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石勒(1)/石勒(2)/石勒(3)/石勒(4)/石勒(5)/附:石弘・張賓
〔石弘〕
石弘は字を大雅といい、石勒の第二子である1『太平御覧』巻一二〇、石弘に引く「崔鴻十六国春秋後趙録」に「石弘字大雅、第三子、母程夫人、右光禄遐之妹」とある。。幼くして孝行で、恭謙をもって堅持し、経書を杜嘏から学び、法律を続咸から教授された。石勒は「いまは太平の世ではないから、文業(学問)のみで教化することはできない」と言い、こうして劉徴と任播に兵書を講義させ、王陽に剣術を教えさせた。世子に立てられ、領中領軍となり、ついで衛将軍に任命され、領開府辟召とさせ、のちに鄴に出鎮した。
石勒が天王を僭称すると、太子に立てられた。襟を虚しくして士人を大切にし、好んで詩文を制作し、親しい人間はみな儒学の素養をそなえていた。石勒は徐光に言った、「大雅は軟弱だ。少しも将家の息子らしくない」。徐光、「漢の高祖は馬上でもって天下を取り、孝文帝は玄黙2ひそやかで無為であるさま。(『漢辞海』)ようは文治。をもって天下を保ちました。聖人のあとは、必ず世に悪人を教化する政治をしくものであり、それが天の道理なのです」。石勒はおおいに喜んだ。徐光はついで言った、「皇太子は仁孝温和なお方ですが、中山王(石虎)は荒々しく乱暴で、偽りが多い人物です。陛下がすぐに〔中山王を〕遠ざけなければ、社稷が必ずや危険に陥ることを臣は恐れています。中山王の威勢と権力をじょじょに剥奪し、太子を早急に朝政へ参画させるのがよろしいかと存じます」。石勒はこれを聴き入れた。程遐も石勒に言った、「中山王の武勇と機知に、群臣で及ぶ者は誰もいません。王の意志を観察してみるに、陛下以外は取るに足らないとみなしているようです。くわえて、征伐の専権を久しく委ねられ、威勢は内外を振るわせ、性格も仁愛に欠け、残忍で無頼のようなお方です。王の子らはそろって成長しており、兵権を授けられています。陛下がご健在のうちに、みずからに相当する者が他にいない地位に上ってしまえば3原文「自当無他」。自信なし。、〔陛下がお隠れになったのち、〕おそらく怏々として楽しまず、少主を補佐しないことでしょう。早急に王を排斥し、そうして国家の計画に利益をもたらすのが良いと考えます」。石勒、「いま、天下はまだ平定されておらず、戦難はまだ止んでいないし、大雅は幼いから、強力な補佐に委ねるのがよいであろう。中山王は佐命の功臣で、〔私や大雅との〕親族関係は魯と衛の関係に等しいから、伊尹や霍光のような任務を委ねようと思っていたのに、どうして卿の言葉のようになるのか。卿が恐れているのは、幼主を補佐する世になったとき、帝の舅としての権力をほしいままに振るうことができなくなるからであろう。私は卿も顧命に加えるつもりでいるから、過度に恐れなくてよい」。程遐は泣いて言った、「臣の言葉は至公のためでございましたが、陛下は私賜(私的な恩恵)を理由に却下されました。〔このようなありかたは、〕明君は襟を開いて進言を聴き入れ、忠臣は必ず尽忠する、という義にあたりましょうか。中山王は皇太后に養育されたとはいえ、陛下の天属(自然の血縁関係)ではなく、親族の義をもって期待するべきではありません。〔中山王は〕陛下の神のごとき戦術を恃み、わずかに鷹犬(手先で働く者)のような働いた功績を建てただけですけれども、陛下は中山王親子(石虎とその子供)に栄光をもって報いました。〔それで〕十分なのです。魏は司馬懿父子を信任しましたが、最後には命数が滅び去ってしまいました。このことを踏まえると、中山王は将来に利益をもたらすお方でしょうか。臣は縁故に依って幸多く、東宮と血のつながりがあることを頼みとしていますが、臣が陛下に言葉を尽くさなければ、誰がこれを言うでしょうか。陛下がもし中山王を排斥しなかったら、臣は社稷が二度と血食4犠牲の血を供えて祖先を祭る。(『漢辞海』)できなくなる様子をほどなく目にすることでしょう」。石勒は聴き入れなかった。程遐は退き下がると、徐光に話した、「主上が先ほどこのように言っていたのだが、〔このままだと〕太子は必ず危険だ。どうしようか」。徐光、「中山王はいつも我ら二人に歯ぎしりしているから、おそらくたんに国家の危難であるだけでなく、〔我らの〕家の禍ともなろう。国を安泰にし、家を安寧にさせる計略を立てなければならない。手をこまねいて禍を受けるわけにはいかない」。徐光は機会をうかがってふたたび石勒に言った、「陛下は八州(天下の九分の八)を平定し、帝王として海内を領有していますのに、ご尊顔が満足げでないのはなぜですか」。石勒、「呉と蜀がまだ平定されておらず、書(文字)と軌(車輪の幅)は統一されていないし、司馬家は依然として丹楊で継続しているから、おそらく後世の人は私のことを符録(予言)に応じた者ではないとみなすだろう。いつもこのことを考えてしまうものだから、思わず顔色に出てしまったのだろう」。徐光、「臣が思いますに、陛下は腹心の病気を心配なさっていますのに、四肢の病気を心配するいとまがあるのでしょうか。なぜかと申しますと〔次のとおりです。つまり〕、魏は漢の命運を継承し、正朔の帝王となりました。劉備は巴蜀の地で漢を復興させたとはいえ、漢が滅んでいないと言うことはできません。呉は江東に割拠していたとはいえ、魏の美風を損なうでしょうか。陛下はすでに二都(洛陽と長安)を包有し、中国(中原)の帝王となりました。かの司馬家の児童は劉玄徳となんら変わりありませんし、李氏も孫権のようなものです。符録(予言)が陛下になければ、最終的にどこに帰結しようというのでしょうか。これらのことは四肢の軽い病気にすぎません。中山王は陛下の指揮と神のごとき計略を恃みとし〔て功績を立て〕ましたが、天下の人々はみな、中山王の英武は陛下に次ぐと言っています。くわえて、残虐で悪事が多く、利益を見れば義を忘れ、伊尹や霍光のような忠誠はありません。父子(石虎と子供)で爵と位は高く、権勢は王室を傾けています。王が安らいでいない様子を観察しますに、つねに不満の心を抱いていることでしょう。最近では、東宮で宴会を催したさい、皇太子を軽視する様子が見られました。陛下が隠忍して王をお許しになっても、陛下の万年ののち、宗廟に必ずいばらが生えるであろうことを臣は心配しています。これが腹心の重い病気なのです。陛下、どうぞこのことについてご考慮ください」。石勒は黙然としたが、ついに聴き入れなかった。
石勒が死ぬと、石季龍は石弘を捕えて臨軒させ、程遐と徐光を逮捕して廷尉に下すよう命じ、自分の子の石邃を召し、兵を統率させて宿衛に入らせた。文武の官は誰もが逃げ去った。石弘はおおいに恐れ、帝位を石季龍に譲った。石季龍は「主君が薨じれば世子が立つもの、どうして臣がこれを乱そうとするものでしょうか」と言った。石弘は泣いて固く譲ったので、石季龍は怒り、「もしその任に堪えないというのでしたら、天下で自然と議論が起こるでしょう。どうしてあらかじめ〔譲位を〕議論する必要があるのですか」と言った。とうとう咸和七年に脅して石弘を立て、延熙と改元し、文武の百官の位を一等進めた。程遐と徐光を誅殺した。石弘は策書を下し、石季龍を丞相、魏王、大単于に任じ、九錫を加え、魏郡など十三郡を食邑とし、百揆を総べさせた。石季龍は偽って固辞し、しばらく経ってから命を受けた。〔魏王の?〕境内の殊死以下を赦免し、石季龍の妻の鄭氏を魏王后に立て、子の石邃を魏太子に立て、使持節、侍中、大都督中外諸軍事、大将軍、録尚書事を加え、石宣を使持節、車騎大将軍、冀州刺史とし、河間王に封じ、石韜を前鋒将軍、司隷校尉とし、楽安王に封じ、石遵を斉王に封じ、石鑑を代王に封じ、石苞を楽平王に封じ、太原王の石斌を章武王に移した。石勒の文武の旧臣はみな左右丞相の閑職に任じられ5原文「勒文武旧臣皆補左右丞相閑任」。「左右丞相」と読んでよいのか自信はない。かりにそれでよいのなら、おそらく丞相(石虎)よりワンランク落ちる、ないし事実上の権力がない左右丞相を新設し、そのポストと府僚に石勒の旧臣を充てた、という感じではなかろうか。、石季龍の府僚や側近はことごとく台省(尚書台)や禁中の要職に配された。太子宮を命じて崇訓宮と名づけ、石勒の妻の劉氏以下はみなここに移住させた。〔石勒の側室の〕美女や石勒の車馬、珍宝、服御の上質なものを選び、すべて自分の府に入れさせた。鎮軍将軍の夔安を領左僕射とし、尚書の郭殷を右僕射とした。
〔石勒の妻の〕劉氏は石堪に言った、「皇運が尽きるまでもう長くないでしょう。王(石堪)は諸王や諸将は(2022/7/3:修正)どのように魏王を滅ぼすつもりですか」。石堪、「先帝の旧臣はみなすでに外に排斥され、軍隊はもはや人の指示を受けず6原文「衆旅不復由人」。「他人によって動かされない」と読めるはずだと思うが、それがどういう意味かはわからない。自分の指揮下の営兵を指揮する権限を奪われたということだろうか。『資治通鑑』胡三省注は「謂虎諸子皆握兵権也」とする。、宮殿の内部には計略を立てる余地がありません。そこで、臣は兗州へ出奔したく思います。廩丘を占拠し、南陽王(石勒の小子の石恢)を擁して盟主といたします7『資治通鑑』胡三省注によれば、石恢は「時鎮廩丘」という。。太后の詔を牧守や征鎮に宣布し、〔その詔で命令を下して〕おのおのに義兵を統率させ、共同で逆賊を討伐させれば、必ず成功するでしょう」。劉氏、「事態は逼迫しています。すみやかに出発するのがよいでしょう。ことが漏れれば事件が起こるでしょうから」。石堪は承服し、軽装になり、軽騎兵で兗州を襲撃したが、期日に遅れてしまい、落とすことができなかったので、そのまま南の譙城へ奔った。石季龍は将の郭太らを派遣して追撃させ、石堪を城父で捕え、襄国へ送らせ、これを焼き殺した。石恢を召して襄国へ帰らせた。劉氏の謀略が発覚したので、石季龍はこれを殺した。石弘の母の程氏を尊び、皇太后とした。
当時、石生は関中に出鎮し、石朗は洛陽に出鎮していたが、どちらも二鎮で挙兵した。石季龍は子の石邃を襄国に留めて守らせ、歩騎七万を率いて石朗を金墉城で攻めた。金墉城は落ち、石朗を捕え、足を斬ってからこれを斬った。軍を進めて長安を攻め、石挺を前鋒大都督とした。石生は将軍の郭権を派遣し、鮮卑の渉璝の部衆二万を統率させて前鋒とし、これを防がせ、石生は大軍を統率して続いて出発し、蒲坂に駐屯した。前鋒(郭権)と石挺は潼関で大戦し、〔石挺は〕敗北し、石挺と丞相左長史の劉隗がともに戦死し、石季龍は退却して澠池へ敗走し、死体は三百余里にわたってころがった。〔郭権の率いる〕鮮卑は石季龍と密通し、石生にそむいてこれを攻めた。石生はこのとき、蒲坂に留まっていたが、石挺の戦死を知らなかったため、恐怖して単騎で長安へ逃げた。そこで郭権はさらに兵三千を集め、越騎校尉の石広と渭水の汭で対峙した。石生はそのまま長安から去り、鶏頭山に隠れ、将軍の蔣英が長安に籠城した。石季龍は石生が逃亡したことを知ると、軍を進めて関(函谷関?)に入り、進軍して長安を攻め、旬日余でこれを抜き、蔣英らを斬った。〔石季龍は〕諸将を分けて派遣し、汧に駐屯させた。雍州と秦州の華戎十余万戸を関東に移した。石生の部下が石生を鶏頭山で斬った。石季龍は襄国へ帰ると、大赦し、石弘にそれとなく言って自分に命令を下させ、魏台を設け、すべて魏(曹操)が漢を輔佐した故事に倣わせた。
郭権は石生が敗北したことから、上邽に拠って〔晋に〕帰順した。〔晋から〕詔が下り、郭権を鎮西将軍、秦州刺史とし、こうして京兆、新平、扶風、馮翊、北地はこぞってこれに呼応した。石弘の鎮西将軍の石広が郭権と戦ったが、敗北した。石季龍は郭敖と自分の子の石斌らを派遣し、歩騎四万を率いさせてこれを討伐させ、華陰に駐屯させた。上邽の豪族は郭権を殺して降服した。秦州の三万余戸を青州と并州の諸郡に移した。南氐の楊難敵らが質任を送って友好を結んだ。長安の陳良夫が黒羌へ奔り、北羌の四角王の薄句大らを招致し、北地と馮翊で騒動し、石斌と対峙した。石韜らは騎兵を率いて薄句大の背後をつき、石斌と挟撃してこれを破り、薄句大は馬蘭山へ敗走した。郭敖らは懸軍をつかわして敗走軍を追撃させたが、羌に敗れ、死者は十に七、八であった。石斌らは軍を集めて三城へ帰った。石季龍はこれを聞くとおおいに怒り、使者をつかわして郭敖を殺した。石宏に恨み言があったため8『資治通鑑』胡三省注は「以其父疾而虎矯詔召之、至於失職也」と解説している。、石季龍はこれを幽閉した。
石弘は璽綬を持ってみずから石季龍のもとを訪れ、位を譲る意向を諭し聞かせた。石季龍は「〔禅譲は〕天下の人々で自然と議論が起こるべきです。どうしてみずからこのことをお話なさるのですか」と言った。石弘は宮殿に帰ると、母(程氏)に対面して涙を流し、「先帝はまこと、何も残らなくなるでしょう9原文「先帝真無復遺矣」。『資治通鑑』は「先帝種真無復遺矣(先帝の子孫は誰も残らないでしょう)」としており、このほうが意味の通りはよい。」と言った10『資治通鑑』はこの発言につづけ、「於是尚書奏、『魏台請依唐虞禅譲故事』。虎曰、『弘愚暗、居喪無礼、便当廃之、何禅譲也』」とある。『太平御覧』巻一二〇、石弘に引く「崔鴻十六国春秋後趙録」にも「十月、弘賚璽綬親詣魏宮、喩禅意。虎曰、『弘昏昧愚暗、処喪無礼、不可以君臨万国、奉承宗廟、便当廃之』」とある。。にわかに石季龍が丞相(魏の丞相?)の郭殷に節を持たせて派遣し、〔宮中に〕入らせ、石弘を海陽王に廃した。石弘はゆっくり歩いて車に向かい、顔色はふだんどおりであった。群臣に言った、「〔私は〕大統(帝位)の継承に堪えなかった。諸侯のことを思うと恥ずかしいが、これも天命が去ったゆえである。ほかに言うことがあろうか」。百官で涙を流さない者はおらず、宮人は慟哭した。咸康元年、〔石季龍は〕石弘、程氏、石宏、石恢を崇訓宮に幽閉し、あいついで殺した。在位二年、享年二十二。
〔張賓〕
張賓は字を孟孫といい、趙郡中丘の人である。父の張瑤は中山太守であった。張賓は若くして学問を好み、経書や史書を広く読み、章句をせず(おおまかに読み)、豁達で大志があった。つねに兄弟に言っていた、「私の智謀と見識は張子房に劣らないと自負しているが、ただ高祖に会う機会がないだけだ」。中丘王(たぶん太原王輔の子)の帳下都督となったが、そりが合わなかったため、病気をもって免ぜられた。
永嘉の大乱のさい、石勒は劉元海の輔漢将軍となり、諸将と山東に下った。張賓は親しい人に言った、「私がこれまで観察してきた諸将は多いが、ただあの胡将軍だけがともに大事を成すべきお方だ」。そうして剣を引っさげて軍門へ行き、大声で呼びかけて面会を請うたが、石勒はまだ張賓を才人と思わなかった。のち、じょじょに計略を献上するようになると、〔石勒は〕ようやく張賓を異才と認め、召して謀主とした。機謀はむだに発動することなく、計略に失策はなく、石勒が事業の基礎を築けたのは、すべて張賓の功績である。右長史、大執法となり、濮陽侯に封ぜられると、地位と待遇は貴く、信任は当世第一であったが、謙虚でうやうやしく、襟を開いて士人にへりくだり、士人は賢愚に関係なく〔接待し〕、張賓を訪ねた者は誰もが心を尽くすことができた11心残りなく気分よくお話しできた、という感じか。。百官を引き締め、私的に仲の良い者を排除し、〔幕府に?〕入れば格言(教訓になる言葉)を発し、出れば名声を集めた。石勒はたいへん張賓を重用し、朝会のたび、いつも張賓のために顔つきを正し、使う言葉を選び、「右侯」と呼んで名を呼ばなかった。石勒の朝廷でこの待遇に並ぶ者はいなかった。
卒すると、石勒はみずから訪問して哭き、左右の人々を悲しませるほどであった。散騎常侍、右光禄大夫、儀同三司を追贈し、景の諡号をおくった。埋葬のさい、正陽門で送り、涙を流して見送り、左右の者たちに顔を向け、「天はわが事業を成功させたくないのだろうか。なぜわが右侯をこんなに早く奪ってしまうのか」と言った。程遐が代わって右長史となったが、石勒が程遐と議論するたび、意見が合わないところがあった。そのつどに嘆き、「右侯は私を捨て去り、このような者どもと事業を共にさせようとするとは。なんと酷いことよ」と言った。そして終日、涙を流したのであった。