巻五十 列伝第二十 庾峻 郭象

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曹志/庾峻(附:庾珉・庾敳)・郭象/庾純(附:庾旉)・秦秀

〔庾珉:庾峻の子〕

 庾珉は字を子琚という。性格は温和で、学問を好み、ふるまいには誠意と思いやりがあった。若くして散騎常侍、本国の中正1「本国」は原文まま。庾珉の本貫は潁川なので潁川を指すのだろうが、なぜ潁川が「国」と呼ばれているのかはよくわからない。、侍中を歴任し、長岑男に封じられた。
 懐帝が劉元海2正しくは劉聡。のもとに没したとき、庾珉は随従して平陽に滞在した。劉元海が大宴会を開いたさい、懐帝に酒をつがせて回らせたが、庾珉は悲憤を抑えきれず、〔懐帝に〕再拝して酒を献じ、おおいに声をあげて泣いたので、賊はこれを忌々しく思った。ちょうどそのころ、庾珉や王儁らが劉琨に呼応しようと画策している、と告げ口する者がおり、そこで劉元海は懐帝の弑逆を図り、庾珉らはみな殺されてしまった。そのむかし、洛陽陥落前のこと。庾珉は侍中として、省内(殿中)に宿直していたとき、同僚の許遐に言った、「世の状況はこのとおりですから、災禍がいまにも降りかかるでしょう。私はきっと、この建物の中で死ぬにちがいありません」。このとき(庾珉に告げ口があったとき)に及んで、とうとう死を免れることはできなかったのであった。太元の末、さかのぼって貞の諡号をおくられた。

〔庾敳:庾峻の子〕

 庾敳は字を子嵩という。身長は七尺未満であったが、腰回りのベルトは十囲3「囲」は円周の長さの単位。もあり、もとより超俗的な風格をそなえていた。陳留相となったが、政務をまったく気にかけず、のびのびと酒を飲んで過ごし、放達するのみであった4原文「寄通而已」。字面から判断すれば、「寄通」は「任達」「放達」と同じ意味ではないかと思われる。すなわち、礼などの世俗的細則に捉われずに思うままふるまうこと。。大勢の人々の中にいても、ただその場にいるだけなのに存在感があった5原文「居然独立」。「居然」は「いながらにして」、「独立」は「群を抜いている」の意味だと思われる。。かつて老荘を読んでみたとき、こう言った、「マジかよ、オレの考えとまったく同じじゃねえか」。太尉の王衍は日ごろより庾敳を重んじていた。
 庾敳は、王室が多難であるのを目の当たりにして、最終的には禍に巻き込まれてしまうであろうと悟り、そこで「意賦」を著わして憂さを晴らした。賈誼の「服鳥賦」のごとくである。その詞に言う。

(「意賦」は省略します。)

従子の庾亮が賦を読むと、質問して言った、「もしも意(考え、思い)があるのでしたら、賦で述べ尽くすことはできません。もしも意がないのでしたら、どうして賦を作る必要があるのですか」。答えて言った、「意は有と無の間にあるんだよ」6『世説新語』文学篇、第七五章、略同。川勝義雄ほか[一九六四]が指摘するように、庾亮の発言は『易』繋辞上伝の「書不尽言、言不尽意、然則聖人之意、其不可見乎」をふまえたものであろう。あるいは『荘子』外物篇の「荃者所以在魚、得魚而忘荃。蹄者所以在兎、得兎而忘蹄。言者所以在意、得意而忘言」も意識していたか。
 尚書吏部郎に移った。この当時、天下は多難で、事変がくりかえし起こっていたので、庾敳はつねに物静かにし、ことさらな行動を起こさなかった。参東海王越太傅軍事(東海王越の太傅府の参軍事)となり、〔太傅府の〕軍諮祭酒に転じた。当時、東海王の府には俊才が多く集まっていたが、庾敳はそのなかにおいて、いつも袖に手を引っ込めて傍観しているのみであった。豫州牧(東海王)の長史であった河南の郭象は老荘に造詣が深く、世の人々は「王弼と肩を並べる者」と評していた。庾敳は郭象とひじょうに親しく付き合い、「郭子玄は庾子嵩に必ずしも引けを取るとはかぎらねえぞ」とよく言っていた。郭象はのちに太傅府の主簿となり、要務を委ねられて権勢を独占した。庾敳は郭象に言った、「卿(おまえさん)は自分のことを、現代の大天才、とか思ってるだろ。オレはなあ、もう昔のようにはちっとも思っちゃいねえぜ7原文「我疇昔之意都已尽矣」。かつては郭象のことを、自分に劣らぬ才能の持ち主と評価していたが、その考えは今ではもうまったく消え失せた、という意味であろう。逐語的に訳すのは難しいので意訳した。」。
 庾敳は高名を有しており、搢紳から尊敬されていたが、金品をかき集めて蓄財していたので、論者はこれを批判していた。都官従事の温嶠が庾敳を弾劾したとき、庾敳はかえって温嶠を高く評価し、温嶠のことを「高々とそびえておること、千丈の松のようだ。ゴツゴツとしていて節は多いものの、この木材を大きな建物に用いれば、棟木や梁(はり)の役目をなすであろう」と論評した。その当時、劉輿が東海王から信任されており、人士の多くが劉輿にはめられて陥れられていたが、庾敳だけは世俗の外に心を遊ばせていたので、付け入る手がかりがなかった。のち、庾敳はケチで、家が富裕であったことから、〔劉輿は〕東海王に説いて、〔庾敳から〕銭一千万を借りてみてほしい、と依頼した。ケチる様子を見せれば、それを利用して付け込んでやろうと期待したのである。東海王は大勢がいる座中にて庾敳に〔金を貸してほしいと〕うかがったところ、庾敳はもうぐったりとして酔い潰れていた。幘(頭巾)が机の上に落ちてしまっていたが、〔庾敳は手を使わずに〕頭をつっこんでかぶり、おもむろに答えて言った、「下官(わたくしめ)の家には二千万あります。どうぞ公のお好きなだけ取っていってください」。こうして、劉輿は降参したのであった。東海王はとても満悦し、「小人の思慮で君子の心は測れないのさ」と言った。王衍は庾敳と付き合いがなかったが、庾敳は王衍のことを卿(おまえさん)とたえず呼んでいた。王衍、「君、いけませんよ」。庾敳、「卿はオレを『君』と呼び、オレは卿を『卿』と呼ぶ。オレはオレの家のやり方を用いるし、卿は卿の家のやり方を用いればいいじゃん」。王衍は、なかなかおもしろい回答だと感心した。
 石勒が反乱を起こすと、王衍とともに殺された。享年五十。

郭象

 郭象は字を子玄という。若くして才知があり、老荘を好み、清談を得意とした。太尉の王衍はよくこう言っていた、「郭象の弁論を聴くと、まるで滝が勢いよく流れ落ち、流れても流れても尽きないかのようだ」。州や郡から辟召されたが、応じなかった。つねに閑居しており、文章で議論を著わすことを娯楽としていた。のちに司徒府の掾に辟召され、じょじょに昇進して黄門侍郎に至った。東海王越が召して太傅府の主簿とし、はなはだ親任され、とうとう要務を委ねられて権力を握り、内外を圧倒した。このため、輿論が郭象から離れていってしまった。永嘉の末に病卒した。『碑論』十二篇を著述した8原文「著碑論十二篇」。中華書局は書名としていないが、著作のタイトルとして読むことにした。
 これより以前、『荘子』に注釈をつけた者は数十家あったが、『荘子』の思想体系を究められた者は誰もいなかった。向秀は、旧注とは別の観点から9原文「於旧注外」。旧来の注にとらわれず、という意味だと思われる。解義10原文まま。「教義」という場合の「義」とおそらく同じ使われ方で、「解釈の内容・文章」、要するに「解釈」という意味だと思われる。を作り、奇致(独創的なおもむき)を見事に敷衍し、玄風(幽玄なおもむき)を明快に説明したが11原文「妙演奇致、大暢玄風」。『荘子』の「奇致」「玄風」をわかりやすく解明した、という意味だと思われるが、少々自信はない。巻四九、向秀伝は「発明奇趣、振起玄風」、『世説新語』文学篇、第一七章は「妙析奇致、大暢玄風」とする。、秋水篇と至楽篇〔の注釈〕だけは完成せずに向秀は卒してしまった。向秀の子は幼かったので、向秀の義(解義)は〔後継者がおらずに?〕顧みられなくなったが、わずかに別本12原文まま。浄書した原稿とは別の原稿(下書きのたぐいとか)、という意味であろうか。が流通していた。郭象は為人(ひととなり)が品行軽薄で、向秀の議論が世に広まっていないことから、とうとうそれを剽窃して自分の注釈としてしまい、秋水篇と至楽篇はみずから注釈をつけ、また馬蹄篇の注釈を書き換えたが、そのほかの諸篇は、手を加えるとしても字句を添削する程度であった。その後、向秀の義の別本が世に現われたので、現在では向秀と郭象のふたつの『荘子』〔のテキスト〕があるが、その義は同一である13現在、『荘子』の注釈で一般的なものは郭象注であるが、対して向秀注は佚してしまい、断片的にしか伝わっていない。本伝のこの逸話は『世説新語』文学篇、第一七章にも記されていて著名だが、向秀伝には「恵帝之世、郭象又述広之」とあり、郭象は向秀の注を受け継いだかのごとくに書かれている。そもそも向秀伝によると、向秀の注釈はそれなりに知られていたらしいので、その点でも本伝のこの逸話とは食い違いが生じているように思われる。古勝隆一[二〇二一]第三章などの研究によれば、郭象注に向秀注をふまえた箇所があるのは事実だが、剽窃とまでは言えないようである。

曹志/庾峻(附:庾珉・庾敳)・郭象/庾純(附:庾旉)・秦秀

(2026/7/6:公開)

  • 1
    「本国」は原文まま。庾珉の本貫は潁川なので潁川を指すのだろうが、なぜ潁川が「国」と呼ばれているのかはよくわからない。
  • 2
    正しくは劉聡。
  • 3
    「囲」は円周の長さの単位。
  • 4
    原文「寄通而已」。字面から判断すれば、「寄通」は「任達」「放達」と同じ意味ではないかと思われる。すなわち、礼などの世俗的細則に捉われずに思うままふるまうこと。
  • 5
    原文「居然独立」。「居然」は「いながらにして」、「独立」は「群を抜いている」の意味だと思われる。
  • 6
    『世説新語』文学篇、第七五章、略同。川勝義雄ほか[一九六四]が指摘するように、庾亮の発言は『易』繋辞上伝の「書不尽言、言不尽意、然則聖人之意、其不可見乎」をふまえたものであろう。あるいは『荘子』外物篇の「荃者所以在魚、得魚而忘荃。蹄者所以在兎、得兎而忘蹄。言者所以在意、得意而忘言」も意識していたか。
  • 7
    原文「我疇昔之意都已尽矣」。かつては郭象のことを、自分に劣らぬ才能の持ち主と評価していたが、その考えは今ではもうまったく消え失せた、という意味であろう。逐語的に訳すのは難しいので意訳した。
  • 8
    原文「著碑論十二篇」。中華書局は書名としていないが、著作のタイトルとして読むことにした。
  • 9
    原文「於旧注外」。旧来の注にとらわれず、という意味だと思われる。
  • 10
    原文まま。「教義」という場合の「義」とおそらく同じ使われ方で、「解釈の内容・文章」、要するに「解釈」という意味だと思われる。
  • 11
    原文「妙演奇致、大暢玄風」。『荘子』の「奇致」「玄風」をわかりやすく解明した、という意味だと思われるが、少々自信はない。巻四九、向秀伝は「発明奇趣、振起玄風」、『世説新語』文学篇、第一七章は「妙析奇致、大暢玄風」とする。
  • 12
    原文まま。浄書した原稿とは別の原稿(下書きのたぐいとか)、という意味であろうか。
  • 13
    現在、『荘子』の注釈で一般的なものは郭象注であるが、対して向秀注は佚してしまい、断片的にしか伝わっていない。本伝のこの逸話は『世説新語』文学篇、第一七章にも記されていて著名だが、向秀伝には「恵帝之世、郭象又述広之」とあり、郭象は向秀の注を受け継いだかのごとくに書かれている。そもそも向秀伝によると、向秀の注釈はそれなりに知られていたらしいので、その点でも本伝のこの逸話とは食い違いが生じているように思われる。古勝隆一[二〇二一]第三章などの研究によれば、郭象注に向秀注をふまえた箇所があるのは事実だが、剽窃とまでは言えないようである。
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