文言卦象」。中華書局は「文言」と「卦象」にそれぞれ波線を引いており、篇名と見なしているのかもしれない。確かに『易』には文言伝があるが、ここはたんに「文章による説明」と「卦の形象」というくらいの意味にも取れる。そのあたりは特定せずに訳文を作成した。、それを利用して卜筮ができた。世の人々はこれを揚雄の『太玄経』に擬えた。同郡の馬秀は言った、「揚雄は『太玄経』を著わしたが、桓譚だけが〔『太玄経』は〕必ず後世に伝わるだろうと評した。後世、陸績にめぐりあい、玄道がとうとう明らかになったのであった14『三国志』呉書一二、陸績伝によれば、陸績は『太玄経』に注釈をつけている。。王長文の『通玄経』はまだ陸績や君山(桓譚の字)にめぐりあっていないだけだ」。
太康年間、蜀は凶作で飢饉にみまわれたので、〔行政府は〕倉庫を開放して援助した。王長文は生活が貧乏だったため、多く貸付援助を受けたが、あとで返済をしなかった。郡県は厳しく取り立て、王長文を州へ移送した。刺史の徐幹は王長文を赦したが、〔王長文は〕感謝を述べずに立ち去った。のちに成都王穎が召して江源令とした。ある人がたずねて言った、「以前は志を屈さなかったのに、今度はどうして屈しているのだい15「(志を)屈する」というのは就職を指した表現。以前は意地でも官に就かなかったのに、どうして今回は就いたのかという質問。」。王長文、「俸禄で親を養うためさ。わが身のためじゃないよ」。梁王肜が丞相となると、従事中郎に召した。洛陽で生活していたとき16梁王の辟召に応じて以来、洛陽で生活するようになったのである。、外出時はいつも白い毛織の小さなベール17原文「白旃小鄣」。「鄣」が何を指すのかわからないが、「著」(着用)するものであるようなので、ベールと取ってみた。を着用して車に乗っていたので、世の人々はこれを珍奇に思っていた。のちに洛陽で生涯を終えた。
虞溥
虞溥は字を允源といい、高平の昌邑の人である。父の虞秘は偏将軍となり、隴西に鎮した。虞溥は父の赴任に付き従い、古典籍に心を注いだ。当時、境界地帯で閲兵が実施されると、人々は争ってこれを見に行っていたが、虞溥は一度も見物に行かなかった。郡が孝廉に挙げ、郎中に除され、尚書都令史に任じられた。尚書令の衛瓘や列曹尚書の褚䂮は、ともに虞溥を高く評価した。虞溥は衛瓘に言った、「かつて金馬が瑞兆を啓示し18原文「金馬啓符」。いわゆる玄石図のこと。『三国志』魏書三、明帝紀、青龍三年七月の裴松之注に引く「魏氏春秋」によれば、玄石図には「述大金大討曹金但取之金立中大金馬一匹在中大吉開寿此馬甲寅述水」と記されていたという。『宋書』巻二七、符瑞志上によると、魏晋交代後、この文言は司馬氏が魏に代わって金徳の王朝を開くことを予言したものであると解釈された。、大晋が天に応じました。〔わが大晋は〕先王の五等の制(五等爵制)を復活させ、長久の安寧を得るべきです。暴秦の法を継承し、漢魏の失敗をなぞってはいけません」。衛瓘、「歴代の王朝がそのことについて嘆き憂えていたのだが、ついに改めることができなかったのだ19ここで話題になっている「五等之制」というのは、周の時代のような封建制を言うのであろう。たんに爵位を復活させればいいのではなく、そのような統治体制をガチで復活させるべきだ、という話ではないかと思われる。」。
しばらくして公車司馬令に移り、鄱陽内史に任じられた。学校をおおいに修繕し、学徒を広く招致し、鄱陽の属県に文書を伝送して布告した。
学問は、性情をしっかり修養して多くの善を積むためのものである。内において性情がしっかりすれば、外において行動がきちんと整い、心において善を積めば、教化において名声が顕われる。そのゆえに、中人(凡人)の性情は教化次第で移り変わり、善が積まれれば習俗と性情はきちんと整うのである。唐虞(堯舜)の時代、人々は軒並み封爵を授けるに値するほどであったが、教化が退廃すると、誅殺するに値するほどとなった。教化が風俗をつくりあげ、人民の心を変えさせた、ということではないだろうか。漢氏が統治する力を失い、天下が分裂して以来、江表の賊(孫呉のこと)は隔絶し、久しく王教を棄て去り、学校教育を廃して整備しなかった。いま、四海が統一され、万里がひとつとなり、歓喜している人民たちは、みな平和のなかで一息ついている。そこで、質朴20原文「道素」。『晋書』に用例が散見する熟語。『漢語大詞典』は「純朴な徳行を指す。……また道徳純朴を指す(指純朴的道徳。……亦指道徳純朴)」とするが、『晋書』の用例を見るとあまり妥当な語釈とは思えない印象である。例えば前涼の張茂が高大な台観を築こうとした際、馬魴がこれを諫めて「今世難未夷、唯当弘尚道素、不宜労役崇飾台榭」と言っているが(巻八六、張軌伝附張茂伝)、この「道素」は「質素」のニュアンスであろう。他の用例もそのような含意であるように思われたので、この意味で訳してみた。を尊び、学問を広め、もって太平を協賛し、盛んなる教化をいっそう輝かせるべきであろう。
そしてつぶさに〔学校についての〕制度を定めた。かくして、学校に来た者は七百余人であった。虞溥は誥を作成してこの者たちを激励し、訓告して言った。
学問の諸生はみな冠帯のともがらである。青年の年頃にして立派な志を抱き、初めて学校に至り、教育を受けることになる。これは大成の事業であり、立徳の基盤である。そもそも聖人の道はあっさりしていて味が少ないので、初学者はこれを好まない。〔学問を始めて〕期月21原文まま。一か月、または一か年を指すが、ここではどちらなのか判断つきがたいのではっきりさせなかった。しいて言えば一か年か。が経つと、見知ったことがますます広まり、習ったこともいよいよ多くなり、日ごとに聞いたことがないことを聞き、日ごとに見たことがないことを見るようになる。そうしてようやく、心が明るく開け、学問に優れた人を敬い、朋友とともに学ぶことを楽しむようになり22原文「敬業楽群」。出典は『礼記』学記篇。「正義」に従って訳した。、突如として気づかぬうちに、深遠なる教化が自己を薫陶し、至道が精神に入り込んでいるのである。ゆえに、学問が人間を染めるのは、丹青(赤と青)よりも強力なのだ。私は、丹青が長期間を経て色あせてしまったのを見たことはあるが、長期間学問して色あせてしまった人間は見たことがない。
そもそも職人が染色するときは、まず染める物の質(下地)を整備し、それからその色を染めることに取りかかる。質が整い、色が積み重なって、染色は完了するのだ。学問にも質があり、孝・悌・忠・信がこれである。君子は内ではその〔孝・悌・忠・信の〕心を正し、外ではその行動を身につけ、実行して余力があれば、文(古典)を学び23原文「行有余力、則以学文」。出典は『論語』学而篇。『論語集解』に「馬曰、文者古之遺文」とある。、文質彬彬(文と質がバランスよく調和する)となって、ようやく徳が備わるのである。いったい、学問する者は才能が及ばないことを憂うのではなく、志が立たないことを憂うものである。ゆえに「駿馬を仰ぎ慕っている馬も駿馬の馬であり、顔回を仰ぎ慕っている徒輩も顔回のともがらである」(揚雄『法言』学行篇)と言われる。また「刻んでも途中で止めてしまえば、朽ちた木ですら〔切断できるか〕わからない。だが刻むことを止めなければ、金石ですら壊すことができる」(『荀子』勧学篇)とも言う。こうしたことは学問の効能ではないだろうか。
いま諸生は、口では聖人の典籍を朗読し、身では学校の教えを修得することになるが、三年経つころには小成できるであろう。それでいて、名声は広く伝わり、誉れは日々更新され、朋友はこの者を尊んで嬉しく思い、朝士はこの者を敬って感嘆するであろう。こうして州や府がそろって任命してくるので、〔自分で〕官職を選んで出仕できるであろう24原文「択官而仕」。「家貧親老者、不択官而仕」(『韓詩外伝』)をふまえた表現。。なんとすばらしいことではないか。一方で、華美な修飾を散りばめて美麗な詩文を著わし25原文「含章舒藻」。よく読めない。やけくそ気味に読んだ。、筆をふるって流れるように言葉をつづり、世情を記述し、奥深い隠微なことを探索し、不思議なことを究明し、揚雄や班固をして筆をしまわせ、董仲舒をして口を結ばせる、といったようなことに関しては、やはり才能をもつ人間だけの居場所であって、もとより凡人は存在しない。だが、一杯のひしゃく分の水を集めて江河(長江と黄河)をつくり、微細な塵を積み重ねてきわめて高い山よりも高くするには、志を立てずして、勤勉に励まずして、道理として成し遂げられるわけがない。諸生よ、もし世間の用事を絶ち、心を学問に集中させ、一つひとつを積み重ねてこれ(学問)を貫き続け、一歩一歩を積み重ねてこれを進めていけば、〔進捗が〕遅かったり速かったり、あるいは〔始めたのが〕先だったり後だったりするのみで、停滞して開通しないことがあろうか、遠く離れたまま到達しないことがあろうか。
このとき、祭酒が建物を新たに建てて礼を挙行するように求めたが、虞溥は言った、「君子が礼を挙行するのに、決まった場所はない。ゆえに孔子は矍相の畑で射礼をおこない(『礼記』射義篇)、礼を大樹の下でおこなったのである(『史記』巻四七、孔子世家)。ましてや今、学校は高大で広々とした建物だというのに」。
虞溥の政治は厳格であったが苛酷ではなく、風教がおおいに広まり、白いカラスが郡の庁舎に集ったことがあった。『春秋経伝』(左氏経伝?)に注釈をつけ、『江表伝』および文章詩賦数十篇を著わした。洛陽で卒した。享年六十二。子の虞勃は、長江を渡って元帝に『江表伝』を上呈すると、〔元帝は〕詔を下し、秘閣に収蔵するよう命じた。
陳寿・王長文・虞溥/司馬彪・王隠・虞預/孫盛・干宝・鄧粲・謝沈/習鑿歯・徐広/参考資料(修晋書詔、佚晋史一覧表ほか)
(2026/3/29:公開)
