凡例
- 文中の〔 〕は訳者による補語、( )は訳者の注釈、1、2……は注を示す。番号を選択すれば注が開く。
- 文中の[ ]は文献の引用を示す。書誌情報は引用文献一覧のページを参照のこと。
- 注で唐修『晋書』を引用するときは『晋書』を省いた。
陳寿・王長文・虞溥/司馬彪・王隠・虞預/孫盛・干宝・鄧粲・謝沈/習鑿歯・徐広/参考資料(修晋書詔、佚晋史一覧表ほか)
諸家列伝
『宋書』巻五〇、劉康祖伝(抄)
劉康祖は彭城の呂の人である。代々、京口に居住していた。伯父の劉簡之は才幹があり、高祖(宋の武帝)から面識を得ていた。……劉簡之の弟の劉謙之は学問を好み、『晋紀』二十巻を編纂し、義煕の末に始興相となった。
『宋書』巻六〇、王韶之伝(抄)
王韶之は字を休泰といい、琅邪の臨沂の人である。曾祖父の王廙は晋の驃騎将軍、祖父の王羨之は鎮軍将軍府の掾、父の王偉之は本国(琅邪国)の郎中令であった。
……。王偉之は若くから志を抱いており、同時代の詔命や表奏はそのたびにみずから書写し、太元年間(孝武帝の年号)や隆安年間(安帝の年号)の時事は、細大を問わずすべて採録していた。王韶之はこの資料を活用して私的に『晋安帝陽秋』を編纂した。完成すると、世の人々は「〔王韶之は〕史職に就くべきだ」と評し、すぐに著作佐郎に任じられ、以後の時事も続修するよう命じられた1『宋書』巻六〇、荀伯子伝に「著作郎徐広重其才学、挙伯子及王韶之並佐郎、助撰晋史及著桓玄等伝」とあり、王韶之が著作佐郎に就いたのは徐広が晋史の編纂を命じられてから、すなわち義煕二年以降ではないかと思われる。そうだとすれば、王韶之の『晋安帝陽秋』は徐広が晋史編纂を命じられた段階ですでに成書されていたということになる。。〔『晋安帝陽秋』の著述は〕義煕九年までで終わった2王韶之の晋史は義煕九年までの記述で終わっていた、という意味だと考えられる。『文心雕龍』史伝篇に「王韶続末而不終」とある。別解として、王韶之はこののち義煕十一年にいったん史官を離れていると見られるので、そのときまでに記述できた分が九年まで、とも読めなくもない。王韶之はのち恭帝時代に領著作となるが、韓傑・苑鑫氏[二〇一九]はこのときに晋史の執筆を再開したと解釈している。しかし本伝の構成もろもろを考えると、かりに恭帝時代に執筆を再開したとしても、最終的に彼の晋史は義煕九年までで終わっている、というのが本伝の言わんとするところであるように思われる。。出来事の叙述に優れ、評論は一読に値し、後世の佳史(秀でた史書)であった3原文「為後代佳史」。たぶん「まるで後世の人が書いたような歴史書であった」という意味ではないか。桓玄の簒奪という大事件があったとはいえ、安帝はまだ存命中である。歴史の記録を付けるだけならまだしも、史籍にまとめるのは本来まだ早すぎたのではないだろうか。だから「後世に書かれたような良史」という評判になったのだと解釈しておきたい。。
- 王韶之の晋史は、本伝では「晋安帝陽秋」と記されているが、『隋書』経籍志だと「晋紀」と記録されており、類書などでは多く「晋安帝紀」と称されている。一般的にはすべて同一書と考えられている。とはいえ、成立当初は安帝がまだ存命中であったのだから、もちろん当初から「安帝陽秋」などという名称であったはずはない。当初の成立年代については訳注にも記したように、徐広が晋史編纂を命じられたとき(義煕二年)よりも早く、桓玄の簒奪か安帝の反正を契機としてまとめたのであろうと想像される。本伝の記述からすると、孝武帝期も叙述されていたかのようにも読めるが、実際のところ、王韶之の晋史が成立した当初の時点においては、廃帝~孝武帝期を叙述範囲とする徐広の晋史はまだ成っていなかった。そのため、当初は孝武帝期も叙述していたが、のちに徐広の晋史が編纂されていく過程で、孝武帝期の記述はそちらへ移管されていった、という可能性も十分ありうる。ともあれ、最終的には安帝期のみ(義煕九年まで)を叙述したと考えられる。
『宋書』巻六七、謝霊運伝(抄)
太祖(文帝)が即位し、徐羨之らを誅殺すると、謝霊運を中央に召して秘書監としたが、謝霊運は二度召されても応じなかった。主上は光禄大夫の范泰に謝霊運への書信を書かせ、応じるように手厚く勧めさせたので、ようやく起家して職に就いた。〔朝廷は謝霊運に〕秘閣の蔵書を整理させ、残欠を補わせた。また、晋氏一代のはじまりから終わりに至るまでについて、ついに一家の史書が存在しないことから、〔朝廷は〕謝霊運に命じて晋史を編纂させた。大筋はほぼできあがったが、史書は結局完成しなかった。
『南史』巻七二、文学伝、檀超伝附檀道鸞伝
檀超の叔父の檀道鸞は字を万安という。国子博士、永嘉太守を歴任した。檀超同様、学問を修めていた。『続晋陽秋』二十巻を編纂した。
『南史』巻三三、徐広伝附郗紹伝
〔徐広が『晋紀』を編纂した〕当時、郗紹も『晋中興書』を作っており、〔その草稿を〕しばしば何法盛に見せていた。何法盛はこの書物をわが物にしたいと思い、郗紹に言った、「卿は名声も位も高く、この書物の完成を俟っても、これ以上栄誉を増大させることはできません。私は寒士で、世に無名です。袁宏や干宝といった人々のように、幸いにも著書があれば、後世に名を伝えられましょう。ひとにあげちゃいましょうよ」。郗紹はあげなかった。『晋中興書』が完成すると、書斎の書箱の中にしまっておいた。何法盛が郗紹を訪ねたとき、郗紹は不在だったので、まっすぐ書斎に入り、『晋中興書』を盗んでしまった。郗紹は『晋中興書』を失ってしまったうえに、副本もなかったため、ついに何氏の『晋中興書』を世に広めてしまったのである。
- さすがにデタラメな話であろう。ただそれなりに有名なエピソードでもあるので、ここに列挙しておいた。
- 何法盛の『晋中興書』は形式面で革新性があった模様である。すなわち紀・表・志・伝を典・注・説・録に改めたとされる(章宗源『隋書経籍志考証』)。「典」については、何之元『梁典』の序(『陳書』巻三四)によると、何法盛は『尚書』の堯典・舜典に倣って「帝紀」を「帝典」に改めたという。また「録」に関して、佚文には「潁川庾録」「陳郡謝録」などといった録が確認できる。聶溦萌氏[二〇一六]は、録は家族単位を列伝に配列したものとし、唐修『晋書』の謝安伝など、一族が多く附伝されている東晋の列伝は『晋中興書』の名残りであるとしている。
『南斉書』巻五四、高逸伝、臧栄緒伝(抄)
臧栄緒は東莞の莒の人である。……純朴篤実にして学問を好み、東西の晋をひと括りにして一書を作り、紀・録4邱敏氏[二〇〇三]は「表」のことであろうと推測している(八三頁)。・志・伝およそ百十巻であった。
『宋書』巻一〇〇、自序(抄)
〔史臣(沈約)は、〕晋氏一代にはついに通史の史書が存在しない、とつねづね考えていた。齢二十ばかりのときに、そこで自分が編集しようとの志をもったのであった。泰始のはじめ、征西将軍の蔡興宗が臣のために明帝に啓してくれ、勅が下って認可を賜わった。このときよりこんにちまで、二十年が経ち、編纂した晋史は全部で百二十巻にのぼる。大筋はできていたが、資料収集がまだ仕上がっていなかったというところ、永明のはじめに盗難に遭い、第五帙を失ってしまった5「帙」は「書物を包み入れるケース」(『漢辞海』)。全一二〇巻を複数の帙にしまって保管していたが、そのうちの五番目の帙をまるごと失ってしまったということ。『隋書』経籍志によれば、梁の目録では一一一巻と記録されていたようなので、九巻分を失ったのかもしれない。。
- 川合安氏[一九九八]の訳注を適宜参照した。
『梁書』巻三五、蕭子恪伝附蕭子雲伝(抄)
蕭子雲は字を景喬といい、蕭子恪の九番目の弟である。……成長すると、学問にいそしむようになった。晋代についてはついに通史の史書が存在しなかったことから、弱冠の年齢にして〔晋の通史の〕編纂を思うようになった。二十六歳のときに晋史が完成し、上表してこれを奏上すると、詔が下って秘閣に所蔵された。
『旧唐書』巻六六、房玄齢伝(抄)
〔房玄齢は〕中書侍郎の褚遂良とともに詔を授かり、晋史をあらためて編纂するよう命じられた。そこで〔房玄齢は〕奏上して、太子左庶子の許敬宗、中書舎人の来済、著作郎の陸元仕・劉子翼、まえの雍州刺史の令狐徳棻、太子舎人の李義府・薛元超、起居郎の上官儀ら八人を選び取り、採録を分担した。臧栄緒の『晋書』を基本とし、その他の諸家を参照し、ひじょうに詳細で幅広かった。しかし、史官の多くは詩文の士で、でたらめな些事を好んで採録し、そうして異聞を増補したのであった。また、論評の文章は競って華美に飾り立て、篤実な内容を追求しなかった。これらのため、学者からすこぶる批判された。李淳風は星暦に明るく、著述に長けていたが、彼の編集した天文志、律暦志、五行志だけは、世で最も優れていた。太宗は宣帝、武帝、陸機、王羲之の論をみずから執筆し、それゆえ総題は「御撰」と言う。貞観二十年に書が完成し、全部で百三十巻であった。詔が下り、秘府に所蔵された。
- 後掲の「修晋書詔」だと編纂の詔が下ったのが貞観二十年となっている。じつは『晋書』の編纂がいつ始まりいつ終わったのかは史料的には少々曖昧で、ちょっとした検討課題なのだが、現在では一般的に、貞観二十年に編纂が始まり、同二十二年に成ったとされている(細かく言えば、二十二年閏十二月に太宗が新羅の使者へ『晋書』を賜わっているため、二十二年閏十二月までに成ったと考えられている)。詳しくは唐星[二〇二〇]を参照。
唐・太宗「修晋書詔」
朕は溺れていた人々を救い上げ、遠征軍が帰還した。四方を巡回して視察し、儀礼が完了した6唐代史に通じていないこともあり、この二句の意味するところはわからない。。四海には事変がなく、百揆にはゆとりが増した。そこで手持ち無沙汰な時間を使い、秘府の蔵書を広く読むようになり、甲骨文で伏羲の時代について調べ、鳥篆の簡冊で黄帝の時代について分析した〔かのように、古い書物で古い時代のことを読んだのであった〕。朝廷から出ていないのに、精神は千代よりも先へ行き交い、冠を動かさずにじっと考えているだけなのに、九皇7上古の帝王たち。よりも前を見下ろしているのである。これより知れるのは、右史が発言を書き連ねたことによって、闇に埋もれなかったのであり、左官が出来事を拾い集めたことによって、遠いむかしにならなかったのだ、ということである。文字の本質を発揮し、書き言葉の本源に到達している。なんと大きいのだろうか、史籍の有用性というのは。
沮誦8黄帝時代の史官。が史官を代行して以後、伯陽9周の柱下史であった老子。が史筆を携帯する以前の歴代の史臣はみな、刪定したり、著述したりしていた。仲尼は『春秋』を整理して選定し10原文「仲尼修而採檮杌」。『檮杌』は楚の史書。孔子がこれに関わったという記述は見出せず、『春秋』の代称として訳した。あるいは『孟子』離婁章句下の「晋之乗、楚之檮杌、魯之春秋、一也。其事則斉桓・晋文、其文則史。孔子曰、『其義則丘竊取之矣』」という孔子の発言を「檮杌などから情報を採集した」という意味で読んでいるのかもしれない。、倚相(楚の左史)は三墳九丘を説き明かした。降って西漢については、班固と司馬遷が立派な業績を飛躍させ、東漢については、范曄と謝承が芳しい名声を轟かせている。区々たる当塗11曹魏(当塗高)を指す。は陳寿が『三国志』に記述し、微小な劉宋は沈約が国史に記載した。梁、陳、北斉については朕が命じて〔その史書を〕編纂させ、北周と隋も朕が〔その史書を〕撰修させた。これらのどれもが、善を顕彰して悪を憎み、一代の清らかな香りを強烈に発し、幸福を賛美して災厄を戒め、百王のうるわしい典範を備えている。
晋氏は天の機会を受け、中原を制して領有した。上帝は玄石図を啓示し、下武して黄星の徳運に取って代わったのである12原文「下武代黄星之徳」。訳文のように読むのにまあまあためらいを感じたところ。「下武」は『毛詩』大雅の篇名が出典か。詩序に「下武、継文也。武王有聖徳、復受天命、能昭先人之功焉」とあり、先祖を継承することを言う。司馬氏が三代にわたってじょじょに帝業を固めたことを表現していると見られる。「黄星」は「黄色い星。古代は瑞祥の兆しと見なしていた(黄色的星。古代認為是祥瑞之兆)」(『漢語大詞典』)。『三国志』魏書一、武帝紀、建安五年に黄星について記述があり、曹操が袁紹を破って天下に匹敵する者なしとなる瑞兆として記されている。。中朝(西晋)が混乱し、江左(東晋)が中興すると、〔群雄が〕いっせいに天下に腰を下ろし、おのおのが国号を重ねあった。秀麗な筆を飛ばし、美直の筆を執るに値するであろう。しかし十八家13十八の晋史の具体的な内訳は不明。『隋書』経籍志に現存の記録がされているものを挙げれば、合計で十九家ある。以下のとおり(正史類→古史類の順で、かつ挙がっている順番どおり)。①王隠『晋書』、②虞預『晋書』、③朱鳳『晋書』、④何法盛『晋中興書』、⑤謝霊運『晋書』、⑥臧栄緒『晋書』、⑦蕭子雲『晋書』、⑧蕭子顕『晋史草』、⑨陸機『晋紀』、⑩干宝『晋紀』、⑪曹嘉之『晋紀』、⑫習鑿歯『漢晋春秋』、⑬鄧粲『晋紀』、⑭孫盛『晋陽秋』、⑮劉謙之『晋紀』、⑯王韶之『晋紀』、⑰徐広『晋紀』、⑱檀道鸞『続晋陽秋』、⑲郭季産『続晋紀』。これに謝沈の晋史も残存していたとすれば、合計で二十になる。なお沈約の『晋書』は隋志には亡失と記載されているので、上にはひとまず含めていない。は、晋史の記録を残したといえども、その才能は良史にあらず、その内容は実録を欠いている。臧栄緒は煩雑にして要が少なく、謝沈(?)14原文は「思」で、赤羽・猪俣[二〇二〇]によれば「行思」に校訂しうるらしい。「行思」は謝沈の字。しかしここで謝沈に言及するのは違和感があり、個人的には誤字ではないかと思う。疑わしく考えるゆえんは謝沈伝の訳注を参照されたい。は労すれども功が少ない。虞預の学業は空虚で、味わいは画餅に等しく、蕭子雲の学識は海のごとくだが、小さな水滴が枯れた水流を埋め尽くしているにすぎない。王隠は中興(東晋)に関係せず、何法盛は創業期に及んでいない。干宝、陸機、曹嘉之、鄧粲については、帝王をあらまし記述しているのみで、檀道鸞、孫盛、徐広、劉謙之については、記録をせいぜい編年しているばかり。その文章はことごとく在野の私人が書いたもので、その内容は〔事実を〕ほとんど伝えていない15原文「其文既野、其事罕伝」。『孟子』離婁章句下「其事則斉桓・晋文、其文則史」をおそらくふまえたもの。「其文則史」について、趙注に「其文、史記之文也」とあり、疏に「其所載之文則魯史之文」とあるが、「春秋の文は魯の史官が書いた文である」と読むのが通例らしい。本文の「其文既野」は、その「其文則史」とは反対の状況、すなわち晋史の文章はすべて史官にあらざる「野」の者が書いた文章である、と言っているのだと考えられる。もちろん干宝や徐広のように朝廷から編纂を命じられた撰者も存在するので、そうした事実とは符合していない意味にはなるが。。かくしてとうとう、司馬氏の時代の高尚な人々は、史籍のなかに遺徳を隠してしまい、金徳時代の史書は、驪騵16原文まま。『礼記』檀弓篇上「夏后氏尚黒、……戎事乗驪、……。殷人尚白、……戎事乗翰、……。周人尚赤、……戎事乗騵、……」に拠った語句と見られる。鄭玄注によれば、「驪」は黒馬、「騵」は腹が白毛の赤馬。ここではたんに馬の雅称で、司馬氏の隠喩であろう。から代々の美徳を書き漏らしてしまうにいたらしめた17この二句は難しい。使役形の文章なのだが、日本語文にしがたく、こうなった。。むかしに思いを馳せるとものさびしく、このために深く嘆息する次第である。
修国史所に命じ、晋史をあらためて編纂させるべきであろう。旧聞を選別し、義類(春秋の義理の比類)を整理せよ18原文「裁成義類」。杜預「春秋左氏伝序」に典故がある。。かの埋もれてしまった詔誥を、すべて世に知らしめよ。必要な物事は、五代史19五代史とは、唐の太宗が編纂を命じた梁、陳、北斉、北周、隋の五朝史をいう。撰修時の故事に従え。もし学士が少なければ、同様に仕事量に応じて追って人員を取るようにせよ。貞観二十年、閏三月。
- 中華書局標点本『晋書』に附載されているものをテキストとした。
- この詔は『唐大詔令集』『冊府元亀』などに収録されているが、赤羽・猪俣[二〇二〇]によればテキスト間での異同が激しいらしく、同論文には両氏による校訂テキストも掲載されている。
- 赤羽・猪俣両氏が指摘しているように、中華書局標点本『晋書』附載のものは来歴不明である。しかし文意は比較的通っており、対遇も崩れていないことなどもあって、中華書局標点本『晋書』収録のものをテキストに使用した。
- 唐代の漢文は慣れておらず、かつ突貫で読んだのでいろいろと許してほしい。
『史通』古今正史篇(抄)
晋史。西晋時代、著作郎の陸機がはじめて三祖紀を編纂した。佐著作郎の束晳も十志を編纂したが、ちょうど中朝が戦乱に陥ったため、その史書は残っていない。これより以前、歴陽令であった陳郡の王銓は著述の才をもち、いつも晋の時事や功臣の事跡を個人的に記録していたが、完成前に卒した。子の王隠は博学多識で、父の遺業を受け継ぎ、西都(西晋)の事跡について多くのことを熟知していた。長江を渡って著作郎となり、詔を受けて晋史を編纂するよう命じられた。同僚の虞預から誹謗され、事件で罪に問われて免官された。家は貧乏で資産がなく、著書はとうとう完成しなかった。そこで、武昌鎮に駐在していた征西将軍の庾亮を頼った。庾亮は紙と筆を支給したので、完成させることができ、『晋書』八十九巻を作ったのである。咸康六年、はじめて闕門に参って奏上した。王隠は著述するのを好んでいたが、文章は拙劣で、才能は愚鈍であった。王隠の『晋書』で、整理されていてまとまりがある部分は、すべて王銓が書いたものである。文章が混雑している部分は、必ず王隠が書いたものである。当時、尚書郎で領国史の干宝も『晋紀』を編纂し、宣帝から愍帝まで七帝の五十三年、全部で二十二巻であった。その著書は簡略で、〔文章のスタイルは〕朴直にして婉曲に富み、当時の人々からひじょうに称賛された。
晋の江左史。鄧粲、孫盛、王韶之、檀道鸞20『史通通釈』原文は「檀道鸞・王韶之」だが、もとは「王韶之・檀道鸞」であるのを浦起龍が校訂してこのようにしたらしい。しかし、このように改めた根拠は定かでない。浦氏の校訂前の状態で読んだ。より以下が、あいついで制作した。古いもの(鄧粲)はわずかに二帝を記述するのみ、新しいもの(檀道鸞)はただ六朝21『史通通釈』原文は「八朝」。浦起龍の注によればもとは「六朝」だが、浦氏はこれを誤りとして「八朝」に改めている。しかし、浦氏はどうも東晋の史書に対して誤解しているように思われ(王韶之の晋史は成帝から安帝までの八代を記したとしている)、その誤った思い込みを根拠として「六」を誤りと判断し、「八」に変えてしまったようである。浦氏の校訂に根拠はないので、校訂前の文で読んだ。ちなみに東晋の皇帝はぜんぶで十一代である。上に挙がっている四人のうち、いちばん新しいと思われる檀道鸞の『続晋陽秋』は叙述範囲が明確でないが、恭帝よりさかのぼって六代だとすれば哀帝以下、八代だとすれば康帝以下となる。を叙述するのみであった。宋の湘東太守の何法盛がはじめて『晋中興書』を編纂し、一家の書を書き上げるに及んで、首尾(はじまりと終わり)が完備したのである22東晋史で起こりから終わりまでを描ききったのは『晋中興書』がはじめてであった、という意味。。斉の隠士で東莞の臧栄緒はさらに東西の晋史をまとめて、総合して一書を完成させた。
皇家(唐)の貞観年間、詔が下り、前後の晋史の十八家は、数こそ多いけれども、いまだ最善を尽くせていないことをもって、史官に勅を下してあらためて編纂するよう命じた。正典や雑説23「正典」と「雑説」は原文まま。「正当な典籍」と「その他の雑多な書物」くらいの意味か。の数十余部〔の書物〕を採録し、あわせて偽史の十六国書24北魏の崔鴻『十六国春秋』を指すと考えられる。を引き、紀は十、志は二十、列伝は七十、載記は三十を作り、叙例および目録と合計して百三十二巻を成した。以後、晋史を論ずる者は、みな旧来の十八家を放り捨て、競って新撰の本に従うようになった。
佚晋史一覧表
- 主に『隋書』経籍志に拠って作成した。朝代、書名、形式、叙述範囲は隋志に記載があればそのとおりとしている。
- 配列順は、隋志の順番を勘案しつつ訳者の勘で並べた。
- そのほか姚振宗『隋書経籍志考証』(二十五史補編)、孫啓治・陳建華『古佚書輯本目録』(中華書局、1997年)、楊朝明(校補)『九家旧晋書輯本』(中州古籍出版社、1991年)、喬治忠『衆家編年体晋史』(天津古籍出版社、1989年)、邱敏『六朝史学史』(南京出版社、2003年)を参照して補った。
| 朝代・撰者 | 書名 | 形式 | 叙述範囲 | 備考 |
| 晋・陸機 | 晋紀 | 編年体? | 宣帝、景帝、文帝 | 干宝伝の「紀伝は王府に存在せず……」の訳注を参照。 |
| 晋・束晳 | 晋書? | 不明 | 不明 | 干宝伝の「紀伝は王府に存在せず……」の訳注を参照。 |
| 晋・干宝 | 晋紀 | 編年体 | 西晋 | |
| 晋・王隠 | 晋書 | 紀伝体 | 西晋? | |
| 晋・虞預 | 晋書 | 紀伝体 | 明帝まで | |
| 晋・朱鳳 | 晋書 | 紀伝体 | 元帝まで | 隋志によれば未完。邱敏[二〇〇三]は両晋期の史家とする。 |
| 晋・謝沈 | 晋書 | 紀伝体? | 不明 | |
| 晋・曹嘉之 | 晋紀 | 編年体 | 不明 | 曹魏の楚王彪の子・曹嘉と同一人物と推測する説もあるが、韓傑・苑鑫[二〇一九]によればさすがに年代的に無理があるようだ。 |
| 晋・習鑿歯 | 漢晋春秋 | 編年体 | 後漢・光武帝~西晋・愍帝 | |
| 晋・鄧粲 | 晋紀 | 編年体 | 元帝、明帝 | |
| 晋・孫盛 | 晋陽秋 | 編年体 | 哀帝まで? | |
| 宋・劉謙之 | 晋紀 | 編年体 | 不明 | |
| 宋・王韶之 | 晋紀 | 編年体 | 安帝(義煕九年まで) | |
| 宋・徐広 | 晋紀 | 編年体 | 廃帝、簡文帝、孝武帝 | |
| 宋・檀道鸞 | 続晋陽秋 | 編年体 | 不明 | 訳者の『史通』古今正史篇の解釈が正しければ、哀帝以下の六代が叙述範囲。 |
| 宋・郭季産 | 続晋紀 | 編年体 | 不明 | |
| 宋・何法盛 | 晋中興書 | 紀伝体 | 東晋 | |
| 宋・謝霊運 | 晋書 | 紀伝体 | 東西晋 | 未完。 |
| 斉・臧栄緒 | 晋書 | 紀伝体 | 東西晋 | 唐代に編纂された『群書治要』に収録の「晋書」は臧栄緒のものであるとよく言われている。 |
| 梁・沈約 | 晋書 | 紀伝体 | 東西晋 | 未完。 |
| 梁・蕭子雲 | 晋書 | 紀伝体 | 東西晋 | |
| 梁・蕭子顕 | 晋史草 | 紀伝体 | 不明 | 未完? |
陳寿・王長文・虞溥/司馬彪・王隠・虞預/孫盛・干宝・鄧粲・謝沈/習鑿歯・徐広/参考資料(修晋書詔、佚晋史一覧表ほか)
(2026/3/29:公開)
