巻八十二 列伝第五十二 司馬彪 王隠 虞預

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陳寿・王長文・虞溥司馬彪・王隠・虞預孫盛・干宝・鄧粲・謝沈習鑿歯・徐広参考資料(修晋書詔、佚晋史一覧表ほか)

司馬彪

 司馬彪は字を紹統といい、高陽王睦の長子である。家を出て宣帝の弟である敏のあとを継いだ1訳者が作成した宗室伝の系図を参照されたい。宣帝には弟がたくさんいるが、そのうちの一人である進の子が高陽王である。つまり、敏は司馬彪から見て祖父の世代に当たる人物である。。若いころから学問に励み、倦むことがなかったが、女好きで、素行が悪かったので、高陽王から叱責されていた。そのため、〔高陽王の〕後継者になれなかった。名義としては家から出て他家を継いだことになっているが、実際は司馬彪を廃嫡したのである。これにより、司馬彪は人付き合いをせず、学問に専念するようになった。それゆえ、多くの書籍を広く読むことができ、書物編集の仕事を成し遂げられたのである。最初は騎都尉に任じられた。泰始年間、秘書郎となり、〔ついで〕秘書丞に転じた。『荘子』に注釈をつけ、『九州春秋』を著わした。司馬彪は次のように考えていた2以下は『続漢書』の序文に相当する文章から引用したものではないかと思われる。

 先王は史官を設置することによって時事を記録し、善悪を記載することによって善を勧めて悪を懲らし、世を教導する要点を集めたのであった。このため、『春秋』が整えられていなかったので、孔子がこれを整理し、関雎の詩楽が乱れていたので、師摯がこれを整えたのである3「関雎」は『毛詩』の篇名。『論語』泰伯篇に「子曰、師摯之始関雎之乱、洋洋乎盈耳哉」とあり、『論語集解』に「鄭曰、師摰、魯大師之名。始、猶首也。周道衰微、鄭衛之音作、正楽廃而失節。魯大師摰、識関雎之声、而首理其乱、有洋洋盈耳、聴而美之」とある。この古注の読み方は、現代で一般的な読み方とはかなり異なる。。前代の哲人は、どうしてこのような煩瑣なことを好んでおこなったのだろうか。思うに、やむをえなかったからである。漢氏が中興してから建安に至るまでの忠臣や義士はすでに著述されているが4原文「忠臣義士、亦以昭著」。「昭著」は「明白なさま」の意味で取るのがふつうだが、ここでは「記述する」の意味で取った。「著」が「記す」の意味をもつように、「明らかにする」ことは「記述する」ことに通じているのではないだろうか。、時に良史はなく、記述は煩雑である5司馬彪がここで特に念頭に置いているのは『漢記』(『東観漢記』)であろう。。譙周が冗長な字句を削って整理を済ませたとはいえ、それでもまだ完全ではなく、安帝・順帝以降は欠落が多い6中華書局と和刻本に従って、ここまでを司馬彪の「以為」(考え)の内容と区切って読んだが、「やむをえなかったからである」までで区切る読み方もできそうである。

そこで司馬彪はたくさんの書物を研究し、わかったことをつづり合わせた。世祖(光武帝)から書き起こして孝献帝で終わり、二百年間を編集し、十二代を記録し、上下をつなぎまとめ、さまざまな出来事を広く連結させ、紀・志・伝の合計八十篇を作成し、『続漢書』と名づけた7志のみが現存。北宋時代、范曄『後漢書』の欠を補うため、本書の志を付して合刻した。以降、范曄『後漢書』はこの体裁が通例となり、その結果、志がこんにちに伝わったのである。。泰始のはじめ、武帝がみずから南郊を祀ろうとすると、司馬彪は上疏して議を決定づけた8原文「定議」。祭祀の詳細についての議で司馬彪の意見が採用されたということであろうか。。その議の言葉は郊祀志に記してある9唐修『晋書』にあるのは「礼志」である。かつ、礼志にこれに該当する議は掲載されていないという。中華書局校勘記を参照。。のちに散騎侍郎に任じられた。恵帝の末年に卒した。享年六十余。
 これ以前、譙周は「司馬遷の『史記』は周・秦以前を記すに当たって、俗説や諸子百家の話を採用する場合があり、もっぱら正経(正当な書物)に依拠していない」と考えた。そこで、譙周は『古史考』二十五篇を作り、ことごとく旧典(古くから伝わる書物)に依拠することで、司馬遷の誤りを正した10上文の「正経」「旧典」は原文のままだが、これらは『春秋』などの経書を指すらしい。戸川芳郎[二〇〇二]、渡邉義浩[二〇一八]を参照。。さらに司馬彪は、譙周もまだ最善を尽くしていないと考え、『古史考』のなかの百二十二の記事を列挙して不適当とし、多く『汲冢紀年』(『竹書紀年』)の義11「義」は原文まま。どういうものを「義」と言っているのか、少々つかみがたい。戸川氏[二〇〇二]は「義例」すなわち「筆法」と解し、『竹書紀年』の書法に従って『古史考』を訂正したとする(注一七)。しかし、吉川忠夫氏[一九九九]は『竹書紀年』をはじめとする汲冢書が当時の学術界に与えたインパクトを詳述しているが、氏の行論を参照するかぎり、『竹書紀年』によって正されたのは、書法のような形式レベルに留まるものではないと思われるが。に依拠し〔て正し〕た。これも世に通行した。

王隠

 王隠は字を処叔といい、陳郡の陳の人である。代々寒素の家柄であった。父の王銓は歴陽令で、若くから学問を好み、著述の志を抱いていた。いつも晋の時事や功臣の事跡を個人的に記録していたが、完成前に卒した。王隠は儒素をもってみずからの節義を高潔に保ち12原文「以儒素自守」。「儒素」は南北朝期の正史の用例を参照するかぎり、「儒者的な素行」というニュアンスだと思われる。「自守」は自分の節義を守ること。「官に就かない(屈しない)」という意味で使われることも多く、本伝の場合もそのような意味あいだと思われる。、権貴と交際せず13原文「不交勢援」。『抱朴子』外篇、疾謬篇に「勢援之門」という用例があり、権貴のような意味であろう。、博学多識で、父の遺業を受け継ぎ、西都(西晋)の旧事について多くのことを熟知していた。
 建興年間、長江を渡った。丞相府の軍諮祭酒であった涿郡の祖納とは、平素よりたがいに尊敬しあっていた14以下に続く王隠と祖納とのエピソードは巻六二、祖逖伝附祖納伝にもおおすじ同内容で記載されている。。祖納は博奕を好んでいたので、〔王隠は〕いつも祖納を諫めて制止しようとしていた。祖納は言った、「ちょっとした憂さ晴らしにすぎないさ」。王隠、「そもそも、古人は機会にめぐりあえば、功労をもってみずからの道を達成し、めぐりあえなければ、言論をもってみずからの才を成就した。だから運勢が行き詰まらなかったのだ。現在、晋にはまだ史書がないが、天下はおおいに混乱し、過去の出来事〔の記録〕は失われてしまったから、〔史書の編纂は〕凡才に成し遂げられることではない。君は五都で成長し、四方で官に就き、中華も夷狄も、成功も失敗も、すべて見聞したであろうに、どうしてそれを記述して史書を編纂しないのかね。応仲遠は『風俗通』、崔子真は『政論』、蔡伯喈は『勧学篇』、史游は『急就章』を著わしたが、これらはいまなお世に通行しているからこそ、身は死しても名は不朽となったのである。彼らと同じ時代に当たった人がどうして少ないだろうか。最終的に〔多くの人の〕名が知られていないのは、〔人が少なかったからではなく〕すべて著作がないからである。ゆえに、君子は生涯を終えても名が知られないことを憂え(『論語』衛霊公篇)、『易』は『〔君子は〕みずから励んでやめない』と言っているのだ(『易』乾の象伝)。まして『国史(国の史官)は得失の足跡を明らかにする』〔ことによって憂いを発散させる〕というのに15原文「況国史明乎得失之跡」。『毛詩』大序を出典とする章句。「国史」は「正義」に従って史官の意味で取った。後文との接続具合が明らかではなく、どういう意味でこの言葉を言っているのか伝わりにくいが、文脈から推測すると、史書編纂によってストレスを発散させるということを言いたいのであろう。祖逖伝附祖納伝はこの文に続けて「俱取散愁、此可兼済」とあり、この解釈でよさそうである。それゆえ、訳文のように補った。、博奕をしなければ憂さが晴れないものなのだろうか」。祖納は嘆息して言った、「君が言っている道に喜びを見出していないわけではないさ。私の力が不足しているのだ」。そこで上疏して王隠を推薦した。元帝は、草創したばかりでやる事が多く、まだ史官を置く余裕がないことから、とうとう棚上げして返答しなかった。
 太興のはじめ、制度がしだいに整ってきたので、王隠と郭璞を召してともに著作郎とし、晋史の編纂を命じた。王敦の平定に協力した功績をもって、平陵郷侯の爵を賜わった。当時、著作郎の虞預は個人的に晋史を編纂していたが、東南で生まれ育ったため、中朝(中原)の事はわからなかった。そこでしばしば王隠に質問し、同時に王隠の〔執筆中の〕著書を借りてひそかにこれを書き写し、こうして知識がだんだん広がったのであった。こののち、〔虞預は〕かえって王隠を嫌うようになり、言葉や表情に出るほどであった。虞預は豪族であり、権貴とも付き合いがあったので、ともに朋党を組んで、王隠を排斥しようとした。ついに〔王隠は〕誹謗中傷によって免官に追い込まれ、家に帰った。〔王隠の家は〕貧乏で資産がなく、著書はとうとう完成しなかった。そこで、武昌に駐在している征西将軍の庾亮を頼った。庾亮は紙と筆を支給したので、著書はようやく完成し、闕門に参ってこれを上呈した16『史通』古今正史篇に「咸康六年、始詣闕奏上」とある。。王隠は著述を好んでいたが、文章は拙劣で、取っ散らかってまとまりがなかった。王隠の『晋書』で、整理されていて一読に値する部分は、すべて王隠の父が書いたもので、文体が乱雑していて、意味が理解できない部分は、王隠が書いたものである17王隠の『晋書』は現存しない。『隋書』経籍志によれば紀伝体で、九十三巻。唐・太宗の「修晋書詔」(中華書局標点本『晋書』附載)に「処叔不預於中興」とあり、これによれば西晋までを叙述範囲としたようである。ただし東晋・成帝ころの佚文があるようで、叙述範囲をそこまで押し下げようとする研究者もいるが、推論としては少々安易な域に留まる印象である(類書などは撰者名や書名を誤って引用していることも珍しくないし、成帝期の佚文が存在することは成帝までの本紀が備わっていたことをただちに意味しない)。ともあれ、王隠『晋書』の体裁上の特色としては、「志」を「記」という名称に変えたことが指摘されている(邱敏[二〇〇三]七五―七六頁)。例えば「記」のなかでよく知られているのは「地道記」である。散佚した晋史のなかでも比較的佚文が多く、晋代史研究者にとっては親しみがあるにちがいない。なお『史通』雑説篇中に「東晋之史、……王檀著書、是晋史之尤劣者」という劉知幾の酷評があり、この「王」を王隠とする解釈もある。本伝での散々な批評もふまえるとそのような解釈が生まれても致し方ないが、しかし『史通』のこの条は東晋史について述べているのだから、「王」は王韶之であろう。誤解なきよう、念のために付記した。。年齢七十余りにして、家で卒した。

〔王瑚:王隠の兄〕

 王隠の兄の王瑚は字を処仲という。若いころから勇武の精神を尊んでいた。成都王穎が〔趙王倫を討つために〕挙兵して洛陽へ向かうと、〔王瑚を〕冠軍将軍とした18巻五七、馬隆伝附馬咸伝で王瑚が長沙王乂の将と記されていることなどから、『晋書斠注』は本伝が成都王の将と記しているのは誤りであると論じている。。〔王瑚は〕功績を積み上げ、昇進を重ねて游撃将軍に移った。〔成都王の親征に失敗した恵帝が鄴に滞在しているあいだ、王瑚は〕司隷校尉の満奮や河南尹の周馥らとともに〔洛陽の〕大司馬門に駐屯し、宮殿を護衛した。そのころ、上官巳が横暴を振るっていたため、王瑚は満奮らと共謀してこれを排除しようとしたが、かえって〔上官巳に〕殺されてしまった。

虞預

 虞預は字を叔寧といい、徴士19朝廷から招かれながら、官職につかない学徳の高い人。(『漢辞海』)・虞喜の弟である20記載を欠いているが、出身は会稽余姚である。虞喜は巻九一、儒林伝に立伝されている。。もともとの名は茂であったが、明穆皇后の母(毌丘氏)の諱を犯してしまうことになったため、〔預に〕改めた21織田めぐみ氏[二〇二〇]は、成帝期当初に臨朝称制していた庾太后への配慮で諱を避けたのだとする。とすれば、虞預が改名したのは庾太后の臨朝期、すなわち成帝即位当初ということになろう。なお、直接的には関係ないかもしれないが、明穆皇后の母はやがて虞預が仕えることになる会稽太守・庾琛の妻でもある。。虞預は十二歳で父を亡くし、若いころから学問を好んで、文章の才能があった。余姚には、おのおのが朋党を組む慣習があった22原文「余姚風俗、各有朋党」。詳しい事情がわからないこともあってよく読めないが、余姚の行政機構内部に血縁や地縁などにもとづく派閥グループが複数存在しており、それが汚職の温床になっていたということであろうか。。宗人は虞預を県功曹とするよう共同で推薦し、〔朋党による?〕汚職を淘汰させようとした。虞預は従叔父に書簡を送って言った、「近ごろ聞くところによりますと、諸君(宗人)は預(わたし)を県庁に入れようとしているとの由。礼を献じて出仕するべし、政務に当たるべしというのでしたら、わけもなくやめることはできません23原文「便応委質、則当親事、不得徒已」。わからない。「便応委質、則当親事」はどうも同じことを繰り返し言っているだけのようである。ニュアンスとしては「就職したくないけど、就職せよというのであればそれは確かにそうだから仕方なしに就職しますけど」といったところであろうか。。ですが、預は愚鈍でありますけれども、分不相応にも思うところがございます。邪悪な朋党はたがいに監視しあい、反対してくる者はむらがりわくもの。にわかに過ちを犯してしまえば、多くの太鼓がいっせいに鳴るかのごとくです。ちょっとした過失が、最終的には甚大な過失になってしまいます。これは古人の明白な戒めであり、預がおおいに恐れていることなのです」24この書簡は意味を取るのが難しく、多く推測を交えて訳した。。とうとう虞預の言ったとおりになり、半年経たずして、ついに排斥されてしまった。
 会稽太守の庾琛は〔虞預を〕主簿に任命した。虞預は文書を上呈し、当時の政治の過ちを述べた。

 戦乱以来25原文「軍寇以来」。巻九三、外戚伝、庾琛伝によれば、庾琛が会稽太守になったのは長江を渡ってからなので、おそらく「永嘉の乱前後以来」の意味。、賦役が繁多ですが、そのうえ凶作の年にも当たり、百姓は失業しています。これは、徭役を軽くし、徴税を薄くし、刑罰を緩め、労役を減らす時なのです。〔ところが〕このごろ、長吏(県の長官)は軽々しく離着任することが多く、送故(前任者を送り出す)の一行や迎新(新任者を迎えに行く)の一行が道路に入り乱れています26送故迎新の風習については巻四三、王戎伝の訳注を参照。。迎えを受ける者は〔迎えの一団の〕船や馬が多勢でないことをただ心配し、送り出される者は〔送りの一団の〕吏卒がいつも少ないことをただ不満がっています。贅沢を尽くして消費を極めることを忠義と言い、煩瑣を減らして簡約に従うことを薄俗と呼び、〔こうした風潮を〕ますます模倣しあい、〔こうした傾向へ〕流れていってもとに戻らず、常防27原文まま。「礼有常典、法有常防」(巻三〇、刑法志)という用例に従えば、「普遍的な防止法」という意味だが、ここでは「常設の防止ルール」くらいの意味か。いずれにせよ、何らかの防止規則があったのだろう。高敏[二〇〇〇]二二頁も参照。があるとはいえ、遵守しようとしません。加えて、王宮への道路28原文は「王塗」。このころは元帝の即位前だと見られるので、「王塗」は中原への道路を指すのであろう。はまだ平定されておらず、あちこちで渋滞しているため、旧任を送る者は年数を費やし29原文は「送者経年」。送故の場合、旧任者を送り届けてから数年仕えることもあったらしい。高敏[二〇〇〇]を参照。本文は送故のみを言い、迎新には言及していないが、思うに迎新は新任者の到着と同時に戻ってくるであろうし、送故ほどには長引かなかったのであろう。、種まきや苗植えの機会をとこしえに失ってしまいます。一夫(成人男性ひとり)が耕作できなければ、十夫が食えません。まして、〔旧任を送る人数は〕いよいよ百をもって数えるようになっているのですから、〔農業への〕損害は数えきれません。愚考いたしますに、属県を取り締まるべきです。もし県令や県尉がこれよりも前に離任していた場合は30原文「若令尉先去官者」。この「先」は時間的な意味、すなわち取り締まりを実行するよりも前に離任している県令県尉については、という意味であろう。もちろん歴代の離任者すべてを対象に言っているのではなく、比較的最近の離任者を対象にしているのだと思われる。、〔送故の〕人船や吏侍をすべて列挙のうえ報告させ、〔その離任者が新たな滞在先に〕到着次第、法に従って数を減らし、公的にも私的にも適正となるようにさせるべきです。また、現在は〔朝廷の〕政務が多事多端で、重要な法制をとかく増設しており、特別に急を要する用事が生じるたびに、〔わが郡は〕督郵を立てて〔県に通知して〕います。おそらく、現在はわずかに全部で三十余人です。〔その人数をしのぐ規模の〕人船や吏侍をもし〔民から徴発せずに〕すべて官から供出しようとすると、いよいよその命を荷えないでしょう31原文「人船吏侍皆当出官、益不堪命」。よくわからない。この前後の文章もよく読めず、このあたりの文章は誤読しているかもしれない。。やはり〔送故の規模を〕減らし、厳重にこれの規制を設けるべきなのです。

庾琛はこの意見を評価し、即座にすべて施行した。〔会稽の新たな〕太守の紀瞻が到着すると、虞預はふたたび主簿となり、功曹史に転じた。孝廉に挙げられたが、応じなかった。安東将軍(元帝)府の従事中郎の諸葛恢や同じく参軍の庾亮らが虞預を推薦し、〔元帝は虞預を〕召して丞相府の行参軍、兼記室とした。母の喪に遭い〔、それを理由に辞職し〕、服喪が終わると、佐著作郎に任じられた。
 太興二年、甚大な旱魃があったので、〔元帝は〕詔を下して直言・直諫の士を求めた。虞預は上書して諫めた。

 大晋が受命してから、今年で五十余年になります。元康以降、王徳が損なわれはじめ、戎狄が中国に迫り、宗廟は焼かれて灰燼に帰し、千里にわたって炊事の煙がなくなり、華夏(中原)から冠帯の士がいなくなりました。天地が開闢し、史籍に記録が残るようになって以降、これほどまでに戦乱が極まったことはありません。
 陛下は聖なる徳と先見の知をそなえられ、高遠にもはるか先まで見通し、東南(江南)に鎮し、威厳のある名声と教化は遠方にまで及び、上天は〔陛下に〕心を配り、人も神も〔陛下の〕計画を助けておりますから、中興とは申しましても、実際は受命でありまして、夏の少康や周の宣王ではまことに喩えに及びません。しからば、「南風」の歌32「南風」の歌としてよく知られているのは舜のものだが(巻四一、劉寔伝の訳注を参照)、『毛詩』の周南や召南を指すとする例もあり、これらの歌は周の文王の徳を称えたものであるという(『後漢書』列伝一八、馮衍伝下の李賢注)。本文の場合はどちらとも判断しがたいが、いずれにしても名君の統治を賛美する歌という意味であろう。が書かれてしかるべきであるのに、衰退した風俗がいまだに改まらないのは、どうしてでしょうか。臣が思いますに、国家を治める要(かなめ)は優秀な人材を得ることにかかっており、優秀な人材を得る術(すべ)は抜擢にかかっています。もし登用するに足る人材であれば、仇や賤しい者であろうと必ず挙げなければなりません。殷の高宗や周の文王は補佐の人材を思うあまりに夢にまで現われ、岩穴に隠れていた者(傅説)を抜擢して宰相とし、釣りをしていた老人(臧の丈人)を戴いて師としました33殷の高宗については『史記』巻三、殷本紀、周の文王については『荘子』外篇、田子方篇を参照。。下は列国に至っても、やはりそのような故事があります。ゆえに、燕(昭王)は郭隗を重んじたので、三人の士が競ってやって来たのであり、魏(文侯)は車の横木に手をかけて段干木に敬礼していたので、〔魏を攻めようとした〕秦軍は退却しました34『史記』巻三四、燕召公世家、同巻四四、魏世家を参照。「三人の士(三士)」とは楽毅、鄒衍、劇辛のこと。段干木の逸話は『呂氏春秋』開春論、期賢などにも見える。。いま、天下は疲弊し、人士は少なくなっているとはいえ、十家の村落でも、必ずや忠信の人材がいます。世に俊才が乏しいというわけではなく、求めれば得ることができるのです。しかし、束帛35五匹の絹を束にした贈答品。貴人の招聘や祝儀不祝儀の際に用いた。(『漢辞海』)は〔隠士が棲まう〕田園にいまだ飾られず36原文「束帛未賁於丘園」。「賁」は「飾」の意。『易』賁の六五の爻辞「賁于丘園、束帛戔戔」にもとづく表現。隠者を招聘するには束帛を贈るのが古礼、と考えられていたらしい。張衡「東京賦」(『文選』巻三)の「聘丘園之耿絜、旅束帛之戔戔」の薛綜注に引く王粛の『易』注に「失位無応、隠処丘園。蓋蒙闇之人、道徳弥明、必有束帛之聘也。戔戔、委積之貌也」とある。また同、薛綜注に「耿、清也。旅、陳也。謂有清絜者也。言丘園中有隠士、貞絜清白之人、聘而用之。束帛、謂古招士必以束帛加璧於上」とある。、蒲輪37振動をふせぐため、ガマの葉で車輪を包んだ車。昔、天子の封禅のときや、かくれた賢者を招くときなどに用いた。(『漢辞海』)はこしきを止めたまま操縦されていません38よく知られた故事としては、漢の武帝が蒲輪で申公を召した話がある。『漢書』巻八八、儒林伝、申公伝を参照。。これが、おおいなる教化がゆきわたらず、太平和楽のなかにも不足があるゆえんなのです。

 虞預は、賊がまだ平定されておらず、良将が必要だと考え、さらに上疏して言った。

 臣はこう聞いております。太平の世では、教化は文を優先し、乱世を鎮める時運では、武でなければ勝利できない、と。ゆえに牧野の戦いでは、呂望は鉞を手にもち39『史記』巻三二、斉太公世家に、牧野の戦いのときではないが、そういう情景は描かれている。ちなみに『史記』によると、牧野の戦いで鉞を左手にもったのは周の武王である(巻四、周本紀)。、淮夷が反乱を起こしたときは、召伯が全権を委ねられて征伐し(『毛詩』大雅、江漢の詩序)、玁狁が暴乱を起こしたときは、衛青と霍去病が遠征したのでした。したがって、陰陽が調和できなければ、士40公・卿・大夫・士という序列における意味での士。つまり下位の序列の官人。を抜擢して宰相とし、三軍が勝利できなければ、兵卒を抜擢して将とするのです。漢帝は天下の平定を終えても、なお勇士を求めて四方を守らせようとしていました。〔例えば〕孝文帝の心は鉅鹿〔をかつて趙将がよく守った故事〕にあったので、馮唐が進言すると、〔過失を問われて太守を免じられていた〕魏尚がふたたび〔北辺の〕太守となりました41以上の話は『史記』巻一〇二、馮唐列伝を参照。。『詩』に「猛々しいもののふは、公侯を守る盾と城」(『毛詩』周南、兎罝)とうたわれていますが、忠勇な臣をどうして軽視できましょうか。まして、現在は中州が荒廃し、百人に一人も生き残らず、牧守は戎貊の族類でなければ、運良く禍乱から抜け出せた盗賊といったありさまです。陛下が即位し、その威勢は四方の辺境にまで広まっておりまして、それゆえ、これらの者どもを善に帰らせ、教化に向かわせてはいます。しかし獣のような心をもつ者どもは、軽薄で移り変わりやすいですし、羯虜はまだ滅びておらず、ますます〔かの者どもを〕安んずることを難しくさせています。〔実際、〕周撫や陳川はあいついでそむきました42周撫は彭城内史を授けられていた塢主、陳川は浚儀に駐留していた乞活。周撫は太興元年、すなわちこの上疏の前年に晋からそむき、同二年二月、蔡豹ら東晋軍に討たれた(巻六、元帝紀、太興元年、同二年、巻八一、蔡豹伝、同、劉遐伝)。陳川は当初、祖逖の譙攻略に協力していたが、のちに不和となり、太興二年に晋からそむいて後趙に帰した。祖逖はこれを討つために北上し、以後、陳川の塢壁で後趙軍と戦闘を繰り返した(元帝紀、太興二年、巻六二、祖逖伝、巻一〇四、石勒載記上)。元帝紀によれば、陳川は太興二年四月にそむいたというので、この上疏はそれ以降のものであろう。。徐龕は傲慢狡猾で、忌避するものは何もなく、兵を放って掠奪し、その罪はすでに明白です43徐龕は泰山太守。塢主であったと見られる。周撫の討伐に功を挙げたが、思うような評価を得られなかったため、怒って太興二年四月にそむき、後趙に帰した。元帝紀、太興二年、蔡豹伝を参照。
 葛伯は道にもとっていましたが、殷の湯王はこれに牛を贈り(『孟子』滕文公章句下)、漢の呉王の劉濞は礼にそむいていましたが、〔文帝は〕脇息と杖を下賜しました(『史記』巻一〇六、呉王濞列伝)。悪事が実行され、罪が明白となって、ようやく誅殺を加えたのでした。徐龕のごとき小悪人は、滅ぼすまでもありません。しかし、あらかじめ不測の事態に備えておくというのは、いにしえの良き教えであります。まして予想される事態であるならば、なおさら防備を設けておくべきではないでしょうか。防備を設ける策としては、良将を得ておくのがよいでしょう。将は前もって選んでおかなければ、敵に対応しがたいからです。〔現在、〕寿春には鎮将がおらず、祖逖は孤立しており、前方には強力な賊虜がいて、後方には援護がなく、〔祖逖には〕知力がそなわっているとはいえ、長くもちこたえることはできないでしょう44このころの祖逖は、陳川の塢壁を争って後趙軍と戦い、一進一退していた時期であると思われる。祖逖伝、石勒載記上を参照。。陛下に願わくは、この件について群公に諮問し、多くの人材のなかから広く推挙するようお命じください。もし当該分野45原文「当局」。こういう意味で合っているのか心もとない。に秀でた人材がおり、きっとその任に適しているのであれば、激励して命を惜しませないようにするのがよいでしょう。位の低い人材も広く選考し、有能な者がいた場合には、手厚く待遇を加えれば、身を惜しませなくするのに十分でしょう。むかし、英布は〔漢の高祖に初めて会ったときに〕軽んじられたため、憤って自殺しようとしましたが、退出して〔宿舎に〕供え置かれている物を見て〔感激して〕から、力を尽くすようになりました(『史記』巻九一、黥布列伝)。礼遇の恩を手厚くしないわけにまいりましょうか。
 山河の高さや深さは塵や露で増やせるものではなく、神のごときご見識は暗愚な人間に測れるものではない、ということはまことに承知しております。しかし、匹夫(庶民の男性)や未亡人でさえ、憂国の発言をすることがあります。まして、臣は朝堂の末席に身を置き、冠帯の栄光にあずかっているのですから、なおさら申し上げずにいられましょうか。

琅邪国の常侍に転じ、秘書丞、著作郎に移った。
 咸和のはじめ、夏に旱魃があったため、詔を百官に下し、おのおのに雨を降らせるための意見を述べるよう命じた。虞預の議に言う。

 臣が聞くところでは、天道は信を、地道は誠を貴びます。誠や信とは、けだし二儀が万物を生育したり、人君が民衆を保育したりするためのものです。そのゆえに、殺戮は雷に擬えられ、推恩(恩恵の施し)は雲雨に喩えられ、刑罰は必信にかかっており、褒賞は公平を貴ぶのです46以上の文の論理展開はよく把握できなかった。また典故も不詳。。臣が聞きますには、近ごろは刑罰がますます増加し、権力がある者であれば〔親族や関係者を〕広く連行してまとめて逮捕し、長期間拘留しており、後援がない者であれば拷問を厳しくし、必ず重罪(死罪)に判定しているとか。このため、百姓は悲しんで号泣しており、和気(和やかな空気)を損なっています。臣が愚考しますに、軽罪や耐罪(ほおひげを剃る刑罰)の罪人は、すみやかに判決を下して釈放するべきです47原文「軽刑耐罪、宜速決遣」。「決」がどういう意味での用語なのかわからない。拘留している罪人で罪が軽い者は、拘留を長引かせず、さっさと刑罰を画定してしまいましょう、ということであろうか。。殊死や重罪の罪人は、〔……欠文か?……〕。これに加えて願わくは48原文「軽刑耐罪、宜速決遣、殊死重囚、重加以請(。寛徭息役、務遵節倹、……)」。中華書局は「軽刑耐罪、宜速決遣、殊死重囚、重加以請。寛徭息役、務遵節倹、……」と句読し、「重加以請」は「殊死重囚」と接続する句と読んでいる。和刻本も同様である。文のリズムから考えてもそのように読みたいところなのだが、このように読んでしまうと「殊死重囚」と「重加以請」の意味的なつながりがはっきりしない。さらに、後続の「寛徭息役、務遵節倹、……」はここまで述べてきた内容とは一転した話になっており、文章の流れとして唐突である。むしろ「寛徭息役、務遵節倹、……」以下の話を「重加以請」というほうが意味的にはしっくりくる。思うに、「殊死重囚」に本来かかっていた句が列伝編集時に誤って欠落してしまったのではないだろうか。訳者としてはそのように読んでおきたい。、徭役を休止し、努めて倹約に従い、朝臣に自己の研鑽を奨励し、人民おのおのに〔善悪を教示して〕禁忌を知らしめなさいますよう49原文「使各知禁」。『孝経』三才章「示之以好悪、而民知禁」をふまえた表現か。ひとまず「各」は人民個々人という意味で解釈した。
 およそ、老牛は祭祀のいけにえに当てませんし、礼には常制(普遍的なルール)があります。しかし、このごろの百官は拝授50原文まま。官職や位の授与をいう。授与時に何らかの祭儀があるのだろう。や祖贈51原文まま。犠牲を捧げる祭祀のこと。がますます誇大化しており、子牛の屠殺はややもすれば十数匹にのぼり、酒に酔って溺れ、まったく限度がなく、財貨を損ない、風俗を傷つけていて、損失は少なくありません。
 むかし、殷の中宗(太戊)は徳を修めて桑と穀(コウゾ)の災異を消滅させ(『史記』巻三、殷本紀)、宋の景公は立派な言葉によって熒惑の異変を退け(『史記』巻三八、宋微子世家)、楚に災異が起こらないことを荘王は恐れました(『説苑』君道篇)。盛徳の君主でも、災異が起こらなかったという者は一人もいません。災異に信順をもって応じたことで、天祐が手厚く高まったのです。臣の学識は浅はかで、言葉は採用するに足りません〔が、あえて申し述べた次第です〕。

王含の平定に従い、西郷侯の爵を賜わった52王含は王敦の兄。明帝の世に王敦が挙兵した際、病気中の王敦に代わって王敦軍の元帥を務めたが、朝廷軍に敗れ、その後再起を図るも、ふたたび蘇峻らに敗れた。逃れて従弟の荊州刺史・王舒を頼ったが、かえって王舒に暗殺された。『資治通鑑』の時系列によれば、すべて太寧二年中の出来事である。巻六、明帝紀、太寧二年、巻七六、王舒伝、巻九八、王敦伝を参照。直前に掲載されている議は咸和(成帝の年号)のときのものとされているので、時系列が前後している。。蘇峻が反乱を起こしたとき、虞預はその前に休暇を取って〔会稽の〕家に帰っていた。会稽太守の王舒が要請して諮議参軍とした。蘇峻が平定されると、爵を平康県侯に進められ、散騎侍郎に移され、著作郎はもとのとおりとされた。散騎常侍に任じられたが、もとのまま著作郎を領した。老年をもって〔引退して〕家に帰り、家で卒した。
 虞預は平素より経史(経学と史学)を好み、玄虚の学を嫌っていた。阮籍が裸になったことを論じて、これを伊川のざんばら髪の故事になぞらえ53『左伝』僖公二十二年が出典。周の平王が洛邑へ東遷したとき、周の大夫の辛有が伊川に行ったところ、ざんばら髪になって野外で祭祀をおこなっている人を見かけ、「百年経たずにここは戎になるだろう。礼がもう滅んでしまっている」と言った。僖公二十二年になって、秦と晋が陸渾の戎を伊川に移し、その予言のとおりとなった。というエピソード。、胡虜が中国に満ちあふれた原因とし、衰周の時代よりもひどいと見なした。『晋書』四十余巻54現存しない。『隋書』経籍志によれば紀伝体で、叙述範囲は明帝まで。佚文が残っている。王隠伝でのエピソードから、王隠『晋書』を剽窃したとの疑惑をかけられることもあるが、剽窃を断定できるほどの根拠はないであろう。唐燮軍[二〇一四]第三章も参照。、『会稽典録』二十篇、『諸虞伝』十二篇を著わし、みな世に通行した。著述した詩賦、碑誄、論難は数十篇あった。

陳寿・王長文・虞溥司馬彪・王隠・虞預孫盛・干宝・鄧粲・謝沈習鑿歯・徐広参考資料(修晋書詔、佚晋史一覧表ほか)

(2026/3/29:公開)

  • 1
    訳者が作成した宗室伝の系図を参照されたい。宣帝には弟がたくさんいるが、そのうちの一人である進の子が高陽王である。つまり、敏は司馬彪から見て祖父の世代に当たる人物である。
  • 2
    以下は『続漢書』の序文に相当する文章から引用したものではないかと思われる。
  • 3
    「関雎」は『毛詩』の篇名。『論語』泰伯篇に「子曰、師摯之始関雎之乱、洋洋乎盈耳哉」とあり、『論語集解』に「鄭曰、師摰、魯大師之名。始、猶首也。周道衰微、鄭衛之音作、正楽廃而失節。魯大師摰、識関雎之声、而首理其乱、有洋洋盈耳、聴而美之」とある。この古注の読み方は、現代で一般的な読み方とはかなり異なる。
  • 4
    原文「忠臣義士、亦以昭著」。「昭著」は「明白なさま」の意味で取るのがふつうだが、ここでは「記述する」の意味で取った。「著」が「記す」の意味をもつように、「明らかにする」ことは「記述する」ことに通じているのではないだろうか。
  • 5
    司馬彪がここで特に念頭に置いているのは『漢記』(『東観漢記』)であろう。
  • 6
    中華書局と和刻本に従って、ここまでを司馬彪の「以為」(考え)の内容と区切って読んだが、「やむをえなかったからである」までで区切る読み方もできそうである。
  • 7
    志のみが現存。北宋時代、范曄『後漢書』の欠を補うため、本書の志を付して合刻した。以降、范曄『後漢書』はこの体裁が通例となり、その結果、志がこんにちに伝わったのである。
  • 8
    原文「定議」。祭祀の詳細についての議で司馬彪の意見が採用されたということであろうか。
  • 9
    唐修『晋書』にあるのは「礼志」である。かつ、礼志にこれに該当する議は掲載されていないという。中華書局校勘記を参照。
  • 10
    上文の「正経」「旧典」は原文のままだが、これらは『春秋』などの経書を指すらしい。戸川芳郎[二〇〇二]、渡邉義浩[二〇一八]を参照。
  • 11
    「義」は原文まま。どういうものを「義」と言っているのか、少々つかみがたい。戸川氏[二〇〇二]は「義例」すなわち「筆法」と解し、『竹書紀年』の書法に従って『古史考』を訂正したとする(注一七)。しかし、吉川忠夫氏[一九九九]は『竹書紀年』をはじめとする汲冢書が当時の学術界に与えたインパクトを詳述しているが、氏の行論を参照するかぎり、『竹書紀年』によって正されたのは、書法のような形式レベルに留まるものではないと思われるが。
  • 12
    原文「以儒素自守」。「儒素」は南北朝期の正史の用例を参照するかぎり、「儒者的な素行」というニュアンスだと思われる。「自守」は自分の節義を守ること。「官に就かない(屈しない)」という意味で使われることも多く、本伝の場合もそのような意味あいだと思われる。
  • 13
    原文「不交勢援」。『抱朴子』外篇、疾謬篇に「勢援之門」という用例があり、権貴のような意味であろう。
  • 14
    以下に続く王隠と祖納とのエピソードは巻六二、祖逖伝附祖納伝にもおおすじ同内容で記載されている。
  • 15
    原文「況国史明乎得失之跡」。『毛詩』大序を出典とする章句。「国史」は「正義」に従って史官の意味で取った。後文との接続具合が明らかではなく、どういう意味でこの言葉を言っているのか伝わりにくいが、文脈から推測すると、史書編纂によってストレスを発散させるということを言いたいのであろう。祖逖伝附祖納伝はこの文に続けて「俱取散愁、此可兼済」とあり、この解釈でよさそうである。それゆえ、訳文のように補った。
  • 16
    『史通』古今正史篇に「咸康六年、始詣闕奏上」とある。
  • 17
    王隠の『晋書』は現存しない。『隋書』経籍志によれば紀伝体で、九十三巻。唐・太宗の「修晋書詔」(中華書局標点本『晋書』附載)に「処叔不預於中興」とあり、これによれば西晋までを叙述範囲としたようである。ただし東晋・成帝ころの佚文があるようで、叙述範囲をそこまで押し下げようとする研究者もいるが、推論としては少々安易な域に留まる印象である(類書などは撰者名や書名を誤って引用していることも珍しくないし、成帝期の佚文が存在することは成帝までの本紀が備わっていたことをただちに意味しない)。ともあれ、王隠『晋書』の体裁上の特色としては、「志」を「記」という名称に変えたことが指摘されている(邱敏[二〇〇三]七五―七六頁)。例えば「記」のなかでよく知られているのは「地道記」である。散佚した晋史のなかでも比較的佚文が多く、晋代史研究者にとっては親しみがあるにちがいない。なお『史通』雑説篇中に「東晋之史、……王檀著書、是晋史之尤劣者」という劉知幾の酷評があり、この「王」を王隠とする解釈もある。本伝での散々な批評もふまえるとそのような解釈が生まれても致し方ないが、しかし『史通』のこの条は東晋史について述べているのだから、「王」は王韶之であろう。誤解なきよう、念のために付記した。
  • 18
    巻五七、馬隆伝附馬咸伝で王瑚が長沙王乂の将と記されていることなどから、『晋書斠注』は本伝が成都王の将と記しているのは誤りであると論じている。
  • 19
    朝廷から招かれながら、官職につかない学徳の高い人。(『漢辞海』)
  • 20
    記載を欠いているが、出身は会稽余姚である。虞喜は巻九一、儒林伝に立伝されている。
  • 21
    織田めぐみ氏[二〇二〇]は、成帝期当初に臨朝称制していた庾太后への配慮で諱を避けたのだとする。とすれば、虞預が改名したのは庾太后の臨朝期、すなわち成帝即位当初ということになろう。なお、直接的には関係ないかもしれないが、明穆皇后の母はやがて虞預が仕えることになる会稽太守・庾琛の妻でもある。
  • 22
    原文「余姚風俗、各有朋党」。詳しい事情がわからないこともあってよく読めないが、余姚の行政機構内部に血縁や地縁などにもとづく派閥グループが複数存在しており、それが汚職の温床になっていたということであろうか。
  • 23
    原文「便応委質、則当親事、不得徒已」。わからない。「便応委質、則当親事」はどうも同じことを繰り返し言っているだけのようである。ニュアンスとしては「就職したくないけど、就職せよというのであればそれは確かにそうだから仕方なしに就職しますけど」といったところであろうか。
  • 24
    この書簡は意味を取るのが難しく、多く推測を交えて訳した。
  • 25
    原文「軍寇以来」。巻九三、外戚伝、庾琛伝によれば、庾琛が会稽太守になったのは長江を渡ってからなので、おそらく「永嘉の乱前後以来」の意味。
  • 26
    送故迎新の風習については巻四三、王戎伝の訳注を参照。
  • 27
    原文まま。「礼有常典、法有常防」(巻三〇、刑法志)という用例に従えば、「普遍的な防止法」という意味だが、ここでは「常設の防止ルール」くらいの意味か。いずれにせよ、何らかの防止規則があったのだろう。高敏[二〇〇〇]二二頁も参照。
  • 28
    原文は「王塗」。このころは元帝の即位前だと見られるので、「王塗」は中原への道路を指すのであろう。
  • 29
    原文は「送者経年」。送故の場合、旧任者を送り届けてから数年仕えることもあったらしい。高敏[二〇〇〇]を参照。本文は送故のみを言い、迎新には言及していないが、思うに迎新は新任者の到着と同時に戻ってくるであろうし、送故ほどには長引かなかったのであろう。
  • 30
    原文「若令尉先去官者」。この「先」は時間的な意味、すなわち取り締まりを実行するよりも前に離任している県令県尉については、という意味であろう。もちろん歴代の離任者すべてを対象に言っているのではなく、比較的最近の離任者を対象にしているのだと思われる。
  • 31
    原文「人船吏侍皆当出官、益不堪命」。よくわからない。この前後の文章もよく読めず、このあたりの文章は誤読しているかもしれない。
  • 32
    「南風」の歌としてよく知られているのは舜のものだが(巻四一、劉寔伝の訳注を参照)、『毛詩』の周南や召南を指すとする例もあり、これらの歌は周の文王の徳を称えたものであるという(『後漢書』列伝一八、馮衍伝下の李賢注)。本文の場合はどちらとも判断しがたいが、いずれにしても名君の統治を賛美する歌という意味であろう。
  • 33
    殷の高宗については『史記』巻三、殷本紀、周の文王については『荘子』外篇、田子方篇を参照。
  • 34
    『史記』巻三四、燕召公世家、同巻四四、魏世家を参照。「三人の士(三士)」とは楽毅、鄒衍、劇辛のこと。段干木の逸話は『呂氏春秋』開春論、期賢などにも見える。
  • 35
    五匹の絹を束にした贈答品。貴人の招聘や祝儀不祝儀の際に用いた。(『漢辞海』)
  • 36
    原文「束帛未賁於丘園」。「賁」は「飾」の意。『易』賁の六五の爻辞「賁于丘園、束帛戔戔」にもとづく表現。隠者を招聘するには束帛を贈るのが古礼、と考えられていたらしい。張衡「東京賦」(『文選』巻三)の「聘丘園之耿絜、旅束帛之戔戔」の薛綜注に引く王粛の『易』注に「失位無応、隠処丘園。蓋蒙闇之人、道徳弥明、必有束帛之聘也。戔戔、委積之貌也」とある。また同、薛綜注に「耿、清也。旅、陳也。謂有清絜者也。言丘園中有隠士、貞絜清白之人、聘而用之。束帛、謂古招士必以束帛加璧於上」とある。
  • 37
    振動をふせぐため、ガマの葉で車輪を包んだ車。昔、天子の封禅のときや、かくれた賢者を招くときなどに用いた。(『漢辞海』)
  • 38
    よく知られた故事としては、漢の武帝が蒲輪で申公を召した話がある。『漢書』巻八八、儒林伝、申公伝を参照。
  • 39
    『史記』巻三二、斉太公世家に、牧野の戦いのときではないが、そういう情景は描かれている。ちなみに『史記』によると、牧野の戦いで鉞を左手にもったのは周の武王である(巻四、周本紀)。
  • 40
    公・卿・大夫・士という序列における意味での士。つまり下位の序列の官人。
  • 41
    以上の話は『史記』巻一〇二、馮唐列伝を参照。
  • 42
    周撫は彭城内史を授けられていた塢主、陳川は浚儀に駐留していた乞活。周撫は太興元年、すなわちこの上疏の前年に晋からそむき、同二年二月、蔡豹ら東晋軍に討たれた(巻六、元帝紀、太興元年、同二年、巻八一、蔡豹伝、同、劉遐伝)。陳川は当初、祖逖の譙攻略に協力していたが、のちに不和となり、太興二年に晋からそむいて後趙に帰した。祖逖はこれを討つために北上し、以後、陳川の塢壁で後趙軍と戦闘を繰り返した(元帝紀、太興二年、巻六二、祖逖伝、巻一〇四、石勒載記上)。元帝紀によれば、陳川は太興二年四月にそむいたというので、この上疏はそれ以降のものであろう。
  • 43
    徐龕は泰山太守。塢主であったと見られる。周撫の討伐に功を挙げたが、思うような評価を得られなかったため、怒って太興二年四月にそむき、後趙に帰した。元帝紀、太興二年、蔡豹伝を参照。
  • 44
    このころの祖逖は、陳川の塢壁を争って後趙軍と戦い、一進一退していた時期であると思われる。祖逖伝、石勒載記上を参照。
  • 45
    原文「当局」。こういう意味で合っているのか心もとない。
  • 46
    以上の文の論理展開はよく把握できなかった。また典故も不詳。
  • 47
    原文「軽刑耐罪、宜速決遣」。「決」がどういう意味での用語なのかわからない。拘留している罪人で罪が軽い者は、拘留を長引かせず、さっさと刑罰を画定してしまいましょう、ということであろうか。
  • 48
    原文「軽刑耐罪、宜速決遣、殊死重囚、重加以請(。寛徭息役、務遵節倹、……)」。中華書局は「軽刑耐罪、宜速決遣、殊死重囚、重加以請。寛徭息役、務遵節倹、……」と句読し、「重加以請」は「殊死重囚」と接続する句と読んでいる。和刻本も同様である。文のリズムから考えてもそのように読みたいところなのだが、このように読んでしまうと「殊死重囚」と「重加以請」の意味的なつながりがはっきりしない。さらに、後続の「寛徭息役、務遵節倹、……」はここまで述べてきた内容とは一転した話になっており、文章の流れとして唐突である。むしろ「寛徭息役、務遵節倹、……」以下の話を「重加以請」というほうが意味的にはしっくりくる。思うに、「殊死重囚」に本来かかっていた句が列伝編集時に誤って欠落してしまったのではないだろうか。訳者としてはそのように読んでおきたい。
  • 49
    原文「使各知禁」。『孝経』三才章「示之以好悪、而民知禁」をふまえた表現か。ひとまず「各」は人民個々人という意味で解釈した。
  • 50
    原文まま。官職や位の授与をいう。授与時に何らかの祭儀があるのだろう。
  • 51
    原文まま。犠牲を捧げる祭祀のこと。
  • 52
    王含は王敦の兄。明帝の世に王敦が挙兵した際、病気中の王敦に代わって王敦軍の元帥を務めたが、朝廷軍に敗れ、その後再起を図るも、ふたたび蘇峻らに敗れた。逃れて従弟の荊州刺史・王舒を頼ったが、かえって王舒に暗殺された。『資治通鑑』の時系列によれば、すべて太寧二年中の出来事である。巻六、明帝紀、太寧二年、巻七六、王舒伝、巻九八、王敦伝を参照。直前に掲載されている議は咸和(成帝の年号)のときのものとされているので、時系列が前後している。
  • 53
    『左伝』僖公二十二年が出典。周の平王が洛邑へ東遷したとき、周の大夫の辛有が伊川に行ったところ、ざんばら髪になって野外で祭祀をおこなっている人を見かけ、「百年経たずにここは戎になるだろう。礼がもう滅んでしまっている」と言った。僖公二十二年になって、秦と晋が陸渾の戎を伊川に移し、その予言のとおりとなった。というエピソード。
  • 54
    現存しない。『隋書』経籍志によれば紀伝体で、叙述範囲は明帝まで。佚文が残っている。王隠伝でのエピソードから、王隠『晋書』を剽窃したとの疑惑をかけられることもあるが、剽窃を断定できるほどの根拠はないであろう。唐燮軍[二〇一四]第三章も参照。
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